今日の仕事もろくなもんじゃあなかった。 上層区にある電力供給ビルの警備員と言えば、一昔前ならばそりゃあ立派なものだったのだ。 安全、快適、給料も良い。金持ち連中にありがちの見栄や小競り合いに付き合うこともない。 だがそれも十数年前の話だ。今やこの地下世界は、一部を除いてネズミみたいに増え過ぎたローディの巣みたいになっていた。 金を持った連中やハイディはみんな空の上へ行ってしまった。 確かに、青く美しい空間は、魅力的だった。 だが私のようにいくばくか歳を取った人間には、暗く静謐な土の下のほうが落ち付くのだ。 生まれ育ち何十年も過ごしてきたこの地下世界が。 十数年前まで私は地下世界でも最高位に入る地位にいた。 上層特区――地下世界を統べる統治者がたのお屋敷に部屋を与えられ、彼らの身の回りの世話をする役目を仰せつかっていた。 私が任されていたのは、とりつぎの役目だった。 広さはへたをすれば下層の街ひとつすっぽり収まりそうな、まるで城のような屋敷なので、はじとはじではうまく命令が噛み合わないことが多々あった。そこで私が必要とされていたわけだ。 目を離すとすぐに怠惰に喋くりあうメイドどもに目を光らせているのも、私の仕事のうちだった。 おかげでそれは煙たがられていたものだ。 私もそれは知っていたが、特に構い付けずにいた。 私の仕事は同僚に愛されることではなく、屋敷の主のために働くことだったからだ。 だがいつしか屋敷の主の代が替わった日、私は暇を申し付けられた。 幸いD値は高かったので、上層区ですぐにそれなりの仕事を得ることができた。 だが長くは続かず、いくつも職業を点々と移動することになった。 私に顕れたある症状が原因であった。 妻と二人の子供がいたが、五年ほど前に別れたきり会っていない。 どこにいるのかも知らない。 最近の私の心の慰めは、もっぱらアルコールのみだった。 日払いの給料もほぼ消えてしまい、上層の片隅にある集合居住区の家賃すら残らなかった(おかげで先月の家賃の支払いがまだだと家主が毎日扉の前でがなりたてている)が、私はそれでも酒に依存するのをやめることができなかった。 日中、今日も仕事でひどい失敗をやらかして、同僚にさんざん馬鹿にされたのだ。 明日出勤した時に私の名前が名簿に残っているかは分からない。 そう、今日も私の病気が発症したわけだった。 道に迷ったか親とはぐれたかして(おそらくそのどちらもなのかもしれない)幼い子供が電力供給ビルに迷い込んできた。 私は悲鳴を上げ、パニックを起こして、逃げ出そうとしたが、私の奇行に怯えた子供が泣き出して、いよいよどうすることもできなくなった―― 私は幼い子供が怖ろしいのだ。 子供の泣き声が恐いのだ。 彼らは大抵(一部にそうじゃあない人種も確かにいるのだが)無害で、庇護するべき存在だった。 だが、私は彼らを見ると、どうしてもパニックを起こしてしまうのだった。 子供の泣き顔の向こうに見えるのだ。 恨みがましげに私の顔をじいっと黙って見上げる、青い髪の幼い子供が。 私はその子供がそんな顔をしたところは一度も見たことがなかったが、「それ」はひどく暗い目をして、私を見ていた。 きっと私の想像力の産物だろうと、私は何度も見ないふりを試みてきたのだが……それはいつも無駄に終わった。 目を逸らせば、小さな足で小走りに回り込んできて、またあの目つきをする。 目を閉じてしまってもその子供の顔が、はっきりと鮮明に見えた。 それは私の人生というものをずたずたに切り刻んでしまった、私自身の悪意だった。 私は報いを受けているのだ。 バーの店先にクローズの看板が出るまで蒸留酒を浴びるほど呑んで、私は帰途についた。 帰れば誰もいない上に、また家主の催促が待っているのかと思うと、あまり気は進まず、足取りは重かった。 だが朝のシャワーは私にとって酒と同じだけ日々の慰めになっていたし、ジャケットは新しいぱりっとしたものと取り替えなければならない。 老いて落ちぶれたとは言え、私はかつて栄華を極めた統治者の屋敷に仕えるものだったのだ。 上層中央街のきらびやかなネオンを抜けると、高級住宅街がある。そこを抜けると、集合住宅街がある。 ハイディにとって家を持つということは一種の常識だったが、私のように何らかの理由で、ハイディにも関わらずまともに職につけないありさまの人間たちは、こうやってアパートメントに間借りをするしかない。 この集合居住区、昔はどこかの金持ちの持ち物だったらしいが、主が政府を裏切ったとかで没収されてしまったものだ。 主に年寄りばかりが住み付いて、昔の思い出話ばかりしている。 私が門に差しかかったところで、間の悪いことに家主と出くわした。 まったく、ついていない。また家賃を払えとがなられるのだろうと私は覚悟を決めたが、向こうはどうもその気はないようだった。 機嫌よく口笛など吹きながら、施錠の準備をしている。 家主は派手な格好をした太った背の高い男で(なので、じいっとしているとカラフルな樽が置かれているようにも見える)彼が怒鳴ると良く通る声が脳みそに突き刺さるので、黙っていてくれるなら、それはそれでありがたかった。 私が会釈だけして通り過ぎようとすると、家主はぱっと振り向いて、じいさんおかえり、と言った。 「深酒はよくねえでよ。あんたもう若くねえんだ。今にぽっくりいっちまうよ。そのぶんうちに入ってくる貸し代が減っちまうんだ。気をつけてくれよ」 私は奇妙に思った。 昨日まで金を払えとあれだけがなっていた男が、今日はやけに静かなものだ。 何か良いことでもあって機嫌が良いのか、新しい嫌味を思い付いたのかは、私には判断がつかなかった。 家主は怪訝そうにしている私を見て、お客だよ、と言った。 「あんたのレンジャーの孫だよ。来てたよ。じいさんがふがいねえから、来月分まで払ってもらったで」 家主は機嫌よくにこにこと笑い、「こーんなのだよ」と自分の腰のあたりを手で示し、「あんな可愛い孫持って、なんで子供恐怖症なんて病気持ってんだ」と言った。 だが、私は答えることができなかった。 なにせ身よりはない。妻も子供もどこかへ行ってしまった。 私は家主に会釈をして、急いで部屋に帰った。 入口の鍵は開いていた。おそらく家主が孫と間違えた人間が開けて入ったのだろう。 誰だか知らないが、私に構い付けて得をする人間など思い当たらない。 私の家には本当に何もないのだ。 空き巣に入るなら、中心部の高級住宅街を狙えば良い。 玄関を開けると、ふわっと良い匂いが漂ってきた。きちんと正しくとられたスープの匂いだ。 昔取ったなんとやらで、私の鼻はこういうことには鋭かった。 部屋は、ここ数年稼動していなかった暖房がついて、暖まっていた。 それは年中底冷えする地下で一日労働していた私を温めてくれた。 酒はもうさめかけていた。あれだけ呑んだのに、あまりにいろいろと戸惑うことがあったからかもしれない。 家の中は、電灯がつき、明かるかった。 洗濯されていない衣類や洗っていない食器が散乱して薄汚れていた家の中が、ぴかぴかに掃除されて磨き上げられていた。 玄関入ってすぐ横にあるキッチンには、小振りの鍋が置かれていた。 鍋の中には、何度か温めた形跡があるスープが入っていた。 私は恐る恐る、スープに口をつけてみた。私の家にあるものである。私が食べてはいけないということもないだろう。 冷めていたが、スープはうまかった。上層区にあるどんな名店でも、その味を出すことはできないだろう。 私はそれと同じものを、その昔何度も口にしたことがあった。 上層特区で働いていた時分、屋敷のお抱えのシェフが作ったスープの味だ。 まったく――少々味は劣るものの――あの味そのものだった。 私はわけがわからなかった。 それは、この家にあるべきものじゃあなかったからだ。 屋敷で働いていた時分の同僚たちは、おそらくどれも私と似たような境遇であるだろう――何せ私は、私達は、とんでもない無礼を、我々の主に働いてしまったのだ。 首を――比喩ではなく――切られなかっただけ、救いはあったというものだ。 他にもわけのわからない点がいくつもいくつもあった。 冷蔵庫にあった酒瓶はすべてなくなっていた。 廃棄されたか、誰かが勝手に持って行って呑んでしまったかだろう。あれだけたくさんあったボトルを一日で開けるのは無理があるので、ここは棄てられたと見るのが妥当だ。 さっきの管理人の機嫌が良さそうな顔が思い浮かんだ。 おそらく、処分された酒は、アパートの連中が勝手に持って行ったに違いない。 冷蔵庫の中には、それまであった酒のかわりに、見たこともない食材が詰め込まれていた。 赤色や紫色……毒々しい色をした、本当に食べ物なのかどうか判断つきかねる、手のひらに乗るくらいの大きさのボール状のものだった。 それぞれにラベルが貼り付けられていた。 ラベルには、「これはくだものというです」と書かれていて、それぞれの食べ方と注釈がついていた。 汚い字だった。ナゲットがまるで触角でペンを握って書き殴ったような按配だった。 私は、恐る恐るその毒々しい果物というらしい食べ物のうちからひとつ赤いものを手にとり、ラベルに「そのままたべれす」と書いてあるとおりに、一口かじってみた。 中は原色の表面とは違って、淡いクリーム色をしていた。 甘酸っぱく、今まで食べたことのない味だった。 私は、とりあえず、事態の把握に努めることにした。 このままでは私は混乱するだけしたまま放り置かれ、明日一日居心地が悪くて仕事も手につきやしないだろう。 もっとも、私の名前が明日警備員の名簿に残っていればだが。 ぐるっとひととおり家を見て回ることにした私は、テーブルの上に奇妙なメモ書きがあるのを見付けた。 書かれてあるのは例のナゲット文字で、「おさん ごめさい るーより」とあった。今まで見たものも文法が奇妙だったが、これになると本当に意味がわからない。 だが、私の目をひいたのは、読みにくい手書き文字ではなく、そのメモ自体のほうだった。 美しいレリーフが紙の上に立体的に印刷されたパッドだった。 私がその紋章を忘れるはずがない。 それは、ありし日の私が忠誠を誓っていた、ある統治者の家紋だった。 私は夢を見ているのかもしれないと思った。 アルコールが気持ち良く身体を満たしてくれている間に見る夢だ。 私は狼狽して慌てて家中を見てまわったが、もう人の痕跡は残っていなかった。 いや―― 居間のソファに、シーツ製の小さな繭がこんもりとできていた。 それは微かに呼吸の動きで上下していた。 誰かがいるのだ。 見たところ、どうやら眠っているように見えた。 私は恐る恐る近寄ってみた。 だらしなく足が投げ出されていた。 体つきから、まだ十をいくつか過ぎたくらいの年頃に見えた。 注意深く静かに覗いて、私は危うくまたパニックの症状を起こしそうになった。 ソファの上で眠っていたのは、かつて私が、我々がひどい仕打ちをした館の今の主の弟君だった。 その方は、名をリュウと言った。 リュウ=1/8192と。 ひどいローディで、誰からも蔑まれていた。 だが我々は早くに気付くべきだったのだ。 D値は関係などなかった。 我々は、我々の仕える主の血に連なるものに、例えそれがローディであったとしても、生涯忠誠を誓い、お仕えするべきだったのだ。 私がほとんど腰を抜かすようにして座り込むと、人の気配に気付いたらしいそのお方は目を覚まし、目を擦って、そして私に気付くととても居心地の悪そうな顔をした。 見つかっちゃった、と彼は具合が悪そうに小声で言った。 「あ、あの……ご、ごめんなさい。つかれて、ついねちゃって……ほんとは、メモだけ書いたらちゃんと出ていこうと思ってて……あの、すいません、おれ、すぐ出てきます! 勝手に家の中に入っちゃって、ごめんなさい!」 彼は慌てて起き上がり、私に頭を下げ、ばたばたと出ていこうとして、ドアに足を引っ掛けて転んだ。 「あ、あう……ご、ごめなさ」 「……リュウ様……ですか?」 顔を押さえて蹲っているその方に、私は膝を折り、頭を垂れた。 「我々は……貴方様に、ひどい、無礼を……申し訳ありません、リュウ様」 私は目を閉じた。 それは私が、この十数年、何度も何度も繰り返してきた謝罪だった。 この先私が死ぬまで、おそらくそれはずっと続くだろう。 私は取り返しのつかないことをしてしまった。 我々が犯した無礼に気がついた時、そのお方はすでにこの世から去っていたのだ。 兄君に殺害されたと聞いた。 それが、我々の罪だった。 D値信仰など、上層区に住まう威張り屋どもに任せて、私は私の主に忠誠を誓うべきだったのだ。 「この十年、私が犯した罪、ひとときたりとて忘れたことはございませんでした。私は、かなうならこの命が尽きて、もう一度貴方様にお会いできた時には……貴方様の裁きを受けたく存じます」 「へ? あ、いやその、そうじゃ、なくってえっと」 彼は慌てて両手をぶんぶんと振り、そーいうの、違うんです、と言った。 「ご、ごめんなさいって、おれが言わなきゃならないって思って! あの、来たんです。おれのせいで、お仕事なくしちゃって……ど、どうすれば良いのかわからなくて、ご、ごはんとか、作っちゃったりしてみたんですけど……あの、おれローディ……じゃなくって、ノーディだから、おいしくないかも」 「リュ、リュウ様」 私は、先ほど家主から聞かされた話を思い出した。 滞納していた家賃はなくなり、来月分まで支払いが済んでいるという。 私がそれを口にすると、彼は申し訳無さそうに「それ、大丈夫です」と言った。 「か、勝手に、うちのお金とってきたんじゃあないから……おれ、レンジャーだから、ちゃんと働いてもらったのです。だから後でおじさんが怒られたりしないです」 「リュウ様、私は、そのような貴方様のお慈悲を受ける人間ではないのです」 私は、頭を垂れたまま、言った。 「私の死期を、知らせにきたのではないですか? 貴方様は、十数年前にお亡くなりになったとお聞きしております」 私は、彼の顔を見られず、言った。 「私が憎いでしょう」 彼はしばらく黙り込んでいたが、もうだいじょうぶです、と言った。 「おれ、泣いてなんかいません。誰も、憎んだりしません。弟がおれを愛してくれてるのに、誰を憎めば良いんですか?」 頭の上で、微笑の気配があった。 彼は笑っていた。 「そして、生きてます。帰ってきました。おれがいないとボッシュは泣いちゃうから、ずうっとそばにいてあげなきゃならないんです。だっておれたちは二人きりの兄弟なんだもの」 そして彼はもう一度、ごめんなさい、と言った。 「おれのせいでごめんなさい。もうだいじょうぶ」 彼はそう言って、私の垂れたままの頭に微かに触った。 そうされると、私の中から何かが抜け出ていくのがわかった。 それは、私の十何年分の恐怖だった。 「おれは、おじさんを苛めません。泣いたりしないし、怖くないよ……」 彼は笑い、ふと顔を上げて、時計を見て、わっ、と息を呑んだ。 「い、いけない……もう日付が変わっちゃってる。門限とっくに過ぎてるや……! ボッシュ、心配で泣いちゃってないかなあ……あの、おじさん、またね? おれ、今日はもう帰らなきゃあ……」 彼はばたばたと慌しく玄関の隅にしまってあった靴を履いて、あそうだ、と言って、振り返った。 「セントラルで、してもらいたいお仕事があるんです。お屋敷はもう崩れちゃったけど……おじさん、だめですか?」 「は……」 私は頭を上げられないまま、その方に頷いた。 主に命じられたのだ。私に拒否する権利も意思もなかった。 「貴方様のご命令とあらば……この老いぼれ、命が尽きるまで貴方様に仕えましょう」 「ありがとう」 その方は微笑し、玄関を出た。 私ははっとして、慌てて後を追った。 「――リュウ様! この時間地下は危険です! おひとりでは……」 玄関のドアを開けた先には、もうその方の姿はなく、ただ暗い地底の天井――通風孔のあたりへ向かって、銀色の光が急速に上昇していくのが見えただけだった。 私は夢を見ているのかもしれないと思った。 だが私の後ろにある、綺麗に整って暖房で温められた部屋と、鍋に入ったスープは現実だった。 メモ書きも消え失せはしなかった。 私はしばらく銀光の消えた先を眺めていたが、やがて岩でできた空に向かって一礼し、部屋に戻り、朝まで少し眠ることにした。 ・END・ |