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【■-1 禍津の話(起)】
そこは魑魅魍魎がひしめく、この世ならざるとても彼岸に近い場所──。
死が、和泉守兼定を取り囲んでいる。
洗濯場の脇を固めた石壁が破壊され、油の混じった黒い水が畑にまで流れこんできた。濡れた土の表面に油の膜が張り、炎上する本丸を映している。
二匹の骨魚が空を舞っている。顔に死人みたいな打ち覆いをかけた人型の刀が、砕けた刃の残骸に囲まれて立っている。
立烏帽子の弊衣蓬髪。歴史修正を是とする敵、時間遡行軍の薙刀だ。
折られた刀は、少なく見積もっても二振り分。今日の内番役だろう。本体の鍔へ親指と人差し指を押しつけ、強く力をこめて握る。
ぬかるんだ地面を蹴った。仰々しい薙刀よりも、握りの短い和泉守兼定の刃のほうが自在に動く。ふところへ飛びこんでしまえば、はらわたを斬り捨てるのは容易い。
──和泉守はずっと疑問に思っている。
どこからどこまでが偶然の出来事で、それ以外は誰の目論見だったのだろう。
初期刀の歌仙兼定とへし切長谷部、本丸を預かる二振りの不在を狙われた。審神者が擁する本丸の情報は、政府によって厳重に管理されている。誰かが歴史修正主義者に本丸の位置情報を流したのは間違いない。
審神者ごとの資料を閲覧できるような、よほどの地位にいる者。そいつが歴史修正主義者と通じているのか、その人物こそが入りこんだ歴史修正主義者なのか。
神はいつから人にたばかられていたのだろう。何年前から、どの時点から。
本当はあの時から──最初の本丸が滅びたこの日から、すでに誰かの手の上で踊っていたのではないか。
旧世紀には鉄と火がぶつかりあっていた人の戦場は、神が降りた日から変わった。すべて夢まぼろしのごとく──陣地取り遊びを綴ったおとぎ話へと。
神の力は、神を生みだした人の心の力におおいに依存する。屑みたいな精神主義がまかりとおるようになり、戦は審神者の内なる世界へと収縮していった。
刀が赤子を育て、人との間に特別な絆が生まれた。
誰かがその縁を必要とし、最後には皆死んだ。それだけだ──。
厩を通り過ぎた。すすけた藁の上に首のない馬が横倒しになっている。飛び散った黒い血だまりのなかに、刃の欠片と不発の銃兵が沈んでいた。
普段は寄りつきたくもない場所だが、失うのは本意じゃない。できるならずっと顔をしかめて馬当番は嫌だと我儘を言っていたかった。
『本当の』あの日と違うのは、和泉守兼定の隣に堀川国広がいないこと。昔馴染みと稽古場にいたところを襲われたときには、敵はすでに母屋を制圧していた。
障子の残骸と落ちた梁が廊下に積み重なっていて、今は稽古場のほうへは向かえそうになかった。この時間だと、仲間はすでに全員折れていたはずだ。
横目に燃え落ちる茶室が見えた。そういえば明日は茶席を設けると、歌仙兼定が短刀たちに言っていたっけ。闇の奥で小さな影が動いた気がしたが、一瞬だった。
写し鏡のように自らと寸分たがわぬ姿が、炎のなかから出でた。
全身が炭のように黒ずんでいて、本物の和泉守兼定ほどは人に似ていない。そいつを何度も見たことがある。
あの黒いやつだ。本丸が滅びた日に和泉守兼定のなかに入ってきた、この世ならざる神格。自分が自分でなくなる感覚に呑みこまれた。何者かの乗り物になったような他人事の視界を押しつけられた。高位の神だかなんだか知らないが、憑かれる者にとってはおぞましい寄生虫でしかない。
いつだってなにもかもを焼き尽くす炎をまとって、本体の刃が音もなく滑りこんできた。制御を奪われた身体が言うことを聞かない。肉の形は死んだように硬直している。
──とられる。
己の姿を真似た影がはじけとんだ。
あの日と同じように木戸をぶちやぶって、怒り狂った顔をした兄が飛びこんできた。歌仙兼定。紫煙をたなびかせている猟銃を構え、和泉守兼定の姿を盗んだ黄泉戦の鬼を再び撃つ。穴のあいた額を、伸びきった首筋を、心臓をよく狙って──ばん!
陸奥守の仕業に違いない、あいつめ、この人になんてこと教えてんだ?
弾切れを起こすと兄は無骨な猟銃を放り捨て、手のひらに大太刀を顕現した。蛍丸。歌仙とは昔馴染みだそうだ。無害そうな幼子の姿をしているくせに、所作が大人顔負けに乱暴だと、いつか嘆いていたっけ。振りかぶる。剣撃はさながら小規模の竜巻だ。
和泉守の袖がふわりと広がった。しろがねの刃が無数の蝶のように零れて、踊る。血に融けた短刀たち。踊りながら影絵と転じて、審神者の張った結界ごと執務室の扉をずたずたに切り刻んだ。
空気が、しんと冷えた。
本丸を焼く炎はここまでは届かない。いつの間にか敵の気配が消えている。
春の昼下がりの穏やかな日差しにも似た光が一筋、畳に射して、そこに佇む者の姿の輪郭を白く縁取っている。
一抱えほどの黒い塊があった。
人の形をしているが、人ではありえなかった。あまりにも小さな身体に、不釣り合いな大きすぎる頭が乗っている。
奇妙なヒトガタの影。からくり人形が歯車を軋ませるような音を出しながら、和泉守と歌仙を振り向いた。
──歌。守哉。
無機質な音を紡ぐ。
真名──。
それは刀剣男士の身も心も魂までもを利用し尽くす鬼と成った、かつての審神者のふたりの子どもたちに、親代わりの刀から一文字ずつ贈られた名前だ。
変わり果てた最後の主の姿がそこにあった。
「あ、主」
「仙斎様──」
和泉守のとなりで、歌仙が膝から崩れ落ちた。和泉守には、己の胸の内で激しく燃えていた火が燃え尽きて消えたのがわかった。
火が去ったあとは、いつものようになにもかもが壊れて、真っ白な灰しか残っていない──。
──うた、もりやか。
不格好なヒトガタは口をきいたが、瞼が溶けてふさがっていて、なにも見えていない。
刀に喰われて取りこまれた魂を感じているのだろうか。和泉守と歌仙が、自ら殺した子どもたちの姿に見えているらしい。
古い椅子の軋むような音をきいきいと立てて、墨塗りの地球儀にそっくりな首がめぐる。
──母さんもいっしょにそこへ戻ってきているかい。
「……ああ。いるよ父上」
和泉守は応えた。自らの意志ではない。歌仙が隣で息を呑むのが見えた。兄が弟の顔を見あげ、顔を背けて唇を噛む。
和泉守兼定は主の息子を喰ったのだった。あの幼い審神者も、いまはこの肉のヒトガタのなかに共にいる。歌仙兼定が殺した主の娘も、兄の血に混じっているだろう。
異形の姿の父親は、長い長い溜息をついた。『そうか』ぼんやりとした囁き声。
『父さんはもう出かけなくてはならん。歌、守哉……しっかりやれ。母さんを支えて、家族三人で仲良くするのだぞ……』
きいきい。首が軋む音が小さくなる。目の前にいるヒトガタは、ぜんまいがきれかけているように、動きがにぶくなっていく。
この審神者の業は深すぎた。黄泉へ堕ちる資格すらない。八百万の神を貶めた罰を永劫受け続ける、救いのない末路が待っている。
「任せてください。母上と姉上は、父上のぶんまでオレがお守りします」
和泉守が──その主が膝をつき頭を垂れた。歌仙も続いた、鈴のような女の声が喉を震わせる。
「えぇお父様。言いつけは必ずお守りしますから。私たちのことは心配しないでくださいね」
『うん。歌仙と和泉守の言うことをよく聞いて、ふたりは良い人間になりなさい──』
和泉守と歌仙の視線が交わった。次の瞬間には──。
和泉守兼定が主の腹を斬っていた。
歌仙兼定が主の首を落としていた。
ぼとり、と。分かれて落ちた主の首と胴は、乾いた塵のようになって消えていった。
【■-2 禍津の話(承)】
とある政府に縁のある男が、獄中で見たまぼろし。
灯りの消えた奥座敷に立っている。あたりは暗くてよく見えない。音が、空中に開いた見えない穴に吸いこまれて消えたように思えるほど静かだ。なにも聞こえない。
肺に呑みこんだ空気に禍の気配はない。瘴気になりかけだが、まだ息ができる。
六振りの刀が静かに座っている。揃いであつらえたような白髪頭。男は喉の奥で小さな悲鳴をあげた。数多の犠牲をささげた呪いの術式により、黄泉戦の鬼となった禍津刀剣──それをよく知っている。
「担当殿、と、まだお呼びしたほうがいいだろうか。貴殿の正体も真の名も来し方行く末も、いまはなにもかもわかる」
刀の一本が優しい声で言った。
男は死の国に隣りあった神話の地に生まれ、黄泉平坂の空気の染みた土から生まれた食物を古くから食らって生きてきた一族の長だった。
「僕の主、審神者仙斎様の奥方の兄上──義理の兄だった」
「俺の主の兄弟でもあるな」
禍津兼定の隣で、白髪の禍津国広が呟いた。
男は、同じ血に連なる六人の審神者を使ってこの新しい六柱の神々を生んだ。憎き歴史修正主義者をすべて殺し尽くすためなら、なんでもするつもりだと腹をくくっている。いまさら物が人を裁くか?
「神だ。間違えてはいけない」
頭を短く刈りこんだ禍津虎徹が柔らかく囁いた。兼定が静かに頷く。
「僕らは誰も恨んではいない。ただ神をもてあそんだ人の罪は贖われなければならない。心せよ。貴殿のための彼岸はない」
「私は間違ったことはしていないだろう。すべてが勝利のために必要だったのだ。見ろ、勝てたのだ。奴らの未来を何度も滅ぼしてやっただろう」
「人の子の手が神の御業を真似ることは決して許されないのだよ。貴殿を知るものはもういない。もとより存在しなかった命になる──歴史修正主義者に抗い続けた戦人には、それがいちばんふさわしい罰だろう」
蛆のわいた女たちが男ににじり寄ってきた。雷神と鬼の軍勢の足音が近付いてくる。
「申し開きは僕らにしてもしょうがない。この彼岸の主の御前で、胸を張って叫びたまえよ」
御簾が上がった。禍々しい金の光が射しこんでくる。
男の顔がこわばった。喉が大きく鳴る。
──ああ……恐ろしい。
光が溢れる。
【■-3 禍津の話(転)】
凪いだ川辺に霧がかかっている。水流に削られた丸い石の河原を、ひとりの老人が通りかかった。歌仙兼定が声をかける。雪、とあだ名をつけた頭を見るなり、老人は顔をしかめて隣に並んだ。
「すまん」
「なぜ謝るのだい」
「おまえの顔を見るたびにたまらない気持ちになるんでな……。つい、荒っぽい言葉をかけてしまう」
老人はかつて審神者だった。初期刀は歌仙兼定。普段は穏やかな性格だが、怒るとそれは怖い刀だった。
本丸を与えられておきながら、刀剣男士たちを率いておきながら、敵に本丸を落とされ審神者の部隊は全滅した。信じて支えてくれた刀たちに、なにひとつ報いられなかった。
なによりも歌仙兼定に顔向けができない。鬼のような顔で怒られるんじゃないか。老人になっても子どものように恐ろしかった。
「僕はどれだけ怖がられているんだい」
歌仙は呆れて文句を言った。
老人は生き延びた。管狐が審神者の姿に化け、身代わりになってくれたのだ。炎のなかで気を失って、気がついたら病院のベッドの上だった。
こんのすけの機転に命こそ救われたが、審神者は生まれたばかりの息子にすべての力を与えてしまっていた。大怪我が癒えるころには霊力の一切をなくしており、政府に審神者の資格を剥奪され、軍を除隊された。
息子と刀たちの行方は知れず、その生死もわからない。現世へ戻れば、両親は何年も前に事故に遭って亡くなったと知らされる。故郷に帰ることも諦めざるをえなかった。
善良な一市民となった元審神者に、誰もなにも教えてはくれなかった。役所の門前払いを受け続けながら、なんとか軍医の口を見つけて、付喪神たちとのつながりの糸の端を捕まえておくことができた。
しかしその集落は謎の火災にあって、人の姿が消え、診療施設を閉鎖せざるをえなくなる。
つくづく火というものと相性が悪い。
人の一生は短い。駆けずり回って何の成果も得られないうちに、本丸の顛末もわからないままずいぶん歳をとって、保養所の主におさまっていた。すでに皆死んだものと諦めて、世捨て人のように過ごしていた。
「まあ、じきにわしが死ねば、息子にも刀剣たちにもまとめて会えるだろうよ」
「会ってどうしたいのだい?」
昔失ったものを懐かしむ老人に、歌仙は無邪気に尋ねた。
「もしもあいつらがこの無能な主を許してくれるのなら、そうだな、もう一度いっしょに酒でも呑みたいなぁ。昔よりも目利きはできるようになったから、それはうまい酒を用意しているんだ。そうだ、雪よ、おまえも飲むか。働いてくれた駄賃もやらんかった」
「まあ、ほどほどにしたまえよ」
歌仙は苦笑した。すべて知っていた──でも黙って微笑んでいる。
「不思議なことに最近、昔の力が戻ってきたんじゃ。ほんの僅かじゃが……久方ぶりに刀剣男士たちと過ごしておったからかもしれん」
老人がいわくつきの浮鷺山に入ったのは、とある審神者の噂を聞きつけてのことだった。
「時間遡行軍に本丸を強襲されて親を失い、兼定の兄弟に育てられた審神者──話を聞くうちにわしの息子だと直感したわ。審神者仙斎は、人の身では贖いきれない罪を負ったと聞く。刀剣男士をたばかり在り様をさえ変えた恐ろしい仕打ちは、神々には赦せたもんではないだろう。いまはもう誰もその男のことを知らん。神の怒りはわしの息子を歴史の彼方に消し去ったんじゃ」
政府も審神者も誰も、仙斎という男を知らない。
歴史の修正にとてもよく似た、だけれど人の手でやるような生ぬるい方法ではなく、禍の刀に関わるものはこの世界から消えてしまった。はじまりからいなかったことになった。
ただ老人は忘れてしまうことがなかった。それもまた罰なのだろうか──。
「この山は黄泉の穴があった影響で妖が寄りやすい。その分、霊力は豊富に満ちておる。いま政府はこの地を守る者を探しておってな。事情を知るものでなくては、同じことが起こるかもしれん。その点わしは、ここで罪を犯した者がおったと覚えておる」
「山の守り人か。せっかく力が戻ってきたのなら、もう一度審神者になって新しい本丸を持つ気はないのかい」
「いいや。わしは、あれのほかの歌仙兼定を振るう気はないな」
老人が噛みしめるように言った。
その男の頑固な性質に、歌仙は眉を下げて微笑む。しばらくふたりで川面のゆるやかな光の線を眺めていたが、霧が晴れはじめたころに、お互い背中を向けて歩き出した。
【■-4 禍津の話(末路)】
前の晩に降った雨の名残りが、金色の強い日差しに溶けていく。青臭い夏草のにおいが鼻先をくすぐった。視界が白む。肌をつたった汗をぬぐい、背に刀の束を背負って、歌仙兼定は末の兄弟と並んで歩いていく。
昔もこうしてふたりで歩いたことがあった。落ちた本丸を必死になって立て直そうとしていた頃だ。赤子をおぶって、荷車を引いて──あのときと違うのは、重い荷物をふたりで分け合っていること。
歌仙はかがんで、古木の根に突き立った錆びた刃に触れた。手の中で白い光となってゆく。山の霊気を吸った玉鋼が、白い刀のかたちに復元した。
──かつて喰らってしまった刀。壊してしまった仲間たち。
彼ら分霊は人格も記憶もばらばらになり、人で言うなら肉片に近い。それをひとつずつ拾い集め、依り代を用意し、身のうちから移して審神者のもとへ返す。
罪刀のつぐないだ。そのくらいしかできない。
体のなかから、重石がひとつ除けられるような感覚。思わず目がくらむ。
和泉守兼定が手を握って支えてくれた。
「大丈夫か。之ン兄ちゃん。どこか苦しいところはないか」
揃いの色の目が真剣に覗きこんでくる。
「兄ちゃんは……オレがふがいねぇせいでいつも世話かけて、あのきれいな之定の手がボロボロんなっちまうくれー苦労させちまってる。だからオレは恩返しをしねーと。之ン兄は、ぜったいにオレが守るかんな」
「僕の兼ちゃんは、とてもとても心配性だねぇ」
歌仙は苦笑する。兄さんは強いんだよと、弟がとうに知ってることを寝言のような囁きでつけ加える。並大抵の相手じゃ、僕に傷ひとつつけられないさ。
その刀をようよう見つけた。三日月宗近。昼間の月のごとく白く輝き、まるで笑っているような光を放っている。
いま、歌仙の横をふわふわと歩く透明な身体の三日月宗近の審神者は、芝翫という名だそうだ。
芝翫本丸の第一部隊隊長。たしか歌仙が、刀の身でなくなってから初めて喰った刀だったと思う。
「すまない三日月殿。ずいぶん待たせてしまった」
なにせ堕ちた刀は神と相反する気を纏い、お互いをはねつけてしまう。三日月ほどの神格の付喪神の依代を探すとなると、ずいぶん時間がかかった。
それを、とうとう返すことができる。三日月はようやく家を見つけた迷子の顔をしている。晴れやかな表情で、元凶の歌仙を恨んでいる様子はない。むしろこの刀は歌仙を気にかけ、無茶をしがちだと諭してくれた。付喪神はもともと誰かを恨むようにはできていない。
「俺の練度もまだまだということだ。歌仙よ、苦労をかけた。なにかこのじじいにしてほしいことはないか。なんでも聞いてやるぞ」
「では、貴殿が審神者殿のところへ戻った暁には、本丸の仲間たちにどーなつを作ってやってはくれないか」
歌仙は目を細めた。「あれはうまいものだから」
「うむ、うまいものだ」
三日月が頷いた。
「承知した。このじじいは、戦働きを一度は極めておきながら、情けないことに厨に立ったことが一度もない。うまくできるのはいつになるかわからんが、なに、俺は好きなことはできるのだ。うまいどーなつを作れるようになったら、歌仙、和泉守、おまえたち兄弟にも振舞おう」
「それは恐悦至極」
「あんこをのせたら、なおうまいのだ」
夢見るように三日月が言った。「歌仙のなかにいる俺の分霊から教わった。いっとううまいどーなつのれしぴが、俺の頭の中にあるのだ──」
弟の長い指が袖を引く。金の指輪が陽光を反射して光った。首が不思議そうに傾いている。歌仙のなかの刀の声は和泉守には聞こえない。
「之ン兄、三日月じーさんとなに話してんの」
「どーなつの話だよ。甘味はいいものだよねぇ」
「ふうん。オレぁ甘いのはなぁ。まあ、食えりゃなんだっていいけどよ──」
弟が鳥を見あげながら、うわの空で頷く。
【■-5 禍津の話(顛末)】
人の世の理を捻じ曲げる禍刀剣の創造に関わった者たちは、誰もいなくなってしまった。
刀剣男士なるものが現れる以前の歴史において、黄泉に通じる穴は塞がれることになった。
しかしすでに黄泉の空気を吸い、彼方の食物を──刀剣男士の血肉を喰らい鬼を宿した身は、すでにこの世のものではない。主の存在を抹消された刀剣男士は、現世の縁を失い、彼岸に在処もなく、自らが喰った無数の刀を内包したまま、ただ偏在するなにかになっていた。
喰らった付喪神を一振りの刀に戻し、現世に還し、己の呪いから切り離していく。解き放たれた刀剣男士は審神者のもとへ戻っていくだろう。
誰一人として人間を見限るものがいないのは、歌仙兼定にはとても不思議だった。刀剣男士という存在が、物の優しさが、人への恐ろしいほどの愛が。
喰らった魂を救う為の、長い旅がはじまった。
永い時間を、誰も自分を知る者のいない、自分が存在しなかったことになった世を──誰とも縁を繋がず繋げず、これからも歩み続けるだろう。
何度もこの国を滅ぼし、未来を殺し、生まれなかった水子の世界にしてきた。その咎を罪を灌ぐには、いったいどれほどの時間がかかるだろうか?
想像もつかないが、投げだすことはできない。死んでいった一振り一振りの刀で、ひとりひとりの人で、この肉の身の細胞ができている。
きっと永遠に近い時間をかけて、壊したものを元通りに直して──五十六億七千万年後にもれなく救うどこかの神格が手を差し伸べて許される日まで、逸話の幽霊のように、真昼の蜃気楼のように、呪いを背負って歩いていく。
兄弟の顔に、いま影はない。もう雨は止んだ、嵐は過ぎ去った。怒りも悲しみも遠い。
生きたものの気配を愛で、死んだ体と心の動きを楽しんで、穢れた胸いっぱいに青い空気を吸いこむ。まったく雅だ、風流だ。
左文字の小さな兄は、狐の姿で歌仙のとなりを歩いている。身のうちには本丸がひとつ。切り殺した少女が──今の主がいて、あの日の仲間たちは今日も穏やかでにぎやかだ。
もう決して失われない、誰もいなくなったりしない。
なぜならこの世の誰もが、すでに自分たちとは縁がないのだから。誰にも傷つけられないし、誰も傷つけない。傷に触れられないからなにも痛くない。
だから悲しむ理由がない。悼む意味もない。不足はなく──。
隣には弟の和泉守兼定。合わせ鏡の正反対だった。
「業苦を背負って辺土をさまようのも、気心の知れた者と一緒だと案外楽しいものだね」
「兄ちゃんは昔から旅が好きだからなぁ。もっとも、この兼定らが力をあわせりゃ、どうとでもなるさ」
和泉守の鼻の先に、風に流されてきた黄色い蝶がとまった。くしゃみがひとつ。歌仙は笑ってしまった。
こうしてとある兼定の兄弟は、罪が贖われる永劫未来のその日まで、末永くふたり仲良く暮らしました、とさ。
【禍津騙/完】
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