1
目を開けたら、鼻の先に目覚まし時計の文字盤があった。
――なんだかまずいぞ。
――何がまずいんだっけ?
オレは、三段ベッドの天井を見上げて手を打った。ヨハンと会う約束をしていたんだ。待ち合わせの時間はとっくにすぎて、もう夕方になっている。明日会ったら、あいつに謝らないとな。その時は、気楽にそう考えていたんだ。
次の日の朝、購買の前でヨハンの背中を見つけて、いつものように声を掛けた。
「ヨハン! あのさ、昨日さ」
ヨハンは、カードパックがいっぱいに詰まった紙袋を抱いて、振り返りもせずにさっさと歩いて行っちまう。
「あれ? ヨハン、おーい、なんだよあいつ。耳が悪いのか」
追い駆けて、でかい声で呼んでるんだから、聞こえていないはずがない。ヨハンはオレを避けている。
授業が終わって、レッド寮に帰って、昨日から雨が降ってるから、今日は部屋に閉じこもってデュエル。それはそれで楽しいけれど、胸のなかがもやもやしている。
「アニキ。ヨハンと喧嘩したの?」
部屋に入り浸っている翔が、不思議そうに言った。
「やっぱ、翔もそう思うか」
「なんだか、相手にされてないみたいだけど」
「そうなんだよ。ヨハンのやつ、声を掛けても返事してくんねぇんだよ。生徒手帳にメール送っても、返事ないし」
オレはなにか悪いことをしたのか。昨日、ヨハンとの約束をすっぽかしたせいか。まさかそんな事くらいで、ヨハンは怒らないだろう。
――けっこう、どうでもいい約束だったもんな。あはは。
オレはそのうち我慢ができなくなって、勢い良く飛び起きた。
「ちょっと、ヨハンのところに行ってくる!」
「消灯時間までにはちゃんと帰ってきてね、アニキ。ケダモノの部屋で外泊なんて言語道断だよ」
たまに、翔の言うことが難しくて良くわからないときがある。最近、こいつ、オレよりずっと頭がいいからな。
ブルー寮の裏手に生えた木をよじ登って、部屋の窓越しに手を振ると、ソファに寝ころんで分厚い本を読んでいたジムがすぐに気付いて、窓を開けてくれた。
「これはこれは。ファンタスティックなところからお客さんだ」
「オレ、レッド生だから、正面からひとりでブルー寮に入ろうとすると門前払いされんの。ヨハンの部屋に行きたかったんだけど、あいつの部屋の外に足場がなくてさ」
「ヨハン? そういえばディナー・タイムに随分と不機嫌だったな。誰とも口を訊こうとしないから、半径五メートルほどサークルに人がいなかった。どうしたんだと声を掛けても曖昧な返事をくれるだけでね。彼らしくないとは思っていたが、なるほど。ベスト・フレンドと喧嘩をしたのか」
「喧嘩なんかしてねえって。たぶん。な、カレン」
「ぐぁあ?」
ジムが腕を伸ばして、オレを枝の上から引っ張り下ろしてくれた。
「ジム、恩にきるぜ」
「イージーなご用さ。それより早くヨハンを何とかしてやってくれ。下級生が怯えていた」
「ヨハンって、怒ると怖いのか」
「ああ、とても」
「ジムも?」
ジムは楽しそうに口の端を上げた。
「かなり面白かったよ」
やっぱり、ジムだ。
ヨハンの部屋のドアをノックしたら、中からドスのきいた声がした。
「何の用だよ」
下級生が怖がるっていう意味が分かった。ヨハンって、こんなにおっかない声を出せるんだな。オレ、ちょっとだけ、ここへ来たことを後悔しはじめている。
くじけずにもう一回ドアを叩いたら、ものすごく怖い顔をしたヨハンが出てきた。ヨハンはオレを見るなり、すぐにドアを閉めようとする。慌てて靴の先でドアを止めようとしたのが悪かった。
勢いがついたドアに足を挟んで、めちゃめちゃ痛い。
騒ぎを聞きつけたブルー寮の生徒が、廊下にぽつぽつと顔を出してきた。このまま追い出されてはかなわない。強引にドアを抉じ開けて、ヨハンの部屋の中に入る。
「もう、なんなんだよ!」
「もうなんなんだよはこっちの台詞だ」
ヨハンはぶすっとしている。オレに背中を向けて、ベッドに座り込んだ。
「約束の時間、約束の場所にお前は来なかった」
「あ、あはは、寝過ごしちまって」
やっぱり、待ち合わせをすっぽかしたことで怒っていたのか。オレは笑ってごまかそうとした。でも、ヨハンはごまかされない。
――もう、なんなんだよ。『こいつめ、しょうがないな』でいいじゃないか。
少なくとも、オレはヨハンよりも心が広いから、こんなことくらいじゃ怒ったり不機嫌になったりはしない。
「俺はずっと待ってた。何時間待ったと思ってんだ?」
ヨハンが言った。オレは、ぎょっとした。『何時間』だって?
待ち合わせをしていたのは、オベリスクの前だった。昨日は、昼過ぎから雨が降って来たじゃないか。傘は持っていたのか。もしかしてヨハンは、捨てられた子犬みたいに、びしょ濡れになってオレのことを待っていたのか。
「それなら、いつもみたいに迎えに来てくれたら」
「それじゃ約束した意味がない」
ヨハンはぶっきらぼうに言った。
「お前がそんな奴だって思わなかった。いい加減だけど、ちゃんと約束は守る奴だって信じてた」
本当につまらない約束だ。『この時期には栗も落ちてるよなあ』とオレが言う。ヨハンが、食べられるキノコの見分け方を知っていると言い出した。
『じゃあ明日は二人で森に行こうぜ、帰ったら栗を焼いて、キノコと釣った魚を煮てさあ』
ヨハンってやつは、本物のばかだと思った。でも、やっぱり、約束を破ったオレが全部悪い。
――大人になれ、オレ。謝ってやれ。
「わりぃ、ヨハン」
「わりぃ、じゃない。すっぽかすなら約束なんてするな。俺は約束はすごく大事なものだって考えてる。俺は守れない約束はしない。約束を守らない奴は嫌いだ」
オレはつい、苦笑いが漏れた。
「ヨハン、なんか、父さんみたいなこというのな」
「なんだよ」
ヨハンは、かちんときたって顔をした。馬鹿にされたと思ったらしい。
オレは、馬鹿になんかしていない。
「父さんにそんなの言われたことねぇけど」
普通の、みんなの父さんがくれるような言葉をもらったことは、オレにはなかった。
「明日は行こうぜ。ヨハン、もう一回約束だ」
「もういい。しない」
「よくない! じゃあオレが勝手にオレと約束すんだから」
「なんだよ、それ?」
そっぽを向いたヨハンの腕を引っ張って、強引に小指を絡めた。約束。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、ハリセンボンのーます!」
「変な歌」
「ゆびきった!」
ゆびきりの歌がおかしかったみたいで、ヨハンがすこし笑った。だけど、すぐにまたそっけない顔に戻ってしまう。
「次の約束を守るまで、俺、絶対に十代を許さないからな」
ヨハンはたまに、どうでもいいところですごく頑固だ。
これでは、明日になるまでオレはヨハンと喧嘩中ということになる。しまった。今すぐに果たせる約束にしておけばよかった。
「じゃあヨハン、今だ。今すぐ行こうぜ」
オレの思いつきを無視して、ヨハンはだるそうにベッドに寝転んで、頭からシーツを被ってしまう。
「夜の森へか? 俺はごめんだ。俺もお前も方向音痴じゃないか。寮に戻って寝ろ。今はお前の顔なんて見たくない」
「……よはぁん」
「そんな顔したって、駄目なものは駄目」
オレは水の抜けたくらげみたいにしおしおになって、ヨハンの部屋を出た。早く明日になれ。
部屋を出しなに、ヨハンのくすくす笑いが聞こえたような気がしたけど、きっと気のせいだろう。
――だってヨハン、すげぇ怒ってんだもん。ちぇ。
レッド寮への帰り道、オレは深い溜息をついた。後悔していた。
約束を破らなければよかった。そもそも、はじめからそんなものしなければよかったんだ。
思い付いたらすぐ行動、それでいいじゃないか。それがオレじゃないか。なんで、あんなことを言ってしまったんだ?
ハネクリボーが、オレの頭の上で毛むくじゃらの身体を揺すっている。『まあ、気にするな。よくあることだから』と言っているみたいだ。
やっぱり、さすがオレの相棒だ。落ちこんでいる時には、いつもオレを慰めてくれる。
それに比べてヨハンのやつときたら!
「確かにオレが全部悪い。でもヨハンも、あそこまで怒んなくたっていいじゃないか。オレなら笑って許してやるってのに。あんなにかたなく、かなくた? あれっ? かた……なんとかで、頑固なやつだったのかよ。見損なって……ないな。うん、よくわかんねーけど、あれがきっと『いっぽんぎ』ってやつだ。なんか、かっこいいぜ」
寮の部屋に帰り着くなり、オレはすぐにベッドにもぐり込んで叫んだ。早く明日になれ!
「十代、うるさいぞ騒ぐな!」
サンダーに怒られた。なんでオレの周りにいるのは、こんなに怒りっぽい奴らばかりなんだろう。
みんな、本当はいい奴だって、オレはよく知っているけど。
2
また夢を見ていた。
懐かしくて、目覚めたくなくて、ぐずって、夢の余韻に浸る。ずっと夢を見ていられるなら、オレはもう二度と目を覚まさなくてもいい。
だけど、覚醒は強引に訪れる。オレは救いようのない現実へまた戻ってきた。
遠い上の方から祭囃子がかすかに聞えてきた。
――今日は……そうか。お祭りだ。
思い出した。昔は学園祭で、みんなで屋台を回ったっけ。焦げ目のついたイカ焼き、マスタードとケチャップたっぷりのフランクフルト、虹色のスプレーが掛かったチョコバナナ。口に入らないくらいでかい、真っ赤なりんご飴。
モンスターの格好をして闘うコスプレデュエル大会。衣装に気合いが入り過ぎて動けなくなってる万丈目。兄貴に写真を撮られている明日香。隼人が描いた看板。
――なつかしいなあ。
透明な捕獲カプセルの中に閉じ込められている今となっては、きっともう、夢と思い出の中にしかない光景だ。
ここは暗い。なにも見えない。部屋の素っ気無い鉄の壁も、無数のパイプも見たくないから、照明は落としてもらった。そのくらいの我侭は簡単に許される。なんたってオレは『神様』なんだから。
化物だ悪魔だと罵られる人間世界の厄介者だったオレは、精霊研究施設に閉じこめられ、やがて地下に埋められたまま廃棄された。
オレの頭の上にはビルや道路が造られ、人が沢山行き交って、いつしかみんなに神様として敬われるようになっていた。オレなら、オレみたいな神様には祈らないけれど、今日も大勢の人がやってくる。まず、今日一人目は、小さな子供を抱いた女の人だ。
――神様、お願いです。息子の病気を治してください。
病気で死ねる息子は幸せだぜ。でもきっと、わかんないんだろうな。
オレも昔は、大切な人に死んでほしくないと考えた。やるべきことをやりのこして死にたくないと思っていた。
今ではオレの考えは、人間の考え方とは随分乖離してしまっている。かつて人間だったことがあるから、なんとか想いを推し量ることができる。その程度だ。
人が泣くのを見ているのは嫌だ。だから、手を差し伸べる。すると、みんなは喜んでにこにこする。
――さすが最高位の精霊様です、ありがとうございます。ありがとうございます!
ありがとうと言われて、嬉しいと感じなくなったのは、いつごろだったろう。もう思い出せない。
狭い捕獲カプセルの中で、もうひと眠りしようと伸びをした。物音が聞こえる。心臓が停まりそうな気持ちで――そもそも、オレの心臓は動いているのか? もう停まっているのか?――振り向いた。
『十代! 悪い、待たせたな!』
誰もいない。暗闇が広がっている。幻聴だ。
「来るはずないか」
まだ希望を棄てきれていない自分がおかしくて、オレは少し笑って、目を閉じた。
背が伸びない。変わらない体。時が停まる。死なない。死ねない。
――しょうがないよな。オレはもうみんなとは違う。人間じゃないんだ。
だけど、昔、ヨハンは言った。
『諦めるんじゃない。お前は、俺が必ず元に戻してやる』
ヨハンは『オレたち』のことをふたりの人間にしようとしてくれた。救おうとしてくれた。
『一緒に歳取って、一緒に死のう。お前を誰より……』
――愛してるんだ、十代。
実体を伴う最高位のモンスターを野放しにしているのは、非常に危険なことだっ
たと聞いている。次元が歪む。世界のバランスが崩れる。異世界転移を行えるほどのエネルギーを上手く使おうとする人間もいたけれど、結局は上手くいかずに、力が暴走することになる。
オレの身体を封印し、この虚ろな空洞に閉じ込めたのはヨハンだ。でも、そのことであいつを恨んだことは一度もない。もう誰にも傷付けられず、誰にも利用されないように。ヨハンは、化物になったオレにまで優しかった。
あの日――。
『ばか、泣いてんのかよ』
オレはひどい顔をしてるヨハンの胸を小突いて笑ってやった。ヨハンは笑わなかった。
『十代を人間に戻してみせる。俺が戻ってくるまで待っててくれ。自由にしてやる。昔みたいに』
オレは、ことさら興味がないふりをした。本当は、本当にそうなったらどんなに良いだろうと考えていた。でも、もういい。オレにはもう充分だった。
『待つのは苦手なんだわ。飽きたら、さっさと精霊界にでも引っ込んじまうからな』
オレは、ヨハンにこう言ったのだ。
『約束なんて信じない』
殴られた。今や世界だって滅ぼせる化物に拳骨をくれる人間なんて、きっとヨハンが最初で最後だろう。
『ばかやろう。なんで、俺を信じない。お前がそのつもりならいいぜ、一方的に、俺が俺に約束するんだから』
ヨハンはオレの肩をしっかり掴んで、怖いくらいゆるぎなく、まっすぐ目を見て誓ってくれた。
『お前を助けてやる。かならず迎えに来るからな、十代』
オレは、危うくそいつを信じてしまいそうになる。でも、もう子供でも馬鹿でもないから、約束なんか信じない。
なにしろ――。
「だってヨハン」
そんなものが果たされるわけがない。
「もう百年も経ってる」
疲れたんだ。
人間は嘘を吐く生物だ。例外はいない。
オレ達、オレの身体の中で混在している二つの魂がまた普通の人間に戻って、短くて幸せな一生を送って、いつか時が満ちて死ぬ。それこそ、本物の神でもない限り、叶えられるはずがない。
守れない約束なんか、させなければよかった。
なんであの時、『信じない』ではなくて、『約束なんかするなよ』と言わなかったんだろう。
ヨハンはあんなに約束を大事にしていたのに、はなから果たされる訳がないとオレもヨハンも分かっていたのに、何故なんだ。
オレはヨハンの魂を穢してしまった。
後悔している。
だからオレは、あいつが戻ってくるまで、ずっと待っている。
百年でも二百年でも構わない。ヨハンが嘘吐きなんかじゃないと、オレが証明してやるまでは――。
がたん! ――大きな物音で目が覚めた。脆くなった天井が崩れて、眩しい光が射す。瓦礫と一緒に男が滑り込んでくる。驚いたのと目が眩んだので、口があいた。そいつは、呑気に尻の埃をはらっている。
「遺跡の中って、こんなになってんだ」
男はオレを見付けると、にっこりして「はじめまして」と言った。
――はじめまして? なんで。
「神様って君か?」
「なんで」
「ああ、どんなのか見てみたくってさ。こっそりここへ忍び込んだんだ。危険とか、立入禁止って書いてあったけど」
「こっそり?」
「神様って言うくらいだから、よほど綺麗な人なんだろうなって思ってたけど、やっぱりな」
相変わらず、そいつはオレの話なんか全然聞いていない。だから話が噛み合わない。
それにしても、なんでだ。無茶苦茶だ。わけの分からないことが沢山ある。
――なんで天井壊して入ってくるんだよ。
――なんで帰ってきたんだよ。
――なんで『はじめまして』なんだよ。
――なんでお前、あの日からひとつも歳取ってないんだよ。
ほんとに、なんでなんだよ、ヨハン。
きらきらした眼が、オレの顔を覗き込んできた。
「そんなに寂しそうな顔して、どうしたんだよ」
ヨハンが言った。オレは、手を伸ばした。腕がガラスを透過してヨハンの頬に触れる。感触は無いけれど、泣きそうになった。
「不思議だなあ。初めて会った気がしないぜ」
枷をすり抜けて、ヨハンを抱き締めた。「おかえり」、それから――。
「約束、守ってくれて、ありがとう」
その時に、ようやく気が付いた。誰かの『ありがとう』が嬉しくなくなったのは、きっとオレが『助かったぜ』も『ありがとう』も、随分長い間言っていなかったせいだ。
いつぶりだろう。
泣くなんて、どのくらいぶりだろう? まさか、このオレが、まるで人間みたいに。
「なあ、なんで泣くの?」
ヨハンは困っている。
「どうして?」
『俺は必ず戻ってくる。たとえ何度生まれ変わったって、十代を救う為に』
――お前ってやつは、出会ったばかりの頃からばかみたいにかたくなで、一本気な男だったものな。
■神の待ち人:終わり■