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ゾーンミニオン(下) 十代の、乾いた石の墓標じみた後姿が遠く砂嵐の中へ消えてゆくのを、遊星は安堵とともに見送っていた。同時に、あの『魔法』を使ったあとについて回るいつもの後ろめたさが、小波のように足元へ押し寄せてきていた。十代の滑稽なまでの純粋さへの憐憫と、彼の無垢を食い物にするような真似を仕出かしてしまったことへの、自分自身へ向けた殺意にも似た罪悪感が湧き上がり、胸の内側を冷え冷えとざわめかせていた。 遊星は、もう幾度目かも数え忘れた言い訳を心の中に浮かべた。十代と共に遊戯とアテムを護る。何も嘘は言っていない。決して十代を騙したつもりはない。 十代はよほど嬉しい言葉を聞いた時の、なんとも言えないような満ち足りた表情をしていた。喜んでくれていたのだ。だが、無邪気な犬が主人に投げられたフライング・ディスクを追い駆けていくような、何の疑いもない足取りが辛かった。 ただ遊星は、今この時、この場に遊城十代が存在することが何よりも恐ろしかった。たとえ幻だったとしても、あの空を翔ける怪物を一目見た時から、十代の目に入れてはならないと直感していたのだ。 危険だ。あれは遊星にとっても、十代にとっても毒になるものに違いはない。 やがて黄土色の煙の向こうから、砂粒を踏む靴の音が聴こえてきた。耳慣れた十代の軽やかな足音ではない。緊張で喉が渇く。唾を呑み込んで、遊星は待った。 ほどなく靄のなかから黒い髪の青年が現れた。左頬に犯罪者の証明であるマーカーを刻み、埃っぽい紺のジャケットを着て、遊星号と寸分違わないD・ホイールを引いている。 やはり、見間違いではなかった。遊星の目の前に、もう一人の不動遊星自身が向かい合っている。嫌な色の眼をしている。深く暗い海の底の色だ。寂しい藍色だった。 以前、三皇帝連中が、アテムを模した悪趣味なからくり人形を造っていたことを知っている。あれは当の本人の手で鉄くずに還されたはずだ。遊星は冷静に分析した。この遊星のまがい物もまた、誤作動を起こしたライディング・ロイドなのだろうか。 それとも――遊星は苛立ちを覚えた。ゾーンの差し金か。あの神を名乗る男の実験の一環なのか。 ゾーンの計画は恐ろしいほど緻密に組み立てられており、彼がこの世界を去った今なお、そこには誰も付け入ることはできないし、狂いも間違いもなく進行し続けている――いや、はたして、本当にそうだろうか。 赤き竜はどうだ。伝説の竜の来訪もまたゾーンの意志なのか。遊星は訝った。あの怪物は、とても嫌な感じがする。 正史の自分は――トレーニング・ルームに現れるまぼろしの不動遊星は、赤き竜に見入られ、奇妙なかたちの痣を腕に宿したとされている。今の遊星の右腕はすべらかで、何の跡もない。 「お前は誰だ。なぜ、俺と同じ姿をしている」 遊星は、対峙しているもう一人の自分自身に問いかけた。 「それはこちらの台詞だ。なぜお前は俺と同じ姿をしている。一体何者なんだ」 もうひとりの自分は、身に覚えのある抑揚の乏しい声で応えた。遊星を警戒して険しい顔つきでいる。 「お前だけじゃない。遠目で見たとき、仲間が一緒にいたはずだ。そいつはどこへ消えたんだ」 「さあな――」 遊星は自分自身のまぼろしを冷たくいなし、十代を想った。 独りぼっちの遊城十代。男にも女にもなりきれず、人間にも精霊にもなりきれず、誰の愛にも手で触れたことがないまま、いびつな時間軸のなかでごみ捨て場へ投げ込まれた十代。ぼろの身体を引きずり、汚水を啜って生き延び、そして訪れたかすかな救いの気配に戸惑うなかで、頭を撃ち抜かれて死んだ十代の冷たさを憶えている。血のにおいも、中身を抉られた眼窩の赤黒い色も、空っぽの瞼の奥で泣いていた十代の、枯れて頭を垂れた花のように儚い姿も忘れられない。 遊星は一度、絶望の過去を塗り替えた。描き直した未来で十代に笑顔を向けられた時には、あまりの安堵で両目が熱くなったほどだ。彼の感じやすいところへ触れることを赦された今が、柔らかい夢の中にいるようだった。 そうなっても、十代の無惨な死に顔が、いつまで経っても脳裏を去ってはくれない。 二度と十代を失いたくない。傷付いている姿を見たくはない。命にかえても彼を守らなければならない。だから、わけのわからない茶番めいた相対に、十代を巻き込むつもりはなかった。 「知りたければ俺を倒すことだ。もっとも、死んでも口を割るつもりはないが」 たとえ何が起こっても遊城十代の不利にはならない。もうひとりの遊星は、少しだけ意外そうに眉を上げた。 「誰だか知らないが、そいつはお前にとって余程大切な人間らしい」 「…………」 「だが、俺だって遊びでここへやってきたわけじゃない。俺の世界の人々にとって、そして俺自身にとっても何より大切な人達のためにここまでやって来た。赤き竜の力を借り、俺が誰よりも尊敬するおふたりを、失った時代の中へ取り戻すために。言え。お前たちが連れ去った遊戯さんは、十代さんはどこにいる!」 「……そんな人間はここにはいない」 「そんなはずはない。嘘を言うな!」 実のところ、遊星は困惑していた。 ゾーンは何を考えてこの悪趣味な出し物を用意したのだ。あの男の目的が一向に読めない。ただ、アテムや十代の手を煩わせる問題でもないことは明らかだった。この廃墟を離れた神の思惑がどうあれ、遊星がここで片付けるべきだ。 レーンを顎で示してやると、もう一人の自分は静かに頷いた。物わかりがいい。確かに遊星自身だった。 「来ないで」 冷えた鉄骨の影に幼い子供が隠れていた。一筋の青白い明かりが射して、チョコレート色の頭を浮かび上がらせている。 遊星はうず高く積まれた廃棄物の山の後ろから、顔を両手で覆って泣いている子供の姿を、恐る恐る覗いていた。しゃくりあげる声が悲痛さと哀願と苛立ちを孕んでいる。 「見ちゃだめ。あっち、行って。お願い」 子供らしい癇癪を起こしている。これほど素直に感情をあらわすのは、ひとりしか思い当たらない。十代だ。あの珍しい名前の少年だ。そばで遊戯が困った様子で十代を見下ろしていた。同じ年頃の子供の泣き声を聞くことはそうない。ここには奇妙なまでの辛抱強さを持った子供が多過ぎるからだ。 アテムは気高いひとで、内に渦巻く激情を誰の目にも決して触れさせない。生まれ持った王の誇りを、自ら穢すような真似はしない。 遊戯は、他人の敵意に鈍感だ。かよわく、直接的な暴力を怖れていたが、心のかたちをあらゆる場面に最も適した形状に変えることができる柔軟さがあった。だから彼には、どんな時でも楽園しか見えない。彼にとっては愛するゲームと唯一無二の『トモダチ』さえあれば、あらゆる地獄が幸福の地平なのだ。この不遇な人工の運命に誰よりも早く順応した遊戯は、おそらく歴代決闘王の中でも最も強い心を持つ男だ。 そして遊星には、大方の感情が欠落している。 アテムは泣かない。遊戯は泣く必要がない。遊星は泣けない。 それだから三人の子供は、十代が泣いているのが非常に珍しい現象のように感じていた。 遊戯が十代の前にしゃがみこんだ。怯えて身体を震わせた十代に向かって、一言二言喋り掛けた。十代にとって、同年代の子供との会話はこれが初めてだったのかもしれない。顔を覆う指の間からそっと目を上げた。 遊戯が息を呑んだ。アテムでさえそうだった。遊星も例外ではなかった。 十代の瞳の色は、初めて彼を見た時には木の実のように甘い色をしていたのに、何があったのか、今は色違いの鉱石めいた輝きを放つ眼が一対で嵌って、闇の中できらきらと輝いているのだった。それ自体が発光している、人にありえない双眸のせいで、顔つきまでもが別人のようにまったく変わってしまっていた。十代は自身の変貌をひどく恥じているようで、瞼を強く瞑った。 遊戯がにっこりした。 「キミの目、まるで宝石みたいでとっても綺麗だね。ねぇ、もうひとりのボク」 「……ん」 アテムが、道端に咲く一輪の花を愛でるような調子で頷いた。彼は花の可憐さではなく、孤独に蕾を開いている他愛もない美に気付いてやる遊戯の優しさに感心しているのだった。 十代は、初めて日を射しかけられたもぐらのような顔をして、不思議そうに遊戯を見上げている。 「もう泣かないで。そうだ、このカードをキミにあげるよ」 遊戯が、不器用な手でデッキからカードを一枚抜き出して、十代に差し出した。 「ラッキーカードだ。こいつがキミのことを守ってくれる」 十代は、腫れた目を擦ってしきりにまばたきをしている。呆けて口を開けていた。しばらく経って我に返り、慌てた様子でかしこまって頭を下げた。 「……ありがとう。――あの、ありがとう、ございました!」 上ずった声で叫んだ。切ない眼差しで、手を振る遊戯の背中をいつまでも見つめていた。託されたカードを大切そうに抱き締めている。 遊星は、物陰から一部始終を見ていた。すぐに十代の前へ自分も出ていって、昔の木の実のような暖かい眼も確かに良かったが、今の宝石の瞳だって良く彼に似合っていると言ってやりたかった。 遊星は、あの艶やかなブラウンの眼差しの十代を知っている。いつかの彼は、廃材を漁る遊星を見て笑ったのだ。それは、薄汚れたごみを好きこのんで物色する変わり者への嘲笑だったのかもしれない。ただあまりにも軽やかに、おかしそうに笑うから、見惚れてしまうほかなかった。 遊星は絵本の王子様のように優雅な十代に憧れた。それが一目惚れで、ずっと好きだった。埃っぽい自身を省みて、十代への慕情を口にしたことは一度もない。また笑われるに違いないと確信していた。 十代が遊戯に恋をしていることに気が付いても、遊星は何も言えずにいつも見ているだけだった。 多くの伝えたかった言葉を空想した。それは結局、うまく言えないものばかりだった。いつまでも仕舞い込まれたままで十代に届かない。 あの日ゾーンの奇跡によって歴史が巻き戻された瞬間のことを、遊星は憶えている。世界が静止し、不快な耳鳴りがやってきた。深い渦の底に呑み込まれていくような、強い眩暈のなかから意識を取り戻した時、足元のほうから扉が閉まる音が響いてきた。 レミングが啼いている。遊星は膝の上に紙でできた文庫本を開いて乗せ、どうやらうたたねをしていたらしかった。吹き抜けの寂しいホールに一人きりの十代が、片腕を僅かに伸ばし、誰かを引き留めるような恰好で硬直していた。相手は――決まっている。遊戯に違いない。『今朝も』十代は、レミングに餌をやりに現れた遊戯の背中を呼び止めることができないままだったのだ。 遊星は手すりから上半身を乗り出し、眼下のホールへ向かって叫んでいた。 「――十代さん!」 十代が顔を上げた。彼は初めて遊星の存在に気が付いて、ひどく驚いた様子だった。 「お前、ええと、不動遊星だっけ。急に呼ぶなんて、びっくりするじゃないか。……今の、見てたのか。悪趣味だな」 十代は、遊星のぶしつけな行動に機嫌を損ねている。遊星は構わず、手すりを乗り越えて下階へ飛び降りた。警戒して身構える十代に駆け寄っていき、彼の手首を掴んで胸に抱き寄せた。 「大丈夫ですか。十代さん」 遊星は十代の肌をためつすがめつした。細い腕には傷一つない。しげしげと顔を覗き込んだ。くり抜かれたはずの瞳は元通りに人でない輝きを宿し、遊星をまっすぐに射る。 戻ってきたのだ。十代を失う前の世界に帰って来たのだ。 「なんだよ。なんなんだよ急に、じろじろ見やがって。気持ち悪い奴だな」 「どこにも怪我はありませんか? 痛むところは。苦しくはないですか。その眼で俺のことが見えますか」 「はぁ?」 十代の暖かなぬくもりに触れたおり、気休めの夢を見ているのではないだろうかという疑惑を強く抱いていた遊星は、ようやくこれが現実なのだと悟った。柔らかい輪郭はみずみずしく、清潔で、泥や埃に穢されてはいない。安堵したせいで、全身から力が抜けた。 「よかった……貴方の、貴方の綺麗な眼だ」 「か、からかってんのか? なんともないに決まってるだろ。オレに構わないでくれないか」 十代は慣れない同類との触れ合いに動揺して、視線が泳いでいる。鳥肌を立て、苛立ちと戸惑いの手つきで遊星を振り払った。 「わけわかんないぜ。オレたちはまともに話したこともなかったと思うけど」 「すみません。ただ俺が勝手に、十代さんのことをずっと見ていました。ずっとです。貴方のそばにいると気持ちが良くて、俺は貴方を失うのが、怖くて仕方がなかった――よかった。貴方がここにいて、本当によかった」 遊星は唖然としている十代を胸の中に抱き締めた。たとえ呆れられても、軽蔑されても、嫌われても、構いはしない。十代の生きた感情がそこにあるのなら、遊星にとっては救済以外の何物でもないのだ。 「な、泣いてんの、変なやつ。急にそんなふうにされたらびっくりするだろ。まるでオレがいじめてるみたいに見えるんじゃないか? あのロボットたちにまたうるさいこと言われたらキミのせいだからな。ゾーンのお気に入りの優等生。いつもすかしてるキミが、そんなふうにばかみたいに泣きそうな顔。おっかしいの」 躊躇いがちの手が伸びてきて、遊星の背中にぎこちなく回った。十代は笑おうとしているらしいが、頬が引き攣っていた。彼が遊星を突き放すような言葉で、わざと怒らせようとしているのは分かった。無関心と自己憐憫まじりの同類意識こそが、本来のふたりの間にあるべき絆のかたちだからだ。 十代の神経質なくすくす笑いが遊星を侮辱していた。遊星は、幼い頃に一目見た十代に惹かれたその瞬間から、彼にならこうして馬鹿にされてもいいと思っていた。好意を嘲られても構わなかった。憧れの人が美しく笑う顔を見ていられるのが、ただ満足だった。 遊城十代はかなわない憧れだ。彼への想いが報われる未来は、明け方に見る浮ついた夢の話だと思っていた。 「しょうがない奴だな。深呼吸してみろよ。できるだろ」 「はい」 「落ちついたか?」 「……はい。取り乱してしまって、すみません。そうだ、ひとつ、ずっと気になっていたんです」 「なに」 「十代さん。貴方の壊れかけたゲーム機、俺、きっと直せると思いますよ――」 雨が降っている。天から叩きつける冷たい飛沫が、全身を柔らかく打っている。 いや、空を持たない大地に雨が降るはずはない。この歴史の最果ての古城には天候の変化という現象が存在しない。青空、時空のうねりの渦に似た夕焼け空、灰色の曇天と空から降り注ぐ雨粒、それら滅びる前の世界の遺物については、記録映像の中でしか知らない。 消火装置が作動しているのだ。薬品のにおいがする細かな霧が巻き上がるなかで、赤く焼けた金属から白っぽい煙が立ち昇る。 ――そうだ、ライディング・デュエルをしていた。 ようやく遊星は思い出した。丸眼鏡をかけたずんぐりむっくりのおんぼろロボット、桃色の羽を持った足の速い鳥、ボルト付きのはりねずみ。モンスターたちが光の地平でひとつになって、現れたシンクロ・モンスター。破綻だらけの戦略を披露してくれるくせに、これまで一度も勝てたためしのない、正史の不動遊星のデッキと闘っていたはずだ。もうひとりの自分は例のジャンク・デッキを所持し、手足のように操っていた。白いドラゴンが、無数のガラスの欠片のようにちりぢりに煌めく光の奔流を吐きつけた瞬間を憶えている。この神の居城において行われるデュエルのルールにのっとって、現実の暴力となったダメージが、疾走する遊星号を襲った。タイヤがひしゃげるいびつな感触が皮膚にダイレクトに伝わってきて、クラッシュの破裂音を聞いた。そして何の感覚もなくなった。 遊星はここへきて、自分は負けたのだと理解した。正史の自分自身のデッキに相対した時、いつも決まって越えることのできない一点がある。そこで立ち止まれば、あとは転げ落ちるように敗北へ向かってゆくだけだ。 栄光の前に渡し掛けられたラインを超えることができなかった。また届かなかった。今回は、いつものトレーニングとはまったく異なる本物の痛みが神経を蝕んでいる。 命を賭けたデュエルに敗退した自分は、これから死ぬのだろうか。遊星は頭のどこかひどく冷静な部分で考えた。死ぬ。巻き戻る以前の世界の十代のように動かなくなり、冷たくなっていくのか。 赤いD・ホイールが傍へ停まった。 「――おい、大丈夫か!」 ぼんやりとかすんだ視界に、遊星と同じ顔をした男が駆け寄ってくる姿が映った。彼は遊星を見下ろして息を呑んだ。 「……ロボットだったのか?」 呆然として、突拍子もないことを呟いた。 「お前は俺の皮を被った機械なのか。あの偽者のジャックのように」 「俺が……何だと? ふざ、けるな――」 もうひとりの自分のグローブ越しの人差し指が、カードをドローした際には見られなかった戸惑いを乗せて、遊星に突き付けられた。操られるように指先へ視線を落として、愕然とした。 遊星の傷口からは、温かい血液の代わりに、黒っぽい色をした粘り気のあるオイルが漏れていた。深い裂傷の奥に覗いているのは、鋼鉄の骨格と無数のコードだ。被覆が熱で融けている。断線して火花を散らし、ばちばちという耳障りな音を立てている。 遊星は混乱した。ようよう身体を反転させ、湿った地面に手をついて浅い水溜まりを覗き込んだ。泥色をした水面に映った自分自身の姿を目の当たりにした時、あまりの恐怖で全身の体毛が逆立つのがわかった。 「なんだ――これは? うそだ。なんで、こんな。冗談だろ」 水溜りの向こう側にいるものの姿は、どうあがいても人ではなかった。右半分の顔面の皮膚が焼けただれて裂け、人工的に削り出された鉄色の頭骨が露出している。右目の中に仕込まれていたレンズが焼けつき、白っぽい色に濁っている。 きっと悪い夢を見ているに違いない。自分は人間だ、ロボットなどでは決してない。この城に蠢いている、ゾーンが組み上げたぜんまい仕掛けの亡霊たちとは違う。幼い頃からの思い出はすべて頭の中にあったし、それは遊星だけが抱く錯覚ではなく、刷り込まれた偽物の記憶ではないと証明してくれる良く似た境遇の三人の人間がいる――遊星は必死になって自分の心に言い聞かせた。 彼らと遊星は同類で、四人のうちのひとりである遊城十代は確実に人間だった。彼が流した多量の血液も、皮膚に刻まれた無数の裂傷も、抉られた眼も、惨い死に様も、どれもこれもが人間でなければありえない。 「俺が不動遊星だ。心を持った人間だ。俺の心は、ゾーンが仕組んだまがい物なんかじゃない――どこですか! 十代さん!」 遊星は叫んだ。歪んだ現実を遠ざけようとして、心の拠り所となっている人間に救いを求めた。 「十代さん! 助けて下さい十代さん、今すぐここへ来て俺に嘘だと言ってください――全部嘘だと。全部夢だと。俺を遊星と呼んで下さい! 人間だと言って下さい、貴方の言葉さえあれば、こんな悪夢から今すぐに目覚められるはずなんだ」 手首を強く掴まれ、引き起こされた。かすかな希望を込めて顔を上げる。 十代の柔らかい手ではない。濃い霧の中に、先端が鋭く窄まった流線型の機体が影のようにうずくまっている。 アンチノミーだ。彼は大破した遊星号に今は見切りをつけて、デルタ・イーグルに遊星を引き上げた。もうひとりの自分は驚愕の表情になった。 「どうしたんだ……それは、ゴーストはお前にとっても倒すべき敵なんじゃないのか!」 ――ゴースト。シンクロを破滅させるために創造されたライディング・ロイド。 何も考えたくない。しかし、泥水に映り込んだ異形の骨格から視線を逸らすことができない。動かしがたい事実を目の前に突き付けられているせいで、ここにいる自分自身はゴーストなどではなく、ひとりの人間であって、不動遊星以外にはありえないのだと叫ぶことができない。 「言うな、遊星!」 アンチノミーが怒鳴った。 対峙するもう一人の自分は、彼は人間なのだろうか。ならば彼こそが不動遊星本人なのか。そうすると、自分は一体誰なのだ。ゾーンが造った不動遊星の複製品か。偽りの英雄なのか。 子供が大人へ成長するまでの十数年もの間、自分自身を歴史から消え去った英雄の幼体だと信じていた。そのどこか地に足のつかない自己認識ですら、救いであったのだと気が付いた。気安く引きずってきた名前があやふやに融けてしまうことが、これほど恐ろしいものだとは知らなかった。 喉の奥でただ十代の名前を繰り返していた。遊城十代。この世で一番美しい嘘吐き。彼なら、冗談を取り消すようにすべてを嘘にしてくれる。 ――はたして、本当にそうだろうか? 中に鉄塊が詰まった醜い姿を目にして、十代が立ち竦む姿が浮かんだ。 見開いた目から得体の知れない液体が零れていく。涙だろうか。それとも、破損したシリンダーから溢れたオイルが滴っているに過ぎないのか。 「遊星。私は君を護りたい。だがこれでは、彼があまりに憐れだ」 アンチノミーの膝の上へ抱えられて、加速の衝撃を全身に感じた。 「待て! そいつは一体何なんだ。十代さんは、あの人はやはりこの場所にいるのか!」 背後で叫んでいる自分の声が遠ざかり、強い風の唸り音にまぎれて途絶えた。安堵していることに絶望した。この残酷な茶番が消え去ってくれるように強く望んだ。しかし、無数に擦り切れた皮膚の間から覗いている鈍色の金属板は、高速の只中にあってもどこへも去ってはくれない。いまだに悪夢の中を走り続けている。夜明けの光は見えない。 「俺は何なんだ。人間じゃないのか。俺も、お前と同じロボットなのか?」 アーククレイドルの螺旋通路を疾走し続けるデルタ・イーグルの上で、遊星は弱々しい声でアンチノミーに尋ねた。 「……そう、君はボクたちの仲間だ。ゾーンが造った機械のひとつだ」 返事は酷薄だった。遊星は苦笑いをした。 「不動遊星の記憶を刷り込んだ、か?」 「いいや。君に搭載されている記録は不動遊星そのものだ。だが、君は遊星の複製品じゃない」 アンチノミーの表情には、掛け値なしに本物の焦燥と心配といたわりが浮かんでいる。 奇妙なものだ。彼もまた無感動な機械に過ぎない。ゾーンが操るロボットだ。老衰し死んだ人間の記憶を宿してはいたが、生き物ですらない。 ふと考えた。アンチノミーの感情の微細な変化を気取ることができるのは、自分もまた無機物に他ならないためではないだろうか。アンチノミーと同じ物だから、たとえば精密機械同士の間に発生する微弱な電気信号で、人には理解できない方法で感応しあっているのではないか。 それならば、アテムには、遊戯には、十代には、彼らの目にはどんなふうに映っていたのだろう。彼らは人のかたちを模した冷たい鉄塊に、違和感を覚えていたのではないだろうか。零と一で構成された信号のなかに魂の在り処は示されるのか。見せつけられた機械仕掛けの証は、自分自身の存在についての正しい認識を促し始めていた。 アンチノミーが、熱病に苦しむ幼子を看る庇護者のように、遊星の手のひらを握ってくれた。 「ゾーンは疲れてるんだ。老化が彼を蝕んでいる。もう時間はあまりない。人類最後の人間が絶命してしまった本物の滅びの後で、進み続ける大いなる実験を引き継いでこの城の主となる者がどうしても必要だった。それはゾーンの自我よりも不動遊星の意志が相応しいと彼は考えた。 ゾーンはかつて、英雄不動遊星そのものに自らを改造した。ただし、彼はどんな時でも、自分が本物の不動遊星ではなく名もなきひとりの科学者で、本当は誰も話すら聞いてくれないちっぽけな人間に過ぎない事実を忘れられなかった。彼が彼自身であるということが、彼にとっては不完全だった。彼は完全に不動遊星になりたかった。自分が自分自身であることを、ゾーンは忘れたかった。 他のイレイドゥスたちと同じく、ゾーンは自らの記憶を機械の身体に移植した。ただしオリジナルと違っているのは、移植した自分の記憶から、自分自身がゾーンであるという認識を消したことだ。それが君だ。 君はこのアーククレイドルに君臨する神。ボクらの盟主。人類最後のひとり、『Z−ONE』。その記憶を受け継いだアンドロイドだ。ゾーンは今、アーククレイドルにおいて完全に不動遊星になった君を――自分自身を愛している。彼はようやく自分を愛することができたんだ」 ぼんやりとして、アンチノミーが語る真実を聞いていた。彼は端正な顔を、苦痛に歪めている。 「オリジナルの意志だとしても、ボクは君を騙し続けていた。すまない、ゾーン」 「……お前は悪くない。遊星と、もう、呼んでくれないんだな」 「ごめん」 「ああ――」 「君は失った遊城十代を取り戻すために、ゾーンに協力することを選んだ。本物の遊星なら、そうはしなかっただろうとボクは思う。彼は失うことが多すぎて、自分自身を犠牲にしても死んだ人間は蘇らないと知っている。代償と引き換えに大切なものを取り戻すことなんてできるわけがないというスタンスなんだ。それが本当に、未来を奪われたものに奇跡と救済を示していても、彼にとってはすべてが平しく価値あるものなんだから……他人も仲間も、神もごみも世界だって。だから代償を、取り返した命のかわりに消えていくものたちを差し出すことはできない。十代の死も、自らの罪の一部分として、ただすべてを背負って歩こうとするだろう。そのひたむきさが、不動遊星の強さを構成する部品のひとつなんだ。 ゾーンにすがった君は、不動遊星にすがったゾーンそのものだ。遊星になりきっても、ゾーンの自分自身を軽んじて、信じ切ることができない心の弱さは変わらなかった。本当の君は遊星に負けないくらい素晴らしい英雄なのに。少なくともボクにとって君はそうだった。……オリジナルのゾーンが十代を遠ざけた理由が、ボクにはわかる気がするんだ」 デルタ・イーグルが無人のごみの山に辿り着いた時、理由のない安堵感が湧き起こってきた。嵐のような混乱の中にあっても、鉄くずに囲まれていると不思議と心地が良かった。人間に必要とされて創造を受けた『彼ら』は、のちに役目を取り上げられて廃棄され、また価値を見出す者が現れる日を夢見ていた。今は人類を永遠に失い、無価値に偏在している。それら廃棄物たちを愛していた理由が今やっと分かった気がした。ジャンクの塔のふもとに膝をついて、湿った陰の中へうずくまって頭を振った。同類に共感し、彼らを、自分を憐れんでいたのだ。 「ゾーン」 「……ひとりにしておいてくれ。すまない。でも、見ないでくれ」 「ごめん、ゾーン。ごめんね――」 「言っただろう。お前は何も悪くないんだ」 弱々しく笑った。 どこかで猫の鳴き声がする。 妙だ。この死んだ街のどこにも猫は残っていなかったはずだ。時空を超えてここまでやってきた本物の遊星が連れてきたのかもしれない。 ねずみの悲鳴が聴こえた。弾かれたように顔を上げた先に、長い尾とまだら模様の毛色が見えた。 遊戯のレミングだ。そっくりの顔つきをした猫の口に咥えられている。その大柄な猫の姿は、記録で見たことがある。 『ファラオ』だ。大昔に錬金術師が造った不老不死の猫。ゾーンの手になる実験ねずみのオリジナルだ。 かつての自分が口にした言葉を思い出した。ゾーンが生み出した模造品は決してオリジナルに届かない。劣化品は正規品に蹂躙される。背筋がぞくっとした。 自分はデュエルにおいて本物の遊星に倒された。彼は遊戯を、十代を正史の中へ取り戻そうとしている。彼らをこの古城からあるべき時代へ連れ出すつもりなのだ。 ――あの人を奪われるのか。不動遊星本人に? 借り物の自己認識を取り上げられ、名前を上書きされた上に、魂すらも奪われるのか。 ねずみを猫から救おうと手を伸ばした。だが猫は、太い前肢を器用に使ってもてあそんでいた餌を、再び口の中に入れた。骨を噛み砕くばりばりという音がした。肉塊を一飲みにすると、満足そうにげっぷをして、悠々とした足取りで去って行った。しばらくの間、何も考えられず、毛むくじゃらの太った尻を見送っていた。 壊れたロボット。人以外の何か。生き物ですらない、冷たいくず鉄。鋼鉄の頭骨が露わになっており、安っぽい恐怖映画に登場する怪物じみている。この姿を見て、はたして十代は、いつものように名前を呼んでくれるだろうか。 正規品と並べられた時に、彼らがどちらを本物の不動遊星だと判断するかは明白だった。アテムは、遊戯は、十代は、本物の遊星の手を取って、正しい時間の流れの中へ戻っていくのかもしれない。名もなきファラオや、無邪気なゲーム好きの子供、そして独りぼっちで走り続けた永遠の少年に還るのだ。 うずくまって膝を抱えた。涙の衝動がやってきて、肺が痙攣した。それでもきちんと人間らしく泣いているのだという確信はなかった。機械が泣くものか。 廃棄場に一筋の光が差し込んでいる。ごみの山の向こうから、白い患者衣がまぼろしのように飛び出してきた。よほど慌てていて、服は錆と煤で汚れていた。どこかで靴を片方なくしてきたらしい。ちぐはぐでたどたどしい足音をさせている。 十代だ。こちらの姿を認めると胸を撫で下ろして笑顔になった 「こんなところにいたのか。無事だったんだな、よかった。ここは危ない。早く逃げようぜ」 彼が心配してくれていたことは、純粋に嬉しかった。ただ、今の不恰好な姿を、最も見られたくない相手だった。胸の内側が人間の心臓の鼓動のようにどくどくと鳴っている。十代がくず鉄の影の中へ手を差し出した。 そこで彼はようやく異変に気が付いた。今腕を伸べている相手が、人間ではないことを悟った。 「来ないで下さい。俺を、見ないで下さい。お願いです。十代さん、俺は、俺は……」 ひどくみじめな気分で哀願した。頭部を手で覆い隠し、顔を背けても、妖しい色違いの視線から逃れることはできない。 十代は不思議そうに首を傾げていたが、無遠慮に遊星に近付いてきて、隣に座り込んだ。そしてこちらの後ろ頭の、むき出しになっている機械部をおっかなびっくりの手つきで撫で、細い首を伸ばして恐る恐る唇で触れた。その途端に白い火花が散って、小さな破裂音がした。軽く感電した十代が、口を押さえて短い悲鳴を上げた。 「いててて……」 「じゅ、十代さ」 「ん。話、聞こえてた」 十代の声は落ち着いていた。頷く瞳の中に、一体のロボットの姿が映り込んでいる。ただ彼は、いつもと変わらない屈託のなさだった。 「オレ耳良いんだ。この街の中で息をしてる人間の声が聴こえる。全部な。うん、盗み聞きみたいで気分わりいよな。だってしょうがないだろ、聴こえちまうんだから」 「い、いえ」 「オレさ、知ってるだろ、歴史の勉強苦手なんだ。どこかの国の王様とか、すごい発明をした天才科学者とか、有名な戦国武将とか、どうしても名前覚えらんなくて。いいよキミの名前なんて、どうだって。遊星、ゾーン、名無しロボット。なんだっていいよ」 十代は両腕を伸ばしてこちらの首の後ろへ回し、背中を抱き締める恰好をした。隙間もなく密着した身体の、柔らかい感触が伝わってくる。どぎまぎして、顔じゅうが熱くなり、心音がうるさく早まった。正体のない心の動きが、無機物に人のような反応をさせている。 「十代、さん、あの」 「不動遊星ってやつがどんなに偉い英雄だったかもよくわかんない。きっと沢山の人間に愛されて、尊敬されて、両腕から零れるくらいの数の絆を持ってたんだ。決闘王の名前に相応しくさ。そんな遊星だったら、遊戯さんやアテムさんみたいに、オレなんかに見向きもしてくれなかったかもしれない。大勢のなかのひとりだ。歯車がひとつ欠けても機械は動き続けるんだ。でもキミは違う。キミは欠けだらけだ。オレと同じで、ただの歯車だ。完全になりたくてほかの欠けてるパーツを求めた。違うか? ふたり合わせても全然足りないけど、少しだけうまくパズルが嵌る感じがする。だからかな、キミのそばにいると気持ちがいいんだ。嫌いじゃないぜ、うん」 耳のそばで十代が笑った。温かい笑い方だ。胸がいっぱいに満たされて、目から熱い液体が零れていく。 小さな兄弟にゲームのルールを言い聞かせるようなゆったりとした口調で、十代は言った。 「英雄じゃなくたっていいじゃないか。大勢の人間にちやほやされなくたっていいじゃないか。オレがいるじゃないか。ダメか遊星。ダメかな?」 「オレを、まだ遊星と呼んでくれるんですか。十代さん」 「オレに優しくしてくれたのはキミだよ。機械だって? 知ったことか」 十代は不機嫌そうに鼻を鳴らし、かすかに怒りを含んだ手つきで遊星の頬を撫でた。 「本物だか誰だか知らないけど、かっこいい遊星の顔をこんなにしやがって。赦せないな。なぁ、置いてっちまおうぜ、こんな世界。神様も辿り着けないくらい先の先の未来まで、キミが不動遊星でいられる世界にオレが連れてってやるさ」 いつかどこかで憶えがある言葉で、十代が言った。 「行こうぜ、遊星」 手を引かれ、立ち上がった際に白い素足が覗いた。 いやに気になった。なにしろあたりはごみだらけだ。錆びた釘や割れた瓶の破片で傷を作るかもしれない。この不潔な環境においては、細かなひっかき傷が感染症を引き起こし、命を奪うきっかけにもなり得た。十代の薄っぺらい腰を抱き上げようとして、半目で睨まれた。 「嫌だぞ。恰好つかないだろ」 「なら負ぶわせて下さい。せめてそのくらいは、俺にさせてください」 「やだ」 「俺は貴方に守られてばかりで」 「いいんだよ。たまには甘えたってばちは当たらないぜ」 「では、甘えさせてもらいます」 遊星は十代の足元に屈み込んだ。骨ばった足首をとり、脱いだ片方の靴を華奢な踵に履かせた。 「十代さんが使ってください。俺は平気です。その、……あの、ロボットのようですから」 「キミってほんとに優しいよな」 「少し大きいようですね。貴方の足に合えば良かったんですが。すみません」 「撤回だ。やっぱヤな奴かもしんない」 突っぱねるように言って顔を背け、だが十代は遊星の手をきつく握った。遊星が口元を綻ばせたのを、十代は目ざとく悟って、照れ臭そうに頬を掻いた。 「クールなとこも恰好良いけど、キミは笑ってるほうがいいよ。かわいいぜ。さて遊星、キミのバイクは」 「D・ホイールです」 「細かいやつだな。あれ、時を超えるってワクワクする機能がついてたろ。どこにある?」 「それが、俺のは壊れてしまって」 「かわりはないのか?」 「格納庫へ行けば、ライディング・ロイド用の機体があると思います」 遊星の足取りは、先のデュエルで損傷した脚部を庇ってぎくしゃくとした動きになっていた。十代もまた、ちぐはぐの靴のせいで頼りない歩き方だ。ふたりで支えあうようにして、螺旋状になって下降する細長い通路へ踏み出した。 繋がった十代の手が硬く強張るのが分かった。モーメントの虹色の光がゆらゆらと揺れ、地下墓所のような回廊を照らし出しており、その先にあるものを知った遊星もまた、十代のはっきりとした恐怖を理解し、共有した。 通路の中央に二人の少年が立ち塞がっている。アテムと遊戯、見慣れた同じ顔が並んでいる。 彼らはこちらを待っていたようだ。遊戯はアテムの背中に隠れ、不安そうに揃いの患者衣の裾を握って、そっくりの横顔を見上げている。元の時代に帰りたがったアテム。何千年も昔のいにしえの国を統べた少年王。本物の遊星の来訪は、彼にとっては待ちに待った救済の合図だったのかもしれない。 「どこへ行こうって言うんだ?」 アテムが静かに言った。 彼が敵に回る未来を想像したくはなかった。生きた心地がしない。 荒れた道だ。フロントホイールが建物の残骸に乗り上げる度に、D・ホイールは大きく揺れた。遊星の後ろから、痩せた手が手持ち無沙汰そうにこつこつとヘルメットを小突く。 鉄くずの詰まった頭をやかんかなにかだと思っているのかもしれない。首の後ろのあたりにじわりと浮かんでいる嫌な汗は、先ほどよりもひどくなっている気がする。どこまでも人を真似た身体だ。そっと横を覗くと、十代もまたしょげた犬の顔つきをしている。 「十代。自分を殺して構わないから遊星を見逃してくれだとか」 「……はい」 「十代は関係ない、すべて自分が引き受けるだとか、遊星」 「……はい」 「何勘違いしてるんだ。お前たちはオレを一体何だと思ってる」 「すみません……」 「だって、本当にびっくりしたんですよ!」 十代はD・ホイールを軸にデュエルボードで並走しながら、目に涙を浮かべて、リアホイールの横に立ち乗りをしているアテムに泣き言を叫んだ。まだ失った顔色を取り戻していない。 エンジンが悲鳴を上げている。動作がのろい。本来は一人乗りの機体に、そう体重のない少年とはいえ三人を乗せて走っているのだから、かなり無理をさせている。姿かたちは壊れてしまった遊星号のレプリカに良く似ているが、馬力は比べ物にならなかった。 「ごめんね遊星くん」 遊星の腰に後ろから掴まっている遊戯が、そっと耳打ちをする。 「え?」 「ほんとは十代くんにぎゅっとされたかったでしょ」 運転者の動揺は車体にダイレクトに伝わる。バランスを欠いたD・ホイールから振り飛ばされそうになったアテムと十代が罵声を上げた。叱責が飛ぶ。遊戯は笑っている。 「遊星!」 「安全運転しろっての!」 「ふふ。ほんとにロボット?」 「すみません……」 おっかなびっくりにアテムを覗き見た。正直を言うと彼のことが、憧れと同じだけ恐ろしかった。相対すると、赤みがかった紫色の瞳に、恐ろしく強い力で惹かれていくのがわかった。猫を見上げる鼠になったようだ。猫が満腹でいれば無害だが、そうでなければ命の保証はない。 「アテムさんは、元の時代に帰りたいんだとばかり思っていました」 「確かにそうだ。お前たちがどの時代へ行こうと勝手だが、オレはオレの時代へ帰らせてもらうぜ」 「じゃあ、本物の俺のほうへついた方が良かったんじゃないですか」 「オレは王のオレの姿を相棒に見せてやりたい。喜ばせてやりたいんだ」 「キミの恰好良い姿なら、ボクは充分に見せてもらってるけどね」 「ああ。記録によれば、正史のオレ達は結局離れ離れになっちまったらしい。かつてのオレ達がそいつに関して何を考えて、どういう結論を出したのかは知らない。そもそも未来にある希望を信じていられた時代に生きた奴らの考えが、はなからオレにはわからないんだ。あいつが、本当の不動遊星を名乗る男が求めているのはオレたちじゃない。もう消えてしまったまぼろしだ。ここへ来て今を生きるオレたちを、初めから無かったことにしたいんだろう。オレの記憶は正史を生きていたオレとは別人だ。また別のものになれと言われても、正直鬱陶しいぜ。お前はどうだ。十代」 十代は慣れないデュエルボードの扱いに苦労している様子だったが、水を向けられて、ばつが悪そうに顎を引いた。 「過去に帰りたいって気持ちは、オレにはよくわからないんです。オレはアテムさんと遊戯さんが、遊星が大好きだ。昔どこかの時代を生きた、独りぼっちだったっていうオレには戻りたくない」 「違うんだ、十代くん」 遊戯が遊星の腰に掴まったまま、十代のほうへ身を乗り出した。 「キミは知らないんだ」 「危ないですよ!」 十代が叫んだ。遊戯は聞かない。 「キミは過去の童実野町で起きた決闘の記録を覗いたことがないんだよね。ボクは、もうひとりのボクと見たんだ。遊星くんも知ってるんだよね。過去のボクらは力を合わせて、未来からやってきたパラドックスと闘ったんだ。それがゾーンに見出されたせいで、ボクらは滅びた未来に攫われてきた。 あの頃のキミはサポートが得意だった。ボクらと遊星くんを護って、助けて、はげましてくれていたんだ。あれは一人ぼっちの人間にできる闘い方じゃない。今のキミはボクらの中で唯一、トレーニング・デュエルで昔の自分自身を倒すことができる。それはきっと昔のキミのデッキが、今のひとりで何でもできるキミのデッキのなかに少しだけ、一緒に闘う人を護るためのカードが組まれたものだったからじゃないかな。ひとりぼっちで闘う人には何の役にも立たないカードが入っていたんだ。キミは誰かを護れる優しい人だよ。だからいつの時代だって、絶対にひとりじゃなかったんだ」 十代は戸惑いの沈黙のあとで、おずおずと遊戯に尋ねた。 「そんならオレにも護るべきものがいたんでしょうか。オレでも人を護れたんでしょうか。オレにも仲間がいたんでしょうか」 「もちろんだよ」 「今からでも、大切な人を護れるんでしょうか」 「当たり前じゃないか。だってキミは、とっても強い決闘者だもの」 「ゾーンはお前に嘘を教えたんだ」 「何の為にですか?」 「妬いてたんだろうぜ。きっとな」 「……?」 ゾーンの嘘の理由が、今となっては遊星にも分かる気がした。彼とは同じ穴の貉だ。現に遊星は、一度だけ嘘を現実に変えてしまったことがある。 十代はきょとんとしていて、理解できないようだった。無理もない。彼には嘘が嘘のままであっても、大して誰かを羨んだり、苦悩することはないからだ。遊戯が笑った。 「あはは。キミ、キミは……すごく恰好良いのにそんな顔するなんて。本当に面白い子だなぁ!」 十代が顔を真っ赤に染めた。 スピーカーから、ノイズ混じりの音声が高く低く揺らめきながら響いてくる。遊星を制止する誰かの声だ。声質はよく耳に馴染んでいて、知っているものだった。 『――君は自分が何をしようとしているかを知らないんだ。戻ってくれゾーン。これ以上君に傷付いて欲しくはない』 通信を遮断した。停まることはできない。 「行きます!」 遊星は叫んだ。無数の銀色の星屑が光の中に生まれ、後方に流れていく。自分自身の真実も、本物の不動遊星もゾーンもアーククレイドルも、すべてを置き去りにしたかった。火花が弾け、D・ホイールに搭載された時空を超える能力が発動する。 ぬるい湯の中へ投げ込まれたようだ。正体の分からないどろっとしたものが、皮膚に纏わりついてくる。不快感のラインを過ぎ、気が付くと暗闇の中を走っていた。 時空の穴を抜け、頭上に見えるのは空だろうか、禍々しい程の黒に染まりきった空洞だ。何の気配もない。人家やビルの群れも、森も海も、星のぬくもりを宿したものは何もない。 アーククレイドルですら、かつては人が存在した証を墓標のかたちで遺していた。こんなにもおぞましい滅びの気配に満ちている場所を知らない。吹きすさぶ高空の凍てついた風が肌を切る。何もない世界だ。 「なんだ、ここは」 「時代を間違えたんじゃないか?」 アテムが怪訝そうに周囲を見回し、十代は戸惑った様子で遊星の袖を引いた。計器を確認する。機器の設定には何の間違いもなかったはずだ。 前方に蠢くものがある。目を凝らし、信じられない気持ちになった。巨大な黒い腕だ。城壁を思わせる平べったい手のひらが、地の底から持ち上がってきた。眼前へ迫る。避けようもなかった。三人乗りのD・ホイールはあっけなく弾き飛ばされて、木の枝から離れた枯葉のように回転しながら落下していった。 背筋が痺れるような墜落の感覚のなかで、遊星は遥か下方に広がるこの星の姿を見た。 そこにはただ、徹底的な虚無の海が広がっていた。 ――大邪神ゾークを封じたアテムが神の居城に消えた時、世界は急速な滅びを確定させた。暗黒時代の到来。 蹂躙された史実の一場面を基点にして、崩壊の余波がその後の歴史へ広がっていく。時が刻まれてゆくごとに、破滅が未来を侵食する。 かつて正史の決闘王たちに滅ぼされるはずだった、各時代に巣食う邪悪な意志は、天敵を失ったまま安穏と育まれていった。彼らはむき出しの欲望をぶつけ合った。悪意に染まった身を食らい合って、やがて闇のなかでひとつに溶けあった。統合した悪意の総体は、いつかどこかの時空で自らを滅ぼした決闘王たちへのおぼろげな怨念を抱いて偏在している。 それがアテムを、武藤遊戯を、遊城十代を持たなかった、あまりにもあっけない滅びを迎えた星の未来だ。 この地もまたアーククレイドルと同じく、前時代にはネオ童実野シティと呼ばれた、英雄不動遊星を生んだ場所だった。 遥か昔に消えてしまった空白の地だ。 少しの間意識を失っていた。気が付くと、黒い地面に倒れている。タールのようにぬめっていて、怖気をふるう肌触りだ。 遊星は立ち上がった。手が届くほど傍に十代が倒れている。近くにはアテムと遊戯もいた。怪我を負った様子はなく、安堵するが、D・ホイールの姿が見えない。 どこか別の場所へ落ちてしまったのだろう。車体を探して首を巡らせて、奇妙な人影に目が留まった。 長い髪の老人だ。おかしな仮面で顔を覆い、怨みに満ちた声を張り上げながら、幽鬼のようにふらふらと歩いてくる。彼が狂気に侵されているのは、すぐにわかった。 アテムが身を起こし、怪訝そうに眉を寄せる。老人が繰り返し呼んでいる名が、彼にとってはひどく身に覚えのあるものだったからだ。 「誰だ、お前。オレを知ってるのか」 アテムを認識した途端に、老人は更に奇怪な、身の毛もよだつ絶叫を上げた。黒い空が形を成していく。木の根のように太い血管が浮いた翼が広がり、地中からは牙を剥く蛇の尾を持った怪物が現れた。雄牛の角が頭を飾っていたが、迫ってくる姿はあまりにも巨大過ぎた。全貌を把握できない。 かつて大邪神と呼ばれた者が、ひとつに溶けた闇の中から、宿敵の姿を認めて本能的に襲いかかった。 彼はその時、おそらく何も分からなかったに違いない。肉体と魂の芯となるものを、力の根源だったものを孤独の中で失った今、決闘王のなれの果てたちはただの羊の群れに過ぎなかった。 ひときわ大きな体躯を持った怪物の襲撃を合図に、陰の中から無数の邪悪な群体が湧き上がってきた。不定形のものや、貧相な見かけのものまで、ありとあらゆる悪意たちが一塊の黒い波のようになって押し寄せてくる。 今にも崩れ落ちそうな牡山羊の骨格がぼんやりと浮かんだ。細い触手が迷いなく十代へ伸びていく。牡山羊の骨格は、明らかに遊城十代に強い敵意を抱いていた。 乾いた蔦が薄い皮膚を絡め、容易に裂き、内臓をまさぐっていく。十代が不快そうに表情を歪め、くぐもった声で呻いた。細い首から骨が軋む不吉な音が鳴り、四肢がだらりとぶら下がる。 銀色の光が瞬いた。長衣を纏った剣士が現れ、担いだ大剣で触手の束を凪ぎ切った。見覚えがある。遊戯のしもべのモンスターだ。 遊星は投げ出された十代を抱き止めて、狼狽しながら闇の向こうを指した。 「ゆ、遊戯さん。アテムさんが」 「落ちついて、遊星くん」 半身を見失い、最も動揺するはずだった遊戯が冷静に答えた。彼の顔つきは、今までの怖がりの幼児ではなくなっていた。 「大丈夫だよ」 「でも!」 十代の皮膚の内側へ入り込んだ有機的な管を引き抜いてから、遊戯は安堵を込めて「生きてる」と言った。 「よかった。……知ってた? ボクは憧れてたんだ。背が高くてかっこよくて、宝石みたいにキラキラしてて、とっても優しい目をしてる。綺麗だってずっと言いたかったんだけど。……あれ? どうして、言えなかったんだっけ」 「……俺が消去しました」 遊星は遊戯に跪いた。自分が、空っぽの箱になったような気分だ。 「羨ましかったんです。貴方の言葉が十代さんを捕まえて、あの人は貴方だけを見ていたから、……だから俺は貴方になり替わりたくて、貴方の言葉を俺のものにした。自分に都合の良いように、歴史を塗り替えたんです。すみません遊戯さん。こんな、汚い真似を。俺は決して赦されないことをしてしまった」 遊戯はしばらくの間きょとんとして、遊星を見ていた。アテムと同じ色の眼だが、受ける印象はまったく異なっている。ごく普通の、どこにでもいる、ありきたりな少年の目をしていた。 彼は穏やかに微笑んだ。意外にも、遊星をなじることはしなかった。そういえば彼が怒った顔を見たことは、一度もなかったのだ。 「ずっと寂しそうにこっちを見る子だなぁって思ってたんだ。ボクは怖がりで何もできなかったから、誰かに救ってあげて欲しかった。ボクの助けなんか誰にも必要ないって言い訳し続けて、どんどん自分がみじめになっていくんだ。ありがとう。ボクにはできなかったことを、キミはやってくれたんだね」 「遊戯さん。すみません、俺、おれ、」 「ほんとの世界でも、ボクはきっとキミたちのことが大好きになっただろうと思うよ。もっと沢山話がしたかったな。ゲームもデュエルもやりたかった。ごめん、友達になろうって言い出せなくて。ボクは臆病者だったけど」 遊戯はまだあどけなさを残した顔に、得体の知れない決意を浮かべていた。 「ボクだって守れるんだ。もうひとりのボクのぶんまで、キミたちのこと」 急に、小さな手で突き飛ばされた。遊星はつんのめって黒い泥の上に倒れ込んだ。 「ゆ、遊戯さん? 何を――」 顔を上げると、そこには誰もいなくなっていた。小さな後姿は闇に融けて消え、背丈ほどもある銀の長剣が地表に突き刺さっているばかりだ。 「遊戯さん」 「……遊戯さん?」 腕の中の十代が呆けた声を上げた。彼は朦朧とした意識のなか、停止寸前の判断能力で遊戯の不在を認識した。アテムの末路を理解した。 「アテムさん。遊戯さぁん……」 憧れの存在を見失った十代は、いつも遊星に見せつけていたあの年長者の顔を取り繕うことも忘れ果てていた。もう、一人で何でもできる器用な十代ではなかった。子供のように泣き出した彼の姿に、遊星は素直に狼狽えた。 頭のどこかで冷静な指示を下す声がする。立ち止まってはいけない。歩き出さなければならない。逃げなければならない。逃げなければ――どこへ? どうすればいい? ――D・ホイールだ。失くした車体を見つけ出して、もう一度時空を超えていけ。 ――戻るのだ。滅びた世界は虚無よりずっと優しかった。あの場所へ、アーククレイドルへ戻らなければ。 ――いいや。更に遥かな過去の世界へ向かうのだ。そこにやり遂げなければならないことがある。絶対にやり直さなければならないことがある。 遊星は十代の手首を引いた。 「行きましょう、十代さん」 十代は信じられないものを見るように、遊星を非難の目で射た。 「ふざけんな。オレはあの人たちを命に替えても護ってみせる。それができなかった時は、オレだって。言ったじゃないか、だって、オレとキミで」 「あの人たちを護る。忘れてなんかいません。忘れるはずがないじゃないですか。その為に行くんです。だから」 十代は、それ自体が淡く発光する瞳をいっぱいに見開いている。みるみるうちに潤んでいく。熱い水が溢れ、滴になって落ちた。 「信じて下さい」 「うん」 鼻をすすりながら頷いて、彼は手を引かれるままに歩き出す。幼い子供の仕草だ。 ふと思った。自分たちは、みんながみんな子供だった。最後の最後まで、幼稚な子供だった。誰ひとり大人に成長した者はいなかったのだ。 ――どうしてこんな結末を迎えてしまったのだろう。自分たちは、正史を生き抜いたあの頃よりも強くなるはずではなかったのか。 それがどうだ。誰ひとり、どうして大人にさえなれなかった。何故ゾーンはこんな浅はかな選択をした。彼にはすべてが見えていたはずだ。迅速な滅びの過程の中に生まれた何が欲しかったのだ。今、彼は何を得た。 わからない。 火の粉がちらちらと降り落ちてきて、頬を焼く。黒い沼地の上で、横転したD・ホイールが炎上している。 これでは、もう帰ることはできない。どこへも逃げられない。過去へ戻って軽率な逃避行を食い止めることも、アテムを、遊戯を、十代を攫った時間へ戻り、英雄の幼体を掴んだゾーンの手を振り払うこともできない。 絶望の中に倒れ込んだ。もう何もない。何も残っていない。世界は無に帰し、肉体は果てのない怪物たちとの戦いに疲弊していた。 いやな夢だ。一人ごちる。冷たい手が頬を包み込んだ。 「そうだよ遊星。悪い夢さ、全部。そんなもの、オレがどこかへブッ飛ばしてやるぜ――」 炎の赤い光が闇を照らす。十代が微笑んでいる。 焼けたD・ホイールの残骸から、まだかろうじて生き残っているスピーカーが自分の声を喚いていた。音が割れていて、何を言っているのかは知れないが、見当は容易についた。 カメラは動いているだろうか。だったら、見ているのだろう。カメラの先にある映像を、ただ見ていることしかできない自分が叫ぶ名前など知れている。 骨のように白い指が、ざらざらとした金属の貌を擦った。 「機械と人にどれだけの違いがあるんだ? 宿った心を偽物呼ばわりする権利が誰にある? 神か? 神がキミを造ったのにか? 綺麗な魂だってちゃんと持ってるじゃないか。キミが人じゃないっていうなら、ロボットだっていうなら、ずっとあの鉄くずの城で造られてきたオレだってそうだよ。空っぽで……ただできてるものが、肉か鉄かって、それだけじゃないか。キミが偽物なら、オレも偽物だ」 長い間喋り疲れたふうに、どこか眠たげな溜息を吐いている。 「キミに声を掛けられるまでは毎日地獄だった。悪夢が消えたらどれだけいいかって思ってた。目を覚ましたかったよ。でもその悪夢が育んできたのが今のオレだ。夢から醒める時だっていうのなら、悪夢の欠片のオレも一緒に砕けるのが筋ってもんだ。そうだろ」 スピーカー越しの声はさらに切迫しつつあった。手を伸べても届かないものに、とても壊れやすいものに、どうしても触れたくて叫んでいる。本物の英雄の動揺が、自分の心に重なり合うように伝わってくる。悲鳴じみた慟哭を、自分自身にそうするように嗤った。 正史の遊星もまた遊城十代に心を奪われていたらしい。なぜか、安堵と納得を感じていた。今ここで思考する自我は、機械の身体に刷り込まれた遊星の記憶そのものだという。図書館の本棚にささった偉人の伝記だ。 当然だ、不動遊星の欠片が、彼が無心に憧れた十代に心を奪われないわけがない。 ――本物の俺。英雄のお前は、アテムさんの、遊戯さんの、十代さんの魂すら背負っていくっていうのか。そんな途方もなく重いものを背負って、歩いていけるものか。 ――お前に背負えるものか。だってお前、今そこで、膝をついて泣いているんじゃないか。大切な人に大切なことひとつ伝えられない、ただの無口な男じゃないか。 ――それでもまだ立ち上がっていけるのなら、お前はやはり俺とは違うんだろう。 どちらが本当の不動遊星だっただろう。わからなくなってきた。境界線を認識することが、ひどく困難になっていく。 憶えのある名前がすべて自分を飾るもののように錯覚し始める。不動遊星。武藤遊戯。遊城十代。どれが自分の本当の名前だっただろう。自分は名無しのロボットだっただろうか。それともゾーンという名前だっただろうか。 壊れかけているのだ。 「遊星」 頭を持ち上げられ、口唇に柔らかいものが触れた。急に視界がクリアになる。泣き笑いのような顔をした、十代の顔が大きく映った。やはり、綺麗な目をしている。 「十代さん」 「いつだったっけ。赤い服似合うって言ってくれたの、憶えてるか? 嬉しかったな。キミになら女の子にされてもいいって、馬鹿なこと考えちまうくらい」 十代は早口でまくし立てて、かすかな嗚咽の気配を匂わせながら、遊星の頭を抱き締めた。 「好きだよ。愛してるよ。初めてだったんだ。醒めない嫌な夢の中で、キミが初めてオレを愛してくれた人だった」 「……その言葉だけで、俺の見ていた夢は決して悪夢なんかじゃなかった」 腕を上げる。画質の荒いモニター越しに作業機械の遠隔操作をするような、他人事の感覚だ。注意深く十代の顔を撫でた。不思議に穏やかな心地だ。 「ありがとうございます。俺も……貴方を愛しています。誰よりも……美しい――」 「ゆうせえ」 しゃっくりのように引き攣った声で名前を呼ぶその人が、とても愛しい。この声は誰のものだっただろう。憶えている名前はそう多くないはずなのに、特定に至らない。誰だかわからないが、ずっと好きな、安心する音だった。 「起きてくれ。オレだけこんな暗い夜の中に置いてくな、ばかっ」 彼は泣いている。誰も応えない。 「オレたちはなにか失敗したのか? 遊星、答えてくれ。オレの一体なにが悪かったっていうんだ?」 問い掛けへの返事は、無数の化け物たちが上げる殺意の唸り声だけだ。彼は孤独だ。味方は誰もいない。 「全部夢だ。こんなの、全部悪い夢に決まってる――」 「――その通りです、十代」 絶望した彼に、たったひとつだけ応える声がした。 「ゆうせい」 彼は手の甲で目を擦って、天を仰いだ。 視界が霞んでいる。彼が見上げた先にあるものの正体は、何も分からない。ただ、ぼんやりとした白い円形の物体がぶれて映っている。それをどこかで見たことがあった気がするのだが、うまく思い出せない。 ――あれは何だっただろう。 ――あれは誰だっただろう。 「さあ、目覚めなさい。すべて悪い夢だったのですから」 誰かが言った。 青々としたもみの木が、白みがかった灰色の空へ向かってまっすぐに伸びている。天辺には金めっきの星をつけていて、枝に巻き付けた電飾がぴかぴかと夢のように光っていた。 イベント広場に集まった子供たちが、先を争ってクリスマス・ツリーにオーナメントを引っ掛けている。それを少し離れて羨ましそうに眺めている、ひとりぼっちの子供がいた。 彼はなにも持っていなかった。本当は、さっきまでは、虹色のオーナメントがポケットの中にあったのだ。広場の入り口で付け髭のサンタクロースに配られたそれは、特別にきらきらと輝いていて、光を透かして色を変えていく立派なものだった。 しかし彼には、自分がほかの子供たちの楽しそうな遊びの輪の中に入っていくのが、ひどく不吉に思えてならなかったから、ごみ箱に捨ててしまった。 強い木枯らしが吹いて、子供は小さな悲鳴を上げた。 どこからともなく一人の青年が現れて、もう随分長い間長衣のポケットに入っていた虹色のオーナメントを子供に差し出した。子供はとろりとした木の実を思わせる瞳を丸くした。 「それ、ぼくが捨てたやつ。どうしてお兄さんが持ってるの?」 「こんなに綺麗なのに、捨ててしまったんですか? 貴方の気には入らなかったのでしょうか」 「違うよ。だって。――」 子供は、賑やかにはしゃいでいる同年代の子供たちを振り返った。黙り込んでしまう。世界と自分との間に、すでに修正し難いずれを感じているのだ。青年は、本当はその理由を知っている。 「貴方はデュエルが好きですか」 「ううん。嫌い」 子供は戸惑いを浮かべて頭を振った。 「デュエルをしたら、みんなぼくのことを嫌いになっちゃう。ぼくは誰かを傷付けるデュエルしかできないから、だから。大嫌いだよ」 「そうですね。俺も、――嫌いです。最初からあんなものがなければ、誰も傷つかなかったでしょうから」 「お兄さん、へんなの。ぼくみたいな子供にそんな丁寧な言葉を使うなんて」 「おかしいですか?」 「うん、へん」 「ただ、貴方を尊敬している。それだけのことですよ」 「へんなの、やっぱり。お兄さんなのに、なんだかお爺さんみたいだし」 子供は沈み込んでいた表情をぱっと明るくして、無邪気に笑った。久しぶりに他人と普通の話をすることができて嬉しかったのだ。 青年が、いつか誰かがどこかで目の前の子供を攫ったように、手を伸ばした。 今回は小さな頭の上に置くだけだった。髪を撫でられると、子供は猫のように目を細めた。 青年の心臓部はすでに停止している。限りなく人に似せてあった鼓動はもうない。じきに、もとの物言わぬくず鉄の塊に還るだろう。 あるいは、あの老いぼれた神が寝入りばなに起こされて、また静かな眠りにつくことがかなわず、がっかりしながら、彼のがたがきた居城で間違った計算式をやり直すとすれば、青年は初めから存在しなかったことになるだろう。 子供は攫われない。遠い未来に見捨てられた古城に囚われ、滅びに絶望することはない。 青年は安堵した。これでよかった。 青年は彼の不利になることは決してない。 「貴方はきっと、奴に、同じだと言ったんですよね? 同じ眼をしていると。奴は恐ろしかったと思います。不動遊星になったあの男が、遊城十代さん、絆を振り切って走り続ける貴方と同じ眼をしているはずがない――だから貴方の眼を抉らないわけにはいかなかった。孤独が生む渇望こそが力の源だった。憧れた英雄とは真逆の存在だと、貴方と同じだと知りたくなかったんです、あいつは……本当の俺自身は。 あいつは貴方たちとならできると思ったんです。今度こそ未来を救えると信じた。でも、だめだった。あいつは不動遊星ではなかったから、貴方たちと遊星の間を繋ぐ絆の力は、あいつのものにはならなかった」 「言ってること、難しくてわっかんないよ」 「はい」 空からうっすらと輝くものが降りてくる。子供は急に飛び上がって、天に向かって抱擁するように両腕を広げた。 「雪だよお兄さん!」 「これが。初めて見ました」 「見たことないの。じゃあ、暖かいところの人なんだ」 白い綿に似た冷たいものが、青年の頬へ落ちたそばから水滴に変わり、顎を伝っていく。なんとも不思議な現象だ。子供が青年の濡れた頬を見上げて、「泣いてるみたい」と言った。青年は苦い笑みを浮かべた。本当に泣いてしまいたかった。 「もう行かなきゃ。今日、パパとママが帰ってくるんだ」 「それはよかったですね」 「うん。またお話してね、お兄さん」 「ええ、きっとまた会いましょう」 子供は背中を向けて、転がるように駆けていく。これから久しぶりに会う両親に甘えて、大人になれば忘れてしまうような、他愛もない団欒の時間を過ごすだろう。屈託のない無邪気さで手を振った。 青年は手を振り返して、かすかに微笑んだ。 「――愛しています」 誰にも届かない声で呟いた。 子供がもう一度振り向いた時、黒い髪の青年の姿は、雪が溶けるように消えていた。 【ゾーンミニオン:終わり】 |
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−「ゾーンミニオン…arcen・安住裕吏
11.11.22〜12.3.10」−