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7 決闘王の手で束ねられた神々のレプリカカードが、来週から童実野美術館で公開される。〈オシリスの天空竜〉、〈オベリスクの巨神兵〉、〈ラーの翼神竜〉――街じゅうが伝説のモンスターの噂で持ちきりだった。 デュエルモンスターズの創造主であるペガサスは、〈三幻神〉のカードを見世物にすることを嫌っている。デュエル・アカデミアの要請でさえ承知しなかった彼が、三体の神の展示を許したのは、オリジナルの持ち主がそう望んだためだった。 武藤遊戯。決闘者の王国でペガサスを下した初代決闘王だ。 ヨハンは遊戯の、決闘のさなかに鋭いガラスの剣に豹変する姿が想像もつかない、人のよさそうな微笑を思い浮かべた。 世界最強の決闘王に抱くにはずれた感傷だと思うが、遊戯は子どもたちの乱暴な手が伸びてきても、摘まれるにまかせる優しい植物みたいだった。 あの男は、人が手にするには大きすぎる〈神〉の力が、災いを呼ぶ性質のものであることを理解しているはずだ。その上で、この世のありとあらゆる人々は愛しあい、いたわりあって生きているのだと本気で信じているのだろうか。 決闘王の威光を知る者すべてが善人だとは限らないのだ。 ホテルの客室で、ヨハンはサンドイッチをつまんで口を開けたまま、携帯端末を見つめていた。画面に映るペガサスに、普段の品の良い微笑はない。 「昨夜から、神のコピーカードの行方が知れまセン」 「伝説の〈三幻神〉が、誰かに奪われたってことですか」 研究のために保管されていた複製品とはいえ、人知を超えた力を宿した神の写し身が封印から解き放たれたなら、何が起こるかは分からない。 「現在、我が社が全力を挙げて調査をしていマス。ユーに忠告デス、ヨハンボーイ。〈レインボー・ドラゴン〉もまた、神と呼ばれる特別なカード。ユーのカードにも、再び異変が起こるかもしれまセン。くれぐれも用心しなサーイ」 あくまでいつも通りの口調を崩さず、ペガサスが隻眼を閉じた。 家族をくれたペガサスや、憧れの決闘王の一大事だ。指をくわえて見ているわけにはいかない。 「なにか手助けをしたい、会長。俺の宝玉獣たちが力になれるはずです。それに、今は近くに十代がいる」 「あの十代ボーイが」 ペガサスが、仄白い朝焼けの光を見たような表情になった。 遊城十代。困っている人間を探しながら世界中を飛び回っている、お人よしの正義の味方。事情を話せば、必ず力を貸してくれる。 「神のカードに愛されている十代ボーイなら、心強い助けとなってくれるでショウ」 「え。初耳です」 〈三幻神〉のカードを操れるのは、古代文字で記されたテキストを読むことができる決闘者だけだ。古の因縁に導かれし決闘者、武藤遊戯。海馬瀬人。マリク・イシュタール。神に選ばれた錚々たる面々。 ドロップアウト・ボーイと呼ばれていた十代に、失われた神官文字を理解できるとは意外だ。 ペガサスはヨハンに、最高位の神格を持つ〈ラーの翼神竜〉が盗まれた事件の話を聞かせてくれた。数年前に、〈神〉のコピーカードを盗んだ犯人がデュエル・アカデミア本島に逃げこんだ。ペガサスに代わって犯人に決闘を挑んだ十代は、その澄んだ心を神のカードに認められた。 「あのラーが、十代ボーイに微笑んだのデース。孤高の神のあれほど優しい表情を、私は生涯忘れることはないでショウ」 十代の勇気が、かたくなに閉ざされた〈神〉の心を開いた。 ヨハンは親友を誇らしく思ったが、うまくはまらないパズルのピースを見つけたときのようでもある。 ペガサスは、十代のカードを愛する心が神の怒りを鎮めたのだと語ったが、精霊たちへの想いの力ならヨハンも十代に負けてはいない。それならヨハンに、あの〈三幻神〉のカードが扱えるだろうか。決闘に敬意を払う世界中の無垢な子どもたちが、〈ラーの翼神竜〉を従えられるだろうか。 ――何かがずれていないか? 複製品とはいえ、〈ラー〉は決闘者の不敬を裁きの炎で贖わせてきた、血塗られた伝説を持つ神々の一柱なのだ。神が遊城十代の手を取った理由は、はたして、本当に十代の純粋さにあったのだろうか。 ![]() 日本は、年中太陽の光に恵まれた楽園だと本で読んだことがある。ヨハンは肩を縮めて、薄手のジャケットの袖を握りこんだ。そんなことは嘘っぱちだ。
童実野町は、厚い雪の層に閉じこめられていた。街の中心に腰を下ろした寒波が、交通を麻痺させている。ヨハンは、前を歩くレオンのあとを、餌をねだる野良犬のように辿っていった。はぐれてはたまらない。 「市街地で遭難したなんて信じられない電話をかけてくるのは、ヨハンくらいのものだよ」 レオンが、僅かばかりの怒りをこめた視線を、ヨハンに投げてよこした。 「きみの方向音痴には同情するけど、忠告しておく。決闘のルールテキストやタクティクスよりも、まず地図を読めるようになるべきだ。僕もペガサス会長も、とても心配したんだからね」 「助かったぜ。レオンが見つけてくれてなきゃ、俺は危うくあこがれの聖地で凍死するところだった」 「もういいよ。本当を言うと、決闘王に会える口実ができたのは嬉しい」 レオンはゴアテックスのフードの下のぶどう色の髪をいじって、そばかすの浮いた頬を赤らめた。ヨハンの友人のうちでも、レオンハルト・フォン・シュレイダーの決闘王崇拝は、特に処置のしようがない部類に入る。 ヨハンは携帯を開き、留守番電話に何度目かの伝言を入れて、前の夏の旅行写真を登録してある待ち受け画面を睨んだ。ヴェネツィアの船着場に立ったヨハンの隣で、親友が笑っている。 「その子がヨハンの自慢の日本人の友だちかい」 レオンが、ヨハンの携帯を覗きこんできた。 「本物のヒーローさ。かっこいいんだ。いつも俺を助けてくれる」 十代に電話が繋がらない。今日は鉄道が使い物にならないから、迎えにきてもらおうと考えていたのだ。 宙を舞う氷の粒が、ヨハンの両目を叩いている。小さな刺激は、微弱な電流に変わっていく。 いやな予兆だ。異世界から戻ってから、時折、誰かの虹彩のかけらを透かして俯瞰したような世界に誘いこまれることがあった。 雪の層が石灰岩の大地に変貌した。ヨハンの前に二体のすずの兵隊人形がやってきて、玩具の剣で決闘を始めた。影がスライドする。動きは単調で、どうも右手と左手の喧嘩ごっこのように見える。 人形たちの闘いに決着がつかないうちに、幻は風船がはじけ飛ぶように消え去った。レオンが不思議そうに振り返ってきている。 「どうしたの、ヨハン」 ヨハンにもわからない。ただデッキがざわめいていて、何かが起こるのがわかった。 吊り天井に似た雪雲に、一筋の線が入った。凍りついた空気が踊りだす。しけった冬を切り裂いて熱い風が吹き、鮮やかな青と濃灰色のマーブル模様の空が、視界いっぱいに広がっていく。 錆びた歩道橋のむこうに、金色の光の柱がそそりたった。ヨハンのデッキから、強い恐怖が伝わってくる。輝きの向こうに、姿かたちも定かではないが、宝玉獣を怯えさせるほどに強大なモンスターの気配がある。 「あの光の柱の方角、双六さんのお店があるほうだ」 レオンの声はかすれていた。溶けた雪でぬかるみはじめた歩道を、ヨハンは駆けだした。 〈亀のゲーム屋〉は、以前にヨハンが訪れたときとは変わり果てている。 緑色の屋根の一部が崩れて梁が丸見えになり、店の床は割れたガラスに覆われていた。希少なカードが、泥水を吸ってタイルに貼りついている。 「誰か、なかにいませんか。双六さん、遊戯さん――十代、どこだ?」 ヨハンの呼びかけに応える者はいない。乾いた熱風がデュエルモンスターズのカードを攫い、散った花びらのように降らせている。見覚えのあるカードを捕らえた。 ――〈エレメンタルヒーロー ネオス〉。 背中を預けるに足る相棒として、あるときは手ごわい好敵手として、何度もそのモンスターと決闘を共にしてきたヨハンが見まがうはずがない。ネオスペースからやってきた、宇宙の平和を守るために戦う光の戦士だ。 ネオスは世界に一枚しか存在しない特別なカードで、遊城十代のデッキのエースだった。 「おまえたちのマスターは。ネオス、十代はどこへ行ってしまったんだよ」 ばらばらになった十代のデッキからは、あるべきはずの精霊たちの気配が消えていた。 くずれた廊下の先から、かすれたうめき声が聞こえてきた。ヨハンとレオンは顔を見あわせる。 小さな居間に女性が倒れていた。三十代から四十代ほどに見えるが、日本人の年齢は見た目ではよくわからない。焦げた毛布でくるまれた肩を抱きあげると、うっすらとまぶたを開いた。 ヨハンの顔を見ると、驚いたようだった。 「ヨハンくん」 「俺を知っているんですか」 女性の意識は定まらす、触れた身体が熱い。命に別状はなさそうだが、早く病院で診てもらうべきだ。 「道路は使いものにならない。救急車は呼べないから、背負っていくしかないね」 レオンが言った。 8 眩い世界に落っこちていく夢を見た。そこはあたり一面に清潔な光が溢れていて、触れたところから身体が泡のように溶けていく。おとぎ話のひよわな悪魔みたいに、自分が消えてしまう。 いやな夢だ。 ベッドの上で目を開いたとき、しばらく呼吸ができなかった。上半身を起こす。頭がずっしりと重い。今日この世界で、悪夢にうなされて気だるい朝を迎えた人間は、どのくらいいるだろう。 シーツをめくると、薄っぺらいパステルカラーの下着をつけているだけだった。前開きで、レースの縁取りがくすぐったい。たしか、ベビードールというのだったと思う。ひどい違和感が頭をもたげた。 ヘッドボードとサイドテーブルは、家族の愛で満たされた子どもが迎えたクリスマスの朝のように、リボンつきのギフトボックスでいっぱいだ。まどろみと夢の重力を受け止めてくれた天蓋つきのベッド、窓の木枠にからみついたのうぜんかずら、ぬいぐるみと猫脚の家具と赤いカンナの一輪挿し、マシュマロとキャンディでいっぱいの藤かご――ここは誰の部屋だ? たとえば、少女という生き物に甘い幻想を抱いた何者かが組みあげた、ままごとのための家だ。 扉がノックされた。廊下に、背広を着た中年男が立っている。 熟練のフットボール選手を思わせる広い肩幅と浅黒い肌をしていた。几帳面にひげを整え、前髪を額の上でにわとりの尾羽のように反り返らせている。えもいわれぬ懐かしさがこみあげてきた。 「父さん?」 反射的に、言葉が口をついて出た。しかし、すぐに人違いだと思い直した。 「私はお父さんに似ているのかね」 男が優しく言った。 「わからない。覚えてない」 思考がまとまらない。頭が鈍く痛む。自分が、誰なのかも思い出せない。 「かわいそうに。きみはアイドルなのだよ。朝食はとれるかね。話はそれからにしよう」 男は首を振り、悲しそうに目頭をおさえた。 ![]() ひげの男はテラスのテーブルに手際よく食器を並べた。ストレーナーごしに熱い紅茶をカップに注いでいく。
「目を覚ましてくれてほっとしたよ。具合はどうかね。私が見たてた洋服は気に入ってもらえただろうか」 「これ、あなたが用意したんですか。えっと……」 「私は大門という、お嬢さん」 大門は大皿のパンケーキを切り分けて、チョコレートシロップをたっぷりかけてすすめてくれた。甘い香りがしたが、空気のかたまりを食んでいるみたいに、味がしなかった。 紅茶に口をつけた。やはり何の味もしない。色水を飲んでいる気分だ。 「花やらぬいぐるみやらプレゼントボックスやら、キャンディやらマシュマロやらそういうものを、年ごろの女の子は大好きだろう。もちろんリボンつきの洋服もだ」 大門が用意したレースとリボン飾りがついた黒いワンピースは、女子小等生のピアノの発表会にはぴったりだろう。着なれたジャケットとジーンズが恋しかった。 目が覚めてからも、記憶の混乱が続いていた。自分の名前は、デッキ構成は、家族の顔や性別は? 紅茶の香りの湯気に包まれて、ヒントも解答欄もないクロスワードパズルに挑んでいた――名前は遊城十代。次の夏で二十歳になる。デュエル・アカデミア卒業生。 今は決闘王の実家に居候をしており、家の玄関を出ていく遊戯の背中が最後の記憶だ。 「この家は童実野町からどのくらい離れているんですか。急いで戻らなきゃならない気がするんです」 「可哀想だが、きみはもうここから出られない。私はまっとうなサラリーマンだったが、悪い経営者に騙されて、長年過ごした童実野町からずれたこの場所へ閉じこめられてしまった。のどかな景色に見えるが、地獄だよ。変わらない暮らしが記憶を少しずつ崩壊させていく」 大門は、ローマの万神殿を連想させる造りの屋敷を力なく仰いだ。 「大門さんは社長に裏切られたのか。悪い会社があったもんだな」 「信じていたものに見捨てられたという点では、我々は同じなんだよ。おじさんはきみを見ていると、自分のことのように胸が痛くなる」 「よくわからないけど、大門さんが見ず知らずのオレに親切なのは、同情してくれているからなのか」 「見ず知らずなどであるものか。きみは大切な友だちだ。だから厚意からの忠告だよ。ずっとここにいたまえ。屋敷の外は危険だ。我々を喰うやつがうろついている」 「熊か虎でも出るみたいな言い方だな」 大門は、不健康に落ちくぼんだ目を細めた。 「正しくは我々の記憶を喰う魔物だ。食い殺される者にとっては、熊も魔物も同じだろうがね。目が覚めたときの記憶の欠落を思いだすんだ。きみは危うく化け物の餌になるところだった。人の肉の味を憶えた熊は、どこまでも獲物を追いかけてくる。身の安全は私が保証するから、余計なことを考えずにおとなしくしているんだ。いいね」 大門は、洗濯機のセールスマンのような笑顔を浮かべた。 屋敷のまわりは深い森に囲まれていて、屋敷と森を隔てる真鍮の門扉はかたく閉ざされている。 ![]() 午後になって、十代は文化財ものに風格のある屋敷をさまよい歩いた。無数にある部屋を覗いていくうちに、応接室の壁に飾られている色褪せた写真を見つけた。
ポロシャツ姿の中年男が、ゴルフのトロフィーを掲げて写っている。見覚えがある顔だった。 海馬コーポレーションの前社長だ。海馬瀬人の父親。幼い頃にテレビで訃報を聞いた。 大門を利用したというのは、この男なのか。 灰色の光が射しこむ格子窓の外を、わたぼこりに似た黒い影が横切っていった。ちょうど腕に収まるくらいの大きさで、短い手足をして、羽根を生やしている。 ――ハネクリボーだ。 パートナーの精霊は主の姿に気がつかず、閉ざされた門を越えて黒い森に滑りこんでいった。 ハネクリボーを追って足を踏み入れた森は、つくりものめいた草木が並び、くすんだ光で満ちていた。
古ぼけた影絵のなかへ吸いこまれてしまったようだ。虫の羽音や鳥のさえずりさえ、録音された環境音に聞こえた。木々の茂みに溶けこむように消えてしまったハネクリボーの姿を追っていくうちに、鮮やかな赤い光が見えてきた。 森の奥で、黒のBMWが太い蔦に宙吊りにされて炎上していた。 密集するミズナラの木々の下に、気を失った女が倒れている。 女を抱えて燃える車を離れた十代は、赤い光に照らされたその顔に息を呑んだ。 真崎杏子。武藤遊戯の幼馴染だ。決闘王にとっての特別な女性。 ――こんなところでなにをしている? 細身のバングルで飾った杏子の手首をとった。目立った傷は見当たらないが、肩口でそろえた黒い髪の先が焦げて縮れてしまっており、あとでいくらかはさみを入れなければならないだろう。 ニットのスカートとケーブルセーターは穴が開いていたが、ストッキングだけは奇跡的に無事だった。 杏子が赤い唇を震わせ、薄く目を開いた。 「杏子さん。しっかりしてください」 「車」 「はい?」 「私の車ってどうなっちゃってるかしら」 BMWの燃料ポンプが爆発した。炎が乾燥した森を喰い荒らしはじめる。 「ご覧のとおりです。すみません、諦めてください」 「ついてない……。今のは買ったばかりで、すごく気に入ってたんだ」 「杏子さんが無事でよかったですよ。大丈夫ですか。どこか痛みませんか」 「道路を走ってたら、いきなりペンギンが飛び出してきたの」 「はあ。ペンギン」 「私、苦手なのよペンギンって。それよりも、あなたが助けてくれたのね。おかげでなんとか生きてるみたい。感謝するわ。えーと……」 杏子は、公道を歩くペンギンと同じくらいにありえないものを見たように、目を丸くした。 「カンナよね、あなた。神月カンナ」 ――そこでようやく十代は、大門が用意した少女趣味のワンピース姿のままだったことに思い当たった。 杏子が親しげに手を差しだした。モクバが作ったアイドル少女の着ぐるみの中身が、武藤家の居候だとは気付いていない。 遊戯の大切な女性に嘘をつきたくないが、特殊な趣味の人間だと思われたくもなかった。どうすればいい? 「うれしいわ。ずっと会いたかった。あなたと話をしたくて、この国へ戻ってきたんだ」 「オレとですか?」 落ちついた青い目が、軽く見開かれた。十代は慌てて言い直した。 「わ、わたしと」 「そう。遊戯とモクバくんがグルになって、私をカンナちゃんに近づけないようにしてるみたいなんだけど。知ってるでしょ、武藤遊戯。決闘王。理由はなんなのかな。例の騒動のせいってわけでもなさそう。そんな話、今に始まったことじゃないし」 「騒動って、なんのことですか」 「ゴシップ誌やワイドショーじゃ、遊戯とあなたが熱愛発覚って噂になってる」 「ね、熱愛発覚!?」 声が裏返ってしまった。夢のような話だが、遊戯の耳に噂が届いたら、どんな顔になるだろう。青ざめた十代を、杏子が面白そうに見ている。 「記事が気になるなら、私のかばんの中にある雑誌をあげる。……あ、だめだわ。車といっしょに燃えちゃったんだった」 「そ、そうですか。惜しいですね……」 「あなたの気持ちのほうは、本物みたいね」 「へ? べ、べつにそういうんじゃ。ないです、はい」 下手なごまかし方だ。顔が火照ってきた。杏子のくすくす笑いが耳にむず痒い。 「嘘が下手ね」 人の心を食い物にする悪魔が、人に弄ばれている。口をとがらせて、エナメル靴の先で地面をひっかいた。 「もしかして、遊戯さんを取られたと思って怒ってますか」 「なんでそうなるわけ」 「あの人もです。怒ったときは、そうやっていつもよりちょっと意地悪になる」 「大人をからかうもんじゃないわ……まあ、妬いてないって言いきれないのは、くやしいかな」 「杏子さん」 「誤解はしないで。昔、全力で好きになった人がいたの。彼は今の遊戯にそっくりだったわ。似すぎているから、私は遊戯をあの人の代わりにしようとしてしまう。お互いどこへも行けなくなるの」 「誰かの代わりって、そんなに悪いことでしょうか。オレならその誰かになります。身も心も」 「どちらにも失礼よ。それは」 杏子は十代から目を逸らした。遊戯にもそうされたことがある。 答えにくい質問を何度も繰り返す子どもに対して、大人はそうするのだ。 「ごめん。あなたって綺麗ね」 杏子が言った。 森の果てにそそり立った崖の上には、童実野町へ続く道路が伸びている。十代は、ミニスカートを穿いて崖を登りはじめた杏子の勇敢さに感心した。柔らかい曲線を描く後姿に、アカデミアの女王と呼ばれていた友人の姿が重なる。杏子は明日香にどこか似ていた。
ちくり。頬に冷たいような、熱いような刺激。画鋲の針でひっかいたような痛みがはしった。 どこにも傷はない。 また、皮膚にガラスの粒のようなものが刺さる。十代は、それが杏子から零れ落ちた心の闇の欠片だと気がついた。ちらめく雪のように、無防備な思考が降り注いでくる。 ――まったく、いい大人が、十代の子どもに本気で妬いてるっていうの。どうしちゃったのよ。私はカンナと仕事の話をしにきたはず。遊戯のことは関係ないじゃない。 あの遊戯の好意に値する人間だけあって、真崎杏子の抑圧と否定で包んだ嫉妬は、おあずけが辛いくらいにおいしそうだ。杏子が振り返った。心臓が止まりそうになる。 「カンナちゃん。おなかすいてるの」 「い、いえ。そう見えましたか」 「飢え死にしそうなところに、空からごちそうが降ってきたみたいな顔してた。ハードなダイエットしてるんじゃない。無理ばかりじゃ長続きしないよ」 「は、はい……」 顎を伝っていたよだれを袖で拭く。泣きだしたいくらいに恥ずかしかった。 道路に辿りつくと、理由は知れないが、中央線の上をペンギンの群れが行進していた。にぎやかなモノクロの集団を眺めて、杏子の話が冗談ではなかったのだと悟った。 「最悪にいやな予感」 杏子は顔をしかめている。 「さっきペンギンが苦手だって杏子さんは言ってましたけど、オレはけっこう好きです。ペンギンって親子の仲が良いんですよね。子どものころは両親が仕事で忙しくてなかなか家に帰ってこなかったし、ふたりが顔をあわせたら喧嘩してばかりだったから、羨ましかったな」 杏子は鳥肌をたてて、十代を怖々と見た。 「ねえ、海馬ランドにペンギンは必要だと思うかな」 十代は、杏子の意図がわからないまま、頭を振った。 「〈青眼の白龍〉にペンギンは釣りあいませんね。パンダのほうがまだましかも」 「そうよね。安心した」 無邪気な黒い目をしたペンギンたちの行列は、十代と杏子をどこかへ導いているようにも見えた。 「いよいよ怪しい」 「ペンギンですよ。こんなにかわいいじゃないですか」 十代は、顔を半分引きつらせている杏子をなだめながら、一羽のペンギンの前にしゃがんだ。 「昔、猿と決闘したことがあるんです。動物は嘘をつかないし、約束を守ってくれる。自分よりも大きな相手に悪さはしませんよ」 懐っこい仕草で突きだしてきた頭を撫でてやり、首筋のうしろで囁いた――おまえさ、闘う爪も牙もないくせに、このオレをはめようってのか? ペンギンが飛びあがり、見た目よりも素早い動きで逃げ出した。人間の言葉はわかるようだ。 「カンナちゃん、遊戯と連絡がつかないかな。私の携帯電話は車と一緒におしゃかだし。ああ見えて遊戯って、こういうとき頼りになるんだから」 「携帯はオレも……あ、わたしも持ってません」 「いいわよ。それが本当のあなたの話し方なら、私は気にならないわ。私は今、カンナちゃんとできるだけいい関係になりたいって思ってる。映像や写真じゃわからない、本当のあなたを知りたいの。だから気を遣うことなんかないよ」 「連絡はできませんけど、遊戯さんは童実野病院へ向かったはずです。武藤の家を出られるときに見送りましたから」 「遊戯の家にはよく行くのね」 詰問するようなトーンになった声に、杏子自身でも驚いたような顔をしている。 感情表現が素直だ。 もともと嫉妬深い女性なのか、遊戯に向けた複雑な感情が暴発寸前のところへ、十代が無遠慮に指を突っこんでしまったのか。どちらかは知れないが、誤解を受けたままで遊戯の立場を悪くしたくない。 十代は、杏子についた嘘をいくつか諦めた。 「いとこなんです」 杏子はもちろん信じていない。十代のほうこそ自信をなくし、うなだれた。 「いとこみたいなんです」 「なに、みたいって」 「遊戯さんも、双六じーちゃんもママさんも、オレの両親や子どものころのオレのことをよく知っているんです。でもオレ自身にはぜんぜん覚えがない。最近になって、急にあこがれの決闘王のいとこだったって聞かされても実感がわかなくて」 杏子は狐につままれたような顔をしている。 「え。本当に遊戯のいとこなんだ」 「はい、どうやらそうみたいなんです」 間の抜けた会話だ。 「じゃあ、十代くんはカンナちゃんのお兄さんになるのかな。そういえば顔も喋り方もそっくりだわ」 「それはともかく、なので、変な誤解はよしてください。遊戯さんは、今でも変わらず杏子さんを愛しています」 「なにそれ。遊戯の入れ知恵じゃないわね。おじいさん?」 「はい。遊戯さんは、子どものころから杏子さんを想い続けてこられたって聞きました」 「つきあってらんない。あなたのおじいさんの話は、鵜呑みにしないほうがいいよ。想像が八割、憶測が二割」 「全面的に信用ならないってことですよね」 「ワイドショーの見すぎなのよ、あの人。暇なの。それより病院か。遊戯、風邪でもひいたの?」 十代は杏子に、童実野病院からかかってきた電話の話をした。友人に何かがあったという内容だったらしいこと、それを聞いた遊戯が顔色を変えて吹雪のなかを一人で出かけたこと。 「妙なことばかりね。不思議といえば、カンナちゃんはなんであんな森の奥にいたの」 「人を食う魔物に襲われてたオレを、森のなかの屋敷に住んでる大門って人が助けてくれたんです。どうも記憶が曖昧で、よく覚えていないんですけど」 「どんな人なのか聞いてもいいかな」 「背広を着ていて、髭が生えてて、ラグビー選手みたいにごつい――」 「とさか頭のおじさんじゃなかった?」 十代はまばたきをして、杏子の渋面を見つめた。 「大門さんを知っているんですか、杏子さん」 「二度と関わりたくない知りあいのひとりよ」 杏子は頭を抱えている。 ペンギンたちの鳴き声が止んだ。〈大寒波〉に〈猛吹雪〉。デュエルモンスターズが展開される気配。 道路が恐るべき速度で凍りついていった。罅割れた地面から氷山が生え、濃い緑色の森と人工的な道路が消失した。あたりは一瞬のうちに、太陽に見放された南極の光景に変わり果ててしまった。 「ようやく見つけましたよ。神月カンナ十六歳。きみをずいぶん探しました」 サーカスの興行師のいでたちの四つ星モンスター、〈ペンギン・ナイトメア〉が現れた。シルクハットをかぶって、子分のペンギンたちを従えてふんぞりかえっている。 「真崎杏子二十九歳もいっしょですか。これは都合がいい」 杏子が、見た目にそぐわない下品なうめき声をあげて舌を出した。青い眼がペンギンを睨みつける。 「ペンギンたちを見たときから嫌な予感はしてた。あんたはもうずっと昔に消えちゃったはずよ、スケベオヤジ」 「知りあいなんですか?」 「海馬コーポレーションの元お偉いさんらしいけど、女の子に下品なことばかり言う最低なやつ。あなたが会った大門とグルよ。自分から喧嘩を吹っかけてきておいて、ゲームに負けて身体をなくしたのが私たちのせいだって、逆恨みしているの」 〈ペンギン・ナイトメア〉の姿をしているのは、元はBIG5と呼ばれた海馬コーポレーションの重役のひとりで、大瀧という人間の男だという。 今から十数年前、BIG5は自分たちを放逐した海馬瀬人を恨んでいかさま勝負を挑み、返り討ちにされて実体を失った。どこにもいない存在になってしまった彼らは、海馬瀬人とその仲間たちに復讐するために、若い肉体を奪おうとバーチャル世界へ引きずりこんだ。 海馬家のお家騒動に巻きこまれた杏子は、大瀧にゲームを挑まれたことがある。決闘に敗北してなお、力ずくで身体を手に入れようと襲いかかってきた卑劣な男だが、最後は彼らの憎しみを利用していた者の手で消滅させられた。 ここにいるはずのない〈ペンギン・ナイトメア〉は、つぶらな肉屋の目を杏子と十代へ向けた。肉体のパーツごとに値札をつけていく視線。杏子に向かって鼻を鳴らし、十代には揉み手をしながら相好をくずした。 「真崎杏子二十九歳。そんなに鼻息を荒げない。私に再会できて感激するのはわかりますが、歳相応のふるまいをなさい。――神月カンナ様。あなた様は大門から、外へ出ないようきつく言いつけられていたでしょう」 「なに、その態度の変わりよう」 「きみのような大衆に消費されるだけのまがい物よりも、そのお方は余程すばらしい存在なのです」 「あんたたちは誰かを持ちあげて、引っぱっていってもらわなきゃどこへも行けない。その様子じゃ、海馬くんや乃亜の次はカンナちゃんの太鼓持ちになろうって魂胆ね。この娘を利用して、なにを企んでるの」 「真崎杏子二十九歳、きみの望み通りのことだ。その熟れた肉体を私が手に入れて、カンナ様にお仕えするのです。本当はその方のわがままを聞いてさしあげたい。しかし、カンナ様が海馬乃亜や瀬人のような人でなしになってしまっては困る。不肖この私、海馬コーポレーション元取締役兼人事部長、大瀧修三永遠の五十五歳、愛の鞭を振るって正しい道へ導いてあげましょう」 「カンナちゃんには、あんたみたいな下品なペンギンの指一本触れさせないわ。私はこの娘をアメリカへ連れてく。ブロードウェイには、彼女がもっと輝ける未来があるわ」 「え?」 アメリカもブロードウェイも、十代には晴天の霹靂だ。大瀧が、黄色いくちばしの端を意地悪く上げた。 「真崎杏子二十九歳。相も変わらず自分の意見を他人に押しつけてばかり。きみはカンナ様の夢にも配慮をすべきだ。彼女がもし、ごく普通のお嫁さんになりたいと望まれていたらどうです?」 「それがなんなの。カンナちゃんが仕事を辞める理由にはならないわ」 「このお方は暖かい家庭に憧れている。真崎杏子二十九歳、何不自由なく育てられたきみとは違うんです」 大瀧は、自分には何もかもがわかっているんだという口調で言った。 星四つの低レベルモンスター〈ペンギン・ナイトメア〉に、人の心を読むほどの力はない。ただ思いこみが激しいだけの人間だ。 十代は大瀧の突拍子もない妄言よりも、その在り方に興味を抱いた。半人半精の異形の者にしては中身の混ざり方が半端だ。どこかの悪趣味な誰かが、人と精霊を遊び半分にこねて作った粘土細工というところか。 「真崎杏子二十九歳、きみは挫折を乗り越えて強くなった自負を誇りと呼んでいますが、カンナ様ときたらオーディションの苦労も知らないんです。圧倒的な経験の差があるのに、不思議ですよねえ。なぜ未熟なはずの彼女が、きみに無いものを、欲しくて仕方がないものを全部持っているんでしょうか」 ペンギンの群れが、尻を振りながら杏子を囃したてた。 「カンナ様には未来がある、まったくそのとおり。名声がある。今や決闘王の寵愛さえ彼女のもの。逆にきみときたらもういい年で、そろそろ家庭に入って、良い妻、良い母親になりたいと考え始めているころだ」 「それって、時代劇みたいな考え方ね」 「きみと考え方が違う相手の考えを、尊重したことはありますか。きみは強引すぎます。だから遊戯やモクバは、身勝手な真崎杏子二十九歳よりも若くてかわいいカンナ様の味方をする。学生時代の友情なんて、社会に出たら何の役にも立ちません。友だちはきみを助けてくれない。あの日もそうでしたよね。役を取るために身体を売ったあなたに、手を差しのべてくれる友だちはどこにもいませんでした」 ペンギンは得意そうにつるつるの顎を撫で、蝶ネクタイを引っぱって整えた。傍観していた十代は、杏子の顔を覗きこんだ。大瀧の言葉は本当なのか。 「未遂よ。結局断ったんだから」 押し殺した声。青ざめて、拳を握りこんでいる。大瀧は杏子の反応に満足し、退化した翼を羽ばたかせた。 「でも一瞬でも思ったんでしょ。今、ほんのちょっと我慢すればいいだけだって。それは売ってしまったことと同じです。真崎杏子二十九歳、きみは遊戯に一番近いカンナ様にも同じ真似をさせるつもりでいる。ぽっと出のアイドル、苦労して培った土台もないくせに、きみの居場所を奪った小娘への復讐として――」 「杏子さんはそんな人じゃない」 十代は、よく喋るペンギンの言葉を遮った。 「遊戯さんが恰好良い人だって言ったんだ。あの人の憧れを馬鹿にするな」 「カンナちゃん」 大瀧は杏子を見下すふりをしているものの、本心では強い興味を抱いている。とっておきの気晴らしを邪魔されて面白くなさそうな顔をした。 「やれやれ。海馬家の子どもたちよりはましですが、まだまだ生意気ざかりだ。神月カンナ十六歳。そういうことで話をすすめましょうか。私もかわいいギャルを相手にするほうがいいですからね」 杏子が鼻白んだ。認識がずれているが、大瀧が十代の正体を黙っていてくれたのは都合がいい。 彼の人間世界を上滑りした目は、子どものころの十代と同じだ。その目をしている人間の末路をよく知っていた。大丈夫だ、引きあげてやれる。十代には、決闘王が与えてくれた確信がある。 まっすぐ、誰にでも全力でぶつかっていくこと。テレビのなかの武藤遊戯が教えてくれた、他人と繋がりあえる唯一の方法だ。どんな時でも、遊戯に胸を張れる道を選べばいい。 大瀧が腹に生えた柔らかい毛をふくらませるとともに、地中から氷柱が突きだした。透きとおった塊が花のように開き、ささくれた壁になって杏子と十代を引き離す。 十代は薄青いドームの内側に、奇妙なペンギンと共に取り残された。 「スケベオヤジ。あんたの相手は私がするわ。今すぐカンナちゃんを離しなさい」 「大丈夫です、杏子さん。変なペンギンだけど、この人は〈ペンギン・ナイトメア〉のカードを大切に想う心を持っています。デュエルモンスターズを愛する決闘者同士なら、わかりあえないはずはありません」 「あなたはいい子よ」 杏子が叫んだ。 「だけど、誰もがみんなあなたみたいに綺麗な生き方はできないのよ」 折り合いをつけることを覚えた大人が、譲らない子どもを諭す声は、青い氷山に吸いこまれていった。 デッキのない十代の前に、銀色に輝く無数のカードの奔流が現れた。
「好きなカードを四十枚選んで、デッキを作りなさい。よろしいですね」 カードが溢れだす泉のなかに、よく手になじんだデッキの仲間たちの姿も見えた。そこに精霊たちの気配はない。ユベルの囁きも聞こえない。 ユベルは今も十代の心の奥底にいるはずだ。次元さえひとつにする〈超融合〉のカードで結ばれた魂は、二度と離れ離れになることはない。ただし半身は、存在を感じ取ることもできないほど疲れている。 十代も同じく、今朝目が覚めてからは身体が重く、とても腹が減っている。眠りの闇のなかで、いったいなにがあったのだろう。悪夢か。悪夢は毎夜のことだ。 昨晩の自分は遊戯を見送ったあとで、どこでなにをしていただろうか。 ――まあいい。今はペンギン男との決闘に集中しよう。 大瀧はどんなカードを使うだろう。きっと面白い決闘になる。楽しい決闘をすればまた〈元気〉が戻ってくる。 この老人の心の闇は硬くて新鮮さには欠けるがよく乾燥して風味が増しているし腹持ちが良さそうだ。あんなに甘いにおいのする心の闇のそばを歩いていたから食い物のことばかり頭に浮かぶ。おあずけは終わりだ、やっと食事の時間だ――楽しい決闘をしよう。 「カードを選んだよ、おじさん」 「よろしい、では決闘開始です。私の先行だ」 大瀧が、つるつるの手でドローをした。 「きみの愛らしい少女の姿は偽りで、本名は遊城十代十九歳。まぎれもない男です。海馬瀬人が出資したデュエル・アカデミア学園の卒業生で、入学から卒業まで一貫して落ちこぼれの巣窟オシリス・レッド寮に所属。なんとも頼りない人材だ。ふむ、三年次にアメリカへの集団留学を行う――驚いたでしょう、アカデミアのデータベースを覗くなんて軽いもんです」 「集団留学か。そんなになってんだ」 十代はカードを確認しながら言った。〈ネオス〉。ヒーローたち。本物のカードは手元にないが、彼らとの絆は欠けてはいない。 「友だちが行方不明になっちまってさ。どうしても探しにいかなきゃならなかった」 「くだらない。勉強が学生の本分です。友だちなど放っておいて、きみは自分の役目を果たすべきでした」 「したよ。いろんなことを学んだ。たくさんの決闘をして……」 「ありきたりの友情。しょうこりもない達成感。錯覚だ。大人になったら何の役にもたたないものです」 最初こそ十代を持ちあげていた大瀧だが、人からずれた存在になっても、若者に一言言ってやりたくなる癖がおさまらないようだ。くちばしをかちかち言わせて唾を飛ばしている。 「〈ペンギン・ナイトメア〉の姿をけっこう気に入ってるみたいだけど、ペンギンの山の大将を張ることがおじさんの使命なのか?」 「仲睦まじい父親と母親が大切に子どもを育てるペンギンたちは、本当の愛を知っています。私はこれまでの人生で数えきれないほどの動物を見てきましたが、幼いころに水族館で見たペンギンほど、家族の絆の素晴らしい生き物はいなかった」 「そうかな。ペンギンもそう良いばかりじゃないかもしれないぜ。オレが遠い国に留学したって話だけど、そこで学んだことがある。愛を信じて誰かの助けを待ち続けた子どもが、みんな助かるわけじゃない。ペンギンの家族が本当におじさんの理想かどうか――」 十代は、ユベルの悪魔の瞳をきらめかせた。眼球に闇色のフィルムが貼りつく。宝石のレンズが焼けつく地獄の底を覗き、この世に隠された真理を映す。 「おまえが語る本当の愛が、どれほどのものか見せてもらう。ただし、おまえがおまえだという認識はもういらない。そんなものがあったら、結局それは人間のおまえだ」 「年長者に向かっておまえとはなんです。礼儀知らずにもほどがある。これだから最近の若者は……」 「そっちのほうが、オレよりずっと小さいじゃないか」 十代の目の前には、小さなペンギンがいた。 精霊ではない。本物のペンギンの幼体だ。愕然として周囲を見回し――本物の南極の光景、クイーンモードランド、ウィルクスランド、ヴィクトリアランド、マリーバードランドに囲まれた三千万年来の氷の大地の中心に立って、ピョートル一世島を西に、真北にスコット島を望み、恐る恐る十代を見あげてきた。 大好きなお喋りをするくちばしは、もう滑らかに動かなかった。 ただのペンギンだ。絆という人の言葉を知らない、短い寿命を精一杯生きる、野のけだものだ。 「弱肉強食の世界で、誰にも守られずに生きぬけ。牙も爪もなくそれができると思うなら」 十代は言った。 ![]() それからペンギンは逃げ続けた。
子どものころのペンギンは親の帰りを待ち続けていたが、のたのた歩きの両親は、いつになっても戻ってこなかった。同じ境遇の雛たちが死んでいくところを見たペンギンは、群れを離れた。餌を求めて氷の上をさまよいはじめた。 もちろん三千万年の間氷漬けになった最果ての地に、ペンギンの子どもの餌になるものは見つからなかった。やがてペンギンは、爪も牙もなく、やわらかい身体をして足の遅い自分こそが、もっとも〈それ〉に近いことに気がついた。 天敵のあざらしに氷上を追いまわされ、海に潜れば、仲間がシャチの群れに捕まる光景を何度も見た。大きな黒い口の化け物たちは、ペンギンの遺骸をバスケットボールに見立ててゲームに興じた。 仲睦まじい家族は、絆も優しさも肉体も、簡単にばらばらにされた。 その世界ではペンギンは、奪われる側の生物だった。死ぬまで、そして死んでからもだ。ペンギンの家族の仲睦まじさに憧れを抱いていた人間の会社員が、大切に守るべきだと考えていた自然は、容赦なくペンギンから奪い、喰らい、与え、また奪い続けた。 生きるために逃げ惑うペンギンにも、両親の怒声に怯える人間の子どもにも、ある老人が生涯求め続けた愛はなかった。愛は幻想の内側にだけ存在し、まぶたを閉じてまどろんでいる間だけ、頭上の遠いところで星のように輝いている。 目を開くと、あっさりと消えてしまった。 ペンギンは、ひとりで海際を歩いていたときにあざらしに攫われた。身体を食いあさられて死のふちにあるペンギンを、冬の南極大陸の夜空に光る、一対の悪魔の〈眼〉が見下ろしていた。
「おまえは長い夢を見ていたんだな。戦う術もない生き物が、どうやって守りたいものを守るんだ?」 ペンギンは憐れっぽくくちばしを開いたが、喉が破れて声は出なかった。 子どものころは、水族館のプール型水槽のなかに愛があると信じていた。嘘だ。短いくちばしで愛は守れない。力がなければ愛は食い物にされる。力こそが愛で、正義だ。 人の手で小さな生き物の楽園を造り、そこに彼らの愛を見出すことで、愛を制御できると信じたが、実際は老人には何のかかわりもないことだった。そこで暮らすのがペンギンだろうが、いつか憎い誰かが言ったように、白黒のパンダだろうが変わりがなかったのだ――。 数えきれない言葉を散りばめて家族愛を語り続けてきた老人の言葉に、愛は一度もなかった。 「子どものおまえを親は愛してくれなかった。それが最初の痛みが生まれた場所だ。なかったことにしてやりたいと何度考えたっけ。だけどペンギンになってみても、おまえの欲しがっていた愛は手に入らない」 ペンギンは頭上に輝く〈眼〉を仰いで、声にならない声で叫んだ――私は間違っていたのか。いや、うまくやってきたはずだ。私の信念は嘘になってしまったのか。しかし、なにも間違ったことはしてこなかった。 何が悪かったのだ。誰か教えてくれ。私の何がそんなに悪いのか、私にはわからない。 「だってずっと正しく胸を張って、後悔しないやり方でやってきたじゃないかって? そんなくだらない、ごみみてえな誇りが、おまえに痛みを思いださせてくれる」 奇妙に優しい形に歪んだ〈眼〉は、ペンギンに同情と共感を示しながら、敵意と食欲を向けていた。〈眼〉と共感するところがひとつでもある子どもだったものには、その心の闇がいやでも伝わってきた。 〈眼〉はいつかの時代にどこかの街にいた孤独な子どもを殺し、消してしまい、いなかったことにしたがっており、しかし愛が溢れた光の家に暮らす他の多くの子どもたちよりも、その孤独な子どもを愛してやりたがっていた。失われた時代の呪われた子供を救いたがっていた。 何のことはない、自分自身が助かりたがっていた。それが来ないことを知りながら救いを待っていた。 〈眼〉は孤独な子どもたちにだけ通じる寂しいひとり遊びを、十何年も、大人になった今でさえ続けている。滑稽さに思い当たらないのは、当人だけだ。 ペンギンはいつしかペンギンではなくなり、人間の子どもになっていた。凍りついた夜に、子どもは、老人になった未来の自分と向きあっていた。老人は小太りで、髪は脂と整髪料が混じってぎとぎとだった。 老人が息をするたびに、たるんだぶよぶよの肉が上下に揺れた。子どもは老人を見あげて悲しくなった。 「ほんとはペンギンになりたいわけじゃなくて、ペンギンみたいに仲がいいパパとママが欲しかった」 「言うな。そんなものは手に入らなかったんだ」 老人はいらいらしていた。怒った顔が、喧嘩をしているときの両親にそっくりだ。 「私はいがみあってばかりの両親に、なんとか仲良くしてもらおうと努力を続けた。でも、なにを言っても届かなかった。言葉が通じない。気持ちもすれ違ってばかりだ。そんな家族はいないと同じではないか」 「でもパパとママは、ちゃんと迎えに来てくれたじゃないか」 子どもは光の先を示した。 ![]() 今日まで子どもは、ペンギンが聞いたこともないような物音のなかで育ってきた。食器が割れる音、金切り声、怒鳴り声、殴打の音、テーブルがひっくり返る音。毎日休みなくだ。
だから笑顔のパパとママが迎えにきてくれて、優しく手を握られても、肺の奥まで根付いた恐怖心は消えない。ふたりはなぜ喧嘩をはじめないのか? 父親が座りこんで、息子の顔を覗きこんできた。父と目があう。息子と同じ色の瞳をしていた。 今日は、余計なことを言うと大きな体ですごむ父とは違う。とても静かで、凪いでいる海のように穏やかで、名前を呼ばれても心臓が縮むことはなかった。子どもは今なら嵐が来ても生き残れるような気がした。なにか正体のわからない暖かなものが胸のなかに生まれていて、今はそいつが護ってくれている。 「つらい想いをさせてすまなかった。ママとゆっくり話しあって、私たちが間違っていたと気がついたんだ」 子どもは、身のまわりのもの全部を疑ってかかった。どうなっている。誰かが『ドッキリ大成功』って、僕を罠にはめようとしているのかも。 母親もレースのハンカチを目に当て、赤い唇をすぼませて震えながら、子どもの肩を抱いて泣いた。細い髪の束が夕陽の赤い光を吸いこみ、発光していた。眩しい。眼球が光に犯される。 「もう喧嘩をしないわ。寂しかったでしょう。ママは、あなたがいつもペンギンばかり見ていることを知ってた」 「パパもだ。おまえがどこか遠くに行ってしまいそうで、本当は不安だったんだ」 父と母の顔は、憎しみといらだちと後悔で歪んでいない。大きな声を出さない。手をあげない。 今なら、なによりも欲しかった本物の家族が手に入るかもしれない。醒めていた心が、一度大きく脈打った。ひさしぶりに心臓が動いた、息をした。 ――今こそ、世界が変わる最後のチャンスじゃないのか? これまでだってさんざん努力をしてきた。でも駄目だった。思いつく限りの手段を試してもうまくいかず、怒声と罵声のオーケストラは、月が星のまわりを一周して太陽が昇るまで毎晩続いた。 今だ。飛べもしないまぬけな鳥の親子に関わっている場合じゃない。夢に見ていたごく普通の家族を、どうすれば自分のものにできるのかを考えろ。 両親は魔法のように、子どもの苦悩をすべてわかってくれた。それが人間の親で家族なのだと、ふたりの微笑みは語っていた。 「さあ、家へ帰ろう」 父が言った。 「うんパパ、ママ」 ――ペンギンなんてどうでもいいよ。 子どもは震える両手を、高いところにある両親のほうへ差し伸べた。 学校の帰りに公園を通りかかった幼い大瀧修三は、ブランコを揺らしながら泣いている、同じくらいの歳の子どもを見つけた。ツートン・カラーのにわとり頭ですぐわかる。悪魔が憑いていると噂されて、いつもひとりでいる顔見知りだった。
〈にわとり頭〉に話しかけることに怖さは感じなかった。ひとりぼっちがどれだけつらいことなのかを、誰よりも知っていたからだ。悪魔に呪われていたって構うもんか。 「よう、親が帰ってこないって寂しいな。わかる、僕のところもちょっと前までそうだったし。でも元気だせよ。きみの家族だって、僕のパパとママが僕にしてくれるみたいに、きみのことが大切なんだ」 自分でも驚くほどに、言葉がすらすらと出てきた。 「僕の親は昔から喧嘩ばかりしてて、ずっと寂しかった。でも、だからこそ、親の仲が悪かったり、仕事が忙しくて帰ってこられなかったりする子どもの気持ちが、わかるようになったんだ。僕と同じ人間の子どもの寂しさを、今ではわかってあげられる」 うつむいて涙をこぼしていた〈にわとり頭〉が、顔をあげた。それは十九歳の青年が化けた女の姿になった。 公園の砂場は青白い氷山になった。ぎいぎい揺れる錆びついたブランコの音は、贋物の南極を切り裂く風の音になった。 そこに大瀧修三はいた。〈ペンギン・ナイトメア〉の姿で無数のペンギンを従えて、先行ターンで召喚した赤い海蛇〈シーザリオン〉を操り、氷のフィールドでデュエルディスクを携えて遊城十代と対峙していた。 心の欠落を満たされた子どもは消え、子どもの帰りを待つ母親は消え、学校も友達も、背広を着た自分と同じ目の色をした父親も消えた。 「寂しい子どもは、おじさんだけじゃない」 十代が言った。 大瀧は返事を返さなかった。その心はいまだに幼年時代を過ごしたぬくもりに満ちた街に留められていて、このフィールドにはなかったからだ。 「ここはどこだ」 大瀧は呆けていた。 「優しいパパとママは、どこへ行ってしまったんだ?」 「そんなものは幻想だ。欲しがっても手に入らなくてみんな苦しんでる。この世界はとても寂しい場所なんだ」 十代の答えは酷薄だ。カードを引き、攻撃力二千五百の銀色の巨人を召喚。〈シーザリオン〉を破壊する。 夢の余韻から醒めた大瀧は、いつの間にか自分が、あまりにもわけのわからない大きな存在に相対していたことを知った。この男は誰だ。何だ。大人か。子供か。人間か。それ以外か。 それ以外とはいったいなんだ? 「あんたはぬくもりを求めて何十年も人生をさまよってきた。人間だったころも、そうじゃなくなってからもだ。見つけられたか? 無駄だったろ。誰かの手を取って一緒に暖めあえないなら、世界中荒らしまわったって、そんなのはどこにも見つからないとは思わないか」 十代は大瀧に向かって、大人が子どもをさとすような口のきき方をする。彼こそが子どものはずではないか。いや、本当に子どもだったか? 理想の世界を目指して努力を続け、何十年もかけて導きだした答えを否定するつもりなら、たとえ神であっても赦さない。腹の底から怒りが湧いてきた。ペンギンの平たい腕で、何度も氷原を叩いた。赦すものか。 十代が微笑に似た形に顔を歪めた。少女のものに見せかけた手を、指のないペンギンの手に重ねる。 「オレは『留学』でたくさん学んできたんだ、大瀧さん。誰かに見捨てきられるなんてできない。悪いやつだって、いいことしたっていいんだって。もう冷たい氷の世界に閉じこもるのはやめにしないか。 あんたならペンギンよりずっと暖かい手を寂しい仲間に差し伸べて、凍った心を溶かしてやれる。公園にひとりでいたオレに話しかけてくれたみたいに。心の闇の象徴を、子どものころの痛みを大切に持ってるあんたにしかできない」 「冗談じゃありませんよ。私には、ほかの子どもの家庭事情など関わりもないことです。今のままでいい。若いピチピチギャルの肉体を渡り歩いて、優しいペンギンたちの世界で永遠に生き続けるのです」 「だめだ。あんたの子どもでいていい時間は、もう終わったんだ」 十代がぴしゃりと言った。まるで子どもを叱る父親のようで、まるで子どもを諭す母親のようだ。いや、もっと別の、言葉にすらならないが、人類すべてがそれを知っている、途方もなく大きなものに見えた。 大瀧には、見あげた十代が、眼球を焼くほどにまぶしい炎に見えた。今にも焼き尽くされてしまいそうな、輝く炉の火だ。だから自分が、いや自分が知っている誰が相手で、たとえ束になってかかろうと、おそらくはあの現在の『契約主』でさえも――十代に勝てるはずがないということを理解した。 ![]() 氷のフィールドが消え去った。味気ない高速道路と、はるか下方の青々とした森が戻ってくる。
真崎杏子が十代へ駆けよった。 「決闘はカンナちゃんの勝ちね。さすがデュエル・アルカディアの生徒だわ」 「童実野町へ戻りましょう。杏子さん。遊戯さんたちが心配です」 十代はふわふわしたツーテールを揺らしながら、大瀧に背中を向けて歩いていく。不意打ちを受けても、相手が敵にすらなりえないと考えているのだろうか。それとも――。 「待て」 大瀧は十代を呼び止めた。杏子が緊張に顔をこわばらせる。 「また往生際の悪い真似をするつもりなの、スケベオヤジ。ただじゃすまさないんだから」 「どんなに歩いたところで、きみらは童実野町へは戻れない。きみらの身体はここにはない。ここはすべてが贋物の電脳空間なのだ。……現実世界へ戻りたいなら、この先にある非常口をお使いなさい」 「大瀧さん」 十代が軽く目を見開いた。救われた、という感情の揺れが映る。 「ありがとう。助かるよ」 「え、ちょっと。こいつが他人に道を教えてくれるなんて、罠に決まってるでしょう」 杏子は面食らって、十代と大瀧を交互に見ている。 「『カンナ様』。私にはもうなにがなんだかわかりませんが、教えておきましょう。仲間が、我々を苦しめた海馬瀬人に関わりのある人間を襲っています。武藤遊戯や城之内克也、やつら共犯者もね」 「遊戯さんになにかしたのか!?」 十代が叫んだ。対峙していたときの泰然とした態度が嘘のように動揺している。 「私は管轄外ですよ。しかし、とくに遊戯を目の仇にしている仲間も確かにいる」 「まずいです。急ぎましょう、杏子さん」 「え、ええ」 大瀧は虚空を見あげて座った。ペンギンたちが心配して、まるで本当の家族のように集まってきた。 「最後に教えていただきたい。私がやってきたことは間違いだったとして、それなら私の今までの人生とは、いったい何だったというんです?」 「自分で考えろよ。それって人に教えてもらうことじゃないだろ」 十代は突き離すような言い方をして、そこですこしだけ恥ずかしそうにはにかんだ。 「って、ばかな子どもだったころのオレは言ったろうけど。なにもかも無駄だったっていいじゃないか。どうせもう捨てちまったんだから。今日から、今のあんたに価値のある時を重ねていくんだ」 「価値のある時、ですか」 「貴重な時間を、栄光の日々を。がんばれよ、大瀧さん。助けが必要なら、いつでも呼んでくれ。デッキはあんたを愛してる。その、おじさんが大好きなペンギンたちな。それに、オレも手を貸すからさ」 十代が駆けだした。今度こそ振り返らなかった。そして大瀧も、もう彼を呼び止めなかった。 ![]() 十代は、さっきよりも身体が軽くなっていることに気がついた。頭も冴えている。
それが〈ペンギン・ナイトメア〉の心の闇を食らったためだということを、もう十代は忘れてしまっていた。 高速道路に面した崖の陰に、不可思議な扉を見つけた。大瀧が言っていた非常口だ。杏子はまだ、あの男への不信感をぬぐえないでいる。 「大丈夫なの、あいつ。ほっといて」 「大丈夫ですよ。あの人は痛みを見ないふりはしていない。オレたちが手を貸す必要もきっとないでしょう」 「私の心配は、仲間を呼んで襲ってこないかってことなんだけど」 杏子は、さっきまでペンギンの群れがいた場所を眺めて溜息をついた。 「あれが改心するとは思えなかったから、ちょっと驚いたわ。何を言ったの」 「決闘しただけですよ。面白いデッキでした」 杏子はじっと十代の顔を見た。気おくれした微笑みを浮かべ、首をすくめた。 「あーあ。キミって、天使みたいね」 神話の上での商売敵にたとえられた十代は、瞳孔をすぼめた。半身が起きていれば大笑いをしただろう。 十代と杏子は、岩壁の四角い扉を開けた。広い空間に続いている。見覚えのある場所だ。 駅前にできたばかりの大型商業施設だ。デュエルスペースが充実したカードショップが入っていて、以前、遊戯に連れてきてもらったことがある。 スピーカーから陽気な音楽が流れている。施設のなかは、ダークネスに世界中の人々が攫われたあの日の童実野町のように、人の姿がまったくない。ここは本当に現実世界なのだろうか。 大瀧の目は嘘をついていなかった。ぬぐえない違和感はどこから来ている? 背後で扉が閉まった。十代が振り向くと、入口の扉と杏子の姿が消えている。 「杏子さん。どこですか?」 十代はひとりで吹き抜けの廊下に立っている。スピーカーの音楽が、自分の作り声でできた歌に変わった。 ![]() 無数のペンギンたちが、リーダー〈ペンギン・ナイトメア〉の傷ついた姿を見て、不安そうにさざめいている。 ――がんばれですって。手を貸すですって。無茶を言われる。肉体もないのに、今更なにができると? 失望と怒りの視線が大瀧に突き刺さった。目の前に金髪の女が音もなく現れる――たしか、自らを天才だとうそぶいている、遊戯の仲間の眼鏡をかけた女だ。 本物はすでに魂を抜かれ、今ごろ瓶詰めにされた人格が電脳空間をさまよっているはずだ。 「貴様の失態はあの方に報告をさせてもらうぞ。大瀧。我々の連帯責任だと言いだされてはかなわないからな。せいぜい言い訳を考えておけ」 女の唇が、中に入っているしゃがれた老人の声を吐く。大瀧は頭を抱えた。 |
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