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行政館の煉瓦屋根の上から見渡した風景には、どこにも滅びの痕跡は見当たらなかった。
街は静かに眠っている。今は無人の広場に、透き通った朝の光が降り注いでいた。濃紺色の海は凪いでいて、レースの縁飾りのような波が無数に寄せていた。大鐘楼が空を刺し、くすんだ薄緑色の三角屋根の上で、金色の天使像がてかてかと輝いていた。一羽のかもめが飛んできて、翼をたたんで赤いバイクの上に停まり、また飛び立っていった。
十代をあるべき時代へ送り届けてくれた遊星は、直立不動の姿勢で、警察官のような敬礼をした。十代もいくらかおどけて返してから、彼の整った顔を覗き込んだ。海のような色をした瞳は、もう揺るがなかった。
「では、俺は俺の時代へ帰ります」
「さんきゅー遊星!」
「……また、いつか」
遊星が十代の手を握った。指を絡ませて、祈るように顎を引いた。少しだけそうしていた。やがて軽く頭を下げて、バイクに跨った。エンジンをふかす。静かなものだ。ガソリンのにおいがしないし、ボディは見たこともない金属でできている。不思議な乗り物だ。赤いシルエットにまっすぐなラインが入っていて、その格好良さを一目で気に入った。
「ゆーせ! バイク!」
十代は、煉瓦屋根の上から叫んだ。実直な声が返ってくる。
「D・ホイールです!」
「また乗せてくれよな、会いにいくから!」
「……その時は俺とデュエルしてください!」
落ち着いた印象の青年は、彼の精一杯だろう大声で返してくれた。満足して、背中を向ける。気配はもうしなかった。
未来へ帰ったのだ。
未練はなかった。またきっと会えると遊戯が言った。だから絶対会えるのだ。間違いなく。
宮殿前の小広場に降り立った途端に、足から力が抜けた。顔から地面に叩きつけられ、鼻をひどく打って、十代はうめいた。立ち上がろうとして肘を突っ張ったが、上手くいかない。全身が無様なくらいに震えていた。
(恰好つけるからだ、馬鹿)
頭の上から、溜息まじりのユベルの声が降ってきた。
「仕方ないだろ。あのふたりの足手まといなんて、死んだってごめんだぜ」
言い訳をして空を仰ぐ。半身が怒ったような顔をして見下ろしてきていた。
(スターダスト・ドラゴンの攻撃をまともに食らっておいて、かすり傷なんかじゃ済まなかったはずだ。その身体でよくもまあ、あれだけはしゃぎ回れたもんだね)
嫌な汗が首筋を伝っていく。背骨が痺れる。腹に生ぬるく、それでいて凍えるような奇妙な感触がある。インナーがじっとりと濡れている。唾液が苦くなるような、嫌なにおいがする。
(おい。大丈夫か?)
ユベルの声が心配性の響きを帯びはじめた。ハネクリボーが毛を逆立たせて飛び回っている。彼らに歯を見せて頷いた。
「心配ねーって。すぐに、走りださなきゃな」
自分の時代でやり残したことを片付けなければならない――憧れの遊戯に恰好をつけた手前、やり遂げなくてはならないことがある。たくさんある。そのくせ、ぼやけだした視界が徐々に黒く塗りつぶされていく。
悲鳴がした。大徳寺のものだ。猫の鳴き声。ファラオだろう。罵声。ユベルだ。それから、自力で支えきれないくらいに潰れていた身体が、急に軽くなった。
「大丈夫?」
気遣う声がした。
誰の声だろう。知っている気がしたが、抱き上げられた腕は強くてたくましいもので、憶えのない感触だった。いい匂いがする。優しい、とても好きな匂いだ。
「おつかれさま」
誰かが言った。
全身が揺れている。心もとない浮遊感があったが、嫌な揺れ方ではなかった。背筋に染み込んでいた悪寒は去っていたが、眠気が思考をがんじがらめに縛りつけ、深い無意識の沼の底に沈めていた。
目を開けてまず、不思議な色のつんつん頭が見えた。明けの空のようなうっすらとした青紫色の髪が、毛先へゆくにつれて赤みを帯びていくグラデーション。ゆらゆら揺れる黄金色の前髪は秋の終わりの小麦畑を連想させる。こんな特徴的な頭をしている人を、十代は他に知らない。
「……ゆ、遊戯さん!?」
「おはよう、十代くん」
遊戯が大人の顔で人懐っこく笑った。
「ん。どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
「……遊戯さん、いつも急にオレの前に現れるから、毎回びっくりするんですよ」
「そろそろ帰ってくる頃だと思ってね。迎えに来たんだ。キミのおかげでこの世界は救われた。ありがとう。よく頑張ったな」
十代は照れ臭くなって俯いた。この人の前で、恰好をつけきれなかったことを恥じた。遊戯の首に抱きついて、うなじに額を押し付けた。頬が染まる。優しい匂いが嬉しかった。
ほんの少し前まで目の前にいた過去の遊戯の姿を思い出していた。世界の滅びに共に立ち向かった遊戯は、十代よりもずっと小柄な体躯で、輪郭は柔らかかった。凛々しいが、まだ幼さがありありと残る声をしていた。だから、その人が急激に子供から大人に変わってしまったような錯覚にとらわれていた。不思議な感じがする。
ただ、彼から向けられるいたわりは、くすぐったいくらいに変わらなかった。
遊戯の肩に顎を乗せて少し笑った。妙に気持ちが良かった。楽しい。嬉しい。ワクワクする。
「ずっと知ってたんですね」
「うん。この日を待っていたんだ。キミがあの日から帰ってくる時を待ってた」
振り向いた遊戯の眼は、声と同じに優しかった。無数の星を散りばめた宇宙のように、深い色の瞳だった。何もかもを包み込んでくれるようなこの色も、あの時と変わらない。遊戯が喉の奥で微笑んだのが、そばでわかった。
「やっとキミと目線が合った。今ね、嬉しいんだすごく」
遊戯の背中にいると、十代は自分がまた小さな子供の頃に戻ってしまったような気がした。どれだけ年を重ねて大人になっても、この人が何年も先に生まれて、大人になるまでを過ごしてきた長い時間の差を埋めることは決してできない。遊戯は、必ず十代が追い駆ける先にいる存在だった。手が届かないくらいに大きく、遠く先を歩いている大人の男。
十代は遊戯に、もう随分長い間憧れていた。幻想にくらんだ目では、彼にも子供の時代があって、我慢ならないくらい辛いことがあったり、無力に悩んだり、どうしようもない結末に涙を流したり、まるで幼稚な遊城十代のように何もかもに迷っていた時間が存在したのだという、当たり前のことにすら思い当たらなかった。あの頃はまだ迷子の子供だった遊戯の手は、時を経てゆるぎない強さを宿し、今は迷子の手を引いてやる大人のものに成長していた。
「オレ、あなたたちのことが好きです」
十代は言った。暖かい声が当たり前のように返ってくると信じられることが嬉しかった。彼は太陽のように目を焼くことはなく、どんな闇の中でも往く道を仄かに照らしてくれる人だ。陽だまりのようにやわらかなぬくもりが伝わってくる背中が心地良かった。好きだと思った。
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