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長い間雨ざらしにされて色を失くしたポスターが、小便の染みとともに汚れた壁にこびりついている。
ラッカー・スプレーで書きつけられた下品なフレーズが溢れかえり、からすが食い散らかした生ごみが灰色の地面に散乱している。むき出しの金塊を前にした山賊のような、すえたにやにや笑いを顔に貼りつけた少年たちが、縄張りに迷いこんできた男を取り囲んでいた。
「あんたの顔、テレビで見たことがあるぜ。初代キング・オブ・デュエリストだ。そうだろ?」
ニット帽の若者が、手のひらに鉄パイプを打ちつけながら軽くおどけて言った。いくらか背の高い相手を見上げる恰好だが、彼らは仲間の数だけ膨れ上がった見栄と虚勢を分かち合っていた。
「カード・ゲームなんてガキの遊びはよく知らねえけどさ。〈決闘王〉サマともなったら、よっぽど金になるレアカードを持ってるんだろ。あり余るほどに違いねぇや。そんならファンのオレ達に、少しくらい恵んでくれても構わないよなあ」
「ねぇ、キミたち、今すぐボクから離れたほうがいい」
弱りきった男は、こわばった愛想笑いを浮かべながら言った。少年たちが一歩ぶん輪を狭めた。
男が優しげな風貌を侮られるのは、これが初めてではなかった。ちびでひ弱だった子供時代から、多くの変化を迎えた少年期を過ぎる頃までは、とにかく殴られ、蹴られ、強奪されてきたのだ。あきらかな軽蔑を見せびらかしながら迫ってくる略奪者たちが、死にかけた羽虫の遺言めいた憐れっぽいなだめ声に耳を傾けてくれたためしはない。
それでも今度こそは、もしかすると、うまくやれるかもしれない。諦めの悪い男は、かすかな期待を込めて少年たちをさとした。
「よくないよ。あの彼、悪い人には本当、容赦がないんだ。あまり怒らせないほうがいいぜ」
「何言ってんだ、こいつ。びびりすぎておかしくなっちまったのか?」
「――テメーらァ!!」
少年たちの頭上に怒鳴り声が落っこちた。真っ赤な上着をはためかせて、小柄な人影が降ってくる。
「その人に、いったい何やってんだ!!」
張りのある声で叫んだ。異様な光り方をする金色の眼が吊り上がっている。
雑居ビルの屋上看板から飛び降りてきたくせに、傷ひとつ負っていない。闖入者の人間離れした身体能力に、にわかに戸惑う少年たちに指を突きつけ、左腕に装着したデュエルディスクを展開する。
「生かして帰さねぇ、楽に死なせもしねぇ! やっちまえ、ネオス!!」
赤い服の青年が、デュエルモンスターズのカードをデッキから引いてディスクに触れると、銀色の巨人が出現した。少年たちが度肝を抜かれたのは、モンスターカードの絵柄が子供だましのまぼろしなどではなく、確かに実体をともなっているせいだった。
勧善懲悪の正義の使者が、額の輝石から熱線を撃ち放つ。本物の熱量だ。目を焼く眩さだ。荒々しい暴力だ。この世界とは相容れない力が顕現し、建物が砕かれ、破裂音に悲鳴が重なる。
1
「ご無事でしたか! 遊戯さん!」
遊城十代が叫んだ。後ろ髪の、アローカナ種の鶏のふわふわした尾羽に似たはねが、怒りに逆立って震えている。いつでもまっすぐに前を向いている瞳は、今は金属質の不思議な輝きを宿している。度しがたく感情が昂ぶっている証だ。
「そのくらいにしておくんだ。ボクは大丈夫。もう赦してやれよ、十代くん」
仔犬のまなざしが見上げてくる。なぜ飼い主に怒られているのかがどうしても理解できないという、あの困りきった、無垢な哀しみを孕んだ表情になる。
「こいつら、あなたにとんでもなく失礼なことをしたのに」
金の双眸を静かに見つめていると、ほどなく十代生来の明るいブラウンに変色した。この人知を超えた青年は、持て余した怒りになんとか折り合いをつけてくれたようだ。
「……わかり、ました。遊戯さんがそう言うなら。行けよ。どこへでも消えちまえ。だけど次はないぜ」
遊戯へ向けるものよりも恐ろしくトーンが落ちた声で、唾とともに吐き捨てる。焼け焦げた路地の上に伸びていた少年たちは、蒼白の顔面で、起き上がるなり散り散りになって逃げていく。
「ひ、ひいい! 化け物だーっ!!」
「うるせー、ばーか!」
十代は握り拳を振り上げて、去っていく少年たちの背中に大声で毒づいた。素早く振り向いた顔は眉尻が下がりきっていて、深い怒りの名残も見えない。
「ほんとに怪我はないですか? すみません。オレがついていながら、あなたを危ない目に遭わせるなんて。遊戯さんを護れって双六じーちゃんに頼まれたのに。こんなじゃ遊星のやつにも合わせる顔がない」
「キミがいてくれると助かるよ。ほんとうに」
十代が、機嫌を窺うような上目遣いで見上げてくる。
「……オレはお役に立ててますか?」
「うん。キミと一緒だから、頼もしいよ」
「は、はい!」
抑鬱は一瞬で吹き飛んだ。目まぐるしく変化する表情が眩しい。
日が傾くと昼間の異常な暑さが和らぎ、涼しい風が吹くようになった。民家の生垣から枝葉を突き出したクヌギの幹で、ツクツクボウシが啼いている。舗装路に等間隔で植えられたむくげがほの赤い花をつけ、やわらかい匂いを放っている。信号機の音響装置がわらべ唄を奏でるなかを、駅へ向かう交差点を行く無数の人の流れに逆らって歩いていく。うしろに、十代が実直についてきている。
「十代くんは、ボクの大切な友達に良く似てる」
心地の良い懐かしさに浸りながら、遊戯は言った。十代は、高校時代に初めてできた親友とそっくりだ。明るい性格で屈託がなく、いつも元気で、すこしばかり落ちつきがない。親しい仲間が危ないときには颯爽と助けにきてくれる。ひとまわりも年下の未成年者にそうされるのは、どうにも恰好がつかないと自覚をしている。
十代はいつでも、どんな相手にでも本気の気持ちでぶつかっていく。さっきはレアカード目当ての恐喝行為に及ぶ少年たちの不心得を真剣に怒っていたし、今も遊戯を掛け値なしに心配してくれている。いささか荒っぽい正義の味方だ。そんなまばゆいばかりのひたむきさで走り続ける人種が、武藤遊戯はとりわけて好きだった。
二車線道路を隔てて、テナントが乱立する歩道に顔なじみを見つけた。猫背とぼさぼさ頭は相変わらずだが、ぱりっとした黒のスーツ姿だった。彼が小学生のころからの付き合いだから、大人びた姿に軽い驚きと感慨を覚えた。最近はこんなことばかりだ。あらゆる変化に対して、寂しさと喜びをない交ぜにした感情が訪れる。歳を取ったのだろう。相手はこちらに気付いたのか、それとも気が付かなかったのか、俯きがちの早足で、点きはじめた街灯の下を過ぎていく。多忙な人間なのだ。
肩の後ろから、十代が遊戯を見上げてきている。瞳は使命感に燃えている。祖父になにかを吹き込まれたらしい。
「遊戯さんは優し過ぎて人が良過ぎて、いや、だからこそみんなが憧れるんですけど。オレだって、あなたのそんなところが大好きなんですけど。でも、気を付けてください。あなたを知ってる人間みんながいいやつばかりじゃない」
「キミのほうがボクよりもよっぽどしっかりしているな。そうだ、助けてくれたお礼をさせてくれないか。うちにおいで」
「えっ?」
「さっきはありがとう。感謝してる」
「あ、はい」
嘘のように恰好良く整った顔立ちの青年が、意志の強そうな目を戸惑いがちにまばたかせて、すこし幼い反応をした。上げた顔が、嬉しそうにはにかんでいる。
懐かしい街並みのなかにサボテン色の屋根が見えてきた。住居とカード販売店舗を兼ねた二階建て家屋――武藤家、子ども時代を過ごした実家だ。年月分の日焼けと風雨と土埃が、外壁を黄みがかった色に変化させている。
つるつるの橙地に手足を伸ばした亀が浮き彫りになった〈亀のゲーム屋〉のディスプレイ看板が、コードを抜かれて、宵の薄暗がりにじっとうずくまっている。軒先の夜間照明も消えたままだ。毎朝祖父が丁寧に磨いていたガラスはくもりを帯びて、高層ビルばかりの、にぶい色をした夜空を映し込んでいた。童実野町は大がかりな開発を急速に進めている。
入口の扉に湿気を吸ってふやけた張り紙が出ていた。祖父の筆跡で『都合によりしばらく休業します』とある。
店内はがらんとしていて、陳列棚の上に埃がうすく積もっている。現行品よりひとつ前のシリーズのカードパックが、ダンボール箱に入ったままレジの後ろに置かれていた。新作用のプラカードが乗っていて、何か月も前にタイムスリップをしたような感覚に陥ってしまう。
くたびれたほうきで店先を掃き清めながら、あるいは自慢の商品を見せびらかすように棚へ並べながら、いつも帰宅した遊戯を迎えてくれる祖父がいないだけで、武藤家はまるで空き家のように変わり果てている。
奥の居住スペースへ通り抜けしなに、長い年月の間どうしても治らず、いつしか習慣になってしまった癖で、壁の鏡へ声を掛けた。
「ただいま」
返事があったためしはない。
十代は不思議そうな上目遣いだ。やはり、奇妙に取られただろう。彼はまだ何も知らない。
居間は店舗部分とは異なり、人の住まいのぬくもりが感じられた。形式的に拭きとられたテレビの液晶パネルが艶っぽく光っており、青いカーテンからはエアゾール式の消臭スプレーの匂いがする。仕切り棚の上の観葉植物は生き生きとした緑色で、葉にまだ水滴がついていた。少し前まで母がいたのだろう。戻るたびにこまめに手を入れているのだ。
ここは空き家ではない。どんな種類のものであっても、空き家は好きではない。
「気楽にくつろいでくれ」
「は、はい」
十代が、ぎこちなく頷いた。デュエル・アカデミアの修学旅行で〈亀のゲーム屋〉へ立ち寄ったときには、目を輝かせてはしゃいでいたそうだが、今は濃いブラウンの革張りソファに背筋を伸ばして着いている。緊張している彼の姿は、精一杯に尻尾を振りながらも怯えから手を触れさせようとしない、臆病なけだものの子どものようだった。
「そんなに硬くなることはないぜ。今はボクたちだけだから」
「じーちゃんは、出かけてるんですか」
「入院中なんだ。ぎっくり腰だよ。歳も歳だから母がつきっきりで看てる。父は相変わらず出張に出てるみたいだし、この家、最近ずっと空っぽなんだ。こんな時にあてもない旅になんて出てるから、親不孝者だってよく叱られる」
「遊戯さんが」
「うん」
「双六じーちゃん、大丈夫なんですか」
「まだまだ元気だよ。ひ孫の顔を見ないうちは死んでも死にきれないってね」
「あの、け、けっこ、ご結婚とかは」
「どうかな。考えたことないや」
「そ、そうですか!」
「ん?」
「いえ、えっと、なんでもないです。……なんでこんな、オレ、ほっとしてるんだろ」
十代は膝を抱えて難しい顔をしている。
「十代くん、おなか減ってない?」
ラックに掛けてあった母のストライプのエプロンを借り、ベースキャビネットから使い込まれたステンレス鍋を引っ張り出した。料理は、旅を始めたばかりのころに必要に迫られて覚えた。今ではひとりで暮らすぶんには不自由をしない程度にこなせるようになっている。ただ、ふるまう相手がいないから、味の保証はない。
母の主婦としての矜持だろう、きちんと管理された冷蔵庫のなかに、真新しい野菜とフリーザーバッグの肉を見つけた。引き出しに買い置きの固形ルーがあったはずだ。
「カレーは好き?」
「大好きです。うわぁ、遊戯さんの手料理が食べられるなんて!」
十代は興奮した様子だ。彼は気に入るだろうか? 少し不安になった。どうだろう。
「手伝います、オレ」
「じゃあ野菜を頼んでいいかな」
「まかせて下さい」
カッティング・ボードと包丁を手に、十代は重要なおつかいを背負った小等生のようにかしこまってステンレス・カウンターに立った。しばらくの間はすこぶる上機嫌だったが、急に不器用な手つきが止まった。目を閉じて、まぶたをこわばらせている。
「玉ねぎ、目にしみたんだ」
「……いや、平気です」
つむじが震えている。
「ごめん。つらいな。代わろうか」
「だ、大丈夫ですよ!」
「いいからいいから」
目頭に涙を滲ませた十代に、ピーラーを添えてじゃがいもを差し出した。ぎこちない手がシンクの上で、木の枝から手製の矢を削り出す化石人類の野性っぽさで灰色の皮を剥いていく。
「手を怪我するなよ」
「はい。……遊戯さんと一緒に料理ができるなんて」
十代が、とりとめのない喜びを噛み締めるような、しみじみとした表情で言った。
「ふ。キミ、そればっかり」
「え?」
「ボクの隣で嬉しがってばかりで。くすぐったいなぁ、もう」
「え、へへ」
十代は照れくさそうに目を細めて、「へへへへ」と笑った。見る者がついつられてしまう笑い方をする。胸のなかが温もって、首筋にやわらかい羽毛が触れているような心地だ。むずむずする。
十数年前は、自己の運命を含める世界中のありとあらゆる事象に怯えていた『あの』幼児が、まったく気持ちの良い好青年に育ったものだ。そして、また年寄りじみたことを考えているぞと自嘲する。
「なんだか、かわいいなあ」
「あー。子供だって思ってません?」
十代が拗ねたふりをして唇を尖らせた。
遊戯は、惜しみもなくまっさらなリスペクトを差し出してくれる遊城十代を、好意に値する人物だと考えている。たとえ彼のくもりのない好意の根源がどうあろうと、今は素直に好いてくれているのだと知っている。それでいい。
「そんなことはないよ。キミは随分成長した。大きくなったな」
あの頃から足元に影のようについてまわる罪悪感は、曖昧な微笑みで覆って隠してしまえばいい。
炊飯器のアラームが鳴った。炊きあがったばかりの、しっとりとよく蒸れた白米の甘い湯気が立ち昇っていく。火にかけていた鍋もいい頃合いだ。不恰好な人参とじゃがいもが、とろりとした、食欲をそそる柔らかさに煮崩れている。懐かしい香辛料の香りがキッチンいっぱいに漂いはじめた。
「福神漬けがあったらよかったのに」
味見の小皿をまわしながら呟いた。十代も神妙に頷いている。
「らっきょうも外せませんよね」
「ごめん。ボクらっきょうだけは駄目で」
「え? あの、うまいのが」
「においも味も食感も、ぜんぜん」
「駄目なんですか」
「無理」
「遊戯さんにも苦手なものがあるんですねえ。かわいい」
「それ、さっき、キミのことをかわいいって言った仕返しかな。十代くん、子供じゃないんだから」
笑いながらテーブルに向かい合って着き、胸の前で手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまぁす!」
こうして誰かとテーブルを囲んだのはいつぶりだろう。とても遠くまで伸びた記憶の糸を手繰り寄せているような感覚に陥るが、幻想に違いない。昔馴染みの親友や家族の顔を見たのはそう昔ではなかったし、旅先で知り合った多くの人間たちは、それぞれの食卓に流れ者の客人を招き入れてくれたのだ。皆とても良くしてくれた。
「こうやって誰かと一緒にうまいメシを食うなんて、ほんとに久しぶりです」
十代が言った。スプーンを咥えて宙を見つめている。
「ユベルと先生はものを食える身体じゃないし、二人とも、自分たちは燃費がいいなんて言ってるけど。こういうのって、やっぱ、いいもんですよね。アカデミアのみんなは元気でやってるかなぁ」
「ボクもちょうど今同じことを考えてた。誰かと一緒にごはんを食べるって、とっても嬉しいものだって。不思議だね。ボクたちが思いつくことは、いつもどこか似ている」
「オレと遊戯さんが?」
「あ、キミが切ってくれたじゃがいも、おいしい」
頬杖をついて、じっと十代を覗く。ものを食べている人間を見るのが好きだ。どこまでも単純に美味そうに食う人間は、とくに大好きだ。
「ああまたそんな嬉しそうにして。おかわりする?」
「はいっ」
店のほうからドアチャイムの金属音が聞こえてきた。閉店している〈亀のゲーム屋〉へ誰かがやってきたらしい。ためらう気配のあとで、仕切り戸が乱暴にノックされた。気心が知れた友人のやり方だ。めいっぱい盛り直したカレー皿を十代に押し付けて店へ顔を出すと、ビジネススーツ姿の青年が立っていた。
「あれ、キミか。どうしたの?」
「よ、よぉ。遊戯」
武藤家を訪れた海馬モクバは、長く伸びたぼさぼさ髪を片手で無意識にかき混ぜながら、暗い色の目を微妙に遊戯から逸らしている。親しい相手に隠し事をしたり、言いにくいことがある時に見せる仕草だ。
彼のスーツはきめ細かくフィッティングされた黒のヘリンボーンで、はじめのうちは高校生のブレザー制服に見えたものだが、今ではずいぶんと様になっている。大人びて頬の輪郭がシャープになり、背が伸びたせいだろう。五つ年下のこの青年は、もう子どもとは呼べない年齢になっている。
薄いブルーとグリーンの横ストライプのネクタイを締め、襟の社章と揃いのピンで留めている。カードを模ったペンダントは兄の瀬人と揃いで、モクバが幼い頃から肌身離さず身に付けている宝物だ。
「モクバくん。上がってよ。カレー作ったんだけど、食べる?」
「いや、その。遊戯。さっきのあいつ」
たどたどしい口調で、モクバが言った。眉間に深刻な皺を刻んでいる。
「あいつ、まだいる?」
「あいつって?」
「さっきお前と一緒に歩いてた、あの男」
「十代くんのこと? うん、奥に」
遊戯が言い終わらないうちに、モクバはプレーントゥの革靴を放り投げるように脱ぎ捨て、つんのめりながら狭い廊下を走っていった。
「――遊城十代! そこにいるのか!」
ダイニングの十代はすでにお替わりの皿を空にしきったところだったが、急に大声で名前を呼ばれて、猫めいたつり目を軽く見開いていた。
「海馬モクバさん? あの海馬社長の弟の――」
モクバは十代の赤いデュエル・アカデミア制服を認めると、いらついたような、肩の力が抜けたような、なんとも形容しがたい表情になった。大股で歩み寄って、彼のジャケットの襟を強く引いた。
「お前……お前、あの時のこと、ちょっとでも悪いって思ってるなら。何も言わずに、今すぐオレと一緒に来い!」
チョコレートブラウンの髪に隠れた、かたちの良い耳を引っ張って叫んだ。十代は首をすくめて困惑している。
「あの。ま、待ってください。ちょっと待ってください」
「なんだよ。もたもたするな。オレは急いでるんだぜい!」
「夕飯の後片付けがまだなんで」
「そんなの遊戯にさせればいいだろ!」
最上級の礼儀正しさと無条件の好意を惜しみなく示してくれる十代とは違い、モクバには遊戯への遠慮がまったくない。十代をなかば無理矢理立ち上がらせると、まごついている彼の手首を掴んで引きずっていく。
「遊戯! こいつ、借りてくぞ!」
「え? うん」
「ゆ、遊戯さん。えっと、すみません、あの」
「あ、ああ。大丈夫だ。気にするなよ」
遊戯は呆けた顔を十代と付き合わせて頷いた。
二人の青年が台風のような騒々しさで立ち去ってしまった途端、武藤家は色彩豊かでにぎやかな夢から醒め、耳鳴りがするほど静まり返った。シンクに立って空の皿を洗いながら、遊戯は首をひねった。
「いつの間に仲良くなったんだろう?」
遊戯が知る限り遊城十代と海馬モクバの間に存在するものは、十二年前のあの時に拭いきれなかったモクバの禍根と、十代がいまだに引きずっている忘却の後ろめたさと罪悪感のはずだ。
住居側の玄関の鍵が慣れた調子で開いて、母が帰ってきた。何か月ぶりかに見る顔は、以前よりも歳を取って見えた。くたびれており、目の下にくまができている。
「おかえり、ママ」
「ただいま。遊戯、帰ってたの。その歳になって『ママ』はやめなさいって言ったでしょ」
「ああ、つい。じーちゃんはどう?」
「相変わらずよ。若い看護婦さんにちょっかい出して、みっともないわよ」
「元気そうで安心した。おなかが空いてるなら、カレー作ったんだけど」
「誰か来てたの」
「うん。十代くんがね」
「まあ」
ハンドバックをハンガーに掛けて、母が意外そうに口に手を当てた。
「旅の途中で一緒になったんだ。この前じーちゃんにも頼まれた。あの子一人じゃ何かと危ないから、そばについててやれって」
十代には黙っている。本当のところを知れば、遊戯の守護者になりたがった彼は傷つくだろう。しょげ返る姿が目に浮かぶようだ。十代の少しばかり過剰な正義の味方願望を見ていると、アメリカン・コミックに登場する最強ヒーローになりたがった、高校時代の旧友を思い出す。
しかし十代は、おそらくは心の底では正しいヒーローをこそ怖がっているのだ。遊戯の前で偶像への畏れをさらけ出すことは決してないだろうが、それこそが幼いころの彼に与えられた罰だった。
「大きくなってたでしょ。もう随分会ってないから」
「デュエル・アカデミアを卒業したよ」
「あの子も決闘をするの」
「うん。すっごいイケメンになってた」
「あら。どれくらい?」
急須に湯を注ぎながら感慨深そうにしていた母が食いついた。
「獏良くんや御伽くんクラスだね」
「あら……ちょっと。どうして引き留めておいてくれなかったの」
「友達が来たんだ。あの子に用事があるみたいだった。このカレー、十代くんと作ったんだ」
「イケメンと」
「うん」
笑いを噛み殺しながら、遊戯は考えた。十代は何も憶えていない。今は何も知らない。
寂しくないわけではないが、これでよかったのだ。本当に安心している。
*
モクバは無言のまま、早足で歩き続けている。彼に襟を掴まれて引きずられていく十代を、すれ違う人々が不思議そうに見返っていく。
「あのォ、モクバさん。海馬コーポレーション本社ビルの爆破はオレがやったんじゃないですよ。ダークネスの仕業です、全部」
「あれもお前が絡んでたのか」
モクバが押し殺した声で言った。足取りは変わらない。
「へ? あのことで怒ってるんじゃないんですか?」
「その話はまたあとで聞く。ゆっくりとな」
モクバが急に立ち止まった。つんのめってビジネススーツの背中に額をぶつけた十代には構わずに、軽く手を挙げる。
「すまない。待たせた」
広場の時計塔の下に黒ずくめの男が立っている。こちらを向いて、気にしていないというふうに頭を振った。
どうやらモクバの待ち合わせ相手らしい。大企業の副社長の知人にしては、幅の広いサングラスと綿のマスクで素顔を覆い隠しており、見るからに怪しげな恰好だ。中折れ帽を取ると、ふさふさの巻き毛が現れる。親しげに会釈をしたあとで、黒ずくめの男は顎を十代へ向けて驚いたような素振りを見せた。
「君も一緒か。いや、久しぶりだね。こんなところで十代君の顔が見られるとは意外だった」
十代は口を開けたまま、まじまじと相手を見つめた。
「――えぇ? なんで?」
ひどく聞き覚えがある声だったのだ。