(イン・ワンダーランド) その日、エド・フェニックスがデュエル・アカデミア本島の港に停泊している船に戻ると、ひとりの男が勝手にキッチンの冷蔵庫を開けて、ソーセージやらサラミやらハムやらチーズやら、中身を引っ張り出して、手掴みでがつがつがつがつと食っている。 仮にもプロ・デュエリストのエドが寝泊まりする船だから、警備は厳重だ。その点には間違いない。しかしその男は、そんなことはお構いなしに確かに今ここにいて、エドの一週間分はある食料を、何のことわりもなしにがっついているのだ。 肩まで白いベッドシーツに包まってはいるものの、その寝癖のひどいブラウンの頭には見覚えがあったから、エドはすぐにその男の肩を掴んで叱責してやった。 「おい! 何をしているんだ十代! いくらレッド寮の粗末な食事では満足できなかったからと言って、いくら何でも勝手に僕の――」 男が振り向いた。そこで、エドは言葉を失った。妖しい虹彩異色症の目がエドを見上げていた。そんな目をした人間を、エドは知らない。 「誰だ、お前は!?」 ◆ 叫び声を聞いて、十代とヨハンは顔を見合わせた。 「エドの船からじゃん。なんかあったのかー?」 「エドってプロ・デュエリストのエド・フェニックスだよな」 「へへ、友達なんだぜ」 「マジで〜? どうしよ、サインもらいたいんだけど、俺紙もペンも持ってきてね〜」 ともあれ、あのエドが大声を上げるからには、ただごとじゃないなにかが起こったのだ。 「お邪魔しまーす」 一声掛けて船へ乗り込むと、青い空と心地良い潮風が余程気持ち良かったのか、エドの船の警備員が仰向けに寝転がっていびきを立てている。……これで警備と言えるのか? 「エドぉ〜?」 「じゅっ、十代!」 エドが珍しく狼狽した様子で振り向いた。彼の傍には見慣れない人間がいる。身体を白いシーツで覆っているが、シーツの隙間からはすらりとした剥き出しの白い足が零れていた。ヨハンが後ろ頭を掻いて、「あー」と居心地悪そうな声を出した。 「お邪魔しちゃったな〜」 「お邪魔? ヨハン、なんかしたのか?」 十代は首を傾げてヨハンを見たが、すぐに真っ赤な顔をしたエドが「違う!」と否定した。 「妙な誤解をするな! 大体こいつは女じゃない! 十代! お前の関係者だろう!?」 「へ? なんでオレ」 エドが勢い良くシーツ男を突き飛ばすと、彼はつんのめって十代へ倒れ掛かってきた。十代は、自分よりもいくらか背の高いその男を支えきれず、二人で床に倒れ込んでしまう。 「おい、乱暴は――」 ヨハンが十代とシーツ男の傍にしゃがみこみ、エドに責めるような目を向けた。しかし、そこで時間がぴったり停まったように黙り込んでしまう。 「いてて、どーしたヨハン。……え?」 十代も、エドとヨハンと同じくまるく目を見開いてしまった。 目の前には、遊城十代、自分自身の顔があった。力なく目を閉じてぐったりとしている。彼の腹が、ぐうー、と不憫な音を立てた。 「はら……へったあ……」 「あれだけ食ってまだ食い足りないのか!?」 エドが叫んだ。 ◆ 「名前は」 ヨハンが、まだいくらか動揺しているらしく、固い声で尋ねると、その奇妙なちぐはぐの目を持った男は澱みなくこう答えた。 「遊城十代」 その場に集まった翔や剣山達が肩を落とし、はあ、と溜息を吐いた。この不可思議な現象を、どう取り扱ったら良いものか。 「そう言えばオレ、昔良く遊んでくれたおにーさんがいたような気ぃすんなぁ。でも昔のことだから顔も覚えてない、けど、……こんなに似てたっけ?」 テーブルに肘をついて、十代はその『自称十代』をじーっと見つめた。 「そんなもの、忘れることか? お前の頭はそこまで救いようがないのか」 万丈目は呆れ果ててじとっとした目を十代に向けた。兄弟の顔を忘れることなど、いくらなんでもありうるのだろうか? 「でも名前まで同じというのも、なにか変な感じね」 「雰囲気も全然違うッス」 明日香と翔が十代と『自称十代』を見比べて言った。 『自称十代』はいくらか十代よりも背が高い。ヨハンよりも背丈があるようだったが、体つきはほっそりしていたから、彼のフリルシャツがぴったりと良く馴染んでいた。 「でも十代君が二人いるとややこしくて仕方がないね。どうだろう、ここは彼を便宜上『二十代君』と呼ぶのは?」 吹雪が提案する。皆『それはどうか』という顔になったが、結局他に上手いあだ名も決められない。 早速剣山が『ニ十代』に質問した。 「その、二十代さんは、この島に何をしに来たドン?」 「それが、分からないんだ」 ニ十代は緩く頭を振った。その声色も、落ち着いてこそいたが、十代そのものだ。 「気が付いたらこの島の砂浜に流れ付いていたんだ。その前の事は何も覚えてない。なんでか知らないけど裸で、腹も減ってたしで、その時近くに船が停泊していたもんだから――迷惑を掛けてすまなかったな」 二十代は面目無さそうに頭を下げた。思ったよりも常識人のようだ。エドは肩を竦め、「漂流者か」と言った。 「そして記憶喪失だ。だがここ最近は海も荒れていない。船が沈んだなんて話は聞いたことがない」 「これでも食らえってくらい謎の人っスね」 「なぁあんた、デュエルやんのか?」 十代が、そっくりの二十代の顔を覗き込んで言った。二十代は何でもない顔で「ああ」と頷いた。 「するんだけど、……オレのデッキどこに行ったか知らないか? どこにもないんだ」 「……言いにくいんだけど、漂流してる時に海に沈んじゃったんじゃないか? それよりも、記憶も服もないなら、行くあてもないだろう。困ったな、アカデミアに置いてもらえるかどうかも分からないし……」 ヨハンが眉間に皺を寄せて、頭をがりがり掻いている。しかし周りをよそに、ニ十代本人はまるで動じている様子もない。まだ上手く事態が飲み込めていないのだろうか、それともそういう性格なのだろうか? 「トメさんに頼んでみたらどうかな?」 十代が提案した。 「人手不足で困ってるって言ってた」 ◆ 「ああ、助かるねぇ! それもこんなイケメン!」 トメさんは嬉しそうに顔を綻ばせて、胸の前でぽんと手を打った。 「いけめんって、なんだぁ?」 「さあ」 十代は二十代のシャツの裾を引っ張って尋ねてみたが、彼も良く分からないらしく、首を傾げている。 「名前は何て言うんだい?」 「遊城じゅう……」 「二十代です! 十代の兄さんなんだよなっ!」 ヨハンが慌てて後ろから二十代の肩を掴んでフォローした。これ以上話がややこしくなっても困る。 「十代ちゃんにこんな格好良いお兄ちゃんがいたなんてねぇ」 トメさんが十代と二十代の顔を見比べる。そして十代の顔をまじまじと見て、「うん、良く似てるねぇ」と言った。 「十代ちゃんもあと何年かすれば、こんな男前になるんだろうねぇ」 「おにいちゃん?」 十代はぽかんと口を開けた。それから二十代を見上げて、徐々に瞳を輝かせ、二十代の腰に嬉しそうに飛び付いた。そして二十代の耳もとで声をひそめて、内緒話をする。 (オレさ、オレ、兄ちゃんとかすげー欲しかった!) 明日香と翔が羨ましくってさぁ、と言う。二十代はかすかに微笑んで、十代の頭を撫でた。なんだか子供の扱いには随分慣れているような、そんな手つきだった。二十代も十代の耳もとでそっと囁く。 (あとでデュエルしような) (する! する!) 十代はくすぐったそうな顔でにやにやしながら、ぱっと二十代の腰から離れた。しかしその隣で、どこかぶすっとしている顔の男がひとりいる。ヨハンだ。 「ヨハン? どうしたんだ、そんな顔。腹痛いのか?」 「へ? 俺?」 ヨハンは慌てて両手で自分の顔に触り、「なんでもないんだけどな」と言った。ただちょっと、なんでかわからないけれど、気分がもやもやするのだ。それだけだ。 「じゃあ二十代ちゃん、早速だけど、棚の整理を手伝ってくれるかい?」 「ああ、わかった」 ニ十代は借りたエプロンのリボンを器用に背中の後ろで結んで、棚に手を掛けようとした、ところで、 「――うおわぁっ!?」 足の踏み場もないくらいに積まれている段ボール箱につんのめって、派手に頭から転んだ。その拍子にひっくり返った棚に並べられた商品が、雨のように二十代の上に降り注ぐ。 「あらあら、大丈夫かい?」 トメさんが口もとに手を当てて二十代を覗き込むと、彼はこんもりとした商品の山から顔を出して、「わりー、トメさん」と眉を下げている。 ヨハン達が彼に対して抱いていた、クールでそつのなさそうなイメージが、がらがらと崩れていく。 ◆ 放課後になると、留学生組も購買へ顔を出した。アカデミアのカリスマ遊城十代に、そっくりな兄弟がいた。それが何故か購買の手伝いをやっている。これが噂にならない訳がない。 「十代のブラザーなんだって?」 「ほんとの兄弟ってわけじゃないみたいだけど……名前以外は覚えてない。どこから来たのかも分からない。記憶喪失ってやつなんだって」 ヨハンは肩を竦めてジムに説明した。しかし、見れば見る程ニ十代は十代にそっくりだ。ヨハンの中のもやもやが、更に深まっていく。これはなんだろう? 「不思議な目だ」 ジムが二十代に笑い掛け、自分の目を人差し指で示して見せた。二十代も首を傾げ、ジムを真似て自分の目を指で示している。 「オレの目がどうかしたのか?」 「いや。ただユーのオッド・アイが、とてもセクシーだってことさ」 ヨハンはなんとなく面白くなくて、じとっとした目をジムに向けた。 「何言ってんだジム」 「ふたつとも欲しいというのは、ちょっと欲張りなんじゃないか?」 「ど、どういう意味だよ。……俺は別に、そんなんじゃ」 「大事なものはひとつきりさ。なぁカレン」 「ぐぁあ」 逆に、にやにやした顔で返されてしまった。ヨハンは慌ててジムと二十代からぷいと顔を背けた。ジムは初対面の二十代に対して好印象を持ったようだったが、オブライエンは、仕事に戻り、朝よりはいくらか手際が良くなった二十代を、鋭い目で油断なく観察している。 「――あまり気を許すな。奴からは何か妙な気配がする」 「うん、俺も感じる。なんていうか、うーん」 ヨハンはオブライエンの言いたいことが、なんとなく分かる気がする。二十代からは、なんとなくだが、人間として何かすごく重要なものが、どこかずれているような印象を受けるのだ。でも、とヨハンは首を振る。 「悪いもんじゃないぜ」 「楽しそうだな、お前たち」 射るような視線に気付いて振り向いた二十代が、備品の詰まったケースをオブライエンに押し付けた。 「ここにあるの、倉庫まで運ばなきゃなんないんだけど、重くてさ」 「おい!」 「手伝ってくれるよな」 ニ十代がにっこり微笑んで言う。 「何故オレがお前の仕事を手伝わなければならない。オレは、お前を信用しては――」 オブライエンは、ふざけるなとでも言う顔でケースを段ボールの上に置き、 「オブライエン」 ニ十代に低い声音で名前を呼ばれて、凍り付いた。見ると二十代の瞳が――いつの間にか細く鋭くなり、金色に輝いている。 「――オレの言うことが聞けないのか」 オブライエンは、ああとも嫌だとも言わず、黙って段ボールごとケースを持ち上げた。 「なんかすごいもの見た気がする」 「こいつはとんだタイラントだな。オブライエン、オレも手伝おう」 ヨハンがぽかんと口を開けている横で、ジムはひゅうと口笛を吹いている。 そこにようやっと追試を終わらせた十代が駆け込んでくる。十代はすぐに二十代の腰に飛びついて、「っしゃー風呂だ〜!」と大声を上げた。 「げ」 風呂と聞いて、ヨハンがあからさまに顔を顰める。 「俺はい……」 俺はいい! いつものようにそう誘いを断わり掛けたヨハンは、いつの間にか二十代に強く腕を掴んでいることに気付いて、情けない顔になった。 「風呂、ちゃんと入れよ」 「よっし、ニ十代の兄ちゃん! ナイスだぜっ!」 「勘弁してくれー!」 ◆ レッド寮にはシャワー室なんて上等なものはない。あるのは剥き出しの岩肌と火山の熱で温められた自然の温泉、鬱蒼と繁る木々、そして『熊出没注意!』の看板。実にワイルドなのだ。 「温泉もいいけど、オレこっちも好きだぜー。兄ちゃんまだ温泉行ったことないだろうけどさ、あそこ、すっげー広くて、面白いの」 「ああ」 ニ十代は変な顔をして、「なんか妙な気分だ」と言った。 「オレ、この島のどこもかしこも、良く知っている気がするんだ。お前の言う温泉も良く知ってる。確か、確か――そう、温泉って言えば、あれだよな」 ニ十代はぽんと手を打って、十代に指を突き付け、 『カイバーマン!』 声を揃えた。 「兄ちゃんもカイバーマン見たことあんの? すっげー強いの。オレもうぼっこぼこにされちゃってさ〜」 「オレもオレも。なんか、変なことばっかり思い出すのに、肝心な記憶がぽっかり無くなっちまってるって、おかしな感じ」 「だーいじょうぶだって。いつか戻るさ。それまでここにいりゃいいじゃん。んん、この学園のこと詳しいのってさ、もしかすると兄ちゃん、卒業生だったのかなぁ」 「あ、そう言えば……」 「そういえば?」 「オレ、アカデミア、……卒業したような気がする。卒業して、そんで、うー……あー、そうだよ!」 ニ十代は急にぱっと顔を輝かせ、「遊戯さん!」と叫んだ。 「遊戯さんと卒業デュエルやったんだよ! 遊戯さん、オレの相手してくれたんだ。もー、すっげええ、カッコ良くってさぁ〜! 本物のオシリス見ちゃったぜ!」 「えー! マジで? 遊戯さんと!? ちくしょお、うらやましー!」 「だろっ! オレ、ジャケットの裏にサインしてもらっちゃってさぁ〜!」 「遊戯さんカッコいーよなあ〜!」 「ああ、憧れるよなぁ〜!」 「なあー!」 二人して鏡みたいに同じ顔と同じ声で笑っている十代と二十代の後ろで、ヨハンは背中を向けて顎まで湯に浸かり、真っ赤な顔で「絶対おかしい、絶対おかしい」と呟き続けている。 「……何なんだよ、その身体ぁ〜!」 「身体?」 「からだあ?」 十代と二十代が顔を見合わせて、同じタイミングで首を傾げて声を揃えた。 『どうかしたのか、ヨハン?』 「どうかしたのか、じゃないっ! なんで二十代、胸があるのに、当たり前の顔して俺達と風呂入ってるんだよ! 十代もだ! ちょっとはおかしいって思えよ!」 「でもちんこついてるし。ちんこついてたら男だろー」 十代はあっけらかんと言う。ヨハンには理解出来ない。二十代の奇妙なところは、ちぐはぐの瞳や境遇だけでは済まなかった。何故か身体の右半分は、柔らかい女性だったのだ。もう半分はどこからどう見ても男だ。身体の半分と半分で、別々の性別がひとつの身体に同居している。こんな人間は見たことがない! しかし十代は、奇妙な二十代の身体を目にしても、当たり前のような顔をしている。 「あのさー、オレ、やっぱりニ十代の兄ちゃんのこと知ってるんだよ。オレたち昔、ずーっと一緒にいたんだよ、たぶん。オレ子供の頃の記憶が曖昧でさ、良く覚えてないけど、誰かがいつも一緒にいたんだ。そいつ、半分男で、半分女で、いつもうちにいない父さんと母さんのかわりに、オレの父さんと母さんだったんだ。雰囲気っていうか、気配っていうか、ぜんぜんおんなじで、……すげーなつかしー」 十代はそう言いながらも少し自信が無さそうに首を傾げ、「でもそいつ、オレに似てたっけ?」と言った。よくわからない。覚えていない。記憶を引っ張り出そうとしたら、なんだか頭がずきずきしてきた。 すると、ニ十代が頭から十代に湯を掛ける。 「十代、ヨハンのやつ、ほっといたらずーっとこのままだぜ」 「あ、そうだっけ。うん、そうだ」 二十代は何も言わなかったが、『なにも思い出さなくていい』という言葉が聞こえてきた気がした。 「ヨハンは気を抜くとすぐ逃げるからな。十代、そっち腕、ちゃんと掴んでおけよ」 「おう、任せろ兄ちゃん! ヨハンはさ〜、なんでこんなきもちいいのに、風呂が嫌いかな〜。オレわかんねぇ〜」 「オレもわかんねぇ〜。十代、頭洗ってやってくれるか? ヨハンの身体はオレに任せろ」 「気を付けろよ〜、ヨハン暴れるからさぁ〜」 「大丈夫、大丈夫。ファラオに比べたらおとなしいもんさ」 「人をデブ猫と一緒にすんなよなぁ〜!」 文句を言っても、二人がかりにはかなわない。 「ぎゃあ! ちんこさわんなっ! 自分で洗うっ!」 「最初からそうすりゃいいんだよ」 ニ十代が笑う。その顔は、やはり十代そのものだ。『そっくり』なんてレベルじゃない。 なんだかおかしな気分になってくる。 「――!」 ヨハンは、はっとなって、慌てて二人の手から逃れ、湯の中に逃げ込んだ。「あー、逃げた!」という十代の楽しそうな声が聞こえる。それが恨めしいったらない。十代は何も分かっていないのだ。 「あーもーお前ら、ばかやろー!」 ヨハンは真っ赤になって叫んだ。けらけら笑いながらふざけて追い掛けてくる十代を、意外なことに、二十代がそっと肩を掴んで押しとどめてくれる。 「ヨハンの奴、湯冷めしちゃったみたいだな。オレ達は先上がるか。やっとデュエルができるな〜」 「おう! デュエルデュエル〜! 兄ちゃん強いんだろ、な、なっ!」 「ああ、強い、強い。超強いぜ」 「楽しみだぜ〜! オレ先上がってる! ヨハンと兄ちゃんも早く来いよなっ!」 十代が木の枝に引っ掛けていたタオルで頭を拭いて、手早く下着を履き、まだ濡れた身体に頓着せずにジャージを羽織って、レッド寮へ駆け戻っていく。同じように、十代よりもゆっくりとシャツを着込んだ二十代は、岩のへりにしゃがみこみ、のぼせかけているヨハンの額にそっと手を当てた。 「若いよな〜」 「……あんたのその、全部分かってるんだって顔が気に入らない」 ヨハンは憮然とした顔で、鼻先まで湯に沈んだ。湯冷めなんかしていない。湯から上がらないんじゃない。上がれないのだ。 大体元はといえばこの目の前の男だか女だか分からない生き物が、変なところを触るから悪い。親友と、親友と同じ顔をした男女と、三人きりの空間で下半身が面倒臭いことになっているなんて、いくら何でも気まずすぎる。 「辛いなら、手伝ってやろーか?」 「結構です!」 「のぼせて倒れんなよ。お前は可愛い男だな」 悪戯っぽく言う二十代に、ヨハンは本物の悪魔を見たような気がした。 ◆ ヨハンが寮に戻ると、十代の傍らに座り込んだ二十代が顔を上げて人差し指を唇に当て、「しい」と言った。十代は、待ちくたびれて眠ってしまっているようだった。 ベッドの上の十代の頭を、二十代が優しい手つきで撫でている。相変わらず慣れた仕草だ。奇妙な感じだった。 二十代の十代を見る目には、たまらないくらい、切ない程のいとおしさがある。恋情や家族愛、そんなものともまた少し次元が違う、まるで老人が子供だった頃のアルバムを見付けて、懐かしい日々を回想するようなものだ。 白くほっそりとした手が、すうっと十代の髪を梳いて――そして一瞬、二十代の腕が、十代の中へ吸い込まれるように消えた。 ニ十代自身も、不思議そうに自分の手を見ている。彼の身体は窓から射し込む月の光に照らされて、うっすらと透き通っていた。 「あんたは、一体――」 ヨハンは、ニ十代を詰問しかけたところで、大きく目を見開いた。二十代がふっと身を乗り出して、ヨハンの唇にキスをしたのだ。 「わかんねえ」 ニ十代は、少し困ったように微笑んだ。 ヨハンは慌てて壁際まで尻をずって後退り、唇をジャージの袖でごしごしと強く拭った。 「お、俺が好きなのはあんたじゃない! その、悪いけど! 俺、もう好きな奴、いるから!!」 「知ってる」 ニ十代の返事は、あっさりしたものだった。 「え?」 「知ってる気がする。オレにもいるんだ。オレ、たぶんすごくあいしてる奴がいて、そいつがすごくお前に似てるんだよ、たしか」 「あ、あいぃ?」 ヨハンは十代と同じ声が紡ぐにしては耳慣れない言葉を聞いて、呆気に取られていた。そして何より、ひどく動揺していた。 (なんだこれ。なんだ、これぇ!!) ヨハンはあきらかに嫉妬をしていた。二十代の『あいしてる奴』に、ひどい怒りと羨望を覚えているのだ。 (違うだろ。たったひとりきりだ。俺が、好きなのは!) ヨハンがそっと視線をやると、十代は相変わらずぽっかりと口を開けて、だらしない寝顔を晒している。 なんだかすごく後ろめたかった。 ◆ 「『エンド・オブ・ザ・ワールド』を発動。熟練の黒魔術師と熟練の白魔導師を生贄に、終焉の王デミスを召喚。2000ライフポイントを支払う事で、このカードを除くフィールド上のカードを全て破壊する」 「うえぇ!?」 「行け、デミス。十代にダイレクト・アタックだ」 「……あー! また負けたァ!」 「ガッチャ! 楽しいデュエルだったぜ」 ニ十代が十代に右指を突き付ける。十代はぷうっと頬を膨らませ、「なんでだよぉ〜」とぼやいている。 「8パック買ったやつで、オレ勝てないって、なんなんだよもぉ〜」 「当たり前だろ。オレはお前にだけは負けられない。負けちゃいけない」 「はあ? なにそれ?」 「お前に負けたら、今までのオレが全部否定されるような気がする。だから、負けられない」 「なんだそれ。オレは楽しけりゃいーぜ。デュエルで難しいこと、考える必要ないじゃん」 「……そうなんだけど」 ニ十代は、物言いたげにすうっと目を伏せる。しかしすぐにいつもの穏やかな顔に戻って、ベッドに腰掛けてデュエルを見ていたヨハンを見上げ、首を傾げてみせた。 「ん? お前もやるか。そーいう顔してる」 「強い奴とやりたいって考えるのは、デュエリストとして当然だろ。それに、あんたには昨日の仕返しもしてやりたい」 「なんだよ、根に持ってたのか」 「昨日のしかえし? 兄ちゃん、ヨハンになんかやったの?」 「あのな、ヨハンに」 「うわあああっ! 十代、そんなのはどうだっていいんだ! 俺は負けないからな!」 ヨハンは真っ赤な顔で二十代の声を遮り、十代に場を譲って貰って、真剣な顔で二十代を睨んだ。 (変なこと言うなよな!) (何も変じゃないぜ) (……あんたみたいなセーカクの悪い奴が、『あいしてる』なんて言う奴の顔が見てみたいもんだぜ。そいつはあんた以上にセーカクが悪いか、すっげえ心の広い奴か、どっちかなんだ、きっと) (そうかな) (そうに決まってる) (会いたい) (へっ?) (オレ、すっげー、そいつに会いたい) いつのまにか、ニ十代の唇がきゅっと引き結ばれていた。相変わらず人の悪い顔で微笑んでいるくせに、 (なんか……泣きそう?) ヨハンはデッキをシャッフルし、ニ十代に押し付けた。 「ほら、もたもたせずに早くやろうぜ」 「ああ」 ニ十代は頷いて、またいつものように胡散臭い静かな笑顔で、わりい、と言った。 ◆ 日が暮れ、負けっぱなしだった十代はヨハンの横で不貞寝をしている。デュエルの疲れもあったろう。そんな中で、ヨハンはようやっと二十代から一勝をもぎ取った。 「――よし! やっと勝ったぜ〜! あんたほんとにめちゃくちゃ強いなぁ、セーカクは悪いけど!」 ヨハンは膝を投げ出して大きく息を吐き、ニ十代に指を突き付けた。ガッチャ! しかし連戦連勝を破られた二十代は、悔しがるでもない。勝負が決まった途端、虚ろな目でじっと床を見つめて、頭を抱えている。 「どうした? ニ十代」 「……オレ、」 「ん?」 「オレ、――死んだんだ」 「……はぁ〜?」 いきなり何を言い出すかと思えば。ヨハンは呆れて半分目を眇めた。 「じゃあ今ここにいるのは誰なんだよ。俺の目の前にいるのは?」 「だから、思い出したんだ。寿命だったんだよ。オレさ、沢山血が出て、身体動かなくなって、つめたくなって、その時に沢山いろんなこと考えたんだ。いろんな思い出を持ってたんだ。オレ手ぶらで走ってたつもりだったけど、そんなことなかった。すごく沢山のものを持ってた。オレは空っぽなんかじゃなかった」 二十代のちぐはぐの目は、怖いくらいに真剣だった。嘘を言っている様子じゃない。いつものように胡散臭い笑顔もない。 それがヨハンには恐ろしかった。背中が、凍り付くような気がした。 「にじゅーだい? おい……やめろよ、それ」 「……すごくそれが今は嬉しい。楽しいことが、オレには沢山あったんだ。辛いことも、苦しいことも、けっこうあったんだけど。そんなのをひとつひとつ取り出して、昔の思い出を確めて――それが今なんだ。生きてると死んでるのの真中で、最期に見てる夢のなかにオレはいるんだ。だから、思い出したからもうお前にはさわれない」 二十代がすうっと手を伸ばす。しかしその細い腕がヨハンに触れることはもうない。ヨハンの皮膚を、身体を透過する。 『ほらな』 ニ十代が、寂しそうに微笑んだ。 『みんな上手くやってるよ。オレとおなじだ、楽しいことも辛いこともたくさん持ってる。でもオレはお前には言わない。未来を過去が知ることほど救いのないことはないと思う』 「……何言ってんだよ。寝惚けてんのか? お前はきっと、十代のほんとの兄さんなんだ。十代、お前のことすごく好きなんだ。十代が起きたらさ、こいつ負けず嫌いだから、あんたに勝つまできっとデュエルやろうぜって、ずーっと言ってる」 『だからヨハン、『だからそれ、オレなんだよ』。オレが、そうなんだよ』 二十代が言う。彼には少年じみたところはもうない。大人びた青年と女の身体を持っている。 ヨハンの中で、時間が停まったようになった。 じゅうだい? 『でもオレ、オレのヨハンに言い忘れたことがあってさ。これだけは、』 二十代――十代はヨハンの背中を、ほっそりした腕で抱き締めた。しかし感触はもうない。彼はもう、十八才のヨハンよりも、いくらか背丈が高かった。そして、静かな声で言う。 これは遺言だ。 『――あいしてる。ずっと、ずっと、オレ死んでも、お前のことが大好きだよ。またいつか生まれ変わったらデュエルやろうな。お前と出会えてほんとによかった。こんな身体になっちまったけど』 骨が捻れる音がした。十代の骨格が盛り上がり、禍々しい黒い翼が彼の背中を突き破って生まれる。腕にはびっしりと鱗が浮かび、鋭い爪と角が生えて、脚も鳥や蜥蜴のような奇妙なかたちに変化する。 『オレ、もう化物になっちゃったけど』 「じゅう、だい?」 ヨハンの目の前で、泣きたいのを我慢して、必死に笑顔を取り繕っている横顔は、ヨハンが知っている遊城十代となにも変わらなかった。 『お前を置いて死んじまうようなやつだけど、ヨハン』 「お前なのか?」 十代が、微笑んだ。ぽつぽつと、床の上に彼の目から零れた滴が零れ、濡らしていく。 『あいしてくれて、ありがとう』 そして、さらさらとした白い砂に変わり、消えていった。 ◆ 「ヨハン?」 目を覚ますと、目の前には十代がいた。彼はヨハンの頬を摘んでふにふにと引っ張り、しょうがないなと言う顔をしている。 「起きろよ。遅刻しちまうってェ〜。今日の一時間目は実技だぜ〜」 ヨハンは、十代の手をそっと握った。そして掴んだ手を頬に押し付けてみる。温かかった。 「寝惚けてんのかヨハン? おーい」 「……かなしい夢を見てた」 「どんな?」 「じゅうだい、お前さ、長生きしろよな」 「ヨハン?」 「ほんと、俺よりも、ジムよりアモンより、オブライエンよりも、この学園の皆よりずーっと、一番年寄りのじーさんになってくれよ」 「泣いてんのか? なんで?」 「……ほんと、頼むからさ」 「よくわかんないけど、大丈夫だって」 十代は屈託なく笑って言った。 「オレ、あと98年くらい生きる予定だからさ」 ◆ 「おはよう」 目を覚ますと、目の前にはワニがいた。ワニは十代が目を覚ましたと知ると、「ぐああ」と大きく鳴いた。どこか安堵しているようだった。 今しがた掛けられた「おはよう」は、もちろんこのワニのものじゃない。男のものだ。人間の男だ。片目に包帯を巻いた男が、十代を覗き込んできていた。 「楽しい夢を見てた」 十代は言った。 「そりゃ良かった」 男は言った。 「お前誰?」 「……記憶がないのかい」 男は驚いた様子だったが、帽子のつばを下げ、「まあ生きてるだけで儲けものさ」と言った。 「ユーは海岸に漂着していたんだ。見付けた時は、愛するプリンスを追い掛けてきたおてんばな人魚姫かと思ったけれどね――」 ・END・ |