(吸血鬼ヨハンさん×修道女二十代様パラレルご注意)




「ヨハン? ヨハン、どこへ逃げたの」
 古城の真っ暗なダンスホールの中、ヨハンの姉のカミューラの怒声がたわんで響き、そして空洞の闇の中へ吸い込まれていく。
「お母様の形見のネックレス、探しておきなさいって言ったのに!」
 かつ、かつ、とヒールの踵が石の床を叩く音が聞こえた。そしてエメラルド色の長く美しい髪が、苛立ちを孕んで、まるで台風の日の森の木々のようにぶわりと翻りながら、大理石の柱の陰に身を潜めているヨハンの前を通り過ぎていく。
(探し物があるならコウモリ達に頼めばいいのに。その為のしもべじゃないか)
(るびび〜?)
 カミューラの姿が見えなくなると、ヨハンは月明りの射す回廊へそっと身を乗り出し、居城を後にした。


 ヨハンは誇り高きヴァンパイア一族の血統、アンデルセン家の吸血王子だ。この闇の眷属達は、普段は人間の目に触れる事を嫌い、深い森の中に居城を構えて、昼間は冷たい棺桶の中で眠りについている。日が落ちれば、人の生き血を求めて夜の中をさまよい歩く。
 因果な生物である。それが祟ったのか、一族は太陽の光に晒されると、薄っぺらい羊皮紙でも炙るように、あっけなく燃え尽きて白い灰になってしまう。
 ――人間の命を啜って生きる魔物は、存在する事すら大罪である。
 人間達はそう叫ぶ。そしてヨハン達吸血鬼の一族は、すでに半数近くが心臓に杭を打ち付けられて殺された。
 吸血鬼は人間を憎む。人間も吸血鬼を憎む。憎悪は果てのない螺旋階段のようにぐるぐると巡り続ける。


 今夜もヨハンが姉の目をかすめて城を抜け出し、暗い森を抜けて向かう先は、家族達からきつく止められている、人間達の生活区域だ。
 まだ森が途切れないうちから、湿った土の上に刻まれた靴の跡や、昼間木の洞へやってきて遊んでいた子供が忘れて帰ったらしい驢馬の人形が、ここはもうヨハンがあるべきではない世界であることを教えてくれる。人間の匂いが濃くなってくる。
 木々の茂みを掻き分けていくと、唐突に白い光が、さあっと天から降り注いでくる。まるで昼間のような明るさに、ぎくっとして顔を上げると、目の前に、巨大な石のプレートが、真上から射す月の光を反射して静かに佇んでいる。
 黒曜石のプレートは表面を平坦に磨き上げられ、きらきらと宝石のように輝いている。何も刻まれてはいない。
 今夜も修道女がひとりやってきていた。
 摘んだばかりのりんどうの花を無名のプレートの前に捧げて、ほっそりとした白い指を組み合わせて頭を垂れている。
 凍えた風が笛のような音を鳴らしながら、黒いヴェールをなびかせる。ヨハンは外套の襟を合わせて肩を縮こまらせたが、修道女は何も感じていないふうに、ただ気が済むまで時間を掛けて祈りを捧げると、ふうと振り向いた。形の良い唇がかすかに吊り上がる。
「今夜は、月は出てるか?」
 修道女が落ち付いた声で言った。こんなに明るいのに、その人には分からないのだ。双眸は白いガーゼの包帯でぐるぐると覆われている。彼女は目が見えないのだ。
 ヨハンは、「ああ」と明るく言った。
「雲ひとつない夜空だ。良い天気だよ」
「今日も来たのか」
「ああ、君に『懺悔』をしに。それにしても、それ」
 つるつるとしたプレートを指差して、ヨハンは感心して言った。
「こんなに大きな墓を作ってもらえるなんて、そいつはよほど大きな身体か、よほど偉い奴だったに違いないぜ」
 修道女は首を振ると、特に感慨もなさそうに言った。
「大きくも、偉くも、強くもないさ。小さいものが沢山死んだ。今も死んでる。名前を刻む暇もない」
「君はそいつらの為に祈ってるのか? 見ず知らずの誰かの為に? 優しいな」
 ヨハンが言うと、修道女はあてつけるような、自嘲するような、奇妙な笑い方をする。
「そう思うか?」
 痩せた背中から、彼女の胸に掛かっている十字架を手繰って、ヨハンはにっこりと微笑んだ。
「思うさ。一緒に祈るよ」
「どうぞご自由に」
 修道女が気だるげに応えた。
 彼女は、名を十代という。修道院住まいの、神を崇拝する信仰の使徒で、本来ならば吸血鬼のヨハンの天敵である。


 ある晩ヨハンは偶然、森の中で無名の墓に祈りを捧げる十代を見掛けた。月明りに照らされた、静かな、彼女自身の信仰の中に没頭している姿がとても美しいと思ったのを、ヨハンはよく覚えている。
 十代はいつも決まって、夜の森の名もなき墓石に祈りを捧げにやってくる。
 今まで見た事が無い位に綺麗な『人間』を見ていたくて、木陰にそっと身を潜め、白い月が薄明るい空に沈んでいくまで、ずっと彼女を眺めていた。はじめは言葉を交わす事など考えもつかなかった。吸血鬼と人間は、『食べるもの』と『食べられるもの』だ。共存はありえない。ヨハンは家族達から、いつも強くそう言い聞かせられていた。
 どれだけ綺麗な姿をしていても、彼女も吸血鬼と遭遇すれば、悲鳴を上げて逃げ出すに違いないのだ。
 しかし、ある晩の事だった。十代は、いつものように茂みの陰からじっと彼女を見つめているヨハンのほうへ、いきなり振り向いて、艶やかに微笑んでこう言ったのだ。
「毎晩ご苦労様だな。懺悔でも聞いて欲しいのか?」
 十代はヨハンを見てもひとつも動じる事なく、どこか母親が子供を諭すような柔らかな声でそう言った。
 両方の目は包帯で覆われていた。これではヨハンの姿を見る事はできない。
 闇の眷属である自分が気配を殺して隠れていたのに、まさか見つかるとは思ってもみなかったヨハンは、動揺して、咄嗟に訳の分からない言い訳を並べ立ててしまう。
「えー、えーと、ああ、実は俺今日さぁ、姉さんが風呂上りに飲もうと冷やしてたワインをちょろまかしちゃってさぁ〜……」
「昨日も来てたろ。昨日の夜は?」
「昨日は……そう、確かしもべのコバルトの羽根を、寝てる間にこっそり一本引っこ抜いちゃったんだ。羽根ペンがちょうどなくて、だから」
 十代はしどろもどろになっているヨハンに、喉の奥でくっくっと笑うと、肩を竦めて頭を振り、両手を広げて見せた。
「可愛い悪戯じゃねぇか。何も無理して悪い所を見付けることはないんだぜ。オレはこんな格好をしちゃいるが、お前の罪を清めてやれるような綺麗な人間じゃない」
「……綺麗だぜ!」
 ヨハンは咄嗟にそう言って、しばらく迷ってから彼女のそばへ行って、ぎゅっと手を握った。温かく、血の通った人間の手だった。
「ぶっちゃけちゃうと俺は、君に見とれていたんだ。君はとても綺麗で、人間なんてみんな汚くて悪い奴ばかりだって今まで思ってたから、何て言うか、聞いてたのと違うな〜っていうか、あ、いや別に、俺が人間じゃないとかじゃ……ないけどさ〜!」
「ふうん」
 十代はしばらく何かを思案するような素振りを見せた後で、きゅっとヨハンの手を握り返した。その途端に、ヨハンの心臓が強く締め付けられるような心地になる。
 これは何だろう? 今まで感じたことのない気持ちだ。
 家族と一緒にいる時には、知らなかったものだ。
「柄じゃねぇけど……お前に神のご加護があるように」
 十代はそう言うと、ヨハンの手の甲に軽く唇を付けた。
 とても清潔な、キスをした。
 その時に、ヨハンは、以前から見惚れていた彼女に、完全に心を奪い去られてしまったのだ。ごっそりと。


 十代は目が見えない。理由は聞いた事がない。そのお陰でヨハンが吸血鬼である事を知らない。
 それでも時折ヨハンはその事について思いを馳せる。
 十代は何故目に包帯をぐるぐると巻いているのか?
 どんな顔をしているんだろう?
 何故修道女なんかに?
 どちらの性別の匂いもする『彼女』は、本当に『女性』なのだろうか?
 そんな疑問をいくつも抱きながらも、十代と過ごす一日のうちのほんの僅かな時間は、ヨハンにとってかけがえのない大切なものになった。


「これを君に。お守りさ。俺の家に昔から伝わるものなんだけど」
 ヨハンが十代の手を取って、手のひらに宝玉のかけらを乗せてやると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「これは何だ?」
「宝石だよ。女の子って、そういうの喜ぶんじゃないのか? 少なくともうちの姉さんは目がないぜ」
「……冷たい石の感触がするな」
 目が見えない十代には、美しい宝玉の輝きも分からない。ヨハンはなんとなく悲しい気持ちになった。
「こんな綺麗な宝石がただの石ころと同じなんて。君は可哀相だな」
「オレは冷たい石よりも、ヨハンの手の方が好きだけど」
 そう言って、十代がヨハンの手のひらを両手で包み込む。ヨハンは、自分の頬に熱が集まるのを感じた。
「血の匂いがする。怪我してるのか、ヨハン」
「んー? ああ、大したことないって」
 ヨハンは右手のひらの小さな火傷に目を落とし、頷いた。十代の十字架に触れた時に焼けたのだろう。神の加護は闇の眷属を傷つける。
(神様に祈る吸血鬼なんて、変だよなぁ)
 十代に出会う前は、魔物達を呪う神なんて吐き気がする程嫌いだったのだ。今もそれは変わらない。
 祈っている相手は神じゃない。懺悔をしている相手も違う。ヨハンの祈りは、この美しい盲目の修道女へ向けられるものだった。
「ああじゃねぇよ。お前はしょうのない奴だな」
 呆れたように肩を竦め、ヴェールの裾を破いて、ヨハンの手のひらに巻き付けていく十代の髪が鼻先を擽る。知らない種類の、いい匂いがした。
 これは何の匂いなんだろう? 夜の中には無い匂いだ。
 無防備に晒されている十代の首筋を見ていると、ヨハンの中にまた原始的な欲求が生まれ、むくむくと育ちはじめる。
 ――十代の血が飲んでみたい。
 今までも、ヨハンは何度も何度も彼女の血を吸ってやろうと思った。
 それが、どうしてもできない。十代を穢して、同じ吸血鬼の眷属に、ヨハンのしもべにすることがどうしてもできない。
 花は摘めば、乾いて枯れてしまうのだ。
 ヨハンは、庭で好きに咲いている花を眺めるだけでいい。そう思っている。
「……いつも話を聞かせてくれる対価に、オレもひとつ話をしてやるよ」
 十代が、絵本でも読み聞かせるように穏やかに語り始める。
「ある国に、すげぇ悪い王がいたんだ。悪い王は力と正義が同じものだと思ってて、まあ悪行の限りを尽くしてた。でも力なんて脆いもんだ。そのうち悪い王の天下は終わる。王は反乱軍に捕まって、邪悪な力を持った目を、瞼を縫い付けられて塞がれた」
 十代が、自分の目を覆う包帯を指差し、修道女には似つかわしく無い、艶を含んだ笑みを浮かべる。
「この包帯の下にあるのは、おぞましい、醜い傷痕だ。誰にも見せない。お前はいつもオレの顔が見たいって言ってくれてるよな、ヨハン?」
「ああ」
 ヨハンは頷いて、十代の頬に手を添わせた。彼女はどこか楽しそうに言う。
「……見たらきっと、お前はもうここには来なくなるだろうぜ」
 ――十代が人間の敵の自分を見たら、きっと怖れるだろう。
 ヨハンは目を閉じた。
 同じ事を、ヨハンもずっと考え続けていた。
「……明日は、はさみを持って来るぜ。君の瞼を塞ぐ糸を切って、また世界を見せてやる。俺は、君のその包帯の下に両目がなくて、もしも卵みたいにつるつるでも、また君に会いにくるし。……でもさ、君こそ俺の顔を見たら、もう夜中にひとりで散歩をすることはなくなるかもしれない」
「それはないな。ヨハンに会えることが、今のオレの唯一の楽しみだ」
「君は神の妻じゃないのか?」
 ヨハンは呆れてそう尋ねたが、十代はまるで頓着したふうもない。
「そう。神様は心が広くておおらかだから、妻が人を何人殺そうが、愛人を作ろうが、何も言わないのさ。そもそも、神様自身がオレ以外にも沢山妻を持ってるんだ。浮気の一つくらい構わないだろ」
「……なんて自分勝手な考え方だろう」
 十代は胸の前で両手を組み、すっと立ち上がった。
「偉大な、十二次元を統べる神の名において。約束だ。……また明日の夜に会おうぜ」
 ――十代は、本当は分かってるんじゃないだろうか。
 彼女は目が見えない分だけ、感覚が鋭い。闇の眷属の匂いを悟っているんじゃないだろうか。
 ヨハンが何者なのか、本当はもう分かっているんじゃないだろうか。
 でも、彼女はなにも言わない。
――ああ、また明日」
 ヨハンは頷いて、白みつつある夜空を見上げて古城への帰途に付いた。




*** おわり

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