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アカデミア島の研究所地下に広がる密林は、今も記憶の中にあるものと同じく、火山の熱気で暖められた湿り気のある空気に満ちていた。少し息苦しい。発電用の電力はとうに失われていたから、すべては地中の闇の中に埋没していた。
どこかで奇妙な鳥の鳴き声がする。木々を渡り歩く猿が葉を揺らす音や、茂みの中に姿勢を低くして潜んでいる肉食獣の息遣いが聞こえてくる。そのどれもが自分を遠巻きにして、一定の距離を取っている。野生動物の本能は人間の理性よりも、ある時は賢明だ。得体の知れないものには近付かない。足元を、手のひら程の大きさの蜘蛛が大慌てで逃げ去ってゆくのが見えた。
目当ての場所は、密集した枝を払った先にある。森が途切れる。視界が開け、蔦に覆われた建造物が目に飛び込んでくる。周りには深い壕が巡らせてある。
渡り橋の欄干の下に、摘んだばかりの花束を供えた。定期船の船員にねだって手に入れたブランデーのボトルを開け、中身を壕へ注ぎ、火を灯したオイルライターを投げ入れる。遥か下方で赤い火が燃え上がり、アルコールの匂いが空気の中に立ち込めた。
背後で砂利石を踏む音がした。
「何事かと思ったよ。酒臭いじゃないか。私は酒を呑まない」
「プロだった頃は呑んでた。映像記録に残ってたよ。美味そうに水割りを飲んでた。いつか成功して毎晩ストレートで呑みたいってのが口癖だった」
「社交辞令だよ。盛り場で酒の呑めない決闘者など恰好がつかないにも程があるだろう。君のような子供には分からんだろうがね。何故私の所へ来たんだ。嫌がらせかね」
「コブラ『先生』はオレの話なんて聞いちゃくれなかった。楽しそうでさ。ジャマしちゃわりいし」
十代は振り返った。しけた顔をした幽霊が立っている。
数ヶ月前までは、暗い顔は変わらないが生きていた男だ。アカデミア本校の元教師だ。教師を辞職した日に死んだ。今は死骸も虫に食われてしまっただろう。ただぼんやりと立ち尽くすだけの幽霊だ。佐藤という。
「教師ってのは、死んだらみんな幽霊になるのかな」
何となく思い付いて言ってみた。似たようなケースを知っている。
「みんなの期待と希望を一身に背負って戦い続けたヒーロー、遊城十代が心を闇に染める」
佐藤はそれを無視して別のことを言った。子供のいい加減な言動にはもう関わりたくもないというふうに。
どこか機嫌が良さそうにも見えた。自分の信じた『正しさ』を再確認しているのかもしれない。
「君にもようやく決闘者が背負うべき心の闇が分かったようだ。そのことで心の荷が降りたよ。最も矯正すべき生徒に教えるべきことを教えることができた。これで成仏できそうだ。私の言うことを、理解してくれたようだね。うれしいよ」
「あんたの気持ちは分かる」
十代は頷いた。心の闇に関しては、味や舌触りのようなものとして、今や誰よりも理解することができていた。
「でも肯定はできないし、尊敬もできない。オレが尊敬できるのは、子供たちの未来には光が溢れていると教えてくれたクロノス先生。生徒がどんなバカを仕出かしても最後まで付き合って見守ってくれた大徳寺先生。おおらかに生徒たちを包み込んでくれた校長先生。心から生徒を愛する先生たちだ。佐藤先生、オレからもひとつ教えてやるよ。あんたにも足りないものがある」
「足りないもの?」
「愛だよ。生徒を愛する心。赦す心。そして教師として教えるばかりじゃなく生徒に教えられ自らも成長する意志。柔らかく変化する心」
肩を竦める。首筋がむず痒かった。
「……なんだって。クロノスセンセの受け売り。オレが尊敬する先生たちはみんな持ってたものさ。あんた、すごいデュエリストなんだろうけど、全然教師に向いてないよ」
数ヶ月前は、その男の言う事が全く理解できなかった。あまりにも理解ができないから、ひどく不安になるくらいに分からなかった。分からない事がとてつもなく悪い事のように思えた。
今は理解が訪れていた。同情もしていた。共感はできそうになかった。
道端に落ちている塵に気付いても拾わない者と、気付いて拾わない者がいたとする。
果たしてどちらが悪いのか?
どちらも条件は同じなのだ。気付かなかった者は、帰り道に気付いて拾うかもしれない。気付いて拾わなかった者も、いつかは拾うかもしれない。もしくはおせっかいな掃除人が現れるかもしれないし、塵はいつまでも拾われないかもしれない。拾われないまま土に還り、やがて飛んできた植物の種が育って花でも咲くのかもしれない。地球は回り続けるし、明日になれば太陽も昇る。
少しひねくれればその程度の問題だった。子供に怖い顔をして問うようなことでもない。きっとあの頃の自分は馬鹿正直が過ぎたのだろう。幼児のように。
この男はきっと教師よりも詐欺師に向いていたのだ。佐藤は片眉を不快そうに上げた。
「君のような落ち零れに私の適性を語ってもらいたくない」
「スカブ・スカーナイトはあんたを愛してた。あんたも相棒を愛してた。ならどうして楽しいデュエルができなかったんだろう? どうしてみんなに認めてもらえなかったんだろう? あんたはそれを探し続けていた。あんたはリーグでもアカデミアでもその答えを探し続けていた。でも見付けることができなかった。観客にも生徒にも同僚にも見捨てられて、あんたは自分に存在価値がないことを思い知った。こんなはずじゃなかった、前座デュエルで力を使い果たさなければ、スカーナイトが全力で戦えていたら――そんな『もしも』はない。あんたの後悔なんて、プロとして生きていくことに覚悟と誇りを持ってるエドやカイザー、サンダーの足元にも及ばない。自分がつまんない存在だって、認めたくなかったんだろう。……ただ楽しくデュエルやってたら良かったんだ。子供たちが憧れるデュエルを。富と名声を追い求めて、結局あんたはすべてを失った。現実を見ろよ。あんた随分迷走してるよ。デュエルが楽しくない奴に、デュエルを語る資格はない」
「君は人の心の闇を見る事ができるようになったんだったな」
「誰だって分かるさ。先生は可哀想だ。誰かに言ってもらいたかったんだろう。頑張ったのに認めてもらえなくて可哀想だって」
大仰に腕を広げて見せる。佐藤が溜息を吐いた。
「君は随分嫌な変わり方をした」
「そう、先生は可哀想で不幸だ。でも先生、大人は、子供にカッコ悪いとこ見せちゃいけないよ。踏ん張って歯を食いしばって子供を守るもの、それが大人だ。オレが尊敬する先生たちだ。オレは最後まで落ち零れだったけど、そのくらいはわかるよ。もう大人になったから。あんたのおかげでな」
自分以外の何かの為にデュエルをしようと思ったのが、そもそもの間違いだったのだろうと思う。十代もそれは良く身に染みていた。全然楽しくない。あんなものはただの殺し合いだ。ゲームじゃない。 「ろくでもない生徒にろくでもない授業をして、私は最悪の教師だった」 「自覚あったんだ」 「生徒を見ていたら教師の質も分かる。もうアカデミアに未練などない。私がやったのは怪物を創り出したことだけだ。結局リーグでも、教師になっても誰も私を見てくれなかった。私は教師という職業に逃げただけだ。生徒たちは黙って私の授業を聞いてくれるものだと思っていた。リーグの観客のように石を投げ、汚い野次を飛ばすことはないと。しかし、彼らは代わりに私に無関心という槍を投げ掛けた。それは観客たちのどんな野次よりも私の胸に冷たく突き刺さってきた。分かっていたんだ。私はぬるい温度のほうへ逃げていただけだ。逃げ込んだ先に栄光などどこにもありはしないと、信じたくなかったんだ、おそらく。バカな子供だと思っていた君とこんな対等な話をすることになるとは、人は変われるんだな。成長ができるんだ。実感したよ。私のおかげでね。ありがとう」
「次に生まれ変わったらいい先生になりなよ」
「よしてくれ、冗談じゃない。もう教師などこりごりだよ。金を貰ってデュエルをやることもね。私はこのスカーナイトと、ただ静かに、向き合ってくれる人間を探すよ。かなうならデュエルが楽しいなどと阿呆なことを言ってみたい」
「先生もきっとバカになれるさ」
「そうかな」
「そうさ」
「もうひとつ、かなうなら、来世では君とは出会いたくない」
「オレはいいデュエルができると思うけど。じゃあ。さよならセンセ」
「さよなら十代君」
踵を返して闇の中に去っていこうとした佐藤が、「ああ、言い忘れる所だった」と振り返る。
「卒業おめでとう」
「どーも」
十代は皮肉に笑って、腕を上げた。今度こそ幽霊は消える。
生徒手帳に着信があった。通信を開くと、画面の向こうで翔が目を吊り上がらせている。
『アニキ、どこで何してんの!? 卒業式始まっちゃうよ! 最後くらいちゃんと出てよね!』
「おう、おはよう」
『そこ、SAL研究所の地下じゃないの? そんな所で何してんの』
「なんとなく。今から行くぜ、翔」
手帳を閉じる。まだ何か言いたそうにしている翔の通信が途切れた。十代は会場へ向かって駆け出した。闇の向こうへ。
それきり橋は静かになった。もう何の気配もない。緑の中に、手向けられた花だけがぽつんと佇んでいる。
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