0 0 6: 不安


「ボッシュ、そう焦るなって」
 何度目かの同僚の声が聞こえた。
 ボッシュはリフトの手摺りを爪でこつこつと叩きながら、眉間に力を込め、奥歯を噛み締めた。
 気休めにもならなかった。
 今回のことは、ボッシュ=1/64ともあろうものが、過去最悪の失態だった。
 輸送物資を不手際で無くし、組まされていたパートナーまで無くしてしまった。
 積荷はリフトと一緒に粉々だろうし、相棒は奈落の底で内臓をぶちまけてブラウン・シチューみたいになっているだろう。墜落死っていうのは、そういうものだ。
「よう、もうちょっと気楽に行こうぜ。失敗なんて誰にでもあるんだ。
今まで一回も失敗してないボッシュがおかしいんだって、なあ。
まったく、隊長は相変わらず融通がきかないよなあ。
長く組んでた相棒を亡くしちゃったばかりのボッシュに、無理を言うもんだ」
「少し黙れパーシー、お前は昔から少し口が緩過ぎるところがある」
「ジャン、お前の禿げ頭に比べれば、何だってマシだよ。俺はボッシュを慰めてやってるんだ」
 ボッシュは相手にせず、指の色が白くなるくらいに強く獣剣のグリップを握り締めた。
 考えることはひとつだった。
 ボッシュともあろうものが、まさか失敗なんかするはずないということだ。
 今日の仕事が終われば、晴れて昇格するはずだった。
 そういう約束事だった。
 先日中央省庁区から直に入電があったと、隊長に知らされたばかりだった。
 父じゃない。最高権力者からだそうだ。
 俺はオリジンに期待されているんだとボッシュは理解した。
 すると自尊心が満たされていった。
 俺のやっていることは、すべて無駄なく栄光に続いているんだと考えると、世界が今までよりもクリアに見えるようになった。
 地下の澱んだ世界さえ鮮やかに見えた。
 ローディどもにはモノクロにしか見えていない世界で、ボッシュ=1/64だけが特別な光を見ているのだ。
 そう考えていた矢先の失態だった。
 得体の知れない焦燥がボッシュに押し寄せてきた。
 それは不安の固まりだった。
 本当なら、今日の夜にはセカンド昇進命令が下って、明日の朝には制服が支給されるはずだった。
 下層区勤務のままなのか、それとも中層区の簡易基地に送られるのかは知れなかったが、サード・レンジャーのリュウとは組み分けを解かれ、新しいセカンド・レンジャーが相棒に任命されてやってくるだろう。
 リュウは慎ましいお別れパーティーなんて辛気臭いものを計画するかもしれない。
 それには、最後だから寛容に付き合ってやろう。
 リュウが手柄を寄越せば、彼の後ろ盾として、いくつか仕事をこなしてやってもいい。
 例えば彼がひどいへまをやらかしてレンジャーを除隊になったり、任務中の事故で身体を痛め付けた時なんかにも最低限死なない生活の保証や、もしボッシュがそうあるべき役職に就いた後、適任の雑用が見つからない時には、しょうがないから雇ってやる、というふうな。
 だがすぐ間近に見えていたそれらは、急に遠ざかってしまったし、あんなにクリアに見えていた未来の姿も、いつのまにかおぼろげになっていた。
 リュウも死んでしまった。
 あれから省庁区からの入電は来ない。
 それはボッシュが彼らを落胆させたことを示していた。






 ガンナーのパーシーとバトラーのジャン、彼らはパートナー同士だった。
 白みがかったブロンドの優男がパーシ―で、色黒で武骨なスキン・ヘッドの男がジャン。
 見たところ何もかもが対照的に見えた。
 狙撃手と剣士、お喋りと無口、だが相性は悪くないようだった。
 正反対だが、ぴったりとパズルが嵌まったような感じだった。
 まるでローディで何をやってもまるで駄目なリュウと、ハイディで誰よりも優秀なボッシュのように。
 任務中、リフトの上において、彼らはリラックスしているように見えた。
 パーシーがどうでも良い軽口を叩き、ジャンが窘めると言ったふうだ。それを飽きもせず何度も続けていた。
 もしかすると、いつもこの調子なのかもしれない。
「パーシー、お前少しは黙れ。仲間が死んだんだ。悼んでやれ」
「俺らの仲間ならさ、レンジャーを目指した時点でくたばるってことに関して、もう覚悟はできてるはずだぜ。
リュウもそう。俺はあいつはいつかはへまやるって思ってたよ。
そういう奴はなんとなく解るんだ。
実戦になるとびびりあがっちまって、腰抜かしちゃうんだ。
ついこないだの掃討任務でもさ、ディクの目の前で、まるで「殺してください」つってるみたいに、目を閉じてやがるんだ。信じられないね。
何やってんだって叱ってやりゃお前、角の生えた白髪男がこっちをじーっと見てるとか抜かしやがる。お迎えを見てたんだろうよ。実際くたばった」
「黙れよ。じきに最下層区に着く。お前、またそんなガラじゃ、レンジャーの風紀云々について住人から苦情があったって、隊長にお目玉だろう」
「ちぇ、ローディ、俺たちが命懸けで守ってやってるってのに」
 ひゅんひゅんと黄色い点滅灯が、すごい勢いで身体の横を過ぎ去っていく。
 まだ暗いトンネルが延々と続いている。
 剥き出しの特別車両でトンネルを走っていると、まるで巨大なディクの内臓の中を、ぐるぐる巡っているような錯覚を覚えて、あまり好きではない。
「ボッシュ、着くって」
 パーシーが言って寄越したのに、ボッシュは頷きもせず、知ってる、と口の中でだけぼそぼそ言った。
 パーシーは返事は無駄だと取ったらしく、肩を竦めた。
「ボッシュ、もっと気楽にさ。まるでいつものリュウみたいな難しい顔してるぜ。壊れた積荷の回収なんて、簡単じゃん。すぐに済むって」
 ボッシュは答えず、腰を上げ、じっと前を見据えた。
 リフトのライトじゃあない灯りが、目の前に生まれた。
 最下層区の発着駅の光だ。
 唇を引き結んで、そしてボッシュは意外なものを見て、軽く目を見開いた。
 見慣れた紺色のジャケットを見た。
 その縁取りの赤いラインも、くっきりと鮮やかに見えた。
 あの頭の天辺でおかしなふうに結われた青い髪も、痩せた肢体も見知っていた。
 まさかもう一度見ることになるとは考えなかった、相棒の少年の姿だった。
「リュウ?」
 ボッシュは少年の名前を口に出して、そして奇妙な悪寒に襲われた。
 不安と言ったって良い。
 まるで幽霊でも見た時のようなものだ。
 ボッシュは見ていた。
 間違っても助かる高さじゃあなかった。
 羽根でも生えているんじゃなきゃ、生きてなんていられないはずだ。
 まるでこの世界の底にまで続くような穴に、彼は落ちて行ったはずだ。
 ボッシュが見つめている前で、亡霊かもしれないリュウは眩しそうに目を閉じ、腕で顔を覆い、そして――――





 それからの出来事はすべて、例え話ではなしに、悪夢のようなものだった。





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