手紙を読み終えた。意味はわからなかった。
 ただ自分が、世界中の全てから仲間外れにされているような気がした。
 なんにも知らないところで、世界はちっぽけな一人の少年をほったらかしにしたまま、すごいスピードで進んでいく。
 流れは早過ぎて、目に見えない。
 いつしか泣いていた。知らない内に溢れた涙が、床に染みを作っていく。
 女の子は背中を向けたまま、きつく耳を塞いでいる。
 顔は見えないが、目を閉じているだろう。
「父さんは?」
 女の子はまだ耳を塞いだままだ。ジェズイットの声は聞こえない。
 彼女の正面にぐるっと回って、ジェズイットは大きな声を出した。
 女の子は、やはり目をぎゅっと閉じていた。
「と、父さんは? もう行っちゃったの? 何しに行ったんだ、どこに?」
「私には、答えることができません」
 女の子はそう言って、ようやっと目を開けた。
 彼女は睫毛の長い瞼を伏せて、ジェズイットを見た。
 いたましそうなふうではあったが、彼女の目に憐れみはなかった。
「ごめんなさい。なんにも言えないの」
「か、帰ってくるよね? 仕事終わったらさ、たまの休みの日にとか、うん、顔を見せたりとかは」
「……ごめんなさい」
「な、なんで……こんなに、遺書みたいなもん書いてくの? すごい出世じゃないか。お祝いにパーティ開いたって良いくらい……僕、嬉しいし、あの駄目な親父が統治者なんかになって」
「……私たちのお仕事は、世界を守ることなんです」
 少女は目を閉じて、祈るようなポーズを取った。
「世界を壊そうとする悪い怪物から、人類を守ること。空のビジョンはまだ見えない。空はまだ、開かれない――――
「……なに言ってんの?」
 ジェズイットは、女の子が何を言いたいのかわからず、苛々した。
「ちゃんと答えてよ。これ、なに? 怪物ってなんだよ。そんなの、かないっこないじゃないか。殺されちゃうよ」
「空はきっと、あの方が守ってくださいます。あなたのお父様が。……なんにも言えなくて、ほんとにごめんなさい」
 女の子は少し俯いて、胸の前で組まれた手を解いて、優雅な仕草でゆっくりと自分の胸を指した。
「私は、聖女オルテンシア。世界を守る統治者です。あの方とお約束をしました。だから私は、ここにいます。悪しき竜が倒れるまで、あなたをお守りします」
「ま、守るって……そんな、僕は――――父さん!」
 慌ててジャンクショップの外に出て、駆け出した。
 どこへ行こうなんて思い浮かばなかった。
 





 結局やみくもに走っても、なんにも見つからなかった。
 この街の上にあるという中央省庁区に、きっと父はいるだろう。
 生きているだろう。
 化け物と戦っても、腰を抜かして逃げ出してクビにされて、またショップへ戻ってくるだろう。





 何日かしてオルテンシアが再びショップに現れて、父が殉職したと知らされるまで、ずっとそう信じていた。






◇◆◇◆◇






 破れた水道管から吹き出している水で顔を洗って、喉を潤して、一息ついた。
 それからようやっと気付いて、振り返った。
 彼女がそこに、いた。
「やあ、オルテンシア」
 ジェズイットは笑って、手を上げた。
 オルテンシアは少女の時分と同じように、穏やかに微笑んでいた。
「あんたに会いたかった。あんたが俺んとこ来てくれたって、そーいうことだろ?」
「察しが良いのですね」
「約束だから。つーか、なに、その……」
 ジェズイットは一瞬口篭もって、まごついた。
 少年時代にそのまま戻ったような錯覚を覚えた。
 オルテンシアは少し幼い仕草で首を傾げて、なんですの、と言った。
「ああ……ええと、前よりもずっと綺麗になってて、びっくりした。いや、前も綺麗だったけど!」
「お上手ですのね。お父様にそっくりですわ。こちらこそ、驚きました。あの方がいらっしゃるのかと思いましたもの」
「あー、うー、まだ駄目だなあ。あんたを前にすると、調子が上手くいかないんだ」
 それがジェズイットの正直なところだった。
 初恋を経験したばかりの、初々しい子供の気分に戻ってしまう。
「今日は私、あなたを迎えに来ましたの」
「うん、そう思った」
 ジェズイットは気を入れずに頷いて、やれやれと肩を竦めた。
 オルテンシアは口元を手で覆って、でも良いのですの、と言った。
「お父様、あなたの統治者入りは反対でしたんでしょう? 怒られません?」
「あー、いいのいいの。つーか死人にクチナシって言うし? 統治者にでもなんなきゃ、親父の墓石も磨きに行けないし」
 ジェズイットは笑って、オルテンシアに言った。
「あんたとの約束のほうが大事だし。うちの親父、女との約束だけは破るなってうるさかったんだよ」
 そう、それはもう十年も前の話だ。





――――僕が、統治者になったら……そしたらきみにまた会えるよね?






 好きな女ができたら、ところかまわず押しまくれ。
 僕なんかーとかうじうじやってるなよ。ぶっ飛ばすぞ。
 それは父の遺言になってしまった。
 少女は不思議そうに首を傾げて、頷いた。
 ええ、そしたら私、一番にあなたを迎えに会いにきますわ。
 約束は成された。
 果たされるまで、もう十年も掛かってしまったのだ。
 長いとは思わなかった。毎日がいっぱいいっぱいで、ただやるべきことをやっただけだ。
「後悔はありませんの?」
「あるわけない。あんたに会えた」
「そうですか」
 オルテンシアは微笑して、じゃあ私もまたあの方との約束、守らなければいけませんね、と言った。
 ジェズイットが怪訝な顔をすると、彼女は言った。
「悪しき竜からあなたを守りますわ、ジェズイット君。お父様との約束です」
「……つーか、守るとかはさあ、男の俺が言いたいんだけどなあ……ああ、ジェズイットでいいよ、オルテンシア」
 差し伸べられた手を取った。






 これから永い間、この閉じられた世界を守っていくだろう。彼女と共に。




END