・アビー=1/1024(提案)・



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「オイそばかす」「そばかす君次休みいつぅ? この日予定入ってさあ、空いてたら替わってくんないかなぁ」「そばかすアレ取っといて、上層でやるライブのチケット」「そばかす、ゼニー貸してゼニー」

 どいつもこいつもそばかすそばかすうるせえよと思う。
 ここ最近まともに名前を呼ばれたことがない。何故だ。
 ほんとに何故だ?
 いや理由は知ってる。もう痛いほど、腹の中が煮え繰り返って悪夢に毎晩魘されるほど頭で理解している。
 あいつのせいだボッシュ。
 このアビー=1/1024はこのレンジャー基地でも稀に見るハイディーとして、輝かしい未来が約束されているはずだった。
 通常一年がかりの候補生期間を半年という有り得ない速度で修め、天才だすごいハイディーだともてはやされた。
 あの男が何の気まぐれかこの下層区に降りてくるまでは!
 その男の名前はボッシュ=1/64。
 その名は有名だった。
 アビーも地下世界情報誌で何度か見たことがある。
 なんでもあの剣聖と呼ばれる統治者の息子で、獣剣技の達人で超ハイディーのエリート様だ。
 完璧を人間のかたちにしたらこんな感じになるんだろうなと言った具合だ。
 確かに彼はそばにいるだけで甘い汁が吸える種類の人間だった。
 なんとか取り入れれば、アビーのD値ならばセカンドどころかゼノ隊長のようなファーストを目指せるかもしれない。
 プラスは多かったが、だが厄介なことに、リスクの方が大きかった。
 ボッシュ=1/64という人間は、史上最低最悪に性格が悪かったのだ。そりゃあもう極悪に。

「オイ、そこのそばかす。ゼノって女知らない? 出頭するように言われてるんだけどさ」
 それが最初に掛けられた言葉だった。
 それは非常に喜ばしいことであるはずだった――――あのエリートに取り入れるチャンスだ! だがなんだか気になる単語がいくつかあった。
 そばかすって何だ。
「ぷ……ほ、ほんとにそばかすだよなあ」
「私も実は思ってたの……う、うまいわあ……」
「天才ハイディー様も、超エリート様の前では形無しだなあ……」
 道行くレンジャーのそんな声。おいおまえら今まで俺に媚びへつらってやがったじゃないか。このローディ野郎どもが……! そんなアビーの怒りも知らず、傲慢なエリート様は、知らなきゃべつにいいとどうでも良さそうにさっさときびすを返してしまった。
 アビ―は慌てて彼を引きとめた。
「い、い、いやあ、知ってますよ! ゼノ隊長なら、そこ、廊下をまっすぐ行って突き当たりの隊長室にいますよ」
 そしてアビーは、自分のD値に誇りを持っていた。
 自分の行く先には輝ける未来があると信じていた。
 よって、このボッシュ=1/64という絶好の出世のチャンスに対して不遜な態度など取れるはずもなかった。
 ボッシュは、しかしあっそとだけ呟き、礼も言わずにさっさと行ってしまった。
(……な、なんなんだ、あいつ……!)
 怒りの炎が、胸にめらめらと燃える。
 だがそれを表に出す事はしない。ボッシュが怖いから。
 一流と言って良いくらいのD値を持っていると、逆にあからさまに自分よりハイディーな人間が怖くて仕方が無いのだ。
(そ、そばかす……?! この俺に、なんてこと言いやがるんだ! 剣聖の息子で1/64で統治者まで上り詰められるかもって噂になってるからって、調子に乗りすぎじゃねえ?!)
 思っててアビーは自分で悲しくなった。
 それ即ち、完璧。神にも等しい存在。太刀打ちなんかできるわけがない。
「ち、ちくしょう……! ふ、不公平だ、世の中って……!!」
 基地で噂のハイディーボッシュに不名誉なあだ名を授与された。
 この日からアビ―を名前で呼ぶ同僚はいなくなった。
 たった一人を除いては。

「あ、アビーくんだ。おはようー」
 へにゃっとなんだか気の抜けたような笑い方をする奴、リュウが、出会い頭ににっこーっといつものように微笑んだ。
 こいつは確か1/8192というとんでもないローディだ。
 だがボッシュの相棒だ。
 なんだかわかるような気がする。
 出世を諦めて達観してしまわない限り、あのエリート様のお守りなんかやってられないに違いない。
 そしてこのリュウというローディが、今やこの基地の中で唯一アビーの名を呼んでくれる人間だった。
 ……相手がローディというのが悲しい。しかも男。
 これで女の子だったら、速攻で彼女にしてやってるのにとも思う。
「よ、ローディ? エリート様のご機嫌取りはどうだい?」
「あ、うん……。今すごく機嫌悪いよ……。おれ、またなんかやっちゃったかも……」
「また? おまえ、前もなんかやったのか?」
「こないだ、実はボッシュのお気に入りのカップ割っちゃってさ……。なんか、ジャケットのマークといっしょのが入ってるやつ」
「……それ、おい? か、家紋っていうんじゃないのかよ、け、剣聖さまの!」
「……? けんせいってなに? あ、アイドルかなにか? アビーくん、昔から詳しいもんね、そういうの」
「ぜ、ぜんぜん違うっつの! 一体何万ゼニーすると……うわあ、おまえ、もう一生ボッシュの奴隷だローディ」
「奴隷はやだなあ……友達だよ……」
「おめでたいヤツだなあ」
 このリュウという男は昔からこんなふうにちょっと足りないやつで、そのせいかあんまりアビ―のように日々難しいことで悩んで生きているということもなかった。
 アビーの住んでいた中層区が水没して、下層区の親類の家に身を寄せた時に知り合ったのだから、もう10年ほど、いやもっとだろうか?
 なにしろ長い付合いである。
 口癖は「わるいことするとりっぱなれんじゃーになれないんだよ」、むかつくので昔は良く苛めてやっていたものだが、今では同期のサードレンジャーである。
 しかもボッシュの相棒なので下手なことはできない。気に食わない。
「なあ、ここだけの話あのエリート様さあ、おまえとなに喋ってんの?」
 気になるところだ、上層と下層で話題になることなんてあるわけないし、無口なリュウ相手でだんまりなんて無茶苦茶に空気が重苦しいに違いない。
 だからと言って陽気に喋りまくるエリート様も想像つかない。どうなんだそれ。
「どうって……ふつう、うーん……あ、そう言えばアビーくん、上層区から来たんだったね。ボッシュと話、合うんじゃないかなあ」
「え? そ、そ、そうだな! そうかもしれないな! あはは……」
 微笑みながら言うリュウに、アビーは引き攣った顔で尊大に頷いた。
 昔からことあるごとに、下層区のローディどもの前で俺は上から来たハイディーなんだぜ、と見栄を切っていたことを思い出す。
 上だ上、上層区にいたこともあるんだぜ――――確かにいたことはある。二日ほど。観光で。
 だが子供のリュウは信じきってしまって、すごいねえすごいねえを連発して目をきらきらさせていた。
 まあそれは悪くなかった。
 アビ―のようなハイディーは、人に崇められてしかるべきなのだ。
 あのボッシュがなんでかこの下層区に降りてくることさえなければ、今もこの基地ではアビ―が王様をやっていられただろうに。
 今となってはボッシュの陰で霞みまくり、名前も呼んでもらえずそばかす呼ばわりされ、便利なパシリみたいに扱われる毎日だ。
 相棒にも恵まれない。
 女の子なのだが、これがまた気がきつくて、ちょっと手が触れ合っただけで痴漢変態呼ばわりされボコボコにされるのだ。
「……俺、おまえが相棒がよかったなああ……」
「なに、急に……どしたの? うまくいってないの? 大変だねえ……」
「いや、大変さで言ったら、この基地の中でおまえ以上に大変なやつなんていやしないぞ……なんたってあのボッシュの相棒なんだもんな。可哀想にな、リュウ……」
「え? 大変なこと……は、別にないかなあ……」
 リュウはちょっと困ったように目線を上げて、ほら、と言った。
「ボッシュ、強いから……おれいつも守ってもらってばっかりで、おんなじレンジャーなのに、全然役に立てなくて……駄目だなあ」
「え? うっそだろ、あのエリート様が守ってくれるだって? 絶対そのうち見捨てられるって、おまえみたいなローディ」
「ん……でも、ボッシュは格好良いから……」
 そこで、リュウはちょっと赤くなった。
 おい待て。なんで赤くなるんだ。
「きっと、余裕のある人なんだよ。おれみたいな足手まといも気に掛けて、任務もちゃんとこなして……かっこいいなあって、思うよ……。ちょっと、憧れるなあ」
 憧れってなんだ。
 おまえみたいなローディはすべからくこの俺様を崇めるべしということになってるってことがわかってないみたいだこいつっていうか、あれ? なんですか? 頬染めて言う事ですか、それ。アビ―は混乱した。
「ローディ、いやリュ、リュ、リュ、リュウ、おまえ、おまえまさか、も、もしかして……」
 エリート様に恋してますか?
 10年来の1/8192的エリートのことは眼中にナッシングですか?
 子供の頃から気心の知れたガキ大将は?
 おんなじいじめられるなら俺のほうが良くない?あいつほんとになにするかわかんないしとかいろいろ訊こうとして、アビーは口篭もった。
 階段の向こうからやってくるのは災厄の権化。人類の敵。オカッパ頭のエリート様。
「……ここにいたのかよ、リュウ。隊長が呼んでる。オマエが遅れると、俺までどやされるんだぜ?」
「あ、ご、ごめんね、ボッシュ!」
 リュウがぱっと振り向いて、またねアビーくん、と言った。
 そしてまたにっこり笑った。
 アビ―は見た。
 その向こうでエリート様が思いっきり顔を顰めらしたのを。
 その顔にはあからさまにこう書いてあった。

 俺以外の男の前で何にっこり微笑んで笑顔の大安売りなんてしてるわけローディ?

 あと、

 俺のもんだ、手ェ出したらぶっ殺す。

 とか。

 そんな感じ。

「なんかオマエ朝から俺のこと避けてるだろ。生意気」
「え……お、怒ってたんじゃなかったの?」
「怒ってないよ」
「えー、怒ってるよ絶対。ボッシュって怒るとさ、ここ、きゅーって皺が寄るんだよね、眉間のところ。返事もしてくれなくなるしさあ」
「何オモシロ観察なんてしてくれてるわけ? 怒ってないつってんだろ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとほんと」
 二人して行ってしまう背中。
 何を付き合ってるラブラブバカップルみたいなこと言い合ってるんだか、できればその背中にバインド爆弾でも投げ付けてやりたい。でもしない。怖い。
(や、やっぱり……)
 アビ―は小刻みに震えながら、怒りを抑えた。
(やっぱりあいつ、大嫌いだあの野郎……!)
 今は我慢。我慢だ。
 いつかあのエリートは上へ上がっていくに違いない。
 リュウはローディだ。
 サードどまりだ。
 ずーっとここにいる、どこにも行けやしない。
 ならまだ自由の効くこの1/1024というD値が、その時アビ―の助けになってくれるはずだ。
 D値に引き裂かれたリュウを優しく受けとめ、下層区の一軒家で、もしくは中層区のマンションで慎ましくも幸せな暮らしを送りつつ、その時こそはあの男にこう言ってやるのだ一言。
 お気の毒にな、エリート様!
(今に見てろ……!)
 喧嘩では勝てっこない、下克上は無理、ならこういう種類の復讐も悪くは無いだろう、リュウ可愛いし。
 アビーは暗い憎悪の炎を燃やすのだった。
 だがその熱さが報われることは、きっと、生涯ない。

 三年後、忌々しい怪我も完治したセカンドレンジャー昇進の日の、新聞の一面記事に地上世界オリジンさまご結婚の報を見て、彼がどう思ったかはもう定かではない。負け組。

おしまい。