真っ赤な光、いつか見たリュウの炎だ。 だがそれは以前とは違って、ボッシュに優しくなかった。 頭の中に響く声に引き摺られるように、ボッシュは身体を沈めた。 それが幸いした。 それまで上半身があった場所へ――――逃げ損ねた腕を掠めて、赤く弾けた炎が一筋に収束し、過ぎて行った。 「うあああああッ!」 腕を焼かれる激痛に耐え兼ねて、ボッシュは悲鳴を上げた。 直撃は避けられたはずだった。 だがとんでもなく熱い。 ここで死ぬかもしれないというリアルな実感が、ボッシュに恐怖をもたらした。 それは選択肢にはなかった。 思い付かなかったのだ。 ボッシュが、リュウに殺されるなんてことは。 (兄さまを殺して……俺も終れるなんて) それは甘い考えだった。 リュウの力は、圧倒的だった。 D値はボッシュの方が高かった。比べものにならないくらい。 幼いころから武具にも触らせてもらえなかったリュウとは違って、ボッシュは剣聖ヴェクサシオンから直々に剣の手解きを受けていた。 何年も、何年もだ。気が遠くなるくらい。 だが今や、そんなものは何の役にも立たなかった。 ヒトの剣技など、竜の本能の前では無力だった。 ただ同胞を殺すために、爪と牙と炎があればいい。 だから、条件は平等であるはずだ。対等だった。 竜を宿した兄弟がふたり。 だがボッシュはまったくリュウに歯が立たない。 焼かれ、炎に溶かされた腕を抱え、ボッシュは弱々しく顔を上げた。 リュウの表情は、真紅の炎の光が眩しすぎて、見えない。 (兄さま……) たった二人きりの兄弟なのに、リュウにはボッシュがわからない。 こんなに愛しているのに、リュウの目にはボッシュが映っていない。 ボッシュ、と呼んでくれることもない。 俺を見付けてくれよ、とボッシュは叫びたかった。 絶望で目の前が真っ暗になった。 (あんた……ずうっと、こんなふうなこと、感じてたわけ?) あのボッシュがリュウに石を投げた日から、リュウはずうっとこんな絶望を感じていたのだろうか? ボッシュに見付けてもらえず、兄とも呼んでもらえなくなって、ただローディと蔑まれ、見下されて、向けられるのは冷たい眼差しだけ。 こんなに愛してるのに、どうして見付けてくれないんだ。 世界でたった二人きりの兄弟なのに。ここにいるのに。そう叫んでいたのだろうか。 毎日、何週間も、何ヶ月も、何年も、ずうっと。 (……ごめんなさい、兄さま……) ほんとに悪いことした時のほかは謝らないで、とリュウは言った。 ボッシュは今、ひどい罪悪感に苛まれていた。 でも謝ったって、今のリュウにはきっとなんにも聞こえやしないのだ。 「ごめんね、チェトレ。おやすみ」 リュウの声が、項垂れたボッシュの頭のすぐ上で、聞こえた。 ◇◆◇ 床に落ちているリュウの影が、ゆらっと揺れた。 項垂れて、おそらく自分の身体を焼き尽くしてしまうだろう炎が降ってくるのを待っていたボッシュは、ふうっと顔を上げた。 ふわふわした白いものがリュウにぶつかっていった。 ひゅっ、とリュウが息を呑む音がした。 「にゃーっ!」 「それ」は叫んで、リュウの腰に抱き付いて、ぎゅうぎゅう引っ張って、どんと彼の胸を叩いた。 「に、ニーナっ?」 リュウは目を丸くして、慌てて身体にくっついたニーナを剥がそうと試みた――――だがうまくいかないようで、ひどく困った顔をした。 「ど、どうしたの? どうしてここにいるの? 危ないよ。おれ、熱くなってるから、火傷しちゃう……」 「ル、ルー! ルー、ボス!」 「へっ? ボッシュ、来たの? ど、どこにいるの?!」 リュウは慌ててニーナの肩を掴んで、少し屈んで目線を合わせた。 「ボッシュ来たら、危ないよまだ……ニーナも。あ、そうだった、おれチェトレやっつけなきゃ」 リュウははっとなって、慌ててボッシュのほうを振り向いた。 また手のひらを上げ、炎を灯して、 「い、いたっ! いたたたた!」 ニーナにぐいっと翼を掴まれて引っ張られた。 「ルー、め!」 「ニ、ニーナっ! や、やめ……めー! だめだよ!」 リュウが悲鳴を上げても、ニーナは引かなかった。 くるっと回り込んで、蹲っているボッシュの前で、両手を大きく広げた。 「ルー、めー! ボス!」 「え? ちょ、ちょっ、ニーナ! 危ないったら、それは悪い竜で……」 「め!」 リュウは困り果てているようだった。 どうしようかなあ、という顔をしている。 そして、なんでチェトレはニーナを殺さないんだろう?という疑問を浮かべた顔をしている。 ボッシュはよろよろ立ち上がって、ニーナの背中を押し退けた。 そのままリュウへ向かっていく。 リュウは顔を厳しくした。 彼の背中の炎が、ぼっと勢いを増した。 めらめらと燃えている。 ボッシュは―――― 「に、さま……」 ボッシュは、手を伸ばしてリュウを抱きすくめた。 リュウの身体が強張った。彼にはわからないのだ。 「ちょっ……え? な、なにしてんの?」 リュウはきょとんとしていた。 そして、ボッシュに敵意がまったく見て取れないことにうろたえはじめた。 「え? あれっ? お、おれのこと殺しにきたんじゃないの?」 眉を顰めているリュウの綺麗な銀色の髪に触って、ボッシュは彼の額にふっと唇を掠めた。 「えっ? ええええ?!」 リュウは目を見開いて、慌てた。 ボッシュはリュウの肩を抱いて、静かに告げた。 「兄さま、好きだよ。あんたのことが好きです」 言ったって、リュウはもう信じやしないかもしれない。 なにせ、彼にはわからないのだ。ボッシュを見つけられないのだ。 そして彼はいつだってボッシュに裏切られ、そのたびに約束はひどい嘘になってしまっているからだ。 「俺も化け物になったんだ。一緒だよ。あんたと、おんなじものになったんだ」 ボッシュは自嘲の笑いを、かすかに表情に上らせた。 嘘をつかず、石を投げずにいれば、リュウはもっと簡単にボッシュを信じてくれたに違いない。 うまく見つけてくれたろう。 だが、もう「リュウ」はどこにもいないのかもしれない。 目の前にいるものはリュウではないのかもしれない。 ドラゴンに食い尽くされた、リュウだったものの残りかすなのかもしれない。 いや、まだ半分くらいは、その意思が残っているのかもしれない――――目の前にいるのは、いつものリュウだ。 少なくとも、ボッシュにはそう見えた。 リュウは何も変わったところなどないように見えた。 ただボッシュのことがわからないだけだ。 ニーナを気遣うように心配そうな眼差しを向けているし、化け物みたいななりをしているくせにまっすぐな目だって、やっぱりリュウだ。 これ仕返しなのかもな、とボッシュは思った。 いつもひどいことばかりしているボッシュへの意趣返し。リュウは怒っているのかもしれない。 昔、いつだったかおんなじふうなことを思い、考えたような気がするが、あまり良く覚えていない。 皮肉な空想である。 リュウはそんなことしないってことが、ボッシュには良くわかっていた。 「……わかんないなら、わかんないでいいよ。あんた、ちょっとの間だったけど、またちゃんと俺のこと呼んでくれたし」 リュウは戸惑ったようにボッシュを見つめている。 その目には、いつもの優しさはなかった。 その目はボッシュに、彼のあの誰にだって向ける種類の変な笑い方を思い出させた。 愛する家族へ向ける眼差しはどこにもなかった。 「帰ろう兄さま。空なんかいらないよ。もうオシマイ……あんたを終らせてやるよ」 そしてボッシュは、リュウの腰に泣きながらくっついていたニーナの手を引いた。 乱暴に扱ったせいで、小さな悲鳴を上げたニーナを抱え込んで、そのほっそりした首筋に、鋭い爪を突き付けた。 リュウの顔色が変わった。 その口は彼女の名前を呼ぶかたちに、はじめの言葉を発音するべく開いた。 ボッシュの名は呼ばないのに、ニーナは呼ぶのだ。 一瞬の嫉妬が訪れたが、ボッシュはそれに見ないふりを決め込みながら、ドラゴンの鋭い鍵爪で、ニーナの首にすうっと線を引いた。 錆びついた金網に、ぱっと赤い血液が散った。 リュウが叫んだ。彼の声に混じって、女の悲鳴も聞こえた。 緩慢に視線だけ巡らせると、リンが銃を取り落としたところだった。 ニーナは悲鳴も上げなかった。 彼女の名を呼ぶ声が、空洞に幾重にも響いた。 その身体は軽く、ほとんど音も立てずにふらっと倒れた。 リュウはすぐに腕を伸ばし、彼女を抱きかかえようとした―――― そして、一瞬だった。 視線が逸れたその一瞬、ボッシュが伸ばした腕が、その爪が、リュウの胸に深く食い込んだ。 リュウは声も上げなかった。 指の先には、摘んだ心臓の感触があった。柔らかくて、どろっとした感触。肘を伝って、零れ落ちた血が床に滴っていく。 リュウの表情に、苦痛を感じている様子はなかった。 ただちょっとびっくりしたように目を軽く開いていた。 何が起こっているのかわからないようだった。 やがて、リュウの身体からがくんと力が抜けた。 ボッシュは、リュウの胸を貫いた腕をそのままに、空いた片方の手でリュウを支えた。 その肩はやはり、薄っぺらく、軽かった。 「あ……」 リュウは首を巡らして、ボッシュを見た。その硬い鱗に覆われている両手を伸ばし、ボッシュの腕をぐっと掴んで、口を開いた。 「みつ、けた」 リュウはそれから少しだけ微笑んだ。ごぼっという音がした。肺から逆流した血が喉に溜まって、リュウは俯いて咳込んだ。 だが、それを吐き出しきることは、できないようだった。ぬるっとした血が喉の奥のほうで固まってしまったのだ。 だから、その声はくぐもっていた。 「ニーナ……?」 「殺しちゃいないよ。あんた、怒るだろ」 ボッシュはリュウに向かって頷いた。 リュウは、その顔には表情といったものが欠落していたが――――いつものちょっと困ったような調子で、ボッシュを叱った。 「お、女の子に……ひどいことしちゃだめだったら、もう。悪い子は……キライになっちゃうよ」 「……ゴメンナサイ、兄さま」 素直に謝ると、リュウは少し笑った。 震える手で、ボッシュの頬に触った。 べったりした感触があった。 リュウの手は、血でべとべとに濡れていた。 「うそだよお……キライになんて……なるわけ、ないでしょ」 そして、今度こそほんとうににっこりした。 幼い時分に見せてくれた、あの微笑だ。ボッシュが愛したリュウの笑顔だった。 だがそれは、いつものようにボッシュを温めてくれることはなかった。 リュウの声は空洞のようになっていた。がらんとした、生気のない響き。彼の生命は、溢れ落ちる血液と一緒に急速に零れ落ちていた――――だが強靭な生命力が、まだ彼を楽にはさせないようだった。 リュウは寝入り際の会話みたいな、ぼそぼそした声で呟いていた。 「ぼしゅ……空、見せてあげる。ずーっと、待ってた」 ボッシュは口の端を苦く曲げて、リュウの身体を抱いた。 もう炎の熱さは消えていた。 「……俺、兄さまを殺しにきたんだ」 リュウの心臓は、ボッシュの手の中にある。すぐに終わる。 リュウは微笑んでいた。 そして俯いて、ごめんねと言った。 「ね、ボッシュ……――――」 リュウが何か言おうとした。血塗れの口を開けた。 その薄い唇から、ひゅうひゅうと息の零れる音が聞こえた。 ふいに、リュウのその青い瞳が焦点を失った。 力なく垂れていた腕が、ボッシュを突き飛ばした。 「に、兄さまっ?」 ボッシュの支えを失ったリュウの身体が、どさっとくずおれた。 そして、変化が起こり始めた。リュウの消えたはずの赤い炎の翼が、再び燃え上がった。 背中を突き破って生えていた変形した骨格が盛り上がり、割れ、罅の間から黒っぽい棘が現れた。 それはなにか大きな生物の爪のように見えた。 やがて、「それ」はリュウの身体を突き破った。 巨大な体躯がリュウをばらばらに食い千切って、生まれ落ちた。 その赤い鱗と身体に、ボッシュは見覚えがあった―――― 。 夢を、見たのだ。腐り落ちたそいつは、永き眠りから目を覚まして、リュウを頭からばりばりと食ってしまったのだ。 バイオ公社のセメタリーに繋がれていた竜だった。 そいつの名前を、ボッシュは知っていた。 ボッシュの中の誰かは、そいつを良く知っていた。 おそらく1000年の昔から、ずうっと知っていたのだ。 その竜の名前は、アジーンと言った。 ◇◆◇ 咆哮で耳がいかれたらしい。なんにも聞こえず、耳の中ではじいっとした耳鳴りが、音にならないまま脳味噌を突き刺してくれていた。 その竜の大きく開かれたあぎとの中で、赤い舌が踊っていた。 窪んだ眼窩では、ぎらついた目が燃え上がっていた。 「アジーン……!」 リュウから生まれ落ちた竜は、光の翼を広げて滞空していた。 その姿は優雅と言ってもよかった。 ボッシュははるか上空に佇むドラゴンを見上げた。 「オマエが、兄さまを……」 やるせなく、焦りにも似た怒りがボッシュに訪れた。 リュウがいなくなってしまった。 こんなドラゴンなんかに浸蝕されなければ、リュウは今でも穏やかに笑っていたろう。 空を見せてやると言えば、喜んでくれただろう――――だがボッシュは理解していた。 「それ」は、リュウなのだった。 ボッシュのために用意されたD検体だった。 もし、リュウが――――たとえば人間の子供で、ごくありきたりの標準的なローディだったなら、父の目にも留まらなかったなら、今頃はボッシュの顔も知らずに、下層区でひとりきりで生きていたろう。 今やもう、リュウはボッシュのたったひとりの肉親だった。 そうならない世界など考えたくもなかった。 血を分けた唯一の人間。 それが兄弟として生まれたことなのか、世界でふたりっきり、竜の血を持ったものであることなのかは、もうよくわからなかった。 どうだってよかった。 ただリュウを兄さまと呼んで、それでリュウが振り向いて笑ってくれるなら何だってよかった。 見上げた先にいる竜の体躯が僅かに傾いた。 そいつはボッシュを見下ろした。 竜に表情なんてものがあるのか、ボッシュには見分けがつかなかったが、その目が――――奇妙な既視感をボッシュに抱かせた。 何か言いたいことがあるような、だが肝心のことは何一つとして言わない、リュウのあの顔を思い起こさせた。 じん、と耳鳴りがひどくなった。 もう何の音も聴こえない。 だがジオフロントは、アジ―ンの巨大な咆哮が激しく反響して、びりびりと震えていた。 『チェトレよ。ヒトは、空を手にする』 頭の中に直接打ち込まれたような、そんな声が聞こえた。 それはリュウの声には似ても似付かなかった。 ボッシュは叫んだ。 「黙れよ! いらねえよ、空なんか! ヒトでも竜でも、欲しい奴が好きにすりゃいいだろ?! そんなもの、どうだっていいんだ! もう開かれることなんか、ずーっとなくたっていいよ。 だから、兄さまを返せよ!」 竜は返事をしなかった。 その大きな口の中に、ぽうっと赤いひかりが灯った。 どくっと心臓が高くなった。かすかな恐怖が、ボッシュに訪れた。 いや、ボッシュではなく、それはリンクしているドラゴンのものだったかもしれない。 『何故、空を閉ざそうとする。我らの役目を忘れ果てたか』 高エネルギー体が収束していく。 ボッシュは何度も訪れる既視感に吐き気を覚えた。 まるで1000年の昔から、何度も何度もそうやって殺されてきたことを知っているとでもいうふうに。 それはボッシュの中の竜のものだろう。 もしくは、精神を共有していた、アジーンに殺されたほかの竜たちのものだったかもしれない。 身体中がびりびりする。 こんなにリアルな死が近くにあるというのに、不思議とボッシュに恐怖はなかった。 床に倒れているニーナを掴んで、リンに投げ付けた。別にどうだって良かったのだが――――そうしなければ、リュウがきっと怒るので。 眩い赤光が煌いた。 アジーンのドラゴンブレスが、すべてを焼き尽くす破壊の炎が、今まで何度も何度もボッシュを殺したその光が、再び放たれた。 これで終わるとしても、後悔はなかった。 もうリュウはいない。 ボッシュは金網を蹴り、中空に躍り上がった。 そして、腕を伸ばした。 幼い時分は、こうすることは少々きまりがわるかった。 ボッシュはリュウよりも強かったし、手を引いてやらなければならない側にいた。 剣の訓練も受けさせてもらえず、いつも居心地が悪そうな顔をしているリュウを、いつか世界中のなにもかもから、例えば意地の悪い大人やディクから、守ってやるためにだ。 だが、ボッシュが怪我をしてしまってベッドの中にいる時や、夜中に起き出して、一人でトイレに行けずにぐずぐずしている時なんかには、リュウは微笑みながら手を差し伸べ、繋いでくれた。 そうするとほっとするのだった。 安心した。 恐怖が薄らいでいった。 怖いものなどなにもなかった。 ボッシュはリュウに手を差し出したまま、少し笑った。 手のひらが熱を持ち、青い光が生まれた。 そう、いつも「手を繋いで」なんて恥ずかしくて言えなかったのだ。 だからことさらそっけなく、平気な顔をして、こんなことなんかぜんぜん何でもないんだというポーズで、ボッシュはその手を差し出したものだった。別にどうでもいいんだけど、繋いであげようか、というふうに。 リュウはいつも笑って手を繋いでくれる。その手は少し冷たい。触っていると、どきどきした。 そう、リュウはいつも笑っている。 まるでもともとその顔が、ボッシュに微笑みかけるためだけに作られているみたいに。 ボッシュはその顔がとても好きだった。 ボッシュと一緒にいられるだけで嬉しくて仕方がないのだというふうなあの優しい笑顔も、我侭を言ってやった時のちょっと困ったような笑い方も。ただ、誰にでも向けるあの変な笑い方だけは好きにはなれなかった。 「……手、繋ごうか、兄さま」 撃ち放ったドラゴンブレスが、アジーンの赤い光に真っ向からぶつかり、輝きを増して、せめぎあった。 視界が真っ白に塗り潰されて、なんにも見えなくなった。 自分の手さえうまく見付けられなくなった。 ふっと気が遠くなった。 その中で、リュウが僅かに微笑んだような感触があった。 それで、ああ、これで終わるんだ、と思った。 何もかもが曖昧になった。ふわふわと宙に浮いた感覚。 それが大分長い間続いた後、背中から激しく硬い金属に叩き付けられて、息が詰った。 上下感覚もないので、それが壁だか床だかも知れなかったが。 そして、さあっと視界が晴れた。 炎は消えていたが、ジオフロントは光に包まれていた。 天井が、崩れていた――――そこから柔らかな光が射し込んでいた。 一面の青色が見えた。 『父ちゃん、おれ……一番はじめの竜なのに、弟に負けちゃった……』 空洞に響く声が聞こえて、ボッシュはばっと顔を上げた。 光の中に、鮮やかな青色の髪が見えた。 それは美しい色だった。 こんなに綺麗な青を、ボッシュは生まれてから今まで、一度も見たことがなかった。 天井の先に見える、果てのない青よりも、それはずうっと綺麗だった。 リュウがいた。 もうあの銀色の竜の姿はしていなかった。 いつものように少し微笑んだ顔でいる。 目を閉じていた。 『チェトレ……空、きみの色だね……。 ひとりっきり、で……さみしくて……泣いたりしたら、だめだよ……』 それはリュウの声だったが、まるで彼のものじゃあないくらい、虚ろで感情というものが欠落していた。 どくん、と心臓が大きく鳴った。 誰かの焦燥が、ボッシュに侵食してきた。 それが何だったのかはわからない。 投げ出された小さな身体は、ふわっとした軽さでジオフロントの中空に浮かんでいたが、どこまでも下へ下へ、ゆっくりと落ちていった。 ◇◆◇ 小柄な身体が、ジオフロントの底に倒れていた。 「――――兄さまっ!」 駆け寄って肩を抱き上げると、リュウは微かに呼吸をしていた。 ボッシュは安堵して、泣きそうになってしまった。リュウは生きている。 「……んん……」 リュウが、うっすら目を開けた。 彼はボッシュをうまく見付けてくれるだろうか? 少しだけ不安を感じたが、リュウは顔を上げて少し笑ってくれた。 「ぼ、しゅ?」 名前を呼ばれて、それだけで胸が詰まって息ができなくなってしまった。 リュウをぎゅうっと抱き締めて――――抱き付いて、胸に顔を埋めて、ボッシュは嗚咽を零した。 リュウはちょっと困ったように笑って、ボッシュの頭を撫でて、抱いてくれた。 「――――う……に、にいさま……」 「ボッシュ、なかない、で……?」 リュウの身体は冷たかったが、柔らかかった。 その髪は、地上の光を浴びて美しく輝いていた。 「そら……」 「……え?」 「そら、あったね、ボッシュ」 リュウはそう言って、にっこり微笑んだ。 ボッシュは頷いて、そうだねと言った。 実の所、空なんてどうだって良かったのだが、リュウが喜んでいるならそれでいい。 「見に、行って……きっと、ここから出たら、もっと綺麗だよ。あれ、全部ボッシュのだ。 おれ、待ってるから……ここで。だいじょうぶ」 さあ行っといでと言って、リュウはボッシュの背中をぽんと叩いた。 ボッシュは首を振って、いやだ、と言った。 「いやだ、行かない。あんたと手を繋いでる」 「ボッシュ……」 リュウは困った顔をしてしまった。 「ね、おれちょっと、しばらく動けそうにないんだ。空、見たいでしょ? 子供の頃、あんなに見たいって……」 「あんたと一緒じゃなきゃいやだ」 ボッシュは、どうにか諭そうとするリュウをぎゅっと抱いた。 リュウは、もうしょうがないなあ、という顔をしている。 かつんかつんと背後から靴の音が聞こえた。 リュウを抱いたまま振りかえると、リンがいた。ニーナを抱いている。 ニーナは目を閉じている。胸が薄く上下している。眠っているようだ。血はもう止まっていた。 リンは抱いたニーナを心配そうに見ていた。 ボッシュに目をくれて、何か言いたそうに口篭もったが――――おそらくニーナを傷付けたことへの小言の類だったろう――――それは後回しにしたようで、無理に微笑んで、言った。 「連れてってやりな。兄ちゃんに空見せてあげなよ」 ボッシュはのろのろと頷いて、ああ、と言った。 「そうする」 ◆◇◆ 「だいじょうぶ、ボッシュ……おれ、重いでしょ」 「ぜんぜんへいきだよ」 リュウを背負って、空へ続く階段を上っていく。 リュウはあまりに軽かった。 その軽さが物悲しく、ボッシュはまた泣き出しそうになってしまったが、無理矢理明るい声で言った。 「空へ出たら、どこへ行こうか? 兄さまは、どっか行ってみたいとことかある?」 リュウが耳元でくすくす微笑んだ。 楽しみで仕方がないという、子供みたいな笑い方だった。 「そうだねえ……ボッシュ、好きなとこ。子供のころ、いっぱい空の本読んでくれたでしょ。 おれ、頭悪いから字が読めなかったけど……でもボッシュが読んでくれた話は全部覚えてるよ。 いっぱい、いろんなものを見に行こうか」 リュウはボッシュの首に回していた腕をぱっと広げて、指折り数え始めた。 海の話、塩辛い大きな湖の。どのくらい大きいのだか想像がつかない。大きな魚がいるらしい。なんでも黒くて、ぴかぴかしていて、頭から噴水のように水を出すのだそうだ。 虹の話、空にそれは美しい色をした橋が掛かるらしい。それはどんなに追い掛けても、捕まえることができない。 ほかにもたくさんあった。ヒトの手で育てなくても生きていく植物の話。花。木も。 地上だけに生きている動物の話――――ディクなんかじゃなく、遺伝子操作もされていない、純粋な、しかしヒトじゃない生き物たちの話。 あとは少し怖い話だ。1000年前の終焉の話。地上は、今や瘴気が満ちた恐ろしい場所なのだそうだ。 だが、天井に広がる世界は青く、美しかった。どの話も、本当なのか嘘なのだかわからない。 それらはどれも、子供のころボッシュがリュウにこっそり読み聞かせてやった物語たちだった。 ぽつぽつと語るリュウが、数える指をいっぱいにしてしまって、それ以上ものを数える方法を知らずに困って黙り込んでしまうと、ボッシュは少し気恥ずかしさを感じながら切り出した。 「な、兄さま。俺、空に出たらちゃんと兄さまを幸せにしてあげる。俺の嫁にしてあげるよ。 もうひどいこと絶対言わないって約束する」 途端リュウは、ボッシュの肩に乗っけている顔を、ぱあっと明るくした。 「わあっ……ほんと? おれお嫁さんで、いいの?」 「いいの。あったりまえだろ。いつから約束してると思ってんの? 今更だよ、今更」 リュウはそれは嬉しそうに、にこにこしている。 その顔は、ボッシュの胸にぽっと火を灯してくれた。 可愛い顔だった。 「ねえ、おっ、おれね、ボッシュのためにごはん作ったげる。いっぱいいっぱい、練習したんだ。えへへ、ちょっと自信あるんだ。きっと美味しいって言ってくれるよ。 おれ、がんばるからね……」 「マジ? 楽しみにしてるよ」 「うん……楽しみに、してて……」 リュウは微笑みながら、少し咳込んだ。 ボッシュが焦って眉を顰めると、リュウはまた微笑み、だいじょうぶ、と言った。ちょっと疲れちゃったみたいだと。 そう、とボッシュは頷き、リュウをなんとか喜ばせてやれる方法を挙げた。 彼が笑ってくれるなら、何だって構わなかった。 「なあ、結婚式もすっげー豪華にしようぜ。気に入らないけど、あのニーナのクソガキに、兄さまのドレスの裾持たせてやろう」 「おっ、おれ、ドレス、困るよ……きっと似合わないし。ボッシュが着なよ、キレイなんだから」 「なんで俺だよ。兄さまのが似合うよ、可愛いんだから」 リュウはやっぱりおれは似合わないよおなんて言いながら(似合わない訳がないのに、彼にはわからないのだろうか?)くすくす笑って、いっぱい楽しいね、と言った。 「ボッシュと、ニーナとリンと、お義父さんと、エリュオン先生と、リケドさんとナラカさんと……いっぱい、みんなで……」 「そうだね、兄さま」 光が強くなってきた。 空はもうすぐそこにある。 今まで吸ったことのない空気の匂いが、鼻先をくすぐった。 地下の埃っぽい澱んだ空気とは比べものにならないほどに、それは澄んでいた。 「兄さま、元気になったらさあ……えっちなこととか、してもいい?」 俯いて、顔を赤くしながら言うと、リュウがこくっと息を呑んだ気配があった。 その横顔が、真っ赤に染まっていく。 「う……覚えてたの?」 「だめ?」 リュウはふるふる首を振った。 だめなことない、という仕草だ。 物凄く恥ずかしそうに、だがはにかんで、リュウは小さく頷いた。 「うー……う、い、いいよお……」 「うれしい、兄さま」 ボッシュは笑って、空を見上げた。 もうすぐそこにある。 緑色の草の群れが、風でさわさわと鳴る音が聞こえてきた。 空気は少し冷たい。 だが、地下の底冷えするそれとは違い、心地良かった。 リュウは背中越しにボッシュにぎゅうっと抱き付いて、柔らかい頬をボッシュの首筋に摺り付けた。 まるで、ボッシュのことが愛しくて仕方ないとでもいうふうだった。 「ううー……なんかすごく、幸せだあ……」 これからずーっと一緒だよ兄さま、とボッシュは言ってやった。 リュウは嬉しそうにふにゃっと笑って、顔を上げて、空を見た。 果てのない青空を。 そこには天井などなかった。 ただ、どこまでも広がっていた。 空気は澄んで、明るかった。 まがいものじゃない本物の太陽が輝き、地上を照らしていた。 リュウは少し眩しそうに目を眇めた。 「ああ、キレイな青だなあ……」 笑って、それからリュウは目を閉じ、ボッシュの肩に額をくっつけた。 ボッシュをぎゅうっと抱き締めるようにした。 さっきから、彼の心臓の音が聞こえなかった。 その身体は冷たかったが、リュウは笑っていた。 少し疲れてるだけだよと彼は言った。 だからボッシュは安堵していた。 わかっていたのだ。 これからはもう手を離したりしない。 石も投げやしない。 世界でたったふたりっきりの兄弟なのだ。 ずーっと手を繋いでいくのだ、と。 最後の階段を踏み出して、ボッシュは世界のあまりの眩しさに、一瞬ぎゅっと目を瞑った。 どこまでもどこまでも、空の端っこまで緑色の草原が続いていた。 それらは風に揺られて、さわさわと鳴りながらなびいていた。 頭の上にはぽっかりとした空があった。 白い雲がうっすらとかかり、ゆるやかに流れていく。 空気は澄んで、少し冷たく、だが心地良かった。 あの地下のようなじめっとした息苦しさはどこにもなかった。 ボッシュはおぶっているリュウに笑い掛けた。 「空だよ、兄さま……兄さま?」 リュウは穏やかな顔をして、目を閉じている。 「なに、寝ちゃってんの……起きてよ、兄さま」 リュウの心臓の音は聞こえなかった。 その身体は冷たく、いつのまにか、さっきよりも重くなっていた。 ただちょっと疲れちゃっただけだよ、と言っていたはずだ。 だいじょうぶだよ、ボッシュ、と。 「兄さま?」 リュウは安らかに、まるで眠っているようだった。 だがボッシュが呼んでも、目を覚ましてはくれなかった。 少し微笑んでいた。 その笑顔は、ボッシュがいつか見たいと願っていたものだった。 かくて、空は開かれた。 世界は完全なオリジンを手に入れる。 これは一対の竜の兄弟の話だ。 空を手にした竜と、運命から零れてしまった竜の話である。 竜は人々を導き、生きて、空の伝説となる。 その傍らにあった片割れのちっぽけな竜の亡骸を、人々が知ることはない。 [もしもボッシュ/終焉] |