子供の頃、家出をしたことがある。
 父の剣の稽古に耐えかねてか、別れて暮らす母親に会いたくなったか、今となってはどちらでも良い。
 ただそこで、彼女に会ったのだった。





「ルー、ぼろぼろだね」
 ボッシュはちょっと顔を顰めて、そう言った。
 その少女はとても可愛くて(可愛いなんて言葉は、今まで一度も使った事がないので良くわからないのだが)あちこち摺り切れて破れ、泥だらけになった格好は、あまり似合わなかった。
 それにしたって、それすら彼女の可愛らしさを少しも損ねはしなかったのだが。
「きたない子と遊びたくない。ね、なんでキレイなかっこ、しないの?」
 ボッシュは恥ずかしかったので(同じ年頃の女の子と話すなんて、初めてのことだったので)ちょっと意地悪をするみたいな口調で言った。
 本当は、こう言いたかったのだけど。ルーは可愛いんだから、ちゃんとキレイな格好をすれば、きっともっと可愛いよ。
 ルーはちょっと困ったように首を傾げて、そんなにきたないかなあ、と言った。
「でもおれ、毎日ちゃんと「しょうどく」されてるよ……」
「おふろは、ルー?」
「そう、それ」
 ルーはうんうんと頷いた。
「「かそう」の子は「ローディ」できたないから、ちゃんと毎日「さっきん」しないといけないって決まってるんだって。レンジャーのお兄ちゃんが、よく「病気が感染るから寄るな」って言うんだ」
「ル、ルー! 病気なの?」
 ボッシュはびっくりして、訊き返した。
 いたって健康そうに見える彼女が、一体どんな病に掛かっているというのか?
「ううん、げんき……。でも、みんなおれのこと、病気だって言うよ。「ローディ」って病気なんだって。病気を運ぶんだって、ディクといっしょで……」
 治らないんだって、とルーは俯いた。
 ボッシュは慌ててしまって、どうすればいいのかわからなくなった。
 ルーは困ったように、気遣わしげにボッシュを見た。
「あ……ごめんね、うつったら、だめだよね……。手、はなそうか」
「だ、だめ! 手、はなしたら、だめ!」
 ボッシュは大きな声を出して、ルーの手を握った。
「ぼくが治してあげる、ルー。ぼくの住んでるとこの病院、治せない病気なんかないんだ。上にいっしょに行って、ルーの病気が治ったら、そしたらぼくの……」
 ボッシュはそこで、ぐっと詰った。
 お嫁さんにしてあげると言おうとしたのだが、うまく言い出せなかった。
 勝手に決めたら、とうさまは怒るだろうか?
 それに、とても恥ずかしかったので。
「ぼっ、ぼくの、えと、ぼくと、いっしょに……」
 ずーっと手を繋いでようね、と言おうとした。
 ずっとこうやってルーと手を繋いでいれば、怖いものなんて何もなかった。
 暗いリフトも怖くなかった。
 ディクだって怖くなかった。
 あんなに怖かったとうさまも……いや、やっぱり少し怖いけれど……平気だった。
 ずうっとこの子と一緒に生きていくのだという気がした。
 真っ赤な顔をしているボッシュに、ルーはひどく心配そうな顔になって、「病気うつっちゃったかなあ」と不安そうな顔をした。







◇◆◇◆◇







 迎えに来たナラカとリケドの双子の兄弟は、あれからずうっと機嫌が良いボッシュを訝って首を傾げた。
「ぼっちゃま、どうなされました?」
「何か嬉しいことが、あったのでございますな」
 ボッシュはにこおっとはにかんで微笑んで、ないよお、と言った。
「なんにもないもん」
「……左様で、ございますか」
 ナラカとリケドは、顔を見合わせ合ってちょっと笑った。
 そしてボッシュが思うさまに合成紙に描き殴っている絵を見て、言った。
「これは美しいご婦人ですな、ぼっちゃま」
「青い髪など、珍しい……上層区の娘さんですかな?」
「み、みちゃだめ!」
 ボッシュは真っ赤な顔になって、体全体でがばっと紙を覆い隠した。
 ナラカとリケドはくすくす笑っている。






 とうさま――――ヴェクサシオンの訓練が終わった後は、彼らはこうして決まってボッシュの相手をしてくれるのだ。
 正直ボッシュは父よりも彼らの方が好きだったが、そう言うとナラカとリケドがすごく困った顔をしたので、もう言わないことにした。
 彼らによると、とうさまはとうさまで、ボッシュのことをすごく好きらしい。
 好きだから厳しくするのだと言っていたが、ボッシュは良くわからない。
 とうさまはかあさまのように優しくしてくれたことなんて一度もなかったし、いつも訓練以外で顔を合わせることなんてなかったからだ。
 さっきだって、省庁区の前でじっと立っていて、ボッシュが帰って来るなり一言も言わずにさっさと中へ入ってしまった。
 ナラカとリケドのように、どうして勝手に出ていった、もおかえり、もなかった。
「ヴェクサシオン様は、ぼっちゃまがいなくなって大慌てでありました」
 後になってナラカとリケドに怒られている時に、彼らはこう漏らした。
「我々は、ヴェクサシオン様が執務を放り出されるところなんて、初めて見ました」
「とうさま、おしごと、やすんじゃったの?」
「ええ、ぼっちゃまが心配で、仕事が手につかなかったのですな」
「……ね、じゃあなんで、とうさまはおこらないの? おかえりってナラカとリケドみたいに言わないの?」
 ボッシュがせっついてそう聞くと、ナラカとリケドは、不器用なお方なのですよ、と困ったように笑った。






 割合上手く描けた。
 青い髪に、無邪気に微笑む青い瞳。
 服がぼろぼろのままでは可哀想なので、ちゃんとドレスを着せてあげた。
 ボッシュが思い付くかぎり豪奢なもので、きっとルーに似合うであろう空色のドレスだ。
 ナラカとリケドに額に入れてもらうべきだろうか?
 省庁区の中を、彼らを探して歩きまわっていると、ふとすれ違った男の人がボッシュの絵を覗いて立ち止まり、変な顔をした。
「…………?」
 ボッシュは怪訝に彼を見た。
 彼はしばらく不思議そうに首を傾げて、またなんにも言わずに行ってしまった。
 変な格好をした人だが、確かとうさまよりも偉い人だ。
 とうさまの方がずうっと強そうなのに、へんなの、とボッシュはこっそり思った。
「おや、ぼっちゃまではありませんか。どうなされました?」
 向こうからナラカとリケドがやってきた。
 ボッシュはぱたぱたと駆けて行って、彼らにお願いした。
「ね、大事に飾りたい。やって?」
「おお、これはまた綺麗に描けましたな」
「ぼっちゃまは剣だけで飽き足らず、画家の才能もおありのようですな。ええ、額に入れてぼっちゃまのお部屋に飾りましょう」
「うん、えへへ……」
 ボッシュははにかんで笑って、あのね、と言った。
「ぼくね、つよくなるよ。ずっとずっといっぱい、いっちばんすごいレンジャーになるんだ」
「レンジャー? これはまた、勇ましいことですな」
「統治者入りした者たちの中にも、元々はレンジャーだったものが数人おります。ジェズイット様やメベト様、最高統治者――――オリジンも、確かそうでしたな」
「あの、へんなかっこした人? へー、ルーはあんなのが好きなんだあ……」
「ルー?」
「あっ、な、なんでもないない! あのね、強くなるんだ。レンジャーになったらかあさまにもあって、そんで……」
 ルーを迎えに行くんだということは、内緒だ。
 ちょっと赤くなったボッシュを見て、ナラカとリケドは顔を見合わせて首を傾げた。
「ぼく、とうさまの稽古もがんばるよ。とうさまみたいにつよくなるんだ」
 一番すごいレンジャーになれば、きっとルーはボッシュに夢中になるに違いない。
 もう彼女にあんなぼろぼろの格好なんかさせない。
 ずっと手を繋いで――――手を引かれるばかりじゃなく、強くなって、彼女の手を引いて、どこまでも連れていってあげよう。
 彼女が空へ行きたいなんて言ったら、ボッシュは迷いなくそうするだろう。
「早くなりたいなあ。うん、明日からレンジャーになるよ、ぼく!」
「ぼっちゃま……」
「それはちょっと、気が早過ぎますぞ」
 ナラカとリケドはそうして、揃いの顔で苦笑した。








◇◆◇◆◇







 ずうっとこうしてやりたかった、とボッシュは言った。
「俺さ、ずっとオマエが欲しかったんだよ」
「……おれ?」
 リュウは不思議そうな顔をして首を傾げた。
 なんだか目の前にあることが現実だと上手く感じられないような顔をしている。
 少し眉を下げ、ねえ、と彼は言った。
「……おれ、なんだかボッシュが、ほんとに……おれのこと、好きになってくれるなんて……なんだか夢みたいで……あ、あれ?」
 ぽつっと涙が零れた。
 ボッシュはぎょっとして、リュウを抱いて、あやした。もう全部ほんとのことだ、どこへも行かない。
「もう泣くことなんかなんにもない、リュウ。1000年ずっとその先も、ずうっと好きだ。俺が守るよ。手を繋いで、引いて、ずうっとさ」
「う……」
 リュウは俯いたまま、何度も何度も頷いた。
 柔らかい小さな手は震えている。
 ぽつぽつと零れた涙が、リュウのコートに染みを作っていく。
「……大体俺が人に優しくしてやるっての、根本的に無理があるんだ。……だから、たまに泣かしちまうかもしれないけどさ」
「……ごめんなさいして、そしたら赦してあげるよ?」
「ハイハイ、リュウはお優しいな」
「もう!」
 ボッシュは意地悪だよと泣き笑いするリュウの目を拭いながら、ボッシュはちょっと困った顔で言った。
「大体オマエは泣き過ぎなんだよ」
 リュウの泣き顔にだけは、きっと一生慣れることはないだろうな、なんて思った。
 彼は笑っているべきだ。
 底抜けに明るく、能天気で、ああちょっと頭が足りないななんて思うくらいにバカみたいな幸せそうなふうにだ。
 ボッシュが初めて人を可愛いなと思った顔で、リュウは笑っているべきだ。
 頭を撫でてやりながら、リュウが泣き出した時に決まってそうであるふうに――――少しばかり、自分も泣きそうになりながら――――ボッシュは困って、言った。








「泣くなよ、リュウ」








・END・






[
あとがき]