おれは、それが敵だと教えられた。 実験室に入ると、まずはいつも強化扉が固く閉ざされた。 中からはどんなに頑張っても開かないようになっている。 その時点でおれは、あまり上手く物事を考えられないくらいに、頭がフラフラでグラグラだった。 たぶん、さっき打たれた注射のせいだと思う。 きっと興奮剤かなにかなんだと思う。 おれが部屋に入ってしばらくすると、ふたつしかない扉のもう片方が開いて、誰かが入ってくる。 その顔はいつも違っていた。 同じなのは今のおれと同じような感じの、人間とディクを足して2で割ったような風体の……これ、人って言っても良いのだろうか? 顔ぶれがいつも違う理由は簡単なことだった。 殺しちゃうのだ。おれが。 頭がかあっとなって、気がついた時には相手はもう粉々になっている。 そういうのが何十回も続いた。 おれの精神はそろそろ限界だった。 そいつらはきっとおれと同じようにここに連れられてきて、改造されて、人間じゃなくなってしまって、だけどディクにもなりきれない、どこにも行くところがなくなってしまった人間だったんだろうから。 おれは人殺しだ。 目の前に現れるのがどうかニーナじゃないように、おれは一心に祈りながら、もうひとつの扉が開くのを絶望的なスローモーションで見ていた。 そんなことが、はじめのうちは三日に一度、最近ではほぼ毎日続いている。 ◇◆◇◆◇ 「随分参ってるみたいだね」 看護婦みたいな格好をした研究員の女の人が、デスクの上で黒いカルテにさっきの実験結果を書き出しながら、寝台に拘束されているおれに言った。 おれは返事をしなかった。 だけど、彼女はそんなことを全然気にしない調子で立ち上がった。 「首輪、外そうか?」 「……いいよ。このままで」 おれの首には制御装置がつけられている。 おれたちみたいなのが思いっきり力を使うと、ラボが持たないから。 だからここにいる実験体には、ほぼ同じような枷が嵌められている。 でもなんだか、首輪って言われると犬みたいだな……。 「あんた、D検体なのに精神が安定してるなんて珍しいね。普通ならもうとっくの昔に食われてるよ」 「……おれと同じ実験をされてる人がいるの?」 「今はもういないよ」 「……そう」 もう死んでしまったんだろう。 おれも、死ぬのかな。 このまま実験動物みたいに。 「接続を切って、普通の人間として暮らしてるよ。べつに死んだわけじゃない」 「ドクター? それ、嘘でしょ」 おれは疲れきっていたので、彼女の言葉が気休めとしてしか聞こえなかった。 女医(だろう、きっと)は肩を竦めて、信じなよ、と言った。 「本当さ。データにはそうある」 「…………」 おれは身体がはり付けにされて動けないので、目だけ動かして、彼女に訊いた。 「……おれ、普通のレンジャーに戻れるかなあ?」 「いい子にしてたらね」 「後遺症とかは?」 「あるかもしれないね。でも、ずーっとそのままよりは随分ましだろう?」 おれは頷いた。 こんなディクみたいな身体じゃないなら、なんだって構わない。 「……おれ、普通がいいよ……」 「アジーン? あんたは変な子だね。ここにいて、まだ人間の意識がはっきり残ってる」 「おれの名前は、そんなんじゃないよ」 おれはふてくされた顔をしていたと思う。 ここでは誰もおれの名前を呼んでくれない。 1/8192のローディー、リュウなんて名前を呼んでくれる人はひとりもいない。 「……今日はいつになったら帰れるんだ?」 「もうちょっとさ」 「……さっきもそう言われた」 「子供みたいなこと言わないの。ちゃんとクールダウンしとかないと、後で困るのはあんたなんだから」 「だっておれ、ただでさえ落ちこぼれなのに最近ろくに訓練も受けてないし……。ローディーだからサード止まりだって言われたから昇進とかはどうでもいいけど、これじゃあクビになっちゃうよ」 おれが落ち込みながらそう言うと、女の人はちょっときょとんとした顔をして、それから大笑いしはじめた。 ……なんか変なこと言ったっけ、おれ? 彼女は笑いを引っ込めるように多大な努力を払いながら、目の端にくっついた涙を拭った。 「あんたは本当に面白いねえ! いや、傑作だよ。その姿でそういうことを言うかい?」 「……好きでなったんじゃないよ」 俺は不機嫌に唸った。 女医はふうっと一息ついて真顔に戻ると、目を閉じて頭を振った。 「……あんた、アジーンってのは識別名称だろ?」 「うん。おれ、リュウ=1/8192」 「あんた、もうD値に縛られてやしないんだよ?」 「いや……いつもの癖で、もう慣れちゃってるから」 「そうかい」 彼女は面白そうに、だがちょっとばかり困ったような顔で(きっと職業柄、実験体と面識を持ったって後が辛いだけなんだろう。それは良く理解できる)言った。 「リンだよ。よろしくね」 今日もまた、これから俺は実験室に入る。 リンは「さあ、行っといで」と言いながらも、あれからおれの顔は見なくなった。 ちょっとでも情が湧いたら、辛いんだろう。こういう仕事は。 おれの家族ももしかしたらこういうことをしてるのかもしれないけど、おれは極力なにも考えないようにして、開いたドアから部屋に足を踏み入れた。 今日は部屋の中が真っ暗だった。 ゴン、と後ろで扉が締まる音がした。 モニター越しに、ドクターたちが今おれを監視しているはずだ。 今日もきっと人を殺して、じゃなきゃここから出られない。 いっそのことおれが殺されてしまえれば楽なんだろうけど――――それは無理だった。 今まで何度もそう思って、おれは飛び掛ってきた相手が喉元に食らいつくのを、じいっと待っていることもあった。 だけれど、それは何の傷もおれに与えることはできなかった。 ただ攻撃された、とおれが認識すると……決まって次の瞬間、相手は消し飛んでいるのだった。 まるでおれの中に誰かいて、おれが不甲斐ないのを叱責しているような調子だ。 おれは度々、おれの中のおれじゃない自分を感じた。 そいつはすぐそこにいた。 でも、そいつはいつも黙っておれを見ているだけだった。 (……今日はなにかな……) 上半身がカローヴァ。意思のある目をしたチャペック。少年の顔が張り付いたワームマン。 それとも人間の首がみっつついたトライリザードだろうか? もうなんだっていいや、という気分だった。 暗いのならその方がいい。 相手の目を見ないで済むんだから。 おれはもう、この凄惨な実験にそろそろ慣れはじめていた。 それは恐ろしいことなんだろうか? でも、もうほとんど感覚が麻痺してしまっている感じで、よくわからない。 相手の顔を判別するのだって、はじめは恐ろしくて仕方なかったはずなのに、もうレンジャー基地の食堂で日替わりランチのメニューを覗くくらいの感慨しかない。 以前は任務でディクを狩るために剣を振るうことさえ怖くて仕方なかったのに、今じゃおれはほんとに無感動に、人だったものを殺せるようになってしまっていた。 もう弱虫のローディーって罵られないだろうか? あのころ――――まだそんなに経っていないはずなのに、もう随分遠く感じる、おれが普通のレンジャーだった頃。 おれを背中で守りながら、つまらなさそうな顔をして、何の迷いもなくボッシュはディクを倒していた。 彼もこんなふうに感じていたんだろうか? ボッシュはディクみたいになっちゃったおれのことも、あの顔で殺してくれるんだろうか? ねえ、ボッシュ? 余所ごとを考えているうちに、おれが入ってきたのと反対側の扉が開いた。 ばさばさと大きな翼が空を切る音が聞こえる。 おれの目は随分と良くなっていて、暗闇でも相手の姿が良く見えるようになっていた。 バフォメットの翼が人の背中にくっついたみたいな姿をしている。 おれがぼんやりと立ち尽くしていたのを見て、それは翼をはためかせて炎を放ってきた。 あれもおれを殺さなきゃ、外に出られないのだ。 小さな炎の柱がおれを包んだ。 変なことに、全然熱くない。 もう身体の感覚もおれのものじゃなくなってしまったんだろうか? いっそのことおれの心も消えてなくなってしまえば楽なんだろうけど……いや。 おれは消えたくなかった。 化け物になっても、何人殺しても、おれは自分を捨てきることができなかった。 どうしようもなく生きていたかった。 おれは生き汚いのだろうか? こんな惨めな身体になってしまった時に、自分の爪を心臓に突き立てて、人間としての尊厳を守ったほうが良かったろうか? きっとプライドの高いボッシュならそうしたと思う。 おれは恥知らずなんだろうか? 自己中心的で、自分さえ良ければ他はどうでもいいって思ってるんだろうか? それでも生きたいって思うのはいけないのだろうか。 ボッシュは……彼は、どうしておれなんかに優しくしてくれるのだろう? 最近の彼はとても優しい。 おれなんかのことを気に掛けてくれる。 相棒だと言ってくれる。 おれは実を言うとずうっと昔、まだレンジャーになりたてだった頃から彼に憧れていた。 ボッシュはとても強かった。 エリートで、そりゃあちょっと傲慢なところはあったけど、おれの同期の中では郡を抜いてトップを走っていた。 彼はどこにいたって輝いていた。 おれは地味で目立たないローディーだったから、きっと彼はおれの存在なんて知りもしなかったに違いない。 彼のパートナーとして選抜された時、おれは密かにものすごく嬉しかったのだ。 まあ、まさかあんなに性格が悪いなんてのは知らなかったけど。 ボッシュって、あれでわりと外面がいいんだよ。 炎はどんどんおれを包み込んだ。 パダムの連撃を受けている。 でもやっぱり、おれの身体は熱いなんて感覚が欠落してしまったように、なんにも感じなかった。 すぐに現実からふうっと上へ逃げてしまうおれの意識は、燃え盛る炎の中へ帰ってきた。 おれはゆっくりとした足取りで、「彼」へと近付いていった。 その顔はまだあどけなさを残す少年のようだった。 おれと同じ位。 おれは、その顔に見覚えがあった。 実験体の保管室で、おれはニーナと隣同士のカプセルに入れられていた。 おれは実験の見返りとして(いや、それも実験の一環だったのかもしれないけど)レンジャーとしての通常生活を続けることを許されていたから、今日の昼間にあったできごとを、退屈そうにしている彼女に聞かせてあげていた。 おれの話なんて面白いものじゃないとは思うんだけど、それでもニーナはにこにこして聴いてくれていた。 「それでね、おれの隊長がゼノっていう人なんだ。ちょっと怖いけど、とても頼りになって、本当はすごく優しい人なんだよ。おれの剣の師匠なんだ。すごく厳しい」 「うー?」 「え? 女の人だよ」 「うー! うー!」 「え? うーん、あはは、それはどうだろうなー……」 ニーナが自分を指差して、「わたしにもなれる?」というふうな調子で言うから、おれは困って苦笑いした。 隊長みたいなニーナは想像ができないなあ……。 「でも隊長って大変みたいだよ。ボッシュみたいな部下がいたら、おれなら泣かされて辞めちゃうだろうなー」 「うー、ボス、いーあ?」 「うん? うーん、昔は意地悪だったんだけどね。今は割と優しくて……や、でも意地悪かなあ」 「いーあ!」 「でもきっと本当は優しいんだと思うよ。この間だって……」 おれは慌ててボッシュのフォローをしながら、くすくすと笑った。 ボッシュは、おれがこういう話をしてたなんて知ったら、どんな顔をするだろう? 頭から湯気を立てて怒るに違いない。 ローディーが俺様を語るなんて100年早い!なんて言いながら、一発くらい殴られるかもしれない。 グーで。 ふいに、おれは顔を上げて気がついた。 さっきからずうっと、すごい視線を感じる。 痛いくらい。 その正体はすぐに知れた。 ニーナのカプセルのすぐ向こうにひとり、任務で出掛けた時にボッシュが切り捨てていた大きな翼を持った『バフォメット』っていうディクと同じ、赤い翼を持った少年が、おれたちの遣り取りをじーっと眺めていた。 彼もおれと同じような境遇だったりするのだろうか? ふと気付いたら、向けられた視線はそれだけじゃなかった。 部屋中いくつも設置されたケースの中に、何人もの異形の人間がいた。 彼らはただ黙ったまま、おれとニーナが話しているのを静かに、じっと聴いていた。 おれは急に恥ずかしくなってしまって、赤くなって俯いた。 「う、うるさくしてゴメン……」 彼らはどうやら口はきけないようだったが、『そんなことない』とでも言いたげに、揃ってゆるゆると首を揺らした。 そんなことを思い出した時には、もうおれの爪は彼を引き裂いていた。 おれの身体はいつのまにか、とても人殺しに適した進化をしていた。 断末魔の絶叫もなかった。 ただ静かに、おれの腕は炎よりも圧倒的な熱さで、彼の身体を残らず溶かして、消し去ってしまった。 あとには灰も残らなかった。 返り血すら、おれの身体には掛からなかった。 おれは おれは、なんで生きてるんだろう? 思い出の中から、死骸が溶けた暗闇の空気から、なにもかもからおれを責めて苛む罵声が聞こえた。 この人殺し、と彼らは言った。 バフォメットの翼を生やした少年は痛いと泣いていた。 まだ死にたくないとも。 死んでいいよ、化け物、とおれの目の前で、ボッシュが言った。 ボッシュの顔には人殺しのおれを責める感情は見て取れなかったが、そのかわりに生理的な嫌悪を映していた。 彼にとって、おれは汚らしいディクだった。 目に映す価値さえないものだった。 彼はおれを相棒扱いしたことを恥じていた。 一生の不覚だ、と彼は吐き捨てた。この1/64のボッシュが。 薄汚いディクが、と。 おれはいつのまにか、また微笑んでいた。 それはおれが彼の相棒に任命されてから、散々練習した表情だった。 ボッシュの前でいつも笑っていられるようにだ。 彼は辛気臭いおれの顔を何より嫌っているらしかった。 だが、少々自信があったその顔のまま、不覚にもおれは泣いてしまった。 目が熱い。 きっと今おれは、記憶の中のボッシュに罵られながら、あの化け物みたいなぎょろぎょろした真っ赤な目をしているんだろう。 そう思うとまた後から後から泣けてきた。 「……おれを、殺して、ください」 おれはボッシュに、今しがたおれが殺した彼に、おれをこんな身体にした人に、おれ以外の世界中のすべてに懇願した。 その頼みが聞き入れられることは、どうやら残念なことに、ないようだった。 扉が開いた。
リュウたんはちょっとエリートに夢見すぎですいません。
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