「苦しくはないかい?」 声が聞こえた。 女の人の声だ。 ひどく遠い所から聞こえてくるから、誰なのかさっぱりわからなかったけど、おれはその声に聞き覚えがあった。 誰だっけ? 「まだ寝てな。麻酔が効いたままなんだよ」 麻酔って、おれは手術でも受けてたんだっけ。 また任務中に、大怪我なんかしたんだろうか。 そうすると、ボッシュは怒ってるかな。 おれを背負って帰ってきてくれて、それでおまえホント文字通りのお荷物。重い。なんて。 なら置いてけば良いのに、ボッシュはそうしない。 俺のマイナスになるとか言いながら、でも前の彼なら間違いなくそうしただろう。 最近ボッシュはおれに優しい。 こんな身体になって、得したのってそのくらいかな? ……こんな身体? ああ。 そうか。 ◇◆◇◆◇ おれはまぶしくて、目を覚ました。 また手術のライトだろうと思って目を開けると、そこにあるのはなんでもない蛍光灯だった。 天井から、力無く照明を落としている。 目が覚めて見慣れない部屋にいるっていうのはもう慣れてたんだけど、それにしてもバイオ公社のラボはどこも似たようなつくりになっていたから、おれは今置かれているところがいつもとは違うんだろうな、ということに気が付いた。 くすんだ壁、捲れた床、部屋の真中にあるベッドは清潔だったけど、湿気が多くて呼吸がしにくい。 「ここは……どこだ?」 おれは頭を振って、眠りの余韻を払った。 眠る前はどこにいたんだったっけ。 確かいつものように接続実験(何を繋いでいるのかは知らないけど)をするとかで、麻酔を打たれて、そこで記憶は途切れている。 「…………!」 もしかして、また暴走してラボをこんなぼろぼろにしてしまったのだろうかと一瞬青くなったが、そうでもないみたいだ。 ここはラボじゃない。 建物の雰囲気が、前にボッシュと一緒に訪れた商業区に似ている。 朽ちている雰囲気は別物だけど。 おれが困惑していると、ドアが開いた。 おれは身構えたが、すぐに身体から力が抜けた。 入ってきたのは、見知ったドクターのリンだったからだ。 「目が覚めたかい?」 「ああ……うん」 おれはなんだかほっとして、微笑んだ。 「……また暴走しちゃったのかと思った」 「…………」 リンは眉を顰めて、痛ましいものを見るようにおれを見た。 ……おれは、今何か変なことを言っただろうか? 「……心配ないよ、リュウ。ゆっくりおやすみ」 「あ、でも実験、今日もあるんだろ?」 「大丈夫さ」 リンはにっこりと笑った。 「もうあんなこと、あんたにさせやしない」 「…………?」 そして、リンはまだよくわかってない顔をしているおれに向かって言った。 「トリニティ・ピットへようこそ、リュウ。ひどい目に遭ったね」 もう心配いらない、とリンは笑った。 おれはまだ事態が理解出来ていなかったので、呆然としていた。 バイオ公社で眠って、次目が覚めたらトリニティのアジトって、一体どういう冗談なんだろうこれ。 ◇◆◇◆◇ どうやらおれはトリニティに保護されたらしい。 リンはバイオ公社に潜入して、研究員の擬装を続けながら内部の情報を探っていたのだそうだ。 おれレンジャーなんだけど、と言うと、リンは困ったみたいな顔をして笑った。 「あんたのそれ、仲間内では実験体が混乱してヘンなこと口走ってるくらいにしか取ってもらえてないみたいだよ」 ……レンジャーっぽくないのだろうか、おれ。 確かに最近体力落ちてるし、まだガキだけど。 でもおれは間違いなくレンジャーだから、トリニティ殲滅任務に出向いたことも何度かある。 おれの顔、知ってるやつがいたらまずいんじゃないだろうか。 口には出さずにそう思っていると、リンはおれの考えていることが読めたのか、すっとぼけた顔で言った。 「あんたの今の姿、鏡で見てごらんよ」 「…………」 おれはまた、銀色の髪と赤い眼をしていた。 角も羽根もないけど(あったらきっと気持ち悪がられるだろう)これは確かにばれやしないだろうと思う。 だっておれだってあんまりわからないんだから。 これが自分だと言われても、変な気がするのだ。 見慣れた自分の顔とは全然違う。 でもトリニティのリンが、仲間におれのフォローをしてくれるってのも変な話だと思う。 いいんだろうか、それ。 「構いやしないさ」 彼女は笑った。 だけど、おれの身体は予想以上に使い物にならなくなっていたようだ。 そりゃあ、最近はカプセルの中でニーナとお喋りをしているか、あの変な姿に変わってしまってその、同じように改造された人を……――まあそのどちらかだったから、最初は筋肉が落ちているだけかと思っていたけど、どうやらそうじゃなかったみたいだ。 おれは衰弱していた。 身体じゃない。 おれの精神は、ぎりぎりのところまで削られていた。 すぐそこにいるおれのなかのもう一人を、吐息が耳元で聞こえるくらい近くに、感じるようになった。 おれは、おれじゃなくなり始めていた。 まずは、身体の自由が奪われはじめた。 誰か他の人間の体を動かしているような感じ。 モニター越しに見ているような視界の風景。 おれの身体は確実に、おれだけのものじゃなくなりはじめていた。 ラボでリンクをきちんと切断してもらえないようになったのも、ひとつの原因だった。 薬も、もう残りがなくなりはじめていた。 リンはおれを連れ出さなきゃ良かったと後悔していたが、だけどどっちにしても、おれはもう元の身体には戻れないようだった。 あの地震で壊れてしまって、完全な切断ができなくなってしまったのだ。 行く所まで行くしかないみたいだった。 つまり、おれが完全に誰か他の人間……いや、人間ならまだ良い方だ。 完全な、ディクになってしまうってところまで。 そうなってしまったら、おれはもうリュウって名前を呼ばれても何の反応もせず、きっと友人やニーナやリンや、ボッシュを見ても誰だかわからないんだろう。 怖くて仕方がなかった。 だけど、誰も助けてはくれないってことは、良くわかっていた。 どうすることもできない。 ――――おれの意識が完全に消えてなくなるまで、あと2週間持てば良い方だとリンが診断してくれた。 リンは優しい。 口ではきついことを言うけど、おれのことをとても気遣ってくれる。 おれのことをここに連れてきたのも、任務だからだっていうのもあるけど、実験で例の部屋に入れられたおれの顔を見ていられなかったんだそうだ。 そんなにあの時のおれはひどい顔をしていたんだろうか? 彼女はどうやら、おれと一緒にニーナも連れてくる手筈だったらしいんだけど、レンジャーが邪魔してそれはできなかったんだそうだ。 「でも、2週間分死んじゃう子が減ったよ」 おれは自嘲気味に笑って言った。 「もう誰も、あんなふうにしなくて良いって、すごくほっとするよ」 おれは、素直にリンにありがとうと言った。 ちょっと残念なのは、おれが消えてしまう前に、もう一度ボッシュに会いたかったなあ、っていうことだ。 もう一度サードレンジャーの任務に就いて、ボッシュと仕事に行きたかった。 ディク狩りでもなんでもいい。 これだけやっちゃったんだから、後はおんなじだろうと思う。 もう手の汚しようもない。 ボッシュの背中を見られることも、もうないんだろうなあと思った。 おれはあれを見るのが好きだったんだけど。 面と向かうと何を言われるのかわからないからちょっと身構えてしまうけど、ボッシュの背中は不思議と安心するのだった。 できるならおれが誰かに浸蝕されてディクになる前に、彼に「退治」してもらいたかったんだけど、そこまで求めるのもなんだか悪い気がした。 彼の手を、おれなんかの血で汚させたくはなかった。 きっとまた、世話掛けるなよローディー、って迷惑そうな顔をされるんだろうなあ。 ……あ、ちょっとまた泣けてきた。 おれは最近、涙腺が緩いのかもしれない。 やがて、おれは『彼』の声を聞くようになった。 おれとおんなじで、でも機械みたいに無機質で、冷たくて無感動な声。 彼の名前はアジーンって言った。 『小さきヒトよ。友よ。汝は、とても温かい』 おれは、あったかくなんてないよ。 もう本当は、心臓も止まってるんだよ。 この鼓動はアジ―ンの心臓の音だ。 おれはもう、ニーナを助けようとして撃たれたあの日に死んでしまっているんだ。 アジーンは、おれのことを友と呼んだ。 彼はひとりぼっちで、おれの中にいた。 そして、おれに浸蝕していた。 もうすぐおれは消えて、彼になる。 怖かったけれど、不思議と嫌悪はなかった。 ただひとつだけ言付けておきたいことがあった。 もしおれが消えて、彼がおれの目でものを見て、おれの身体で走り回って、ボッシュがまずいと言った角切りハオチーのスープを飲んで……そういうことをするようになった時、そのうちの大事なたった一言だけでもいいから、リュウ=1/8192がこんなふうに言ってたって。 そう、遺言だ。 面倒ばっかり掛けられてたっていうけど、それはこっちだって余りあるほど苛められたんだとか、もうちょっとその我侭なとこなんとかしたほうがいいよとか、いつか上に立つ時はヒトのことを考えてやれる優しい統治者になってねとか、そーいうこと。 あとはおれがどんなに憧れてたかとか、昔からずうっと辛気臭くて暗い奴だったんだけど、こうやっていつも笑っていられるようになったのは一応君のおかげだとか、こんな気持ち悪い身体になったのに優しくしてくれてありがとうとか、 ……ほんとはおれ、ずうっと君のことが好きでした、とか、そんな。 そんなふうに言われたって、迷惑かなあ? びっくりするかな。 今度こそ本当に、気持ち悪い化け物ローディーとか怒るかな。 ねえ、ボッシュ。
真面目な子ほど一人で思い詰めちゃうと思うんですが……。
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