おれの耳元では、風がびゅうびゅう鳴っていた。
 冷たくて、研ぎ澄まされて、それを全身に受けて――――おれは頭から落ちていた。
 果てのない奈落みたいだ。
 真っ青で冷たい色の、まるで子供のころ良く見上げた下層区の偽物の空よりも、もっとずうっと綺麗で深い色が、俺の目の前に広がっていた。
 おれの背中には大きな翼があった。
 それで空を切って、風に打ち付けて、おれはどこまでも、どこまでも飛翔していた。
 身体中固い鱗に覆われて、おれの全身は真っ赤に燃え上がっていた。
 ずうっと、上へ上へ上へ、どこまでも昇り落ちていって、――――でもどこまで行っても真っ青な世界だった。
 その他になんにもなかった。
 それはとても綺麗だったけど、おれにはとても寂しい光景だった。
 おれはひとりぼっちだった。
(……ああ、そうか……)
 おれはそのあたりになってようやく、ああ、これ、いつもの夢だと気付いた。






 それはおそらくは、『彼』の目を通しての記憶だった。
 アジーンはきっと、この1000年の世界で誰も見たことがない空を知ってる。






 おれはまだ生きていた。
 リンから受けた死亡宣告の猶予期間、2週間はもうとっくの昔に過ぎていて、でもまだおれはおれでいた。
 






「行ってきます」
 ボッシュは、昔なら聞けなかったようなことを行って、仕事に出掛けていった。
 おれは笑いながら「行ってらっしゃい」と言って、なんだかこういうの、まるで新婚さんみたいだなあ、と思った。
 おれもボッシュも男だけど。
 ボッシュはいつのまにかちょっと偉くなっていて、彼はもうサードの制服を着なくなってた。
 セカンドレンジャーに昇格したらしい。
 彼はもうあんまりいつもの基地に顔を出さなくて、本当にいつもが普段通りなら、もうおれはこうやって彼とあんまり一緒にいられないはずだったんだけど、おれって運が良いのかなあ、これ?
 自然に顔が笑ってたらしい。
 でもすぐに、ふっとおれはぼおっとした顔に戻った。
 ちょっと気を緩めると、表情はすぐになくなって、抜け落ちた。
 おれの身体はもう半分以上おれのものじゃなくなっていて、『彼』の声がすぐ近くに聞こえた。
『友よ。辛いか?』
(ううん。大丈夫だよ)
 アジーンはおれを気遣ってくれた。
 彼はおれのことを友達って呼んでくれて、どうやら結構好きになってくれてるみたいだ。
 無理におれを乗っ取ろうなんてことはしなかったし、その上なんだか申し訳無さそうだった。
 そんなふうだから、おれの恐怖はほんのちょっとだけ薄らいだ。
(気分はとても良いんだ。おれは幸せ者だなあ)
『「幸せ」とはなんだ?』
 アジーンは生まれたばかりで、なんにも知らなかった。
 おれに接続されて目を覚ましたのが最初で、昔のことは何にも覚えていないらしい。
 おれは笑いながら、今みたいなこういうこと、と言った。
 アジーンは良くわからなかったらしくて、黙り込んでしまった。
 彼に身体があれば、首を捻っていたかもしれない。
(さ、おれも仕事に行かないと)
 おれは支度をしはじめた。
 アジーンは興味深そうに、おれの一挙一動を眺めていた。






 クリオ(呼び捨てをすると、店長には「さん」て付けろと怒られる)の道具屋は今日もとても大繁盛だった。
 下層区の道具屋では列ができるなんてところをあまり見たことがなかったから、中層区にもなるとこんなに薬が必要なんだなあ、と思った。
 ディクがそれだけ強力なんだろう。
 ボッシュに養ってもらってるっていうのも悪い気がしていたし、おれのカードはサード基地に置きっぱなしだった。
 でも生活費くらい自分で稼ぎたいのだ。
 おれ一応社会人だし。
 クリオは店が暇になる昼食の時間の一時、おれに文字を教えてくれた。
 おれはあんまり頭が良くなかったから、ボッシュが読んでるみたいな難しい本は読めなかったし、必要最低限の文字しか知らなかった。
 報告書を書く時に使う程度。
 今なら割といろんな言葉を覚えたので、ボッシュに手紙でも書いておこうかなあ。
 ……遺書になっちゃうかな。
 初めて書いた人への手紙が遺書って、なんかやだなあ、それ。






 おれの身体はもうがたがたになってた。
 生きてるけど、うまく動けなかった。
 食器を持つと手が震えたし、折角教えてもらった字もミミズみたいに歪んでしまった。
 クリオさんはおれの書いたそれを見て、えらいへったくそやなあ、と笑った。
 おれも照れたみたいに笑って、不器用なんだよー、と言っておいた。
 はじめのうちはアジーンが手を貸してくれたのでなんとか普通に見えるようにできてたけど、でもそれじゃ追いつかないくらいに、おれそのものはどんどん消えていった。







 でも、そう、おれは今間違いなく幸せなのだった。
 こんなふうになって、おんなじ身体の仲間を何十人も殺して、塵も残さずに消滅した彼らにおれは、きっと死んだらその分の痛みを返してもらえるだろうか?
 さっさと来いよ、と彼らは言った。
 でもおれはぎりぎりのところで生き汚かった。
 1日でも1時間でも、一瞬でもいいから長く、ボッシュとこうやって……なんだろう、前なら恥ずかしくてできないようなことでも、もうおれは平気だった。
 ボッシュにキスされたり、いいトコロを触られたり――――おれはそんな時はとても幸せだったけど、なんだか泣きそうな顔をしているらしい。
 ボッシュは前よりずうっと優しい。
 おれはこんな気持ち悪い体なのに、全然平気そうな顔をしてくれる。
 相変わらず意地が悪いけど、おれは彼のそんなところも好きだった。
 我ながら悪趣味だと思う。






 夜眠ると、おれは良く空の夢を見るようになった。
 いつも決まって、あの飛翔しているはずなのに、拭いようのない落下の感触が付き纏う、一面の空におれはひとりぼっちでいる、そんな夢だ。
 アジーンはひとりぼっちで寂しくなかったのだろうか?
 昔のことは良く覚えてないと彼は言った。
 おれはボッシュのことを忘れてしまうのは、考えただけで泣きそうになってしまうくらい、とても悲しいことだと思う。
 アジーンは好きな人とかいないの?
『「好き」とは、好意を持った存在ということか?』
 そうだよ。
『我はまだ汝しか知らぬ、友よ。しかし、我はおそらく汝に好意を持っていると思う』
 おれなんかでいいの?
 なんか悪い気がするなあ。
 おれはもうすぐ消えちゃうけど、そうしたらまたひとりぼっちじゃないか。
『……我は、正直良くわからない』
 あんまり無理しないほうがいいよ。
 君には時間は沢山あるんだから。






 夜中に目を覚ますとボッシュが隣で眠っていて、おれは彼の横顔を見ながら、なんとなくまた微笑んでしまった。
 ゆっくりと、ボッシュが起き出さないように細心の注意を払って、おれは身体を起こすと、こっそりと彼にキスをした。
 あともうちょっとだけ、あとでどんな罰を受けたって良いから、おれは彼のそばにいたいと思うのは、悪いことだろうか?
 みんな、怒るだろうか。
 ラボの実験体のみんなは。
 ボッシュだって。







 そしてある朝、とうとうおれの身体は完全にアジーンに浸蝕されてしまって、動くことができなくなってしまった。
 なけなしの精神はまだ残っていたけど、でもそんなことではどうにもならなかった。
 ただ、まだアジーンもうまくは動けないようだった。
 おれっていう補助がないと、そしてバイオ公社での接続がないと、彼はうまく外に出てこられないようだった。
 おれは卵の殻みたいな感じだった。
 ふとしたことで割れてしまって、中からなにかが零れ出しそうな、そんな。






 ……まだちょっとだけ表情は動かせた。
 ボッシュが仕事に出て行く時に、声が出せないから「行ってらっしゃい」とは言えないけど、彼に笑い掛けて送り出してあげる。それくらいは。






 なんだか、最後までおれお荷物でゴメン、ボッシュ。





 でも、おれはすごく幸せ者だ。

















CONTENTTOP















ヤバい、そろそろ怒られそう。
ていうか私が怒る。