ラボ帰り。階段を上るとそこは下層区の街。
 馴染みのない偽物の空はくすんで黄色い。
 煤けた埃の匂いがする。
 空気は悪い。
 少しそこに佇んでいるだけで、息がしにくくなってくる。
 喉が痛い。
 ここに暮らす住人たちは、こんな空気の中でどうして平気そうな顔をして生活できるのだろう?
 なにか上層の人間にない進化の跡が見られるのかもしれない。
 それもこれもどれも、元はといえば自身にも責任の一端はあるのだ、と彼は自嘲気味に自覚した。
 そう、彼は空を開けなかったのだ。
 彼は寸前で恐怖し、届かなかったのだ。
 彼の名はエリュオン=1/4。
 始原の唯人。





(苦しいな……)
 咳込み、彼は鉄柵に腰掛けて、天井を見上げた。
 まだ上に帰る気にはなれなかった。
 あまり帰りが遅いとメンバーが心配してしまうので(クピトあたりにどやされるのは覚悟しておいた方がいいかもしれない)そろそろ切り上げた方が良いとは思ったが、彼はだらだらと天井の観察を続けた。
 いつか遠い昔、見るかもしれなかった空の模倣物だ。
 それは奇妙な感傷をもたらしてくれて、彼の古い傷を抉った。
 アジーン。
 ラボまで足を運んだが、あの友の顔は見ることができなかった。
 後ろめたさというやつも、あったかもしれない。理由のひとつには。
 私は臆病なのだ、とエリュオンは自覚した。
 決定的なところで、決断することができない性質らしい。
 だが、彼はこの地下の世界が好きだった。
 空を開けて、世界を壊してまでしてそれをどうしても手に入れたい理由が、彼には見つからなかった。
 こんな地下深くでも人々は日々あがき、だが生きていた。
 それはある種の感動を、エリュオンに与えてくれた。
 生命そのものの輝きだった。
 彼は人々を愛していた。
 深く、とても、この大深度都市よりもずうっと深く。





「あんた、ちょっと。 どいてくれへん?」
 ふいに声が聞こえて、エリュオンは辺りを見回した。
 だけれど、誰もいない。
「ちょっとあんた、あんたやって。 ギンパツ、角! そこ、うちらの商売場所!」
 エリュオンはどうやらそれは自分にかけられているものらしい、と理解したが、相変わらず姿が見えない。
 下、下! と言われて、ようやく気が付いた。
 足元に子供が何人か溜まっている。
 いずれも同じくらいの少女だ。
 歳は10に届くか届かないか、といったところ。
 どうやら声の主は、その中の金髪の少女だった。
 丸い目を精一杯尖らせて、エリュオンを睨んでいる。
「……なにか、用か?」
「用か?やあらへんて! うちら、そこで商売したいんやけど」
「……ああ……」
 エリュオンは頷いて、おとなしく場所を空けた。
 少女らは鉄柵の前に陣取って、敷き布を広げ、各々が背負った袋から商品らしき道具を取り出し、飾り始めた。
 きずぐすり、応急セット。万能薬。剛剣にパイロマニア。
 大きな袋の中から、明らかに少女の腕力の許容範囲を超えた数の品物が、出て来る、出て来る。
「……ここで、店を……?」
「うるさいなぁ。今準備中や。用があるんやったらちょっと待ってて」
「…………」
 待った。





「……それで、何やねんな。お客さんかいな」
「客、というか……」
「お客さんやないんやったら、どっか行って。商売の邪魔や」
「……行商か? しかし」
 まだ子供じゃあないか、という言葉を、エリュオンは飲み込んだ。
 かわりに、別のことを言った。
「行商人は、以前は確か、別の人間が……」
「なんやあんた、おとんの知り合いかいな。いや、そんなん言うたって、まけたれへんけど」
「……父親は?」
「そんなん聞きな。辛気臭いわ」
「……そうか」
 エリュオンは、頷いた。
 確か彼がレンジャーをやっていた頃、そうして空を目指していたころは、その役割は一人の男が全て担っていたはずだ。
 名前は覚えていないが、――――確か、マニーロと言っただろうか?
 下層中層上層区。どこに行ったって姿を見た。
 身体全体で商人を体現した、そんな男。
(……娘が……いたのか……)
「それで、なんやの。昔を懐かしんでるとこ悪いねんけど」
「……ああ」
「暇で客でもあらへんねんやったら、ちょっと手伝ってえな。今日は『教えたガール』が休みやねん」
「……オシエタガアル?」
「そーいう職業やの。あんた、レンジャーやろ?」
「……は?」
「おとんの知り合い言うたら、レンジャーしかおれへんもん。ひよっこにちょちょっと、アドバイスくれてやってえな」
「……私がか?」
「教えたお兄さん、ええやん、なあ」
 少女らは、にっと笑って、エリュオンの顔を見た。
「あんた、うちらにイロイロ聞きたいことありそうな顔してるもん」
 図星だった。





「……何の用だ? 質問があるなら、手短に――――
「アホ! そんな愛想の悪いことでどーすんの! もっと腰低く、愛想良く、営業スマイル!」
「……難しいんだな、この仕事は」
「フツーやろー? あんたそのエラソーな態度、上司に怒られたりせえへんわけ?」
「上司は……いない……と思う」
「はあ? あんた、レンジャーやろ?」
「今は……廃業だ」
「なんや、プータローかいな」
「プー?」
「昼間からフラフラしてるロクデナシちうヤツ」
「…………」





「戦闘のコツは、まずは先制を取ること……これが、大事だ。
うまにくを、投げたり……。
…………ところで、うまにくとはなんだったか?」
「あんたが相手に聞いてどないすんの。せっかくちょっとはマシになってきたのに」
「……すまない……」






「我々は、先々で待ち構えている……」
「待ち構えてどないすんの。ディクやあらへんっつーの」
「知りたいことがあったら……声を掛けてくれ。さらばだ」




 
 
「なんっかなあ……」
「なーあ。基本的に、エラソーなんよなあ……」
「……そうだろうか?」
 双子みたいに同じ顔をしたふたりの少女にそう言われて、エリュオンはきょとんとした。
「普通だと……思うが……」
「そんな「フツー」、あってたまるかいな」
「そうそう」
「…………」
 あまり普段、こういうことを言われる機会がないのだが、そうなのだろうか。
 エリュオンは、敷き布の上に座って、首を傾げていた。
 なにもかも、普段ありえないことばかりだった。
 まず、人に親切にする。
 ものを教えてやる。
 そもそも、まともに普通の人間と喋ったのだって久し振りだ。
 普段はメンバー以外とはほとんど口をきく機会もないし、あったとしても大体はアルター・エゴが相手をしている。
 一言二言の簡単なアドバイスで、真剣な顔をしてありがとう、なんて言われることはまずない。
「私は……こういう仕事の方がいいな」
「はぁ? あんた向いてへんっつの」
「そうそう」
「いや、向き不向きは関係なく、……そう、普通と、言うのだろうか、これは?」
「フツーって、なあ」
 少女らは、わけがわからない、という顔をした。
「ディクがようさん出る場所にも、出掛けていかなあかんし」
「移動が頻繁にあるから、わりと忙しいです」
「重たいしなあ」
「なら、何故こういう仕事を選んだ?」
 エリュオンが真面目な顔をして聞くと、彼女らはなんでかなあ、というふうに顔を見合わせて、
「おとんがおれへんようになってもてんもん。うちらがせなしゃあないやん」
「そうそう、みんな困るでえ、ハンパなんが行商なんかやっとったら、すぐにディクに食われてまうがな」
「それにねえ、みなさんが喜んで下さるからですよ。それが嬉しい」
「…………」
 正直、あまり良くわからない。
 彼は、私はもしかしたら、実際にはあんまり頭が良くないのかもしれないな、と思った。





 みんな同じような顔をしていたが、赤い帽子のクリオ、緑の帽子のアルマ、それから眼鏡のジャジュ。
 意外なことに、彼女らは商業区の出身だと言う割に、ほとんどエリュオンと変わらないD値をしていた。
「もっと上を目指す? 何言うてんの?」
「お役所勤務なんか、うちらの肌に合わへんわ。商人やからな」
「それに、目の前で人の顔も見ないで、どんな仕事もできるもんじゃありませんよ」
「…………」
 エリュオンは、
(……私も、そういうのを選ぶべきだったかな)
 ただ見てるだけのオリジンではなく、大体こういう上に立つ仕事っていうのは、元来自分には向いていないのだ。
 彼はそう自覚していた。
 だが、これ以外選ぶことができないことも、良く知っていた。
 彼には彼のやるべきこと、役割があった。
 それだけのことだ。
 そういうことだ。





「お兄さん、暗いわー。彼女おれへんやろ」
「……いないが……」
「えー、その歳で、その顔で? ホモちゃうん?」
「……それは、なんだ?」
「アルマ、クリオ、お兄さんに失礼ですよ」
 ジャジュが、ふたりを窘めた。
 エリュオンは良く解からないので、黙っておいた。





「いらっしゃーい!」
 客入りは、割合良かった。
 下層区の住人は、公社が廃棄した野良ディクに襲われることが多いようで、良くきずぐすりを買い求めに来る。
 彼らに、まだ子供のクリオは、まるで一人前の商人のように手際良く愛想良く、対応する。
 少なくとも、エリュオンより大人びている。と思う。
 手持ち無沙汰に観察していると、少年がひとりやってきた。
 泥だらけで服を汚して、伸びっぱなしの髪をそのままにしている。
 あちこちに擦り傷を作っている。
 剥き出しの膝小僧に、大きな絆創膏が貼られていた。
「きずぐすり、ください」
 そう言って、彼はポケットからゼニーを出した。
「ボウズ、またかいな」
 同じくらいの年齢の相手に、大人ぶってクリオは、呆れたように肩を竦めた。
「あんた、こないだも怪我つくってきよったやん。なに? イジメ?」
「ちがうよ、レンジャーごっこしてたんだ」
「それで、そのザマ? どんだけ激しい遊びやねん」
「うーん、おれ、ディクの役だから……」
「ボウズ、それがイジメっつーねん。覚えとき」
「そうなのかなあ……」
「そうやの!」
「でもおれ、仕方ないよ、ディクの役で。友達の中で、一番ローディーなんだもん」
 ちょっと困ったように、少年は言った。
「みんな優しいし。お母さんに『シセツ』の子だからあの子と遊んじゃダメだって言われてるのに、ちゃんとおれの相手してくれるもん」
「……世界は歪んどるなあ」
 はあっ、と溜息を吐いて、クリオは袋からきずぐすりを取り出した。
「まあええわ、ボウズ。でもあんたはオトコのコなんやから、やる時はやるんやで」
「うん。大丈夫だよ、おれ大きくなったらレンジャーになるんだ」
「ほか。じゃあ、そん時はまた、クリオの道具屋をよろしゅうに、な」
「うん、よろしく。ありがとう!」
 にこっ、と笑って、きずぐすりを受け取って、少年は行ってしまった。
 その後ろ姿が遠くなった頃、エリュオンは、ぼそっと訊いてみた。
「……良く来るのか?」
「ん」
「ローディーと言っていたが、D値は?」
「さあ。確か、1/8192やったかな。そんなにめちゃめちゃ低いってワケでもないで。下層区のコやから」
「そうか……」
 エリュオンは頷いて、溜息をついた。
「……さっき言っていたが、やはり世界は歪んでいるように見えるのか?」
「さーなあ」
「うちらに訊かれてもなあ」
「……やはり、空は開かれるべきだと思うか?」
 それを聞いて、三人の少女はきょとんとして、ぷっと吹き出した。
「何アホなこと言うてんの。うちらはここで手いっぱい」
「そーいうのは、暇人に任しとき。それか、あれやな」
「好きな人に、君を空に連れていくよ、なんて言われたら、クラクラしちゃいますよねえ……」
「うん、目の前が見えるうちは言われへんセリフやなあ」
「キザやなあ、「君を空に連れていくよ」……お兄さん、それ、今度女のコに遭ったら言うてみ。一発KO!やと思うで〜」
「そうそう、あんた顔はええねんから」
「ちょっとどんくさいけどな、エラソーやし」
 けらけらと笑っている彼女らの前で、エリュオンは少し途方に暮れていた。
 他人と話をするのがあんまりにも久し振りで、どういうふうにすれば良いのか、良く分からない。
「そう言えばお兄さん、お名前は何て言うんですか?」
「そう言えば訊いてへんかったわあ」
「あ、ああ。私はエリュオン=1/4……」
 名乗ったところで、爆笑された。
 何故だろうか?
「お、おにーさん、あんた冗談きっついで! あんたみたいなボンヤリが、1/4て、なにそれ、なんの冗談?!」
「そこまで言うんなら、1/1! くらい言うた方がホラ効いてええでえ。ウケるわあ」
「す、すいません、笑ってしまって……」
「…………」
 エリュオンは黙り込んで、首を傾げた。
 そんなに似合わないだろうか?






「そんで、ほんまに何してる人なん?」
「……ああ、統治者を少々……」





 また、笑われた。





 何故だろう。






◇◆◇◆◇



 


「オリジン、何をやってたんですか!」
 帰るなり、クピトに怒鳴られた。
「もう、遅くなるなら連絡を入れて下さい。あなたは普通の身体じゃないんだし、下層区なんてこの時間になったらほんとに治安が悪いんですから」
「……すまない、以後気を付けよう……」
「それで、今度はなにを?」
 まだあどけない少年は、今度は何をやらかしたんだ、という顔をしている。
 エリュオンはどう説明して良いものか、と悩んだが、そのまま言うことにした。
 隠し事はともかく、あまり嘘は上手い方じゃないということは、自覚していた。
「『教えたお兄さん』だ……」
「……は?」
「……まあ、どうでもいいだろう、そんなことは。ああ、そうだ、オルテンシア」
「はい?」
 澄ました顔で、会話を見守っていたオルテンシアが顔を上げた。
 エリュオンは、先ほど提案された台詞を、そのまま彼女に言ってみた。
「……君を空に連れていこう」
「…………」
「…………」
「……今度は、一体何のつもりです」
「……女性を見掛けたら、一度言ってみろ、と、下層区で……言われた」
「それ、あなたが言ったらほんとに洒落になりませんよ、オリジン」
 クピトが項垂れながら呟いた言葉に連なるように、その場に居合わせた何人かの統治者が溜息を吐いた。





「なあ、空を開くのは、我々のようなものではなく……」
 エリュオンは、僅かに微笑して、目を閉じた。
「ドラゴンも、プログラムも、ただの付属パーツにすぎないのかもしれない。割と、そうだな……」
 オルテンシアが、くすっと笑った。
「今度は、何の冗談です? あなたらしくもない」
「空を手にするのは、本当にどこにでもある、普通というものなのかもしれないな」







「……さて、我々は、もうしばらくは待たねばならないようだ」
 それがどういう形でなのかは知れないが、臆病ながら、終わりまで見届けなければならない。
 それくらいはせめて、最初の適格者としての義務だ。
 残された時間はあまりないが、それだけがかの友に向けた最後の誠実だった。






 空はまだ遠い。














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天然全開オリジン。あのボンヤリぶりが大好きだ……ていうか統治者が魅力溢れる方々で大好きです。多分個性的じゃないとメンバーにはなれないんだと思う。あとガールズが大好きです。ブレスシリーズ中通して一番可愛らしいデザインだと大絶賛する。