外見的な特徴について、からかわれることが良くあった。
あるいは悪意は無かったのかもしれない。
だがそのこと――薄いピンク色の細い猫っ毛や、華奢な体格、声変わりは一向に訪れず、いつまでもトーンの高いソプラノだった。性質も悪かったのかもしれない。うまくものを言うことが苦手だった。誰かしら人間と関わることに、恐怖とまでは行かなくとも、確かに、怯えに似た感情を覚えていた――について何か言われることが、彼にはひどいストレスだった。
少女じみた風貌は物心ついた頃から彼のコンプレックスだったし、穏やかで物静かな性癖は周りからは愛されたが、彼自身としてはあまり好きにはなれなかった。
最近になってようやく幾らか背も伸びて、少女と見間違われるなんてことは少なくなってきた。
そのことに彼は心底ほっとしていたが、同時に、戸惑ってもいた。
時間が停められた身体が、ゆっくりと変化しつつあった。
彼は不安を覚えはじめていた。
もしかするとその時が来て、世界が彼自身を必要としなくなったのではないかと考えたのだ。
彼の名前はクピトと言った。
年齢は――覚えていない。随分長い間幼い子供をやっていたような気もするが、時間が停まる前のことはあまり思い出せなかった。良い思い出が無かったからかもしれない。
彼は空のはじまりの街ドラグニールの、中央区、セントラル・タワーにおいて、判定者なんて仕事に就いている。
空を手に入れた人類の行く末を見守り、導くのが役目だ。
だが実際のところ、奇天烈な上司と同僚に振り回されてばかりで、それらしい仕事なんてものには、手を付けた記憶が少ない。
現在の主である二代目オリジンたち、それに同位の判定者たちは、確かに手が掛かってどうしようもない人種だったが、クピトにとっては愛すべき人間たちだった。
かつて彼は統治者と呼ばれていた。
もう何年も前のことだ。
だが記憶は色褪せることはなかったし、いつだって鮮明だった。
今でも覚えている。
彼が生涯の主とした人間、もしも彼と出遭うことがなければ、こうして空の下で生きていることはなかったろう。
正直なところ、彼さえいれば世界なんてどうだって良かった。
ずうっと手を引かれて歩いていたかった。
庇護される子供でいたかった。
だが彼はもういない。
◇◆◇◆◇
「ちゃんと寝てる? 顔色悪いよ」
急に額に冷たい手が触れて、クピトははっとして顔を上げた。
執務室だ。日はもう陰りを見せていた。
午後のうっすらとした、やわらかく、透明な日差しが、ウォール・ナットのデスクに、黒い窓枠の複雑な影を落としていた。
執務室はひどい有様だった。
書類が散乱し、足の踏み場もない。
これはいくら綺麗に書類を積み重ねても、不注意で上司が紙の山を崩してしまうからだ。いつものことだ。
クピトは何度か瞬きをした。頭がまだぼおっとしている。
どうやら少し眠ってしまっていたようだった。
何か夢を見たような気がする。
昔のことだったようにも思うが、思い出せない。
上司の、最高判定者リュウ=1/4が、心配そうな顔をして、デスクに肘をつき、クピトを覗き込んできていた。
「珍しいね、クピトが居眠りなんて……余程疲れてたんだね、隈がすごいよ。少し眠りなよ、あとはおれがやっとくから」
リュウの声には咎めている調子はなく、少しの戸惑いと――居眠りなんてやらかすのは、いつもは彼の方だった――気遣いが見て取れた。
リュウは子供をあやすみたいにして、クピトの髪を撫で付け、少し首を傾げて、言った。
「苦しいとことかない? 痛いとこは?」
「……大丈夫です。平気です……すみませんオリジン、早く書類を片付けないと……」
「駄目、部屋に戻って眠ること。ひどい顔してるよ。だいじょうぶ、おれ一応オリジンだから、がんばれるよ。今日はさぼって逃げたりしないし、難しいのも平気」
あまりあてにはならなかったが――オリジンリュウはもう随分の間、いつも全力で仕事に取り掛かっていたが、大した成果は期待できなかった――言っても聞きそうにはなかったので、クピトは渋々頷いた。
リュウは満足そうに微笑んで、じゃあ行こうか、と言った。
「は?」
「部屋まで送ってったげる。おぶってあげるよ、辛いだろ?」
「いや、そんな、ぼくは」
「わがまま言わないよ、ほら、ね……」
リュウはほとんど無理矢理クピトの腕を取って背負おうとしたが、ちょっとびっくりしたみたいに目をぱちぱちして、感心したみたいな声を上げた。
「わあ……随分背が伸びたね、クピト。もうおれと変わんないんじゃない?」
「……はあ」
「昔は女の子かと思ったけど、うん、今はちゃんと男に見える。髪、切ったからかなあ……」
「はあ。それよりリュウ、あの、この子供にするみたいなの、止めて欲しいんですけど」
「全然子供だよ。でもそう思ってると、いつのまにかみんな大きくなっちゃうんだよね……ニーナもソラもルーも、クピトもそうだ。変わらないのはジェズイットだけだね」
「……あれと一緒にしないで欲しいんですけど」
結局リュウは言い出したら聞かない性質をしていたので、クピトは諦めて、彼に背負われる羽目になった。
彼と言う人間は、妙なところで頑固なのだ。
昔からそうだった。
リュウは、クピトの生涯の主と、奇妙に似通った性質を持っていた。
そのことで、懐かしい感触の想い出が引っ張り出されることがあった。
「おとなしくしててね」
リュウが笑いながら言った。
その背中の感触は、主のものよりも大分小さくて頼りなかった。
主はリュウのような笑い方はしなかった。いつも自嘲気味に唇を上げるだけだ。
だがリュウは、確かにエリュオンに似ていた。
パーツを比べてみるとまったくの別物のはずが、全体のぼんやりとしたディテールがそっくりだった。
つい、昔主にそうしたように、首にぎゅうっと抱き付いてしまうと、リュウはちょっとびっくりした顔をして、それから微笑み、クピトに甘えてもらうのってなんだか珍しいなあと嬉しそうに言った。
◇◆◇◆◇
午後は静かに休むこと、とリュウに念を押されたのだが、どうやらそれは果たせそうになかった。
クピトが悪い訳じゃあない。
日頃うるさい監視役がへばっていると聞いて、見舞い品を持って押し掛けてくる同僚のせいだった。
「いやあ、何年ぶりだろうなあ。空が開いて以来じゃないのか? 地上に出てからというもの、あの頼りないご主人サマのおかげで、おまえさん随分しっかりしちゃってたもんなあ。持病も出ず、急にぶっ倒れることもない。あの病弱なクピトちゃんを見てた俺ははじめ目を疑ったね。というか、むしろ感心したね。
ヒヨワなクピトちゃんがこんなに強くなっちゃって、お兄さん先代に教えてやりたいホント」
「……ジェズイット、すみません、静かにしてもらえませんか。頭痛くなってきました。多分君のせいだと思うんですけど」
「うわっ、ヒドッ、せっかく心配して見舞いに来てやったのにソレかよ。なんかイロイロ、スゴいモン持ってきてやったんだぜ?」
ジェズイットは、オーバーアクション気味に肩を竦めて、やれやれと頭を振った。
クピトが腰掛けているベッドサイドテーブルにバックパックを乱暴に置き、中身を自慢げに並べはじめた。
「カナクイ酒、いいあんばいに漬かってる。コレ一発で何でも治るぞ、美味いし。こないだリュウが風邪気味だって言うから、呑ませてやったら朝までゲロ吐いてたけど。また可愛い酔っ払いのリュウちゃんが見れるかと思ったんだがなー、駄目だったなコレ」
「……いりません」
「じゃ、コレはどうだ。総天然色、桃色の美尻ナース。俺の一番のお奨めビデオだ。ナースで美尻なんてアレだぞ、ド・ブンバ・ラ級の破壊力だ。これ見たらクピトちゃんもへばってる場合じゃあないって」
「……そんなのばっかり見てるから、リンが実家に帰っちゃうんですよ」
「…………」
冷たく言ってやると、ジェズイットは目に見えてしょんぼりした顔つきになって、ベッドの隅に腰掛け、とても深い溜息を吐いた。
「今年に入って二回目なんだよなー……リンが地下に潜っちゃうのさー。俺ってそんな甲斐性ナシかなあ……」
「ぼくとしては、リンが君みたいなのを見捨てないのが不思議で仕方ないです」
「いやものすごく冷たい目をしてたぞ、空を出しなに。廃物遺棄坑の生ゴミに集ったアブラクイを見る目だった。俺もさー、イロイロ頑張ってるんだけどなー、ただちょっとテンション上がっちゃうとなー、見境無くなっちゃうんだよ。もうどうしようクピト」
「さっさと謝ればいいでしょう。リンのことです、何発か殴られたら許してくれますよ、きっと」
「何発かって、嫁さんにバズーカ向けられて「砕け散るがいい!!」とか言われる恐怖とか精神的苦痛とかお前わかるのか? ああ、もう俺駄目だ、ストレスで禿げる。禿げたらリンのせいだ」
「もうどうとでもしてください……」
クピトは溜息を吐いた。休養するはずが、余計に疲れてしまった。
夫婦の愚痴なんて聞くもんじゃあない。
「なあ、こう、夫婦が喧嘩もせず、常に初々しい新婚さんというか、付き合い立てのカップルみたいに長い間過ごせる秘訣って何なんだろうな? アレか? SMが成立してることか? だってオリジンどものとこって絶対オカシイぜ、あれ絶対。リュウなんてまだ処女っぽいぞ。ガキ二人もいるけど。しかもデカいけど」
「そんなの、ぼくに訊かないで欲しいんですけど」
ジェズイットは、珍しく鬱々と愚痴っている。
恋愛とか、そういうものには疎いほうだった。自分というものを顧みる余裕が無かったせいかもしれない。
恋をするとどれだけ周りが見えなくなってしまうのかを、クピトはなんとなく知っている。
どれだけ辺りの人間を巻き込んで大騒ぎになるのかも。
大分昔に主のオリジンたちが結婚なんてものをした時も、殺す、殺さないなんて散々物騒な大騒ぎをした挙句、いきなりだった。
それから何年かして、もう何があったって驚かないなんて決めていたある日、判定者のリンとジェズイットが「結婚するから」なんて言い出した。
何でもジェズイットが言うところには、俺のテクニックで口説き落としたということらしいが、リンが語るところによると、泥酔したジェズイットに泣き落とされたらしい。
どちらが本当なのかは知らないが、なんとなく真実は見える気がする。
しばらく他愛無い話を続けていると、扉がノックされた。
返事をすると控えめにドアが開き、ぴょこっと青い頭が飛び出した。
リュウ――じゃあない、そっくりだが、いくらも幼い。リュウの娘のルーだ。
冷えて白く曇り、露がくっついている水差しを抱えていた。
「あの……寝てなかった? だいじょうぶ? 母ちゃんがね、クピト兄ちゃんが具合悪いから、看てあげてって言ってたの」
「おー、いらっしゃい、ルーちゃん。クピトのやつは全然元気みたいだから、お兄さんと遊ぼうぜ!」
「……ジェズイット、下手なことはしないで下さいね。オリジンボッシュに殺されますよ」
「……あー、知ってる。知ってます。貧尻とか触らないから、オッケー大丈夫」
げんなりした顔で、ジェズイットは頷き、ルーから水差しを受け取った。
それから、いつもルーと一緒にいる双子の兄の姿が見えないので、首を傾げた。
「ん? おまえさん、兄貴はどうした?」
「兄ちゃん、お庭だよ。父ちゃんと剣のお稽古」
「美人の人妻……じゃなくて、お母さんは? あいつ一人で書類とか整理できないだろ。難しい言葉、わかんないみたいだし」
「母ちゃんはだいじょうぶって言ってた。がんばるって」
「ふううん……いやあ、でも駄目だろ。よし、じゃあお兄さんが手伝ってやるとするか。さー、がんばろうかなあ」
「……だから下手なことはしないで下さいってば。リュウに何かしたら、リンとボッシュ君にどんな目に遭わされるかっていうのを考えて行動して下さいね」
「俺は今を生きる男だからなあ」
「わけわかりません」
ジェズイットを放置しておくと、ろくなことが無さそうだ。
クピトは彼を引き止めようとしたが、スピードに関しては彼にかなう者なんて存在しないのはこういったことでも同じようで、既に姿が見えない。
「……知りませんよ、もう……」
「クピト兄ちゃん、お水飲む? あれ、おじさんは? どっか行っちゃったの? あそべないのかなあ……」
「あれは気にすることないですよ。凹むとハイテンションになる人なんですよねえ……」
ルーが、ガラスのカップに水を注いでくれた。
水は甘く、冷たい――美味しかった。地上に存在するものは、あらゆるものが澄んでいた。
「おいしい?」
「美味しいですよ、ありがとう」
微笑んで礼を言うと、ルーは嬉しそうに顔を赤らめて、もじもじした。
「え、えへへ、誉められた?」
「ええ、ルーは偉いですね。それに引き換え、大人連中はほんとに情けなくて……」
言い掛けたところで、また扉が開いた。
今度はノックもなく、いささか乱暴だった。
顔を出したのは、オリジンの片割れ、ボッシュ=1/4だった。
「ルー、ここにいるって?」
「あっ、父ちゃん!」
ルーが、ぱあっと顔を輝かせ、ボッシュの元に走って行って、飛び付いた。
「お稽古、終わり?」
「ああ、終わり。飯でも食おうぜ。ソラのやつは、メディカル・ルームに寄ってから来るよ。リュウはどこ行ったんだ?」
「母ちゃん、がんばってるよ。紙がばらばらなの、きれいきれいしてるんだって。母ちゃんひとりじゃ大変だって、おじさんもお手伝いするって」
「……ハア? 痴漢が?!」
ボッシュは目を剥いて、冗談じゃあない、と言った。
確かに冗談じゃないだろう。クピトもジェズイットの性癖は良く知っていた。
リュウは尻くらいは触られているかもしれない。
「執務室か……オイクピト! なんで止めなかった!」
「止めましたけど、無理でした。早く行ってあげてください。まだ間に合います」
「くそ……あの野郎、ぶっ殺す!」
騒々しい足音を立てて、ボッシュは行ってしまった。
慌ててルーもついていく。
少し遅れて、扉が閉まり、やがて辺りはしいんとなった。
やっと静かになった。
クピトはほっと息を吐いて、少し眠ることにした。
最近、眠りが浅い。
昔の夢ばかり見るせいかもしれない。
疲れていたのか、まどろみはすぐに現れた。
遠くで怒声と炸裂音が聞こえた気がしたが、それらもクピトに訪れた眠りを邪魔することはなかった。
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