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ふいに上半身を抱え起こされた。ぐったりしている肩を軽く抱き上げられて、フォルテッシモの顔が間近に寄る。
ユージンは、なんとか呼吸を整えようとした。なにせまだ繋がったままだったから、そう上手くはいかない。
「ユージン」
「……ん」
「気持ち良かった」
「う、うん。ありがとう」
「変な返事をするな」
「そ、そんなこと言われて、どう返せば良いのかなんて、ぼくにわかるはずがないだろ」
ユージンは横を向いてぼやいた。
「可愛いなあ」
「なんなんだ、それ……って、おい、おまえ」
また中のものが大きくなった。ユージンはちょっと焦りながら、フォルテッシモの髪を引っ張った。
「やめろ。困る。おまえは乱暴だし、ぼくは馬鹿になるし、本当にこーいうことは苦手なんだ」
ユージンはフォルテッシモの肩を掴んで、不機嫌な顔を赤くしながら、目を逸らしたまま不満をぼやいた。顔を上げ、フォルテッシモに触れるか触れないかくらいの、味もわからないキスをした。
「ふうん。口では文句ばっかり言いやがるくせに」
「もう好きにしてくれ。さっきより強くしても平気だよ」
「しおらしいじゃねぇか。癖にでもなっちまったか?」
「からかうのなら後でどうぞ。……は、早く。さ、触って、動いて。中で擦れて、なんだか我慢が効かないんだ……」
ユージンが腰をよじらせて震える様子を見て、フォルテッシモはなんだか感心したみたいな溜息を吐いた。
「淫乱なおまえなんて初めて見た」
「こんな、気持ち良いなんて、本当に感じることができるなんて、知らなかったんだよ。お、おまえのせいなんだから、なんとかしろ」
「それはいいが、気持ち悪いくらいに可愛いなあ、ユージン」
「馬鹿。本当に無茶苦茶だ、お、おまえなんか。おまえなんか――」
フォルテッシモはにやにやしている。その頬をつまんで、唇に噛みついてやった。
今度は本当に、手加減なんかなかった。
「あれ?」
優は眠い目を擦った。身体がずっしり重かった。
不快な目覚めではない。たとえば、倒れるくらいまで思いっきり運動した後に熟睡したような、心地の良い朝だ。
時刻はもう昼に近い。眠る前に一緒にベッドに入った舞阪の姿はどこにもなくて、優は首を傾げた。
(どこに行っちゃったんだろう?)
彼はすぐに戻ってきた。湿った髪をバスタオルで拭っている。シャワーを浴びていたようだ。
「お、おはようございます、舞阪さん」
「ああ」
「珍しいですね、ぼくよりも早くに起きているなんて」
「夢見がおかしかっただけだ」
「怖い夢を見たんですか?」
「いや、そういうんじゃない。この俺がそんなものを見るわけがない……が、実はあんまり覚えてない」
「はあ」
「元はと言えば、おまえが妙なことを言い出すからだぞ、たぶん」
「あの、ぼく何か」
「だからもういいつってんだろ。終わりだ終わり、飯にするぞ」
「は、はい」
優は頷いて、あの、と切り出した。
「どうやらぼく、もう身体は上手く動くみたいなんです」
「そりゃあ良かったな」
舞阪はどうでも良さそうに、適当に頷いた。
「それでですね、ぼくが食事を作っても良いですか?」
「勝手にすりゃいいだろ」
「はい。そうします」
優はにっこりと微笑んだ。
キッチンに立つと、急に懐かしさが込み上げてきた。それは感慨とかそういう立派な感情ではなく、既視感と義務感をないまぜにしたような、事務的なものだった。
――ぼくが作らないと、あの自分の世話ひとつできない馬鹿な男はまた変に甘いクレープなんかを朝食替わりにするんだ。
(……え?)
――これも任務だ、仕方ない。……必要栄養素は――
(ええと)
誰かが頭の中で、溜息まじりにぼやいている。優は首を傾げた。体が、手が、勝手に動くのだ。
まず卵を割って、フライパンを火に掛け、片手間にサラダを作る。偏食気味な誰かの味覚を考えて、林檎とレタスを皿に盛って、ソースにはオレンジを。――ない。じゃあ、ヨーグルトでいい。
10分と経たないうちに、テーブルには色鮮やかな朝食が湯気を立てていた。
「ほら、さっさと食ってしまえ」
自分の口からつっけんどんな言葉が零れて、優は驚いた。ほとんど何も考えずに作業をやってのけて、自分のその声で我に返ったのだ。
「あいよ」
気だるそうにリィ舞阪が返事をして、彼は何の疑問も持っていないようだった。テーブルにつき、一口、二口と黙々とベーコンの上の目玉焼きを突付いて、
「……って、今おまえの口から懐かしい台詞を訊いたような気がする」
「ぼくも不思議です」
優はぼんやりしながら頷いた。だが、あまり変なことを言ってしまったという感じではなかった。ごく当たり前のことだ。だから、なにもおかしなところはない。
優はさっぱり頓着せずに、舞阪に訊いた。
「美味しくないですか?」
「いや、美味い」
「それは良かった」
「ちょうどいいくらいに甘い。完璧だ」
「ありがとう」
優ははにかんで笑った。素直に嬉しかったのだ。だが、舞阪はそれを見てまた渋い顔をした。
彼はどうやら、優が素直な反応を――例えばこうやって嬉しそうに笑ったりするところを見るのがあまり好きではないようだった。
「とても俺好みの甘さだ。これはつまり、おまえの頭じゃなくて脊椎かどこかの反射がそうさせているのか。作ってるのか」
「ええと……実は、そうかもしれません。手が勝手に動いて」
「その気色悪い性格さえ元通りなら、俺は別に全部忘れていたって良かったんだがなあ」
舞阪はどこかぼんやりしたみたいな口調で言った。
「飯は美味い。顔は可愛い。そして他のことを全部忘れているってことは、おまえに都合の良いことを教えたりしたって構わないわけだ」
「変なことは教えないで下さいね……って、か、可愛いって。ぼくはそんなんじゃないですよ」
「なあ、おまえもう元通りなんだろ?」
「え?」
舞阪はフォークをくるくると回しながら、突き刺すような視線を優に向けてきた。
「本当は「ふり」をしてるだけなんだろう? それで、俺が気色悪がってるのを面白がって――いや、おまえは面白がるなんてことはないな。じゃあ油断させようと、観察しているんじゃないのか? って、おまえは俺の体質のことを良く知ってたよな。じゃあ、なんだ」
舞阪は肩を落として、溜息を吐いた。
「あの」
「気にするな。おまえが素で、なんの企みもなく、俺に飯が美味いと言われて喜んでる面なんてものを信じたくなかっただけだ」
優は返答に困った。
なんだかものすごく、この舞阪という男は、優のことを非情で愛想の欠片もない、悪魔みたいな人間だと思ってるんじゃないだろうか。
「そんなにぼく、変なんですか?」
「ああ、おかしい」
「うーん」
優は困ってしまった。
真っ白な状態で目が覚めてから、ずうっと舞阪と一緒にいた。舞阪以外の人間と喋ったことがない。
そして、優はこの男が好きだ。得体の知れないところはあるし、乱暴で、本当の顔を見せていない、といった感じはあったが、そんなことはどうでも良かった。
今優の前で真剣に飯を食いながら、ぶつぶつとなんだかわからない文句を言っている舞阪が、優の見た限り全てだ。
これはたったひとりしか話す相手がいないから、勘違いしてしまっているのだろうか。優は寂しいのだろうか?
「ぼくは舞阪さんが好きですよ」
優は正直に、素直に告白した。舞阪が呑み掛けのオレンジジュースを吹き出したが、優は目を閉じて静かに言った。
「きっとほんとのぼくも、舞阪さんのことが好きだったと思いますよ」
にっこりと笑って、なんだかそんな気がします、と優は言った。舞阪はチャイナ服みたいなスーツの袖で口を拭って、当然のように抗議してきた。
「何故そんなこと思うんだ? そっけなくてつっけんどんで冷たくてつれなくて、融通がきかなくて、性格も口も最悪で、いいとこと言えば顔くらいしかない、しかしそれが他の悪いとこを全部帳消しにできるくらいに綺麗なもんで、でもやはり性格は悪いおまえが、俺のことが好きだっただと?」
「舞阪さん、この間からずうっと思ってたんですけど、本当はぼくのことすごく嫌いなんじゃないんですか?」
「いや、そんなことはない」
「ぼくを拾ってくれたことに感謝してますし、ここに置いてくれたこともそうです。でもそれだけじゃない。あなたが好きです。きっと、全部忘れたりする前のぼくは、さぞあなたに会いたかったんでしょうね」
「いや、それはない」
「なんでですか。わからないじゃないですか」
あっさりと、そしてきっぱりと否定されて、優は口を尖らせた。
「ぼくはあなたに会いたかった。そうじゃなきゃ嫌だ、というのもあるんですけど、そんな気がします。これは本当です」
舞阪は、彼にしては珍しく困惑した顔で、空の皿をフォークで引っ掻いていた。
しばらくうーとかくそっ、とか意味もない唸り声を上げていたが、やがて居直ったようで、どっかりと椅子の上にあぐらをかいた。優の胸を乱暴に突いた。
「痛いですよ」
「なんでおまえの顔で、そんな可愛いことを言うんだよ。ああ、くそっ、似合わねえ似合わねえ似合わねえ」
「そんなにおかしいですか?」
「変だ。変だ、変だ、変だ。なんとかしやがれ」
「ぼくが嫌いですか?」
傷ついて項垂れた優を見て、舞阪はぎょっとしたようだった。彼は上の空のふりをして、天井をぐるぐると見上げて、まあ、そんなこともないかな、と力なくぼそぼそと言った。
「好きだ。これに限っては、俺は嘘を言わない」
舞阪はげんなりと頷いた。
「しかし、どうにかならないものかな。おまえ、やっぱり変だ」
「うーん、実はぼく、あんまり舞阪さんにそういうふうに言われるものだから、ここ何日かで全部思い出せるように、最終手段を考えてみたんですよ」
「本当か?」
舞阪は疑わしそうな顔をしている。優は頷いた。
「絶対有効です」
「言え」
「でも、あの、条件付きです」
優は顔を赤くした。
「キスしてください」
「……は?」
「だ、駄目ですか?」
「違う、俺が言いたいのは、なんでそんなことをしなきゃならないかってことだ」
「だ、だって全部思い出したら、反対にぼくは今のぼくのことを忘れてしまうかもしれないじゃないですか」
優は慌てて言い訳をした。
「そんなのは寂しすぎます。だから、一回だけでいいんでしてください」
「おまえからそんな殊勝な言葉が聞けるなどと……」
舞阪は言い掛けて、途中で止めた。肩を竦める。
「目を閉じろ」
「は……」
「キスしてやるってんだよ」
「は、はい!」
――唇が触れた。本当に触れ合うだけといった、子供同士の挨拶でも通用しそうな、他愛のないものだった。
だが優は真っ赤になっていたし、目を開けて見てみれば、仏頂面をしているくせに舞阪だってそうだ。すぐに離れて、舞阪は不服そうに目を尖らせた。
「こういう時は目を閉じろって言っただろう。なに開けてるんだ」
「ま、舞阪さんだって」
優はなんだかのぼせたような心地になって、ぽおっとしていた。舞阪と口付けていた唇を指で触ってみた。とても変な気分だ。ぐるぐるとして、頭が火照っていた。
「おまえの言うとおりにしてやったんだ。礼のひとつでも寄越せ」
「あ、ありがとう」
優は急に恥ずかしくなって、俯いてぼそぼそ言った。
舞阪は乱暴で口が悪くて、偉そうで気まぐれで、でも彼は優のすることひとつひとつにすぐに反応する。怖そうなのに照れてそっぽを向いたり、変だとか気持ち悪いとか優のことを罵るくせに、好きだなんて言う。
そんな舞阪が、優は好きだ。
「それで、なんだ。さっきの方法ってやつ」
「ああ、そうですね」
優は我に返って、舞阪の顔を見上げて、そうでした、と頷いた。これからちょっとばかり、優の考えた乱暴な方法を披露しなくちゃいけない約束だ。
「見ててくださいね」
優はにっこりして、部屋の一番奥の大きな窓を開けた。ベランダに出た。
天気は良く、空には細かく切り刻まれた雲がいくつか散っていた。空気は澄んでいた。冷たく冷えきって、それは優の肌を突き刺した。
手摺り越しに下を見た。川の水面がゆらゆらと白く反射して、泳ぐ魚の腹がきらっと光るのも、それを鳥が攫って飛んでいくのも、並んだ建物の硬質なコンクリートの灰色も、遠くの青い色をした山の連なりまで良く見える。
優は身を乗り出して、手摺りに腰掛けて舞阪を見た。
「ちょっと自分でも無茶だと思うんですけど、あれだけの怪我でもぼくは死ななかったんですから……」
「はあ?」
舞阪は訝しい顔をしていた。優だって、冷静に考えてみれば「それ」はかなり突拍子がなくて、馬鹿げた奇行であると自覚していた。
「モノが壊れた時の基本です。もう一度叩けば直る」
「精密機械には通用しないアナログな手段じゃあないか」
「ぼくはアナログですよ。じゃあ……」
「お、おい、まさかおまえ、もしかして、突拍子のない阿呆なことを考えているんじゃあ……」
舞阪は、ここでやっと優の意図が読めたようだった。
そう、あれだけの損傷で記録が飛んでしまったのだから、おんなじか、それと似たような方法でもって、もう一度衝撃を与えれば治るんじゃないだろうか、というのが優の考えたところだった。
「本当の阿呆か!?」
優はゆっくりと、夜ベッドに倒れ込むのと同じくらいの気軽さでもって後ろに仰け反って、そのまま頭から真っ逆さまに落っこちていった。
慌てて舞阪が手を伸ばすのが見えた。どうやらちょっとでも心配してくれているらしい彼を見て、優はぼんやりと、ああ、嬉しいなあ、と素直に思った。
*
横で男が爆笑している。ユージンは顔を背けた。
「見世物じゃない」
「ははは、わかっているとも! しかしこれはしょうがないだろう、君がこんなに面白い奴だったなんて、僕は生前まったく知らなかった」
「面白くなんかないし、知ってても知らなくても同じだ」
「もったいないことをしたなあ」
男はしみじみとした口調で言って、ユージンの顔を見た。
「それでどうするんだい」
「今更だろう。言わせるな、恥かしい」
「愛という奴だな」
「そんなうさんくさいものじゃない。知ったことか。ぼくはあの馬鹿で我侭でいつまで経っても子供っ気が抜けない男を放っておけないだけだ」
ユージンはそう言ってしばらくして、最後の部分だけを言い直した。
「好きなだけだ」
「まさか君に惚気られるとはなあ」
「惚気とはなんだ? わからないな」
ユージンはそっけなく言って、席を立った。
「じゃあな」
「もう行くのかい」
「ああ。あいつは待たされるのが嫌いなんだ」
ユージンは一度だけ振り向いて、にやっと笑った。
部屋にはもう誰もいなかった。そこはもう部屋ですらなかった。暗い空洞だ。
先へ先へとずうっと、出口の見えない暗がりが広がっていて、ところどころにぼうっと光るようにして、幾人もの、いや、幾百、幾千人の顔が見えた。
それらは見覚えのあるものだったり、まったく知らないものだったりした。記憶にすら残らなかった反統和機構組織の構成員、処理に当たった機構の端末、MPLS、顔を合わせただけの合成人間、それから初めての友人たちの顔だ。
彼らはただじいっとユージンを見ていた。ユージンは彼らににっこりと笑い掛けた。卑屈な愛想笑いでも、マニュアル通りのポーズでもない、ぎこちない笑みでもって。
まったく表情ってものがない死人の中で、友人が僅かに頷いたような気がした。ユージンはただ微笑んで返した。
「さよなら」
ドアを開けた。選択は済ませた。決めた――ぼくは生きて生きて生きて、テレビが終わるまでずっと彼の物語を観続けよう。
*
「たく、バカめ――その頑丈さは、この俺が尊敬してやったっていいくらいだ。なんで死なないんだ」
視界が存在しない。なにもない真っ暗がりなのか、真っ白で何も見えないくらいに眩しいのかも、良く解らない。ただ身体も地面もなにもかもゆらゆらと揺れて、不安定だ。
遠くの方でなんだか、呆れかえっているのか、感心しているのか、判別しにくい声がした。
それは良く知っている声だった。誰だか特定する前に、彼はもう知っていた。
僅かの畏怖と、うっとおしさと、哀れみと、それを感じることへの自己嫌悪と、あとはなんとも言い難い、良く解らない、彼にとってあまり経験のない感情と、そんなものを感じさせる音声だった。
耳元で聞こえたような気もしたし、どこか遠いところで鳴り響いているのかもしれなかった。ただ、それは彼にとってある種の音楽だった。力強く、抗いがたいもの。
「もう解ったぞ。おまえは何したって死なないんだ。だから俺のそばにいることができるんだな、うん。こいつは発見だ。純粋に生命力に関しては、きっとおまえ以上に強力な奴なんていないぞ。そいつは俺が保障してやろう。なんならその項目だけ切り取って、最強の称号を与えてやったっていい」
ぶつぶつと、愚痴だか独り言だかはまだ続いている。止む気配はない。
「可愛い寝顔なんか見せやがって、まったく似合わない。……くそ、確かに可愛いな。なんだか腹が立ってきた――って、う、うるせえな。そんなんじゃねえ。誰が――寝込みを襲うだと? そんなこと、この俺がするはずないだろう」
そいつは誰かと喋っているようだった。からかわれてふてくされて、しばらく黙り込んで、とても深い溜息をついた。
「黙れ。おまえはどこでそーいうアブノーマルな知識を学習したんだ? サイドワインダーとはそういう猥雑で下品な遣り合いばかりしていたのか。そもそもこいつは合成人間なんだ、しかも性別不定。う、うるせえな。だからそーいうことじゃない。もう知るか」
声は急に途切れて、なにも聞こえなくなった。彼は可能な限りの音を拾おうとしてみたが、無駄だった。もう何も聞こえない。
そして、急速に全てがはっきりとしてきた。明確な形をした闇が現れて、まどろんでいる彼を呑み込んだ。
後にはなにも残らなかった。
――なにか怖い夢を見たような気がする。あまり覚えていない。
それはふわふわとした、浅い眠りに良くある不確かな感触だった。思い出せないし、記憶を引っ張り出すことにそれほどの努力はしなかった。
あまり良くない夢だったと思う。友達が死ぬ夢だったかもしれない。頬が濡れている。涙が顔を汚して、冷たくなっていた。
ユージンは目を覚ました。
「…………」
何があって、ここがどこなのか、彼にはさっぱり解らなかった。あの穴倉で力尽きて倒れて、冬眠していたはずだ。
だが目を覚まして目の前にあるのは柔らかいベッドと、繊細で薄っぺらく、ひらひらとはためいているカーテンだ。
窓は開いていた。マンションの、どうやら高層階だろうと見当がついた。
だが、そうなった過程についてはさっぱりわからない。
「…………」
そしてこれも理由がわからないのだが、ユージンは泣いていた。
夢の続きがまだ再生されていて、深いところでそれを観ている自分が勝手に泣いているような、そんな感じだった。
とても長い間夢を見ていたように思う。だが、そいつに関して思い出すことも、途切れ途切れの情景を思い浮かべることすらできなかった。
何故か、彼はそれが悲しかった。涙が後から後から零れて、それは控えめな嗚咽を呼び寄せた。彼は、しゃくりあげるようにして泣いた。
くぐもった声を上げて、そう言えばこんなふうに音を立てて泣いたことなんて無かったな、と思った。
ユージンは、もう理解していた。頭ではなにもわからなかったが、ひどい喪失感と、いとおしいまでに温かい満足が、そいつを教えてくれた。
そう、彼はなにか、重大な選択をしたのだった。それは恐怖が混じった切なさだった。選ばれなかった安堵が手のひらから零れていった。
しかし、彼はそのことについて、深い満足を覚えていた。だが肝心のそれが何なのか、彼には解らなかった。ただ置き去りにされたような焦燥を感じるだけだ。
ひどく寂しかった。今まで周りにあった何もかもが、彼を置いて先に行ってしまったような、そんな感じだった。
だが彼は、その選択に一切自分が後悔なんてしていないことを知っていた。
泣き出したユージンの背後で、静かに部屋のドアが開いた。
【 終わり(目次にもどる) 】