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3
まっさらな灯りが見えた。陽光が射し込んで、白いベッドの上にまばらなコントラストを描いていた。
目覚めた優は、自分の身体がぬいぐるみでも抱くみたいにリィの腕の中に収まっていることに思い当たって、呆然とした。
全身に力が入らない。パールの手で首に嵌められた細い首輪が、優の首に巻きついている。リィの腕を引き剥がそうともがいても、彼はただうっとおしそうに眉を顰めてうめき声を零すだけだった。
暴れるな、ということだ。
優は諦めて、リィの寝顔を見ていることにした。ずいぶん大きくなった。らしくもなく、感慨のようなものが浮かんでくる。
下腹部から太腿のあたりまで、ぬるぬるとした感触がこびりついていた。昨夜のことを思いだした。
リィは何度も優の名前を呼んで、好きだと言った。体中を触られて、舐められて、中に入って動いて、それから――優は真っ赤になった。
(今のぼくらは、いったいどういうことになっているんだろう。少なくとも友達はこんなことはしないはずだけどな。恋人、夫婦。ありえない。それにおまえが強い人間に目がないことをぼくは嫌ってほど知ってるんだけど、ぼくより強い人間とか、本当におまえと対等な人間とかが現れたらどうするつもりなんだ。そいつのことも好きになってしまうんじゃないのか。まあ、おまえが楽しいなら、ぼくはそれでもいいんだけど)
そんなことを考えていても、内側だけで感情を処理する癖がついてしまっている優は、表面上はいつもと変わりがないように見える。優に向かって「何を考えてるのか読めない」と文句を言うリィの方が、わけがわからない。
リィが目を覚ました。
「ユージン――」
長い指が優の細い首を包んだ。ごく自然に、そうであることが当然であるように、徐々に力が込められていく。
ただ寝惚けているだけなのか、明確な意思を持って優を殺そうとしているのか。腕にまったく力が入らないから、何の能力も使ってないリィ舞阪なんかの腕力さえも振り払えない。
「――が……っ」
酸欠の症状が現れ始めた。
優は諦めて四肢を投げ出した。間合いを計るまでもない。この男に捉えられた時点で、優の敗北は決定する。
しだいに遠くなっていく意識の中で、リィの声を聞いた。
「おまえはいつ死ぬ?」
変な事を聞く。リィは今、優を殺そうとしているじゃないか。
「おまえもどうせ他の弱い奴らなんかと一緒で、俺より先にあっけなく弾けて消えちまう」
リィは優の咽に爪を立てた。白い指が、滲みだした血液で染まっていく。
「気に入らない。おまえがはじめからいなければ良かったんだ、ユージン。俺の前に現れなければ、こんな面倒はなかった」
リィの顔は歪んでいる。たとえなにかの間違いでも、運命が交錯し、人の温もりの心地良さを知ったとする。それは孤独に浸りきっているうちに心が凍りつき、この世界すらどうでも良くなってしまった人種にとっては、命を蝕む劇薬だ。優がよく知っている。
優は、初めて人に笑いかけられたあのときに、今までの自分という認識が全部塵になって消えてしまった。胸の中に新しく生まれたものは、希望のように光り輝く絶望だ。
リィには似合わないし、今の彼が背負うべきものではない。
優は目を伏せて薄く微笑んだ。リィ舞阪にだけは殺されたくなかったが、殺されるのは彼以外には嫌だった。まあ、こういうのも悪くはない。
優の中にいるあの人達と同じ死者になって、リィを優しく罵るのもいい。
優を殺す力を持った手がほどけて、離れていった。リィは塞いだ様子で座りこんでいる。涙こそ零れてはいなかったが、長いつきあいの優には、彼が泣いているように見えた。
リィの頬を手のひらで包みこむ。彼はまるで小さな幼児みたいに、されるがままになっていた。
「きみの泣き顔は見慣れてるから、久し振りに泣いてもいいんだよ」
優はリィの背中に腕を回して言った。リィは返事をしなかった。
あの五人の仲間たちなら、こんな時にもっと上手いことを言えるんだろう。優は子どものあやし方が、どうしようもなく下手だった。
「うるせーよ。いつもわかったふうな口をききやがって。おまえなんかまた昔みたいに、隣にいると思っていたらいきなり泡みたいに消えちまうくせに。何も言わずにどこかへふらふらと行っちまうようなおまえのことが、友達だと思う俺の唯一の慰めすら鼻で笑ったようなおまえのことが、好きで好きでたまらない――おまえがいるとつまらないことばっかり考えて、俺は少し弱くなる。冗談じゃない。俺には強さこそが必要だ。それが全てだ」
「きみは、じつに馬鹿だよね」
優は本当に、心からそう思った。
「そんなに困っているのなら、いっそぼくを殺して楽になればいい」
「すぐに死にたがるやつは、俺は大嫌いだ」
「死にかけていたぼくを拾ったのはきみだ。その借りを返そう。さっきみたいにして止めてしまうといい。そうすればこっちだって、体の機能が上手く働かないくらいおまえのことばかり考えなくて済む。好きになった相手にふられる心配もないしね」
肩を痛いくらいに強く掴まれて、ベッドに押しつけられた。リィは本気で怒っている。
「その退廃的な物言いはそろそろどうにかならんのか? ここでくたばるなんざ絶対に赦さねえ。おまえは俺のほかの誰にもやらせないし、おまえを壊そうとするやつは、この手でぶっ殺してやる。誰であろうが、決して指一本触れさせはしない――」
「それってもしかして、きみがぼくを守りたいって考えてるってことなのかな」
「は……?」
リィは唖然としている。自分の言葉の意味するところを、彼自身は理解していない。
「俺が誰かを守るだと。よりによっておまえなんかを。どこにそんな必要があるんだ?」
「おかしな話だよね」
優は体温の高いリィの手をとった。本物の人間みたいに、くすくすと自然に笑う。
「守るとか守られるとか、なんか、友達っぽいよね。こういうの」
「素っ裸で言うことか」
「あはは、確かに」
昔とは正反対に、優が声をあげて笑い、リィはしかめ面をして黙りこんだ。彼は毒気を抜かれたようだった。
「ユージンよ。おまえの笑った顔というのは、とんでもない凶器だな。うんざりする。だいたいおまえを殺したり守ったりする以前に、そんな時間が残されているのか。もういい歳だろう」
リィはいきなりそんなことを言い出した。優は目をぱちぱちとさせる。
「ロートル呼ばわりは心外だな。ぼくはきみと大して変わらない歳だと思うけど」
「俺がガキのころに初めておまえに出会ったときには、もうその姿だっただろう」
「ああ、造られたばかりだったな。あの頃は毎日、生きていたってしょうがないと考えていたっけ。ぼくがこの先同じように感じるのは、君が死ぬ時くらいだろう」
「そういうことを真顔で言うなよ」
リィは、苦虫をかみつぶしたような顔をした。どこかほっとしたようにも見える。優は頷いた。
「フォルテッシモ、ぼくのことはやっぱりユージンでいい。その方が呼びやすいみたいだし、君と一緒にいるぼくは、ずっとその名前だったんだから」
「確かにそっちの方が、強そうで俺は好きだ」
フォルテッシモの腕が、優の腰をなぞった。それに手を添えて、体を屈めてキスをする。もう一度なにも考えられないようになりたくて、彼を求めた。
「まあ心配はいらないと思うよ。どうせぼくのほうが、危なっかしいきみよりは長生きするだろうからね」
優は微笑んだ。
「大好きだよ、フォルテッシモ」
心臓の音が早さを増し、全身が火照ってくる。人間のような感覚が、優にはとても大切なもののように思える。
いつまで経っても孤独でしかありえない最強フォルテッシモが、生まれてから遭遇した数少ない「どうすることもできないもの」のうちのひとつが、ユージンを好きになってしまったことだった。
戦うこと以外の感覚というものは、今まで感じたことがない。初めてだから、彼はぎこちなかった。友達になることさえ、どうすれば良いのか解らなかった。歩み寄っていくたびに、相手は絶妙の距離を取って離れていく。
少し前までは考えられないことだったが、ユージンはフォルテッシモの前で笑う。何か言えば言い返してくるし、今でもかなり戸惑うけれど、綺麗な顔で笑うようになった。
何よりユージンはフォルテッシモのことが好きだと言った。触って、確かめる。ユージンは冷たい。
彼の作り物の体は、負担が掛かると勝手に眠り込んでしまうようにできていて、そうなると後はダメージが回復してしまうまでまず起きない。
フォルテッシモは、無防備で綺麗なユージンの寝顔に見とれている。まるで、小さい子供がわがままを言う時のような顔をした。
(おまえが妙な方法でデータを取ることは、身をもって良く知ってるんだ。知らねえ奴とだって平気でキスをする。もう少し自分が、腹が立つくらいに綺麗なんだと自覚を持てよ朴念仁。おまえは全部俺のものなのに)
フォルテッシモは不機嫌になって、舌打ちした。
――ユージン。
本当に美しい名前だ。天色優なんて芝居がかったかよわそうな名前よりも、よほどよく似合っている。
――好きだ。
好意を告げられた時の彼は、素直に嬉しそうで、恥ずかしくてたまらないふうで、どこか泣きそうな切ない顔をする。
子どもの頃から大好きだったユージンが腕の中にいる。彼の姿を長い間見失っていたときによく見たも夢も、たしかこんなふうだったのだと思いだした。
触れあった肌は、夢の中よりは温かかった。
フォルテッシモの行き付けのクレープ店は、さびれたデパートの一角にあって、幾度改装されてもどうしてか薄汚れている。
フォルテッシモにしてみれば「そーいうところも良い」のだった。大好物のピーチコンボをぱくつきながら、じっとユージンを観察する。
ユージンは怪訝な顔をして、手に持っているチョコレートのクレープをフォルテッシモから遠ざけた。
「そんな物欲しそうな顔をして、何なんだ。やらないよ」
「別に甘い物が好きなわけでもないだろう。もったいぶるな」
「そうやって人のものにまで手を出すのはどうかと思う」
「俺はおまえの食べかけが欲しいなんて言ってない」
「なら、あまりじろじろ見るな。食べてるところを見られるのって、なんだか苦手だよ」
ユージンは、兎のようにもそもそとした食べ方をする。
「そう言えば、今日はなにか用があったんだろう、ぼくを連れてくるなんて」
「ユージン。俺と勝負しろ」
「嫌だけど」
「俺は強い奴が好きだ。おまえより強い奴も何人も知ってる。何故俺がおまえを選んだのか、それが知りたい」
フォルテッシモが真剣に誘ったのに、ユージンはほとんど無視してクレープにかじりついていた。
「すまないが、ぼくには心の底からどうでもいいことなんでね」
ユージンはつまらなさそうに切り捨てた。まるで任務のパートナーだった時みたいに鋭くて冷たい目をしていたから、フォルテッシモはそれを彼の「やる気」と受け取ったが、さっさと席を立って店を出ていってしまう。
勝負を仕掛けるなんて、最大級の敬意を表した相手にしかしない。だからどうしてユージンが臍を曲げているのかがわからない。
フォルテッシモは前を歩くユージンに追い付いて、腰をつかんで振り向かせた。
「く……!」
「え?」
触るなり身体を震わせたユージンの反応は、この数日、幾度も目にしていたものだ。
ユージンは慌てて逃げ出そうとした。無駄だ。抱いて身動きを封じたユージンの心音が伝わってきた。
早い。怒っているからか。緊張しているのか。それとも他の意味を持っているのか。
フォルテッシモは、なんとなく悟ってしまった。
「感じたのか」
ユージンは尖った氷みたいな鋭い目でフォルテッシモを睨みつけて、彼にしては珍しい大声で怒鳴った。
「ふ、ふざけるな。離せ! おまえは強かったら誰とでも勝負するじゃないか。とくにぼくじゃなくてもいいわけだし、もっと強い能力を持ったものがいくらでもいるだろうから、満たしてもらってこい」
「いじけるなよ、クソガキ」
フォルテッシモはユージンの目を見つめて、はっきりと言った。
思った通り、ユージンはかなりショックを受けているようだ。目を丸くして呆けている。
「嫉妬をしてくれるのは可愛いが、あまり喚くな。うるせえ。子どもかおまえは」
「な、な……」
ユージンは震えている。怒りからではない。昔の自分が何度も口にした言葉をフォルテッシモから返されて、衝撃を受けている。一瞬で黙りこんでしまった。
「す、すまない。おまえの言うとおりだ。嫉妬してた」
落ち付いたユージンは、しおらしくフォルテッシモに謝った。思い通りにいかない彼が好きだったが、こういうのも悪くはない。
ユージンは困ったようにぎこちなく微笑んだ。
「なあフォルテッシモ。こういうのも面白いものだな」
その顔は戦闘タイプのくせにとても可愛くて、ものすごく珍しいものを見たような気分だった。頬に触ると、ユージンはくすぐったそうに目を眇める。
少し屈んで、唇を近付けた。ユージンは目を閉じる。瞼が小さく震えていた。キスと分析の違いを、ようやく理解したらしい。
あともう少し――。
「――テンジキのお兄ちゃん!」
少女の声が聞こえた。
キトだ。彼女は天色優を見つけて目を輝かせていた。彼女はどうやらこの辺りに住んでいるらしい。
邪魔をされて面白くなかったが、今しがたユージンを子供呼ばわりしたところだ。フォルテッシモは黙っていた。
キトは硬直しているユージンを見上げて、首をかしげた。
「何してるの?」
ユージンは動揺している。彼を見慣れているフォルテッシモには、それが良く解った。
「な、内緒話をしてたんだ、彼と」
(結構苦しいぞ、ユージン)
フォルテッシモは呆れたが、キトは存外素直に頷いた。ユージンは嘘なんかつかないと思っているのだろう。
「ええと、久し振りだな、キト」
「まだこの前から一週間も経ってないわ」
「そ、そうだね。そう言えばそうだ。ん。まさか、ひとりで出歩いている訳じゃないだろうな、キト」
「お父さんと買い物をしてるの」
「ふーん」
ユージンは安心したように頷いている。それがフォルテッシモの気に触った。子どもだったころに掛けられたものよりも、比べ物にならないくらいに柔らかい声だったからだ。
「おいユージン。立ち話もいいが、今度にしておけ。すまないなキトさん。今日は少し時間がないんだ」
「あ、ごめんなさい」
キトは素直に謝った。
「悪いなキト。そうだ、きみに借りてたヘアバンドを――あ、痛っ。フォルテッシモ、ちょっと痛いよ。とにかくまた返しに行くよ」
キトは大きく頷いて、ユージンに言った。
「ま、またね。お兄ちゃん!」
ユージンはきょとんとしていたが、すぐにフォルテッシモが見惚れるくらいの、綺麗な微笑を浮かべた。
「またね、キト」
「行くぞ」
フォルテッシモは、ほとんどユージンを引き摺るみたいにしてその場から離れた。
キトはうっかりと、また「あのこと」を天色優に言教えるのを忘れていた。
優を前にすると、キトの頭の中は真っ白になってしまって、何を言えばいいのかが全然解らなくなる。
遠くから父に呼ばれて、キトは慌てて返事をした。振り返った時には、既に優と彼の友達の姿はもう消えていた。なんだか寂しくなったがど、彼は嘘は吐かない。
遭いに来ると言った。それはとても嬉しいことだ。
キトは走って、家族の元に戻った。
くすくす笑う声が止まらない。仏頂面のフォルテッシモに、ユージンが言った。
「クソガキ」
「うるせえ!」
「嫉妬してるみたいだ、フォルテッシモ」
当たり前だ。ユージンが他の人間に笑いかけるなんて、面白い訳がない。
家につくなり、フォルテッシモはユージンを寝室に連れ込んで、胸元をはだけさせて首に噛み付いた。白い肌を赤い血と噛み跡が染め上げる。舌で舐めると血の味がした。
ユージンは、今までの面白がるような光を宿していた目を伏せた。
「おまえが本当に嫉妬してくれるとして」
「してねえって言ってるだろ」
「仮にそうだと仮定して、フォルテッシモ、おまえが強い人間が誰だって好きなのも、その乱暴な価値観がどうにもならないことも知ってるけど、ぼくのことでおまえがいろんな顔を見せてくれるのは、とっても嬉しいことなんだ」
ユージンは嘘を吐かなくなった。これほど凶悪なものはない。
遠くからブリキの缶のなかのエンブリオの恨みの声が聞こえるような気がした。もう少しの間、ああしていて貰うしかないだろう。
「フォルテッシモ……」
「ん?」
ユージンの体を、半分だけ脱げ落ちた上着が縛り付けている。首筋に銀色の首輪が巻きついて、鈍く光っていた。
ユージンにはそんな飾りがない方が良い。爪の先で触れると、乾いた音を立てて首輪は真っ二つになった。
「普通の人間の気分を味わうってあんまりないから、結構気に入っていたんだけどね」
「何の話だ」
ユージンは首を振って、フォルテッシモを促した。
対等の存在になりうる好敵手、たったひとりの友だち――そんなものでは、もう全然足りない。
やれやれと肩を竦めた。思っていたよりも重傷だ。
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