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1
最強でさえ良く理解出来ない事態というものが起こることはある。
今リィ舞阪の家には必死でテーブルにへばり付いている天色優と、それを同じような必死の顔で引っ張っている榊原キトがいた。
「離せ。駄目だ、行けない。見られたくない」
「お兄ちゃん、一緒に来るの。みんなきっと喜ぶもの」
「ぼくだって遭いたいけど、そんなこと許されるはずないだろう?」
「そんなの言い訳よ。あなただって会いたいんなら、なにがいけないの」
「駄目なものは駄目なんだったら」
「こっちこそ駄目よ。絶対に連れて帰るわ」
キトは天色優を彼の友達に会わせてあげたかった。みんながキトを訪ねて集まる日に、天色も連れてこようと、こうして曖昧な記憶を頼りにリィ舞阪のマンションを探し当てたのだ。
「いい加減にしろ、うるせーぞガキ共。静かにしねーとベランダから放り出すからな」
この部屋の主、舞阪が不機嫌に唸った。大人の男の人で、口は悪いけれど、天色とは仲が良いようだ。
「子供扱いするのは良いけど、キトとひとくくりになんてするな。年齢が全然違うんだから」
天色優が子どもっぽい顔になって反論した。彼は冷たくて怖い人だという印象があるキトは驚いた。
「うるせえ、ったく、嫌ならもうちょっと気を遣え。なんでそのガキが俺んちの場所を覚えてるんだ」
「多分、送っていった時だね。頭が良ければすぐ覚えられるくらいの近さだったし」
「キト君、そうなのか」
「うん、背負って連れて帰ってもらった」
キトはおずおずと頷く。舞阪のことは嫌いではないが、少しだけ苦手だった。
「後でその辺のことはゆっくり聞かせてもらう」
「うわ……」
天色は、なぜか顔を染めた。
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもない。ともかくぼくは行かないよ」
天色は相変わらず強情だったが、舞阪に首筋を仔猫でも掴むみたいにつままれて放りだされた。
「キト君。今日中には返してくれ。これでも一応君と同じような面倒くさい立場にいやがるんだ」
「おい、フォルテッシモ」
「どのみち、おまえが折れなきゃ意地でも引かんだろう。大人になってやれ」
「君に言われると、変にむかつくよ」
「むかついてんのは俺だ。後で覚えてろよ」
優は困った顔で首をかしげた。
「ごめん」
「謝るな。おまえがしおらしいのは気色が悪い」
「うん。好きなだけ苛めていいよ」
今度はなぜか、舞阪が赤くなった。彼ら二人共がおかしなところで赤くなる理由はわからなかったが、ともかく我侭が通ったようだ。
「いいの?」
「おまえから言い出しておいて何だ。あいつが拗ねちゃったじゃないか」
「ユージン」
低い声で窘められても、天色は気にせずに肩を竦めた。
「行こうか」
そう言って、キトに手を差し出した。
2
雑踏の中で、天色は耳を澄ませていないと聞こえないくらいに小さな声で、「みんな元気だった?」と言った。
キトは慌てて頷く。もういつもの天色優だが、彼はすごく元気がない。友達の話をすれば彼は喜んでくれると思ったので、キトは早口でみんなの話をした。
「七音のお姉ちゃんと辻のお姉ちゃんに、ケーキのお店にに連れて行ってもらったの。いっぱい、いろんなのが大きいお皿に乗ってて、好きなだけ食べてもいいのよ」
「それは多分、ケーキバイキングって言うんだろうな」
「海影のお兄ちゃんは行きたくないって言ってたの。甘い物が嫌いだって」
「そう」
「でも途中からお姉ちゃん達に呼び出されて、嫌だって言ってたのに、来てくれたの。すごく怖い顔をしていちごのショートケーキを食べてた」
「うわあ」
その様子が想像できたのか、天色はくすくすと笑っていた。キトはほっとした。
「その後で変な乗り物がいっぱいあるところに行ったり――」
「遊園地、って言うんだ」
「うんそう、それで犬と鯨のぬいぐるみを買ってもらって、ふたつも」
「良かったな」
「私がこんな幸せで楽しくて、なんだか悪いような気がしたけど、でも本当に楽しかったのよ」
「うん……」
キトが言いたいことが、上手く天色に伝わらない。
こんな絶対兵器だった悪者のキトだって、少しくらい、いやちゃんと幸せになるべきだって言われたのだ。
なら天色優はどうなのだ?
キトなんかよりも、まずこんなに格好良くて綺麗で強くて、正義の味方みたいな天色が寂しいなんて、友達に会えないなんて、絶対おかしい。そう彼女は思っていたのだ、ついこの間まで。
でも今はちょっと違っていた。細かいことを言えば、天色を探して彼が友達と一緒に住んでいるマンションをやっと見付けて、呼び鈴を鳴らした時くらいまで。
玄関を開けてドアの向こう、そこにあったのはキトの全然知らない世界だった。天色優は本当に幸せそうだった。楽しそうだった。ぎこちなく微笑んでいた。
それを全部あのひと、確かリィ舞阪っていう人、彼に向けて。
「お兄ちゃんは?」
「え?」
「お兄ちゃんは、楽しいの」
キトはそう、天色に聞いた。やっかみみたいだけれど、ああやって天色優にいろんな顔を見せてもらえるリィ舞阪のことが、彼女はちょっと羨ましかったのだ。キトのヒーローなのに。
天色はキトの前では本当に機械みたいで、クールで、格好良い。なのに、あんな顔を。
(やっぱり怒ってるのかな)
あそこから連れ出してきたことを。
キトは天色にとって、迷惑だったり、邪魔だったりしないだろうか。それだけがすごく心配だった。
キトは天色が、彼の他の友達の誰よりも好きだから、格好良いから、嫌われるのはやっぱり嫌だ。
好かれてもいないだろうけど。彼の友達が死んだのはキトのせいだから。
「そうだな」
天色は腕を組んで、少し首を傾げた。ちょっとだけ目線をうろうろさせてから、きっぱりと言った。
「いや、きっと違うな」
「そ、そう」
「楽しいとか楽しくないとか、考えたことがない」
それはすごく寂しい。気まずくて黙り込んだキトなんか気にせずに、天色は目線をキトにはくれないまま、続けた。
「そういうことを考えてる余裕なんかない。いつもぎりぎりで、精一杯だ」
「?」
キトには意味が解らなかった。彼女の不理解はもとから解っていたのだろうが、天色はふうと綺麗に笑って、歩き出した。
「ど、どういうこと?」
「あの男と一緒にいると毎日が波乱万丈だ。いろんな意味でな」
「???」
「ああ、多分、そうだな――」
天色はほんのちょっと考え込んで、それから照れ臭そうにぼそっと言った。
「好きってことかな」
「え?」
「な、なんでもない。ほら、行くんだろう。さっさとしろ、元絶対兵器」
「キトよ」
天色はやっぱり変わってる。
キトがあれこれ考えたことより確かなことは一つ、彼は思ったより、全然独りだったり寂しくなんかないっていうことだ。そしてそれは良いことのはずなのに、何故かキトにとっては寂しいことと同じ意味を持っていて、彼女はわけがわからなくなって、疑問符を浮かべたまま首を捻った。
なんで天色が寂しくないと、キトは寂しいんだろう。わからないことだらけだ。
「それで、みんなはどこに?」
急に天色の声がして、ぼおっとしていたキトははっと我に返った。
「え、え?」
「ぼく達はどこに向かっているんだ、キト」
「あ、ああ。ええっと、私が泊めてもらってるお家」
「それにしては道に、見覚えがないが」
「え? あ」
天色に怪訝そうにそう言われて、キトはやっと気付いた。
元より帰る時のことなんて考えてなかった。ただあのマンションを探していて、他のことなんて何も考えていなかったのだ。
周りは古くて大きな家が立ち並んでいた。すごく昔のものだろう、白い壁の天辺に瓦がくっついた塀が、そこかしこに続いていた。上を見上げると、大きくて棘々とした葉っぱを持った木が彼らを覗き込んできていた。
道は狭かった。広い一本道から枝分かれした裏路地に首を突っ込んでみると、朽ちたコンクリートが苔むして、積み上げられていた。
もちろんキトは、こんなところ通った覚えがない。
「帰り道」
「?」
「知らないの、私」
天色は本当に呆れた顔をして、肩を竦めた。
「馬鹿か、君は」
「ごめんなさい」
「別にいい。何も考えずについてきたぼくも悪い。キト、携帯電話は?」
「持ってないの。身元を探り出されるからって」
「まあいい、谷口さんの家の電話番号は」
「知らない」
「そうか……」
天色は沈痛な顔でかぶりを振って、目を閉じた。
「ぼくたちは迷子になったみたいだ、キト」
「だ、大丈夫、私はいつものことだから」
「集合時間は?」
「お、お昼ご飯に間に合うように帰ってくるって言ってきた」
「今は十一時過ぎか」
天色は時計なんか持っていないのに断言して、それからちょっと考えて、全然見たこともない小さな路地に入り込んだ。
「こっちが近道だ」
「それ、本当?」
「間違いないね。こういうことには慣れてるんだ」
「良く迷子になるの?」
「違う。良く道も知らないのに自信満々に進んでいく馬鹿に付き合うことに慣れてるんだ」
苔が密集していて滑り易いコンクリートは、湿ってじめじめしている。大人の指くらいの大きさのなめくじを見付けて、キトはびくっとした。怖くはないが、気持ち悪い。
人ひとり通るのがやっとの道は、どう見ても家と家の隙間みたいで、頭の上にある窓から誰かが顔を出しやしないかなんてことが心配だった。それから長細い一本道を抜けると、もう使われていないだろう廃ビルの駐車場に出た。
「近いな」
本当かな、とキトは思ったが、まあ天色の言うことだ、間違いはないだろう。彼は信じられないことに裏口からビルの中に入り込んだ。
「ね、ねえ、いいの?」
勝手に入って、とキトは思ったが、天色は全然構わないみたいだった。
「こっちを突っ切った方が早い」
キトはもう何も言わなかった。
はたして数分後には、信じられないことに見慣れた風景がキトの目の前に広がっていた。
ごく普通の一軒家に見える、その家の表札には谷口とある。この国にいる間、キトが世話になることになっている。
小さな、少し錆びた門を開けて玄関に手を掛けて、キトは谷口の家の入口に顔を突っ込んだ。靴箱の上の花瓶に花を生けていた織機綺がキトに気付いて、振り向いた。
「あら、キトちゃん。おかえりなさい」
「ただいま」
「どこかに行ってたの? メモだけ残して出て行くから、みんなでどこに行ったんだろうって、心配してたの」
「ごめんなさい」
キトは素直に謝った。織機綺は優しい、きっと本当にキトを心配してくれていたのだ。
そして、それはみんなだってそうだ。キトなんかのことを、自分のことよりずっと考えてくれる。それが解るから、なんだかキトは申し訳なくなってしまうのだ。ここにいることが。
とても居心地が良いのだけれど。
「あのね、ええと、と、友達の家」
友達って言われて、天色は気を悪くしないだろうか。だけれど他に良い言い訳が思い付かなかった。
「あ、キトちゃん。こんにちは。お邪魔してるわよ」
「こんにちは、七音のお姉ちゃん」
客間からひょいっと顔を出した背の高い女性が、キトを見付けて嬉しそうに笑った。キトはぱあっと顔を明るくして、返事をした。
「あのね、今――」
そうしてキトは後ろを振り向いた。しかし、
「あれ?」
そこに今まで一緒だったはずの天色優の姿は無かった。
「――お兄ちゃん!」
「ああ、キトか。良くぼくがここにいるって解ったな」
天色は谷口の家から少し離れた駐車場の自販機の前で、座り込んで缶コーヒーを飲んでいた。キトに見つかってちょっとだけ具合が悪いみたいな表情を浮かべたが、彼はすぐにいつもの無表情に戻って、そっけないふりをしていた。
「それにしても上手くまいたつもりだったのに、もしかして君はMPLSの素質があるんじゃないか」
「なんで急にいなくなったの?」
キトはちょっと怒っていたが、天色は別になんでもないというふうな顔をしていた。
「ああ、急にお腹が痛くなったんだ」
「すごく平気そうな顔してるわ」
彼が口にしているのはミルクたっぷりのコールドコーヒーだ。本当に腹痛を起こした人間が、そんなもの口にする余裕があるのか、定かではない。
「もう、七音のお姉ちゃんが待ってたのに、ほらお兄ちゃん、立って」
「ああ、キト。熱が出てきたみたいだ。もう駄目だ」
「嘘でしょ。さっきから変よ、お兄ちゃん」
大仰に頭を抑える天色を途方に暮れた顔をして見下ろすと、彼は割とすぐに辛そうな顔を引っ込めた。
「仮病というものを使ってみたんだが、あまり効果がないみたいだな。覚えておこう」
「お兄ちゃん……」
溜息を吐いて、キトは天色の隣に座り込んだ。ともすれば天色優はこのまま本当に帰ってしまうのではないか、と彼女は不安になった。
「みんなに会うの、そんなに嫌なの」
「嫌じゃないよ」
あっさりと天色は言った。
「会いたい」
「なら……」
「でも駄目なんだ。なあキト、君はこの間ぼくに会った時、何て言った?」
「え」
急にそんなことを訊かれて、キトはきょとんとした。ちょっとだけ考え込んで、キトは言った。
「月見そばが食べたいわ」
「そうじゃない。なんでそのままなのって、聞いただろう」
「あ」
「もうあれから何年も経ってる。みんなは一緒に成長してるだろう。こんなのぼくだけだ」
「…………」
「恥ずかしくて、会えないよ」
キトは今、ようやくはっきりと解った。理解した。天色優が、こんなに露骨に迷っている理由。
嫌だったんじゃない。友達には会いたい。でも、彼は大事な、すごく好きな友達には見られたくないのだ。変わっていかない身体を。
たぶん背が伸びたとか相応の歳を重ねたことに対する感傷を、彼らと共有できないからだ。
ずっとそのまま。何も変わらないのは独りだけ。
きっと優しい彼らは何も言わずに友達だと認めて、笑ってくれるだろう。でも天色はきっとそのうち置き去りにされてしまう怖さを、消してしまうことができないのだ。
なら大好きな彼らを少し離れた遠くからでもいいから見ていようと、そう思ったのかもしれない。きっと今姿を消したのだってそうだ。
天色はみんなを見てみたいのだ。こっそりと目立たないところから、年齢を重ねた大事な人達を。
彼はきっとそれで満足して、置き去りにされた寂しさを我慢して、それで満足だって、キトも何回か見たことがあるあのひどく切なそうな優しい顔で笑っているのだろう。そんなの、
「そんなの嫌よ」
それじゃ天色が可哀想だ。
彼はキトのヒーローだ。なんでそんなに、泣きたくなるくらい辛いことを、彼が。
じわっと目に涙が浮かんできて、キトはぽろぽろと涙を零した。天色優が可哀想だ。彼はすごいのに。キトなんかよりずっと。
泣き出したキトを見て、天色はぎょっとしたみたいだった。
「泣くな。何故おまえが泣く。泣きたいのはぼくだ。なんでこんなに誰も彼もが置いてくんだって、ああ、もう、どうでもいいから泣くな……」
天色はポケットから綺麗な薄紫色のガーゼのハンカチを取り出して、キトの顔を拭いてくれた。おとなしく任せていたキトは、天色優の落ち付いた声を聞いた。
「でも、これも別に悪いことばかりじゃない。こんな身体でもいいって、そばにいろって言ってくれる酔狂で悪趣味な人間もいるんだ。だから、ぼくはもう全然構わないんだ」
「それ、あなたの友達の男の人?」
「うん、そうだ。だからキト、おまえは何か勘違いしてるみたいだけど、ぼくは多分おまえが考えてる「幸せ」なんだと思う。ただ問題は」
天色はちょっと悲しそうな顔をした。
「ぼくが顔を出して、みんながおまえみたいに気を遣っちゃうと嫌だろう? それに危険だ。ぼくが近くにいるだけで、以前みたいに命を落とす可能性がある。そういうの、ぼくはもう嫌なんだ」
キトはまだしゃくりあげていたが、少し落ち付いて、天色の顔を見上げた。彼はそれに気付いて微笑んだ。
またあの切ない、胸が締まるくらい、困ったみたいな幸せそうな顔で。
「君には感謝しているよ、本当だ。だから、ぼくのことに関して変な罪悪感を感じることはない」
確かに彼女はずっと責任に押し潰されそうだった。
キトがぶち壊しにしてしまったものを、なんとしても修復しなければならない。それは彼女の義務だった。間違いなく。でも、それだけじゃない。
キトは彼に喜んで欲しかったのだ。彼の顔を見るとほっとするのだ。何故か解らないけれど。
天色は缶コーヒーの最後の一口を飲み干して、立ちあがってキトに背中を向けた。
「それじゃ」
「あ……!」
キトは慌てて引き止めようとした。でも、足が動かなかった。みんなと一緒にいることは、彼にとっての幸せじゃないのか?
彼は今、楽しくない。泣きそうな顔をしてる。どうすればいい?
どうすれば。キトには解らない。
「あ、あの」
天色は歩き出した。
止まらない。彼が行ってしまう。何を言えば、天色優は。
ぐるぐると頭の中が混乱してしまって、キトは真っ白になった。
そうやって彼女がいると、ふいに駐車場からゆるゆると徐行してきたシルバーの綺麗な車の中から、腕が一本、伸びた。天色優に向かって差し出されたその手は、男のものだった。
「え?」
黒っぽいスーツの袖が天色の華奢な身体に絡まって、彼を乱暴に車の中に引っ張り込んだ。
「うわぁっ?」
「お、お兄ちゃん!」
天色優のびっくりしたみたいな声が聞こえて、キトは血の気が引いた。どうしよう、またこの間みたいに、天色が攫われてしまうかもしれない!
慌ててキトが走り寄ったのと、それは同時だった。
「おい、乗れ。すぐそこだけど」
見知った顔が車の窓から顔を出して、キトを呼んだ。
「か、香純くん!?」
狼狽しきった天色優の、ほとんど悲鳴みたいな声がした。
彼は簡単にスーツ姿(仕事帰りなのだろう)の海影香純に抱え込まれてしまっていて、目を白黒とさせて、隠れんぼで見つかってしまった子供みたいな顔をしていた。
「う、うわ、あの」
「キト。さっさと乗って、こいつ逃げないように押さえててくれ。ったく、良い度胸だな優。約束をすっぽかすつもりか?」
「う、いや、そうじゃなくて、あの、ぼくは」
じいっと睨まれて、天色優はなんだか泣きそうな真っ赤な顔をしていた。
「ひ、久し振り」
「…………」
「ご、ごめん」
消え入りそうな声で言っても、香純は何も言わず天色を睨んでいるだけだったから、天色優はひどく混乱してしまっているようだった。なんだか可哀想だ。
「み、海影のお兄ちゃん。天色のお兄ちゃん、なんだか泣いちゃいそう」
「優」
キトが取り成したが、海影香純はにべもなかった。厳しい顔をして、天色をねめつけている。
「つまんねー話、してくれてたな」
「あ、あの、でも」
「言うな。ったく、おまえは――優!!」
香純はそうして、強い声を出した。キトと天色はびくっとして目を閉じた。それは、絶対兵器と単式戦闘型合成人間にはひどく不釣合いな反応だった。
香純はそのまま天色の頭を手のひらで包み込んで、思いっきり髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。それは、なんでもなく、久し振りに会った友人に対するものだ。親愛に満ちた仕草だ。
ただそれだけだが、キトは見てしまった。天色はそうされて、本当に泣き出しそうな顔をしている。
「よぉ、久しぶりだな!」
「あ」
「つまんねーことで悩んでないで、もっと早くさっさと会いに来いよな。安心しろ、俺らが皺くちゃになっても、おまえを囲んで茶でも飲みながら将棋でもすりゃあいい。もちろん、茶菓子は持ち寄りだ」
彼はぶっきらぼうに見えて、実際にはすごく優しい人なのだ。そうして香純はクールに、ぼそっと言った。
「もうちょっと友達を信頼しろ。俺らはおまえが思ってるより、おまえのことが好きだ」
かなり照れ臭かったんだろう、香純はそっぽを向いてしまった。
天色優は口をぱくぱくとさせていたが、しばらくすると俯いて、肩を震わせて小さな嗚咽を零し始めた。
「ひ、久し振り……ぃ」
ちょっとばつの悪そうな顔をしている海影香純に、天色優は俯きながら泣き笑いみたいな顔をした。
なんだかこういうの、羨ましい。いいなあ、と思いながら、キトはさっき天色に貸して貰ったハンカチを、そっと彼に差し出した。
喫茶店で。
「いやー、相変わらず可愛いわねえ、天色くんは」
「ますます美人になったんじゃないの?」
「あ、あの」
天色優はひどく困ったみたいな顔をしながら、しかし逆らうことなんかできずに、硬直したままだった。救いを求めるみたいに彼は視線をうろうろとさせたが、海影香純は知らん振り、キトもあんまり役には立ちそうになかったので、彼は潔く諦めたみたいだった。
七音恭子と辻希美に、べたべたと物珍しいペットでも触るみたいになっている。もしかすると本当のところは、天色優はこれが嫌だったんじゃないか?
そう思ってしまうくらい、彼は好きに、玩具にされていた。
「ねえ、そう言えば天色くん、九連内朱巳って女、知ってる?」
ふとした調子で訊いた辻希美の言葉に、天色優は口にしていた紅茶を変なふうに飲み込んでしまったみたいで、思いっきり噎せた。
「大丈夫?」
「は、はい。いえ、あの、そんな人、全然知らないです。辻さんの知り合いなんですか?」
天色優はひどく慌てふためいた様子で訊いた。希美は首を傾げて、天色の方を見ながら、
「中学の同級生よ。なんかあなたのこと知ってるみたいだったから」
「へ、へえ。そうですか」
ごにょごにょと言葉を濁して、天色優は目を逸らしてしまった。どうやらあまり突っ込まないほうが良いと判断したのだろう(それが賢明だ。また泣いてしまうかもしれない)希美は肩を竦めた。
「まあいいけど。訊いてみただけ」
「は、はい」
それから本当に何でもない話ばっかりした。でも、天色優はキトに話したみたいな話はしなかった。
例えばリィ舞阪のこと、どうやって暮らしているかとか、そういうことは一言も。
でも天色優は本当に楽しそうだった。
その顔に嘘はなかった。
「ねえキト」
天色優はちょっと困ったみたいな顔をして、言った。
「なに?」
「ぼくは今とても楽しい」
天色は素直にそう言った。キトはそれを聞いて、なんだかぽっと胸に火が灯ったみたいな気分だった。
この人が楽しいなら、キトだって嬉しい。でも、と言い置いて、天色は言った。
「もう帰らなきゃ」
夕刻、日が落ちた辺り。墓参りに訪れた墓地に彼らのほかに人はいない。
空は真っ赤だった。突然言い出した天色は、穏やかに微笑んでいた。
「か、帰っちゃうの?」
「うん、ごめん」
天色はそう言って、また困ったみたいに笑った。
「……優」
海影香純が天色優に声を掛けて、なにか気付いたふうに、天色の目を覗き込もうとした。
天色優は、しかしぎゅうっと目を瞑ってしまった。彼の目が見えない。何が映っていたのか、解らない。
海影香純には、しかしその仕草だけで理解できたようだった。
「気をつけろよ」
「うん」
「無理するな」
「うん」
「怪我とか、するなよ」
「うん」
「俺らは、いない方が良いか?」
「……ごめん」
「天色」
天色優よりかなり背が高くなった海影香純は、ちょっと屈んで、天色の頭をぽんぽんと撫でた。
「俺はおまえの友達だ」
「うん」
「七音も辻もキトも、神元も三都雄も、そうだ。忘れんな」
「ありがとう……」
そうして、天色優は笑った。精一杯、やせ我慢だと、それはキトにも解った。
天色優は彼らが本当に好きだ。でも、天色は嘘をつく。本当のことを、彼は言えない。
それが何なのか、キトにはまだ解らなかった。
「今日はおまえに会えて、本当に楽しかった。それじゃな」
「ぼくも楽しかったよ、みんな。ありがとう」
天色はそうして何でもないふうに、ゆったりとした足取りで帰っていった。その後姿はひどく小さかった。
それはすぐに夕闇の薄暗がりに紛れて、空気みたいに消えてしまった。
本当に静かになってしまった。
みんな帰ってしまうと、昼間の幸せな時間がなんだか嘘みたいだ。流れ落ちる砂みたいだ。
それにしてもキトがあんなに楽しいなんて、なにか本当に良いんだろうか。彼らはキトに遭って本当に嬉しそうな顔をしてくれた。それがキトにはすごく嬉しかった。
次にまたいつかこの国に立ち寄れることがあったら、また会えるだろうか。
会いたい。キトを救ってくれた人達だ。キトはこの日本という国が大好きだ。でもそれは、いつになるのか解らない。
(一生ないなんて、ない、絶対)
きっとまた会える。
ああ、こんなことなら未来が視える彼らに、教えてもらえば良かった。そうやって、キトは庭先に座って、彼らがいなくなった方角をずっと見ていた。
(……?)
ふとキトは顔を上げた。黒っぽい影が、見えたような気がしたのだ。
目を凝らして見ると、それはいつか見た覚えのある、裾がちょっと焼け焦げたロングコートだった。
キトはその男の人を知っていた。だから彼女は慌てて立ち上がって、門の外に出た。
(リィ舞阪……!)
キトは心の中で、その男の人の名前を呼んだ。
天色優の友達。彼はまるでキトだけがそこにいるのを知っているといったふうに、ちょっとだけ姿を見せて、玄関先を覗き込んで、そのまますうとどこかへ行ってしまった。
「ま、待って!」
キトは叫んだが、彼はちょっと立ち止まって、振り返りもしないまままた歩き出してしまった。
キトは走った。歩幅が違うから、それに加えて彼は早足なのだ。
必死で走って、呼び掛けて、一瞬彼が立ち止まったせいでその開いた距離は縮まる。
そうして、彼はまた歩き出す――こうしたことを何回も続けて、キトはなんだか気持ちが悪くなってきて、訝しげに辺りを見回した。
いつのまにか開発途中の私有地に入り込んでしまったみたいだ。それにしても、気持ちが悪い。走ってばかりだから、そうじゃなくて、空気に違和感を感じるのだ。
それは彼女にとってすごく馴染みのあるものだった。でも、それが何なのか解らなかった。
段々それはひどくなる。大気がじっとりと湿って、濃い油脂の滴が含まれたみたいに、重くなった。そこまできて、キトはようやく気がついた。
これは人間の匂いだ。
はたして、天色優はそこにいた。
薄い、明るい黄色と、緑色の蛍光色の大小様々な灯りの球体が、まるで蛍みたいな、しかしそれよりは幾分も綺麗な光が、いくつもいくつも彼の身体の周りを取り囲んでいた。
天色優は黙ったまま、静かに、座り込んでいた。彼は泣いているみたいだった。静かに、本当に静かに、無音で。
飛び交っている光の球の正体は、すぐに解った。燐だ。彼は誰かを爆発させたのだ。それも一人じゃない、何人も、何十人も。それらが空気中に飛び散って、拡散した人の脂が高温で燃焼しているのだ。
綺麗だった。こんなことを思って、良い訳はないけれど。
キトは足が竦んでしまって動けなかった。天色優が怖かった。なんで彼はこんなに、すごいんだろう。
怖くて震えが止まらないくらい強くて、格好良くて、綺麗で、それでいて寂しい。
神様みたいだ。
誰よりも孤独で強い、美しい、キトの神様。
「リィ」
天色はぼそぼそと呟いた。それは泣き声だった。弱々しく震えていて、彼が出すのに似つかわしくないものだった。
天色は泣いているのだ。何が悲しいのか解らない。
きっと笑ったつもりなんだろうが消え入りそうに、天色は顔を歪めた。
「キトは楽しかったかな」
キトはそれを聞いて、心臓が止まりそうになった。
天色優は何を言っているのだろう。彼はキトに気がついていないみたいだった。ただリィ舞阪を見て、微笑んだだけだ。
「みんなに遭えたんだ。ぼくの友達だ。君は、嫉妬してくれるかな」
リィ舞阪は、いつもみたいに真っ赤になって怒鳴ったりしなかった。ただ天色を見下ろしているだけだ。
「やっぱり、駄目だな。何人殺したっけ、ええと、30人くらいまでは数えてたんだけど、あとは知らない。みんなぼくを追い掛けてきた奴らだよ。周りに人がいなくて良かった。少し鈍ってるみたいだけど、MPLSが3人、あとは普通人だ。すぐに終わった。統和機構じゃなかったから」
何の話をしているのか、キトにはすぐに解った。間接的な能力を持つキトと違って、天色は単式戦闘タイプだ。
直接的に殺すため、それだけの兵器なのだ。
「顔を見られたから、でもリィ、ぼくにはこんなことしかできないんだ、彼らの為に。殺すしか。でもみんな、本当に楽しそうにしてくれてて、良かった。彼らはすぐに死んじゃう人間だから、そばにはいられないんだ。ぼくは守るのが苦手だから」
天色は独り言みたいに、注意していなければ聞こえないくらい小さな声で綴っていた。彼にとって、ひどくやるせないことを。
「ずっとこの身体のままだとか、そんなことは本当はもうどうでもいいんだ。でもちょっと悲しかった。ぼくは、やっぱりみんなとは一緒に――」
そう言い掛けたところで、天色は糸が切れた人形みたいに、どさっと地面に倒れた。リィ舞阪が、ひょい、と指を動かしたのとほとんど同時だ。
「な、何をしたの?」
「ちょっと眠ってもらっただけだ。さて、キト君」
リィ舞阪はやっとキトに向直った。
彼は無表情だった。でも彼の感情は、ひどくはっきりとキトに伝わってきた。彼は怒っていた。物凄く、面白くなさそうな顔をしていた。
「この馬鹿が、人間に馬鹿な情を掛けているようなことは解った。馬鹿だから、なにか勘違いしているらしい」
「馬鹿馬鹿言わないで」
キトはリィを睨みつけた。彼女も怒っていた。
なんだか解らないけれど、無性に腹立たしい気分だった。
「お兄ちゃんは強いもの。あなたよりずっとすごいんだから」
「ほう」
リィはすごく、馬鹿にしたみたいな顔をした。
「だから、どうだと言うんだ?」
「ひどいことして、苛めないで」
「俺がいつひどいことをしたと言うんだ」
「いつもそうよ。だってお兄ちゃん、あなたと一緒にいる時は、楽しいとか楽しくないとか考えられないくらい切羽詰まってるって、言ってたもの」
「他には?」
「あなたがそばにいるって。お兄ちゃんはあなたのことが好きなのに、可哀想よ」
リィは黙り込んで、後ろを向いて、倒れている天色優を思いっきり蹴っ飛ばした。
「あっ、い、痛いことしないで!」
「この阿呆、ガキに何を話してるんだ」
彼は苦虫を噛み潰した顔をしていた。
なんで天色優は、こんな酷いことばっかりするリィ舞阪のことが好きなんだろう。解らない。
「さて。脱線したが、ここの天色優が人殺しだってことは、おまえも良く解っただろう」
「そんなの、私も一緒だもん」
「怖くはないのか」
リィは今更そんなことを訊いてきた。
キトにしてみれば、そんなものは本当にどうでも良いことだった。だって彼はキトを守ってくれたり、殺してくれなかったり、それにあんなに寂しそうな顔で笑うのだ。
キトは天色優のことが大好きだ。彼女の、たった一人だけの、同族。
もう覚えてなんかいない父母よりも、ずっと彼はキトの近親者だった。ずっとキトに睨み付けられていたリィ舞阪は、目を閉じて、しばらく考え込んだようだった。
「なるほど。何故か解らないが、こいつは妙にガキに人気があるようだな」
リィは意外なふうに溜息を吐いて、天色優を抱え上げた。
「あ」
「少し試しただけだ、榊原キト。中途半端に関わるようなら消しておこうと思っていたが、まあいい。しばらくは、あそこに住んでいる。その後は知らんが、来たいなら勝手に来い」
「え?」
リィは天色を抱いて、歩いて行ってしまった。
燐光は少しずつ薄れて、消えていく。闇に溶け掛けた彼らの後ろ姿が、ふいに立ち止まった。
「この天色優は、料理の腕は文句はないが、どうも掃除が苦手でな。暇があれば手伝ってやれ」
「…………」
「あと――こいつは俺のものだ。手を出したら、その時は殺す」
彼らがいなくなってしまってからも、キトはしばらくその場でぼおっとしていた。
なんだか悪い夢を見ているみたいだった。
「それは気に入られたんだ」
本当に意外そうに、天色優はそう言った。
リィ舞阪のマンションだ。主は昨日は徹夜明けで、隣の寝室で寝ているはずだ、多分。
「そうなの?」
キトは疑わしい気持ちで訊いた。彼女はばらばらになった紙切れが、無造作に、無理矢理押し込められている棚を整理していた。
天色優が掃除が苦手とは、こういうことだったんだろう。一所に纏めるだけで、片付きはするけれど、整理がなってない。
「うん。そういうこと、彼は普通、人に言わない」
天色優はちょっと面白く無さそうな顔をして、キトをじっと見つめて、大真面目に言った。
「キト」
「?」
あまり熱心に見つめるものだから、キトはなんとなく居心地が悪くなってしまった。
「な、なに?」
「一つだけ、言っておくことがある」
「え?」
「リィに手を出すな。彼はぼくのなんだから、手を出したら殺すからな」
「爆発させられるの?」
「そう」
やっぱり可愛い女の子とかがいいんだ、あの馬鹿、と天色は小さな声でぼそぼそとぼやいていたが、その意味はキトには解らなかった。
「お兄ちゃん、なんであの人が好きなの?」
キトは正直な気持ちで訊いた。なんであんなに乱暴されて、それで好きでいられるのだろう。
天色はそう問われて、何故か真っ赤になってしまった。
「好きって、なんで」
「だっていつもひどいことされてるのに。この前だって、寝てるお兄ちゃんを思いっきり蹴飛ばしたのよ」
「そんなことしてたのか、あいつ。全然知らなかった」
「だって寝てたもの」
「質問の答えだけど、キト。そればっかりはぼくの口からは言えない」
「なんで?」
「人に言うことじゃないから。あと、ひどいことって言うけど、ぼくには別にそんなことないんだ」
「そうなの?」
「うん、好きな人になら何をされてもいいんだって、この間読んだ本に書いてあって、すごく納得してしまったよ。その通りだ」
「そんなに好きなの?」
「うん。一番、特別に好きだ」
「特別」
キトはしばらく考え込んだ。彼女には、まだ良く解らない。
それでも別に天色は気にしたふうでもなかった。
隣の寝室からがたがたと物音が聞こえていたが、天色が別に気にしていないふうだったので、キトも取り合わずに、そう言えば、と言った。
「またみんな、会おうって言ってた」
「そ、そう」
天色はよそよそしく頷いた。
「良いのかな」
「あと、怪我しなかったかって。おまえが無事なら何でもいいって言っといてくれって、海影のお兄ちゃんが」
「そう」
天色は、ようやくにっこりと微笑んだ。それはキトが見惚れてしまうくらい、綺麗なものだった。
「次はもっと、ちゃんと気をつけるよ。ああ、変装とかしたっていいかもしれない」
「また女の子の格好するの?」
「それもいいね」
キトはこうやって天色優と他愛ない話をしているのが、すごく好きだ。まるで夢みたいだ。
彼は何でもできて、格好良くて、綺麗で強くて、触ったものを爆発させて、人殺しで、それで一番リィ舞阪のことが好きだ。
最後のは何故かちょっと寂しいけれど、キトはそんな天色優が好きだ。
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