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「あ」
天色優は足を止めた。時刻は四時過ぎ、郊外の、あまり大きくない駅前の、道路。人はわりかし多い。
立ち並んでいるのは、居酒屋、パチンコ店、それから小奇麗な薬局なんか。あとは歩道の隅のほうで怪しげな露店がいくつか出ている。
店主は若い外国人で、そのどれもがアクセサリーを取り扱っているようだった。天色優が足を止めたのは、そのうちの一軒だった。
彼は特に装飾品に興味はなかったが、見慣れたものを見付けて、ついまじまじと見入ってしまった。
「オキャクサン、オメガタカイネー。ソレシルバー925。ヒトツ2000エンネ」
片言の胡散臭い日本語で、嬉しそうに店主が語り掛けてきた。暇だったんだろう。
しばらく無言で思い悩んでいる優を見て、なにか勘違いしたのか、肩を竦めた。
「ショーガナイネ、1000エンデイイヨ」
交渉もしていないのにいきなり半額だ。純度に関しては嘘だろう、多分。
エジプト十字架。アンク、アンサタ十字、女神の血なんて名前でも呼ばれる。
象形文字で「生命」「手鏡」を意味し、古代エジプトにおける生命と不死の象徴だった。らしい。詳しいことは知らないけど。
結局購入してしまった。
優の手のひらの上にはふたつのリングが乗っかっていた。シルバーの、取っ手のついた十字架がぐるっと輪を描いたデザインの、シンプルな指輪だ。
フリーサイズで簡単に調節なんかができるところを見ると、やっぱり純度92.5%のシルバーなんて嘘だ。絶対。それに関してはどうでも良かったが(優には正直、違いが解らない)衝動買いみたいな勢いで似合わないアクセサリーを購入したこと、でもこれには結構、訳があったりするのだ。
リィ舞阪は顔を顰めた。すごく嫌そうな顔をした。
天色優がなんでもないふうにいつもの顔で差し出した指輪のデザインは、彼にとっては馴染んだものだった。それも、かなり凶悪な意味で。
「これは何のつもりだ」
「君はこのデザインが好きなんじゃなかったのか? いつも肌身離さずに首から下げてるから」
「そうだが、そう言う意味じゃない。つーか、俺はエジプト十字ってもんが大嫌いだ。できれば燃えないゴミの日に出して葬ってやりたいが、それもできない」
「なんで」
優は矛盾していると言いたそうな顔をした。
「なんでもだ。三度ほど本当に捨てちまおうと思ったが、無駄に終わった」
リィの所持品のエジプト十字架は、ただのアクセサリーではない。エンブリオ、持ち主を「突破」させる力を持った怪しげなアイテムだ。彼の殻をぶち破って、つまるところは破壊してやれば何かが起こるらしい。
エンブリオは人格と意思を持ち、口は悪く、すぐに口癖のように「オレを殺してくれ」なんて言う。が、本人によればそれは実際の所は「軽い冗談」だと言う。本当に殺されてやる気はないらしい。ふてぶてしいことに。
エンブリオは、以前リィが勝負を挑んだ相手に再戦の約束の証明として預かった品だ。もっともそいつはひどい嘘吐きで、リィとの約束をすっぽかした挙句あれから一度も姿を見せない。影さえも掴めない。只者じゃないが、
(あの、大嘘吐きめ)
おかしな格好をした男だか女だか解らない(そういう人間が、リィ舞阪の周囲には多いような気がする)奇妙な黒装束を思い出して、リィは険悪に顔を歪めた。むかつく。
リィは嘘を吐かれることが、それによって不覚にも騙されてしまうことが大っ嫌いなのだ。ひどい侮辱だ。
レインも、あの黒マントも、あいつらはリィを馬鹿にしてせせら笑っているみたいで、むかつく、苛立つ。
(俺は強いんだ)
絶対リィ舞阪より弱っちいくせに、なんであんなに態度がでかいんだ。
このエンブリオにしたってそうだった。リィにとって、このエジプト十字架は、それらの象徴だった。騙されていつまでも馬鹿正直に待っていたせいで、風邪をひいて寝込んでしまったことなんかの。
彼は本当に三度ほどエンブリオを捨ててしまおうと思った。流れの早い川に投げ込んだり、本当にごみの日に出してしまったり、そかしそのどれも無駄に終わった。
数日後の朝、決まってエンブリオは何でもない顔をして彼の枕元にいた。「よォ、久し振り」なんて、腹が立つくらい平然として声なんか掛けるのだ。なにか変な呪いでも掛かっているのかもしれない。
ともあれ、こんな理由でリィはエジプト十字架が大嫌いだ。
しかしなんでもかんでも馬鹿にして蔑むみたいなエンブリオの声が聞こえない、MPLSじゃない天色優には、その辺りの背景が全く理解できないみたいだった。当然だ。優にとっては、ただの何の変哲もないアクセサリーなんだから。
ともかく、リィは言ってやった。
「何の土産か知らんが、いらねーよ馬鹿」
「そうか」
優はちょっと残念そうな顔をしたが、特に食い下がるようなこともなく、別にどうでも良さそうに上着の胸元にリングを放り込んだ。ちりん、と金属の掠れる音がした。
「ん?」
リィは怪訝な顔をして優の胸元を覗いたが、それは優が腕で胸を覆い隠したことによって無駄に終わった。
「見るな」
「別にいいが、おまえまたそんな所に何でもかんでも突っ込んで、まさか食べ物とかしまってねーだろうな」
「君じゃあるまいしそんなことない」
その話題はすぐに終わった。あっさりとして他愛無い他の話に取って代わって、少しした頃にはリィはそんな、ちょっとだけ日常からずれていたことなんて、忘れてしまっていた。
異常事態は朝に来た。
『リィ舞阪へ。ぼくはここを出ることにした。世話になったな。今日はゴミの日だから、十時までにちゃんと出すのを忘れるな』
何の変哲もない紙に見慣れた文字がマジックペンで書かれているそれは、既にもう何の変哲もないじゃ済まない代物だった。
「あの馬鹿」
天色優が寝室にいない。キッチンにもいない。どこにもいない。姿が見えない。
リィは手紙と呼ぶには短すぎるメモを握り締めて、ぶるぶると震えた。
「またかよ」
こういったことは実はままあるのだ。そのどれもが、リィのせいで優がひどく機嫌を損ねた時だ。
彼はいつもほとんど能面なので、日常生活の上で感情というものが解りにくい。いや、解りやすすぎることもあるのだけれど。確かに。
でも、今回は。
「俺は何もしてねーぞ!?」
リィの叫びは、困惑を含んで朝のマンションに響き渡った。
「ああ、舞阪さん。今日はお兄さんがゴミ出し?」
リィ舞阪が乱暴にゴミ袋を放り投げた姿を見て、マンションの管理人だろう中年女性が声を掛けてきた。
どうやら端末じゃないらしい。彼女は「フォルテッシモ」のことを知らないようだったし、本当に世間話みたいな様子で顎に手を当てて、咎めるみたいに言ったからだ。
「いつも妹さんにばっかり押し付けてちゃ駄目じゃないのよ。あんた、もっとしっかりしなさい」
なんで見ず知らずの女にそんな事を言われなければならないのか、リィは解らなかった。彼は普通、一般的にこういう種類の人間と会話することがなかったからだ。
浮世離れしているのだ。天色優とは、また違った意味で。
リィは顔を顰めたが、女はまったく頓着しないまま言いたいことだけ言って、さっさとどこかへ言ってしまった。取り残されたリィはしばらくぼんやりとしていたが、わけがわからずに腕組みして、首を傾げてしまった。
「妹?」
それが何を指すのか理解したのは数分後のことだった。
天色優だ。彼らは近所の人間に多大な勘違いを受けたまま、日々を過ごしていたらしい。
律儀にメモに書かれていたとおり、ゴミは捨てた。部屋は片す気なんて起こらなくて、そのままにしてある。
「しかし、何だっつーんだ、あいつめ」
リィは大げさに肩を竦めて、頭を抱えて、椅子の背もたれに体重を掛けた。
腹がぐうぐう鳴る。空腹だ。でも、飯を作ってくれるユージンはいない。
しょうがなく常備してあるカップ麺を食おうと棚から引っ張り出してみたが、蓋を開けてみるとなんだか乾燥した硬い固体が入っているだけで、いつものふやけた温かいヌードルなんてどこにも見当たらない。
「不良品だ」
リィは忌々しげに唸って、テーブルの隅にカップを追いやった。何もかもに腹が立つ。他に食うものがないか、リィは戸棚に頭を突っ込んで掻き混ぜてみた。
見つかったものは干乾びてすごく硬い海草とか、マグロの油漬けが詰まった缶なんか。栄養食品などがあれば良いのだけれど、見当たらない。
リィは仕方なく缶詰を開けて、油塗れの魚肉にフォークを突き刺して口に運んだ。まずくはない。でもあまりにも量が少なくて、とても腹が膨れそうにない。
リィは溜息を吐いた。天色優なら、こんな食えたもんじゃないものばっかりの寄せ集めだって、彼の手に掛かればすぐに魔法みたいにリィ好みの朝食に仕立て上がるというのに。
しかしここに優はいない。
一方その頃、天色優はといえば、市街の中心部に聳え立っている大きなデパートの、その一画の喫茶店で塞ぎ込んでいた。
リィと共に良く訪れるさびれた軽食コーナーとは違って、小奇麗で凝ったデザインの内装だ。人入りも多いみたいだ。
(やっぱりぼくは馬鹿なんだろうか)
はぁっ、と優は深い深い溜息を吐いた。何をやっているんだか、自分でも解らなかった。
運ばれてきたチョコレート・ケーキにフォークを突き刺しながら、優はまたひとつ溜息を吐いた。
いつもの格好ではない。銀色の縁のついた濃いイエローの、長方形のサングラス、髪は前で分けて、あとは人に選ぶのを任せた暖色の、ぴったりした服装に、ジャケットを羽織っている。
変装は完璧だ、と優は思っていた。それは見るものが見たらすぐに解るくらいにお粗末なものだったが、「ユージン」の顔をあまり知らない人間にはこれで十分だ。
(子供っぽい真似をしてしまったか。いや、でもこのくらい、許されるはずだ。リィめ、くそ、もう。ぼくは本当に傷ついたんだ、って、傷ついたって使い方は合ってたかな、今ので)
いまひとつ曖昧に優は心のなかで断言した。それから、調度良いくらいにぬるくなった紅茶を口に運んだ。砂糖もミルクもない、ストレートだ。
優は胸元を探って、指輪をふたつ、取り出した。アンサタ十字は、鈍く、重たく優の手の中で銀色に光っている。
それをなんとはなしに弄んで、優は指先で摘んだ指輪をじっと、目を眇めて見つめた。
(馬鹿)
リィの馬鹿。
多分彼は優がいなくて、腹を空かせているだろう。部屋が散らかって、洗濯もしないから着るものがなくなって、困ったりしているはずだ。ざまあみろ、リィめ。
そこまで考えて、優は溜息を吐いた。
(本物の子供じゃあるまいし、そんな事があるわけ無いか)
腹が減ったら栄養食品やレトルト、カップ麺なんか、なんでも食べるものがあるはずだ。リィだって湯くらい沸かせるんだから。それに掃除も洗濯も、端末を入れればそれで済むことだ。
(もしかして、ぼくっていらないか?)
自分で想像して、優はちょっと鬱になった。それよりともかく、リングにちゃんと意味はあったのに、話も聞かないで突っ撥ねて、リィめ。
リィ舞阪は空腹を感じていた小さな缶詰程度で腹なんか膨れるわけもない。だからと言って外に出るのもめんどくさい。
行きつけの安い蕎麦屋は何時の間にか潰れてしまっていて、まだ人入りの少ない、彼が好みそうな店は見付けられないままだ。
こういう時は彼の大好物のクレープで腹を満たしてしまえば良いのだが(せっかく天色優がいないのだ。たまには良いだろう)ともかく外出することがめんどくさいので、それも却下だ。
部屋はほんのちょっとの間で嫌になる位散らかって、汚れていた。探し物をしたせいで、書類の束はぐちゃぐちゃになってしまっていたし、ごみくずが床の上に散乱している。ひどい有様だった。
リィは床に寝転んだまま、すぐ行方不明になるボールペンをやっと発掘して、手書きの文字が並ぶ紙にぐるぐるとぺン先を押し付けた。今週に入ってからいくつかこなした任務のうちのひとつの、報告書だった。
彼はこの手書きで書類を作成するという行為がひどく面倒で嫌いだったが、仕方なくのろのろとペンを進めて、しかししばらくすると動きをぴったりと止めてしまって、はあっと溜息を吐いた。ペンを放り出して、リィは本格的に寝転んだ。
(やってられるか、くそっ)
元よりデスクワークなんかには向いていない体なのだ。リィはいつだってやりたいことをやる。
こんなものは任せておけば、こういうことが得意分野のパートナーがタイプ打ちで終わらせてくれるのだが、彼はどこかに行ってしまった。
多分数日すると頭を冷やして帰ってくるだろうが(いつものことだ、きっと)あんまり面白いものじゃない。
大体、今回は何が気に入らなかったというのだ、あのユージンめ。リィは自分の腹がぐうぐう鳴る音を聞いて、やるせない気分になった。
(俺は決して、あいつがいないと生活がままならない訳じゃないからな。ただめんどいだけだし、強いから家事なんかする必要はないだろう、当然だ)
本当に大真面目に、リィはそう思う。大体本当なら家具なんかいらないはずだし、いつものようにすぐに住居が変わってしまえば全然問題ない。
ただ今回は、珍しく久し振りに一所に止まっている。中枢から次の任務が降りたって、大体はこの部屋こそが彼の「家」だ。悪いことじゃない。
あとはなんだかごたごたとしている家具類だが、これにしたって必要最低限のものだろう。大きなベッドはいつもリィが占拠しているホテルのスィートとは比べ物にならないくらい質素なものだし、テーブルだって小さい。二人で掛けてやっとくらい。
クローゼットはいつも寿命が短いものだから、大量に支給されたリィ(と、ついでにユージン)の予備の服がぎゅうぎゅうに納まっていて、これより小さくなんてならない。
「何故だ?」
何故こうもままならない。狭苦しい。常々リィが疑問に思っているそれは、いつだってユージンに「信じられない、ブルジョアめ」と非難されたが、彼は解らない。
金銭面、後は生活能力、常識、そんなものが欠如しているのだ。そのかわり、リィ舞阪は誰より強い。
「しかし、腹減った」
ともかくそんなことはどうでもいい、リィは居間のソファによじ登って、だらしなく寝転がった。
さっさと帰って来い、ユージン。
なんとなく虚しくなってきて、リィは目を瞑った。ユージンじゃないが、こういう時間の使い方が思い付かない時は(そうして空腹で体が動かない時は)寝てしまうに限る。
眠って、そして目が覚めたら、今度は面倒でもちゃんと飯を食いに行こう。ゆっくりゆっくりとリィはまどろみの中に沈んでいって、そうして、
『――いーかげんここから出しやがれボケナス! 無理矢理突破させんぞテメェ!』
馬鹿でかい耳鳴りが、リィ舞阪の脳味噌を突き刺して、思いっきり揺さぶった。
リィはたまらずに叫び返した。
「な、なんだ貴様! 俺は寝るんだ、邪魔するな!」
『どーでもいいから出しやがれ、おいコラ馬鹿テッシモ! オレをこんな狭苦しい缶詰に放り込んでおいて、自分はのうのうとソファで昼寝かよ!』
「うるさいぞ、静かにしろ。大体何なんだ、いきなり、今まで静かだったくせによ」
『そっちが聞く気ねェからだろうが! ああくそ、オレはなァ、人間にくっついてねェと感覚も何もねーんだよ、テメーと違ってな」
リィは渋々上半身を起こした。意識が無くなり掛けた夢現の状態になったので、どうやら閉じ込められっぱなしだったエンブリオはやっとリィの意識を捕まえて直に話し掛けてきたようなのだ。
このエジプト十字架の構造なんて全く良く解らないが(人を突破させる波長の存在だということくらいだ)そのうちそのままリィの体を乗っ取りでもしかねない勢いで、なんとなく気に入らない。無論、そんなことさせる訳もないが。
さすがに目を覚ましたリィは、のろのろした緩い動作でキッチンまで移動して、溜息をひとつついて、手に取ったブリキの缶を開けて、エンブリオにくっついている皮の紐を指で摘んだ。顔を赤銅色の十字架に突き付けて、目を眇めた。
「なんの用だ。俺は眠い」
『テメー』
エンブリオは憎々しげに唸った。彼に肉体があればきっと今頃歯軋りでもしてるんだろう、こういう所でこの存在はとても解り易い表現をしてくれる。
どこかの能面とは大違いだ、とリィは思う。あの馬鹿ユージンとは。
リィが面白くなさそうな顔をしている事を「見て取って」、エンブリオはしばらくの沈黙の後、ひひひ、といつものように意地悪く笑った。
『またお姫様は御機嫌斜めか』
「まったく、あいつはわからん」
リィが正直に言うと、エンブリオは含み笑いなんかじゃ済まないくらいに爆笑した。
「笑うな、馬鹿」
殊更に仏頂面をしたリィに、おかしくてたまらない、というふうに、十字架はげらげら笑いながら言った。
『ひひひ、元最強が、良くもまあこんだけ振り回されておろおろしてるもんだよなァ。あの姫様、やっぱおもしれー』
リィは無言で指の力を強めた。彼は笑われることがあまり好きじゃない。しかし、十字架はあまり気にしたふうでもない。
『やはり外の感覚は良いなァ。辛気臭い真っ暗闇はもうごめんだ、畜生』
「無機物のくせに、そんな情緒があるとはな」
フォルテッシモは皮肉げに言ったが、エンブリオはまるで聞いていないふうにしてそっけなく言った。
『しっかし、おまえなんか食えよ。この「空腹」って感覚は、どうもオレは大嫌いだ』
「貴様に指図されるいわれはない」
『じゃあ、なんか食ってくれ。もう腹が減って死にそーだ』
「うるせえ奴だな。って、おい、待て」
リィははっとして、エンブリオを凝視した。
「俺の感覚と勝手に同化しているということはだな、おまえ、その、つまり」
言いながらも、顔が赤くなって、そして急に青くなっていく。この十字架は、日常生活の上ではまだしも、あんな時や、こんな時や、リィ舞阪にしてみれば他の意識にシンクロなんてされた日には死んだっていいくらい恥かしいアレやナニや。
そんなことまで、こいつには筒抜けだというのか。顔を真っ白にしているリィに、さすがに罰が悪そうに、エンブリオは弁解するみたいにして、言った。
『オレは関係ないからな、あー、知らねーよ、うん』
「急に歯切れ悪くなるんじゃねえ! 貴様、まさか」
『だから知らんつってんじゃねーか。まあ、若いってことは悪いことじゃねーと思うぜ、うん』
「うわあああっ、テメー、殺す! ぶっ壊す! 今度という今度はもう容赦しねー!」
再び顔を真っ赤にしたリィの怒声と、はぐらかすような笑い声が、しばらく部屋に響いた。
「ちょっと良いかしら? あなた学生よね、見た感じ。こんな時間にこんなところで何をしているのかしら。学校はどうしたのかしら。優雅にケーキと紅茶? 違うわよね、一般生徒はちゃんと真面目に5時間目の授業を受けているはずだわ、うん」
リィ舞阪がそうして喚いて騒いでいるころ、天色優は結構辟易していた。彼は外に出ると、大体ろくなことに遭わない。単に運が悪いのかもしれない。
「お茶代なんて、どこから出てるの? そんなお小遣いの余裕、学生にはあるわけないわよね、ここ高いって有名だもの。うちはアルバイトは厳禁なの。わかる? それとも何かしら、他には恐喝、援助交際。ちょっとあなた、聞いてるの? 先生はあなたのことを心配してるのよ、あなたの未来をね」
優は頭を抱えた。ちょっと、いやかなり、彼はげんなりとしていた。それというのも、これだ。
「なにやってるんだレイン」
彼の「知り合い」のレイン・オン・フライディ、面白くないことに優にとっては少しばかり借りのある相手だ。彼女は何の臆面もなく微笑を浮かべながら、優の肩に手を置いたまま、ほとんど息継ぎもなしにわけのわからないことを言ってのけた。
それから口も挟めないままでいる優に、今度こそにっこりとちゃんと笑うと、勝手に空いている向かいの席に腰掛けて脚を組んで、胸元から紙巻煙草の箱を取り出した。
「――って、まったくやってらんないわよね、教師の任務なんてさ。あんたもそう思わない?」
「教師?」
優が訊き返すとレインは、そ、と頷いた。
「学校の先生よ」
「ぼくが聞いてるのはそういう意味じゃないんだがな」
優は溜息を吐いて、ケーキの残りの欠片を口の中に押し込んだ。
「急いで食べなくても取らないわよ」
「おまえこそ、今は「5時間目」なんじゃないのか? 戻らなくていいのか」
「ああ、サボリよ。やってられるかっての」
「…………」
「嘘よ。ちょうど時間が空いたから、街でふらふらしてる生徒を補導して回ってるの」
「結局サボリじゃないか」
優はそう言って、レインに灰皿を差し出した。
「煙草吸うな」
「あら、禁煙中?」
「そうじゃなくて、体に悪い」
レインはしばらくそれを聞いて呆けていたが、ふいにぎこちなく首を傾げた。
「気遣われても、なにも出ないわよ?」
「なにを期待してると思ったんだ」
顔を顰めた優に、存外素直に彼女は煙草を灰皿に押し付けた。
「そう言えば、あの馬鹿はなにか任務に就いてるの? よりによって甘いものを、あんたが一人で食べてるなんて」
あまり触れられたくない話題を振られて、優は急に黙り込んだ。聡い彼女はそれで悟ったようで、何も言ってこなかった。でも優はちょっと考えてから、口篭もりがちに彼女を呼んだ。
「レイン」
「ん?」
MPLSの心情なんてものは、合成人間の優よりも、多分同族で似た者同士の(本人達が聞けば、それは怒って否定するだろうが、似ているものは仕方ない)レイン・オン・フライディに聞いたほうがきっといい。
「結婚指輪を突き返されるのって、ふられたって言うんだろうか、やっぱり」
優が大真面目な顔でそう言うと、レインは腰掛けていた椅子ごと思いっきり後ろ向けにひっくり返った。
「椅子にはちゃんと座れ。変な体重の掛け方してるからだ」
「そんな何でもないふうに、うちのお母さんみたいなこと言うんじゃないわよ。ああ、あたしは耳がおかしくなったのかしら? なんか変なことが聞こえた気がしたわ」
優は柄にもなく珍しく混乱しているレインをちょっと見遣って、顎に手を当てて、考え込んだ。
「やっぱり変かな」
「なに真面目におかしいこと言ってんのよ、変な薬でも飲んだの? 悪食? それとも頭でも打ったのかしら」
「最近特にそういうことはなかった。通常通りだ」
「あんたはもう」
レインは心底参ったといった調子でこめかみを押さえて、服の埃を払いながら立ち上がった。がたがたと乱暴に、倒れた椅子を引き寄せて元に戻して、勢い良く体重を掛けた。
「そうやって真顔で妙なこと言うのは止めてくれないかしら。リアクションのしようがないわ」
優は本当に呆れた調子でものを言われて、少しばかり俯いた。
「ぼくはおかしいのだろうか?」
「ええ、相当、ずれてるわ」
断言されて、優は更に落ち込んだ。具体的には、どの辺りがずれているのかが、解らなかったので。彼はいつだって真剣なのだ。
「まあいいわ、その様子を見ると、あの大人げ無い馬鹿と喧嘩でもしたわけ?」
「喧嘩なんかしてない」
優は拗ねたみたいに言った。それは無表情で、見る者が見なければ解らないものだったが。
リィ舞阪の家で天色優がいるのは、居間と、キッチンが大体だった。あまり広くない台所はそのまま居間に繋がっている。
その日、優はシンクに置きっぱなしになっている食器を、いつものように洗っていた。洗剤を泡立てて、水で流して落として、そんな単純な作業だ。
ダイニングのテレビはつけっぱなしになっていた。見てもいないなら消せばいいのにと思ったが、優は顔を向けて、ああ、と頷いた。大人げないことにリィは、ソファの上でうたたねをしているうちにどうやら本当に寝入ってしまったみたいだった。
身じろぎをしないままぎゅうっとソファの端っこを掴んだまま、彼は器用にすうすうと寝息を立てていた。
「もう」
洗い掛けの食器の残りをすぐに片付けてしまうと、優は水気を切って、それから居間のリィのところへ行って、彼を揺り起こそうとした。
「リィ、寝るなら寝室へ行け。風邪を引くぞ」
「うー」
「リィったら」
しょうがないな、と優は腕組みして、頬に手を当てて呟いた。こうなったらもう本当に、この男と言うものは起きないんだから。
優はリィを寝室へ運ぼうとした。居間はこれから片付けようと思っていたところだ。自分よりいくらも体長と重さのある男を持ち上げようとして、彼の腕を引っ張った。
「うわっ」
しかし、すぐさま力を入れ掛けたその腕を離して、後ろに跳びのいた。優は冷汗を流しながら、頬を拭った。
柔らかい頬の肉を切り裂いて、一筋浅い掠り傷が浮いている。リィ舞阪の能力だろう。間違いないことに、小さな傷なのに不釣合いなくらい血が流れ出して、止まらない。
「危ないな」
愚痴っぽく溜息を吐きながら、優はほっそりした指を傷に押し当てて、一文字になっている痕をきゅっとなぞった。じゅう、という肉の焦げる嫌な匂いがして、瞬く間に特殊な傷は、醜い火傷に取って変わった。
その「普通」の傷は、しかし瞬く間に乾いていって、すぐに見えなくなってしまった。
天色優の傷の治癒能力は脅威的なのだ。でなきゃ、このリィ舞阪のそばになんていられる訳もない。
「わかったよ、そこで寝ていろ。それで、風邪でも引けば」
そっけなく言って、優はリィをほったらかしにしたまま、ソファに腰掛けた。
その時だったのだ。ふいにテレビから流れるコマーシャルが切り替わって、音楽が流れ始めた。優はなんとはなしに、それを見遣った。
『結婚してくれ。ずっと、俺のそばにいてくれ……』
真っ暗な夜の公園だ。季節は冬のあたり、寒空からはちらちらと雪が見える。
黒いスーツの青年が、息を白くしながら、20代前半くらいの女にそう言いながら、銀のシンプルな指輪を手渡した。女はしばらく戸惑った様子だったが、やがて微かに泣きそうな顔でにっこりと微笑んだ。
彼女は震える指先で指輪を受けとって、自らのほっそりした左手の薬指に嵌めた。
『――嬉しい』
そうして黙り込んだまま、二人共が何か言いたそうだったけれど、やがて女の方がそう一言だけ言った。
(指輪? それが『嬉しい』のか)
天色優はなにか珍しいものを見たような気がして、穏やかなピアノのBGMを聞いていた。
画面は映り変わって、さっきの女が真っ白なドレスを着ている。動き難そうな、重たいものだ。テレビからは、天色優が理解出来ない単語が次々に流れてくる。
(『婚約』。なにかの誓約のようなものか、そんなに大事なものなら、失敗すれば死の制裁が待っているんじゃないのか? なのに、何故あの女はあんなに嬉しそうなんだ)
なにか、間違えない確信でもあるのか。
良く見てみれば、指輪はふたつあった。女の指と、それを手渡した男の指。それも同じ場所。
同じ、薬指だ。
(『婚約指輪』。さっきのか。それで貰って『パートナーになった』? いや、ぼくはこんなの、リィから貰ってないぞ。おかしいな)
天色優は過去、正式にとは言い難いが、中枢からフォルテッシモのパートナーとして任務に就くように命令された日を思い出してみたが、そこにはこんな指輪なんて無かった。
ただ紙切れが一枚。銀の指輪も、ピアノ音楽も、白いドレスもなにもない。
テレビ画面を一時間ほど眺めていると、そのうちに恋愛ドラマは終了して、お堅い、優にはこっちの方がしっくり来るニュース番組のオープニング音楽が流れ出した。
その辺りになると仮眠に満足したのか、リィがまだとても眠そうな様子で目を開けた。数回ぱちぱちとして、目を瞬かせて、むっくりと起き上がった彼はまず、テレビのモニターの前で微動だにしない優に疑問を持ったようだった。
「何してんだ?」
普通では見られないくらいにだらけきったリィの声がして、優ははっと我に返った。
「あ、ああ。何でもないんだ」
リィはまだ不思議そうな顔をしていたが、どうでもいいと思ったのか、ぐう、と伸びをした。猫みたいな姿勢で、欠伸をした。
優はじいっとそんな彼を見つめながら、ふと思ったことがあって、尋ねてみた。
「リィ、『ケッコン』って、どう思う?」
「血痕? 別に、どうとも思わんな。何だ今更」
「うん。いや、べつに」
優はそう言って頷いて、ふいっと横を向いた。その話はそこで終わったはずだったのだ。
とにかく間が悪かっただけなのだ。
変に幸せそうなドラマを見てしまったり、街中で偶然あんなにリィがいつも肌身離さず大事に持ち歩いてるエジプト十字架なんか見掛けちゃったり、そんないろんなことが。
レインは無言で突っ伏していた。彼女はもう起き上がる気力もないようだった。何故かひどい消耗しきった様子だった。
「そういう訳なんだ。やっぱり、ふられたのかな。パートナーなんかにはもうなれないって。でも昔だって、結婚指輪なんて形に残るようなものなんて無かったと」
「あんた馬鹿じゃないの? 組まされた構成員が全員結婚してたら、うちの組織には既に独身者なんていないっての!」
優の訝しげな声にレインが勢い良く顔を上向けて、大声を張り上げた。彼女は呆れを通り越して、ちょっと怒ってるみたいだった。いいかげんに馬鹿なことを言うのはよしてくれ、と言いたそうな顔だ。
「ちょっとは一般常識ってもんが、あんたの混じり物だらけの脳味噌にも刷り込まれてるはずでしょ」
「いや、先日脳を変なふうに捏ね回された時に、大体どうでもいいことは消えてしまったみたいなんだ。修復は可能なんだが、もう少し掛かるようだ」
「にしたって、ああもう」
はあっ、とレインは溜息をついて、やれやれと肩を竦めた。
「あの馬鹿も大概苦労するわね。同情はしないけど。まあいいわ。そうね、ねえユージン。いいこと教えてあげるわ」
始終呆れた顔をしていたレインだったが、彼女はやがて徐々にいつもの人の悪い顔を取り戻して、優に向かってにやりと笑い掛けた。
「なんだ。ろくでもないことならいらないぞ」
「大体あんたの方法は間違っているわ。あの男が泣いて喜ぶ方法があるのよ。あんた、指輪って言ってたわよね? ちょっとそれ、出しなさい」
優はうさんくさそうに顔を顰めたが、利口な彼は我侭なMPLSに逆らうようなことはしなかった。それに、同族のレイン・オン・フライディがそう言っているのだ。利用してやらない手はないだろう。
優は胸元のポケットに手を突っ込んだ。
まだうっすらとした薄い日の光が控えめに窓から射し込んできて、微かに明るい。
リィ舞阪は重苦しいまどろみから中途半端に抜け出して、目を覚ました。体はずっしりと重い。
(うー)
小さく唸りながら額をシーツに擦り付けて、そこで彼は気付いた。
誰か、そばにいる。なるほど、目が覚めた訳だ。リィはとても、人間の気配に敏感だった。
もうそろそろ馴染んだ気配が、彼の隣にあった。
「ユージン?」
リィは彼の名前を呼んだ。単式戦闘タイプの僅かな気配に慣れてしまうのも妙な話だとは思ったが、昨日から行方を晦ましていた天色優は、丸一日という割合短い時間で出戻ってきたらしい。
「なにやってんだ、おまえ」
どうやらじっと覗き込まれていたようで、視線が体に突き刺さって、何となく気になって仕方がない。
まだベッドからは起き上がらないまま寝返りを打って、めんどくさそうにリィは顔だけ上げた。そして、そこで硬直した。
「おはよう、リィ」
はたして、そこに優はいた。別段いつもと変わらない顔は、シンプルに無表情のままだ。相変わらず綺麗だ。だがそんなことはどうでも良かった。
問題なのは、彼の服装だった。いや、服装と呼べるものなのかはかなり疑わしいものだった。
白くて薄いレースのくっついたエプロン、あとはなにもない。たったそれだけ。
ほっそりした素肌がそのままに露出していて、優はベッドに座り込んでリィの顔を覗き込んで来ていた。心持ち紅潮した頬で(ただし無表情だ)優は彼にしては珍しく困ったみたいな顔をした。
「おまえの好みっていうのが良く解らないんだが、こういうのがいいのか?」
「な……なっ、なっ!?」
リィはあわあわとしながら真っ白になって、なんだかものすごい格好をしている優を震える指で差して、引き攣ったみたいな声を出した。
「何なんだ――!?」
早朝、マンションの一角にリィの悲鳴みたいな絶叫が響き渡った。
「ちょ、ちょっと待て、おいどういうつもりだ朝っぱらから、訳の解らんことを」
リィは顔を蒼白にしていたが、思考が現状に追い付くと、ぐあっ、と真っ赤になった。
やっぱり天色優、ユージンという合成人間が解らない。なんのつもりなのだ。裸エプロンだ。
剥き出しになったほっそりした四肢が、変に色っぽい。変なところばかり目に付いて、リィはとりあえず優から頭ごと視線を逃がした。
「うわああっ、ちゃんと服着やがれおまえっ」
「いや、だっておまえはこういうのが好きって」
「好きとか嫌いとか、そーいうのはどうでもいい! 一体何なんだ、急に消えたと思ったらなんでいきなりそんな破廉恥な格好で俺の枕元に立ってるんだ!」
「破廉恥って」
優は自分の薄っぺらな格好をまじまじと見て、なんだか達観したような顔をした。本当はぼくも解ってたんだけど、というような表情だ。
「でも、おまえは悪趣味だから、こういうのもありなのかなって思ったんだ」
「趣味の良い悪いも関係ねえ! 誰だおかしなことを吹き込んだ奴は?! それ絶対おまえが考えたんじゃねーだろ!」
「良く解ったな。これ、レインに借りたんだ。なんだかおまえが泣いて喜ぶっていう話だったんだけど」
優はそこまで言ってから、俯いて溜息を吐いた。
「そうでもないみたいだ。また騙された」
なんだか優は全然解っていないのか、ほとんどいつもと全然変わらない表情のままだ。
「実は一緒に台詞もあるんだけど、ええと、『おはようあなた、朝食にする? 先にシャワーを浴びる? それとも、わ』」
「やめろこの馬鹿!」
リィは思いっきり優の頭をひっぱたいて、死ぬ程恥かしい台詞を中断させた。
「おまえはなあ、もうちょっと自分を大事にしろよ、全然解ってねーだろ」
「うわ。まさか君に自分を大事になんて、言われるとは思わなかったよ」
「ああくそっ、もうどーでもいいから服を着ろ!」
駄々をこねているみたいな調子で腕をばたばたとさせたまま、リィは真っ赤な顔で優を押し止めた。
「いいか、ユージン! それはなぁ、もうすっげー恥かしい行為なんだぞ、解ってんのか?」
「え」
リィが言い含めると、急に意外なことを聞いたふうに、優は頬を染めた。
「や、やっぱりそうなのか? ぼくの価値観は、間違ってなかったのか」
「おまえは自分を何だと思ってるんだ」
優は普段無表情なものだから、こういうふうにほんのちょっとの変化が見て取れるだけで、もうとても可愛く見える。なんとなくどぎまぎとしながら、リィは更に言い募った。
「だ、だからだな、とりあえず服を着ろ。俺のシャツが確か、その辺に脱ぎ捨ててあったはず――」
「うん」
リィの言う事を今度は理解したようで、優は羞恥を感じているのだろう、少し強張った面持ちで背中のリボンに手を掛けて解こうとした。そして、再びリィに頭を叩かれた。
「ここで脱ぐな!」
「じゃあどうしろって言うんだ」
不満そうに、優が唸った。
「もう、せっかく恥かしい格好までしたのに。レインめ」
ぶつぶつと愚痴っぽい独り言を口にしている優をさりげなく見ながら、リィはふうと溜息を吐いた。
(レイン・オン・フライディめ。ろくでもないが、まあ今度遭った時にはケーキと紅茶くらいならおごってやってもいいぞ)
リィは口煩く言いながら、実は結構、良いものを見て満足しているみたいだった。
「リィ」
「い、いやっ、なんだ?」
変なことを考えていたものだから少し気まずい思いで、リィは優に返事をした。優はしばらく言いよどんでいるみたいだったが、やがて俯いて、ぼそぼそと言った。
「なら、どういうのが好きなんだ」
「どういうの、とか言われてもな」
正直リィは困ったが、あたりさわりのないことを口にした。天色優、こいつは馬鹿だから(そして馬鹿正直なのだから)下手なことを言ってしまえば、今度は更に突拍子もないややこしいことになるに決まってる。
「普通でいい」
「普通って、なんなんだ……」
優は不満そうだったが、いつもの無表情に戻ってひとつ溜息を吐いた。
「それより、何のつもりなんだ。俺に媚びてでもいるつもりか? 何か変なものでも食ったのか」
リィはちょっとげっそりして、そんなことを優に訊いてみたが、彼は黙って首を振るだけだった。
「ぼくはパートナーらしいことをなにもしていなかったみたいだから」
そして、訳の解らないことを言った。
「指輪もないし、あんなお祭りみたいな儀式もなかったし、あとは、ええと旅行だっけ。そういうのもなかったな。いい所、世界の果てでおまえと一緒に全部ぶち壊しにしたくらいだ」
「何の話をしているのか、全く見えないんだが」
優はリィのちょっと困惑した反応を見て、ほんの少しほっとした様子だった。
「おまえも知らなかったのか」
「なにが」
「正式な儀式の話だ。そうだな、リィ、やっぱりおとなしくこれを受け取れ」
そうして、優は薄っぺらいエプロンのポケットから、例の銀色のリングを取り出した。鈍く光る取っ手のついた十字架だ。
「だから俺はこのデザインは大嫌いだと」
「いいから受け取れ。それ、勝手に捨てたらリキッドだからな」
そっけない顔で(ただし裸エプロン)優は言った。
「まさか、この俺に脅迫でもしているつもりか」
「そんな訳ない。ただのお願いだよ」
「リキッドなんて単語を出しながら「お願い」とか言うな」
なんだか疲れてきたリィは、渋々指輪を受け取った。ごく普通の、安っぽい、重い指輪だ。
ただし、今のリィにはなんだか別のいろんな要素が混じり合って、その重量は何倍にも感じられた。
なんだ、これ。
優は苦い顔をしているリィを覗き込んで、さも当然のような顔をして、言った。
「それは薬指に嵌めるものなんだ。ああ、右手じゃなくて、左手の」
「なあ、それって、おい」
ここまで来て、リィはようやく気が付いた。
この指輪の意味とか、まさか、もしかして、
「婚約指輪とか、言うんじゃないだろうな」
「おまえも知ってたのか? そうだよ」
優はあっさりと頷いた。リィはなんだかひどい頭痛を覚えて、頭を押さえた。
何考えてんのかさっぱり解んねえ、この馬鹿。
「なあ、ユージン」
リィはあんまりにも馬鹿馬鹿しくて頭がくらくらとするのを我慢しながら、『なんでそんな不思議そうな顔をしているのかわからない』と言いたそうな、不思議そうな顔をしている優の肩を掴んだ。
「何があったんだ、おまえ」
一体全体何がどうしたのか、本当にさっぱり全くリィには解らなかったし、理解できなかった。天色優が訳が解らないことを言い出すのは今に始まったことじゃないが、いくらなんでもこれはやりすぎだ。
「いらないのか?」
優はちょっと傷ついたみたいな表情を浮かべて、リィの呆けた顔を覗き込んできた。首を傾げて、貴重な可愛らしい仕草でだ。
目の前には縁起の悪い結婚指輪、それととんでもない格好をした優、それから――リィ舞阪はこれ以上ないという位渋面を浮かべて、ベッドの上でしばらく頭を押さえていた。
これ、絶対おかしい。
そうなのだ、もうこれ以上、この最強が振り回されっぱなしなんてことがあっていいはずがない。教えてやらなきゃならんだろう。この訳の解らない真似ばっかりする天色優に、突拍子もないことはそろそろ止めろと、その為のいろんなことを、まず何よりも先に。
リィは優の両肩をがしっと掴んだ。
「リ、リィ?」
戸惑って上擦った声で名前を呼ぶ優をベッドにゆっくり押し倒して、リィは『何が何だかわからない』ふうな彼と、大真面目な仏頂面で顔を突き合せた。
「なあ、おまえは解ってやってるのか、それとも確信犯で俺をおちょくって面白がってるのか、一体どっちなんだ?」
「え?」
「おまえがそんな、器用な真似ができるとも思えんな」
リィは苦い顔をして言って、優に額をくっつけたまま、じいっと彼の目を覗き込んだ。優はなんだか顔を赤くしたが(リィに見つめられることが、なんだか優は駄目らしいのだ)視線はじっとそのまま、ただ瞼を半分だけ閉じて、困っているみたいな顔をした。
「リィ、ぼくはおかしいか? 今になってこんな、昔パートナーだったことなんて蒸し返して、それを目に見えるものにしたいなんて、確かめたいって思うのって、変かな」
「なあ、ひょっとして」
リィは段々頭が痛くなってきた。もしかすると、優はとんでもない(ただあながち間違ってもない)勘違いをしているんじゃないだろうか?
「パートナーと配偶者の違いは解るな? おまえの脳はがたが来てるのか? 確かに最近おかしいと思っていたが」
リィは本当に呆れたふうに溜息を吐いて、そして「こいつ本当に大丈夫なのか」と心配そうな顔をして、それから控えめにくすくすと笑い始めた。
「馬鹿にしてるのか?」
「そんな訳ねえだろ、可愛いユージン。ったく、おまえは、本当に――」
やれやれと首を揺らして、リィは言い切った。
「阿呆だな」
「うるさいな。ぼくはどうせ年寄りだ。脳味噌にがたが来てるよ。ああもう、そうやって気障な物言いも止めろ。なんだかむかつくんだから」
「はいはい、やめよう。その代わり、おまえにはいろんな事を教え直してやらなきゃいかんようだ」
「例えば」
優はとても嫌そうな表情をして、リィを見上げた。彼はリィ舞阪をずっと子供だと思っていただけに、ままならない、ともすればリィより回転の鈍い、ちょっと不安定な記録だとか、そんなものがとても面白くないみたいだった。
リィはそんな優に得意げに、ちょっと目を瞬かせて、頷いた。
「例えばおまえの行為の本当の意味と、それに振り回してくれた代償に関してとか、どうかな?」
優はしばらく不審な目でリィを見上げていたが、ほどなくおとなしくなった。
リィがちゃんと説明してくれる、昨日と今日の自分の行動の意味と、レインにけしかけられた今の彼の格好と、それからふたつの指輪のことを頭に染み込ませていくごとに、天色優の顔は真っ青になって真っ白になって、それから真っ赤に染まった。
「まったく」
リィは苦笑を零して、顔面を硬直させている優の頬を緩く撫でてやって、彼らしい攻撃的な顔でもって、にやりと笑った。
「おまえに惚れてる男にそういう行為を仕掛けておいて、あまつさえそんな格好で、ただで済ませるなんて思うなよ、ユージン」
優は真っ赤な顔で、リィに体をまさぐられるままにして、それでも時折恥かしそうに体を捩らせた。
「少しは慣れろ。こっちが恥かしい」
「ば、馬鹿、誰が。こんなの、なんでもない」
リィにぶすっとした顔で言われて、優はぷいと横を向いてしまった。素直じゃないのだ。
それ以前に、羞恥なんか感じていることが気に食わないだろう。また「リィ舞阪は全然平気みたいな顔してるのに、ぼくだけ」なんか思ってるんだろう。
(そんな訳あるか、阿呆)
リィは胸の中だけで文句を綴って、優のぺったりとした胸に噛み付いた。
「いっ」
びくっ、と跳ねて、優が切なそうに眉を顰めた。
「優」
全身触ってやるごとに、優の身体は少しずつ薄いピンク色に染まって、頬が上気していく。
「何か言いたそうな顔してるな」
「…………」
「言ってみろ。聞いてやる」
「…………」
優は横を向いたまま、臍でも曲げているのか、リィに答えない。こういうのは、いつもリィ舞阪の役割ではなかっただろうか?
天色優がこんなふうにガキっぽい仕草をするのは珍しいことだ。リィはなんとなくそれがおかしくて、くすっと笑って、ふいに真顔に戻った。彼は、気付いた。
「その様子だと、ふてくされている訳ではなさそうだな」
天色優は、リィみたいにふててそっぽを向いている訳ではなく、彼がなにかしら考え事でもしている時によくあるように、ただ口元をきゅっと結んでいた。
当然のことだがそんなふうなこと、リィが面白い訳がない。リィが優に触っているのに、他のことなんか。どうしてそんなに身体が冷たいんだ。
リィが正直に、不機嫌に顔を顰めると、優はものすごくばつが悪いような顔をして、気まずい沈黙の後でぽつりと一言だけ、ほとんど掠れて聞き取れないくらいの小さな声で、一言だけ言った。
「合ってるよ」
「は?」
正直意味が掴めなくて、リィは眉を顰めながら訊き返した。優はそっけないように装えるようにわざと不機嫌そうに見える仏頂面で、赤い顔で言った。声は震えている。
「それで合ってると言ったんだ。ぼくの言いたかったことは、そんな感じだ。パートナーって、おまえには、そんなの全然どうでもいいことかもしれないけど」
苦い、渋い顔をして、優は俯いた。でもその顔は火照って紅潮している。
なんでこんなことを考えるんだろう、そう半分自己嫌悪も入り混じった顔だ。
「もしかしたら、ぼくが人間の女の子なら――こういうのは考えるだけ無駄だって解ってるのに、もしこんな中途半端な身体じゃなかったら、君の子供だって産んでやったっていいくらい、好きなんだ。そういう種類の意味だったんだよ、ちゃんと」
吐き出す言葉の意味に耐えきれないように、優は半分だけ目を閉じて、すごく切なそうな顔をした。
そんな表情をされて、どうしろというのだ。リィが言葉を続けられないでいるうちに、優は緩く首を振った。
「ぼくにとってのパートナーって、そんな感じなんだ。ああ、もう、どうかしているな。おまえのことを考えてると、どんどん馬鹿になってくような気がする」
床に零れている白くて薄っぺらい布地から指輪をひとつ取り出して、優は軽く指先で摘んだ。
「こんなのも、本当はいらないんだ」
そう言って、彼は指先でくるくると鈍い光を放つ指輪を回した。シンプルで単純な指輪は、優に弄ばれるごとに段々と黒ずんでいって、やがて、ぼろっ、と崩れてしまった。
酸化して、黒っぽい塵になって、そのうちに消えてなくなってしまった。
「これはやっぱり物なんだ。テレビみたいに、ああやって嬉しそうに嵌めてることなんて、できそうにないし」
指先にこんなものを、肌身離さずなんてつけてられない、と優は言った。その白くて細い指は、薄紫色にてらてらと濡れている。
「良く解らない儀式でも、それで君のそばにいられることが保障されるっていうなら、いいかなって思ったんだ。だから、それで意味は合ってるんだ。ぼくが言ってた、その」
そこまで言い掛けて、優ははっとした顔でリィを見上げた。リィは正直どういう顔をしていいのか解らなかった。なんだ、こいつは、なんでこんなに。
「なんでおまえはそんなに阿呆なんだ……」
肩を落として、リィは力なく言った。つまり天色優の奇行は、変なテレビを見て、妙な露店ででも引っ掛けられて、それからあの女に変なふうなことを吹き込まれて、それでもその中心で彼だけは大真面目で真剣に行動していた、ということになる。
馬鹿過ぎる。なんだかリィは馬鹿らしさに頭がくらくらとして、それからほんのちょっとだけ、そんなふうな、いつも真剣な天色優が愛しく感じた。
優は確かにちゃんと強いが、この馬鹿、ほっとくと一体どうなるんだ。
「おまえは当面、テレビは禁止だ」
優はなんだか困ったみたいな顔をして、項垂れた。
「ぼくは、なんでこんなに馬鹿になっちゃったんだろう? これじゃおまえに全然馬鹿だなんて言えない」
「本当に、おまえはどうしようもないな。なんで、そんなに――」
そこまでで、リィは言葉を止めた。その先は言ってしまえば優が機嫌を損ねるなんてことが解りきっていたので。
なんでそんなに可愛いんだ。
「そんなに俺が好きか?」
「おまえのせいだよ。変だ、ぼくがこんなに、おまえのことなんて考えなかったら普通なんだ。それは、無理だけど」
優はぽつりと言った。頬を赤くして。ものすごく、可愛い顔をして。
「好きなんだ」
こういうふうに簡単でストレートな表現をされると、どういう顔をすればいいんだろう。リィは仏頂面で、ぎゅっと優を抱き締めた。
「くそ、反則だこの馬鹿。そんな気色悪いくらい素直なことを言うんじゃねえ。おまえはひねくれてる方がずっとそれらしいってのに、なんだ、一体」
ぶつぶつと言いながら、リィは口を尖らせた。天色優はやっぱりいつもの方がいい。冷たくて、なにを考えているのか解らなくて、時折世間離れしているせいで(それはリィがそうなんだ、とは優が言うことだが)突拍子もない奇行が見られたり、あとはつれないくせにリィの事が好きだとか言う。あんまりにもストレートなのは優らしくない。
大体そんな彼を目の前にして、一体どういうリアクションをすればいいのか。リィは優の髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でて、じいっと顔を覗き込んだ。
そうしていたら優は溜息を吐きながら、渋い顔で言った。
「もう、あんまり見るな。ぼくが悪かったよ。らしくなくてすまない。だからやっぱりさっきのことは忘れてくれ」
どうやら先刻の言動に関しては、ちゃんと『らしくなくて恥かしい』ことだと認識してはいるらしい。リィはちょっとほっとして、優の身体への少しばかり力任せの愛撫を再開した。
「忘れない」
「うっ、もう、おまえは、性根が最悪に折れ曲がってるんだ。そうやって、「惚れた弱み」とかに付け込まれて、やっぱりちょっとずつ駄目になっていくんだ、ぼくは。もういいよそれで」
「どこでそんな言葉を覚えてきた。変な知識ばっかり仕入れてくるんじゃねえ。もうちょっと、そういうどうでもいいことはいらねーから、人付き合いに関する勉強でも一から始めてみろ」
「おまえにだけはそんなこと、言われたくないよ。……あ……」
脇腹を撫でられてびくっと震えた優から目を逸らさないまま、リィは彼の脚を大きく折り曲げて、開かせた。
「うわ、リィっ」
焦って上擦った優の声に応えないまま、リィは白くて綺麗な脚の付け根の、柔らかい肉を解すように撫で上げた。
「あっ、リィ、嫌だ、そこは……」
「少しは慣れろ。ったく、身体は大分、最初よりは挿れやすくなったってのに」
そこまで言って、リィは鼻っ面に重たい衝撃を感じた。優に殴られたのだ。彼は真っ赤な顔をして、信じられない、とかかなり本気で怒っていた。
「ば、馬鹿。ぼくはおまえをそんな下品な男に育てた覚えなんかない」
混乱しているようで、優はそれから俯いて、ぼそぼそと言った。
「もう、なんだかこういうことをするごとにおまえは上手くなってくし、ぼくは一体どうしたらいいんだ……」
「初めに誘ったのは、おまえからだろう」
痛い所を突いてやると、優は真っ赤な顔で目を伏せて、それからぎゅうっとリィの首に腕を回してきた。せめてもの抵抗のつもりか、思いっきり力を込めて。
「もういいのか?」
「知るか。もうどうでもいいから、リィ」
それから優はいつものようにそっけなく目を逸らしたまま、それでいてどこか仏頂面で、懸命に作ったと見える不機嫌な顔で、ぼそっと言った。
「気持ち良くして」
「仰せのままに」
くすくすと笑いながら、リィは優の細っこい身体を抱き締めてベッドに沈んだ。
(なんだかなあ)
天色優はぽおっとしたまま、天井を見上げた。全身見えない手で引っ張られてでもいるみたいに、重苦しく、ベッドに沈んでいく。
腰と背中には優を抱きすくめたまままどろんでいるリィの腕の感触があって、あたたかい。優は顔を赤くしながら顰めた。
(ぼくはなんだか、いつもこいつにいいように振り回されてるような気がする)
ただ触るだけじゃなくて、リアルな意味で肉体を求めることを彼が覚えたあたりから、それは更にいっそう加速度的に増したような気がする。
優は触られてそれが心地良いと思う。絶対に言わないが、心待ちにしているところだってあったりする。全然まったく、嫌いじゃない。
リィもそうだと良いのだけれど。こっそりとそんなことを思って、優はきゅうっとリィに抱き付いた。
(ああ)
もう抱きしめられないのだ。
こんなことならもうちょっと、彼が小さいうちに構っておけば良かったな、と無駄なことを考えてみたりもして、優はくすっと笑った。なんだかそんなことを考える自分というものが、妙におかしかったので。
(ったく)
ぎゅうっと胸に抱き付いたまま眠りに入ってしまったらしい優に苦々しい気分で、リィはまどろみながら毒づいた。
彼の身体は気持ち良かった。小さくて、細くて、あとはきっとそういうふうな用途にもちゃんと使えるように製造されていたのだろう、それしか考えられないくらいにそそる身体をしていて、しかしそれはあのユージンなのだ。
あの、そっけなくてすかした顔をした、冷たいユージンなのだ。
(おまえは本当に訳がわからん)
柔らかい寝顔を覗き込んで、顔を赤くしながらリィは溜息をついて、彼の頭を撫でてやった。
(この俺を振り回してくれるなんか、さすがだとしか言い様がないな)
ちょっとだけ嫌味を込めてそう思って、リィは口元を緩めた。
天色優はリィの理解の範疇の境界線を行ったり来たりする。完全に理解不能の変人でも、なにもかも予測できる単純でもない、それがリィには良く解らない。
一体なにを考えているのだろう。
ただひとつ今の所知っているのは、彼はちゃんと本気でリィのことが好きなのだということだ。
(まったく、恥かしい奴め……)
自分を棚に上げて赤い顔でもう一度溜息をついて、リィは優の細っこい身体を撫でた。
優に触ってることが、彼は好きだった。綺麗だし冷たくて気持ちがいい。
象徴するものがあってもなくてもどっちにしろ日常はなにも変わらず、ただそこにあった。
天色優は飽きたようで指輪なんか知らないみたいな顔をしていたが、それは実際のところはじっくりと考えてみたらものすごく恥かしかった、というのに気付いたというだけのことだ。
「リィ」
今優はあんまり面白くなさそうな顔をして、キッチンのテーブルの上に置かれた、薄っぺらな布きれを指で弄んでいた。
「なんだこれ?」
これ、と指しているものは、何の変哲もないエプロンだった。真っ白の、それもフリル付きの。
優は先の一件で面白くないくらい恥かしい目にあった現物をまじまじと見つめて、そうしてはあっと溜息をついた。
「まだ捨ててなかったのか? おまえは確か、こういうのは嫌いじゃ」
優はそう言い掛けて、ちょっと言いよどんで、エプロンにまた視線を落とした。
「これ、前のと違うぞ」
「当然だ。新品だ、大事に使えよ」
「リィ……?」
優は信じられないものでも見るみたいに、嫌そうにリィを見上げて、ぶつぶつとぼやいた。
「嫌いだって顔してたくせに。もうそんな恥かしい格好なんてする気はない」
「おまえ、そーいうのが好きなんだろう? 別に俺には止める理由なんかないしな。ただ、腹は冷やすなよ」
「ぼくは育て方を間違ったのか、そういうの、なんか嫌だ……」
のろのろと、なにか落ち込んだ様子で、優は力なく買い物に行ってくる、と一言だけ行って、キッチンから出て行ってしまった。玄関のドアが閉まる音を聞いて、リィはにやっと笑った。
「少しくらいは仕返しさせてもらわないと、割に合わないからな」
『んなこと言って、おまえ本気だろ。趣味が親父くせーのな』
いい加減うるさいので缶詰から引っ張り出してきた胸元の十字架が、ぽつりと言った。リィは心外だというように、顔を顰めた。
「うるせえ。大体てめーがそんな、趣味の悪い形をしているのが悪い」
『お姫様は気に入ってくれてたみたいなんだがなァ?』
「あいつは無趣味だ。頓着してねーだけだ、馬鹿馬鹿しい」
『つーかあの様子じゃ姫様、多分半日は帰ってこねーぞ。あんまり苛めてやるんじゃねえ。腹が減るだろーが』
「俺の知ったことか」
リィはそっけなく言って、胸元の十字架を摘んで見た。相変わらず趣味の悪いアンク、それをぐるぐると縛っている皮紐には、錆び付いた同じデザインの指輪が通されていて、揺れるごとにちりちりと鈴みたいな綺麗な音を出した。天色優が腐食させてしまった指輪の、対になるもうひとつのものだ。
「あーあー。趣味悪ィ」
『テメーも大概、恥かしい奴だよなァ』
「うるせえ。ぶっ壊すぞ」
『ったくよー』
赤銅色の十字架は心底呆れたみたいなふうに、なんだか達観してしまったみたいに、ぽつんと言った。
『多分一番の悪趣味はあのお姫様だな。こんなロクデナシのどこがいいんだか』
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