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昔に比べていくらか表情のバリエーションが増えたとは思っていたが、その人が慌てふためいて顔面を蒼白にしている様子など見たことが無かったレインは、さすがにちょっとばかり驚いた。
彼女の目の前には、いつもよりも真っ白い顔をして呆然と突っ立っている少年がいる。全力で駆けてきたくせに息ひとつ乱さないで、彼は震え声で彼女を呼んだ。
「レ、レイ」
「黙らっしゃい」
言い終わる前にむぎゅ、とすぐに少年の口を塞ぎ、レインは取り繕うように微笑んだ。そんなもので騙されてくれるほど、久し振りに会った中学時代の同級生はお人好しではないことは解かっていたが、彼女はそうするしかなかった。
こんなところで、こんな時に、なんだって彼と鉢合せをするのだ。
状況は非常に説明しにくかった。偶然の塊なのだ。今日は朝から買い物に出掛けて、街でバイクに轢かれそうになったのだ。
バイクの主は偶然にもレインの元同級生の(彼女が内心いたく気に入っている)霧間凪であった。詫び代わりにこうしてオープンカフェで昼食を奢らせて、それまで積もる話を当たりさわりなく語り合っていて(もっとも喋っていたのはほとんどがレインだったが)昼過ぎになってふと気付くと、虚ろな目をした元同僚のユージンがふらふらとしていて、彼はレインと目が合うと親の仇でも見たような顔をして、彼女の前まで全力疾走してきたのだ。
彼にはいくつか借しがあったので、間違っても遭うなり殺意でもあるみたいに睨み付けられるいわれはないはずだ。
霧間凪は訳がわからなさそうな顔をしていた。当然だが。そしてここが非常に重要な点なのだが、『九連内朱巳』としては『レイン・オン・フライディ』なんて格好悪い名前を、何があったって彼女が珍しく対等と認めた存在、ライバル、もしかしたら友達なんて言ってやったって良いかもしれない霧間凪には、死んだって知られたくなかった。
『レイン』なんて、ましてや『フライディ』なんて、霧間凪の前では呼ばせてはならないのだ。口を塞いだままのユージンは、非常に不満そうな顔で、うーうーと唸った。どうやら、意思の疎通を試みているらしい。
「むー、むむ、うー」
「『今度はおまえ、何したんだ』ですって?失礼な、あんたなんでもかんでもあたしのせいにすりゃいいって思ってるでしょ。やめてよね」
「なんでそれで通じてるんだ」
霧間凪が奇妙な生物でも見るみたいな目をレインとユージンに向けた。それはひどく屈辱的だった。
ともかく、あれだ。霧間凪は鋭いのだから、こうして合成人間のユージンなんかと一緒にいると、いろいろとマイナスなのだ。知られなくて良いことを知られかねない。一刻も早くユージンをなんとかするべきだ。
鞄に詰めるなり、ロッカーに突っ込むなり、あとは簡単に追い払うなり、いろいろ。
(ちょっとあんたッ!いいとこなんだから邪魔しないでよね!話ならあとでいっくらでも聞いてあげるから、さっさと今は消えなさい!!)
(そうじゃなくて、レイン!おまえはほんとに何をしたんだ!おまえの仕業だろう!?)
(なんのことよ!知ったこっちゃないわよ!ほら、霧間が変な目で見てるじゃない!)
(き……?)
(格好良いでしょ。まあ、あたしと対等の存在と言ってやっても良いわね。惚れたら殺すわよ)
(なんだか、MPLSって同性愛者の傾向でもあるのか?大体対等とかって、なんかリ――フォルテッシモみたいだぞ)
(一緒にすんじゃないわよ、失敬ね)
音にならない旧式の統和言語でこそこそと会話していると、霧間凪の顔に見覚えでもあるのか、ユージンは彼女を指差した。
「この人、知り合いなのか、レイン――」
レインはユージンの頭を思いっきりひっぱたいた。
「は?レイン? 九連内?」
「な、なんでもないのよ、霧間。やーねえこのコったら、うちの生徒なんだけど、清純そうな顔してタラシなんだから。女の子の名前をいっつも呼び間違えて。あたしは九連内朱巳『先生』よ。思い出しなさい、ちゃんと」
そう言いながらユージンの首根っこを掴んで、レインはまたこそこそと言い含めた。
(いいこと、今はあたしのこと、コードネームで呼んだらひどいわよ)
(了解)
ユージンは律儀にこくんと頷いた。
「それでどうしたの、あんたがそんなに慌てて」
「ああ、そうだよ」
ユージンは思い出したのか、また焦燥の表情を浮かべた。そして、震え声で言った。
「リィが変なんだ」
これは数時間前に起こったことだ。
初めに断っておくが、間違っても、断じて、こういう機会を狙っていた訳ではない。事態は勝手に転がり込んで来たのだ。
そりゃあちょっとばかりは、自分の異常性ってものが原因だったのかもしれない。そいつは認めるが、だからって悪気はないし、その気もなかったし、だから断じて、
「オレは悪くないよなァ」
『ふ・ざ・け・る・なぁあッッ!!』
頭の奥の方でがんがん鳴り響くのは、最強フォルテッシモ――リィ舞阪の声だ。
もっとも、「彼」の体は、むしろ容器は、人の声を音としてではなく、波長で認識する構造になっていたから、まだ妙な心地が抜けきれない。
そう、普段は人の声、言葉を「音」として認識し、「波長」に変換して理解していたのだ。今はそれがまったく逆になっていた。
頭の中に直接聞こえる「声」は、実体も音もないはずなのに、彼には音階として響いた。それがあんまりにもうるさいので、両手で耳を閉じる――どうせ声は頭の中だけで響いているので、まったく意味はなかったが、彼はそこで別のことに感心していた。
手が動く。彼の意思の通りにだ。こうして耳元にくっつけると、少々硬いくせに猫っ毛という厄介な性質の髪が手に掛かった。
彼――エンブリオは、生身だった。体が他人のものだという点を除けば、彼は初めて人間の感触ってものを体験していた。
「なのになんか、変に懐かしいんだよなァ。あれ?オレは人間の体っつーもんは初めてのはずだが、妙に馴染んでるというか、昔こういうことがあったようななかったような、でもあったような気がするんだよなァ、うん」
しばらく腕組みをしてうんうんと頷いていると、また頭の中できぃん、とスピーカーの音量を最大にした時のような耳鳴りが響いた。
『ぐだぐだわけのわからんこと言ってんじゃねえ! 返せ! 今すぐ俺の体を返せ! この悪霊! 悪霊退散!!』
「人聞きの悪い事言うなって。オレは善良な生体波長だってのに」
『人の体に取り憑いて乗っ取るようなのは全部悪霊って言うんだ、この人外!』
「テメーだって普通人じゃねえくせに、偉そうなことほざいてんじゃねぇ」
『貴様は人型ですらないだろうが!』
「ああ、うるせえうるせえ」
指で耳を塞いで(あまり意味はないのだが、単なるジェスチャーだ)エンブリオは寝そべっていたベッドから起き上がった。
朝目が覚めるとこんな感じだったのだ。それまでに、なにか変な夢を見たような、見なかったような――。まどろんでいるその辺のことは覚えていなかったが、彼はとりあえず前向きに対処することにした。
「うん、まずは朝メシだな」
『すがすがしい顔で人間様の日常生活を送ろうとしてんじゃねええ!』
「おじょうちゃーん。悪ィ、腹減ったんだが」
『俺の体でユージンを「おじょうちゃん」呼ばわりするんじゃねえ!』
「うるせえな。おじょうちゃーん?」
もそもそと部屋から這い出て、エンブリオはこの時間帯だとキッチンで朝食の準備をしているはずの天色優を呼び付けて、いつもながらやせっぽちの彼の姿を見付けると、よぉ、と手を挙げた。
「よォ、お初にお目に掛かる、おじょうちゃん」
「は?」
朝から妙な挨拶を聞かされて、怪訝そうにユージンが振り向いた。
「うおっ、こっち向いたぞ。すげー」
『貴様はユージンの奴を一体なんだと思ってるんだ?』
珍獣でも見たみたいに、エンブリオは感嘆の声を上げた。案の定ユージンは変な顔をして、眉を顰めた。
「おはよう。なんなんだ、朝から悪ふざけなんかして」
「ああ、いや。なんでもねー」
「ん? リィ、おまえなんだか、イヤな夢でも見たのか? いつもよりガラが悪い」
「失礼なおじょうちゃんだなァ。人をヤクザみたいに」
エンブリオはそこまで言って、ああ、という顔をして、言い直した。
「ああ、オレは人間じゃないんだっけ」
「おまえはMPLSだろう?れっきとしたヒトじゃないか。それより、おじょうちゃんはやめろ」
話が噛み合わないことが腑に落ちないのだろう、ユージンはますます困惑しているようだった。それを彼は今の所、リィの悪ふざけだと思っているようだった。
エンブリオは訂正するのも面倒で、とりあえずまずテーブルについた。腹が減って仕方なかったし、なにより彼は人間のように食事ってものを一度くらいしてみたかったのだ。
怪訝そうにしながらも、ユージンはテーブルについた『リィ』の前に、ブルーベリージャムとバター、メープルシロップ、生クリームがたっぷり乗ったパンケーキとヨーグルトサラダ、それからミルクのたっぷり入った紅茶を、手際良く並べていった。
『あああ、俺の朝メシ……』
「ひひひ、ざまあみろ」
「誰と喋ってるんだ」
「いんや、まあなんでもいいが、いっただきまーす」
律儀に手を合わせてぺこんと頭を下げるエンブリオに、いつも礼儀なんてものを知らず、ただがっつくだけのリィを見慣れているユージンは、ちょっとびっくりしたようだった。
「リ、リィ」
「ん?」
「おまえ、今いただきますって」
「ああ。なんか変なこと言ったか?」
「い、いや。いつもは、そんなこと言わないだろう」
「そう言えばなんでだかなァ。なんか昔はちゃんとこーいう感じで、朝は白米に焼き魚に海苔と味噌汁と、白菜の塩漬けで――」
「なにを言ってるんだ。おまえは甘いものがいいって言っていつも」
「オレは甘党じゃあなかったような気がするんだがなァ。うん、イカの塩辛なんか割と好きだったな。それで良く親父くさいなんか失礼なことを、って、なんだこりゃ。そんなもん、オレは知らねー」
「ぼくだって知らないよ。どうしたんだ、おまえ?」
ユージンは、ちょっとばかり心配そうな顔つきになった。
「熱でもあるんじゃないのか?ただでさえバカなのに、これ以上脳細胞が破壊されたらどうなるんだ」
「あー、確かになァ。最強の奴はアホだからなァ」
『テメーら、俺が反論できないところで好き勝手言ってんじゃねえ!』
「そうそう、バカのくせに強いだけは強いんだから、収拾がつかないんだ。ワガママで身勝手だし」
「あんたも大変だなァ。あ、この甘いのはやり過ぎだと思うぞ。味覚の矯正をしてやるのも愛の内だとオレは思う」
『余計なお世話だッ!』
「やっぱり。体に見るからに悪そうだし、じゃあ今日の夕食はカレーなんかどうかな。たまには辛口っていうのも良いだろう」
「うん、まあ割と好きだな。それにしてもあんたほんとに胸ねーなァ。前から思ってたんだが、最強みたいな悪趣味な奴以外にモテねーだろ。良かったな、世の中にゲテモノ食いがいて」
『貴様、それは俺の価値観を侮辱しているつもりかッ!』
「はは、余計なお世話だよ。君の趣味が悪いんだ」
「そーだろー、うん、オレもそう思う。最強って貧乳好きのロリコンだよな」
「あはは……」
くすくすとユージンは微笑んだ。しばらく空虚に室内にそれは響いて、やがて唐突にぴたっと止まった。
次に、ユージンはぶるぶると震え出した。顔面は蒼白で、生気がない。はわなわなと震えて、なんでもない顔をしてパンケーキにフォークを突き刺しているエンブリオを指差しながら、口を死に掛けの金魚みたいにぱくぱくとさせ、
「リィが変だ――!!」
朝のマンションに、ユージンの混乱しきった悲鳴が響渡った。
「だから、朝から彼が変なんだ。甘い物をまずそうに食うし、なんだか喋ってるのだって自分のことじゃないみたいで……」
「そりゃあんた、からかわれてんでしょ」
ユージンのあんまりの狼狽ぶりに、何も聞かないまま『なんとかしてやれ』『じゃあ忙しそうだからオレはこれで』なんてふうに霧間凪を逃がしたレインは、死ぬ程不機嫌な顔をしていた。
それも当然だろう、なんにしろ本当に久し振りに会ったというのに、大体ろくな話もしてないじゃないか。しかも原因はこのバカップルだ。フォルテッシモと、ユージン。狂暴な怪獣大決戦。
「後で覚えてなさいよ」
「うう、だってああいうの、どういう反応をすれば良いのかわからなかったんだ。朝だって『俺は自由だ』とか大声で叫んでどっか行っちゃうし」
「あいつの突飛で奇怪な行為はあんただってもう見慣れてるはずよ、元パートナー。現単純馬鹿の介護士」
「そ、それにしたって変なんだったら!」
堂々巡りを繰り返している。
ユージンは余程恐慌状態に陥っているらしく妙に可愛い物言いをするし、レインは、これがあの最強の単細胞と二人きりでいる時の彼の口調なのだろうか、とか推測するだけで嫌になってしまった。
(今日は厄日だわ)
いつもは彼女が原因で、他人の運気を思いきり下げていたりするのだが、どうやら今日は逆らしい。
(大体あの女の携帯番号も聞いてないじゃないのよ)
頭の中で全然別のことを考えながら、レインはとりあえずひどく狼狽しているユージンの頭を撫でてやった。彼女の方が年下なのだが、体が全く成長しない合成人間のユージンは、いつまで経っても見た目が少年のままなので、つい相応の対応をしてしまうのだ。
「オーケー、こうしましょう。あんたはあいつがいつもと違うってのが気に入らないのね。じゃああたしが出向いてやって、あいつを見て「いつも通りじゃないの」って言ってやれば安心するのね?」
「なんだかちょっと違うような気がするんだけど……」
「まあいいじゃないの。敵の精神攻撃に脳味噌をやられるほど、あんたの最強はひ弱じゃないんでしょう」
「ぼくの、とか言うな。あいつ、怒るぞ」
「はいはい、じゃあ行きましょ。会計はあんた持ちね。人をトラブルに巻き込んで、折角友達と涙の再会をしていろいろ語り合ってたってのに、あんたのせいで台無しよ、もう」
レインが忌々しそうに、友達、再会、語り合い、の単語を出すと、ユージンは目に見えてしゅんとしてしまった。
「すまない、レイン」
「まあいいけど、これで済むとか思わないでね。次はランチとケーキのバイキングでも奢ってもらうわ」
「ううう」
項垂れてしまったユージンを猫の子みたいに掴んで引き摺って、レインは店を出た。
リィの姿は、それから三十分ほどで見つかった。これは彼の性癖を三分の一くらいは知り尽くしたと自負する(それは知り尽くしたって言わない、とレインは突っ込んだ)ユージンにしては、かなり時間が掛かった方だった。
いつもの彼の行きつけの店などを重点的に探していたふたりは、妙な肩透かしを食らうはめになった。リィ舞阪は、なんでか彼には死ぬ程似つかわしくない駅前の安っぽい蕎麦屋で、かけそばなんて食べていたのだ。
「ああ、やっぱり変だ。あいつがそんな渋いもの、口にするはずがないのに」
「たまには蕎麦でも食いたくなったんでしょ。別にどこもおかしくなんてないじゃないの」
「おかしいよ。あいつは蕎麦は嫌いじゃないけど、シンプルなかけそばなんて絶対に頼まないもの」
レインの後ろに隠れてしまっているユージンはびくびくとして、やっぱりリィが変だ、と繰り返していた。店の入口で突っ立ったままでいる訳にはいかないので、暖簾を潜って、レインは今日は珍しく薄紫色じゃなく、ジーパンとシャツにサンダルなんてありえない格好の最強の机に、どん、と肘を置き、ふてぶてしく言い放った。
「相席良いかしら」
「喜んでマダム」
「誰がマダムよ!」
がん!とテーブルを蹴り付けたレインにめんどくさそうに顔を上げて、リィはなんだと言う顔をした。
「よぉ、おじょうちゃんじゃねーか。友達か?」
「だからおじょうちゃんじゃないって」
「なんでユージンがおじょうちゃんで、あたしがマダムなのよ!」
レインの剣幕にも、彼は平然としていた。
「うるせーなァ。せっかく普通にメシを食えるって喜びを味わってるってのに」
「あたしをかったるそうにあしらうんじゃないわよ、この単純馬鹿!」
「えーと、あんたは、確か……ん? なんだって? 妖怪嘘吐き女? そりゃまたけったいな名前だなァ」
「あたしのどこが妖怪ですって」
「リ、リィ。あんまりレインを怒らせないほうが」
彼女の機嫌というより、実際には財布の中身を心配してのことだろう、ユージンが取り成すと、リィは「ああそう」と頷いた。
「レインか。確かに「妖怪」は良くない苗字だと思ったところだ」
「な、何言ってるんだ。おまえ、あんまりふざけるのはもう止めろ。おんなじMPLSなんだから、昔から顔なじみの知り合いだっただろう」
「そうなのか? いや、あの馬鹿は「冗談じゃない」って言ってるぞ」
「あの馬鹿って誰?」
ユージンが今にも掴みかかりそうなレインを抑えたまま、また途方に暮れた顔をした。
「ちょっと、離しなさい。一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まないわ。誰がマダムでオバサンで曲がり角よ!」
「リィはそこまで言ってないレイン」
それから彼らが落ち付くまで、大体五分ほど掛かった。具体的には、リィが悠々と蕎麦を食い終わるまで。
「ちょっと話があるんだ」
ユージンはそう言って、リィの向かいの席に座って、沈痛な面持ちで話しはじめた。レインはもう完全に臍を曲げて、窓際の席で頬杖をついて外を眺めている。
こういうところ、変にガキっぽいな、とユージンは思ったが、口には出さなかった。怖いので。
「えと、フォルテッシモ。一体何があったんだ。今日のおまえはやっぱり、どうしてもおかしいと思う」
頭の整理が少しばかり完了したようで、ユージンはきちんとリィを『フォルテッシモ』と呼んだ。リィはそれが少しばかり面白かったようで、ふと口の端を上げてにやっと笑った。
それはいつもの彼には似つかわしくない位、悪意に満ちたものだった。
(う)
それもなにか不満があるとかそういうのじゃなく、言ってみれば何十年も前からそうだったような、自然な――彼のそういう顔を見てると、ユージンは目の前の男がどうしてもリィ舞阪だとは思えなくなってくるのだ。
もし今彼が「人違いです」なんて言ってくれたら、すぐさまユージンはそれを受け入れるだろう。こいつ、絶対リィじゃない。
でも、だとしたらリィは一体どこに行ってしまったのだろう?
「まあ、あんたの言いたいことは死ぬ程良く解かる」
リィであってリィじゃない彼は、うんうんと頷いて、ユージンの心でも読んだみたいにして言った。
「でもまあ、今はちょっと遊び時間が欲しいんでな」
「???」
「めったにない開放的な気分ってことだ。まったく、毎日毎日あんなところに押し込められてて、頭がおかしくなりそうだったんだぜ? たまにはこうやって人間っぽい行動も取りたくなるってもんだ」
「それは、ぼくと一緒にいると、息が詰まるとかって意味か?」
ユージンが冷ややかに聞くと、リィは緩く首を振った。
「そういう訳じゃねー。オレはあんたがあの馬鹿にどれだけうざったいくらいラブってるかってことは見てると砂を吐きそうなくらい知ってるし、あの甲斐性なしのアホみてーなムッツリぶりも、嫌になる位知ってる。なにせ、考えてることが筒抜けなんだからな」
ユージンは他人事みたいなリィの口ぶりを頭の中で反芻して、解析した。ここまでくれば馬鹿でもわかる。
彼はやっぱりリィ舞阪じゃない。だって彼よりいくらか賢そうなのだ。
「おまえ、誰だ?」
ユージンは、口調を険のあるものに変えて、とげとげと言った。なら、もしかすると、こいつは――
「なんだ。どんな恨みでフォルテッシモに取り憑いたりしてるんだ。心当たりは死ぬ程あるけど、今すぐ彼の身体から出てけ悪霊」
「また悪霊呼ばわりかよオレ」
「うっわー、季節をちょっと外した怪談話ね。考えてみればあの馬鹿、いつだってシーズンをちょっと外しがちだと思ってたのよ、うん」
「マダ、いやおねーさん、変に納得しながら恋愛成就のお守りをオレに押し付けるのは止めてくれ」
「くそっ、あたしの恋のお守りが、おかげであの女に会えたのかも、キャッ、ホントに効くじゃない。とか思ってたのに、こんな妙なところで悪霊退散の役に立つことになるなんて」
「やっぱりMPLSって」
「ユージン!無駄口叩いてないでさっさとやっちゃいなさい。ほら、悪霊は苦しんでるわよ」
「了解」
「うわっ、なんかものすごい禍禍しい感じの波長だな、これ。おいおじょうちゃん、なんとかしてくれ。痛えって!」
「だからぼくはおじょうちゃんじゃないったら」
ぎゃあぎゃあと喚きながら騒いでいると、横手からふいに笑顔を引き攣らせた親父が現われた。案の定、場所をわきまえずにいたせいだ。彼は震え声でこう言った。
「お客さん、困るんですよねえ」
「…………」
「…………」
「ほれ見ろ」
やれやれ、と肩を竦めたリィに、大体あんたが原因じゃないの、とレインの拳骨が落ちた。
結局追い出されて、三人は店先でぽつんと突っ立っていた。
「あんたのせいよ、恥かしい」
「まあどうでもいいが」
「いつもなら『おまえのせいだ』とか言うのに」
ぼそぼそと言い合って、しばらく沈黙して、まず最初に口を開いたのはレインだった。
「あー、もう。付き合ってられないわ。大体あたし、怪談とか幽霊の話ってのはアホらしくて嫌いなのよ」
「アホらしいって、失礼な女だなァ」
「やっぱり否定はしないんだ」
「ユージン、あたしはもう帰るわ。そのお守りはあげるから、頑張って悪霊と戦いなさい。健闘を祈るわ、じゃ」
「あ、ちょっ、レ、レイン」
ユージンが慌てて引き止めたが、彼女は素早く姿を消してしまった。後にはリィだかなんだか良く解からないものとふたりきりで取り残されて、彼は途方に暮れた。
どうしよう? どうすればいいんだろう。とりあえず控えめに、ユージンはちらっとリィの方を見た。
その男はいつものリィ舞阪よりも幾分軽薄な雰囲気で、やはりそれはユージンにとってしてみれば、あんまり馴染みのないものだった。変な気がする。だって、見た目はリィその人そのものなんだから。
「ええっと」
「なんだ、おじょうちゃん」
「いや、まあ、その」
ユージンは肩を竦めて、ぼそっと言った。
「とりあえず、帰らないか。こんなところで突っ立ってるのもなんだし」
いつものマンションにリィを引き摺って帰ってきたは良いものの、なんだか気まずくて、ひどく居心地が悪い。リィはなんだか動物園の檻の中の珍獣を見るみたいな目で、さっきからずっとユージンを見ているし、そういう彼の視線に慣れないユージンは、なんとなく戸惑っていた。
やっぱり変だ。でもさっき大騒ぎしてたように、リィ舞阪に悪霊が取り憑いたとか、そういうことを本気で信じてる訳じゃない。彼は最強だから、そういうものが存在したとして、おとなしく身体を明渡すような男じゃないのだ。
とすると、なんだ。ユージンはいくつか考えてみた。
実はやっぱり人をからかって遊んでいる。
実はユージンが知らないところで存在した生き別れの双子の兄。それか、親戚。たまたま偶然街で似てる人を見付けて、気まぐれで入れ替わってみた。王子と乞食みたいに。
でも相手はどうやらユージンのことを知っているようだった。失礼なことにユージンを「おじょうちゃん」なんて呼ぶ。
「君、だれ?」
ユージンはとりあえず、彼を何と呼んで良いものか考えあぐねて訊いてみた。
ふりをするにしたって、リィはここまで演技上手じゃなかった。それは良く知ってる。なにせ、ろくな擬装ができないんだから。
それに、リィ舞阪ではない男をリィって呼ぶのは、なんだか変な気がしたのだ。
「いいかげんに答えろ。じゃないとぼくは、おまえをどう呼んで良いのかすらわからないんだ」
「取り憑いた悪霊だとか騒いでやがったくせによォ」
「まあそれもあるけど、一番ありそうだなって思ったのは、生き別れの兄弟か親戚がいたんじゃないかなって考えてみたんだ。リィは人間だからな。ぼくらで同じ顔をした者なんか見つけたら、それは型番が同じというだけだろうが」
「うん、面白い仮説を立てるなァ、おじょうちゃんは」
「だからおじょうちゃんじゃないって」
「まあ、あれだ。良く考えてみたら、オレはMPLS能力者の他の人間とは口を訊いたことがないんだってことになるんだろうなァ」
「おまえの言ってることは、いちいち理解できかねるんだが」
「まあ気にすんなよ」
「ううん、なんだかその顔でそうやって軽薄な受け答えをされると、妙な気分だよ」
ユージンが首を傾げて唸ると、目の前のリィはにやっと笑った。
(おい、おもしれーおじょうちゃんだなァ、おい。兄弟説が浮上したぞ)
(こんな人外と血の繋がりがあってたまるか。あいつ、変なところでズレてんな)
リィとエンブリオが内側だけで外には漏れない会話をしていると、ユージンは腕組みをして、でもやっぱり、と気が重そうに口を開いた。
「でも、無難に考えてみると、ただの二重人格なんじゃないかな。うん、そうだ。それがいい」
「自己完結させんなよ」
「だってしょうがないだろう。おまえはどういうことなのか全然教えてくれないし、だったら勝手にこっちで決め付けて、後はもうどっちでもいいよ」
「どっちでもいいって、どうすんだ、おい」
「もう寝る」
ユージンはひどく疲れたように席を立った。エンブリオは笑いを堪えるのが大変だった。早速あの『おじょうちゃん』の、ふて寝癖を拝めたのだ。
(ひひひ、生で見るとやっぱり面白いもんだなァ、これ)
(「生」とか言うんじゃねえ。貴様、ユージンに手を出したらぶち壊すからな)
(失礼だなテメーは。大体オレは胸がぺったんこでガリガリの乳臭いガキには、それも男だか女だかわかんねーよーなのは、守備範囲には――まあ顔はギリギリかなァ)
(入ってるじゃねーか! くそ、おい、元に戻せ。俺の身体を返せ!)
(ひひひひひ)
適当にリィをからかってやっていると、ユージンが怪訝そうな顔をして、エンブリオを覗き込んで来た。
「なんだ、ぼーっとして」
「ん? ああ、いや、なんでもねーよ。なんでもな」
そうして、ひひひ、と意地悪く笑うと、ユージンは益々困惑したようだった。彼は額を痛そうに抑えて、ゆっくりと頭を揺らした。
「もうさっさと寝るよ。いや、冬眠する。二日したら起きるから、その頃には何もかも元に戻ってるといいな」
「そのままだったら?」
「また二日冬眠する」
そっけなく言って、ユージンはベッドルームに消えてしまった。取り残されたエンブリオは、なんとなくぽかんとしてしまった。
「いっつもああなのか、おじょうちゃんは」
(貴様だって知ってるだろうが)
「そうなんだが――さすがに生で見ると唖然とするよな。若者はもうちょっと元気な方が良いと思うぞ」
まあどうでもいいが、と呟くエンブリオに、心の内から(若者ってのはなんだ)と冷ややかな突っ込みが入った。
だがユージンの機械的な眠りは、数時間で破られた。
「腹が減った。おい、なんとかしてくれよ、おじょうちゃん。オレはこの空腹っての、死ぬ程苦手なんだよ、なァ」
声は耳元でさんざん喚いているうちに、なんだか哀願に近くなってきた。
(うるさいな)
顔を顰めて寝返りを打って、枕を耳に押し付けても、彼――ユージンの身体を揺さ振っているリィもどきは離してくれないようだった。しきりに空腹を訴えている。うるさいったらない。
「ああくそ。もう、たまんねーな、こりゃあ。どっかで食い逃げでもするしか……」
「待て」
さすがにユージンはがばっと飛び起きた。
「…昨日のシチューの残りでいい?」
「サンキューおじょうちゃん。上等だ。愛してるぜー」
「その顔で愛してるとか言うな」
そっけなく突っ撥ねて、ユージンはいそいそと、眠気を振り払いながらキッチンに向かった。
コーンと鶏肉のクリームシチューに、彼はどうやら泣きそうなくらい感激しているらしかった。
「うん、うめー。あんたってこれならどこにでも嫁入りできるぞ」
「それはどうも」
そういうことをリィの顔をした男に言われるのって、なんだか妙な気分だ、とユージンは思った。勝手にどこへでも行ってくれ、というような、これは寂しいとかいうのだろうか?
微妙な顔をしていると、どうやらリィもどきは気がついたらしく、ああ、そういうんじゃない、と言った。
「なんだ、別に将来の夢はお嫁さん、とか抜かす歳でも立場でもねーだろ」
「そんなじゃない。大体そういうの、人間がやるものだろう。ぼくは合成人間だから、あんまり関係ない」
「ならなんで凹んでんだ?」
「別にそんなことない。さっさと食べろ。食事中に話し込むなんて、行儀が悪い」
「行儀良いも悪いも、あんたはそーいうことを気にするような奴じゃねーだろ」
「うるさいな。それよりも、ぼくはおまえを何て呼べば良いんだ?」
「ああ、オレはエンブリオだ」
ユージンは投げやりに、煎れたばかりのコーヒーをスプーンでぐるぐると掻き混ぜた。どうやら食事を終わらせたらしい自称エンブリオをじっと見つめた。
「それで、リィはどこにいるんだ」
「心配か? 問題ない、元気いっぱいだ。あいつはちょっとのことで動じたりパニクったりするよーなタマじゃねーみてーだからな、からかい甲斐がないことに」
「だから、どこに行ったんだったら」
「うん、今ちょうどさっきからエンドレスで、俺のメシが、とか喚き散らしてるぞ」
「さっぱり訳が解らないんだけど」
はあ、と物憂げに溜息を吐いて、ユージンは考え込んだ。やっぱりこれは二重人格だ。
なんで今日いきなりこういうことになったのか、さっぱり原因は解からなかったが、そう言えば最近のリィ舞阪はちょっと妙な癖があったのだ。なんだか誰も居ないのに、人がひとりそこにいるような感じで話し込んだり怒鳴ったり、どうやら彼にはユージンには聞こえない声が聞こえているらしかった。
最初はちょっとばかり戸惑ったけれど、突き詰めてしまえばどうってことない。つまるところ、リィが一人増えたと思えば良いのだ。それはそれで洒落にならないくらい厄介な事態なのだが。
一人でさえ手に余るというか、いっぱいいっぱいどころか振り回されっぱなしで大変なのに、分裂して二人になっちゃって、ああでも身体もいっしょくたに分裂して、二人いっぺんに現われないだけましだと思うべきなのだろうか。
「あんたの頭の中で、最強はアメーバと同列なのかよ」
どうやらその口の中だけでの独り言は、途中から知らない内に音になっていたらしく、エンブリオはひでーな、と言いながら突っ込んできた。
「別にそういうつもりで言ったんじゃあ。単細胞生物なのは確か、ってレインなら言うだろうけどな」
「あんたも十分そう思ってるだろ」
「ほんのちょっとだけ」
「無理すんな。オレも思ってる」
「そう」
俯いて、ユージンは力なく項垂れた。悪い夢でも見ている気分だった。
「それで」
「あん?」
「いつ元に戻るんだ」
「さっぱりわからん」
「するとつまり、これからもしかして、リィの替わりにおまえがずっといるかもしれない、ってことなのか」
「どうだろうなァ」
「冗談じゃないぞ」
頭が痛い。眩暈がする。
「元に戻れ。おまえは引っ込め」
「ひでーなァ」
「嫌なら無理矢理にでもどうにかしてやる。ああ、もう、冗談じゃない。喧嘩もしないし甘い物も食わない、ろくでなしじゃないリィなんて、全然駄目だ、そんなのはおかしい」
「あんたは悪趣味だと思うぞ」
「うるさいな。自覚はあるんだから、おまえに言われる筋合いなんてない」
そうして、ユージンは目の前でのんびり呆れた顔なんてしているエンブリオの胸倉を引っ掴んだ。
「な、なんだ?」
「ともかくまず分析だ。それから対処法を考えよう」
「ま、待て待て。早まるな。あんたのそれは、かなり捨て身だと」
「黙れったら」
ぐっと顔を突き合わせ、額をくっつけてじいっと睨み付けると、彼はなんだか後ろから誰かにどやされているみたいなうるさそうな顔をした。
(うわああっ、何やってんだー!)
(うるせェなー。ギャーギャー騒ぐ元気があるなら、このおじょうちゃんをどうにかしろ)
(しかしあいつもあいつだ。誰彼構わずこーいうことを、うわーもう許せねえ)
(ちゃんと調教しとけよ、こーいうのは)
(ちょ、調教って貴様ユージンを犬か猫だと。うわ)
(あー、今妙な想像しただろーテメー)
(殺す!)
頭の中がどれだけ騒がしくても、なんだか大変なことになっている現状がどうにかなるわけじゃない。ユージンの顔は間近に良く見えるし、彼はこれが事務的な行為――リトマス紙を薬品に浸したり、そういうのと同列に扱っているのだろう――だと思っているようで、別に顔を赤く染めたり、目を逸らしていたり、そういう可愛いこともない。
例えばこれがリィ舞阪相手だとすれば、なんとなくまた別の反応がなにかしらあったりするのだろうが、ユージンは無表情のままだった。気に留めて意識するものが、彼の場合限られているようだった。あんまり容量は多くないのかもしれない。
そして、それ以外は本当にどうだって良いようだった。しかしまあこうやって迫られている本人、エンブリオにしてみれば、割と大事だった。
キスのひとつやふたつで騒ぐほど子供じゃない――気がする。もっとも自分がいくつなのかエンブリオは知ったことじゃなかったが。問題は、後ろで喚きまくっている最強だった。
(貴様、絶対殺す! ぶっ壊す! 蛍光ピンクに染めてやる!)
(ピンクはやめろ馬鹿! こりゃあオレのせいじゃ、どう見てもねーだろーが)
(ああくそ、ユージンの奴もだ、馬鹿め!お仕置きだ。後で口では言えないよーなあんなことやこんなことをしてやる)
(いや、それはまったく構わねーぞ)
「どうした? 硬直して」
不思議そうなユージンの声に、エンブリオははっと我に返った。
「あ、あー、なにがだ?」
「口を開けろ。すぐに終わる」
「だからなァ、あんたは自分をもっと大事に――」
「は?」
「誰彼構わずキスなんかして回るよーだと『リィ』が泣くぞ」
「これは分析だ。あ、ああいうのと一緒にするな」
ユージンは顔をちょっとだけ赤くして、非難がましげに言った。その顔はガキっぽく、まあ可愛いと言ってやっても良いだろう。
(おじょうちゃんって、アレだな。いじめてやりたくなるタイプだろう)
(なんで俺に聞くんだ)
(おまえに聞くっきゃねーだろ、こーいう場合)
「ともかく、どんな手を使ってもリィに戻してやる」
「ああ、俺も今はものすごく交代して欲しい状況だと思う」
エンブリオは正直に言った。生体情報を残らず持ってかれるようなこの状況でときめけるのは、余程の馬鹿かリィ舞阪本人だけだと思うのだ。
「実はとても困ってる」
「何故?」
「あんたはなァ」
エンブリオは、彼にはあまりないことだが、非常に困り果てた。言葉が上手く通じないのだ。この冷静そうでいてイノシシみたいな突進癖があるおじょうちゃんには。
(まあいいか。大騒ぎするほどのことでもねーし)
(するほどの事だ!)
(いーじゃん、どーせテメーの身体なんだし)
(そういう問題じゃねー!)
(心配しなくても、感触はちゃんと伝わるから安心しろ)
(は?感触? おい待て、じゃあ貴様、もしかして今まで――)
(あ。失言だ)
(貴様――!)
(もう、うるせーなァ。ガキか。静かにしてろ。おじょうちゃんがどうにかしてくれるってんだからよ)
「そういう訳で、さっさと終わらせてくれ。あんまり引っ張るとあの馬鹿、泣いちまうかもしれねーからな」
「え? あ、ああ、うん」
しばらく目を閉じていたかと思えば、急に達観したように落ち付いて言うエンブリオに、ユージンは戸惑いながら頷いた。
「じゃあ口を開けてくれ」
「はいはい」
半ばやけくそのような気もするが、エンブリオはユージンの言うとおりに任せた。歯医者か何かだと思えば良いのだ。
そうしてユージンは視覚からの情報を遮断するためだろう、目を閉じて、唇を寄せてきた。
(あ。可愛い、かも)
こうしてると、顔だけ見てると一般的な可愛らしい女の子にも見えるのだから、そう思い込めば良いのだ。だとすれば可愛い子に迫られて、慌てふためいたり後ろからどやされたりする必要もないはずだ。
要はイメージなのだ、うん。エンブリオは手を伸ばした。こういうのはノリだ。しゃーねーだろ、なぁ。
(――ざけんなぁああッ!!)
一際頭の中に、耳鳴りがするくらいの怒声が響き渡った。こいつは俺のもんだとか、許さねえとか殺すとか、そう言った感情がびしびしとぶつかってきた。
(あ、痛て)
(ユージンに手ェ出すんじゃねえ!)
大体がふらふらしている意識を、引っ掴まれて後ろに放り投げられるようなリアルな感触の後、眩暈を覚え、目の前が白くなり、そうして――。
そうしてリィが焦点を取り戻すと、目の前には現実の感触を伴ってユージンがいた。
「……この馬鹿!」
「うわっ!」
乱暴に肩を掴んで引き寄せて、まだ状況が把握できていないユージンを抱き、リィは目を閉じて顔を寄せていた彼の唇に噛みついてやった。彼がそうする前に、舌を差し込んでやった。
ここだけの話、キスならユージンの方が上手い。あんまり彼の思うようにさせてばっかりっていうのも面白くない。そして、今はそれどころじゃないのだ。
「ん、んん……っ!」
ユージンはじたばたと暴れて、離れようと努力しているらしかったが、リィが死ぬ程恥かしいのを堪えて彼の目をじいっと覗き込んでやると、あっさりと静かになった。
どうやら理解したらしい。長い間掛けてユージンの口腔を舐め回してやって、ようやく離すと、ユージンはへったりと気が抜けたように座り込んだ。
「リィだ」
ユージンは、先ほど分析をすると言い出した時の能面をどこかにやってしまって、赤い顔をして、はー、と息をついた。
「なんでわかるんだ」
「こんなこと、大真面目にやるのはおまえくらいしかいない。その、ぼくなんかに触って嫌そうな顔をしないのは」
「どういう理屈だ」
「ぼくだって知らない」
ユージンは非難がましい顔でリィを見た。だけれど、リィにしたってそれは同じようなものだった。
「この阿呆、誰彼構わず分析は禁止だっつっただろうが!」
「だってぼくにはそれが一番何もかも理解できる能力なんだ。こ、こういう恥かしいのとは別に、立派にちゃんとひとつの能力なんだ」
「何がなんでもこういうことは駄目だ。おまえ、全然わかってないだろ」
「わかってたまるか。大体なんなんだ、急に別人みたいになっちゃって、名前はエンブリオだとか言うし、妙に軽薄そうだし、もしそのままずうっとあんな感じなんだったらぼくはほんとにどうすれば良かったんだよ」
「どうすんだ?」
「途方に暮れるしかないだろう。ぼくは君らしい君が好きなのに、ああ、いや――」
ここで、彼はこほっとわざとらしい咳払いをした。顔が赤いので、どうやら恥かしいらしい。口が滑ったのか。
そして、それはリィだっておんなじことだった。
「その恥かしいストレートな口の訊き方、もうちょっとなんとかしろ。こっちまで恥かしい」
「う、うるさい。おまえなんか嫌いだ。わがままだし身勝手だし、昔からそうなんだ。一番強いからって、世界の王様だとか思ってるんだ。自分の他はみんな下僕かなにかだと思ってるんだ。好き嫌いは多いし乱暴だし、もう馬鹿のくせに」
「うるせえな」
「でも一番腹が立つのは、そーいうのを『おまえらしい』で片付けちゃえるぼくなんだよ。あぁあ、ぼくはいつからこんなに悪趣味になってしまったんだろう。冷静な判断ができなくなってるんだろう? 『そーいうところも好き』なんて思うのって最悪だと思わないか?ああもうリィ、こーいうの、どうすればいいんだ」
「そうやって本人にのろけるのはやめろ……」
リィはがっくりと膝をついた。ユージンはかなり混乱しているようで、思ったことをそのままに出しているような感じだった。率直さが非常にたちが悪かった。
「おまえは一体俺にどういうリアクションを求めてるんだ」
「そんなこと言ったって」
ユージンはそこで言葉を途切れさせ、目を瞑った。しばらく頭の中でいろいろとこんがらがってしまっている物事を処理しようとしているのだろう。
次に目を開いた時、彼かもういつものユージンだった。
「それで、つまりどういうことなんだ」
今までの慌てぶりが嘘のような平静な声で訊いてくるユージンにリィは、ああ、こいつはこーいう奴だったな、と改めて理解した。変な奴なのだ。
「――だから何度も言ってるだろう。別にいつもと変わりない。たださっきはちょっと、あの無生物がはしゃぎすぎたようだな」
「本当に問題ないのか」
ユージンはいまひとつ信用できないのか、うさんくさそうな目で手を伸ばして、リィの頭を撫でていた。
「このガキにするみたいなの、やめろ」
「今度はもう絶対に、ああいう変な人格が出てくるなんてことはないだろうな」
どうやらユージンは、リィが多重人格症状を現したものだと思っているようだ。
確かに彼のようにエンブリオの声も聞こえず、突破もしない人種にしてみれば、そう納得するのが一番早いだろう。至極わかりやすいし、簡単だ。しかしそれを放ったままにしておいて良いのかどうか、ユージンは悩んでいるようだった。
リィはそっけなく、彼に言い含めた。
「問題ない。対処はしたからな」
「どういう?」
「内緒だ」
「まあ、いいけど。ところでリィ」
「なんだ?」
「その、手の中にある愉快なペンダントはなんのつもりだ?」
「気にするな」
真っピンクのラメカラーに塗りたくられたアンク十字架を適当に放り上げて弄びながら、リィはユージンの目をじいっと見つめて、言った。
「おまえ、もう絶対対人での分析禁止だからな。今度やったら舌を切り取ってやる」
「それは困る」
「なら、するなよ」
まだ承諾はしていなさそうなユージンの顔をじろりと一瞥して、リィは頭の中だけで響く声に耳を傾けた。どうやらかの生命体は、ひどく機嫌が悪いようだった。
(なんかオレの外界デビューはとんでもなく引っ掻き回されたものだったみたいだぞ)
(うるせえ。勝手に人の身体を乗っ取りやがって、この悪霊)
(やっぱりオレはこっちのが落ち付くよなァ。蛍光ピンクだったり、リボンなんか巻かれてたりしなかったらだが)
(似合ってるぞ)
(うるせーよ馬鹿。くっそー、それにしてもおまえ、良くあのおじょうちゃんの相手なんかできるな。突拍子がないっつーか、あんまり目の前にいると落ち付かねー)
(今まで散々人のことを笑いやがって、見てみろ。貴様だって当事者になってみりゃあ解かるだろうが)
リィは指先で十字架を摘み上げた。エンブリオはふてくされているのだかなんだか、いつもよりも無口だ。
「ほんとにもう何もないのか」
ユージンが見上げてくる。これは心配しているというよりも、ただ単純に疑わしいといった仕草なのだろう。
大体彼がリィを心配するなんて事態だったりしたら、そいつはリィにとって更に混乱するべきものなのだ。上目遣いのその顔は妙に可愛らしかったが。
「何度も言わせるな。もう問題はない」
「そうか。ほっとしたよ」
「ふん」
目を閉じて涼しく言うユージンに適当に頷いて、リィは新しく入れ直してもらったミルクティーをあおった。
(大体今回のことは何だったんだ)
彼は自問した。心の中だけの声のはずが、そいつにはさも当然のように答えが返って来た。
(うん、まあなんだ。実はだな)
(ああ)
(なんかオレはちょっとだけ成長したようなんだな)
(あん?)
(長い間テメーの首からぶら下がってるうちに、どうやらこうやって波長を合わせると――)
(ああ)
あまり気を入れずに頷いた途端、急激に視界がぐるっと回転して、リィは何が起こったのかわからないうちに目の前の光景がなんだか、ガラス一枚隔てたように感じられるようになってしまった。
これは、もしかして、まさか、いや間違いなく、さっきまで見ていた光景だ。押し込められたようなちょっとした窮屈さと、それから――。
(ちょっと待て)
(こんな感じで、入れ替われるようになっちまったようなんだなァ)
(おい待て)
(ちなみにペンダント、捨てたって無駄だからな。拾って持ち主に届けてくれる、親切な黒い奴がいるんでなァ)
(どういうことなんだ!)
『リィ』の顔はそうしてにやっとあまり覚えのない笑い方をして、テーブルに肘をつき、面白そうにユージンを見上げた。
「まあそんな訳で今後ともよろしくな、おじょうちゃん」
ユージンはしばらく変な顔をして呆けていたが、やがて理解が追い付くと悲鳴を上げた。
「また出た――!」
「人のこと幽霊か化け物みたいに言わんでくれよ」
「うわああっ、もう、おまえの言うことなんか信じるもんか。もう問題ないとか言ったくせに!」
(それは俺だってそー思いてえっての……)
げっそりとしたリィの声が頭の中で響いて、エンブリオはまあこーいうのも悪くねーだろ、と言いながら、ひひひ、と笑った。
(このおじょうちゃんの扱い方にも、どうやら少しは慣れなきゃならんみてーだしなァ)
(だからそいつには手を出すなと言ってるだろう、貴様!)
「そんな感じで、うるさいのはほっといて、まあよろしくな、おじょうちゃん。仲良くやろうぜ、ん?」
「だ、誰が。ぼくはおじょうちゃんじゃない!」
たまにくらい、こーいうのも悪くないだろう。ぴりぴりと毛を逆立てた猫みたいな風体のユージンの頭を軽く撫でてやりながら、エンブリオはろくでもない顔でにやっとした。
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