【 目次にもどる 】
1
赤茶けた錆と潮と入り混じった鉄臭い匂いが立ち込めていて、「それ」はくらくらとした。
時折海面上に浮かんでいる、あの鉄の鯨の尻尾のような「船」にいつもくっついている尖って大きな鈎針が胸の下から生えていて、夕焼けをもっともっと色付かせたくらいの、目に痛いくらいの赤がそのまま水に溶けたみたいになって、とろとろ、どろどろと零れていた。
強張った下腹部に自然力が篭った。二股に分かれた尻尾を持った生き物が何体もそこにいて、水もないのに平気な顔をして動き回って、捕食を行うための器官から大きな音を出していた。
今であっても何を意味する信号だったのかは解らない。そうしてそれからは身動きひとつするのも億劫なくらいに狭い瓶の中に水ごと閉じ込められて、来る日も来る日も「それ」はここにいる。ずっと。
怪談話がある。
その名もない私立病院の地下は研究所になっていて、そこにはいくつもの巨大な檻や水槽がごろごろしていて、中には見たこともない生き物たちが押し込められているというものだ。実験で創り出された人造生命や、怪奇ファンが涎を垂らして喜びそうなUMAの類が、身動きすらできない檻の中で自由を渇望して慟哭して、その痛みすら感じる叫び声はこうやって今吹き抜けの通風孔から空気と一緒にすごい勢いで流れていくのだ。
看護婦が昼間詰め所で、カップ麺をふやかしている間にそんな話を殊更おどろおどろしく囀っていたのを、リィ舞阪は偶然耳にした。
確かにすごい音は黒い穴から絶え間なく零れてきていて、リィは耳が痛くなってきた。人の声も聞こえる。
だがそれは見知った医者のお弔いの声だったり、看護婦の愚痴だったり、ようするに建物全部の音が空気のついでにくっついて投げ出されているだけの、ただの普通の音だった。
リィはまだ子供だった。来月でちょうど7歳になる。
つい先日、階段でこけて軽い捻挫を拵えてしまって、リィはなんでもないと言い張っているのに怖い顔をした大人達が有無を言わさずこの病院に放り込んだのだ。
消毒液臭いし周りは棺桶に下半身突っ込んだような年寄りばかりだし、当たり前だが跳ね回ると怒られる。面白くないことばかり、どうやってこう集めたのか不思議なくらい辛気臭い病院の建物は、雨水が浸蝕しているのかところどころ色の変わった外壁に覆われていた。
元々は綺麗で変わった形の、目に面白い形をした丸い建物は、過ぎた歳月のせいでただ淀んだ老人みたいにくたびれてそこにいた。
だがその中にあっても、中庭だけは別だった。日の光がさっと射すと、それは天蓋に巡らされたガラスを透過して、赤茶色の煉瓦の上でゆらゆらと揺れた。蒼い小さな芽を出した植物が煉瓦を迂回して顔を覗かせて、ベンチも夜になると灯る電灯ももなにもいっしょくたに、その場所を巨大な花壇にしていた。
リィは割とその箱庭が気に入っていて、少しばかり時間が空になると決まって売店で買った好物のクレープを手に、うとうととひなたぼっこをするのだ。
その日はいつものように晴れていた。真上に上った太陽がガラスに向かって過剰な輝きを見せ付けてくれて、さすがのリィもあまりの眩しさに辟易して、手に持ったクレープを口の中に押し込んでしまうと、立ち上がって日陰を探して中庭の、背丈の高いリンデンバウムにもたれかかった。
「――それ、嘘だろ黒田さん」
急に人の気配を感じて、リィはびくっと体を強張らせた。おかしそうにくすくす笑うのは、リィとさほど歳の変わらないだろう少女だった。
張り出している木の根っこに腰掛けて、へんてこな真っ黒な格好をした男を見上げて、腹を折り曲げて笑っている。
「絶対嘘だよ。そんなのこんな所にいるわけないって」
「最近の子供には、夢もユーモアもないんだなあ」
「子供は忙しいからね。大人の黒田さんみたいに昼間っから夢なんて見てられないよ」
けらけら笑って、少女は黒い男の革靴をこつんと軽く蹴飛ばした。
「いるはずないよ。それに結局魚でも人間でもないんじゃどこにも住むところなんか無いよ」
「人魚姫って童話、読んだことあるだろう?」
「オレあの話嫌いなんだ。辛気臭くって、それこそ夢も希望もないしさ」
「うーん」
それからも他愛ない話を続けて、男と少女は行ってしまった。親と子供くらい歳は離れているのだろうが、だが親子には見えなかった。
リィは木漏れ日に顔を射されながら、木の幹に凭れかかって彼らの会話を口の中だけで反芻した。
人魚。
人魚姫。
外国の童話。リィにとってはガリバーも人魚もハーメルンの笛吹き男もおんなじようなものなのだけれど、この際その辺りのことを不問にしても、ただひとつむくむくと沸き起こってくるものがあった。単純な好奇心だ。
まだ6歳のリィにとってしてみれば、「それ」がいれば彼の探求心は大儲けであるし、いなくたって地下を探検する良い具合の口実になる。信じてやるわけではないけれど、後で自慢してやれるような話は、この先この病院ではそのくらいしか思い付かなかった。
黄色と黒のテープで「この下物置、立ち入り禁止」にされている下りの階段に、夜になってからリィはやってきた。昼間は目ざとい看護婦に何度も摘み出されて、満足に動けなかったのだ。
音を立てないようにスリッパは脱いで裸足だ。ぺたっ、ぺたっ、と汗で肌が階段に吸い付く足音が立つ以外は音もなく、リィは地下へと降りていった。
物置だなんて嘘だろうと思ったのだけれど、ドアを開けたそこは文句もなく、意気を挫くのに十分なくらいに物置だった。
あの恐ろしい注射針の折れ曲がった針や紙切れ、あとはモップなどの掃除用具、それから何故かは解らないが、白髭危機一髪がダンボールの上にぽつんと置き去りにされていた。
ナイフを樽にぶすぶすに刺された白髭が、引き攣ったみたいな笑顔を絶えず浮かべている。気持ち悪い。何か戦利品になるようなものはないかとごそごそ床を這い回ってみても、埃が全身にまとわりついてくるだけで特別なものは何もない。
つまんねえ、とリィは唇の先を尖らした。一人部屋の宛がわれた病室に戻ろうとして、ふいにリィは硬い靴が床を叩く音を聞いた。
足音だ。誰か近付いて来る。とっさにリィは哀れな白髭を押し退けてダンボールの中に潜り込んだ。
◇◆◇◆◇
「――それで、どんな具合だ?」
「はい、変わらず何もありません。ずっと目を閉じたままで、眠っているのか脳波を計ろうにも――いや、そもそも検査をしようにもなにぶん、あれですから」
「そうか。大事な客人だ、これ以上手荒なことはしなくていい。今夜一杯この病院で保管して様子を見ていろ。明日の昼には研究所に移送する」
「はい」
低く命じて、彼は物置場の一角の棚で隠れてしまっているボタンを無造作に押した。
寺月恭一郎、年齢は三十代中後半に見える。
彼のMCEは医療機関、生物研究、その他手を出していない種類のものはないほど、あらゆるものに姿形を変えて潜り込んで拡大している大企業だ。そんなものを統べる彼は、今は場違いに穏やかな、たとえば怪獣映画を観にいく子供みたいなわくわくとした上機嫌さをほんの少しだけ食み出させた微笑を浮かべていた。
押さえ付けられて引っ込んだボタンが赤く点滅して、雑多に散らばった紙やゴミが揺れる振動が一瞬だけ物置に透過して、そうして少しずつ床が音もなく滑るように垂直に降下しはじめた。
「一昨日も昨日も昼間は眠ったままだったところを見ると、あれは夜行性かな」
「いいえ、昼夜問わず目を覚ましません。あるいは起きているのかもしれませんが――」
「なんだ」
「いや、馬鹿馬鹿しい限りの空想なんですが、もしかするとあいつ、ああいえあの生き物は、冬眠しているのではないでしょうか。例えば熊や、そんな――」
「傷を癒すためにかね」
「ああ、ええ、そうです」
自信の薄そうな男の声が降下が止まると同時に途絶えた。
「本人に聞ければ一番良いんだけれどね」
「ご冗談を。半分魚ですよ? あれは」
「少なくとも、私は彼女に理性と知性が存在するように見受けるが、それは贔屓目なのかな」
しばし言葉を交わしていた彼らは、そうして目の前に現れた細長くて白い通路に足を踏み出した。
その時ふいに、背後からごとごとと、何かが暴れるような身じろぎしたような音が耳に響いた。
「――?」
揃って振り返った先には何もない。いや、たったひとつ、ずっと同じ顔で凍ったままの白髭が、横倒しになった樽の中から卑屈な笑みを投げ掛けていた。
「これが倒れたのか」
「誰がこんな所に持ち込んだんでしょうね」
「ふむ。それはそうと、これに彼女はどんな反応をするだろう。ウケるかな、景山君」
「ああ……いや、それは……」
◇◆◇◆◇
二人の男が行ってしまうと、リィは注意深く辺りを見回して確かめると、ダンボールから頭を生えさせた。
――怪しい。
顔を出した先は、さっきまでいた病院の階層をそっくり移してきて、使い道だけを取り替えたような構造だった。やっぱりこういうの、何かあるに違いない。
リィは静かに壁の陰に隠れながら、ふたりの怪しい男たちを追った。
◇◆◇◆◇
ガラスの箱だけが整然と並んだ区画、その外れにひとつだけ小さな水槽がぽつんと存在した。広い部屋にただそれだけ、みっしりと給水、濾過、薬品注入、酸素混入、そんな色々な目的で分厚いチューブが挿し込まれて、それは不恰好なホルマリン浸けの標本にも見えた。
人一人ようやく押し込められる広さの空間には、ふわふわとした生き物が漂っていた。大きさは小柄で華奢な少女程度、その上半身もそんなようなものなのだが、しかし下半身だけは根本的に哺乳類には相容れない形を晒していた。
平たく言えば、人間の胴体をぶった切って、鮮やかに染められた鮫の尻尾をくっつけたような姿をしていた。それはひどくアンバランスに見えて、しかし実際には造り物めいた整った綺麗な顔立ちのおかげで、まるで絵本からそのまま出てきたような、今ある現実を薄めてしまうそんな魅力があった。
それは目を閉じて、ぴくりとも動かなかった。綺麗なきめ細やかな肌には、たったひとつだけ、腹部に目を引くほどの大きな青紫色の痣があった。
信じられないことに、数ヶ月前までそれは肉を抉って内臓にまで達する致命傷になる筈の傷だったのだ。初めてそれを見た幾人かの人間、魚を採って暮らす漁師たちは恐怖した。逃げもせず寄りもしないそれに、捕鯨用の銛で攻撃を仕掛けたのだった。
無理もない、伝説ではその生き物は美貌と歌声に魅入られて引き寄せられた人間と船を海の深く深くまで沈めてしまうともっぱらの噂だったからだ。腹を裂かれて呼吸をやめてしまったそれを、彼らは恐々と拾って博物館に売りつけた。
肉を食えば永遠に生きられるとか、そんなデマを間に受けて、解体してしまおうとした者もいたのだという。
人魚だった。御伽噺に出て来るような、はっきりとした美しさを持っていた。
「こんばんは」
声を掛けても反応すらしない人魚に、男は苦笑した。高額で買い取ったのは良いものの、このままでは本当にただの標本になってしまいそうだ。
「今夜も、君は美しい」
人間のお世辞などなんにもならないだろう。第一、この生物たちに美という感覚が存在するかなど知らない。
彼はお手上げだと言わんばかりに唇の端を吊り上げて、肩を竦めた。
「先に少し他の生物も見てこよう。彼女の話し相手になりそうなものがいるかもしれない」
「はい」
「インスマウスか、いや海に棲むものならなんでもいいだろう。案内してくれ」
そうして、彼らは部屋を後にした。
男たちが部屋を後にするのを見届けると同時に、リィは素早く部屋の中へと入り込んだ。そうして、その正面にある水槽を見て、水の中にいるその異形を見て、ぽかんと口を開けた。
そうして、
「おいおまえっ! こっちむけよ、こっちっ」
小柄ならではの、それでも乱暴な拳で、リィは力任せにガラスを何度も叩いた。
人の顔をした魚がいる。人魚だ。本当だ。まさか本当にいるとは思わなかった。
あんまりにもリィがうるさく水槽を殴るから、それは少しうっとおしそうに眉を顰めた。
「おい、きこえてんだろ。 ムシすんなよ、こっちむけって、なあ」
リィは顔面をいっぱいに水槽に押し付けて呼び掛けた。
きいきいした声がガラスを震わせて、何度も揺さ振られて水が揺れる。人災に、さすがの石みたいに固まっていた人魚も根負けしたらしかった。
彼女は薄く目を眇めて開けて、一瞬、きょとんとしたように目を丸くした。
「なんだ、コラ」
ふいに身を捩って、それは口元を覆った。おかしくてたまらない、そんな感触の見慣れた感情表現だった。
人と同じ反応をしてくれるそれに、ただ訳が解らずリィは不貞腐れたように膨れた。
「おい、なにがおかしい。なんでわらう」
控えめに懸命に笑みを堪えていたそれは、ふいに能面になった。
「……?」
綺麗なブラウンの目をしている。それはまるでリィに興味を持ったように、じっと見つめてきていた。
「う」
子供とはいえ、裸の少女に見つめられるのは少々具合が悪い。しばらくそのままじっと見つめ合っていて、急に人魚は視線を逸らした。
何から何まで訳がわからないその生き物に、リィは混乱し始めた。
「な、なんなんだ、テメーはっ!」
苛立ちまかせにリィは水槽から伸びているチューブを蹴っ飛ばした。
――柔らかいそれはすぐに破れた。結果、得体の知れない薬品を撒き散らして床に落ちたチューブは本来の役目を果たさなくなって、注入される圧力が変わってしまった水槽の内部はぎしぎしと軋み始めた。
『……!』
「な、なんだ?」
びし、びし、と卵が割れるみたいに、ガラスに大きな罅が入っていく。満たされた液体にも変異が生じたのか、人魚は苦しそうに咽を押さえて体を折り曲げた。
「お、おい! どうした?」
リィは慌てて水槽をがんがんと叩いた。何故か、この人魚がこんなふうに苦しそうな顔をしているのを見ると、途端に耐えられなくなってしまったのだ。
「おい――」
罅は増え続けていって、ついにその時が来た。鼓膜にガラスごと突き刺さるような激しい音を立てて、内部から破裂するように弾けたガラスは破片になって、ばらばらになった欠片がリィに降り注いだ。
「う」
リィは目を瞑って、次の瞬間に突き刺さって来るだろう尖った痛みに備えた。
だが、そんな痛みは来なかった。恐る恐る目を開けてみると、柔らかい感触がほっぺたに触れた。
白くて、柔らかくて、でも骨みたいな感触もする。訳がわからなくて、リィは触れているものに手のひらで触れた。
白いその中で一層柔らかな薄桃色をした斑点にぺたぺたと触ると、びっくりしたようにそれはぴくっと震えた。胸だ。それに気がついて、リィは顔を上げた。
まず見えたのは、何を考えているのか解らない能面だった。
次に、ぽつぽつと零れる赤い水滴が見えた。鉄みたいな、潮みたいな匂いがする。
尖ったガラス片に突き刺されて、無表情で人魚がリィを抱き込んでいた。庇うように、胸に抱いて。
「おまえ……」
リィが何も言えないうちに、それはこつりと柔らかに額を擦り付けてきた。
冷たい。ひんやりしたものを完全に認識しないうちに、リィは次に唇に似たような、しかしもっと柔らかなものが触れたことを知った。
キス、された。
「――――ッ!?」
それも子供っぽいキスではなくて、舌を絡めて深くまで繋がる大人のディープキスだ。リィが目を白黒させている間にも、口の中に入り込んできた舌が歯の裏まで舐め回して息ができない。
「んー! んんっ!」
じたばた暴れると、ようやく人魚はリィを解放した。
「な、なっ、な」
リィは真っ赤な顔で口をぱくぱくさせた。酸欠もあるが、それより何より、リィのファーストキスだったのだ。
唖然として、顔を蒼くして、白くして、赤くして、そのままどんどんもっと赤くする。
「お、おま、おまえ」
「なまえ……」
慌てふためいているリィに、人魚は静かに声を掛けた。あろうことか声を発したのだ。
綺麗な声で、はっきりとした日本語を話した。
「ぼくの、なまえは、ユージン」
「ああっ!?」
「ユージンという」
「…………」
「おまえは?」
どういう訳だか、リィと同じような舌ったらずの声で、「ユージン」は訊いてきた。リィは今だ赤い顔のまま、横を向いて答えた。
「り、リィだ。リィ・マイサカ」
「あ……」
何が言いたいのかまるで、自分でも解らないみたいな呆けた顔をして、ユージンは口篭もった。そうしてはっと体を強張らせて、掛けてくる複数の足音を聞き付けて、床に手を付いたまま素早くリィに鋭い視線を向けた。
「にげろ」
「え?」
「どこからきたのかしらないが、にげろ。かえれ。ここはあぶない」
「て、おまえは――」
どうするつもりだ、そう聞こうとして、リィははっとした。力任せに突き飛ばされて、搬出用エレベータに放り出されたのだ。
「おい!」
動き出したものは止められず、リィは中からがんがんと鉄の扉を叩いた。
「これは――」
寺月恭一郎は、目の前で何故かガラスケースから這い出てきている人魚を凝視した。尻尾みたいだ、としか認識できなかったユージンの下半身が、裂けるように半ばから割れて、ふたつに分かたれて、すべらかで綺麗な人間の足へと変化していくのだ。
完全に変化してしまうと、それは静かに立ちあがった。最低限の肉しかついていない体は貧相だがシンプルで美しかった。
どこから見ても、それは人間にしか見えなかった。たったひとつ、鮫のような、冷たい光沢にとろりと濡れた瞳だけが異質だった。
それは魚みたいな無表情で、たった一言だけ囁いた。
「こんばんは」
◇◆◇◆◇
もう物心ついたころからずっとここで生きたまま標本になっているような錯覚すら覚えるようになっていた。
良いところ数ヶ月だが、日の光が届かないから朝も夜も解らず、時間の感覚もなくなって、新鮮な感情というものはほとんど麻痺したようになってしまっていた。それの体の周りを丸く覆うガラスは、満たされている液体の色越しに外界の、広い室内を映して見えた。
この水槽はあの色鮮やかな熱帯魚たちの住処のような角張った、飼い慣らす為の、鑑賞用の箱庭とはまったく違っていた。理科の実験で使うビーカーのようななだらかなカーブを描いてぐるりと筒のように丸く、あまりにも華奢で細すぎるとは言え、それの腕ほどの厚さのガラスが巡らされていた。
上方には黒くて太いもの、銀色をして細いもの、大小様々なチューブがのたくっていた。ただ外にはこの呼吸をするための水が全く存在しないようだったから、この実験器具から這い出るのは無理だろうと思った。
そのうちそれはもう考えるのを止めてしまった。薄い眠りに入って、広々とした水の中で、光が揺らめくのをぼんやり見つめながらゆらゆらたゆたう夢を見た。
だけれど、結局いつも最後には腹を裂かれてこのビーカーに押し込められるのだった。
最後は必ずこの現実に戻って来るのだ。それでももう休まるのはそうやって夢現でいる間しかなかった。
ある日、それは慣れない物音で目を覚ました。
ガラスの向こうから激しく拳を叩き付ける人間がいる。いつもなら静かに石の像でも鑑賞するみたいに遠巻きに眺めているだけなのに、随分と乱暴な人間だった。
『……い、……っ、こっち……け、……っ』
水を震わせて僅かな音が伝わってきた。それが反応しなくてもお構いなしに、いつも見慣れたその種にしては随分と小さな生き物はうるさく催促し続けた。
仕方がなく根負けして、それは薄くゆっくりと目を開けた。
正直なところ、ほんの少し、いつもと毛色の違う人間に興味を持ったのかもしれなかった。そうして目に飛び込んできたものに、それは目を点にして、唖然とした。
おかしな生物だった。
額とほっぺたと唇をガラスにくっつけてなんだかものすごく変な顔をしている。それが止めど無くガラスを叩き続けてきいきいと喚いているのだ。
それは反射的に吹き出してしまいそうになって口元を押さえた。
おかしい。変だ、なんだこれは。
笑い出しそうになりながら必死に堪えて全身を折り曲げると、その反応が気に触ったのか、人間は河豚みたいに膨れて一歩下がった。まともにじっと観察してみると、なんでもなく普通の人間だった。ただしひとまわりは小さいから、きっとまだ子供なのだろう。
他の白っぽいひらひらとした膜を纏った動物たちと同じで、エラのようなものはどこにも見えない。尾の代わりに腰から下には、ふたつに分かれた、体皮と同色の、腕よりも太い棒状の二本のひれがあった。
脚、と言うのだと、後になって知ったのだが。
その子供はとても不思議そうな顔で見返してきていた。一際目を惹かれたのは、その生き物の綺麗な瞳だった。目を奪われた。
綺麗に、水の中で生きる者のようなどろりと濁った色なんて少しも見えない、鋭くて強くてまだあどけなさを残した目だ。それは何故かひどく胸が苦しくなった。頬に血が集まった。
どうしようもなく、もどかしくなった。覚えのない反応にそれは困惑して、見つめて見つめられていることに耐えられなくなって目を逸らした。
子供はそれを無視されたのだと解釈したのだろう、またきいきいとなにか喚いて、その尾のようなものでのたくっているチューブに攻撃を加えた。
一撃された管は破けて、得体の知れない液体を零しながら生き物のように苦しんでのたくっていた。
ひとつの管が外れた瞬間、それはひどい眩暈と息苦しさを感じて、顔を歪めて咽を押さえた。
全身に圧力が掛かってくるようだ。苦しい。
「……い! ……した?!」
更に上から頭に響くみたいな声と水槽を叩く音に降られて、それはびくりと震えて顔だけ上げた。
ガラスに、罅が入り始めた。びしりと嫌な音を立てて、内側から破れていく。
うずくまっていたそれははっとして、注意深く罅割れを凝視した。
砕け散って、散らばったそれはまだ小さな体の人間の子供の体には致命傷にすらなり得るかもしれない。まずい。しかし罅は急速に広がっていく。どうにもならない。
唐突に、耳障りな悲鳴を上げて硬質のガラスは中からの圧力に耐えきれず破れた。
破片がびっくり箱みたいに飛び出して、ばらばらと子供に降り注いでいくのが見えた。
それは全く意識せずに、手を伸ばした。子供の纏っていた真っ白な膜のような、病人用のパジャマの裾を掴んで引き寄せて、裸の胸に抱いた。
どうしてそんな行動を取ったのかなんてそれは解らない。慈悲なく背中に腕に突き刺さって来るガラス片に傷つけられながらも、それはひどく場違いなことを考えていた。
あったかい。水の中でまどろむ冷たい身体とは全然違った。
人間の体温と言うやつは、水棲生物のそれとは全く違っていて、とても安心してしまうほどに温かかった。
背中を突き刺す痛みすら感じない程に心地良い。目を細めて、そうして少しの息苦しさを感じて、それははっとした。
呼吸の為に必要な水がどこにもない。こんなふうにうっとりと人間の体温に酔っている場合じゃない。それは、冷静に行動した。
びっくりした顔をしている子供の、その唇に口を付けて、口腔内に舌を挿し込んだ。味はすなわち成分のデータだ。
陸上に適応している人間のデータを味わって体内に取り込んで、そうして体を変化させていく。体に染み込んでいる言語能力と、呼吸器官を写取って、それは目を閉じた。
唇が柔らかい。体を抱き締めるだけでもこんなに気持ちが良いものなのに、唇に触れた感触はそこからあたたかさが浸蝕してくるようで、頬が熱くなってくる。
また訳のわからない反応を示し始めた体に困惑しながら、それはふいにじたばたと暴れ出した子供の彼にはっとして顔を離した。
「な、なっ、な……」
肉声ではっきり聞こえる声はとても狼狽していた。顔が真っ赤だ。
「お、おま、おまえ……」
焦燥と困惑。
彼の感情は面白いくらい手にとるように解った。彼の言葉を理解できるようにはなったけれど、それでもいまひとつまだ良く解らない。
子供の言語能力をデータとして脳に刷り込んだからだろうか?
ともかく、それは初めて空気の中で音を震わせた。
「なまえ……」
彼の名前が知りたかった。彼にとって意味のあるものなら何でも良かったのだが。
あるいは興味を超えた感情がそこには生まれはじめていたのかもしれないが、まだそれにはそんなことは良く解らない。
「ぼくの、なまえは、ユージン」
「ああ!?」
「ユージンという」
「…………」
「おまえは?」
ある種の必死さで、それ、ユージンは声を発して彼に訊いていた。まだ慣れないもので、音階の調子が掴めない。彼に伝わっていると良いのだが。
少年は赤い顔をして胸に抱かれたまま、ぶっきらぼうに答えてくれた。
「り、リィだ。リィ・マイサカ」
リィ。綺麗な響きだと思う。
何か彼に言いたくて、手に入れた声で彼に伝わることを、なんでもいいから口にしたかった。
「あ……」
単純に言うと、ただ単に彼と話がしたかったのかもしれないし、そうではなくてたった一言、彼に言いたいことがあっただけなのかもしれない。それすら良く解らない。
だが、言葉を続けられないうちに、ユージンは体を強張らせた。空気を震わせる音はまだ聞き取りにくかったが、こつこつとなにかが近付いてくる物音が聞こえた。
『やはり生体が解らないうちは他生物と共存させても、下手をすれば共食いになるだけなのでは』
『そうだな――』
音、声も聞こえて来る。きっとこの水槽に長い間閉じ込めてくれていた、ろくでもない奴らに違いない。
「にげろ」
ユージンは抱き込んでいた子供を解放して、短く囁いた。傷は痛むが、すぐに血は止めることができるだろう。
「え?」
「どこからきたのかしらないが、にげろ。かえれ。ここはあぶない」
「て、おまえは――」
同種とは言え彼らが敵対していないとも限らない。ユージンは思いっきり、いつもは水槽に注入される機材を運び入れる搬入・搬出用のエレベーターに向かって、リィを突き飛ばした。
「おい!」
少しの体重を感知して動き始めるエレベーターの中から、さっきみたいに硬いものに拳を叩き付ける音が聞こえた。
水の中ではこの上ない移動手段である尾は、こと地上に連れ出されると、まったく何の意味も持たない器官だった。さっきの彼の味を思い出して、そのデータを元に、体は更に変化していく。
一本の長くて美しい魚の下半身はみしりとふたつに分かたれて、徐々にその形と色を変えていく。上半身とほぼ同じ色、両腕より長くて重い脚が生まれる。
目の前に現れた男を知っている。彼は感心したように、ユージンの変化をただ見ていた。
人魚が人間と全く同じ体つきになって、そうして立ち上がって、それだけはどうしても変化することが出来なかった鮫みたいな水棲の目でとろりと見つめても、面白そうに口の端を歪めるだけだった。
「こんばんは」
薄目で観察していた彼のいつもの第一声は、唇の動きから見てこれで良いはずだ。ほんの少しの驚きを含んだ表情を彼が浮かべたから、ユージンは凍った顔のままふうと冷笑を浮かべた。
もう10年にもなる。正確に数えた訳ではないけれど、あれから、あの夢の内容ががらりとまったく変わってしまった日からはちょうどそのくらいだろうと思う。
胸に埋まっている心臓がどくどくと脈打つ音が、いつもよりもずっとはっきりと聞こえる。そんなふうにして、夢の中のそれは期待でいっぱいになってじっと水槽の中で待っていた。
切なくなってしまうほどの長い時間が経過した後、ふいに電源を落とされた室内の影に隠れていた子供がひょっこりと顔を出すのだ。
リィだった。リィは飽きもしないで魚だか人だか曖昧な人魚を目をきらきらさせてじっと見つめて、それは楽しそうに水槽にくっつけられている機材に頬杖をついて、時折それの名前を呼んだ。
ユージン、と。
ガラス越しにお互いをじっと凝視し合っている様子は、端から見ると奇妙なにらめっこのようだったが、それをとやかく言う人間は他には何も無かった。
ユージンはいつだって彼のきらきらした目をじっと見つめていた。そうして、ガラスに映る自前の鮫みたいな黒目がちの硬質な目が嫌になって、いつだって眼球ごと抉って取り出してしまいたくなった。恥じてすらいたのかもしれない。
そんな夢を見ながら、しかし現実でもそう大差は無かった。
ずっと水槽の中で瞬きすら惜しんで目を開けたまま、ただ違ったのはいつまで経ってもリィが来ないだけだ。どうすればまた彼が来てくれるだろう。
物珍しそうに水槽に顔をくっつけて、ぽかんと口を開けている少年が浮かんで、ユージンは少し口元を緩めた。水を震わせて、もう声は音なんかにはならない。外の空気に触れなければ声なんて全く意味はない。
ユージンの、魚の尾のようなものだ。
二本に分かれた足はまた水中に適応する為に、くっついて同化することはなかったが、つま先に鰭が生えていた。中途半端に本来の形に戻ろうとしたせいか、こんな蛙みたいな風情に変化してしまったのだ。
リィが見たらどう言うだろうか。呆れるだろうか。
それとも、相変わらず珍しい生き物でも見るみたいな、ユージンが彼を見つめるのとはまた違った意味の視線で、好奇心に満ちた目で見てくれるだろうか。
「相変わらず、原因は解らないままか」
「はい。脚は見てのとおりですし、例の一週間で潰れた肺の生成の原因となったものは、未だに不明です」
全く歳を取らないまま、ただ変わったのは、ずっと閉じていた目がまるで何かを待ち構えているみたいに開けっぱなしになったことだけだ。以前よりも人に近い形状になった人魚をガラス越しに眺めながら、寺月恭一郎はこつこつとガラスを指先で叩いた。
あの舌ったらずな声で、しかしトーンは流暢な日本語で会話を成立出来ていたのは、ほんの3、4日ほどだった。5日目から腐り始めた肺は6日を過ぎて7日目には綺麗に跡形もなく無くなってしまって、呼吸がままならなくなってしまった人魚はまた水槽に戻ってしまった。
もっとも元々が無口な性質だったのか、それとも警戒していただけなのか、ほとんどまともな口を訊かなかったが。
急な変化について人魚は何も語らなかったが、それでも6歳児のようにたどたどしい喋り方ではあったけれど世間話には応じてくれた。付け加えると、件のナイフで串刺しにされている白髭は、思ったよりも彼女にウケた。
ただ「リィみたいなおもしろいカオだ」という形容詞が何を指すのか、一病院の患者まで把握している訳ではない寺月恭一郎にはさっぱり解らなかった。
新鮮なデータが無ければ、体の変化は維持できない。惰性で持続できるほど、生まれ持った体と違う変化を保つことは容易ではないのだ。
大学病院に付属している研究所、以前よりも狭くなった部屋の中で、時折実験と称して水を抜かれて大気に晒されながらユージンはそこにいた。人間になりたいならデータを仕入れる相手は誰だって構わないのだけれど、同じ変わるならリィの好きなように変化したい。
それは人ならば恋などという感情なのだろうが、半分魚のユージンにはまだ理解できていない。ただ彼のことを回想する度に良く訪れる胸の痛みに首を傾げているだけだ。
そしてユージンは、もう彼には遭えないかもしれない、とは考えたこともなかった。
ある時、ふいにユージンの周辺が騒がしくなった。
管がびっしり壁に貼り付いた今いる水槽ではなく、ただ単純に巨大な熱帯魚でも飼うみたいな四角くて浅いガラス張りの箱が部屋の隅っこに現れた。
何に使うのだろうと訝って、注意深く人間の会話に耳を傾けていた所、訊いてもいないのに作業服姿の人間達はユージンの水槽を無遠慮にじろじろと物珍しそうに、まるでストリップのショーに食い入る観客みたいにその裸の胸や魚と人間の中間点にある下半身に魅入りながら、子供やペットの動物にするように語り掛けてくれた。
間違いなく、言葉が通じない動物だと認識されているようだった。
『日本の研究技術じゃ、お手上げだってよ、なあ』
『海外には「お友達」もいるんだろ』
『ああ、今回あっちの施設に送って、オスの人魚と交配させるそうだ』
それを耳に入れた途端、ぷつりと目の前が真っ白になって、頭の中で理性とか、期待とか希望とかいったものの糸が切れたような気がした。
冗談じゃない。ぱちぱちと眩暈を感じた時に現れる火花のようなものが視界を覆って、すべてを理解しないうちにユージンは分厚いガラスの婉曲した板を、力任せに殴り付けていた。
この細い腕のどこにこんな力があるのだろうか、訝しく思うほどに強く、何度も何度もごつごつとガラス戸に拳を叩き込んだ。
『お、おい、いきなり一体どうし――』
『まさか、言葉を――』
狼狽する人間の様子が視界の端に赤く映った。だが、そんなものはどうでも良かった。
叩き付けられていたガラスの一点から罅が入って、それは破けてユージンの拳に抵抗するように突き刺さった。
血が、赤い液体が噴出す。だが、ユージンは止めなかった。更に力を込めて拳を突き出すと、耐え切れなくなった水槽は、大きな音を立てて真っ二つに割れて、破片が辺りに飛び散った。
「こ、こいつ」
慌てた研究員が、陸上での優位を確信しての事か駆け寄ってきた。
拘束してまた水槽に放り込もうとでもいうのだろうが、その男の腕を地面に倒れ伏したままユージンは無造作に掴んだ。
そうして、その手首に思いっきり噛み付いた。野太い悲鳴を上げながら混乱している男から噴き上がった血液を啜って、ユージンはそのデータをすぐさま脳に送った。
口腔を舌で拭って味を知るのは、ただ単に相手を傷つけないためのものだ。構っていられない場合、本来はなんだっていい。
体が変化し始める。逃げ出した他の人間に混じって這いずって逃げ出そうとする、血を吸われた男を冷たい鮫のような目で一瞥して、ユージンは造られたばかりの肺から音を絞り出した。
「殺されなかっただけでもありがたく思うんだな」
綺麗に揃った二本の脚でふらふらとよろめきながら、ユージンは姿を消した。
◇◆◇◆◇
その男はフォルテッシモと言った。おかしな名前だがあだ名のようなもので、既に定着してしまっていた。
最も強いもの、そんなような意味だった。確かに彼はいろいろな意味で桁外れだった。
血生臭いことが大好きで、そのくせ頭は異常な程に良かった。簡単に纏めてしまえば、16歳のくせに子供っぽいところが抜けきらない少年だった。
夏、暑い日差しを避けるようにして、彼は学区にある朽ちた病院の跡地で時間を潰していた。
ここは絶好のサボリ場所だ。下手に繁華街などに出てしまうよりも、フォルテッシモは静かな病院の遺骸の中でうとうととまどろむことを好んだ。
昔、まだこの病院に古びているけれど人が集まっていたころ、一度だけ入院を体験したことがある。
彼が今まで病院というものにお世話になったのはその時だけで、今でもその夜の不気味さ、辛気臭さ、薬の匂い、あとはあのろくでもない注射のことを思い描くことができる。
あと、そして、
(……?)
結局は誰も信じなかった件の話を思い起こそうとして、フォルテッシモはゆらりと揺らめいた陽炎に目を眇めた。
枯れもせずにこの10年で更に大きくなった菩提樹は、もう一番下の枝にさえフォルテッシモの手が届かなくなっていた。木漏れ日が頼りなくさざめいている。
その少しばかり向こうで、何か途方に暮れたような動作でこつこつと壁を叩いている人影があった。
廃病院に訪れるにはあまり似合わない、細い後姿だった。
女だ。フォルテッシモと同じ学校の制服を着ているが、何故かサボリには見えない切迫した空気を纏っていた。
(なんだ、あれは)
風が吹いてもぴったりと首筋に貼り付いたままの髪は、水泳でもしてきたのか濡れていた。
木の幹が死角になって、彼女はフォルテッシモには全く気がついていないようだった。何をしているのか横目で寝そべりながら伺っているうちに、その女は想像もしていなかった行動に出た。
すっと身を引いたかと思うと、拳を打ち付けて病院のガラス窓を叩き割ったのだ。
(ああ?)
石でも握っていたのだろうが、そうして割れたガラスの隙間から細い手を差し込んで、中から掛かっていた鍵を開けると、小さな体は開いた窓から病院の内部へと入り込んで行った。
「なんなんだあの女は」
何をしようとしているのか全く解らない。とりあえずフォルテッシモは上半身を起こして、大きな欠伸をした。
とんだ昼寝の邪魔が入った。大方良くあるように、この病院の怪談話を確かめにきた好奇心旺盛な女生徒なのだろうが、もうここでは何を探したって無駄だ。何も残ってない。
それを身を持って確かめたフォルテッシモは知っているのだ。
あと6日だ。
ユージンは忌々しく靴を踏み鳴らしながら、かつて閉じ込められていた地下室へと向かっていた。まさか廃院になっていたとは予想外だった。
裸のままでは具合が悪いらしいので、研究所の薬品棚の上に積んであった白衣を着込んで脱走したのだが、それもまだ具合が悪かったらしい。
だから通りかかった女子高生を襲って衣服を奪って取り替えて、そうしたら今度は紺色のきっちりとした「警察官」という男に呼びとめられた。学校はどうしたのか、と言われた。
なんとか逃げおおせたが、何が「普通」なのか解らない。
ポケットの中に入っていたカードのようなものには、「草津秋子」と書かれてあった。どうやらあの制服の持ち主の名前らしかった。顔写真が貼ってある。
おそらく役に立ちそうにないそれを適当に放り投げて、ユージンは一階廊下の、おそらく地下へ荷物を運ぶ為のエレベーターを探していた。
あの日、彼に遭った場所から始めればいい。もし彼に遭っても、そもそも何を言えば良いのかさっぱり解らなかったが、それでもユージンは「リィ」を探していた。
理由もなく、ただ彼に遭いたいだけなのだ。
地下の痕跡はどこにも無かった。
一階部分からは見えないよう、カムフラージュが施されていたのかもしれない。訪れるのはリィ以外は白い服を着た研究員ばかりだったから、ユージンは注意深く辺りを探った。
訪れてから、1時間が経ったころだった。朽ちたリノリウム張りの上を差しかかった時だった。
「……っ!」
土台から痛んでいたのだろう、石が崩れるように廊下の半ばから軋んで、大きな穴が口を開けた。
回避できなかった。そもそも、造られたばかりの脚では、歩くのが精一杯なのだ。
声も上げずにコンクリートの残骸と一緒に落下して、ユージンはしたたかに腰を打ち付けた。くぐもったうめき声を上げている間にも、上から次々に折れ曲がった鉄筋が降ってきた。
がんがん、と体が縮むような大きな音を立てて、それは倒れてユージンの視界を塞いだ。一階へ再び上がる道が絶たれてしまった。
頭を振って立ち上がって、その光景を一瞥すると、ユージンは無言で空洞になった暗闇の中を歩き出した。
ここで立ち止まっていても仕方がない。リィに、遭いにいくのだ。
地下部分は、本当に空洞になってしまっていた。何もなかったのだ。
ただ真っ暗な闇が広がっているだけで、どこからか吹いてくる隙間風だけがひゅうひゅうユージンの耳元で唸っていた。
足元が見えない。所々に瓦礫が転がっていて、かなり危なっかしい広間を見渡して、ユージンは落胆の吐息をついた。
本当に、何も無くなってしまったのだ。あの白い廊下も、荷物を吊り上げるエレベーターも、水槽も檻も、すべて。
生き物も存在しない。ただの空っぽの建物だ。
上に上がるにしても、一階への穴は塞がってしまっているから、他の道を見つけなければならない。
風を感じるから、おそらくどこかには繋がっているのだろうが、まったくの暗闇で見えやしない。
(まったく)
こんな所で時間を浪費している場合ではないのだ。あと6日、いや、5日と10数時間。それまでにまた新しい人間のデータをいただくか、それができなければ水辺に還るか、もしくは呼吸困難に陥って窒息死するか、選ばなければならない。それまでに――
ふとユージンは、もう自分はリィには遭えないのではないかと考えた。
遭ったとしてどうするだろう。彼は外の世界で生きる生き物だった。
もうユージンのことなどとうに忘れてしまっているかもしれない。
悪い想像に取り付かれて焦燥だけが高まっていくなかで、ユージンはふとぎらぎらと光る存在に気がついた。
(なんだ?)
それは、ただの猫だった。だが数十匹はいるだろう、その対の目が闇の中で爛々と輝いていた。
彼らは決して人間を襲ったりはしないが、本能的に、ねぐらに間抜けにも入り込んできた人では無いものは、彼らの好物であることに気がついた。
なにしろ、半分は魚なのだ。海に棲む生物に特有の香りは全く体から消えてしまっていて、あるのは浸け込まれていた薬品の匂いが微かに残っているだけだったが、それらは知っていた。餌が、のこのこと迷い込んできたのだ。
足にはまだ慣れていなかった。それ以前に、交互に動かして前に進む「歩く」という動作がやっとものになったのが、ついさっきなのだ。
さすがに自分よりかなり小さな体の生き物だとは言っても数十の牙と爪に襲われて、すぐさま満足に動けない体は引っ掻き傷だらけになった。ぽつぽつと血が滲んで、その匂いは動物の捕食本能を更に煽ったようだった。
「う」
こんな所で、食われて死んでたまるか。れはまだ見知らぬ外国で、見たこともない「オス」に交配を強制されて孕んで子を産むよりは随分とましだったが、それでも諦めて小動物のために体を差し出してやる気もない。
「リィ」
こんな、暗闇に迷い込んだだけで捕食者に群を成して襲われる陸上で、あの小さな子供は生きて行けているのだろうか?
場違いにそんな事を思いながら、ユージンはまっすぐに逃げることを諦めて、振り返って拳を固めた。小さい動物だから、数匹痛い目に遭わせてやれば怯えて引いてくれるかもしれない。
見たところ最も体の大きな一匹が飛び掛ってきて、ユージンは身構えた。でっぷりと太った巨体は放物線を描いてまっすぐに掛かってきて、ユージンに爪を掛ける寸前に、横飛びにすごい勢いで悲鳴を上げながら吹き飛んでいった。
「?」
ユージンがやったのではない。どうやらあの猫は大将格だったようで、怯えて後ずさりはじめた猫が次第に輪を大きく広げて遠ざかっていくのが見えた。
「変わった女だな」
暗闇の中で声を掛けられて、ユージンは緩慢に顔を上げた。
「余程相性が悪いようだな。この辺りの猫は割と人懐こい奴ばかりの筈なんだぞ」
落ち付いた男の声だった。誰だか知らないがどうやら、救けてくれたらしいのだ。
ユージンは素直に頭を下げた。
「すまない。感謝する」
「それより貴様、こんな所に潜り込んでここから出る道は知っているのか」
「ああ、いや」
ユージンが首を振ると、その男はそっけなく踵を返して歩き始めた。
「ついてこい。出口だ」
暗闇の中を男に先導されながら、時折慣れないごつごつとした地面を歩くせいで、ユージンは良く転んだ。それに呆れたのか、男は溜息混じりにユージンの手首を掴んで、また歩き出した。
「世話の掛かる女だ。おまえ、大体何故この病院に入り込んだ。不法侵入という言葉を知らんのか」
「いや」
初めて聞いた。言葉を濁して、ユージンは俯いた。
だがそれはどうでも良かったのだろう、彼は掴んだユージンの手を一瞥して呟いた。
「冷たいな、おまえの手」
「そうか」
やはり人間というものは、こんなに温かい手をしているのだろうか。奇妙な懐かしさを感じて、ユージンは目を細めた。
リィ。どこにいるんだろう。
「おまえ、名前は」
「え?」
「おまえの名前だ。女、じゃ不便だろう。俺は構わんがな」
「ああ」
ユージンはそうしてしばらく考え込んで、文字を読み上げるみたいな抑揚のない声で答えた。
「「草津秋子」だ」
さっき捨て去ったカード、生徒証と呼ばれるものに記されていた名前だ。それを、存外素直に彼は信じたらしかった。
「そうか。俺はフォルテッシモだ。みんなそう呼ぶ」
明るい日の光が徐々に強くなって来て、ユージンは目を眇めた。淀んでいた地下の空気が薄れて、行き付いた先には大きな木が茂っていた。
後ろを振り向くと、出口はリンデンバウムの木の洞だった。地面を割って続いている。
「感謝する」
ユージンはそう言ってフォルテッシモに顔を向けて、そうしてきょとんとした。
明るい日差しの下で見ると、背丈はユージンと同じほどの彼はとても整った顔立ちをしていた。それもユージンの人形みたいな美しさではなく、目を惹くほどの強さを宿した目に吸い込まれそうになる錯覚を覚えるほどに、人間としての生命が彼を魅力的に見せていた。
リィに似ていた。でも、彼とは比べ物にならないくらい背が高くて力強かった。
そのフォルテッシモは、呆然とした顔でユージンを凝視していた。
「フォルテッシモ?」
「草津」
彼は、ユージンを偽名のままで呼んだ。
「おまえ、足は?」
「?」
「足を見せろ」
心なしか、彼の声は震えていた。有無を言わさずフォルテッシモはユージンの肩を掴んだまま、真剣な顔でそう言った。
何か、まだ人にありえない器官が残っていたのだろうか。鰭とか、鱗とか、そんなようなものを彼に見られてしまったのかもしれない。
ユージンは強張ったが、フォルテッシモは頓着せずにユージンが奪った制服のスカートを強引にたくし上げた。
「フォルテッシモ」
「いいから、良く見せろ」
制止を聞かずに、彼はユージンのスカートを腹のあたりまで捲り上げた。そうして真っ赤になった。
「なんだ?」
フォルテッシモは無言のままユージンの服を元に戻して、視線を逸らして後ろを向いて、わざとらしい咳払いをした。
「おまえ、パンツぐらい穿けよ」
「?」
それから彼は、どうしてか気恥ずかしいようで、ユージンの方を見ないようにして訊いてきた。
「おまえ、なんの用でここに来た。ここは夜になると、おまえみたいな女を食い物にするつまらん奴らが群れてやって来ることもある。さっきの猫など目じゃないくらいのな」
「…………」
「二度とここには近寄らん事だ。大体おまえは、俺に襲われる危険は考えてなかったのか? あっさりついてきたりしやがって」
「…………」
「おい、なんか答えろ」
「人を探してる」
段々不機嫌になってくるフォルテッシモを観察しながら、ユージンは静かに答えた。
助けてもらったのだ。その上足がつかないように狡猾に偽名まで使って、このくらいは正直に言ったって良いだろう。
「このくらいの」
ユージンは、腰くらいの高さを手のひらで示した。
「子供だ。男の」
それを聞いて、フォルテッシモは興味を無くしたようだった。
「ガキに知り合いはいない」
「そうか」
肩を落としたユージンの様子を見て、フォルテッシモはぽつりと聞いた。
「弟か」
確かに普通思いつく関係などそのくらいだろう。ユージンは首を振った。
「いや」
「まあいい」
手で制止して、フォルテッシモは顔を背けた。
詮索が面倒だったのだろう。
「俺はもう行く。人探しなら警察にでも行け」
「…………」
「もう二度とここには近寄るな。でないと、人魚に取って食われるぞ。じゃあな」
「え?」
彼は冗談のつもりだったのだろうが、ユージンは呆けた顔で訊き返した。だが彼はもう答えずに、背中を向けて歩いて行ってしまった。
その日、深陽学園ではちょっとした騒ぎがあった。いつもよりわけのわからない事件が多かったのだ。
ひとりの女生徒が登校中に通学路を歩いていると後ろから殴られて、気絶した彼女は制服を剥かれて、物陰に放り込まれていた。
通りかかった警察官に何故か白衣姿の彼女は発見されて、結局その件は、被害者の彼女には特に暴行を受けた形跡もなく、女子高生に好きな格好をさせて喜ぶ変質者の仕業だということで捜査が進められた。
もうひとつは同高校の制服を着た、明らかにサボリだと見られる少女に警官が声を掛けたところ、少女は有無を言わさず若い警察官の鼻っ面にとても女の細腕とは思えない強烈な拳を叩き込んでくれて、鼻の骨が折れた警官は全治3週間の怪我だということで、警察署から直に苦情の電話が入ったことだ。
あとは、ぼろぼろに血塗れの同校の女学生が廃病院の跡地に出た、という怪談が数件、あまりにも多いので警官が警邏に行った所、窓ガラスが割られてそこから見える病院内部の床が陥没していて、しかしそこはまだ私有地なので、結局は入り口から訳も解らず眺めるくらいしかできなかったことなど、色々だ。
それらを関連付けて考える者はいなかったが、その日のホームルームで、それぞれの学級の担任教師から、学園生徒は身に全く覚えのない素行についてのお小言を食らうはめになった。
「あ、先輩、今日は来てたんですか」
放課後の靴箱の前で後輩世良稔に驚いたような声を掛けられて、フォルテッシモは顔を顰めた。
「とんだ昼寝の邪魔が入ったからな。ウチの生徒だろうが、変な女だ」
「あんたが変だとかいう生徒、この学校にもいるんですね」
「どういう意味だ。確か――あの女、名前は「草津秋子」とか言ったか」
「え?」
苦々しくフォルテッシモが呟いた名前を耳にして、世良稔はきょとんとした。
「なんだ」
「いや、そいつならうちのクラスにいますよ」
妙なことを聞いて、今度はフォルテッシモがきょとんとした。
「あいつ、年下だったのか」
何故だか彼女は大人びているというわけでもないのに、フォルテッシモよりも随分と年上の印象があった。ありえるならば、随分と長い年月を経た落ち付きというようなものがあった。
もっともこの高校の制服を着ていたからそんな訳はなくて、良いところ3年生だろうと踏んでいた。
「どんな奴だ? そうだな、普段はあいつ、何をしてる」
「あんたが人に興味を持つのってかなり珍しいっスね。いや、ていうかそれにしても……」
なんだか歯に物が挟まったような、納得のいかないような彼の物言いが気になって、フォルテッシモは目を眇めた。
「あいつ、確かに今日は休みでしたけど、サボリじゃなくて警察にいたんじゃないかな」
「あ?」
そう言えば、誰かを探しているようなことを言っていた。警察に任せきれず、自分でも何か行動を起こそうとしていたのだろうか。
だが推測は、あっけなく遮られた。
「先輩、聞いてないんですか。今朝通学路で後ろから頭を殴られて、制服と学生証盗まれた生徒って、あいつですよ」
「え?」
全く意外だった、という風に呆けたフォルテッシモを珍しそうに見ながら、ビートはばつが悪そうに続けた。
「あと多分、あんたに比べるとどうしても「変だ」とか思えないんスけど」
余計なことをいう稔の頭を一発殴って、フォルテッシモは確認した。
「俺が「変」みたいな言い方やめろ。あいつだろう、あの髪の短い、綺麗な人形みたいな顔した、色白の飾り気のないおとなしそうな女だ」
「髪は確か肩くらいまであったような気がするし、あんまり「綺麗」とも思えない顔してたし、どっちかと言うと色黒で性格も派手でケバいですよ。授業中とかうっとおしいくらい化粧してるし」
「なんだ。誰だそれは」
「誰だって、それ俺が聞きたいですよ。あんたの言ってるような「草津」はうちのクラスには居ないし。あ、あいつの同性同名の姉貴とか、かも」
噛み合わない話に苛々としたフォルテッシモは、苦々しげに口元を歪めた。じゃあ、あれは誰だと言うのだ。あの『リィ舞阪』がいつか見た人じゃないものと同じ顔をした女は。
あと5日と数時間。公園の水道の蛇口を思いきり捻って水を浴びて、ユージンは溜息をついていた。
生温くなった塩素塗れの水でも、乾きはじめた体にはありがたかった。もしかすると、あの時みたいに一週間ももたないかもしれない。
ずっと慣れない行動ばかりしているからだ。
リィ。
目を閉じると鮮明に彼のあどけない眼差しが浮かんで、ユージンは僅かな微笑を浮かべた。脳裏に浮かぶ映像はしかし、ゆらゆらと水面みたいに揺らいで、ゆっくりとその形を変えていった。
昼間あの病院で出会った少年へと、それは変化していく。
背中が寒くなって、ユージンは緩く頭を振った。上手くリィの顔が浮かべられない。
温かい手、あの目、良く似ていたけれど、あの男の剃刀みたいな目にはあどけなさは欠片も見て取れなかった。
ずっと水に浸され続けて、体が癒されていく。腹部の大きな痣はまだ消えはしなかったが、体中に付けられた裂傷はもう完全に癒えていた。
夕暮れの公園の赤い空を、黒いものがばさばさと横切った。悲嘆するみたいに鳴いている真っ黒で光沢のある鳥は、なにか餌でも見付けたようで、群生している木の枝に貼り付いた葉の塊の中に潜り込んでいった。
自然に、ユージンは頭を振った。この陸上では何があるか解らないのだ。
そうして体を緊張させて強張ったのは、狭い水槽の中で飼われて、ほとんど零れてしまったなけなしの本能のおかげかもしれない。
甘ったるい獣の咆哮がいくつも響いて、ユージンははっとした。聞き覚えがある。
夕闇の黒い影の中に、いくつもの光るものがある。さっき遭遇したのだ。間違いない。振り返らずとも解った。
猫の群れが、そうしてそれに便乗した雑食の鳥、カラスの群れがそこにいる。
人間の街で夜を過ごすことの困難をそれは身を持って理解したが、だからと言って水槽に帰ることはもうできない。
ぼろぼろの服で、それよりもぼろぼろの体でそれはただ逃げた。数が多すぎるのだ。頭の上からからかうように突付かれて、尖った嘴が柔らかい肌に突き刺さる。
「く……!」
猫の方がまだ可愛いものだ。
そうは言っても結局は襲われていることに変わりがないまま、あっけにとられている人間は誰も助けてなどくれないから、ユージンはふらふらとよろめきながらあてもなくそれらを避けようと足を進めた。
ふいに道の向こうから現れた人間に正面からぶつかって、ユージンは転倒した。もう避けたり踏み止まったりする体力も、底をついていた。もう逃げる気力も残っていなかった。足が痛くて動かない。
「リィ……」
それは、痛々しい呟きだった。もう遭えないだろう少年への憧憬と、ある種の崇拝と、まだ形にすらなっていない感情が入り混じった切望だった。
いつ、彼は来てくれるのだろう。面白そうに笑って見つめてくれるのだろう。
いや、もう無理なのだと、それは知っていた。本当は理解してもいた。
ただ足掻きにすらならないけれど、受け入れてしまえる程に彼への意味を持った想いは、無頓着ではなかったのだ。
「こっちだ」
意識を無くし掛けた体の、力の抜けた腕を無理矢理に引っ張られて、ユージンははっとした。
貧血でふわふわ浮いたような体を抱えられて、白くて柔らかい地面に放り出されて、そうして頭に痛い音を立てて扉が閉まるのを見た。
押し込められたものは知識として知っている。銀色の「車」というものだ。
白いシートに流れた血が染み込んでしまって汚れていくが、何も言われる気配が無いことに余計に居心地の悪さを感じた。
自動車は動物を置き去りに走り出して、大きな建物の前で止まった。運転席から降りた男が後部座席のユージンを抱き起こして、その時初めてユージンは人間の顔を確認した。
知っている、見覚えのある男だった。穏やかな笑みを浮かべて自信に満ちた顔つきをしたその男の名前は、寺月恭一郎と言った。
ユージンをあの狭苦しい水槽の中に閉じ込めていた張本人だ。
見つかった、まずい。
頭に浮かんだのはそんな単語で、ユージンは慌ててじたばたと暴れた。逃げなければいけない。こんなところで止まれない。
しかし予想に反して、彼はユージンを存外すぐに解放してくれた。足が動かず身動き出来ないユージンを見つめて、彼は静かに言い含めた。
「心配ない。今は閉じ込めたりしない」
「……!」
「君はそうやって肺呼吸ができるんだろう。なら、あんな所に閉じ込めている必要はない」
「…………」
「大丈夫だ。傷の手当てをするだけだ」
どっちにしろ、それを信じない訳にはいかなかった。
連れて来られたのはホテルの一角だった。豪奢なスイートと、一フロアをまるごと使った巨大な室内プールがあった。
「ここは自由に使ってくれていい」
そう言われて、ユージンは恐る恐るプールサイドに座って、衣服が濡れることも構わずつま先を冷たい水に浸けた。
数日ぶりの水は、やはり体に馴染んで気持ち良かった。目を細めたユージンに、男は苦笑しながら言った。
「服は、脱いだ方が良いんじゃないかな」
無造作に着衣を脱ぎ捨てて、水の中へ深く潜っていってしまった人魚を眺めながら、彼はその見慣れている制服を手に取った。
タグには真っ黒の油性ペンで「草津秋子」と書かれていた。それだけで、全て知っている彼には容易に学園とその地域を騒がせる原因を明確に理解した。
まったく乱暴なものだ。
顔を水面から覗かせて不思議そうな目で見つめて来る人魚を見て、彼は苦笑した。あれだけの美しさがあるのだから、もう少しおしとやかに事を進めてくれたって良いものなのだが、お姫様。
傷の手当ては全く必要ないようだった。動物に襲われた傷は全て塞がっている。
ただ腹部にまだ痣が見えるが、これはもう仕方がないのだろう。
完全に人間のフォルムに変化した人魚の全身を、芸術品を鑑賞するように彼は眺めていた。美しい顔立ちに、妙に硬質の光沢を持った目が嵌め込まれていて、一層彼女の顔には人形めいた美貌が見えた。
白くて、華奢な体は骨が見えているくらいに細い。
ろくに運動もさせていなかったせいか、筋肉もほとんどない。この腕で、どうやってガラスを破ったり、あとはおそらく彼女の仕業だが警官に全治3週間の大怪我を負わせたりしたのだろうか、是非とも聞きたいものだ。
そうして、脚だ。水槽の中では鰭を纏っていた下半身は、見事に人のものへと変化していた。すべらかで、しなやかだ。
そうして、驚くべきことに二本の足の付け根には、人間の女性とまったく同じように女性器が存在していた。
外見だけを変化させた、本来の意味を成さないものでは決してないことは、それに触れると彼女が居心地悪そうに身を捩って、微かな声を上げることから容易に知れた。
これはもしかすると、人間との交配が可能なのではないだろうか?
そしてもしありえるならば、この人魚自身がそれを望んで変化したものではないのだろうか。そんな推測が浮かんで、彼は考え込んだ。
その様子を、柔らかいベッドに寝かされた人魚は訳が解らなさそうな顔を浮かべて見ていた。彼女に存在しない人間らしさというものは、羞恥心だけだ。
「「リィ」とは何だい」
憔悴していたあの時の、うわ言のように綴った単語をなんとはなしに口にすると、人魚、今は何ら人間と変わりないユージンは、びくっと震えた。
それに気付かないふりをしながら、寺月はユージンの酷使されて痛んで赤くなってしまっている両足に包帯を巻いてやっていた。ベッドのシーツを握り締めながら、ユージンはしばらくぼんやりしていたが、少しは警戒を解いてくれたのか緩慢に目線だけ寄越して、疲れてまどろんだ声でぽつぽつと綴った。
「変な子供だ」
「……?」
「ずっと、あれを見てからは、そのことしか考えられなくなって、ぼくは――」
余程眠いのか、うとうととしている。
日が落ちる前に拾えて本当に良かった。もし彼女が何の騒ぎも起こさずにいたならば、きっとまだ見付けることができずにいただろう。
そうして、おそらくもう野犬か何かに食い殺されていただろう。単体では強力な生命力を持ったユージンは、群れて襲われることに弱いと見えた。
何を言おうとしているのか解らなかったが、その名前を綴るユージンの表情は見たことも無い位穏やかで、寺月はそんな顔をする人間の感情はひとつしかないことに思い当たったから、確認してみた。
「「リィ」が好きなのかい」
この人魚は恋をしている。
「それは、何だ」
だが、ユージンは聞いたこともないみたいにきょとんとしていた。
寺月は苦笑した。
どうも、人間の感情はそっくり彼女にはまだ当て嵌まらないらしい。
「ただ他のものが何も見えなくなって、代わりにそれだけがひどく鮮明に見える病気だよ。症状として他に、相手を想うと胸が苦しくなったり、息ができなくなったり、顔が熱くなったりする」
「それ、ぼくと同じだ」
「そうか。なら、君はリィが「好き」なんだ」
「…………」
だが、ユージンは答えなかった。代わりに、彼の耳には微かな寝息が聞こえてきた。眠ったのだ。
おかしなことに、彼はその生き物に奇妙な愛着を持ち始めていた。
それは性的な意味を持つ、彼の大勢いる囲い女達との間に成立している、ある種割りきられた関係とは少し違っていた。似ているものを探してみれば、父親が娘に抱く慈愛のような、または愛犬家がパートナーを慈しむような、彼には少しばかり似合わないものがしっくりとくるように感じられた。
先天的な障害のせいで、彼には関係を結んだ女性は数え切れないほどいたが、子供はいなかった。言葉を交わしたのはあまりにもまだ少なかったが、それでも彼女を手元に置くようになってからもう十年にもなる。
長い間、全く成長しないとはいえ側に置いて観察していると、感傷くらい抱くのも無理もないだろう。
いつもは巣の中の雛鳥のように体を丸めたままふわふわと水の中でまどろんでいた人魚は、あまり慣れない様子で、だが余程疲れていたのか裸のままでシーツにくるまって眠りこけている。
寝顔だけは本当に外見年齢そのもので、彼は苦笑した。
「服を買いに行こう」
目を覚ましたユージンにまずそう言うと、寝惚け眼を擦りながら彼女は訝しそうに首を傾げた。
「あれじゃ、駄目なのか」
あれとは昨日カラスに襲われてぼろぼろになった、深陽学園生徒草津秋子から拝借した制服のことだろう。安いものではない制服を一着無くしてしまった彼女には申し訳ないが、ここは目を瞑っていただこう。
ともかく、寺月は諭すようにユージンの頭を撫でた。
「君くらいの歳の子があの格好で歩いていると、ものすごく場違いな時間帯があるんだ。もう少し周囲に溶け込む洋服を買ってあげよう」
「…………」
「そうすれば多分、もう警察官に声を掛けられる事はまずない」
納得したのか、ただ単にまだ眠いのか、ユージンはベッドから起き上がって控えめに口元を手で押さえて欠伸をした。そうして、寺月に視線は向けないままぽつりと言った。
「猫とか鳥とかに襲われないのはないのか」
目に見えて不機嫌さを露にしているユージンは、目の前に積まれている衣類の山に半分埋もれるようにして渋面を浮かべていた。
人間とは不便なものだと思った。自分の体以外のこんな膜みたいなものを纏わなければ、外にも出られないらしい。
「気に入った物は?」
「いや、これはどうやって付ければ良いんだ」
先がふたつに分かれている白くて細長いもの、胴体、腕と同じ形をしている黒い布、そうしてそれより少し大きめの、明るいブラウンの衣服を引っ張り出して(どれでも良かったのだ)ユージンはただそう訊いた。
制服を奪った時は装着見本の女が目の前にいたから良いのだけれど、こうやってただ渡されるだけだと何が何だか解らない。
「ああ、手伝ってあげよう」
何故だか可笑しそうに笑いながら、寺月はユージンの手から選ばれた衣類を受け取って、
「下着は付けないのかい?」
「……?」
訝しそうに目を細めるユージンに、彼は理解したようだった。
「まずはそれからだな」
「周囲に紛れて浮かない」格好に仕立て上げて貰ったユージンは、頭の中で計算してみた。
あと4日。水に浸かって少し回復した体は、まだその脚は少し痛むが、もう行動に支障はない。
「君の言う「リィ」だがね」
「ああ」
何故この男が急にユージンが外を動き回ることを許してくれたのかは解らないが、今すぐまた水槽に閉じ込めようと言った気も無いようだったから、ユージンは応えて頷いた。考えてみれば十年前も彼がユージンを狭いガラス瓶の中に閉じ込めていたのは、肺がうまく働かなくなって深刻な呼吸困難に陥ってからだったから、今回もこうやって人と同じふうに活動ができているうちは何もしないだろう。たぶん。
「本名なのかあだ名なのかさっぱり解らなかったが、もしそれが本名なら変わっているから、すぐに見つかるだろうと思って君が眠っている間に調べてみた」
ユージンは目を丸くした。いつの間に、という驚きと、何故彼が、という疑問が入り混じったものだ。
「君がいう、この位の背丈の」
そう言って彼は、ユージンの腰くらいの高さを手で示した。
「子供だということだが、出会ったのはいつだい」
ユージンはすぐに、抑揚なく答えた。鮮明に覚えている。
「ぼくが連れて来られて、割とすぐだったと思う」
「ふむ、十年ほど前ということになるな」
頷いて、彼はユージンをまっすぐに見つめた。
「聞いて欲しい」
ゆっくりと、言い含めるようにして、寺月は言った。
「彼はもう子供じゃない。おそらく、見た目はほとんど今の君と変わらないはずだ」
「え?」
ユージンはきょとんと訊き返した。すぐに理解出来なかったのだ。
寺月は、呆けているユージンを待たずに続けた。
「人間は成長するんだ。君達とは体の構造が全く違う。他の生物もそうだ。おそらく、君は長命なんだろう。だから十年くらいでは何も変化は見られないんだろう」
言われたことをユージンは反芻した。リィは、大きくなってる。成長している。
それに比べてユージンはどうだろう。何も変わっていない。
少なくとも、知識として人間の情報を得て、それに合わせて急激に変化しただけだ。
「女性に年齢を訊くのは、少し無粋だと思うが――君は今いくつだい」
ユージンは口篭もった。暗い海の底で、何年そうしていたのかがさっぱり解らなかった。
ただ、水槽に閉じ込められた鑑賞魚みたいになってからの時間よりも、遥かにずっと長い間そこにいた。もう時間なんかそれには関係なかったのだ。
思い出すことも難しくなっていたから、ユージンは素直に、わからないと告げた。かなり長い間生きている気がするとも。
寺月は、俯いてしまったユージンの頭を撫でた。彼はその動作が気に入ったようだった。
「リィ舞阪は今深陽学園の2年に在籍している。あだ名はフォルテッシモと言うそうだ。素行はあまり良くないが、学力は他に追いつく生徒がいないらしい。アンバランスな少年だ」
ユージンは、びくっと震えた。なんてことだろう。その名前は知っている。
確かにあの強い目、それにあたたかい手。知っている。
そして今の彼は昔よりもずっと強くて大きい。強張っているユージンに、寺月は穏やかな顔で声を被せた。
「行って、確かめてみるといい。件の学園への転入措置は取ってある。そして、彼に好きなら好きだと言えばいい」
「…………」
「天色優、それが人間の君の名前だ。綺麗な響きだろう?」
聞こえる言葉の、その抜き出した単語のひとつひとつがユージンにとっては信じられないものだった。
リィに、遭える。もう一度。
見世物の鑑賞魚としてではなくて、同じ身体の人間として彼に触れることができる。
あと3日だ。
何の事はない、話は単純だった。寺月恭一郎が理事を勤める高校に、元々その学区に住む彼が在籍していただけのことだ。
「そんなわけで、君は僕の娘ということになっている。上手く話を合わせておいてくれ」
「ああ」
新しくしつらえられた制服に袖を通して、ユージンは脚に巻かれたままだった包帯を解いて、そうして皮の匂いのする鞄に紙を束ねた「本」というらしい教科書を押し込んだ。
中に書かれていることと言えば、行ったり戻ったりする数字の式や、日本語の文章、社会情勢、その他いろんなものが種類ごとに分けられて纏められているものだった。正直あまり面白くない。
血を啜った研究員の知識のおかげか、「化学・科学」「数学」などは完璧に一度読んだだけで理解出来たが、「国語」や「政治経済」、なかでも「音楽」と「美術」、「家庭科」はまったくさっぱり頭が拒否している。
「君は典型的な理系だな」
「?」
しみじみ言われて、ユージン、今は天色優は困惑した。リケイ。なにか種族的な名称なのだろうか。
訝しげに渋面を浮かべているユージンの頭を、また寺月は撫でた。
「まあ初めての学生生活を楽しむといい。何かあったらすぐに保健室に行きなさい。事情は話してある」
「事情って、人間じゃないっていうことか」
そう訊いたユージンに、寺月は片目を瞑って答えた。
「特別に身体が弱い少女だということなんかさ」
時期外れの転校生にも慣れているのか、それとも「理事長の娘」ということが妙な現実感をもたらしてくれたのか、全く違和感なく天色優はその朝、深陽学園2年4組の黒板に大きく、付けられたばかりのその名前をたどたどしく書いて、軽くお辞儀をした。
「天色優です。よろしくお願いします」
ちらりと目を上げて見渡した室内には、リィ、フォルテッシモの姿は無かった。ほんの少し落胆しながら(実は楽しみを前にした子供みたいに、数時間早く辿り付いていたのだ)それでも優は落ち付いた顔のまま、担任教師の蝉ヶ沢に示されるままにあてがわれた空いた席に着いた。
教室の一番後ろの、隣の席は空席だ。リィ舞阪、ラベルにはそう書かれてあった。
綺麗に使ってあるように見えるが、ただ単にあまり顔を出していないだけなのかもしれない。
ふと、優は不安になった。彼はこのまま、今日も明日も来ないのではないか。
そうなったら、こんな空気しかない陸上で元の姿に戻ってしまったら、優は奇異の目で見つめられる中で、呼吸ができずに死んでしまう。
その前にまた誰かを襲えば良いのだけれど、なんとなく気が進まずに優は唇を噛み締めた。彼に「害あるもの」と認識される行為は極力避けたかった。
一限が静かに過ぎた。
クラスメイトということになったらしい人間の目が少し変わっていて、優は心中不思議だった。好奇は元より、興味、あとほんの少しの悪意、嫉妬、そんなものが肌を突き刺した。
ガラス越しにしか人間に見られたことなど無かったから、優は冷汗が流れるのを自覚した。こんなに、生身で人の感情に向き合うことが、思ったより随分と負担になるなんて知らなかった。
(それにしても……)
何故転入早々、こんな憎悪に近いもの、そしてなんとなく居心地悪い一挙一動を観察している目を向けられるのだろうか。
優は訳が解らなかった。実際の所、リィ舞阪はその行動、性質、性格、全てにおいて完璧なまでに強い人間だった上、とても整った顔立ちをしていたから、いきなり現れて彼の隣席を宛がわれた優は一部の女生徒の嫉妬の対象に指定されたのだ。そんなこと、優は知らない。
だから、リィとは種類が違うけれど人形みたいに整った、まるで人間じゃないみたいな優の綺麗な顔と身体に魅入られた一部の生徒の舐めるような視線にも気付かない。
ばしゃっ、と冷たい水が急に頭の上から降ってきて、優は乾いた体に心地良くて目を細めた。上を向くと、さっき感じた憎悪と同じものを目に映した少女達が優を一瞥して駆けて去っていくところだった。
びしょ濡れになってしまった服は何故か絡まるように素肌にくっついてきて、それはかなり気持ち悪くて、優は制服の裾を絞った。
渡り廊下の下、中庭の手前でそうしているとどうやらその姿は目立ってしまったのか、優の姿を認めた男がひとり、慌てたふうに抱えていたごみ箱を放り出して駆け寄ってきた。ここにいる人間のちょうど半分と同じように、大きいリィと同じ服を着てる。大きな男だった。
「あんた、大丈夫か?! びしょ濡れじゃねーか」
「ああ……」
水は好きだ。静かに頷くが、その全く動揺していない様は逆にあまりのショックに呆然としているように見えたらしい。
男はポケットをひっくり返してハンカチを探していたが、見つからなかったらしく、途方にくれた顔をして辺りを見回した。誰か貸してくれそうな人間を探したのだろう。間の悪いことに辺りには他に誰もおらず、彼は諦めたのか急に上着を脱ぎ去った。
「悪いな、これくらいしか――」
「え、いや、なにもそこまでしてもらわなくても」
敵意を向けられたり過剰なまでに優しくされたり、人間とは変わった生き物だ。優は驚いて首を振って、後ずさった。
だが、少年はそれでは気が済まないらしかった。
「お、おれの気がすまねーんだよ。あんたみたいな、その……か、かわ、かわいい子が、そんな格好で……」
そんな格好、と言われて優は自分の体をまじまじと観察した。薄い布は透けて半透明になって、胸にはふたつ桃色の淡く自己主張しているものがはっきりと見て取れた。
身体のラインにぴったりと着衣が貼り付いて、線が浮き彫りになっている。優は、感慨もなく呟いた。
「変なのかな」
「い、いや、綺麗だと」
おかしなフォローを入れてくれる少年は、真っ赤な顔をしたままで、優を視界に入れないようにして力任せに上着を突き出してきた。
「と、ともかく! これ、上から――」
どん、と突き飛ばされて、優は身体が浮いたのを実感した。真後ろに吹き飛ばされるように後頭部から倒れ込んだ。
それに気がついた少年は、今度は一瞬で顔色を白くして反射的に優を抱きかかえようとした。おかげで地面との衝突の衝撃はあまり無かったが、結果、優は中庭に敷かれた砂利石の上に押し倒される格好になってしまう。
剥き出しになった優の白い脚の間に身体を潜り込ませるような体勢になってしまった少年は、一瞬ぼおっと優と、その素肌を想像することができる身体と、脚に見惚れて、すぐにまた顔を真っ赤にして喚いた。
「す、すまん! ごめん、おれこんなつもりじゃなくて、マジで!」
「あの、重いんだけど」
優は身体に掛かってくる彼の体重に、ぽつりと呟いた。潰れそうなのだけど。
だけど真っ赤な顔をしている男と触れ合っていると、微妙な変化に気付いて優は疑問符を浮かべた。優の臍の少し上のあたりに触れている、彼の学生ズボンの股座が、妙に硬いのだ。
「なんだか、当たるんだけど」
優は不思議に思って少年の顔を見上げた。それを優の口から聞いて、少年は更に真っ赤になって、何か弁解の言葉を捜しているのだろう、これは違う、違うと優に向かって呟いた。
なんだろう。
「いやあの、おれ、確かに朝、見た時からすげえ可愛い子だって思ってて、いやだけど襲おうとかそんなじゃなくてあの――」
彼の狼狽ぶりに優は自分が悪いことをしているような気になってきた。
「ええと――」
謝った方が良いだろうか。人間のそのままの反応というものは優にとって新鮮だったから、どういう対応をすれば良いのか解らない。
そうしているうちに今度は頭の上、遠くの方からチャイムの音が鳴り響いた。清掃時間が終了して、五限が始まる合図だ。
まばらに建物の向こうから聞こえ始める人の声にはっとした様子で、男は素早く優の上から跳びずさった。
追い詰められた囚人みたいにぴったり渡り廊下の柱にくっついて、彼は全力で駆けた後みたいな荒い呼吸をしていた。
いつまでも寝ている訳にもいかないだろう。優は立ち上がって、枯葉が纏わり付いた制服を数回払って制服を正した。
「あの、それじゃ」
何と言って良いのか解らないまま、優は呆然としている少年に一礼して歩き出した。そろそろ、行かなければ。
ほんの少し疑問を抱えたまま、優はその場所を後にした。
少年、数宮三都雄はその日の朝早くに、今まで見た事もないような綺麗な女子生徒を見た。
誰も居ない玄関口で靴箱の名前をじっと見つめて、ものすごく複雑な、笑顔なんだか泣き顔なんだかわからない切ない顔をして、額をこつりと金具に押し付けて目を閉じた少女を偶然見掛けたのだ。彼女の名前を知りたくて、少女が行ってしまった後、例の靴箱の名札を確認して、彼はどうしようもないくらいに凹んだ。
リィ舞阪。
彼女は全部で恋していた。そして三都雄は全力で失恋した。
その日、彼は友人の海影と神元を巻き添えに、カラオケボックスで自棄になったように歌い明かしたという。
フォルテッシモは優秀だった。だが、彼は同じ位問題児だった。
喧嘩をすれば、ただし彼が認めるほど強ければだが、それこそ相手を殺してしまいそうになるくらいにのめり込んだ。そうして、その上始業時間から姿を見せた事は今までほとんどない。
「すげーよ、あの女、50メートルを息継ぎなしで泳ぎ切ったぞ」
教室には寄らないまま直行した、冷房の効いていない図書室で、文庫本を読みながらそんな歓声を耳にして、フォルテッシモは窓から二階分下に広がっている水色の水槽を見下ろした。
五限目の授業は水泳だった。実はフォルテッシモは泳げない。金槌という訳ではないけれど、格好悪いことにあの沈んでいく感覚が苦手なのだ。
彼は普段はプールサイドに寄り付きもしないのだが、校庭を走らされている同クラスの男子には混じらず、発育が非常に良いと評判の女生徒になど見向きもせずにそいつを凝視していた。
クロールでも平泳ぎでも、ましてやバタフライでもなかった。だがそのフォルムは滑らかで、純粋に「泳いで」いた。
どちらかというと、人よりも鮫や銀の腹をした魚のような流線型だった。
水の中を直線の矢のように真っ直ぐに流れた白い影は、そうして二十五メートルをあっという間に往復してしまうと、餌を待つアシカのように水面から頭と胴体を出した。誰もが唖然として、見惚れていた。
だが、
「天色さん、失格」
「…………」
形式を押し付けるこの授業においては早さも美しさも関係なく、結局は蛙みたいな平泳ぎをどれだけ完璧に情けなく泳ぎきれるか、それだけなのだ。
「天色さん」はその動きのない上半身のフォルムについて説教された後、「筋はある」と一応は誉められて水から上げられた。クラスメイトにくすくすと囁くみたいに笑われて、なんだか彼女は居心地と機嫌が悪そうに水際に座り込んだ。
「草津」
フォルテッシモは天色優を、初めて遭った彼女が名乗ったその名前で呼び付けた。
もう放課後だ。廊下には人が溢れていた。立ち止まって微かに迷う素振りを見せて、まだ濡れている髪を揺らして振り向いた「天色優」を、彼は思いきり壁に押し付けた。
「何故嘘をついた。草津秋子、おまえはそう名乗ったはずだ」
「あ、リィ、ぼくは……」
心待ちにしていたものを見付けたみたいな顔をフォルテッシモに向けて、何か言おうとしていたそれは、困惑を示してどこか切迫した様子で口篭もった。
責められて怯えているのではないようだったが、名前で呼ばれて、フォルテッシモは顔を顰めた。名簿ででも確認したのだろうか?
だが許可してもいないのに、ファーストネームで呼ばれるほどに彼女とは親しくないはずだ。
「馴れ馴れしく名前で呼ぶんじゃねえ」
彼は機嫌を損ねたふうに唸った。彼を知らずに、性急に歩み寄ろうとする人間は嫌いだ。
苛々としたフォルテッシモの表情を見取って、天色優は目を見開いて、そうして俯いて目を眇めた。
その天色に、彼は緩い拒絶を見せつけた。しっくりとこない不自然な感触だったからだ。彼はそれを、からかわれているせいだと取った。
どうしてか知らないが、そいつの急な変化、あの他人なんてどうでもいいという姿勢が今の天色優(そういう名前らしい)には見えなくなっていた。
あの切羽詰まった、フォルテッシモすら見えていないような切迫感と、人を寄せ付けまいとする纏った雰囲気は今はまったく消えてしまっていた。天色には似合わない。
「俺は嘘とかそういうものが大嫌いだ。嘘吐きに呼ばせてやる名前なんか、俺にはない」
「……っ」
「まあ、そんなことはどうでもいいがな。それにしても……」
彼はふと気付いた。天色優は、なんだか呆然としていた。
(……まあいいがな)
少しきつく言いすぎたのかもしれない。フォルテッシモは仕方なく、言葉を選んで上から被せた。
「なんだ。天色優か、そっちの方が、おまえには似合ってるぞ」
確かに綺麗な名前で、彼女には似合っていた。正直な感想だ。
「そうか」
天色はそれを聞いて数度頭を振った。冷静になろうとしているふうな、もしくはなにか振り払うみたいな仕草で、そうしてまた元の表情のない顔に戻って、薄く唇を開いた。
次に声を発した時には、また以前と同じく彼女からは感情というものが欠落していた。
「すまないな、「フォルテッシモ」。偽名を使った事は悪かったと思っている」
その声からは、急速に生気が失われていた。それでも全く頓着しないまま、天色は唇の端を上げた。
微笑んでいるつもりなのかもしれないが、その顔は表情が無いままだ。
「あとは……ああ、名前で呼んだことも謝るよ。朝から君の話は良く訊かせてもらってたから」
「べつに構わん」
急に、あの病院以来、今フォルテッシモに遭ったばかりの反応から感情の色を全く抜き取ってしまったような、そんな無表情の天色優に少し困惑したが、彼はぶっきらぼうに頷いた。
そうだ、確かこんな奴だった。彼女は単に似合わない素振りを止めただけだ。
そして、そういえば、と天色に訊いた。
「ガキ、見つかったのか」
「ああ。もういいんだ」
天色優は、そう言ってふっと、ようやく不自然にだけれど笑った。
「嫌われたみたいだから」
「そうか」
一応、見つかったのだろう。喧嘩でもしたのかもしれないが、そんなことはフォルテッシモには関係ない。
それよりもこの天色の側にいると嫌でも人ではないものを思い起こして、フォルテッシモは妙な気分になった。同じ顔をしているからだ。
あと2日。
胸が苦しい。肺が腐り始めている。
それは、気の狂いそうな苦痛を伴ったものだったが、そんなものユージンにとってはどうでも良かった。
もっと痛いものがあるのだ。
リィに嫌われた。
リィは、やはり真っ直ぐだった。ユージンのような生き物は、やはり真っ暗で光の届かない海の底で生きるのがお似合いだ。
彼に嘘とか間違いとかといっしょくたに嫌悪されて、こんなにも胸が痛い。微かな水音を立ててユージンは水面から顔を覗かせた。
照明を落とされたプールは真っ暗だった。寺月が気を利かせてくれているのだろうが、それならこの不気味な音楽(レッドツェッペリンというらしい)も何とかして欲しかったが、もうユージンにとっては何でも良かった。
誰の姿も見えなかった。この階は貸し切りで、今ここにあるのは死に掛けの人魚が一匹だけだ。
運良くここまで身体が持っただけでも幸運だったのだ。
ゆるやかに浮遊して、ユージンはまた水の中に潜った。彼を想って身体中に刻み込まれていたデータが流れ出して、もう人のかたちを保っている事が苦痛になってきた。明日まで持つかどうかも解らない。
リィ。
また水槽に戻って、同じ異形の子でも孕むか。それとも、海へ帰るか。あとは――。
でも、リィのことが、どうしてもずっと頭から離れない。
あの丸い水槽の前で小さな、あどけない顔でじっと、ずっとユージンを見てくれている子供は、やがて背も伸びて力強くなって、それでもずっとユージンを見てくれている。
これは空想だ。知っているのだ。本当はずっと、見ていたのはユージンの方だ。
ユージンが彼を、ずっと見つめていたのだ。
どうしたら彼がまた、ユージンの目が届くここに来てくれるだろう。見てくれるのだろう。
「……っ」
ただ、アンバランスに変化した身体だけがじんじんと疼いて、ユージンはぎゅっと目を閉じた。
好きだなんて言えない。この、透明な手で胸をぐちゃぐちゃにこねまわされてるみたいなじんじん疼く痛み、咽が詰まって出て来ない声、まだ何なのか解からない。
あの男の言う「好き」と同じなのか解からない。教えられた言葉にまだ今ひとつ馴染まなかったから、好きだなんて言えない。
「リィ」
形作られた、人間を受け入れる為の女性器に人の指が探るように触れる感触を思い起こして、ユージンはおずおずと細い指をあてがった。そこにリィが触れてくれている空想が浮かんで、罪悪感と情けなさに涙が零れた。
「……あ」
人間同士の性交など見た事はなかったから、ろくに使い道の解らない器官だったけれど、それでもじんわりと背筋に染み込む快楽が起こった。
「はあっ……」
リィを想って性器を弄くる行為は、最低だが気持ち良かった。
「あっ、あ……」
そう時間を掛けずに上り詰めてしまって、ユージンは目を閉じて震えた。初めて、それは自慰を経験した。
「…………」
虚ろな目で四肢を投げ出して浮遊したまま、ユージンは微かに薄い唇を微笑のかたちに歪めた。見ているのは、いつだってユージンだった。
ならもっと、もう少しだけリィを見ていたい。彼が見てくれなくても、いや、それは本当に最後だけでいい。
あと二日。この腐り掛けた肺でも、その位は持つだろう。今までずっと想っていたのだから、ほんの少しの間だけでも成長した彼を見ていたい。
その日は珍しく朝からフォルテッシモの姿を見る事ができて、2年4組の彼のクラスメイトはざわめいたが、理由を知るものは誰もいない。
彼はだるそうに筆記用具をくるくると回して、ノートも取らずにぼんやりとして、時折優の顔を見つめてきた。
胸が痛い。彼に見つめられて心臓がうるさく鳴っているせいもあるのだが、優ははっきりと自覚した。そろそろ、本格的にまずいことになるかもしれない。
呼吸が苦しい。十年前は、確かもう薬液を入れられた浅い簡易プールに運び込まれていた時期だ。
額に冷汗と脂汗が浮かんで、それを誰かに気取られはしないかと優は心配だった。それなりの措置を取られたりしたら、あと二日もあるのにリィの顔が見れなくなる。
もう誰のデータも奪わずにいることを決めていた。ただ最後、肺が完全に腐り落ちて泡になって、半分魚のあの身体に戻る前に、リィに最後のお別れを言うのだ。
最後くらい、彼がユージンを見てくれると良いのだけれど。
そんなことを考えていたから、優は痛みも辛さも表に出すわけにはいかなかった。だからいつもの能面のままだ。
「天色、おまえどこか具合が悪いんじゃないのか」
「……え?」
さっきからずっと優を見つめてきていたリィが、低く囁いた。優は彼に顔を向けて、ぎこちなく微笑してみせた。
「いや……特にそういうことはない。平気だ」
きつい眼光が優を射る。
「……この嘘吐きめ」
吐き捨てるようにそう言って、リィはいきなり立ち上がった。問題の多い彼の突然の行動に驚いたのだろう、唖然としている国語の教師に、リィは優を指差して良く通る声で言った。
「先生、天色優があまりにも具合が悪く見えるので、保健室に連れて行ってきます」
「え」
きょとんとした優に目をやった教師もリィと同意見だったようで、無言で頷いてまた授業に戻った。
「行くぞ」
「あ、おい」
慌てたような優を引き摺って、リィは教室を後にした。
保健室には誰もいなかった。保健教諭は出払っていて、開けっぱなしの窓から入り込んでくる風が白いカーテンを揺らしていた。
「寝てろ」
「あ」
そっけなくそう言って、踵を返して行ってしまおうとするリィを呼び止めようとして、優は降ろされたベッドから脚を踏み外して落下した。重い物音にリィは緩慢に振り向いて、面倒臭そうに優を抱き起こした。
「…………」
「ああ……すまない、リ……フォルテッシモ」
リィ、と彼の名前を呼んでしまいそうになって、慌てて言い直して、優は激痛に眉を顰めながらもベッドに戻った。
「痛いのか」
さして答えを求めるふうでもなく訊いてきたリィに首を振って、優は彼に気取られないように返した。
「いや、ちょっとした持病みたいなものだ。昔も一度経験したことがある」
嘘は言っていない。まだ疑っているらしいリィに、優はなんでもないのだと続けた。
「問題ない。モルヒネとかいう薬を打っていれば、全く気にならない位のものだ」
優にとっては当たり前のごく平然とした答えだったが、リィにはそうでもなかったらしい。目を見開いて、そうして優の胸倉を掴んだ。
「滅茶無茶大事だろうが!」
「そうでもないと言ってる」
「おまえ、なあ……」
諦めたみたいな溜息を吐いて、リィはかぶりを振った。
「その顔であまり喋るな」
リィはもう一度溜息を吐いて優を見て、しばらくしてから今度は全然別のことを口にした。
「なあ」
「………?」
「おまえ、人魚って、いると思うか」
「…………」
「やはり、その反応じゃおまえも同じか」
彼の言葉に目を丸くした優を見て、リィは気恥ずかしそうに顔を少し赤くした。
「忘れろ」
「おまえはいると思うのか」
ユージンは静かに彼に囁いた。リィは、しばらく迷っていたが、ああ、と小さく頷いた。
「見た事がある」
「そうか」
「そうかって、おまえな」
軽くあしらわれたのだと思ったのか、苦々しい顔をするリィに、優はまっすぐに顔を向けて言い放った。
「自分で見たものくらい信じろ」
リィは一瞬言葉を無くしたようだった。優の顔をじっと見て、成長した彼は初めて穏やかに微笑み掛けてくれた。
「そうだな。おまえの言う通りだ」
そうして、またしばらくの沈黙が落ちた。それを先に破ったのは、リィだった。
「好きな奴がいる」
「え」
「俺の事だ。ずっと昔に見た奴だ。いい女だった。ガキの頃だけどな」
「…………」
「だが、あいつは本当に存在したのか、今も生きてるのか、さっぱり解らん」
「…………」
「おまえに似てるんだ。それだけだ。……この話は、恥ずいから忘れろ」
リィは、らしくない自分に真っ赤な顔で、自己嫌悪したように頭を掻いていた。優と顔を突き合わせていることすら恥ずかしいのか、彼はすぐに部屋を出て行こうとしたが、優の様子をちらりと振り返って確認して、そうして唖然とした。
そんな、人魚の話をするなんて。本当に存在したのか解らないもの、彼が一度だけ見たそれというのは、そんなふうにして語られると、期待してしまう。
彼はずっと、水槽の中の「ユージン」を、もしかしたら見てくれていたんじゃないか?
優は震える声で、だが気取られないようにそっけなく訊いた。
「それ、おまえの言う人魚と言う奴か」
「だったらどうする」
ぶっきらぼうな彼の返事は、言外に肯定していた。
もう、どうすればいいのだろう。胸が痛い、熱い。目も頬も熱い。
俯いたまま、優はまた訊いた。
「今も好き?」
「ああ……」
ばつが悪そうに、だけれどよどみなく彼は答えてくれた。そして優を見て、目を見開いて狼狽した。
「なんで泣くんだ!?」
泣くという行為は解らなかったが、優は頬を流れ落ちる液体に呆然とした。
リィはユージンをずっと見てくれていたのだ。
そしてたった一度だけ彼に見つめて触れてもらっただけで、十年の間想っていたユージンと同じくらい馬鹿だ。いや、短命種の人間のくせに、大事な時間をそうやって成長したなんて、ユージンよりも馬鹿だ。
誰にも信じて貰えないのに、そしてユージンよりももっと再び遭える希望が薄いのに、
「馬鹿だ……」
「う、うるせえっ!」
泣き笑いのような優の顔に、リィは怒鳴った。彼から言い出したくせに付き合っていられないといったふうに、今度こそ背中を向けて歩いていってしまう。
「フォルテッシモ」
優は彼を呼んだ。多分、この名前で彼を呼ぶのは最後だと思う。
リィは振り向かないまま立ち止まった。彼の背中に、優は笑い掛けた。
笑ったのだ。
きっと彼には見えなかっただろうが、確かに柔らかく本当に笑顔を浮かべた。
「また明日、遭えるかな」
「同じクラスだろう」
つまらないことを訊くといったふうに、そっけなく答えて彼は行ってしまった。優はまだ微笑を浮かべたまま、柔らかいベッドの中で枕に頬を擦り付けた。
片方の肺はもう潰れてしまったようだった。痛みすら感じなくなってしまったからだ。
それでもあんまりにも胸がざわめいて、どうすればいいのか解らない。
リィ。
明日、彼に遭ったら。
明確なイメージを持って、優はまどろみはじめた。夢でも幻想でも、幻覚でも、思い過ごしでもないこの、本当の身体を見て欲しい。
ずっとユージンの夢でそうあったように、じっと見つめて欲しいのだ。彼の目に触れることができるなら、こんな二本の足も声ももういらない。全身泡になって、溶けてしまっても構わなかった。
そうして、薄い意識を手放した優は夢を見た。
ユージンはリィの、彼の目の前で、彼の腕に抱かれながら溶けていく様をじっと、ずっと見られていた。
彼は時折ユージンの名前を呼んで、好きだと言ってくれた。溶ける激痛の中でも、それはあまりにも甘美な恍惚だった。
最後の日。
ユージンではなく、まだ天色優だったそれは、昨日と同じように数時間早く登校した。
朝焼けの残滓が空を染めている中で、まだ薄暗がりの教室の、リィの隣の自分の席に座って、そうして辛抱強く待っていた。彼を待つ事にはもう慣れていた。
少しずつ空は明るくなっていく。朝焼けのなかで、それでも昨日のような喧騒はなにも聞こえないまま、優は小さく呼吸していた。
大きく息を吸ったら、もう肺が破れてしまいそうだった。
足が痛い。体が上から押さえ付けられているみたいに重い。突然造られて酷使された移動器官は、もう陸上での機能はぎりぎりにしか果たさなかった。
代わりに、本来の水棲生物の特徴を、少しずつ取り戻し始めていた。死に掛けた肺器官が、酸素を求めて痙攣した。
苦しい。それでもそれは彼と同じものだった。ずっと好きだったのだ。心、想いを、感情すらも、彼がそこにいたそれだけで生まれた。
始めてその感情を理解して、優はただ待っていた。
彼に言うのだ。水を震わせて、それでも伝わらない方法じゃなく、そのままに自分の言葉で、手に入れた声で。
リィが好き。十年見ていた。彼だけ。
水槽の中で、ずっと夢と現実と、そのどちらの中でも。
同じ体ならきっと、彼も見てくれる。好きになってくれる。そう思って、ずっと待っていた。
永遠に近い生を生きるそれには全然大したことじゃなかった。
それでもリィは結局は優を見てくれなかった。彼が見ていたのは、人である天色優ではなくて、鑑賞魚のユージンだったのだ。それがほんの少しの安堵をもたらしてくれた。
いつまで経っても誰も来なかった。訝しく思いながらも、それでも優は待っていた。
リィは、また明日会えると言ってくれたのだ。今日でなければ駄目だったのだ。
時計の針は直立した長い針に左側で直角になって、昨日ならば数十人が一度に集まった時間帯なのに、それでもそこには優が一人だけだった。
――と、
「アホか、おまえは」
聞き慣れた声が聞こえて、優は顔を上げた。横開きの扉が開いて、リィが顔を出した。
彼は『なんで俺が』というような顔をして、足早に優に近寄ってきて、そうしてその頭を無造作に叩いた。
「祝日に学校に来る奴がどこにいる。今日は休みだ阿呆」
完全に呆れた調子でものを言われて、しかし優は頓着しなかった。
「でも君に遭えた」
「おまえが「明日会えるか」とか言うからだ。あのな……」
言い募ろうとして、リィは優の顔を覗き込んだ。そして、はっとした。
「おまえ……」
肺の血管が破れて、流れ出した血液が咽から溢れて、まばらな斑点状になって優の制服を汚していた。それでもなんでもないふうにして、優は立ち上がった。
「少し、話さないか」
背の高いリンデンバウムの木が、ざわざわと葉を擦らせていた。
地面に敷かれている煉瓦はもうぼろぼろで、あちこち罅割れて、その隙間から雑草に浸蝕されていた。それでもドーム状のガラスは、黄ばんではいたけれど綺麗なままに残っていた。もう見慣れた廃病院の跡地は、学校から程近いところにあった。
リィは優の胸の血痕については何も言わなかった。ただ木の幹にもたれて、張り出した木の根っこの上に座って、世界そのものを物珍しいふうな目で眺める優にじっと視線を向けていた。
優は朽ちた廃病院の跡に大した感慨も見せないで、リィの顔だけを見ていた。それは奇妙なにらめっこのようだった。だが、それをとやかく言う人間はここには誰もいなかった。
最初に口を開いたのは優だった。
「大きくなってて、びっくりした」
「ああ、この木か?」
確かに成長しただろう樹木を叩いたリィに緩慢に首を振って、優は真っ直ぐにリィを差した。
「君がだ」
訳が解らなさそうな表情を浮かべたリィに、優は続けた。年老いた老人が成長した孫を見るみたいな、そんな目だ。
「あの時のままなのはぼくだけだったから、最初は解らなかった。ただずっと見ていたし、見ていて欲しかった」
「天色?」
遺言でも綴っているみたいで、しかしリィ舞阪にはそれに近いものであることは良く解った。
何故かは知らないが解った。何か死に至る病に、この天色優は掛かっているのかもしれなかった。
最初に遭った時の凛とした声ではなくて、しわがれた老人みたいな響きだったが、その顔は綺麗なままで、まるでそれだけを言う為だけに生まれてきたみたいに、全部で優ははっきりと告げた。
「リィ舞阪。好きだ」
これは、なんなのだろう。長い年月、日が昇って沈む間ずっとそれだけを想っていたような、蓄積された想いがその鮫みたいにとろりとした薄っぺらい目の奥にあった。
人間じゃないみたいな、まるであの日リィが見た人魚みたいな目だ。
「ぼくは君が、ずっと好きだったんだと思う」
そうして天色優は微笑んだ。
「ぼくはまた嘘を吐いていたんだ。謝るから、訊いて欲しい」
声にはもう抑揚がなかった。無理矢理に読み上げるみたいに空気を震わせる、それは意味を持ったただの音だった。
彼女はそれでも構わない、もう大事な事は済ませてしまったのだというふうに、弱々しくかぶりを振った。
「ぼくの名前は、本当はユージンという」
リィが理解するより早く、優、ユージンはそれだけ吐き出して、そうしてそれがほとんどその肺から発するまともな最後の言葉になった。
最後の呼吸を吐き出した途端、もう死に掛けていた肺は綺麗に弾けて泡になった。
体が変わり始める。それはもう、人間ではなかった。くずおれるように胸を押さえて倒れ込んで、苦しげに震えた。
しかしその顔には焦りも痛みへの嫌悪もなかった。やるべきことを、すべてやったのだ。
「――ユージン!」
彼が名前を呼んでくれる、強い声が聞こえた。
まるで子供みたいに狼狽しているリィの腕が伸びてきて、抱かれて、ユージンは呼吸がかなわないまま彼の顔をぼんやりし始めた視界で確認した。彼はユージンを見てくれていた。
「リィ」
なけなしの、欠片だけ残った声帯で、彼の名前を呼んだ。二本の脚が、何故ここには掻き分けて泳ぐ為の水がないのかを訝りながらも、水棲のそれへと変化しはじめた。
人魚は、その美しい生き物は最期に汚らわしい遺骸を残さない。
「見て」
生命をそのままに溶かした綺麗な泡になって、海中に溶けていくのだ。酸欠の魚みたいに口を開けて、声にならない声でずっと遭いたかった彼の名前を呼びながら、ユージンは手を伸ばした。
成長したリィに触れたかった。
「見ていろ、頼む」
こんな見世物みたいな身体ではなくて、綺麗な泡になっていく姿を彼に見て欲しかった。
伸ばした指先から泡になっていく。溶けていく。
「――そばにいろ」
人に見えるけど魚に近いから心なんかない。水棲生物は声を発しない。そんなものは嘘だ。
ユージンはこんなにもリィが好きだ。
だからずっと、人魚にとって一番綺麗な泡になって消えてしまうところを、誰よりも好きな彼に見てもらいたかったのかもしれない。それが人魚の、人間の愛し方だ。
呼吸ができなくて死に掛けている人魚を腕に抱いたまま、リィは呆然としていた。
リィにこうやって泡になっていく姿を見せ付けて、あの日見た、彼がずっと追い掛けてきた人魚は今死のうとしていた。
綺麗に淡い燐光を放つあぶくはとても綺麗だった。しかし、違うのだ。リィが見たかったのは死に掛けの人魚ではなかった。あの綺麗な微笑を。
昔そうであったようにリィに笑い掛けて抱き締めた、柔らかな白い肌に触れたいのだ。
「やめろ」
白くて棒のようだった脚は、今はすべらかな光沢を持った鱗に覆われていて、それは半ばまで溶けて消え始めていた。
どうすればいい。水場まで移動させようと抱き上げてしまえば、一息に泡になって弾けてしまいそうで、それが怖くてリィは身動きできなかった。
「消えんなよ、なあ、やめろユージン」
そんな穏やかな、幸せを映した顔で腕の中で消えてしまうなんて、絶対に認めない。リィが見たいのは、そんなものではないのだ。
「おまえが死ぬところなんか、見たくもねえんだよ」
切実な囁きに、ユージンは傷ついたように顔を歪めた。彼は、そんな人魚の身体を強く抱きしめた。
違う。違うのだ。死に顔の美しさなんて、後に残るのは痛みだけなのだ。
側にいて、いつだって手の触れるところにいて、そしてユージンを抱き締めたい。異常な性癖だと誹られても構わないほどに、彼はその半分魚のユージンに恋をしていた。
人間なりに種として当然の方法で、ユージンとはまた違った愛し方だったが、確かに彼はユージンのことが好きだったのだ。
涙が零れて、それはユージンの胸を濡らした。人魚はどうしたらいいのか、解らない顔をしていた。
それにしてみれば、好きになってしまった人間に看取られて泡になって弾けてしまうのは最高の恍惚だっただろう。
だが、リィは違うのだ。ずっと死ぬまで、側にいてほしい。泡になるのはその時でいい。
だから今は、ただ単にユージンが欲しい。リィは恍惚と困惑を浮かべているユージンの、薄い唇に噛み付いた。
唇を割って侵入してきた舌は歯列を舐めて、咽まで差し込まれて、もう息はできなかったから同じことだったけれど、ユージンは熱さに涙を浮かべた。
彼は混乱して必死で目を逸らすまいとして、それでも泡になっていくユージンに好きだなんて言ってくれなかった。穏やかな死はどこにもなかった。
ただ死ぬなと繰り返された。舌を絡められて彼の味と、今彼が心底願っているひとつの感情が痛いくらいはっきりとユージンに浸蝕してきた。
生きろ。そばにいろ。そうして、人間としての欲望がそのままに伝わってきて、ユージンは顔を赤くした。
ユージンを抱きたい。
人としての愛し方はあまりにも直接的で、ユージンは泣き出してしまっているリィを、ようように手を伸ばして抱き締めた。
――大丈夫だ。
泣かなくても、大丈夫だ。彼はどうしようもないくらい人間なのだった。
人魚の価値観を押し付けて愛することは、もうそれにはできなかった。
零れていく泡は彼女の生命そのままだった。
リィの口付けから人間の情報を遺伝子に組み込んで、それでもほんの少し、完全に泡に消えてしまう前に人に戻れるかなんて自信が無かったけれど、ユージンは必死で変化しようと努めた。
死ねない。リィが泣くから。
夕暮れ、辺りは薄暗くなって、ふわふわとした泡は一際その輝きを増した。
ずっと抱き締められていて、変化している間ユージンは温かい彼の体温にうっとりしていた。気持ち良かった。
冷たい身体に染み込むような彼の熱は、ユージンを人の体温に酔わせた。
「リィ」
泡に塗れたまま再び動き出した肺で、今度ははっきりと空気を震わせて、ユージンはまだ焦点がうまく合わない目で彼に囁いた。
「すまない」
「生きてるのか……?」
まだほんの少しの不安と、そしてまだ人魚がそこにいる安堵がまぜこぜになった複雑な顔で、リィはユージンの顔を覗き込んできた。
「もういいんだ」
ユージンは、感情をうまく動かせない泣き笑いみたいな顔でリィに微笑を向けた。
「こういうのは嫌いみたいだから」
リィはまた泣き出しそうな顔をしたが、顔を背けて、ああ、嫌いだ、と言った。
その代わり、彼には聞いてもらおう。
十年間見ていた彼の夢と、成長に驚いた事、どうやってここまで来たか、そうしてどれだけユージンがリィの事を好きなのか、まあいろいろだ。
夜が来て、真っ暗になった夜空の下、灯りの何もない朽ちた廃屋からは綺麗な星がいくつも見えた。
辺りには誰も居なかった。
下草の感触とリィの温もりと、少し肌寒さを感じながら、ユージンはまた彼と同じふうな人間の身体に少し自信が無さそうに呟いた。うまく変わることが、できただろうか。
「ああ」
リィはユージンの身体を注意深く観察しながら、白い咽、頬、項へと視線を落として頷いてくれた。
咽元には鰓は無かった。
ユージンの脚はまた細い二本の棒のようになっていて、彼はその裸足の足のつま先から、膝の裏を触りながら付け根までじっと見て、鰭も鱗も見当たらない、と言った。
彼はその観察する視線でユージンの身体をしばらくじっと眺めていた。ふいに、ユージンはふと気付いた。
彼は、観察してるんじゃない。ただじっとユージンを見てくれているのだ。
薄い胸も、白い足も、そうしてその奥まったところ、身体の一番深くにある性器すらも。
「あ」
ユージンは、頬が熱くなった。人間に変化した人魚は、好きになった人の視線に全部晒されることに、初めて羞恥を感じた。
「ユージン」
見つめられて、そうして名前を呼ばれた。彼が何をしたいのか、もうユージンは知っていた。
舌を絡められて彼の味を知った時に、痛いくらいに解ったのだ。リィはユージンを抱きたいと、欲しいと思っている。
ユージンの全身を、剥き出しにされた四肢も、薄い布地に覆い隠された平坦な胸も、顔も、鮫みたいにとろりと冷たい目も、余す所なく凝視されている。
ユージンは耐えきれなくなった。恥ずかしい、と思った。リィ舞阪にそのままの身体を見られていることが、ひどく辛いくらいに恥ずかしかった。
ずっと裸のままガラス瓶の中に保存されていたそれにとっては、信じられないことだった。彼に見つめられることを切望していたそれは、初めて逃げ出したくなった。
顔を赤くして、ユージンは小さく震えた。戸惑うように目線を逸らそうとして、しかしそれを許さないみたいにリィに抱き締められた。
リィの手が、見ているだけでは足りないようにユージンの肌に触れて、撫で始めた。胸と腰に触る彼の手はやはり熱くて、ユージンはきゅうっ、と目を閉じた。
「ユージン」
間近で彼がユージンを呼ぶ声がして、反射的に開けた目は、本当にすぐそばに彼を捉えた。
額が触れ合って、そうして唇を重ねた。向き合った格好で重なり合って、その腹部にふいに何か硬い感触が当たって、ユージンは訳が解らなくてリィを見た。
「セックスの仕方、知ってるか?」
ユージンは緩慢に首を振って、俯いて訊いた。
「どうすればいい?」
人間同士の交尾は見たことがない。戸惑っていると、リィはゆっくりとユージンを押し倒した。
背中に柔らかい雑草の感触が触れた。じっと彼を見上げていると、ふいに腹部にそれは直に触れた。
着衣から取り出された彼の性器は、つっと緩やかにユージンの肌の上を滑って、脚が分かれ始めているところでぴたりと止まった。
その形状、長い、太いかたちから人間の性行為がどんな具合であるか、おおよその見当がついた。
ユージンは、彼に促されるままに脚を開いた。触れるとじんじんとする、この身体に付属した性器は彼のものと触れ合って、水音を立てて擦れた。
「――痛いかもしれんぞ」
「いいよ」
「……そうか」
痛みとか、そんなようなものは今更だ。それよりも、また呼吸がままならなくなったことの方がユージンには心配だった。
肺は正常に機能しているはずだったが、本当に彼と同じ身体なのかが少しだけ心配だった。
押し上げるように突起状の硬くなった、他の部位よりは随分と赤く鬱血した部位がユージンの股の間に潜ってきた。
はじめは上手く入らなかったが、それでも少しずつ、少しずつその形状はユージンの身体の中に埋まっていって、すぐに見えなくなってしまった。
圧迫感と切迫感、そんなものと一緒に他ならないリィの熱さを全部で感じて、まるで泡になるよりずっとどろどろした液体みたいになって、リィに溶かされていくみたいな錯覚が起こった。
「……っ! リィ……っ」
力が抜けた。リィはユージンの脚を抱えて開かせて、細い腰を掴んで身じろぎするみたいに揺らした。
「あっ、あぁ……」
それは少しばかり強烈な感触だった。中に収まって、身体の内部から溶かしていくようなただ熱いのとも違って、彼とユージンの性器が擦れて、染み込むように頭の芯が痺れた。
「――ユージン」
気持ち良さそうに吐息を零しながら、リィはさっきよりもいくらか強く腰を揺らした。また中でぬめって擦れて、ユージンとリィは痙攣して震えた。
「ユージンっ」
「……っ! あっ、うぁっ」
堰が切れたように急に激しく動かれて、ユージンはたまらずのけぞった。もう擦れるだけではなくて、身体の中身を突き上げられて、中の膜に彼の性器の先端が何度もぶちあたった。
初めはひどい激痛を伴ったそれは、しばらくするとどうしようもないくらいに熱くて甘美な疼痛へと変化していった。
「あぁっ、リィ……ぃ、はぁ……っあ、あああっ!」
肺と空気を震わせて、人間の綺麗な声でユージンは鳴いた。
「……っ、はっ、ユージン……っ!」
彼は全力でユージンを貪っていた。ユージンにしてみても、それは同じだった。
リィの熱さを全部で受け止めて、受け入れてしまいたかった。
冷たい身体が温められて、同じ人間として彼の欲望を満たすことができている。
それは、まぎれもなく恍惚だった。
心臓がどくどく煩く脈打って、同じ位彼に心音を刻まれて、まるで本当に溶け合っているみたいだった。
これが人間同士のセックスというものなのだ。なんて熱くて、心地良くて、そうしてすごく安堵するのだろう。
好きになってしまった人と、こんなにも真剣に触れ合える行為があるなんて、ユージンは知らなかった。
「……う、あっ、ユージンっ」
ぎゅうっと強く、強く抱かれて、背中に腕が回されて、震える彼はユージンの中で射精した。熱い精液に感度を押し上げられて、ユージンはもう半分泣きそうになりながら、余韻に震えて何度もつま先まで痙攣させた。
「……リィ……っ、リィ……」
好き。大好きだ。ずっと見てて、君が好きだ。
初めて人を好きになって、その人にこんなにも求められて抱かれて、熱い体温をどこまでも刻まれて、どうすれば良いのか解らなかったからユージンはもう泣き出すしかない。
水は好きだし、陸上で生きることが大変なのはもう変えようがないことだった。
水槽の中でまどろんでいるだけだった生き物にとっては何もかもが目移りするほどに新鮮だっただろう。だけれど、それは他のものには目もくれずにただ彼だけを目で追っ掛けた。
好きになって、恋をするのは人間も人魚も同じで、そんなものだ。
日に日に人間らしくなっていくと父親に苦笑されながら住処にしているホテルを出て、優はもう馴染んでしまった制服と二本の脚で学校へ向かっていた。
朝8時、登校の時間帯だ。その姿は奇妙に強張っていて、落ち付きなくじっと辺りを伺っていた。
「朝から挙動不審だぞ、ユージン」
「…………」
後ろから今日もこんなに早くから登校してきたリィに呆れたみたいな声を掛けられて呼び止められて、優は苦々しい顔で振り向いた。
リィ舞阪、あだ名はフォルテッシモ。優が一番好きな彼は、優を「ユージン」としか呼ばない。
その彼を目にして、優はふうと溜息を吐いて、安堵したように力を抜いた。
「おまえも不便な身体だな。決まったみたいに毎朝野良猫とカラスに襲われて」
「まだましだよ。昨日は犬もいたから」
「そうか」
また少しばかり背丈が伸びたリィは、少し気の毒そうに優の首に腕を回して肩を抱いて、そうしてその耳元で囁いた。
「もう心配ない。俺がいる」
「……ああ」
何故だか彼と一緒にいると、日頃あれだけ多い捕食者の襲撃がぴったりと止まってしまうのだ。懐かれているのか、もしくは敬意を払われているのか、もしくは怯えられているのかは知らないが、優にとってはありがたい以外の何物でもなかった。
ふいにリィが優を抱いて、唇を重ねた。舌を絡めて唾液を交わらせて、そうしてふたりして顔を赤くして、ゆるりと離れた。
「今日も、これでいいだろ」
「あ……、ああ」
人の、リィの情報を脳に送られて、優は赤い顔のまま頷いた。そうして、小さな消え入るみたいな声で呟いた。
「やっぱり、少し恥ずかしい」
「……そうだな」
人の感情を理解する度に触れ合うことに羞恥を感じるようになって、ユージンは俯いた。リィも同じような顔で、無理矢理に仏頂面を浮かべている。
それでも彼は、口をへの字に折り曲げたまま赤い顔で、優の顔を見ないままに言うのだ。
「ユージン、好きだ」
「……ぼくも」
そうやって1日が始まる。
そうして、恋する人魚は好きになってしまった人のそばに、ずっと、いつもそこにいる。いつも見ている。
十年も前から見ていたその時から変わった事と言えば、彼が、あの小さかった子供がユージンよりもほんの少しばかり背が伸びて、そうして彼がユージンのことをずっと見てくれているのが夢ではなくて、他ならない現実にすりかわったことだけだ。
想う感情を言葉という、水棲にない方法で好きだと言えるようになったこと。だからもう人魚には鰓も鰭も鱗も必要無いし、魚の尾もいらなくなった。触れられる心地良さと人の温もりを知って、いつも一緒に。
ユージンはリィが好きなのだ。
【 目次にもどる 】