曜日4:22、僕が愛する魂の詩



 毎週木曜日は週に一度、あの子が、栄時が部活に出る日だ。
 彼は昨年は本当にすごかった。生徒会に運動部に文化部、同好会、ほかにもほかにも、まるでちょっとの合間でも人と繋がっていなきゃ息ができないみたいなふうだった。回遊していないと呼吸ができなくて死んでしまう魚のようだった。
 今年に入ってから栄時の身体は、前みたいに無理に耐えるものではなくなっていた。
 理由は『今年の一月から体調を崩して、春に大きな病気に掛かった後遺症』ということになっている。今までのつけが回ってきたんだと順平が言っていた。僕もそう思う。去年の栄時はちょっと生き急ぎ過ぎたのだ。そのほとんどが僕のせいだ。自覚があるので、僕はいつも悲しくなってしまう。
 栄時は相変わらず元気に駆け回ったり、友達と喧嘩したりしているけど、その反動はあとになって必ず彼に還ってくる。気を抜くとどこでも倒れるし、走ると貧血を起こす。だから運動部も顧問の先生に半分無理に休ませられて、体育もいつも見学だ。同じクラスの宮本くんが勿体無いと嘆いていた。栄時もすごく残念がって凹んでいたけれど、まあそのおかげで、彼の身体の変化も周りにばれにくくなっている。
 日常から以前あったものがいろいろ抜け落ちてしまって、だから週に一度だけ、文化部、管弦楽部に顔を出すことを、栄時はとても楽しみにしている。






「四時二十分、十秒、十一、十二……」
 僕は携帯の液晶ディスプレイに映る数字をカウントしながら、全力で駆ける。今日はちょっと出遅れてしまった。女の子に相手をしてもらうのは、正直すごく嬉しかったけど。
 僕は走る。階段を三段飛ばしで駆け下り、勢い余って購買部のカウンターに激突しそうになりながら、いつもパンを並べている年配の女性に「今日も綺麗ですね」と言うことは忘れず(『おばちゃん』なんて呼んではいけない。女性はいくつになっても大事に扱われるべき存在なのだ)、靴を履き替える時間もないので上履きのまま玄関から飛び出し、すぐに左に曲り、校舎伝いに走って、走る。
 僕は時計を見る。四時二十一分、三十秒。ギリギリのタイミングだが、なんとか間に合ったみたいだ。安心して息を吐いて、管弦楽部の部室のそばへ寄り、開け放たれている窓の下で、壁にもたれてしゃがみこむ。
 時刻が四時二十二分を指すと、部室の中からぎぃ、ぎぃ、とヴァイオリンの弦が擦れる微かな音が聞こえてくる。僕は耳を澄ませる。やがて、綺麗なメロディが聴こえてくる。僕が待っていた音楽だ。
 それは日によって少しずつ違っている。サビの部分が変わっていたり、また全然違う曲だったり、嬉しげだったり、寂しそうだったり、悲しげだったり、優しかったり、まるでうつろいやすい空模様のように、一度も同じ音楽だったことがない。
 今日はすごく良い天気だから、きっと明るい曲かなと僕は予想する。僕の予想は当たったり外れたりする。こればっかりは僕には『絶対』と言える自信がない。
 夏がじきに終わろうとする日の今日聴こえてきたのは、切なくなるくらいに優しい音だった。白い雲を擦り抜けて鮮やかな青空へ墜ちてゆく。僕は目を閉じる。無数の蝉の声のなかにあって、優しい、とても優しいメロディは、僕の身体を包み、芯の部分にまで染み込んでいく。
 それは誰かにとっては、もしかしたら取るに足らないものなのかもしれない。誰にも大事にされない音だった。弾いている人間にさえ大切にされないものだった。管弦楽部の栄時が、ほかの部員たちが来るまでのほんの数分の間奏でる、言ってしまえば慣らし運転みたいなものなのだ。
 もちろん楽譜なんかない。即興で、栄時が特に深く考えることもなく、心のままに、やりたいようにヴァイオリンを弾く音だ。僕はその音がすごく好きだった。
 僕にとってそのメロディは、世界で一番美しい音楽だった。栄時の、僕が一番愛する人間の心が奏でる音だ。どんな巨匠が作ったクラシックよりも、ヒットチャートを賑わせる最新の楽曲よりも、それは僕の心にじんわり染み込んできて、いい気持ちにさせてくれる。
 少し感情表現が下手なところがある栄時の心が、嬉しいことも悲しいことも、彼が感じたままに僕へと届く。
 これが毎週木曜日、授業が終わってから部活が始まるまでのほんの数分間だけ生まれる、一週間で一日だけ聴こえる栄時の音だ。
 楽譜のままに上手に弾くよりも、僕は栄時のメロディが好きだった。たまにつっかえながら、ふと考え込むように止まり、また唐突に始まる。僕には、それがすごく綺麗なものに聴こえる。
 柔らかい音が続き、ともすれば誰かを悼むように悲しい旋律に変わり、でもどんなふうになっても穏やかで、聴いているとまるで慈しまれて抱かれているような気分になってくる。すごく優しい音だ。纏まりがなくて散り散りで、音楽とは言えないかもしれない。でも僕はそれを聴くために、毎週決まってここへ来る。そして間に合って良かったと心底安堵する。
 おそらく面と向かって「弾いて」なんて言ったら、栄時は割と格好付けたがりのところがあったから、自分が知っている一番難しい曲を一生懸命弾いてくれるだろう。それも悪くはないけど、僕は彼の心に抱かれているような心地になれるこの即興曲が大好きなのだ。
 僕は目を開けて、顔をちょっと上向ける。栄時がどんな顔をしてこの音を生み出しているのかがすごく気になる。穏やかに微笑んでいるのか、それとも寂しい顔をしているのか、目を閉じて静かな顔でいるのか。でももし今窓から顔を出せば、こっそり聴いていたことがばれたら、栄時はもうこの音を聴かせてはくれないだろうという気がする。だから僕は我慢して、俯いて、心地良い音を静かに受けとめる。
 本当のところ、僕はこの音を一人占めしたい。でも、それと同じくらい、誰かに届いて欲しいと思う。『すごいでしょ』と自慢してやりたい。
 栄時の音楽会(もっとも栄時自身は誰かに届いているなんて思いもよらないんだろうけど)のお客さんは、残念なことに、もしくは喜ばしいことに、僕ひとりじゃない。
 僕の近くには、野球部のユニフォームを着た順平がいる。転んだりスライディングしたりしたせいだろう、土埃まみれだ。
 その隣には、ゆかりさんがいる。弓道着を着ていて、そして僕の隣にはいつのまにかアイギスがいる。ちょこんと座っている。いつ来たのか、全然気付かなかった。
 そんないろんな格好の僕らが並んでいると、たぶんすごくおかしなふうに見えただろう。みんなも僕と同じように、おとなしく座り込んでいる。
――いいよ、な。モータリンとかシュヴァイツァーとかさ、もう死んじまった外人のオッサンが作った曲よりも、オレあいつの音のほうが好きだわ。天才はダテじゃねぇのな」
「順平さんが言いたいのは、モーツァルトとシューベルトだと思われますが」
「まあ順平にクラシックなんて、コロマルとタマネギくらい相性悪いでしょうね」
 みんなはいつもみたいなやりとりをしながら、でも気持ち良さそうな顔で耳を澄ませている。僕はちょっと残念に感じながら、すごく嬉しくなる。「すごいでしょ」と言う。
「本当に綺麗な音でしょ。優しくて、まるで今生きてることがすごく嬉しいって、彼の心そのものが歌ってるみたいだね」
「お前さ、良く真顔でそういうクサいセリフが言えるよな……えーちゃんが聞いてたら照れて暴れ出すぞ」
「しっ、静かに。聞こえないじゃない」
 ゆかりさんに窘められて、僕らは黙る。綺麗なメロディはゆるやかに弧を描いて失速していき、全てを包み込むように流れ、空の向こうへ届いて、響き、消えていく。音が消えると、僕は時計を確認した。四時二十五分から二十六分へと変わろうとしていた。ほんの三、四分だけど、僕はこの時間がとても好きだ。最近の僕の、待ち遠しい、楽しみな約束のひとつだ。本当に一方的なものだけど。
 ふいに小さな拍手の音がそばで聞こえて、首を巡らせると風花さんが、ゆかりさんの隣で校舎の壁にもたれかかっていた。僕は首を傾げる。彼女は確か、栄時と同じ管弦楽部じゃあなかったっけ。
 風花さんは僕の視線に気付くと、ちょっと困ったふうに笑い、会釈して、部室の窓を指差した。
「……誰かいると、照れちゃって弾かないんです。だからみんな、ちょっとだけ、ここで」
 『みんな』と言われて見ると、確かにたくさんの顔ぶれが、彼女の隣に見える。管弦楽部の部員たちだろう。みんなぽおっとした顔でうっとりしている。
「部は四時半からだから、みんなギリギリになんなきゃ来ないって、怒られちゃうんですけどね」
 風花さんが笑い、「さ、戻ろっか」と部員たちに声を掛けている。僕らも立ち上がる。アンコールを贈りたいところだけど、いくらもっともっと沢山の綺麗なメロディを受けとめたくたって、そいつをしないのがこの音楽会のマナーなのだ。演奏者はとても、ものすごく恥ずかしがり屋さんなので。
――いよっし! オレも頑張っぜ! 夢はメジャーリーガーだかんな!」
 順平が立ちあがりついでにガッツポーズを決めて、元気良く言った。
「ハア? あんたの夢はちょっと分不相応にデカ過ぎんのよ。空振り王のくせに」
 ゆかりさんが呆れた目で彼を見ている。僕は笑う。未来の夢を見る人間の魂はとても綺麗なのだ。いつも、いつだって綺麗に燃えている栄時の生命の炎が、僕には見える。あの子は毎日一生懸命に、未来にはきっと楽しいことがあると信じて歩いている旅人なのだ。白くて、眩しくて、きらきら輝いていて、本当に綺麗なのだ。星を覆う夜を眩く照らす日のひかりみたいに。
「だからな、こーいうのはなれるって思ったらなれちまうもんなんだよ。見本っつーか、お手本っつーかさ、そーいうのスゲー間近にいると、なんかそーいう気分になってくんだよ。オレは何でもできる、何にだってなれるんだってさ」
 順平が照れた顔で帽子のつばを弄っている。
「エージは、ほんとスゲー奴なんだわ。ファザコンのちっちぇえガキだけど」
 僕も同意見だ。栄時はすごい。あの子を見ていると、僕も何でもできる気分になる。何にだってなれる気分になる。死の影でしかない僕が、生き物になれるような気分になる。青い夜である僕が、真昼の青空みたいになれる気がしてくる。
 死は誰にでも訪れる。でも僕は栄時といると、死を想い、怖がる人間になれるような気がしてくる。
 怖がりのあの子の往く先を照らすひかりになりたいと、僕は思う。僕はみっともない暗闇でしかないのに、そんなふうに思ってしまうのだ。
 栄時の優しいメロディと、あの子の笑顔を想うだけで、僕は世界中の誰よりも幸せな人間になったような気分になる。
 そう、僕はもう、人間だ。
 人間なのだ。
 栄時がいるから、僕は僕になれた。
 そんなふうに思ってしまうのだ。
「すごい子でしょ?」
 僕は微笑む。
「なんたって、僕の自慢の子供ですから」
 順平とゆかりさんが「また言ってるよコイツ」と苦笑して、それぞれの部活に戻っていく。アイギスは僕の隣でにこにこしている。「ほんとにすごいです」と言う。その顔は、まるっきり可愛い女の子のものだった。僕はもとより、恥ずかしがりの栄時まで、ついぽーっとなってしまうくらいに綺麗な顔だ。
「あの子がいたから、わたしたち、人間になれたんですよね」
「うん」
 僕は頷く。
 そして窓からは様々な音が零れ出す。ざわめき、楽しげな笑い声、大太鼓を叩く音、ピアノの旋律、そして楽譜のとおりに奏でられるヴァイオリンの音。僕は時計を見る。時刻は四時半を回っている。
 そして僕らは歩き出す。今日は何だってできる気がする。毎週この日食事当番の僕は、ポケットからくしゃくしゃの買い物リストを取り出し、指でとんとんと突付き、確認する。今日こそはできる気がする。毎週木曜日、「なんでそんな無謀な挑戦をするかな……」と栄時とアイギスが声を揃えて言う、いつも失敗しているロールキャベツのトマト煮込みだって、たぶん平気だ。
「……綾時さん」
「ん? なんだい?」
「無謀な真似はやめてくださいね?」
「あは、何言ってんの。僕にできないことはないんだよ」
 だって僕は人間になれた。僕に不可能はない。
 僕の名前は望月綾時。何だってできる栄時の、お父さんだ。









[木曜日4:22、僕が愛する魂の詩:終]





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