月家育児日記




●月●日(火)


『夜勤です。栄時をよろしくお願いします』



 起きたらシチューの鍋と一緒にこんな書き置きがあった。いつもながら几帳面で綺麗なアイちゃんの字だ。ちょっと硬いなあとは思うけど、僕はそんなところも好きだ。字も彼女自身のこともだ。
 アイちゃんはいなかった。きっと僕が寝ている間に家に帰ってきて、また出て行ったんだろう。彼女の部署は今地獄のような忙しさだって聞いている。毎日徹夜続きですごく身体が辛そうで、できるなら僕が代わってあげたいなと思う。何か手伝えたらなと思う。でも僕らの得意分野はまるで正反対だから、頑張ってもあんまりお力にはなれないだろう。せめて私事面では役に立ちたいなと思う。僕は実はすごく家事が苦手なんだけど。
 僕らは桐条エルゴノミクス研究所の同僚で、ちょっと前に家族になったばかり。夫婦だ。そして、



――っああああああん!」



「わ、わわわわわっ!」
 僕は慌てて飛び起きて、ベッドから飛び降り、スリッパを突っかけて、つんのめって転びながら、傍のベビーベッドを覗き込む。
 小さな、まだひとりで満足に立ったり歩いたりもできないくらいの子。僕の子だ。
 僕の名前「綾時」と、アイちゃんの名前「愛栄」から一文字ずつ取って、名前は栄時。えいじ、って読む。
 男の子なら栄時、女の子なら愛綾はどうかなって、どっちが産まれてきても大丈夫なように、僕は頑張って考えた。残念ながら今回「愛綾」は使われなかったわけだけど(まーやちゃん、って呼ぶのも夢ではあったので)、また次の機会にってことで。僕は女の子を持つのが夢だったりする。
「ふあっ、あぁああ、ふぇええええっ……」
「あ、ああよしよし、泣かないでいい子だからね……」
「やぁ、あああああん!!」
 僕が近くにいると知ると、栄時はますます激しく泣き出した。僕はこっそり溜息を吐く。まったく、泣きたいのはこっちだよ。
 栄時はアイちゃんにべったりで、父親の僕に全然なついてくれない。なついてくれないどころか、僕の顔を見たら、今こんなふうに泣き出しちゃう始末だ。あのね、確かに君が産まれたすぐ後、僕の部署が忙しくなって、しばらく帰れない日が続いたりしたけど、これはあんまりじゃないのかい。僕が何をしたって言うんだい。これじゃまるで僕が君を虐待しているみたいじゃないか。
「な、泣かないで栄時」
「やっ、あああ、やああん……!」
「あの、何もしないよ。お父さんだよ、パパ、ね?」
「ふっ、ええぇ、やあああっ!」
「……アイちゃん、早く帰ってきてよぉ……」
 僕は途方に暮れて天井を見上げた。じわっと目が潤んできた。そりゃ確かに、女の子が欲しいなあ、って思うことはあるけど、でもちゃんと僕は君が生まれてきてくれて嬉しいって思ってるんだよパパなんだから。だからそうやって僕をすごく怖い生き物みたいに見るのは止めてくれないかな。ねえお願いだから。



●月×日(月)


 今日もアイちゃんは夜勤らしい。帰り際に研究所のエントランスで偶然会って、じゃあ食事にでも……って誘ったんだけど、「そんな暇ありません」って斬り捨てられた。かなりピリピリしている。イライラしている。連日徹夜続きに加えて、きっとアレなんだろうな。月のものが来ちゃったんだろうな。女の子は大変だ。今更だけど、僕らの職場の環境はすごく女の子の美容と健康に良くないなあと思う。
 帰ったら、今日はアイちゃんに寝かし付けられて栄時は眠っていた。フロストくん人形を大事そうに抱いてすごく静かだった。息してるのかなあって心配になるくらい静かだった。
 こんなに小さいのに両親揃って共働きで、しかも地獄のように忙しくて、ろくに抱いてもあげられない。こうやって一人寝もいつものことだ。
 教育上、こういうのはあんまり良くないんだろうなあって、分かってはいるんだけど。ベビーシッターでも探してみようかな。
「栄時、ただいま。パパだよー」
 僕は栄時のおでこをつんつんと突付いて、起こさないように小声でこっそり言う。起こしたらまた泣いちゃうからって、ちょっとびくびくしながらだ。なんだかあんまり良くないお父さんだなあと僕は思う。子供に触るのが怖いって、なんだかダメだ。この子が産まれる前までは、すごくすごく大事に大事に甘やかしてあげようと思ってたのに。
 僕は上着を脱いで、砂糖とミルクたっぷりのカフェオレを(大分苦戦しながら)作ってテーブルに着き、一息入れる。そして未来についての空想にふける。このままじゃいけないぞ。きっと良くないことになるって思う。
 まず間違いなく栄時はチェーンを通した家の鍵を首からぶら下げて学校に行くような鍵ッ子になるだろうし、もしこの子が良くない友達を作っちゃったりした時なんかに僕が「良くないよ」って言ったって、「お父さんには関係ないでしょ」とか言われてしまいそうな気がする。
 この子の僕に対する拒絶っぷりを見ていると、すごく不安になってくる。もし言葉を覚えた時に、僕のことがキライだって言われたらどうしよう。いや、それよりも呼んでさえくれなかったらどうしよう。どうしよう、怖い。



●月△日(火)


 仕事の帰りに育児雑誌を買ってきた。まだパラパラ捲ってみただけなんだけど、意外に子供に泣かれているお父さんって結構多いらしい。ちょっとほっとしちゃった。
「栄時、パパですよー。お顔覚えてくれてる……よね?」
 ちょっと不安になりつつ、僕はミルクを温めて栄時のごはんを作る。いつもは「ハイ」って哺乳瓶を渡してお終いなんだけど、「ちゃんと抱いてあげて!」って記事を読んだ後だったので、怖々栄時を抱き上げる。
 うわあ、泣かれるだろうなってかなりびくびくしていたんだけど、栄時は意外におとなしくされるがままになっている。あれって思ったんだけど、どうやらお腹を満たすのがまず優先されてるらしい。もしかしたらこの子、大きくなったらすごい食いしんぼうな子になっちゃうかもしれない。
 ミルクが無くなった途端また泣かれた。手足を振り回してじたばた暴れられた。
 ハイハイ、アイちゃんじゃなくてごめんなさい。



×月●日(金)


 栄時が、初めて笑ってくれた。
 ええと、これは幻じゃないよね? 夢でもないよね?
 この子笑わないね、っていうか感情表現あんまりしないね泣く以外ってアイちゃんと心配してたとこだったから、正直すっごく、なんというか、ほっとして、感動した。
 一緒にテレビを見てた時のことだった。子供向けの特撮ものだ。まだこの子は小さ過ぎて良く分からないかもしれないけど、敵の怪人を見て怖がって泣き出しちゃった時に、「ほら怖くないよー、面白い顔だねえ」って顔真似してあげた時のことだった。……僕の顔ってそんな面白い? 自分では格好良いって思ってるんだけど。
 でもこの子が笑ってくれて本当に良かった。僕の顔で良ければいくらでも笑ってよね。



×月×日(火)


 栄時が風邪を引いた。アイちゃんとふたりで大慌てで病院に連れてったら、「子供ほったらかして仕事?! 親としてなっとらん!」とドクターに怒られてしまった。
 今までも怒られるだろうなって思い当たるところは沢山あって、帰ってきてから泣きながら反省しました。ごめんなさい。
 栄時の熱は夜になって上がっちゃって、こんなに小さい子だからすぐにコトンと死んじゃいそうで、心配で心配でまた泣けてきた。アイちゃんもごめんなさいごめんなさいって泣いてた。
 僕は君が生きるなら代わりに死んでもいいよって、一晩中ベッドの横に座って頭を撫でてあげたり、背中を擦ってあげたり、子守唄を歌ってあげたりしてた。明日の仕事? そんなのもうどうでもいい。
 夜通し今まで触ってあげなくてごめん、怖がったりしてごめんなさい、ほっといてごめんね、女の子がいいなあなんてもう二度と言わないから、ごめんなさいごめんなさいってずうっと謝っていた。パパは君のことが世界で一番好きだよ、ママも一緒だよって言って、こんなにオロオロしてるのはきっと生まれてはじめてだってくらいにうろたえてた。
 朝になると少し熱は下がっていたけど、まだ油断はできない。治るまでずっとついてるからって傍にいると、栄時が僕の指をぎゅっと握ってくれて(すっごくちっちゃい手のひらだから、指を握るのが精一杯なのだ。こんな小さな子の何が僕は今まであんなに怖かったんだろう!)、初めて僕のことを「パパ」って呼んでくれた。
「しゃべ、っ……え? ぱ、ぱぱ、って、」
 聞き間違いなんかじゃない。栄時はにこおっと笑って(すごい可愛い顔だ!)「パパ、パパ」って言ってる。僕は「うん、うん」って頷く。
 今までこの子はどんなに心細かったんだろうって思ったら、悔しくて情けなくて、あと初めて呼ばれてすごく嬉しくて、ぼろぼろに泣けてしまった。
 ベビーシッターなんてとんでもない。この子は僕が育てる。一生掛けて、絶対僕が守ってみせる。


 アイちゃんが「ママより先に……!」ってすごいショック受けてた。ごめんなさい。に、睨まないで下さい。



▲月◇日(木)


 栄時は可愛い。まず顔は僕に似て凛々しい……というか、僕より頭が良さそうかもしれない。艶のある猫みたいな目はアイちゃん似だ。
 すごく美味しそうにミルクを飲む。離乳食にもご満悦だ。「パパ、パパ」って僕を呼んでにこーって笑う顔なんてもうたまんない。なんでこの子はこんなに可愛いんだろう。こんなに可愛い生き物が存在して良いんだろうかってくらいに愛らしい。将来が楽しみだ。
 きっとすごく美人で、可愛くて、良い子に育つだろう。僕の自慢の子供なんだから当たり前だけど。
「栄時は大きくなったら何になりたいのかなあ?」
 僕はにっこり笑って聞く。栄時はまだ意味が良くわからないらしく、「パパぁ?」って首を傾げながら(またその仕草が可愛くてたまんない!)、僕の膝に頑張ってよじ登っている。
「はい、パパのお嫁さんになりたい人ー」
「ん、にゃ?」
「ほら栄時、手、上げて。ばんざーい!」
「あじゃー!」
「わ、あは、ねっアイちゃん、栄時僕のお嫁さんになってくれるって、お嫁さんっ!」
「……寝言は寝てから言ってください。栄時は私のものです。あなたには渡しません。このダメ男が」
「ううん、栄時はかわいいね、かわいいかわいいかわいいなぁー」
 僕はぎゅーっと栄時を抱き締める。すごく良い匂いがする。子供ってみんなこんな良い匂いがするんだろうか。それともこの子だけなのかな。
 ふたりでイチャイチャしてたらアイちゃんに「いい加減に返しなさい」と殴られて、栄時を奪われた。横暴だ。



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