
『カオナシコミュ』
……パラレル、ストレガえーたんコミュ(ファルロスたんとカオナシたん)
口に変な感触が触った。むにゅ、って感じ。
僕の身体はもうめっきり冷たくなっていた。手足の感覚がない。水を吸って服は随分重くなっていた。途中でやっぱり脱いでおけば良かったなと思うくらい。
そして潮のにおいがする。汚れた海のにおいが。
ほっぺたに柔らかくて平たいものが触った。次に鼻をつままれた。そしてまた口に変な感触。喉の奥に、ふうっと空気が流れ込んできた。
「――ん、」
僕は身じろぎした。なんだか随分寒い。また布団蹴っ飛ばしちゃったのか、それとも誰かが勝手に剥ぎ取って行っちゃったのかなと考えたけど、そのどれでもないらしい。「あ、動いた」って声がする。
そしてそこでようよう僕は目を開いた。
「こんばんは」
僕の目の前、鼻先がつんと触れ合いそうな距離に、子供の顔が急にばんと現れた。歳は僕とたぶん同じくらい。
青い不思議な目をしていて、不健康なくらい肌が白い。栄養失調で肌が随分黄ばんでいる僕より顔色が悪い。
でもこういう肌の人種なのかもしれない。どう見たって日本人には見えなかった。これで『五郎』とか『ひとし』とか言う名前だったらちょっと笑えるってくらい、なんていうか、エキゾチックな感じ。
「大丈夫?」
僕は何度か目をぱちぱちして、蛍光色の空と黄緑色のまるい月を見上げて、「ああ」と悟った。僕は生きている。
ちょっとだけ頭を巡らせて辺りを確認すると、僕がダウンしているのはごつごつした灰色のコンクリートの岸の上だった。周りにはテトラポッドの群れがずうっと続いている。今はあちこちから血を流していた。
そして海だ。今は赤黒く変色して、ざわざわ鳴っている。さっき僕が飛び込んだ時には、まだ普通の色をしていたから、どうやら結構時間は経っていたらしい。鮫やお化けイカに食べられちゃわなくて良かった。僕は何か人間以外の動物に食べられたり、一緒くたに扱われたりするのがいやなのだ。
何度か頭を揺らして、頑張って起き上がった。ひどく寒かった。まあ無理もないけどなと考えながら、僕は目の前に座っている変な格好の男の子に、「君は?」と訊いた。なんか変な奴だったのだ。象徴化もしていないし、しましまのパジャマにスリッパっていう行儀の悪い姿だ。外に出るならちゃんと着替えろよな。誰も見てないからいいかなって思う気持ちはわかるけど。
彼は首を傾げて、「わかんないけど」と言った。
「君なら、あそこに引っ掛かってたんだよ」
軽くテトラポッドを指差して言った。
「そんで引っ張って持ち上げて、ねえ、大丈夫?」
「うん」
僕は頷いて、手と足と頭をぺたぺた触って確認する。擦り傷や打ち身はあるけど、大した怪我もない。
男の子はそれを聞くと随分安心したようだった。「良かった、君になにかあったら、僕も消えちゃうからね」と言う。
意味が良く分からなかったけど、どうやらこいつは僕を助けてくれたらしいぞってことは理解出来たから「ありがとう」と礼を言う。
「それにしても、どうしてこんな変なことになっちゃってたのかな?」
「……まあ、難しい大人の事情ってやつ」
首を傾げているその子に、僕は大人ぶって言った。上手く説明することもできそうになかったし、面倒臭かった。
僕は「じゃあな」と言い置いてその場を去ろうとしたけど、ふと思い当たって、「僕がここにいたって誰にも言うなよ」とそいつに言い含めておいた。「絶対内緒だぞ」と。
彼は「言わないよ」と肩を竦めた。あっさりした仕草だった。
「ただ、ねえ、君の名前を教えてよ。僕ひとを見たのって初めてなんだ。僕ファルロス。君は?」
変わった名前だなと僕は思った。やっぱり外国人みたいな名前だ。見た目どおりだ。
僕は自分の名前を訊かれた時に良くあるように、ちょっと困ってしまって、まごついた。
実は僕には名前がないのだ。貌もない。でもそれだと日常で困る場面に良く出くわしてしまうから、便宜上こう名乗っている。
「カオナシ」
「おかしな名前だね」
ファルロスがびっくりしたように言った。お前人のこと言えるのかよと思ったけど、あんまり話し込んでいる場合でもないことを思い出し、「じゃあな、言うなよ」と言い置いて、その場を立ち去った。
それが僕が彼の顔を見た初めてだった。
あろうことかあいつは僕に人工呼吸なんかしやがったのだ。ファーストキスだったのに。
造られた僕らは、狭いケージのなかにたくさん詰め込まれてピリピリしているネズミたちみたいに、ひどいストレスを抱えていた。薬を使ったり、いろんな実験をしたりして、僕らは『ペルソナ使い』という怪人に改造されたのだ。
銃で頭を撃つと、いろんなことを起こせる。火を出したり氷を出したり、怪我を治したり、探し物を見つけたりだ。でもその不思議な能力のかわりに、僕らは抑制剤とかいう薬を飲まなければ生きられない。
少し前に親を事故で亡くして、僕は孤児だった。桐条なんとかっていう大きな家(っていうか、会社)に引き取られた。でもそこでは僕は、他に何十人もいる子供たちと同じく、人間扱いはされなかった。サルやモルモットやハツカネズミとおんなじ。
僕らは街のまんなかに夜の一時間だけ突っ立っている変な塔を探索するために育てられた。育てた、なんて言っても、せいぜい半年くらいだけど。
ずうっと研究所のなかに閉じ込められっぱなしだった僕らは、ある夜ようやく外に出された。塔を探索するためだ。
たくさんの子供や白衣の大人や軍隊みたいな服を着たひとたちがごったがえしていて、一人や二人いなくなったって感付かれない雰囲気だった。
だから、僕らは逃げ出したのだ。真面目にそれまでやってきた僕は随分と心苦しかったけど、うちのチームの四人中三人までがやる気になってしまったものだから、しょうがない。
あいつら不良だ。そして僕は流されやすい性質をしていた。じゃあ結果はひとつだ。
人が出払った隙に、薬品棚からありったけの抑制剤を盗んで、僕らは逃げた。でもやっぱりというか何というか、見つかった。
追い掛けられた。銃を持ったミリタリー服のおじさんとか、僕らとおんなじ子供とか、ドーベルマンとかだ。
僕らは追い詰められた末に、ある賭けに出ることにした。言い出しっぺは仲間のタカヤってやつだ。
僕らにはそれぞれ運命ってものがあって、死ぬ時期は決まっている。だから死なない時は何をしても死なないし、死ぬ時はどんなに頑張っても死ぬ。
僕らは四人で、ムーンライトブリッジの上から飛び降りた。集団自殺者みたいに。
まあ、タカヤの言った通りかどうかは知らないが、僕は生きていた。変な子供に助けられた。
研究所のほうでも、僕らが自殺したってことになっていればいいなと思う。捜索隊が僕らを探すかもしれないけど、少しの間じっとしていれば諦めてくれるだろう。カオナシ班のメンバーは全員高いところから飛び降りて死にました、ってふうに。
ペルソナを召喚してサーチすると、しぶといことに、僕のほかのやつらの反応も近くに点々としていた。良くも沖に流されずに辿り着いたものだ。
僕と同じ海岸沿いにひとつ、潮溜まりにひとつ、なんでか上流の巌戸台方面の川(なんで逆流してるんだ)にひとつ、ああこの変な場所の反応は絶対タカヤに違いないと僕は踏んだ。あいつはなんかいつもちょっとおかしいのだ。なんだかいろんなところが。
そして僕はのろのろ歩き出す。まあ拾ってやらなきゃならない。一蓮托生だぞって指きりしたわけだし。
僕らは合流したあと、とりあえずポートアイランド裏の、人気のない、「閉店」と入口の前に紙が貼られているビルのなかに逃げ込んだ。
路地からちょっと外れていて、建物のなかには割れたガラスだとかゴミだとかが散乱している。照明も割れている。お化けが出そうな廃ビルだ。たぶん、棄てられて何年も経っているだろう、荒れ放題の。
でも僕らは今はどちらかと言えばお化けよりも、追い掛けてくる研究所の大人のほうが怖かったので、結局そこに落ち付くことにした。
息を詰めて、身を寄せ合うようにして過ごしながらも、まあ暮らしは快適なものだった。影時間が来れば人間はみんな象徴化してしまうから、欲しいものは何でも手に入る。
テレビにパソコンにストーブ、柔らかいソファ、生活に必要なもの、食料、まあものを盗むことに関して、僕には罪悪感というものがあったが、生きるためには仕方ないだろうと思い直し、我慢してやった。その度に、店員に追い掛けられて捕まる夢を見た。
気が付くと僕らのねぐらはすごく快適な空間になっていた。何不自由なく過ごせる夢の空間だ。しかも何をやっても誰にも怒られない。僕らを怒る大人はどこにもいなくなった。
ある日の影時間に、僕は見覚えのある姿を見た。子供だ。相変わらずしましまのパジャマなんか着ている。
「やあ、こんばんは」
そいつは物珍しそうに僕の家をきょろきょろ見ながら、僕を見付けて笑った。ファルロスだった。
僕は少し驚いていた。それというのも、僕は索敵能力に関しては、まあチドリほどとは言えないけど、自信を持っている。普通の子供ひとりくらいなら、近付いてきたなら簡単に見付けられる。
でもファルロスは急にぽっと現れたのだ。まるでなにもないところから急にふわっと出て来たみたいに。
「……お前、どっから出てきたんだ?」
「君の中」
「……ふうん」
僕は良く分からなかったけど頷いた。それから「誰にも言ってないよな」と念を押した。
ファルロスは「ああうん」と頷いて、「だって僕、君以外のひとに会ったことがないもの」と言った。
「ふうん……」
僕はまた頷く。良く分からない。
でもふっと思い当たって、「こら」とちょっと強く言う。「勝手に入ってくんなよ」と。
「ここ、僕らの秘密基地なんだぞ」
「僕はここにいたらだめなの?」
ファルロスがしょげた顔になった。僕はちょっと迷ってから、「僕の仲間が帰ってきたら、多分だめって言う」と言った。まあ僕は別に構わないかな、という気分だった。こいつは一応僕の命の恩人なわけだし。
「だからまあ、僕だけの時はいいぞ」
「あ、よかった」
ファルロスはあからさまにほっとした顔つきになった。
「こっち来いよ。座れって」
「あ、うん」
ファルロスが僕のとなりにちょこちょこやってきて、おとなしく座り込む。なんだか素直で、僕の仲間たちとは全然違う。
「お前、いつもはどこにいんの。こんな時間に出歩いてるって、お前も親がいないの」
「オヤ? オヤってなに?」
「お父さんとか、お母さんとか」
「……よくわかんない。僕のまわりには誰もいないよ。君だけ」
「どこに住んでんの? この辺のやつ?」
「……わかんない」
「ふざけてる?」
「ふざけてないよ。ただ僕、自分の名前以外なんにもわかんないんだ。気がつくと君のそばにいる」
「ふうん。大変だな」
僕は頷いた。これはあれだ、記憶喪失とか、記憶障害ってやつじゃないだろうか。前いた研究所でも、こういうのは良くあった。ごっそり思い出がなくなっちゃうのだ。
「まあいいんじゃないか。今を楽しむのに昔の思い出なんかいらないし。ていうか、ないほうがいいと思う」
「あ、そうなの? 君はそう思うんだ」
「うん。あっても邪魔なだけじゃん。ええと、過去も未来も関係ない、今を生きる……だっけ。なんかうちの仲間が言ってた。難しくて良くわかんないけど、今が楽しいなら別にいいんじゃないか」
「じゃあ僕は、僕が誰なんだろうとか、考えなくてもいいのかな」
「そんなん考えてる奴いないぞ。僕だって昔の思い出はほとんどないけど、今結構楽しいし」
「あ、君もなんだ。僕ら、おそろい?」
「おそろいじゃないか」
僕はにやっと笑って言う。なんだか変なやつだけど、まあ悪い奴じゃなさそうだ。追手って感じもしない。こないだだって、僕を捕まえなかった。
「また来る?」と僕は訊く。ファルロスが「うん」と頷く。
僕は「じゃあ特別に僕らの秘密基地に入れてやってもいい」と言う。ファルロスが「うん」と頷く。
そういう感じで、僕ははじめて普通のトモダチを手に入れた。普通っていうのはちょっと違うような気もしたが(だってぽっと出たり消えたりするのだ)、まあかなりキてる僕の仲間たちと比べると、普通のうちだ。僕が憧れる『普通の人間』だ。自分のことを救世主だとか言い出さないし、変な喋り方をしないし、僕を苛めない。
はじめのうちは、僕らの関係ってのは、ちょっと固いものだった。ファルロスは僕しかいないから、まあしょうがないからそばにいるんだって感じがしたし、僕としても得体の知れない子供にはなから心を許したわけじゃなかった。
でもそういうのは、年月とともに段々かたちを変えていくものだった。半年経ち、一年が過ぎるころになると、僕はこの奇妙な友人がふいっと訪れることをこっそり心待ちにしていたし、ファルロスにしたって、物言いに若干変化があった。
前はなんというか、僕になにかあるとファルロス自身も大変なことになるので、僕を見張っているのは何らかの義務みたいに感じている様子だった。でも最近では「君に何かあると僕も」とか、そういう言いかたをしなくなった。
僕らは仲の良い友人と言っても良いんじゃないかなって関係を築いていた。
でもその頃になると、僕はそいつに気づきはじめたのだ。「あれ、変だな」と。
出会ったばかりの頃は僕とおんなじくらいの背丈だったのに、一年が過ぎた今は、僕のがちょっと高い。僕は大分長い間「同年代の子供の中で一番のちび」という屈辱的なポジションに甘んじていたせいか、そういうことには目ざといのだ。はじめてジンのやつを追い抜かしてやった時には、お祝いに赤飯炊いた。
だからファルロスの背丈を追い抜かした時には、「僕ってもしかしなくても、ちびじゃないんじゃないか?」と喜んだものだった。でもそうじゃなかった。
ファルロスのやつは、僕と出会ってから一ミリも背丈が伸びないのだ。ずっと小さい子供のままだ。それは今も続いていて、今では僕らの間には頭半分くらいの差がある。
ある時ファルロスが、彼もそのことについて大分疑問を感じていたらしく、不安そうに言った。
「……僕はどうして、君みたいに大きくなれないんだろう」
「さあ。個人差ってやつじゃないか」
僕はそんな気休めを言ってやったが、そうじゃないだろうなってことは、僕自身にも良く分かっていた。
あれから二年が経った今、僕らの間には頭一つぶんの背丈の差がある。
「僕、もしかしたら、君と一緒に大人にはなれないのかな」
「まさか。そんなわけない」
僕は言ってから、「でも、そういうのもあるのかも」と首を傾げた。まあどっちにしろあんまり変わらないだろう。だから「どうでもいい」と言うと、いつもにこにこしているファルロスが、珍しく「どうでもよくないよ」と食い付いてきた。
「そりゃ、君は大きくなれるんだからいいさ。でも僕は大きくなって、君を、」
「でも僕らトモダチだろ。大きくても小さくても変わらない。どうせ僕も大人にはなれない」
「え? あ、うん。トモダチはトモダチだけど……」
ファルロスは拗ねた顔で、「いいや」と言った。なんで拗ねたのか、僕にはわからない。
「なに怒ってんだよ」
「怒ってないよ」
「いや、お前は怒ってる。そういう顔をしてる」
「もう、君は鈍いよ」
「そうなのか?」
「うんそう」
僕は鈍いらしい。ファルロスは大人びた仕草で肩を竦めて、「まあいいや」と言った。
「どっちにしても、僕らが離れ離れになる未来なんてありはしないんだからね」
そう、離れ離れになんかならないって、僕らはことあるごとに言いあって、二人で確認しあっていた。僕らはお互いすごく大事なたったひとりの友達なんだと。
なのにファルロスのやつは、ある朝急に寝ている僕の横に座って、僕の顔を撫でながら、「お別れだよ」と言った。裏切りだ。
僕らがはじめて出会ってから、十年弱の時間が過ぎた、三月のまだ寒い日だった。今まで影時間以外にそいつの姿を見たことがなかったから、僕はまず変だなと思ったのだ。そこにその言葉だった。すごい衝撃の。
僕はたぶんすごく取り乱していたと思う。「なんで」とか「どこ行くんだよ」とか「僕なんかやったか?」とか、慌てふためいて、いろいろ心当たりを探ってみたけど、まるで見当たらない。
ファルロスは狼狽している僕に、「君のせいじゃないんだ」と申し訳なさそうに言った。
「でももう決まってることなんだって。僕これからね、うちに帰る準備をしなきゃならないんだって。だから」
「うちって……ここじゃないのかよ。今更帰るなよ。ここ、住んでんだろ。まあちょっと寒いけど、何でもある。僕らに手に入らないものはないんだ。お前の欲しいものだってなんだって取ってきてやるよ。ほんとになんでも、」
「ごめんね」
「無理だって」とか「聞き分けてよ」とか言われるより、「ごめん」は効いた。ああ僕らは今日で本当にお別れなんだという実感が沸いてきた。
僕は多分ひどい顔をしていたと思う。「泣かないで」と、ファルロスが悲しそうな顔をして僕の頬を小さな手で撫でた。僕らが出会ったころは、おんなじ大きさだったはずの手のひらで。
僕は「離れ離れになんないって言ったじゃん、ばか」とファルロスをなじった。声は震えていて、濡れていて、すごく情けないものだった。
ファルロスはまた「ごめんね」と言う。僕の目尻を丁寧に小さな舌で拭って、「泣かないでよ」と繰り返す。
「もう行かないと」
ファルロスが途方に暮れた目で僕を見上げて言う。僕は頷かない。ファルロスの手を掴んだまま項垂れていた。
誰かが見たら、たぶんきっと変な顔をするだろう。僕はもう十七歳になった。ファルロスは、まだほんの小さな子供だ。大人が子供に泣き付いて、お前なにやってんだよと言われるだろう。
でも僕はすごく恨みがましげな気分でいたのだ。お前はほとんど十年の間一緒にいた僕よりも、僕が知らないお父さんだかお母さんだかがいる家のほうが大事なのかと。
僕ならそんなものが今更ぽっと出てきたって、今までほったらかしてたくせに何言ってんだって言って、ろくに言葉も交わさないうちにここへ帰ってくるだろう。そしてたぶんこいつに、「まったくふざけんなって話だよな。今更親なんて」と肩を竦めてやれやれと愚痴るのだ。
「僕よりうちが大事かよ。お父さんとか、お母さんとか、そんなのが、」
「そうじゃないよ。僕だって、永遠に君のそばにいたい。今までが永遠に続けばいいなって思う。でもね、そんなものはまやかしだ。今だけを生きることなんて、誰にもできはしないんだよ。いつか必ず来るものがあるんだ」
「そんなの聞きたくない。お前はここにいるんだよ。絶対、今更僕の仲間を抜けてくなんて、許さないからな」
「ごめんね」
「駄目だ」
「いつかまた会えるから」
「いつかっていつだよ」
「ごめん」
「僕が嫌いになったのかよ」
「ちがうったら。ほんとは、ずうっといっしょにいたかった」
「過去形で僕を語るのは止せよ」
ファルロスが、どうしたもんだろって顔になって、僕に掴まれていない空いたほうの手で僕の頭を抱き、「きっと会いにくるよ」と言った。
「少しだけ、君を離れるよ。でも僕はまた、たとえどんなことがあったって、またこの場所へ戻ってくる。そしたら一番に君を探すよ。久し振りだねって言うよ。だからちょっとお出かけするだけだって思って欲しいんだ」
「……絶対か」
「うん、約束だ。僕の隣には君しかいないんじゃない。君しかいらないんだ。だから、また君のところへ帰ってきて、君を守るよ。その時に言いたいこともあるんだ。君は今、十七歳だよね?」
「……うん」
僕は頷く。ファルロスは「じゃあ僕も君とおんなじくらいだものね」と笑って、「一年以内に帰らなきゃ」とか言っている。わけがわからなくて首を傾げている僕の手を取って、左手の指を掴んで、満足そうにちょっと笑った。
「君に言いたいことと渡したいものがあるんだ。すごく大事なことなんだ」
「うん」
「でも今は言わないよ。心残りは残していくよ。そして必ずまた君に会いにくる。どんな姿になってもね。……ねえ、僕がどんなになっていても、怖がらないでね」
「ばか、そんなことがあるかよ」
僕はファルロスを抱き締めて言う。
「約束だからな」
「うん」
「絶対会いにこいよ。一年経っても帰ってこなかったら、僕は世界中どこにいたってお前を見つけ出す。すぐにだ。約束破ったなって、殺してやる」
「うん」
「……僕が生きられるのは、あともう」
「言わないでいいよ。ごめん」
ファルロスが僕の頭を抱いた格好で、「さよなら」と言う。
僕は顔を顰めて、「ばか」と言ってやった。
「さよならなんて、だめだ。もう会えないみたいだ」
「じゃあどうしよう?」
「……「またね」とか、「行ってきます」とか」
「うん、じゃあまたね。行ってきます。お元気で」
「……うん。身体に気をつけてな。怪我も、病気も駄目だ」
「うん」
ファルロスは僕から身体を離し、座り込んでいる僕の顔を両手で掴んで、唇にキスをした。
そして朝のひかりに溶けて消えていく。僕の十年来の幼馴染のトモダチが、まるで一瞬の目覚めのように。長い、楽しかった夢の終わりのように。
そして僕は、あいつまたやりやがったなと忌々しく考えて、枕を壁に投げ付けて、溜息を吐いた。
ばかファルロス。トモダチ同士は額かほっぺただ。唇にはしないんだ、ばか。
どうやら最近シャドウに危害を加える妙な存在がいるようだ。
昔の僕らみたいに、子供を寄集めた集団らしい。表向きには月光館学園の特別課外活動部ということになっていると、ジンが端末を弄りながら言っていた。
そんな訳で、僕は今学生服を着込んで月光館の職員室にいる。転入生としてだ。僕には名前も戸籍もないが、一応は昔使っていた『黒田栄時』という名前が残っている。書類の偽造は完璧だ。
どう見ても高校生には見えないタカヤや、転入早々精神病棟に叩き込まれそうなチドリ、引き篭もりのジンにはどうあっても普通の学生生活ってものは送れそうにないと踏んで、復讐代行人の現場指揮官であるこの僕自らが潜入することになった。
まあジャンケンで負けたってバカな理由もあるにはあるが、うちのチーム・メンバーには、高校生だと言い張って「ああそう」と頷いてもらえそうな、まともな常識人は僕しかいないのだ。悲しいことに。
「――うん、黒田栄時くん、2-Fね。私が担任の、現代文の鳥海です。えー、結構点々としてきてんのねぇ……ええと、『備考:復讐代行人現場リーダー』……なにこれ?」
僕のなかで、書類を作ったジンへのあきらかな殺意が芽生えた。お前何書いてんだ。これじゃ即座に逮捕ものだろ。
「……ま、世の中には見なかったほうが良かったって思うこともあるわよね。スルーしましょう」
それでいいのか。最近そういうの良く問題になってるだろ。もっと生徒に親身になれ。教師だろ。――僕がそんなことを考えているうちに、職員室の扉が開いて、「おはようございます!」と元気良く男子生徒が入ってくる。
「今日から転入してくることになりました、転入生の望月なんですけど」
「あ、ちょうどいいわ。こっちこっち。君もうちの受け持ちの生徒だから」
鳥海先生が手招きして、もう一人いたらしい転入生を呼ぶ。
彼は僕をぞんざいに押し退けて鳥海先生の手を握り、「よろしく、光栄だな、貴女のような美しいひとが担任の先生なんて」とか甘ったるい声で言っている。女性以外興味なし、という感じだ。
男なんか雑巾とか使用済みのティッシュとかと同じ程度の価値しかないと考えているんだろう。むかつくな。多分こいつとは合わないと思う。
鳥海先生は「あーはいはい」とか面倒臭そうにその女たらしをあしらって、僕を手で示し、「この子、君とおんなじ転校生。なんにもわかんないもの同士、仲良くやってよ」と言った。でも転入生は聞いていない。
「そんなことより、僕は貴女にいろいろ教えていただきたいです、先生」
「ちょううざい」
そんなこと呼ばわりされた。本気でむかつくなこいつ。
まあどうでもいい、僕がここへ来た目的は友人を作るためじゃない。特別課外活動部とか言う連中にどうにか接触して、情報を得ることだ。彼らの目的を掴まなければならない。まだ敵か味方かもわからないのだ。僕が目立たないなら、それに越したことはない。
「まあ、確かに、陰気で前髪で顔もわかんないような存在感薄い子だけど、イジメとかやめてよね。責任取らされんのは私なんだからね」
「まさか。僕は女性にはすごく親切にしたいと心掛けているんです。男子への親切心をそっくり加えてね。そんなわけなので、僕が彼の名前も顔も覚えないことはありえますけど、いじめるなんてそんなことはありえません。ねえ君?」
こいつ最悪だなと僕は考える。まあ良くも悪くも、この性格だとクラスの話題の中心になってくれるだろう。僕はその影に埋没して、誰にも名前を覚えられないかもしれない。好都合だった。その分好きに動くことができるだろう。
「にしても、ちょっとソレはねー……ちょっと黒田くん」
「……あ、はい」
鳥海先生に呼ばれて、僕は余所ごとを振り払って返事をする。
「なんですか」
「前髪くらい上げなさい。あからさまに陰気臭くて、「僕いじめていいんですよ」って言ってるみたいだわ。実際私でもちょっと小突きたくなったわ。別に額に十字傷とか第三の目とかがあるわけじゃないんでしょう?」
「はい……ありません」
「先生、構わないんじゃないですか? 人には隠したいものだってあるんですよ。僕のように人に見せるためにある顔を持っている人と、そうじゃない人っていうのは、ちゃんといるんですから。醜い男の顔なんて、それだけで罪悪ですよ」
ものすごいことを言われている。なんで名前も知らない男にそこまで言われなきゃならないんだ。僕は隣に立っている男子生徒を意識的に無視して、先生に頷いて、前髪をかき上げる。髪に覆われていた視界が開ける。
「これで、いいでしょうか」
僕は首を傾げる。別に僕の顔なんて知っている人間はいないだろう。もう十年も年月が過ぎていて、僕は随分大きくなっていた。
たとえ今幼いころ僕を捕まえてひどいことばかり繰り返していたドクターたちに出会ったとしても、僕に気付くことはないんじゃないかなと思う。
僕に「前髪上げろ」と言った鳥海先生は、そばにべたっとくっついているもうひとりの転入生――エキゾチックな顔立ちで、泣きボクロがある。どこかで会ったことがあるような気がするが、気のせいだろう。こんな嫌な奴なんか知らない――と一緒になって、硬直していた。
二人共が口をぽかんと開けて、「あ? え?」と良く分からない言葉を発したあとで、急に真っ赤になっている。
まずはじめに動いたのは転入生のほうだった。
「き、君!」
いきなり僕の肩をがっと掴んで、ひどく慌てた様子で僕の前髪をさっさっと下ろし、ほっとしたふうに胸を撫で下ろし、それから優しげに手を取って、「駄目だよ!」と言っている。何が駄目なんだ。僕の顔か。僕は駄目なのか。
この十年というもの、僕は僕の家族と言っていい人間たちとしか顔を合わせたことがないから、顔の美醜というものがよくわからない。それが自分のものであれ、他人のものであれだ。
まあ極端なところはなんとなくわかる。この目の前にいる転入生が、すごく綺麗な顔立ちをしているということなんかは。腹立たしいことに。
顔のいい男は何をやったって許されるっていうのか。こいつ僕の仕事が終わったら、影時間に事故に見せ掛けて殺してやる。すごく苦しい死に方をさせてやる。
転入生は相変わらず真っ赤な顔で、「僕以外の人に君の顔を見せないで欲しいな」とか良くわからないことをまくし立てている。
「あの、僕望月綾時って言うんだ。君は?」
「カオナ……黒田栄時」
「そ、そう。とても綺麗な名前だね。あの、今日予定ある? 良ければ、同じ転校生同士、仲良くなりたいなあって思うんだ。一緒に食事でもどうだい? その、僕も越してきたばかりであまり店は知らないけど……」
お前急に態度変わったな。なんだこれは。僕をからかっているのか。
「ちょっと望月くん! 不純な同性間交遊は禁止します。最近アレでしょ、友情とかそういうの流行らないでしょ。えーたん……いえ黒田くん、今日の放課後は先生が課外レッスンを、」
「わぁ、じゃ先生、ぜひ三人で……」
「黙りなさい。もうあんた教室行きなさい。二階上がってすぐだから。黒田くんはちょっと待ってて。先生と一緒に行きましょう? あ、手も繋ぎましょう? むしろ腕組みましょう?」
「く、黒田くん! 今日のお昼ご飯、一緒に食べようね!」
「……はあ」
僕は良く分からないまま、とりあえず頷いた。
僕は兄弟のことを随分キてるやつらだと思って生きてきたわけだが、そうでもなかったらしい。普通の学校の普通の教師や生徒のほうが、余程キている。
一抹の不安を覚えつつ、僕のニセモノの学生生活は始まる。
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