『レイニーデイ』
……パラレル、ストレガえーたんとS.E.E.Sりょうじさん


 着るものがない。
 僕が持っている衣服の数は多くない。現在潜入している月光館学園高等学校の制服が二着に、私服が一着、防寒用のコートが一着。初夏に差し掛かった今コートは必要なものじゃないし、僕の私服は戦闘服を兼用しているから、昼間に着て歩きたいもんじゃない。
 大体今までの僕の活動時間は影時間に限定されていたから不便は無かったのだが、学生なんて似合わない仕事を始めたものだから、何かといりようなのだ。服や、ノートやシャープペンシルに消しゴムのような消耗品、遠足費や積み立て式の修学旅行費など。
 おかげで元々火の車だったうちの家計は大分破綻してしまっている。やりくり担当のジンには非常に申し訳ない話だ。これ以上ストレスを掛けて彼の毛根に打撃を与えるのは可哀想なのでできればやめてやりたい。
 ともかく、そんなで僕は今シーツに包まってぼんやりと外の雨を眺めている。一週間前から雨が続いている。じめじめした大気の中を、生温い雨が貫いて地面へ降り落ちる。
 ぼろアパートは雨漏りしている。僕の服は私服も含め三着ともぐしょ濡れだ。部屋の壁にハンガーで吊るされて、宿題を忘れて教師に怒られた子供みたいにしょんぼりぶら下がっている。
 時刻は午前十時になる。今日は平日で学校があるのだが、ともかく着ていく服がないのでどうにもならないのだ。
 ジャージを昨日のうちに持って帰ってきとけば良かったなと僕は考えたが、だからって時間を昨日まで巻き戻せるわけもなく、今みたいに裸にシーツで登校したらまた顰蹙を買うだろう。
 学生とは恐ろしいもので、ちょっと変わった行動を取るだけで村八分にされ、遠巻きにひそひそやられ、目が合うとさっと顔を逸らされるのだ。社会はとても残酷だ。特に女子が怖いのだ。学園転入当初に囲まれて言葉の総攻撃を受けたことを多分僕は一生忘れないだろう。
「なんやカオナシ、お前はよガッコ行けや。なにサボっとるのん。あの変なペルソナ使いどもの監視するんやろ」
「見て分かるだろ、服がないんだよ。洗濯中だ。乾かないんだ。裸でコインランドリ―にも行けない。タカヤじゃあるまいし」
 僕は肩を竦めて起き出してきたジンに首を振って見せた。彼も僕と同じような様子だが、トランクスにタンクトップという、僕よりは大分ましな格好だった。
 タカヤは相変わらず裸だ。とりあえず視覚的な公害を避けるために、腰にタオルを巻いている。チドリは僕とおんなじだ。女子はもっと恥を知れと思うのだが、彼女にはどうでも良いことらしい。雨で絵を描きに行けないせいだろう、面白く無さそうな顔をしている。
 僕らは全滅していた。これというのもこの長い雨のせいだ。外に出られない。第一傘もない。僕は濡れるのがあまり好きじゃないから、雨の日に外を出歩くなんて冗談じゃないのだ。
「雨、早く止むといいよな」
「せやなあ。これ以上雨漏り続いたら、部屋の柱腐ってまうしなあ」
 ジンが頷く、僕らは二人で曇り空を見上げて溜息を吐く。遠い空まで覆い尽くしている雨雲が晴れる気配はない。雨はまだまだ止みそうにない。





◆◇◆◇◆





 控えめに扉が叩かれた。うちのぼろアパートの呼び鈴は壊れているから鳴らしたところで意味はない。でも僕の家にやってくる人間と言えば家賃の回収に来る家主か町内会の集金、回覧版を回しに来るお隣の早瀬さんだけだから、特に困ることはない。
 逆に居留守を決め込むためには便利ですらあるのだ。毎月月末には僕ら四人と家主との静かで熾烈な戦いが繰り広げられている。もう二月家賃を払えていない。隣の早瀬さんは三ヶ月滞納しているそうだ。僕らはまだましだ。
 扉の向こうの誰かは、しばらく間を開けてまたもう一度ノックをした。人の気配は一人じゃなかった。特別に殺気も感じられなかったから、家主が家賃を滞納する僕らに焦れて殺し屋を雇ったというわけでもなさそうだ。でも油断はできない。もしかすると、安心して扉を開けたらにこやかに微笑むヤクザが何人も立っていて、よう兄ちゃん麻雀やろうぜと誘われるのかもしれない。僕の家の左隣に住んでいるのはヤクザ屋さんなのだ。家賃を払ったことがないらしいが、家主に文句を言われているところを見たことがない。
 社会ってのはそんなものなのだ。弱者に風当たりが強くて、強い者には優しい。こんな世界早く滅べばいいと思う。
 でもどうやら僕の家に訪ねてきた客は家主でもヤクザでも無かったらしい。声が聞こえる。
「えっと……くーろーだーくーん、いるー?」
 僕はかなり動揺して、後ずさって壁に頭をぶつけてしまった。声はすごく聞き覚えのあるものだった。
 現在の僕のクラスメイトということになっている望月綾時のものだ。そして、目下僕らの信念と相反する目的を持っているらしい、限りなく敵に近い存在でもある。僕は毎日学校まで出向いて彼らの監視をしているのだ。
(お前ら隠れろ! 監視対象のペルソナ使いどもの襲撃だ! 戦闘姿勢で待機! なんであいつら僕んち知ってんだ?! 一言も教えた覚えはないぞ!)
(あ、多分書類見たんとちゃうかな。住所んとこ……)
(お前なんで馬鹿正直に現住所書いてんだ! そういうのはでっちあげとけ! ていうかお前正直過ぎるだろ!? なんか僕の転入届の備考欄にも『復讐代行人現場リーダー』とか書いてやがっただろこのお馬鹿!)
(カオナシ、落ち付いて下さい。素直で正直なのはジンの長所ですよ)
(なに裸でまともなこと言ってんだ。と、とにかく息を殺して気配を消せ。気付かれるな。これまでの僕の努力が水の泡になる。ジン、お前はもう息するな。止めとけ。永遠に)
(ソレ死ねっつうことか!)
(二人共うるさい)
 薄い扉を隔てて声が聞こえる。
「なぁ……ここ違うんじゃねぇ……? あの偉そうな学園のカリスマがこんなトコ住んでるわけねって……第一表札も出てねぇし」
「そうかなぁ……うん、確かにこんなとこに住んでる人いるわけないよね。なんか廃屋って感じ」
 ものすごく失礼なことを言われている。望月の他に、順平もいるようだ。
 そりゃお前の家に比べたらどこだって廃屋だと僕は思う。落ち付いた雰囲気、上品な調度品、古びてはいるがしっかりした造りの巌戸台分寮。あんなところに住めるのは金持ちだけだ。
 僕は普通なのだ。とりあえず雨をしのげる家を持っている。世の中には屋根のないところで生活する人間も沢山いるのだ。子供の頃の僕らのような人間が。
「住所は間違ってないんだけどなぁ……」
「鳥海センセが間違えたんだって。オレっちもー帰るぜ。あの妖怪に割いてやる時間なんて一秒もぐふぇあ!!」
 奇声が上がって、鈍い音がした。なにか重いものが床にぶつかる音がする。
「もー、なんで君はそんなこと言うのかなあ! 黒田くんに失礼でしょ」
 望月の呑気な声が聞こえる。一体外で何が起こっているのかすごく気になるが、顔を出す訳にはいかない。僕がここに住んでいるなんてばれたら、後々面倒だ。このまま望月がさっさと帰ってくれることを祈る。
 それに僕は、なんとなく望月たちに今の僕の姿を見られたくなかった。廃屋(まったく失礼な呼び方だ)に住んでいて、着替えもない。食べるものもない。僕がこんな貧困生活を送っているということが知れたら、間違いなくまたいじめの材料にされるだろう。順平に貧乏人だと罵られて嘲笑われるのだ。そして望月の僕を見る視線も妙に憐れみを帯びたものになるに違いない。みじめすぎる。
「くーろーだーくーん……。やっぱり違うのかなあ……せっかくお見舞いにバナナとか買って来たのに、無駄になっちゃったなぁ……」
「呼んだか」
 三秒で僕は扉を開けていた。開けてからはっとした。バナナに釣られてつい扉を開けてしまったが、何というかすごくまずいような気がする。
 望月がぽかんとした顔をして、僕を見ている。まさか僕が現れるなんて思ってもいなかったって顔つきだ。順平は何故か知らないが、部屋の入口の前でうつ伏せに倒れて寝ていた。まったくこんな所で行儀の悪い奴だ。親の顔が見てみたい。
「……黒田くん?」
「あ」
 僕は青くなった。いや、でも僕は悪くない。だってバナナだ。仕方ない。そんな高級な果物、最近じゃ見たこともない。アパートの裏に生えている柿の木や蜜柑の木が実を付ける日をすごく楽しみにしているくらい。
 裏の家に住んでるおばあさんは、初めのうちこそ僕らが果物を盗む度に箒を持って「この悪ガキめ!」と追っ掛けてきたものだったが、一度捕まった時に泣きながら「すみません……あの、食べるものがなくて、あんまりお腹が減ってつい、ほんとごめんなさい」と謝ったら、最近は追い掛けてこないようになった。どうやら僕らの窃盗を黙認してくれているらしく、その上たまにおにぎりを差し入れてくれる。いい人だ。『もし僕が世界を滅ぼすことができたらノート』の『殺さないでおいてあげる奴リスト』に名前を書いておいた。裏に住んでるおばあさん。
 ともかく、僕はぽけっとしている望月と見つめ合い、呆けてしまった。今からバナナだけ取り上げて無かったことには、残念ながらできないだろう。僕のサポートタイプのペルソナにくっついている認識迷彩の能力は、何故か望月には効果がない。どんなに影が薄くなろうが、空気のように振舞おうが、望月だけはいつもどおりなのだ。気配を殺している僕に、「おーい!」とにこやかに呼び掛けてくる。
「あ、いや、望月、これはその、」
「く、くろだく……」
 望月は、なんとか弁解しようと試みた僕からいきなり顔を逸らし、背中を向けて、「み、見てないから!」と叫んだ。僕の私生活は見てなかったことにされるくらいひどいのかと、少しばかり凹んだ。
「あ、あの! ご、ごめんね! 間が悪くて、悪気はなくて」
 望月は僕をちらっと見て、何故か顔を真っ赤にしながら、鞄から数枚のプリントを取り出して僕に差し出した。
「しゅ、宿題とか……今日の授業のノートとか、君頭良いからいらないかもだけど、取ってて」
「ああ……わざわざ届けてくれたのか。悪いな」
 僕はちょっとばかりほっとした。どうやら望月は僕の素性に疑問を抱いて調査にやってきたという訳では無さそうだった。彼は裏表のない人間だったから、信用はできるだろう。これが他の人間だったらそうは行かない。
「今日は君がいなくて寂しかったよ。明日また学校で会えたら良いな。じゃあ。あの……服ちゃんと着たほうがいいよ、最近あったかいけど、夜は冷えるし」
「ああ」
 僕は頷く。着るものがないんだと言うことをわざわざ説明する必要もないだろう。「じゃあな、ありがとう」と言う。
 でも望月はなんでか帰る気配がない。振り向き、棄てられた子犬みたいな目で僕をじっと見つめて立ち尽くしているのだ。
 何か言いたいことでもあるのかなと思って、僕はそっと部屋の中を確認して、僕の兄弟たちが揃って押し入れの中に潜り込んで姿を隠していることを確認した後、「その、汚いとこだけど上がってくか?」と提案した。
 望月はすぐに食い付いて、「うん、よければ」と頷いた。わざわざ僕の家までやってくるってことは、何か他に用事があったんだろうなと僕は考えた。多分そうだろう。確かに望月は親切な奴だったが、何枚かのプリントを渡すためにわざわざ僕の家まで来るわけはない。
「お、おじゃまします」
「その辺、適当に座ってて。お茶入れ……あ」
 僕は「お茶入れるから」と言おうとして、茶葉を切らしていることに気付いた。
「ごめん……水しかない。熱いほうが好みなら湯を沸かすが」
「え? い、いやお構いなく」
 とりあえず客に何も出さないってのは、普通失礼って話になるんだろう。せめて何かしらお茶請けでも出せれば良いのだが、食品棚は空だった。しょうがないので脚が折れた後ガムテープで補強してあるが微妙に傾いているちゃぶ台の上に、水を汲んだガラスコップと一緒に、アルミの砂糖壷と塩壷を並べた。
「あの……これはお客さんを迎える何かの儀式なのかい?」
「いや……すまない、こんなものしかないが、とりあえずただの水では味気ないだろう」
「は?」
「その、なんにもなくて。何か出してやりたいのは山々なんだが、僕もここ二日ほど砂糖水と塩水しか飲んでなくて、だから悪い」
「……え? ちょ、ちょっと君、そんなに細いのにまさかダイエットしてるの? ダメだよ、身体壊しちゃうよ。ちゃんと食べたほうがいいよ」
「た、食べるものがなくて。うち貧乏で、ダイエットとかじゃなくて、ほんとになくて」
 言ってて悲しくなってきた。
 望月はひどく驚いた顔になった。裕福で、金持ちだと学校でももてはやされている彼からしてみれば、確かに驚くべきことなのかもしれない。彼はおそらく優しく立派な両親のもとで大事に育てられたのだ。『恵まれない子供たちに愛の手を』と書かれた募金箱に小銭を入れたこともあるかもしれない。きっと僕の気持ちなんて一生分からないだろう。
「あの……バナナ食べる?」
「……食べる」
 望月が差し出してくれたバナナを食っていると、なんだか無性に虚しくなってきた。僕は人をやっかむことはしないでおこうと決めている。
 やっかんだって仕方のないことだからだ。僕は僕でしかありえないし、ひがんだって何かが変わるわけでもない。
 でもさすがに悲しくなってきた。僕の目の前にいる望月綾時は、金持ちで顔も良くくどいくらいにもてる。ペルソナ能力に自然覚醒し、圧倒的な力を持っている。完璧だ。神だ。非の打ち所がない。おそらく短所やコンプレックスってものもないだろう。
 そういう奴だからこうやってどうでも良い人間にまで優しくなれるのだ。自分が満たされているからって、恵まれない奴に親切にしてやれるのだ。僕は金持ちなんか大嫌いだ。ああでもバナナ美味い。
 ひどく自分が小さく見えて、僕はさすがにちょっと泣いてしまった。僕は間違いなく、完璧に、誰にも文句は言われないくらい徹底的に負け組だった。
 僕の人生なんて、インクが切れた使い捨てのボールペンみたいに味気ないものなのだ。もう死にたい。
「あ、な、泣かないで。そ、そんなにバナナ美味しいの? あの、不純な動機で買ってきてほんとにすみません」
 僕は頭を振って、「なんで謝るんだよ」と言った。親切にしながら謝るなんて変だ。
 僕はちょうど八本房になっていたバナナを二本千切ってたいらげて、後はほかの兄弟に残しておいてやることにした。僕はこれでも兄弟想いなのだ。それにここで僕が一人占めなんてしたら、おそらく押し入れの中から覗いている彼らに後で報復されるだろう。寝ている間に鍋に入れられて煮込まれるかもしれない。
「あれ? 二本だけ? 全部食べてもいいんだよ」
「あ、うち、兄弟いて……あの、分けてやっても良いかな」
「そうなんだ。やっぱり君は優しい子なんだね」
 望月はにっこり笑って、きょろきょろ辺りを見回し、「君だけ?」と言った。兄弟のことかと思ったがそうじゃあないらしい。
「あの、誰かと一緒かなって思ったんだ。その、怒らないでね? 女の子とベッドに入ってたのかなってね。あんまり色っぽい格好をしているものだから」
「お前、相変わらず頭の中そういうことばっかりだな。そんな訳ないだろ。僕はお前みたいなもてる奴とは違うんだ。これはただ着るものがなくて」
「き、着るものもないの!?」
「い、いや違う! あるんだ! でも雨で、乾かなくて、ほんとにあるんだ、制服とか」
 僕は情けなく弁解する。望月は「あ、うん」と頷き、ほっとしたように溜息を吐き、「良かった」と言った。
 何が良かったのかは分からないが、僕はとりあえず「うん」と頷いた。
「そろそろ帰るよ。邪魔してごめんね」
「あ、その、望月」
 僕は望月の顔をまともに見つめられず、目を逸らしながら、「言わないで欲しいんだ」と言った。
「みんなには黙っててくれないか。その、俺が、」
 今度は貧乏人だって言われていじめに遭っちゃたまらない。やんわり口止めすると、望月は軽く頷いて、「僕は君の嫌がることはしないよ」と言った。この男は本当に『いい人』を絵に描いたような人間なのだ。
 立ち上がって玄関まで送ると、望月は僕が被っているシーツの前を優しい仕草で合わせ、「風邪をひかないでね」と言って微笑んだ。
 なんでこの男は僕なんかにこんなに優しくしてくれるんだろう。僕はお前の敵になるかもしれないんだぞ、と僕は言いたかった。その可能性は限りなく高いんだぞと。
 僕は生まれて十七年の思い出の中で、こんな親切を受けたのは初めてだった。本当に初めて人に優しくされたのだ。そのせいかもしれない。認めたくはないが、僕はこの男にもしかしたら心を許しかけているのかもしれないなと思う。
 でも望月は僕の目的も正体も何も知らない。じきにこの今は穏やかな声で、「僕を騙したな!」とか罵られてしまうのだ。
 そのことを考えると、胸がちょっとちくっとした。僕はどうやら、今の学生ごっこができるだけ続いてくれるよう願っているようなのだ。信じられないことに。
 これは後でひとり反省会だなと僕は思う。ほだされてどうするのだ。
「また明日、学校で」
 そして望月が伏せっている順平を引き摺って、紺色と白のストライプの傘を差して、雨の向こうのぼやけた世界へ消えていく。ひょろっとした細い背中を見送りながら、僕は『もし僕が世界を滅ぼすことができたらノート』の『殺さないでおいてあげる奴リスト』に望月綾時の名前を書いてやっても良いかなと考えた。





[レイニーデイ(終)]