今、おれたちの住んでる街は、すごく寒い。 冬が来たんだと兄ちゃんが言っていた。 一面真っ白で、ほかになんにも見えない。 空から毎日、冷たくて白っぽい粉々したものが降ってきて、外でじいっとしてるとすぐに真っ白になってしまう。 おれはリュウ。リュウ、だけ。 名前のあとに続く変な数字――――D値って言うらしい――――は、ない。 街のみんなはちゃんと持ってるのに、おれにはない。 これがないの、おれと、ニーナ姉ちゃんだけだ。 リン姉ちゃんは、昔はあったのに、自分で消しちゃったらしい。どうしてなのかは知らない。不便なのになんでかなあ、とは思うけど。 街にはチェッカーっていう機械があって、このD値って言う数字を認識して、扉を開けたり閉じたりしている。 D値がないおれは、いろんなところに引っ掛かってしまって、わりと不便だ。 おれには兄ちゃんがいる。 名前はボッシュ=1/64。ファーストレンジャーだ。 兄ちゃんは物知りで、何でも知っている。難しいことだってへっちゃらだ。 例えば数字の計算とか、よくわからない言葉とか……兄ちゃんの知らないことは、きっと世界にはなんにもない。 そして、すごくかっこいい。 兄弟のおれとはぜんぜん似てない……と思う……けど、おれはまだちっちゃいので、兄ちゃんくらいの歳になったら、兄ちゃんみたいにかっこよくなってるに違いない。たぶん。 そして、これはみんなには内緒だけど、兄ちゃんはすごく強いくせに、ものすごく寂しがり屋だ。 その上、心配性だ。おれがちょっといなくなっちゃったりすると、すごく慌てて探しにきてくれる。 だがら、おれは兄ちゃんのそばにずーっといる。 兄ちゃんがレンジャーの仕事に行っちゃったりするのは仕方がないけど(おれは大人のレンジャーと違って子供なので、すごくじゃまっけにされる)そのほかはずーっと一緒にいる。 おれがいなくなったら兄ちゃんは泣いてしまうだろうと思う。 それに、おれは決めたんだった――――ずーっとボッシュを守っていくんだと。おれはそのためにいるんだと。ボッシュが寂しくて泣いちゃったり悲しかったりしないように、ここにいるんだと。たったふたりきりの兄弟なんだからと。 おれは、きっと生まれた時からそう決めていた。 ◆◇◆ 時計を見ると、もう夕方だった。 そろそろ兄ちゃんを迎えに行く時間だ。 中央書庫で本の整理をしていたおれは、慌てて散らばった本を本棚に押し込めて、テーブルでなにか難しいことが書いてある紙にハンコを押している先生のところへ走っていった。 「えるー先生、おれ、兄ちゃん迎えにいってきます」 「ああ……」 先生は顔を上げて、行きなさい、と言った。 先生は銀髪で、真っ赤な目をしていて、角が生えている。 名前はエリュなんとか……上手く呼べないから、おれはいつも「えるー先生」と呼んでいる。 「リュウ、彼に伝えておいてくれ……そろそろ、引継ぎを済ませて欲しいと」 「ひきつぎ? うん、わかったです。あの、前言ってた、オリジンっていうの?」 「ああ……」 「兄ちゃん、オリジンていうのになるの?」 「ああ」 「レンジャーじゃ、なくなっちゃうの……。かっこいいのに」 おれはちょっとしょんぼりした。 レンジャーの兄ちゃんは、すごく強くってかっこいいのに、残念だ。 えるー先生はおれを見て、私はオリジンの方がかっこいいと思う、と言った。 「オリジンは、偉い……」 「レンジャーより?」 「ああ。世界で一番偉い」 「強いの?」 「ああ、強い」 「ほ、ほんとに? ね、先生それ、あぶなくないかなあ?」 「ああ、危なくない」 「危なくなくて、レンジャーより強くて、かっこいいの?」 「ああ」 「あ、でもレンジャーよりいそがしい? おれと遊んでくれなくなっちゃう?」 「いや……暇だ」 「じゃあおれと、もっといっしょにあそんでくれる?」 「ああ」 「じゃ、兄ちゃんオリジンのがいいね!」 「ああ」 先生は、ちょっと笑った。 あんまり顔が変わらない人なので、珍しいことだ。そんなにオリジンってすごいんだろうか。 「頼んだ、リュウ……おまえが言えば、きっと聞く」 「うん、まかせてね、先生!おれちゃんと、兄ちゃんに言うよ」 伝言ゲームだ、とおれが言うと、先生は無表情で、そう伝言だ、と言った。 その後で、でもゲームはいらないと思う、と付け加えた。 ◆◇◆ レンジャー基地の前で待ってると、中からやっと兄ちゃんが出てきた。 大分待ったせいで、おれはまた白くなっていた。 兄ちゃんはおれを見付けると、慌てて走ってきて、ごんとおれの頭をぶった。 「い、いたいー!」 「バカ! オマエ、またそんなとこで……中入って待ってろつったろ?! 風邪ひいたらどうすんだ、ああまたこんなに冷たくなっちまって」 兄ちゃんはおれのほっぺたにぴたっと触って、冷たいぞ、と言った。 そして、ひょいっとおれを抱き上げた。 おれは兄ちゃんと一緒に手を繋いで歩きたかったから、おろして、と言った。 でも兄ちゃんは聞いてくれなかった。 「駄目だ」 一言だけ言って、おれをコートの中に押し込んでしまった。 「……ね、兄ちゃん。怒った?」 「怒ってない」 兄ちゃんはすごく怒ってる顔で、言った。 おれはちょっと居心地が悪くなってしまった。 でも、そう言えば伝言だった、と思い当たって、兄ちゃんの髪をきゅっと引っ張った。 「ね、兄ちゃん。えるー先生がね、兄ちゃんオリジンでヒキツギなんだって」 「ああ……その話」 「オリジン、レンジャーよりかっこいいって。世界で一番強いんだって。あと、暇だからおれともっと遊んでくれるって」 「ふーん」 「ね、兄ちゃん。オリジンなるの?」 「ああ……めんどくさいけど、まあそのうちな。オマエがかっこいいって言うなら、いつだってなってやるよ」 「ふーん」 「――――なあ、兄さ……リュウ。オマエさ、ほんとに、この寒い中外で待ってるとか、バカみたいな真似するなよな。中入ってていいから。誰にも文句は言わせないし。ジュースでも飲んでろよ。風邪とかひくなよ」 「おれ、丈夫だから、大丈夫だよお」 おれが笑うと、兄ちゃんは、ぜんぜん信用ならないよ、と言った。 「オマエの大丈夫は、全然あてにならないんだよ。結局俺が見ててやらなきゃならないんだからさあ」 「うー、ほんとに大丈夫なんだもん……」 「ハイハイ」 兄ちゃんは適当に返事をして、歩いていく。 おれは兄ちゃんに抱っこされてくっついていて、すごくあったかかった。 顔を上げると、どんよりした雲の間から、真っ白の雪がいっぱい落ちてきていた。 この街は寒い。 でも寒いばっかりじゃないって兄ちゃんが言ってた。 もうすぐ春が来て、あったかくなって、暑くなったり、また寒くなったりするそうだ。 おれがこうやって外に出られるようになったのは最近のことだったので、知らないことばっかりだ。 ふっと見上げたら、兄ちゃんと目が合ったので、おれは笑った。 兄ちゃんは何だか難しい顔をしていた。 笑いたいような、泣きたいような、でもどっちつかずなので無理に無表情でいる、そんな顔だ。 おれは手を伸ばして、兄ちゃんのほっぺたを叩いた。 「兄ちゃん、変な顔してる」 「この美形に向かって、なんて口の聞き方だよ」 「ビケイ、なに? ううん、ちがうよ。兄ちゃんかっこいいよ。でも、変な顔してる」 「なにそれ」 兄ちゃんはぜんぜんわかってなかった。 おれはちょっと伸びをして、兄ちゃんの肩に掴まって、くるっと兄ちゃんのほうを向いて、ほっぺたをすりすりした。 「ね、無理しない。おれたち、たったふたりきりの兄弟だもの。なんでもわかるよ。 泣きたいなら泣く、笑いたいなら笑う。あ、でも泣かないで。 おれ、ボッシュ兄ちゃんが寂しくて泣かないように、ここにいるんだもの」 兄ちゃんは、そうだな、と頷いてくれた。 でもずうっとその顔のままだった。 まるで、自分でもどういう顔をすればいいのかわからないような。 おれはもどかしかった。 おれがこんなにちっちゃくて子供だから、うまく兄ちゃんのことをわかってあげられないのかもしれない。 早く大人になりたかった。 兄ちゃんとおんなじくらい強くなって、助けてあげたかった。 なんでいつもそんな泣きそうな顔してるのと聞きたかった。 でも、おれはまだ兄ちゃんに守られてばかりの子供だった。 なんにもできやしない。 おれ役立たずだねと言ったら、また兄ちゃんはおれの頭をぶった。 |