兄ちゃんはなんにも言わず、おれの手を引いてくれていた。
 おれはまだ泣いていたから、隣を歩いてるニーナ姉ちゃんが、すごく心配そうな顔をして覗き込んできていた。
 心配をかけちゃいけないと思って、泣き止もうとはするんだけど……でも、どうしても止まらなかった。
 さっきのことが頭の中を巡るたびに、おれは自分が情けなくて、悔しくてしょうがなくなるのだった。
 おれはD値がないから、人間扱いしてもらえなかった。
 ボッシュ兄ちゃんもニーナ姉ちゃんも、悪い事をして捕まった人みたいに拘置室に入れられてるおれなんかのことを迎えにくるの、きっとすごく恥ずかしかったに違いない。
「兄ちゃ……ごめっ、ごめんね……おれっ、やく、たたない……」
「黙ってろ」
「うえっ、おれ、兄ちゃ……はずかしくないように、がんばろって、思った、のに……」
「がんばらなくていい」
 兄ちゃんの声は平坦だった。怒っている時の声だ。
 でも兄ちゃんのこれは、おれを怒ってるわけじゃない。
 兄ちゃんは、ほんとにおれのことを怒ったことがない。
 そのかわり、すごく心配する。
 兄ちゃんはすごい人だった。
 そして優しかった。
 だめな兄弟のおれのことも怒らないくらい。
「俺が守ってやる。レンジャーなんかにならなくていい。俺のそばにいればいい。つーか、どっか行くな。危ないから」
「だ、だっておれっ、兄ちゃん、なんにもできないよ。きょ、兄弟なのに、兄ちゃんみたいにかっこよくなれないよ……」
「オマエはかわいいんだ。格好良いとは違うよ」
 兄ちゃんが大真面目にそう言うと、ニーナ姉ちゃんはおかしそうにくすくす笑った。
「もう、ボッシュはリュウが好きすぎ」
「オマエにゃ負けないよ」
「わたしだって、リュウ好きなのはボッシュに負けてないよ」
 ニーナ姉ちゃんはおれの背中をぽんと叩いて、だいじょうぶよ、と言った。
「リュウ、泣くことなんかなんにもないよ。ボッシュはリュウが心配なだけだし、別に怒ってないし、気持ち悪いくらいリュウのことが好きなんだから」
「に、にいちゃ……お、おれのことっ、すき?」
 おれが訊くと、兄ちゃんはものすごく呆れた顔をして、バーカ、と言った。
「何回言わせるつもり」
 そうやって話していると、すぐに中央区に着いた。
 街で一番高い建物だ。
 おれの家だ。
「あ、明日からっ、また、がんばるからね? おれ、もう泣かないから。ちゃんと兄ちゃ、守れるくらい、強くなる……」
「……オマエさあ、人の話聞いてた? だから何にもしなくたっていいんだって」
 兄ちゃんははあっと大きく溜息をついて、オマエはいつまで経っても俺の言うことなんか聞いてくれやしないね、と言った。
「ホントは俺、オマエさえいれば、空なんかいらなかったんだよ」
 兄ちゃんはちょっと寂しそうに、でも聞きやしないんだろな、と言った。
 おれは、兄ちゃんのために何かしてあげたかった。
 何にもしないでいることができなかった。
 でも今まで一度も、おれは兄ちゃんを喜ばせることができなかった。
 いつも守られている。手を引かれている。
 おれは兄ちゃんを――――ボッシュを守ってあげなきゃならないのに、いったい何をやってるんだろう?


◇◆◇


 その夜は結局、おれが泣いたままだったので、兄ちゃんが一緒に寝てくれることになった。
 すごく久し振りだ。
 子供のころ以来だ。
 なんで別々の部屋で寝なきゃならないようになったのかはわからないけど、確か何年か前に、急におれの部屋が用意された時からだった。
 おれは兄ちゃんと一緒がいいと言ったけど、もう大きいんだからひとりで寝なきゃ、とみんなに言われたのだ。
 兄ちゃんも「別に一緒でいいじゃん」と言ってたけど、兄ちゃんはオリジンなのに、なんでかその時ばかりは言うことを聞いてもらえなかった。
 身の危険、とリン姉ちゃんが言った。
 なんかされたらすぐ言うんだよとも。
 兄ちゃんがおれをいじめることなんかあるわけないのに、なんであんなことを言ったんだろう?
 おれは久し振りに兄ちゃんと一緒に寝れることが嬉しくて、わくわくして、どきどきしていた。
 部屋からナゲットのぬいぐるみ(これがないと寝れない)を持ってきて、兄ちゃんの部屋のベッドにばふっと飛び上がった。
「兄ちゃんのベッド、ふかふかだー! おれもこっちの部屋で兄ちゃんと一緒がいいな。
あ、ふたりだとせまい?」
「……別に」
 兄ちゃんは机に向かっていた。
 また難しい書類の整理をしてるんだろうか。
 頭を押さえているので、頭が痛いのかなとちょっと心配になって、おれはベッドから降りて兄ちゃんのそばへ行った。
「あたまいたい? ごめんね。しずかにしてるね」
「いや、そーいうわけじゃないよ、兄さ……リュウ。なんでもない」
「んん?」
 兄ちゃんは、たまにおれのことを「兄さま」って呼びかける。
 おれのほうが年下なのに、変なの、と思う。それは年上の、男の子の兄弟の呼び方だ。
 でも、なんだかそう呼ばれると、ちょっとくすぐったいような変な気分になる――――おれはほんとは、兄ちゃんにそう呼んでもらいたいのだ。
 なんでかわからないけど。
「ていうか、オマエ泣いてたんじゃなかったのかよ」
「あ、忘れてた……」
 兄ちゃんと一緒に寝られるので、おれは嬉しくて、昼間のことをすっかり忘れていた。
 兄ちゃんは呆れたように、いいけど、と言った。
「ずいぶんご機嫌だね。そんなに嬉しいなら、ずうっとこっちに来りゃいいのに」
「え……いいの? 兄ちゃん、いやじゃないの?」
「俺はイヤだなんて一言も言ってない」
 おれは嬉しくなって、すぐに頷いた。
 みんながダメって言っても(なんでダメなのかはよくわからないけど)兄ちゃんがいやじゃないなら、おれは兄ちゃんの部屋で寝ても良いんだ。
「ね、兄ちゃん、お風呂はいろ。背中洗いっこしようよ」
「な……」
 兄ちゃんは急に真っ赤になってしまった。
 おれはびっくりした。
 なんだか変なことを言ってしまったような気分になった。
「え、え? お、おれ、変なこと言った?」
「い、いや。ぜんぜん……そうだよ、何もおかしくなんてねえし。兄弟だものな」
「う、うん」
 おれは兄ちゃんにつられて真っ赤になっていたけど、頷いて、こんなのなにも変なことじゃないと思い込もうとした。
「兄ちゃんの部屋のお風呂、広いもん、ねえ?」
 おれは笑ったけど、ちょっとぎこちなかったと思う、たぶん。
 なんだか変に意識してしまって、なんかだめだなあ、と思った。
 たしかに兄ちゃんはすごく格好良いけど、おれたちは兄弟なのに。


 着慣れてないレンジャーの隊服を脱ぐのは、すごく大変だった。
 ぴっちりしてるし、身体を守るためのプロテクタはまだ新しかったから、とても外しにくかった。
 おれが苦戦していると、兄ちゃんはしょうがねーなって顔をして、こっちに来なよ、とおれを呼んだ。
「外してやるよ。オマエ不器用なんだから」
「う、うー、おれ、不器用じゃないも……」
「ハイハイ」
 兄ちゃんは元レンジャーなので、慣れた手つきでおれの首のプロテクタを外してくれた。
 これ、後ろにチャックがあるのだ。
 着る時も脱ぐ時も、誰かに手伝ってもらわなきゃ脱げない。すごく不便だ。でも付けてないと危ないんだという。
 プロテクターさえ外れれば、あとは簡単だった。
 ジャケットとシャツとパンツ。
 すぐに脱いで畳んでいると、ふと兄ちゃんがおれをじいっと見てることに気付いた。
「な、なに?」
「……オマエ、ぜんっぜん成長しないね……」
「う」
 おれはそう言われると恥ずかしくなって、あんまり見ないでよお、と兄ちゃんに言った。
「は、恥ずかしいよ。おれ、だめだなあ……痩せっぽっちだし、兄ちゃんみたいに背も伸びないし」
「そういうとこのこと言ってんじゃないよ。まあ、なんでもかわいいけどさ、オマエなら」
 兄ちゃんは、おれの胸のあたりをじいっと見て、言った。
 平坦で、つるつるしている。
 柔らかくもない。
 おれはちょっと気になって、兄ちゃんに聞いた。
「ね、ぺちゃんこ、へんなの?」
「いや、かわいいかわいい。マニア向けってやつ?」
「に、兄ちゃんは?」
「まあ、好みは……」
「う、うん」
「もうちょっと大きい方が良いと思うけど」
「う、うー」
 おれは困ってしまった。
 どうすればリン姉ちゃんや、ニーナ姉ちゃんみたいになれるんだろう?
 食べるものはみんなと一緒だ。
 もうちょっとおれが大きくなったら、そういうところも成長したりするんだろうか?
「に、兄ちゃん。おれ、がんばるよ。おれがおっきくなったら、リン姉ちゃんみたいなすごいおっきい胸になるよ!」
「ああ、期待しないで待ってるよ」
「う、うー、期待してよお」
 兄ちゃんはぜんぜん信じていないようだった。つまり、おれがリン姉ちゃんみたいに胸が大きくなるとか、そういうことを。
 おれはボッシュ兄ちゃんの妹だ。兄弟なのだ。
 リン姉ちゃんやニーナ姉ちゃんみたいに、強くてかっこよくて美人で、きっと兄ちゃんを守れるような人間になりたかった。
 兄ちゃんはふてくされているおれの頭を撫でて、オマエは十分かわいいよ、と言った。
「おれ、かっこよくなりたいよ。兄ちゃんを守ってあげれるくらい……」
「バカ、俺がオマエを守るんだよ」
「ニーナ姉ちゃんと、リン姉ちゃんみたいになりたい」
「アレはやめとけ。オマエには似合わないよ」
「うー」
 おれは困ってしまった。
 兄ちゃんが、兄弟だって言って恥ずかしくない人間になりたかった――――そして、おれのことをもっと好きになってほしかった。
 でも、なんだか変だな、とおれは思った。
 兄ちゃんはおれをとても可愛がってくれる。
 これ以上好きって、どうなるんだろう?
 なんだか変な感じだ。

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