お風呂上りの石鹸の匂いが、部屋の中をふわふわしている。
 兄ちゃんはおれの髪を梳いてくれた。
 兄弟ふたりっきりでこうやって過ごす時間が、おれは大好きだった。
 もちろんみんなと一緒にいるのも大好きだ。
 でもふたりだと、兄ちゃんはいつもよりおれに優しい。
 話し込んでると時間はあっという間に過ぎてって、時計の針が午後の十時をさす頃になると、兄ちゃんは明日も早いんだから寝ろ、と言った。
 おれはまだぜんぜん眠くないからへいき、と言ったけど、兄ちゃんはだめだ寝ろと言って、おれをベッドに押し込んでしまった。
 まだおれは兄ちゃんといろんな話をしたかったけれど、どうやら知らないうちに大分疲れていたみたいだ。
 眠り込んでしまうまで、そう時間は掛からなかった。


◇◆◇


 
夢を見ている。
 ぼんやりして、足元がふわふわした感触だ。
 それが夢だってことが、おれにはわかった。
 あんまりに鮮やかな映像だけど、おれがそんなの――――そこにある風景を、見たことあるはずがないからだ。
 

 ちっちゃい金髪の男の子がいた。
 部屋のベッドの中で一人きりでいる。
 頭に包帯を巻いて、ほっぺたに大きなばんそうこうを貼っていた。
 右腕は肩から吊られていた。
 すごく痛そうなのに、その子は泣きもせずにぼんやりしていた。
 ふとその男の子が首を巡らした。窓の外にいるおれと目が合った。
 その子はおれを見付けると、ほっぺたをピンク色に染めて、とても嬉しそうにぱあっと笑った。
「にいさま!」
 それは、おれを呼ぶ声だった。
 おれにはわかっていた。
 おれはにっこり笑う。そして、そおっと窓を開けて、静かに、物音を立てないように部屋の中に忍びこむ。
 なぜなら、誰かに見つかるとこっぴどく怒られるからだ。
 その子はぜんぜんだめな「ローディ」のおれとは違ってすごい子なので、ほんとはお話をしちゃいけないんだそうだ……「しつれい」なんだそうだ。
 でもおれはその子が可哀想だった。
 みんなが「喋っちゃだめ」って注意をされてたので、いつも一人でいた。
 怪我ばかりしてた。
 ほんとはやさしくてすごくさみしがりな子なのに、こうやって一人で痛い思いをしている時にも、誰にもそばについててもらえなかった。やさしくしてもらえなかった。
 おれにとって、世界で一番大好きな子だった。大事な子だった。
 そう、おれたちはたったふたりきりの兄弟だった。
 おれはその子を寂しがらせたり、悲しくて泣いたりさせないように、ここにいるのだった。
 一緒にいるのだった。
 手を繋いでぎゅってしてあげる。
 おれはそんなことは誰にもされたことはなかったけど、そうしてあげるとその子はすごくほっとした顔をしてくれた。
 その子は世界でたったひとりだけ、おれのことを好きだって言ってくれる子だった。
 だからおれはその子を安心させてあげられるなら、どれだけ叱られてもぶたれても、ごはんを食べさせてもらえなくなったってかまわなかった。
 その子の名前は――――そう、ボッシュと言った。おれのかわいい弟。


「にいさま……落ちなかった? ここ、高いから、危ないよ……に、にいさま落ちて死んじゃったらぼく、いやだよ」
 ボッシュはぐずぐずと鼻を鳴らして、気を付けて、けがしないでね、と言った。
 ボッシュはすごく心配性だ。
 おれは笑ってだいじょうぶだよおと言った。
「おれ、死なないよ。兄ちゃんだもん。ずうっとボッシュといっしょにいるんだもん」
「う、うん……」
 怪我してないほうの手をきゅっと握ると、ボッシュはちょっとくすぐったそうな顔をして、にいさまの手、つめたいね、と言った。
「つめたくてきもちい……ぼくね、にいさまのおてて、すき」
「ほんとお?」
 おれは嬉しくなって、ボッシュの手を両手で包んであげた。
 ボッシュはちょっと変な顔をしていた。
 おれはそれに気付いて、なに、と訊いた。
「どしたの?」
 なんだか、言いたいことがありそうな顔だ。
 おれになにか訊いてほしいっていう顔だ。
 ボッシュは大分まごまごしていたけど、あのね、と切り出した。
「に、にいさま、あのね……いっしょに寝てくれない?」
 ボッシュは、だめならいいんだけど、できればそうして、と言った。
「お、おこられるからだめ?」
「ううん」
 見つかったら、きっとすごく怒られるだろう。
 でもおれは頷いた。
 あとで怖い大人のひとに、痛いことをされたってかまわなかった。
 ボッシュを安心させてあげたかった。
 そばにいてあげたかった。
 おれは兄ちゃんだから、ボッシュを寂しいや悲しいから遠ざけなきゃいけなかった。
「いいよお。えへへ、うれしいな。ボッシュといっしょにねれるんだ」
 もぞもぞベッドにもぐり込んだ。
 ボッシュのベッドはすごく気持ち良かった。
 ふわふわでふかふかだあとおれが喜んでると、にいさまずうっとここに来て寝たらいいのに、とボッシュが言った。
「にいさまといっしょにねたら、きっとぼくはこわい夢なんか見ないのに」
 ボッシュはそう言って、なにか怖い夢を思い出したようで、涙目になった。
「にいさまとはなればなれになる夢なんか、きっと見ないよ」
「そんなの、なるわけないよ……」
 おれはボッシュの頭を、いいこいいこ、と撫でてあげた。
 ボッシュはおれがぎゅうっとしてあげると、はじめて怪我が痛いよおと言って、泣いた。
 ボッシュが寝るまで、おれはおうたを歌ってあげた。
 あんまり得意じゃないけど、ボッシュはそうすると安心したように目を閉じて眠ってくれた。
 怖い夢を見なきゃいいな、とおれは思った。
 ボッシュの夢の中で生きることができたら、おれは怖い夢なんかすぐにやっつけてあげられるのに。


 ボッシュの具合を見にきたお医者さんに見つかって、結局おれはすごく怒られて、またいつものようにお仕置きのお部屋に入れられてしまった。
 お屋敷の中にある、もう使われなくなった、一番下の暗い部屋だ。
 そこはすごく広くて、じめじめしている。
 ざらざらした煉瓦の壁が、ずーっと続いている。
 いつもひいいっていう、悲鳴みたいな声がどこかから聞こえてくる。
 きっとどこかに怖いおばけがいるんだと思う。
 見つかったら食べられちゃうかもしれない。
 おれはこわくって、いつも閉じられた扉の下で、丸まっていた。
 ぶたれたところが痛かった。
 扉から漏れる薄い明かりにかざしてみると、身体中のいろんなところが黒ずんでしまっていた。痣ができていた。
 でもおれはボッシュの手を握ってあげることができた。一緒に寝て、ぎゅうっとすることができた。
 部屋を追い出される時だって、まだ眠ったままいるボッシュは、すごく穏やかな顔をしていた。
 きっと悪い夢なんか見てなかった。
 ボッシュを安心させてあげられるなら、おれは兄ちゃんなんだから、こんなくらいなんでもない。
 ああ、でもボッシュは今度会った時に、怒るかもしれない――――なんでぼくが寝てる間にどっか行っちゃったのって。
 おれが、ボッシュとずーっといっしょにいられるくらい、りっぱな兄ちゃんならよかった。
 「ローディ」じゃなきゃよかった。
 屋敷のみんなが、ボッシュはおっきくなったらきっとおれをじゃまっけにするっていう。
 おれはみんなに意地悪をされても、怒られても、ぶたれてもへいきだった。
 でもそれだけは耐えられなかった。
 暗い部屋に閉じ込められて、いつかみんなが言うように、ボッシュがおれに「キライ」って言うところを空想した。
 おれはそのたびに寂しくて悲しくて、死んじゃいそうになる。ボッシュが大好きだからだ。
 たったふたりっきりの兄弟だからだ。
 ボッシュにいらないって言われるおれに、何の意味もなかった。
 ボッシュはおれを兄ちゃんて呼んで、好きでいてくれる。
 おれはそのために生きてる。
 おれにはもうわかってるんだ。
 おれはボッシュのほんとの兄ちゃんじゃないかもしれない。
 でもボッシュはまちがいなく、おれの弟だった。
 すごくかわいい。笑って、おれに言ってくれる。にいさまが好きだって。
 おれを見て、嬉しそうな顔をしてくれる。
 おれはボッシュのために生きてるんだと思う。
 なんだってしてあげる。ずーっといっしょに生きていくんだと思う。
 おれは強くなりたい。
 レンジャーになって、ボッシュを守ってあげたい。
 ボッシュに、にいさまかっこいいよ、って言ってほしい。
 ずうっとひとりにしない。
 寂しい思いなんてさせない。
 おれはきっと、もし死んじゃっておばけになっちゃったとしても、ずうっとボッシュと手を繋いであげる。
 ああ、でもボッシュはおばけこわいから、おれのことも怖がっちゃうだろうか?


 おれはボッシュのために生きてる。
 ボッシュに、おれのたったひとりきりのかわいい弟に、ひとりぼっちで寂しくて悲しい思いなんてさせないために。
 ずうっとこれから先もそうだ。
 おれは弟を守って生きていく。ずっとずーっと。



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