乱暴に腕を引っ張られて、どこかへ引き摺られていく――――おれは怖くなって、懸命に足を突っ張って踏み止まった。
「や……やだやだ! な、なに? どこ行くの?! に、兄ちゃん!!」
 おれを取り囲んでいる男の人たちは、みんながみんな怖い顔をしていた。
 得体の知れない不安が、おれをがしっとつかまえていた。
 何をされるのか全然わからなくて、ただ怖かった。
「おい、何やってんだよ!」
 何が起こったのかわからなくて、ぼうっと成り行きを見ていたジョーがはっとなって、おれをつかまえている警備員に食って掛かった。
 だけどすぐに、邪魔をするなとばかりに、振り払われてしまった。
「道をあけてくれますかね。ちょっとこっちは忙しいので」
「ちょっと、患者さんに何をやってるの?! リュウはD値を計りに来ただけよ!」
 エリーナが、床に尻餅をついているジョーに駆け寄って、警備兵たちを睨んだ。
「パパに言い付けてやるんだから!」
 警備兵たちはエリーナに気付くと、「あっ」という顔をした。
 奇妙に居心地悪そうなものだ。
 見られちゃいけないものを見られちゃった時のような。
「お嬢様……何故こちらに?」
「決まってるでしょ、リュウのD値計測の付き添いよ。その子、私の同期のレンジャーだもん」
「レンジャー……お嬢様、あんな野蛮な連中とお付合いされませんようと申上げたはずです。
奴らは非常に荒っぽい性質をしております。お嬢様にもし何かあった場合、院長がどんなに悲しむか」
「お前、レンジャーをバカにするな!」
 ジョーが怒りで顔をさっと赤くして、怒鳴った。
「オリジンも元レンジャーだったんだろ?!誇り高い仕事だ!
お前らみたいに薄暗い部屋に篭って何やってるかわかんない連中より、ずうっと立派だと思うけどな!」
 ジョーは、言ってからはっとして、エリーナを見た。
 メディカルセンターはエリーナの家だった。
 家族の悪口を言って、エリーナの機嫌を損ねやしないかと心配したんだろう。
 でもエリーナは首を振って、そうよ、と言った。
「あなたたちのほうが、レンジャーよりもずうっと荒っぽいよ。
なんにもしてないリュウをどこに連れてくつもり?
そんなのやめて、ちゃんとD値を計ってあげなきゃならないでしょう」
「お嬢様、ここで見たことは忘れてください」
 警備兵の中からドクターが顔を出して、エリーナに答えないまま、言った。
「あなたが見て良いものじゃあないんです。
それに、私どもにもどうしようもなかったんですよ。
オリジン様の、勅命ですから……偉い方のお考えになったことなのです」
「兄ちゃん……」
 おれはそこで、兄ちゃんの名前を聞いて、ふっと安心してしまった。
 でも同時に、ちょっと不安になった。
 兄ちゃんはおれに優しい。
 一度もおれを怒ったことがない。
 兄ちゃんがおれにひどいことするはずがない。
 でも、警備兵たちはおれを乱暴に引き摺って、どこかへ連れていくという。
 これが兄ちゃんの命令なんだという。
 おれが怖がることを兄ちゃんが命令するはずがなかった。
「う、うそだ! 兄ちゃんこんな怖いこと、命令したりしないよ!」
 おれはドクターを睨んだ。
 兄ちゃんの名前を使ってうそをつくことが許せなかった。
 おれはレンジャーなんだから、悪い人は怒らなきゃならないのだ。
「う、うそついたら、だめだよ。おれにはわかるんだから。
ボッシュ兄ちゃん、そんなこと言わないもん。おれの嫌がることしないもん」
「リュウ?」
 ジョーが変な顔をしておれを見て、わけがわからないというふうに言った。
「ボッシュって、オリジンの名前だろ? お前……」
 それが言い終わらないうちに、ドクターが手を上げて、警備兵におれを放すように命令した。
「いい、刷り込みは問題ないようだ。とりあえず通常歩行機能も正常のようだしな。ナンバー03、こっちだ。ついてきなさい」
「ナン?」
 覚えがない名前で呼ばれて、おれは首を傾げた。
 おれはリュウだ。
 リュウ、だけ。
 名前の後ろにくっついているD値は、おれにはない。
 だから「ノーディ」と呼ばれる。
「なに、検査をするだけだ。なにも問題は――――ありません、お嬢様」
 最後はエリーナのほうを向いて、ドクターが言った。
 結局どうすることもできず、おれは武装した警備兵に挟まれるようにして、のろのろと歩き出した。
 一度だけ振り返って、ジョーとエリーナに心配ないよとだけ言って、笑い掛けた――――彼らがこれで安心してくれればいいけど。
 でもおれはほんとはかなり不安で怖かった。
 あんまり上手く笑えた自信はなかった。


◆◇◆


 細かい空気の泡が上へ上へ立ち上っている。
 そこにあったのは、いくつもの大きな水槽だった。
 それぞれに透明な板がまるく張巡らされていて、薄く光る水で満たされていた。
 太いパイプが後ろにある大きな機械に繋がれていた。
 細いコードが床でこんがらがって、もつれていた。
 水槽の中には大小様々な肉片が浮かんでいた。
 手とか、脳味噌とか、内臓の一部だとか、そんないろいろなものだ。
 ただ、一番奥まったところにある中央の水槽の中には、完全にヒトのかたちをしたものが浮かんでいた。
 手足が力なく伸びていた。
 背中を向けている。
 その頭には、おれとおんなじ青い髪が生えていた。わりと長くて、肩を越すくらい。
 死んでるのかな、と思って、おれは怖くなった。
 人間の死体なんて、ほんとに見るのは初めてだ。
 ヒトが死ぬとどういうふうになるのかなってことを、おれは良く知らなかった。
 部屋に入ってって、おれは怖々と――――半分は興味もあったのだけど――――水槽を覗き込んだ。
 まさかこっちを見たりしないよなあ、と思いながら。
 それはちょっと、怖い。
(どんな顔をしてるんだろ?)
 青い髪は珍しいんだそうだ。
 みんな言ってる。
 良く、変な色だ、って笑われたりいじめられたりすることがある。
 でもニーナ姉ちゃんとボッシュ兄ちゃんは、おれのこの青い髪を綺麗だって言ってくれる。
 おれは兄ちゃんと姉ちゃんみたいな金髪がよかったんだけど……。
 この死体も、生きてるころは、おれとおんなじで青いヘンな色の髪の毛だってバカにされたんだろうか?
 それで、自分はなんでこんなヘンな色の髪に生まれたんだろうって考えたことがあるだろうか?
 おれがそう思いながらじいっと見てると、その死体の身体がゆらっと揺れた。
 こっちを向いた。
 もう死んでるはずなのに。


(え?)


 おれは目をぱちぱちと瞬いて、擦った。
 目の前にはおれの顔があった。
 いや、おれがいた。
 鏡で見るみたいに――――でもハダカだった。
 身体もちょっと、おれのと違う。
 なんていうか、その――――男の子だった、うん。
 目を閉じていて、その顔は少し笑っていた。
 なんだか、眠る前にすごく嬉しいことがあったようだった。
 今も幸せな夢を見ているように見えた。


 ふいに、おれの顔をしたものがぱちっと目を開いた。
 なんだか不思議な目の色をしていた。
 おれとおんなじ、青い色。髪とおんなじ色。
 でも光の加減で赤くも見えた。
 死んでると思ったヒトが目を開いて、でも不思議とおれに驚きはなかった。
 それはおれがいつも見ているものだったからだ。
 毎朝、鏡の中で。
 ずうっと鏡を覗くたびに、中にある自分の顔を見て、おれは「いやだなあ」と思い続けていたのだ。
 なんでおれはこんな青い髪の毛で、肌も黄色くくすんでいるんだろう?
 ボッシュ兄ちゃん――――ボッシュみたいに綺麗な金髪なら良かった。
 あの白くて綺麗な肌をしていれば良かった。
 そうすればもう少しは兄弟らしく見えるっていうのに。
 水槽の中にいるおれとおんなじ顔の死体は、水槽の外にいるおれににっこり笑い掛けた。
 すっと手が伸びてきた。
 強化ガラスをするっと擦り抜けて、手が差し出されて、おれに触れた。
「え?」
 その手が触れたところのおれの身体が、どろっと溶け出して、そのヒトと混ざっていく。
「あ、あれ? あれっ?」
 おれは焦って、そのもうひとりの「おれ」から離れようとした。
 でもくっついて、どんどん浸蝕されていく。
「にっ……兄ちゃ……」
 助けて、と兄ちゃんを呼ぼうと思った。
 でももう、おれと「おれ」は完全に混じってしまっていた。
 どっちがどっちだか、わからなくなる感触があった。
 そうして、まるで何年も何年も捜していた無くしものを見付けた時のように、おれにじわっとした安堵が訪れた。
 ずうっと半分に分かたれていたおれの身体を、やっと見付けたような。
 おれはずうっと昔から、生まれる前から、それを知っていたのだ。
 もうひとりのおれは、すごく静かな声で言った。


『ひさしぶり』


 おれも返事をした。うん、ひさしぶり。
 そう言うと、空っぽの水槽の前で、おれの中に入ってきたもうひとりの「おれ」が、笑った。


◆◇◆


――――リュウ!」
 呼ばれて、おれは目を開けた。
 うっすらした視界に、ぼんやり人の顔が見える。
 おれとおんなじくらいの年頃の男の子と女の子がひとりずつ。
 ジョーとエリーナ。おれの同僚の友達。
 その後ろに、何人も怖い顔をした警備兵とドクターたちがいる。
「あ、あれ?」
「なに、ねボケてるのかよ……」
 ジョーが呆れたみたいに言った。
 手をかしてもらって起き上がる。
 辺りには真っ白い壁が続いていた。
 メディカルセンターの廊下だ。
「あ、あれれ?」
「お前、倒れたんだぞ、急に……」
「大丈夫、リュウ? 心配したんだから」
「あ、う、うん? 倒れた? おれが……?」
 覚えがなくて、おれはヘンな気分になった。
 いつの間に倒れたんだろう?全然覚えてない……。
 おれが目を覚ましたと知ったドクターは、警備兵を端っこに寄せて、奥まった扉をさして、さあこっちです、と言った。
「リュウ、怖いことされたらすぐに言ってね。助けてあげるから」
 エリーナがぎゅっとおれの手を握ってくれた。
 ああそうだ、おれはこれから検査をするんだっけ。
 D値の診断の続きだって、ドクターが言ってた。
 でもなんであの怖い顔をした警備兵たちが、まだずうっとおれのほうを睨んでるんだろう?
 わからないことだらけだったけど、そうしておれは扉をくぐって、その部屋に入った。

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