おれの隣で、エリーナが息を呑んだ気配が伝わってきた。 ジョーが一歩後ろに下がって、扉の前に立ちはだかって通せんぼをしている警備兵に、背中からぶつかった。 おれはぽかんと口を開けたまま、それを見ていた。 さっき見た白昼夢とまったく同じ光景が今、おれの目の前にあった。 細かい空気の泡が上へ上へ立ち上っている。 そこにあったのは、いくつもの大きな水槽だった。 それぞれに透明な板がまるく張巡らされていて、薄く光る水で満たされていた。 太いパイプが後ろにある大きな機械に繋がれていた。 細いコードが床でこんがらがって、もつれていた。 水槽の中には大小様々な肉片が浮かんでいた。 手とか、脳味噌とか、内臓の一部だとか、そんないろいろなものだ。 ただ、一番奥まったところにある中央の水槽の中にいたおれとおんなじ顔をした死体は、さっきみたいに綺麗な身体をしていなかった。 痣だらけの身体のあちこちが切り取られていた。 縫い目がいっぱいあって、つぎはぎだらけだった。お腹がぱっくり開いていて、中が見えた。 けど、そこには空洞しかなかった。あるべきはずの内臓――――腸とか心臓とかそんな臓器はさっぱり取り除かれて、どこかに持ち去られていた。 まるでもともと張りぼてで作られた人形みたいな感じだった。 ただ、その顔と青い髪の毛だけが、まるで生きているみたいにそのままに、誰にも触られることなく残っていた。 おれの頭だけが。 「リュ、リュウ?」 後ろでジョーがおれを呼ぶ声がした。 彼は水槽の中にあるおれの死体とおれを交互に見比べて、顔を真っ青にしていた。 無理もない、こんなの見たら気持ち悪くなったっておかしくない。 エリーナは冷静だった。 冷たい声で、どういうことなの、とドクターに訊いた。 ドクターは少し具合が悪そうな顔をしていたけど、まあお嬢様の頼みですから、と言った。 「見ても面白いものじゃあないとは思いますが……。別に、これは機密でもなんでもないです。地下では重要なものだったようですが、もう何の役にも立たないがらくたですな。 空を開くために作られたプログラムの失敗作ですよ。何でもオリジンさまに歯向かったドラゴンのなれのはてとか」 ドクターは水槽の前まで歩いていって、死体を覗き込んで、こんこん、とガラスを叩いた。 「かつての禁書なんかと共に、地下世界の暗部の象徴として博物館に飾ろうという案も出たんです。 ただ、オリジン様が猛反対なされましてな。それで、ここでこうしてお蔵入りというわけです。 いや……」 そこで、ドクターの視線がおれのほうを向いた。 彼は訝しむようにおれを見ていたけど、なんだ、という拍子抜けしたような顔をして、ぽんと手を打った。 「それにしても、ナンバー03が再起動したのかと思ってひやひやさせられましたが、君はリサイクル品のほうですな。 もう稼動していたのですか。 いや、オリジン様も奇妙な命令をくれたものです。反逆者とまったく同じものを造れなどと――――」 おれはぼうっと水槽の中のおれの顔を見ていた。 その顔にはまだ微笑が残っていたけど、蝋でできた人形みたいだった。 生きた表情ってものはなかった。 まるで眠っているようだとさっきは思ったけど、それはどう見ても眠っているようには見えなかった。 どう頑張ってみても、死体に見えた。死んでいる。 (ああ……) おれはバカだけど、ようやく理解しはじめた。 (そっか……) おれにD値がなかった理由とか、兄ちゃんがおれを外に出したがらなかったのはなんでなのかとか。 「……おれ、人間じゃないの?」 「ええ」 ドクターの返事はあっさりしていた。 何を当たり前のことを言っているんだろうと、訝しむような目つきすらおれに向けた。 「反逆者は――――この死体はどうやら、オリジン様のご家族に拾われ、ご兄弟同然に育てられたそうです。 オリジン様は、血の繋がりはないとは言え、兄に裏切られてさぞ悲しかったのでしょう。コピーなら手を噛まれる心配もありませんし」 「おれ……」 ずしっと頭が重たくなった。 兄ちゃんは、とても優しい。 おれのことを怒ったことがない。 すごく寂しがりで心配性だ。 おれがいなくなっちゃったら、きっと寂しくて泣いちゃうと思う。 だからおれは兄ちゃんを泣かせないように、ずうっとそばにいる。 かっこいいレンジャーになって、兄ちゃんを守ってあげる。 でも兄ちゃんは、たまにおれのことを「兄さま」と呼び間違える。 兄ちゃんは―――― もしかしたら兄ちゃんには、はじめに「兄さま」がいたんじゃないだろうか? 兄ちゃんは、「兄さま」のことが大好きだったんじゃないだろうか? でも「兄さま」に裏切られて、すごく悲しかったんじゃないだろうか。 この、おれの目の前にあるぼろぼろの死体に。 おれとおんなじ顔をしたものは、水槽の中で、もう死んでいた。 兄ちゃんは裏切られたから「兄さま」を殺してしまったんだろうか。 兄ちゃんは「兄さま」のかわりが欲しかったんだって言う。 だからおれが造られたんだろうか。 兄ちゃんは「兄さま」がいなくなってあんまり寂しかったから、もう裏切らない兄弟を造ったんだろうか。 ほんとは、おれのことなんて、見てくれてなかったんだろうか。 ずうっと「兄さま」ばっかり見てたんだろうか。 かわりなら、何だって良かったんだろうか。 おれは兄ちゃんのことを「兄ちゃん」って呼ぶのが大好きだったけど、そう呼ぶたびに兄ちゃんは悲しくなってたんだろうか? おれが「兄さま」じゃないから、まだ寂しかったんだろうか? 妹のおれがいるのに? おれは兄ちゃんがすごく大好きなのに、おれのことなんて見てくれてなかったんだろうか? ……ずうっと、おれのことを「兄さま」だと思ってたんだろうか? 「……おれ、レンジャーになったよ」 おれは、ぼそぼそと言った。 「でも、兄ちゃん嬉しそうじゃなかったよ。やっと兄ちゃん守ってあげれると思ったのに、おれ……」 おれがレンジャーになっても、兄ちゃんはぜんぜん喜んでくれなかった。 オマエはそんなことしなくていいよと言うだけ。 ドクターは、ああそれはそうです、と言って、おれを窘めた。 「君はオリジン様を慰める愛玩用の人形ですから……ただ動いて喋っていれば良いのですよ。余計な自我はいりません」 おれは、目の前が真っ暗になってしまった。 今まで信じていた世界が、根こそぎ崩れていってしまった。 おれは兄ちゃんが大好きだ。 だけど、おれは―――― おれは兄ちゃんの兄弟じゃあなかった。 人間ですらなかった。 ただ兄ちゃんが大好きだった「兄さま」の顔をしたものだった。 ずーっとおれを嬉しい気持ちにしてくれていた、「おれとボッシュ兄ちゃんは世界でたったふたりきりの兄弟なんだから」というのも、本当のことじゃなかった。 本当のことなんか、なんにもなくなってしまった。 全部があやふやになってしまった。 すごい音がして、ドクターがすっ飛んでいって、コードだらけの壁にぶつかった。 ぼんやり見上げるとジョーがいた。彼がドクターをぶん殴ったのだ。 「こんなのが、オリジンの命令だって?!」 ジョーはすごく怒っていた。 なんで怒ってるのかはわからないけど、その後ろではエリーナも厳しい顔をしている。 ほわほわした優しそうな子だなあと思っていたから、彼女がそんな顔をしているところを初めて見て、おれはちょっとびっくりした。 「リュウ、出よう」 エリーナがおれの手を引っ張った。 「こんなところにいることないよ。あとでパパをとっちめてあげる。帰りたくなかったら、お家にも帰らなくていいよ。大丈夫、私たちがついててあげるから」 「え、エリーナお嬢様! それを持って行かれるのはその、困ります。我々がオリジン様に……」 「怒られてればいいじゃない!」 エリーナは珍しく激昂して怒鳴って、信じられない、と言った。 「オリジンさまの命令だか知らないけど、大人って勝手よ。 ジョーもオリジンさまにずうっと憧れてたのに、こんなのひどいよ」 そしてぐるっとおれとジョーの顔を見回して、短く言った。 「いこ、二人とも」 扉の前に集まっていた警備兵たちも、さすがに気圧されて道をあけた。 なにせ、まだ下っ端だけどレンジャーが三人だ。それに、エリーナはこのセンターのお姫様だった。 「どうしよ、ジョー。お家は?」 「大丈夫、今晩は兄貴だけだ。三人寝るスペースくらいあるよ。なんなら朝まで賭けゲームしててもいいしね」 二人共がそっけなく頷きあって、おれのほうを気遣わしげに見た。 おれはあんまりのことばっかりでぼおっとなっていたけど、二人に見られてることに気付いて、慌ててにこっと笑った。 「大丈夫よ、リュウ」 エリーナが言った。 「大人なんてみんな、私たちがいなくなって困ってればいいんだわ」 |