レンジャー基地にある図書室で、おれは机に突っ伏して、ぼーっとしていた。
 さっきまでわあわあ泣いてたけど、もう疲れてしまった。
 なんだか、全部どうだって良くなってきた。
 でもレンジャーの仕事はいつもと変わりなくあって、今日は朝から、図書室で調べ物と簡単な講義があった。
 おれが泣いてるのを見て、周りの同僚たちは、昨日のD値検診でよっぽどのローディだったのだろう、と哀れみの混じった目を向けてきていた。
 ローディならまだましだ。
 おれにはD値なんて、もしかしたらはじめから無いのかもしれない。計ることもできないのかもしれない。
 ナゲットやハオチーみたいなのと一緒なんだから。
「そこ、ぼーっとしないで」
「……はい……」
 おれはのろのろと身体を起こして、本に見入った。何年か前の世界について書かれているらしい。
 とりあえずおれはページを繰って目を通してみた。
 だけど、何が書いてあるのかわからなかった。
 おれは字が読めないのだ。
 でも、どうしよう、って思うよりも、頭の中は、おれはもう兄ちゃんに嫌われちゃったんだ、ということだけだった。
 あと、なんでおれもキライって言っちゃったんだろうってことだ。
 兄ちゃんがおれのことをキライでも、おれは絶対に兄ちゃんをキライになんてなれない。
 おれは兄ちゃんが好きだ。
 でももう兄弟じゃあなくなってしまうんなら、おれは兄ちゃんのことを何て呼べば良いんだろう。
 ……みんなみたいに、オリジン様とか、ボッシュ様とかだろうか。
 すごく他人行儀だ。
「リュウ君、ちょっと大丈夫? 体調が悪いんじゃないの。お友達、メディカルルームに連れてってあげて」
 資料整理担当のモモさんが、心配そうにおれを見ている。
 隣に座っているエリーナがぱっと手を上げて、私が行きます、と言った。
「リュウ、だいじょうぶ?」
「うん……」
 気分が悪かった。
 胸がもやもやして気持ち悪かった。
 おれはエリーナに支えられるみたいにして、部屋を出た。
 おれみたいなのがいたら、レンジャーの人たちも迷惑だろう。


「お昼まで寝てなよ。それで大分違うよ」
 エリーナはおれをベッドに座らせて、優しく言ってくれた。
「お昼ご飯の時間に、また来るから。リュウがおなかすいてたら、いっしょにご飯食べよう」
「うん……」
 おれは無理に笑って、ごめんね、と言った。
 エリーナが図書室に戻ってしまうと、メディカルルームの中は急に静かになってしまった。
 担当もいない。
 ドアのところに、ボードが掛けてあった。只今外出中、昼には戻ります、と。
 おれの他には、部屋には誰もいなかった。
 あんまりに静かなのが耐えられなくて、おれはベッドのわきの窓をちょっと開けた。
 レンジャー施設の二階にあるメディカルルームに、ちょっと冷たい空気と一緒に、外のグラウンドの物音が入ってくる。
 鉄のぶつかり合う音と、ざっざっと規則正しい足音だ。
 おれは更にからからと窓を大きく開けて、首を突っ込んで、下を見下ろした。
 剣の訓練をしているレンジャーの後ろを、おれとおんなじ新米レンジャーたちが、列を組んで走っている。
 みんな男の子ばかりだ。
 女の子でバトラーになりたいって子は、あんまりいないんだという。
 もともとの腕力が、男の子と違うんだっていう。
 だけど、剣一本持って戦うレンジャーって、おれはすごく格好良いと思う。
 おれもそんな強いバトラーになりたかった。
 兄ちゃんみたいなバトラーに。
 兄ちゃんはオリジンになる前に、ファーストまで上り詰めた人なんだそうだ。
 ニーナ姉ちゃんから聞いた。
 選ばれた一握りの人しかなれないんだって言う。
(おれも、兄ちゃんみたいにかっこよかったらなあ……)
 下で走ってるレンジャーの中に見慣れた姿があった。ジョーだ。
 ジョーはおれが気付く前におれを見付けてくれたみたいで、照れ臭そうに手を振ってくれた。
 だいじょうぶか、って訊いてくれてるんだろう。
 おれは無理ににっこりして、手を振り返した。
 だいじょうぶだよ、って返事だ。
(みんなに心配、掛け過ぎ……だめだなあ、しっかりしなきゃ)
 ここでは、おれはレンジャーだ。
 望めばおれの部屋も宛がわれる。
 家には、多分もう帰れないだろう。兄ちゃんにキライって言っちゃったし。
 おれには兄ちゃんが他の人に掛けるのとおんなじ意地悪な声が、すぐそばで聞こえるくらいに予想できた。
 オマエ俺のことキライなんじゃなかったの、と。顔を見せるなノーディ、邪魔だ、消えろ。
 おれは兄ちゃんにそんなの言われたことがあるはずないのに、変に鮮明にそれを思い浮かべることができた。
 まるでずうっと何年もそう蔑まれ続けていたみたいに。
 ……なんでだろう?
(ごめんなさいって、言いたいなあ)
 おれは兄ちゃんの顔を思い浮かべた。
 すごくかっこよくて、なんでもできて、でも兄ちゃんは寂しがりだ。
 おれがいなくなったら泣いちゃうと思う。
 でもおれがキライだって言っても、兄ちゃんは泣かなかったし、何にも言わずに帰ってしまった。
 怒ってたと思う。
 グラウンドでは、まだ走り込みが続いていた。
 どのくらい走っているんだろう?
 みんなすごい体力だ。おれなら絶対へばってるところを、誰も遅れもしないで規則正しく並んで走っている。
(まずは体力かな)
 おれは自分の腕を見た。
 細い。ちょっと肌は黄ばんでいて、あんまり柔らかくなかった。
 力もあまり自信がなかった。
 剣に振り回されるくらい。
 でもがんばって、がんばったら、おれもいつかは強くなれるだろうか?
(それと、もっと賢くならなきゃ。字を読めるようになろう。みんな読めてるみたいだし)
 おれは、いくつか自分の中で決まりごとを作った。
 レンジャーになったんだから、一人でなんでもできるようになろうと。
 そしていつか、兄ちゃんみたいに強いレンジャーになったら……兄ちゃんを守る、「ゴエイ」のレンジャーになりたいと思う。
 その頃にはもう、新しいおれがいるかもしれない。
 言うことを良く聞いて、兄ちゃんに可愛がられてるかもしれない。
 それはすごく悲しいことだった。
 兄ちゃんが、おれを見てくれなくなるのは、すごく悲しかった。
 でもおれが兄ちゃんの兄弟じゃなくて、兄ちゃんのそばにいられる方法がそれしかないのなら、おれはいくらでもがんばれる。
 強くなる。
 強くなって、そしたら――――
 もう一度兄ちゃんに会って、「あの時はごめんなさいボッシュ様」って謝ろうと思う。
 兄ちゃんが許してくれなくっても、おれはもうそうするしかない。


 ◆◇◆


 お昼過ぎ、エリーナがおれを迎えに来てくれた。
 例によってジョーも一緒だ。あと黒髪のメアリと、そばかすのトマス、赤毛のマイケル。
 なんだかいっぱいで来てくれたので、おれはびっくりした。
「だいじょうぶ、リュウ?」
「あ、うん……もうだいじょうぶ。ぜんぜん、だいじょうぶ……」
 おれは笑って、平気だよ、と言った。
「お昼から、ちゃんと、がんばるね……おれ、かっこいいレンジャーになりたいもの……」
「おまえには一生無理だよ、ノーデ……痛え!」
 意地悪を言い掛けたトマスが、横からジョーに蹴っ飛ばされて悲鳴を上げた。
 トマスはなにがなんだかわからないって顔をしてたけど、ジョーに睨まれて、すごすごと後ろに下がった。
 おれはベッドからぴょんと飛び降りて、おなかすいたな、と言った。
「元気になったみたいで何よりだよ、リュウ」
 ジョーがそっけなく言って、じゃ、食堂行こうか、と言った。
「昼からは地質調査のサンプル摂取だってさ。地下に降りるんだって」
「え、ち、地下?! ほんと? 地下って、あの……」
「お前、絶対降りたことないだろ」
「う、うん、ない……」
 おれがうんうんと頷くと、トマスが笑いながら茶化した。
「おまえ、嘘つくなよ。最下層区出身のノーディなんだろ……痛え!」
 またジョーに蹴られた。トマスは涙目で、なんでなんだよ、という目をジョーに向けている。
 地下に降りられるって訊いて、おれはすごく楽しみになってきた。
 地下世界っていうのは、おれの兄ちゃんやニーナ姉ちゃん、リン姉ちゃん……大体の大人の人が生まれたところなんだっていう。
 一度見てみたいと思ってた。
 天井の岩に描かれた空があるとか、トンネルみたいなのがずーっとあるとか……水に沈んじゃった街や、氷の洞窟なんかもあるっていう。
「初任務ね、リュウ」
「う、うん!」
 おれは嬉しくなって、にこおっと笑った。
 これがおれの最初の仕事なんだ。
 がんばって、がんばって……兄ちゃんが恥ずかしくないくらい強いレンジャーになって、いつかきっともう一度兄ちゃんに会って、それで、キライなんて言ってごめんなさいって言うんだ。



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