下から風が吹いてきて、耳のそばでびゅうびゅうごおごお唸っている。
 おれは下を見ないようにがんばってたけど、ちょっとしたはずみで目をやっちゃうと、ぐるぐる眩暈がして、足が竦んで座り込んでしまいそうになった。
 足場は窓の外に張り出している、ちっちゃい子供が一人通れるくらいのほんのちょっと分だけで、そのすぐ下は真っ黒の水面が遠くにあるだけだ。
 すごく高い。落ちたら多分死んじゃう。
 明かりもあんまりない。点けると、さっきの「ユーカイ」のおじさんたちに気付かれちゃうから、真っ暗なままだ。
「ど、ど、ど、どうするの……」
 三人一列に並んで、おれは真中だった。後ろのメアリが、歯をがちがち鳴らしながら、ねえ、と訊いた。
「お、落ちたら、死んじゃうよう……もうだめ、歩けないよう……」
 メアリがぺたっと座り込んで、ギブアップしてしまった。
 先頭のエリーナは、メアリとそっくりのがちがちに震えた顔で、もうちょっとよ、と言った。
「も、もうちょっと。もうちょっとだから。わ、私も、ちょっと、ぎりぎりって言うか、もうダメって言うか……」
「う、うー」
 おれもこくこく頷いて、同意した。ほんとにその通りだ。高いところが苦手ってわけじゃないけど、こんなに危なっかしいのはキライだ。
「ね、ねえ……こっそり隠れてたら、レンジャーが助けにきてくれないかな?」
「お、おれも、じつは今、そう言おうと思ってたの」
 ねえ、とおれは頷いた。でもエリーナは全然信用ならないって顔をして、だめよう、と言った。
「だ、だめだめ。レンジャーより先に、きっと見つかっちゃうよ。とにかく、あの魔法陣からきっと、お外に出れるよ……う、動いてるかどうかはわかんないけど……」
「転移の魔法陣……ねえエリーナあ、もう効果がなくなっちゃってたらどうするの?」
「それより、あそこまで泳いでくの? 水の中、怖いディクがいないかなあ……」
 おれが心配になって言うと、メアリとエリーナはぴたっと固まってしまった。
「そ、そうだったね……お水の中だもんね……」
「わ、私泳げないよ。どうしよう?」
 メアリはもうぐすぐすきてる。もうちょっとで泣いちゃう。
 おれも泣いちゃいそうだったけど、ぐっと堪えた。
 おれは立派なレンジャーになるまでもう泣いたりなんかしないって決めたし、それにメイジはバトラーが守ってあげなきゃならないんだ。
 エリーナとメアリ、二人共メイジで、おれだけバトラーだった。これはおれがしっかりしなきゃ。
「ね、ねえ、下から帰るっていうのは?」
「道がわかんないよ……さっきのおじさんたちに怖いことされて殺されるか、ディクに食べられて死んじゃうかだよ」
「どっちもいやだよ、それ……」
 ともかく、ほんとにどうしようって感じだ。
 おれたちが大きな廃屋敷の壁に張り付いて途方に暮れていると、遠くのほうでぴかぴかっと何度か光った。
 あれ、何だろう?


◆◇◆


「くそっ、ディクどもだ! こっちを囲んでやがる!」
「なんだってこんなに統制が取れてるんだ!?」
 男たちはどよめいて、窓から身を乗り出して、食い入るようにスコープに見入った。
 そう遠くない闇の向こうに、無数の光点が見えた――――赤いディクの目がぎらぎら光っている。
 まるで鬼火が燃えているようだ。
「いや、偶然だろう。もともとここを住みかにしていたんじゃないのか。俺たちに気づいてもいないはずだ。取り立てて騒ぐほどのもんじゃ……」
「しっ! 静かにしろ!」
 男の一人が、窓を開け放ったまま、壁の陰に隠れた。
「何か言ってやがるぜ」
 ざわざわと、なにか聞こえる。
 異質な鳴き声が混ざり合って、不快な響きとなり、暗闇の中でうねっている。
「なんだ、気色が悪いな」
 それは大きくなったり小さくなったりして、波のようにわんわんと鳴り続けている。
 威嚇の行動だろうか。
 住みかに入り込んだので、怒ってでもいるというのだろうか?
「弾薬を用意しておけ。ありったけだ」
 スコープを掲げていたトラジマの男が、振りかえらないまま言った。
「おい誰か、ガキどもを連れてこい。畜生、ディクにまでコケにされてたまるか……」
 少しずつ、ディクの包囲の輪が狭まっていく。
「ともかくこっちはだめだ。数が半端じゃない、おい、奥のほうへ行くんだ」
 武装して、男たちは廃屋敷の深部へ向かった。
 朽ち掛けているとはいえ、そこは堅固な城塞のようだった。
 あまりに巨大だ。
 こんな建造物を易々と放棄してしまえるのだから、やっぱりハイディってやつはわからんな、と男たちは言い合った。


◆◇◆


「ニーナアアア!!」
 思いっきり怒鳴って、モニタをぶん投げる――――だけどぶん投げられたくらいじゃあ、特別製の通信機には、傷くらいはついたかもしれないが、たいしたことはないようだった。
 クローゼットの下で逆さまになっている液晶画面に、逆さまに見慣れた少女の顔が映っている。
 彼女には悪びれたふうもなかった。
 その背景には暗い空洞が広がっている。
 ボッシュはデスクを殴り付けてまっぷたつにしてしまいながら、更に彼女に罵声を浴びせた。
「このバカ! ディク女! なんでそういうことを俺に言わないんだっ!!」
『だってボッシュ、寝込んでたもの』
「起こせよ!」
『ナラカとリケドが、「お館様は「兄さま以外とは話もしたくない」と仰っておられました」って』
「空気を読め! それで、兄さまはどうなったんだ!」
『だから、わたしも一生懸命探してるんだよー! レンジャーの人は全然嘘教えるし、トリニティの残党はまだ中層区に立て篭もって悪いことしてるって! でもどこにもリュウいないし……』
「なんで俺に言わないんだっつってんだろ?!」
『だってボッシュ、絶対混乱しちゃって、地下ごと全部埋めちゃいそうだったんだもん!』
 ニーナは半べそでボッシュに「どうしよう」と言った。
『き、訊いても、全然教えてくれないの、悪い人……し、知らないって。ほんとに知らないみたい、これ……』
「オマエ、アレやったの?」
『う、うー。すごいくすぐり攻撃してあげた。でもだめだった』
「…………」


 今朝喧嘩したリュウが、任務中に攫われたらしい。
 ボッシュは話を聞いて、頭の中から、鬱々した気分も今しがたまで見ていた過去子供の時分の少しばかり悲しい夢も、全部すっ飛んでしまった。
 ニーナはリュウを助けるために、統治者自ら直々に出向いたが(モニタに映る彼女の泣き顔の後ろで、椅子に縛り付けられたまま泡を吹いて白目を剥いているのは、確か指名手配中の反政府組織の現リーダーだ)どうも成果はなかったようだ。
 まだ犯行声明も出されていないらしい。
 リュウの居場所はまったく特定できず、どこの誰がオリジンの兄弟を誘拐するなんて馬鹿な真似をやらかしたのかも、いまだにわからないままだ。
『だからねえ、き、聞いてる? ボッシュ? メベト呼んできて。おじさんならわかるでしょ? 昔は悪い人の一番偉い人だったんだから……』
「その必要はない、俺が行く! オマエもう動くな!」
 一方的に言い置いて回線を切って、寝癖を直しもしないまま、オリジンのコートだけ引っ掴んで、ボッシュはドアを蹴り開け、ばたばたと慌しく部屋を飛び出した。



NEXT