男の子はボッシュというらしい。
 おれの兄ちゃんとおんなじ名前だ。
 いったいどういうことなんだろうと、おれは普段あまり使わない頭をフル稼働させて、一生懸命考えてみた。
 頭が痛くなってきたあたりで、ようやくおれは事態を飲み込むことができた。
 目の前にいる、金髪ですごくかわいい顔をした、おれとおんなじくらいの年頃の男の子は、どうやら子供の頃の兄ちゃんらしいのだ。
 おれの目の前にいるのは、間違いなく――――ちょっと、いや、かなり若いけど――――ボッシュ兄ちゃんだった。
 おれは世界中にいるいっぱいの人たちの中に紛れていても、この人がおれの兄ちゃんです、って見付ける自信があった。
 おれたちは兄弟だったんだから。……ほんとの兄弟じゃないってことを思い出して、また泣いちゃいそうになったけど。
 ともかく、この子は絶対ボッシュ兄ちゃんだ。
 そしておれが今いる大きなお部屋と、窓から覗く、暗がりの中で青白く光に照らされたお屋敷は、さっきおれとエリーナとメアリが怖いおじさんたちに「ユーカイ」された廃墟にそっくりだった。
 全然違うのは、おれが今いるとこはぴかぴかしてまっさらで、壁も白くって染みひとつなくって、人がいっぱいいて動いてるとこだ。
 部屋の外の廊下を歩く音が、ぱたぱた聞こえてくる。
 お手伝いさんがお仕事をしてる音だ。
 セントラルの部屋はあんまり音ってものがないので、おれには真新しい――――はずだけど、なんだか妙に耳に馴染んでくる。いつか聞き慣れた音のように。
「にいさま……どしたの? ぼ、ぼくのことわかんないなんて、ないよね? ねえ……」
 ボッシュ兄ちゃんは、すごく怖がってるようで、ぷるぷる震えながらおれにぎゅっとしてきた。
 おれはそうされて、なんだか胸がぎゅーっとなってしまった。
 この兄ちゃん、なんだかよくわかんないけど、すっごくかわいい……。
 でも泣いちゃうのは可哀想なので、おれは兄ちゃんの頭をなでなでしてあげた。
「な、泣かないで、ボッシュ兄ちゃん。おれ、わかるから」
 おれはちっちゃい兄ちゃんにそうやって泣かれると、なんだかすごく悪いことをしたような気がした。
 そうだ、おれは兄ちゃんに謝らなきゃならないんだった。
「あのね、意地悪言ってごめんね……キ、キライとか、もう言わないからね」
「キ、キライってぼくに言ったの?! に、にいさまあ、やだあ!!」
「い、言わない言わない! ぜんぜんキライじゃないもん! おれ、ボッシュ兄ちゃんのこと、だいすきだも……」
 ちっちゃい兄ちゃんがわっと泣き出してしまったので、おれは慌てて言い直した。
 泣かないで、って頭を抱いてあげると、ようやく兄ちゃんは泣き止んでくれた。
 でも、ちょっと変だな、って顔をして、おれを見上げた。
「……にいさま? にいさまがぼくを兄ちゃんっていうの、ヘンだよ。にいさまはぼくのにいさまだから、ぼくはにいさまの兄ちゃんじゃなくって、えっと、うー……」
 兄ちゃんは自分で言ってて良くわかんなくなっちゃったようだった。
 おれにもよくわかんない。
 でもなんとなく、ボッシュ兄ちゃんが言ってることは、わかったような気がする。
 それっていうのも、おれの身体が、いつもと違うからだ。
 なんていうか、その、お腹の下の方に、ついてるんだった。男の子のが。
 なんでか、おれは男の子になっていた。
 それで、ボッシュ兄ちゃんに「にいさま」って呼ばれてる。
 そもそも、さっきおれはおっきな岩に潰されて死んじゃったはずだ。
 ふと思い当たるところがあって、おれは兄ちゃんに訊いた。
「……ね、今って、いつ?」
「え?」
 ちっちゃい兄ちゃんが戸惑いながら教えてくれた年号は、おれの知ってるのと大分数え方が違った。
 随分古かった。
 十何年近く古い。そのころ、「おれ」はまだ生まれてない。
「ね、にいさま? ほんとに、ヘンだよお……」
 兄ちゃんは、おれのことをすごく心配そうな目で見てきてる。
 いろいろ考えてみたんだけど、これしか思い付かなかった。
 おれは今、なんだかよくわかんないけど、ボッシュ兄ちゃんの「兄さま」になっているらしい。


◆◇◆


 おれは子供なんて見るのはあんまりなかった。
 小さい頃は、目にする人間はボッシュ兄ちゃんだけだった。
 二人目がニーナ姉ちゃんだった。
 ニーナ姉ちゃんはうれしそうに「うー」とか「にゃー」とか言いながら笑ってくれた。
 三人目はリン姉ちゃん。
 なんかすごく難しい顔で兄ちゃんと何か話してたけど、何を言ってたのかはわからない。
 おれが寝てる間に誰かがいっぱい周りにいる気配があることもあったけど、良く憶えていない。
 起きたら身体に包帯が巻いてあったりすることもあったので、手術とかされてたのかもしれない。
 やっぱり人間ひとり造るなんてのはすごく大変なことなんだろうと思う。
 おれなんて、粘土で人形を作ることすら一苦労なんだから。
 やっぱり兄ちゃんたちは、すごい。おれはなんだか寂しいけど。
 そんなわけで、兄ちゃんとは言え、ちっちゃい子に触れてとても嬉しかった。
 すごく可愛い。
 なんでかおれもちっちゃい子になってたけど。
「にいさまねえ、ぼく来たらまた怒られる? いやかなあ?」
「ううん、いやじゃないよ。おれ、うれしい。ボッシュ兄ちゃん、大好きだもの」
「……にいさま、ボッシュ、って呼んでよ。にいさまがぼくのことにいさまって呼ぶのはヘンなの」
 ちっちゃい兄ちゃんに叱られてしまった。
 おれはごめんねと謝って、その通りにしてみた。
「……ごめんね、ボッ、シュ?」
 おれは、なんだかびっくりした。
 それはすごくなめらかに、おれの口から出てきた。すごく、しっくりする呼び方だった。
 兄ちゃん――――ボッシュは満足したようで、満面の笑顔で頷いてくれた。
 すごくかわいい。いつもの兄ちゃ……ボッシュも、ずーっとこんな顔で笑えばいいのに。
 兄ちゃんのほうのボッシュはいつも面白くなさそうな顔をしている。笑う時も、にやって感じでちょっと意地悪な笑い方だ。
 たまにすごく優しく笑ってくれるけど、なんだか寂しそうな顔で、おれはいつも胸がぎゅうっとなってしまう。
 おれはボッシュにそんな顔をさせないためにいるのに、ぜんぜん役立たずだからだ。
「ボッシュ、笑うと顔、すごくかわいいね……」
 思ったままおれが言うと、ボッシュは顔を真っ赤にして、そんなことない!と叫んだ。
「ち、ちがうもん! ぼくはかわいいんじゃなくて、かっこいなの! かわいいのはにいさま!」
「おれ、かわいくないよお」
「かっ、かわいいもん! いつか、ぼくが、そのあの、おっ、およめさんに、してあげるからね、にさま……」
 ボッシュは恥ずかしくってたまらないって顔で俯いて、ぽそぽそ言った。
 おれには、およめさんってのがなんなのかわからなかった。
 ボッシュはこんなちっちゃいのに、おれよりずっと頭がいいんだ。
「およめさんってなに?」
「に、にいさま! まえ教えてあげたでしょ、わすれちゃったの?」
 ボッシュは悲しそうに頭を振って、約束したのにい、と言った。
「ぼ、ぼくといっしょに、ふたりでずーっといるんだ。にいさまごはんつくってくれて、えっと、ずーっといっしょにあそぶの。それでいっぱい好きって言って、ちゅ、ちゅうしたり、するの……」
「ちゅ?」
 ちゅう、は、知ってる。いつもボッシュが――――いつもの大人でかっこいいほう――――朝と夜寝る前にしてくれるやつだ。おでごにちゅって口を当ててくれる。
 おれはお返しをするのにボッシュのおでこにまで背が届かないので、背伸びをしてほっぺたにちゅってする。
 あれ、「およめさん」がすることなんだろうか?
「ちゅ、これ?」
 おれはいつもみたいに、ボッシュのほっぺたにちゅって口をつけてあげた。
 ボッシュはなんだかいつもとは違って、顔を茹でられたみたいに真っ赤にしてしまった。
「に、に、に……」
「どしたの?」
「にい……う、ううー」
 ボッシュはぺたんってベッドに全身くっついて、しばらくそうしてたけど、ちょっとすると枕をぎゅーって抱いて、ちっちゃい声で、またこれしてね、と言った。


 その夜、おれたちは一緒に寝た。
 ボッシュはおれにぎゅーっと抱き付いていた。
 離れるのが怖くて仕方ないって感じだ。
 ずうっとにいさまにいさまって言ってる。
 この子、「にいさま」がいなくなったらどうなっちゃうんだろう、ってくらい、おれのことを好きになってくれてるみたいだ。


 でもおれは知ってる。
 ボッシュは「兄さま」に裏切られてしまったんだ。
 それで悲しくて「兄さま」を殺しちゃったんだ。
 でもあんまり寂しくて我慢できなくって、おれを造ったんだ。
 ちっちゃいボッシュは、すごく安心した顔でおれにくっついて眠っている。
 おれはどうしようもなく腹が立った。
 こんなに可愛いボッシュを裏切るなんて、「兄さま」ってなんて悪い子なんだろう。
 おれなら、世界中全部ポイって捨てたって、ボッシュのそばにいてあげる。
 ボッシュが欲しがるならなんだってあげる。
 おやつもわけたげる。泣かせたりぜったいしない。
 おれはボッシュを泣かせたり、寂しい目に遭わせたりしないためにいるんだ。
 ほんとの兄弟かそうじゃないかってことは、もうおれの中でそんなこだわりが曖昧になりはじめていた。
 おれはボッシュが寂しくないなら、もうなんだってよかった。
 ほんとの兄弟じゃないとやだなんて我侭も言わない。
 ずーっとそばにいてあげる。おれが見たいテレビも我慢して、兄ちゃんに好きな番組を見せてあげる――――難しいニュースとかでも平気だ。
 おれは早くボッシュに謝りたかった。
 もう我侭言ったりしなくて、いい子にしてるから、なんでも言うこと聞くから、ごめんなさいって言いたかった。
 ずっとそばにいるよもう寂しくないからねって言ってあげたかった。
 でももうおれは死んじゃったんだ。
 兄ちゃんは今頃泣いてるだろうか。
 おれの欠片で新しいおれを造ってる頃だろうか。
 それでも構わなかった。
 できるなら今度造られるおれが、今のおれよりずうっと賢くて、もう兄ちゃんを泣かせないでくれることを、おれは祈った。


◆◇◆


(にいさま……朝だよ、ぼく行くね、とうさまの剣のおけいこがあるの)
 おれより先に起きたらしいボッシュが、おれを起こさないように静かに起き出して、言った。
 おれは変に思った。
「うー……まだ夜だよお……ね、おひさま、のぼってないよ、兄ちゃん……」
「ボッシュ、だったら! 「兄ちゃん」じゃないよ、ねボケてるの?
それに兄さま、おひさまなんてないよ。お空のお話じゃあないんだから……」
 おれは変に思って、目を擦って起きた。
 時計の針は、朝の6時をさしてる。立派に朝だった。
 でも窓の外は真っ暗で、空気がひんやり冷たかった。
 おれを心配そうに覗き込んできてるちっちゃい兄ちゃん……じゃなくて、ボッシュが、にいさまもそう言えば、起きなくってへいきなの、と訊いてきた。
「いつも、ぼくより早起きで、どっか行っちゃうでしょ。おねぼう、ちがうの?」
「ふえ?」
 おれが朝起きるのは、だいたい7時くらい。あんまり早く起き過ぎてもボッシュと一緒に朝ご飯を食べられないし、レンジャーに入隊するまではほとんどお家で過ごしていたので、書庫のお手伝いくらいしかすることはなかった。
「うん、だいじょうぶ……だと思う。いつもより、早いくらいだし……」
 ぜんぜんだいじょうぶ、と言おうとしたところで、部屋のドアが、どんどん!と激しく叩かれた。
 おれとボッシュはびっくりして、ぱっとドアを見た。
 ドアの向こうから、すごく怒った人の声が聞こえてきた。
「ローディ! 何時だと思っている! 朝の仕事をさぼるなんて良い度胸だな。どなたのお情けで生かされていると思っているんだ? おまえは今日一日食事は抜きだ!」
 ばん、と乱暴にドアが開いた。
 そこにいたのは、すごく怖い顔をしたおじさんとおばさんだった。
 その人たちは、怖がっちゃっておれにぎゅって抱き付いてるボッシュを見ると、更に目を吊りあがらせた。
「ボッシュ様! ローディ、お前はまだ自分の立場ってものをわきまえていないのか!
そのお方は、お前が口をきいて良いお人じゃあないんだ!」
「さ、ボッシュ様、こちらへ。剣の稽古がおありでしょう? こんなところへ来てはなりません。ローディと口をきくなんて、もってのほかです」
 おばさんが、ボッシュの手を優しく取って連れて行く。
 ボッシュは何か言いたそうに振り返って振り返っておれを見たけど、結局なんにも言わずに言ってしまった。
 おれは慌てて後を追おうとした。
「ま、待って、ボッ……」
「お前はこっちだ!」
 でも後ろから、肩が外れそうなくらい強い力で腕を引っ張られた。
 おれは怖くて、小さな声で、兄ちゃん、と呼んでみた。
 でもいつもみたいに、おれがD値がないってことでひどいことを言われた時に、すごく怒って助けに来てくれる兄ちゃんのボッシュは、おれのところに来てくれなかった。
 もう姿は見えなくなって、おれはひとりっきりで、怖い男の人に引き摺られていた。
「もうお前は今日はいらねえ。皿を洗わせれば割るし、掃除をさせてみればバケツをひっくり返すし、ディクの餌やらせようとすれば、奴らの尻尾を踏んで大騒ぎだ。ただでさえ、何の役にも立ちやしないんだ。地下でしばらくひとりで反省していろ」
 おれは「地下」って言葉に、心臓が竦んでしまった。すごく怖くなった。
 これからおれが連れてかれるところが、とても暗くて冷たくて怖いところだと、何故かおれは知っていた。
 おれはちっちゃいボッシュを知っていた。
 彼が可愛くてならなかった。
 でもおれは、ボッシュに造られた「兄さま」のかわりの人形だ。
 落ちてきた岩に潰されてさっき死んだはずの。
 レンジャーになったばかりで、良く男の子と間違えられるけど、一応女の子のいつもの身体はなくなって、おれはほんとにちっちゃな男の子になっていた。
 記憶がごっちゃごちゃになっていた。
 おれはいったい、誰なんだろう?



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