暗くて冷たくて寒い。ここは上にある屋敷と違って、さっき「ユーカイ」されたおれが目が覚めたところのままだった。
 屋敷の地下だ。湿気は少なかったけど、お墓みたいな寂しい所なのはそのままだった。
 おれは膝を抱えて丸くなって、ぐずぐずと泣いていた。すごく怒られて、ここへ閉じ込められてしまったのだ。
 なんにも悪いことしてないのに、いっぱいぶたれた。
 こんなにいっぱい痛いことされたの、生まれて初めてだ。
 ひどいことばっかりされて、おれがやだあって言ったって、みんなちっとも聞いてもくれない。
 それもローディだから悪いとか、ボッシュと喋ったから悪いとか、なんだか良くわかんない理由でおれのことをぶったのだ。
 ひどい。ボッシュ兄ちゃんなら絶対こんなことしない。きっとすごく怒っておれのことを助けてくれるはずだ。
 でもいつもよりちっちゃいボッシュは、おれを置いてどこかへ行ってしまった。
 おれは捨てられてしまった。
「う、うえっ、兄ちゃ……」
 涙は、止まらなかった。
 家に帰りたかった。
 こんな怖いお屋敷なんていやだ。
 いつもの兄ちゃんのところへ帰りたい。
 ニーナ姉ちゃんやリン姉ちゃんたちに会いたい。
 でもおれにはどうやったら元いた場所に帰れるのか、全然見当もつかなかった。
 もしかしたら一生この「兄さま」のままなのかなあと思って、怖くて、おれはいよいよ泣き出してしまった。


 おれは今、ちっちゃな男の子の身体で、両ニの腕にはD値のバーコードが刻印されている。
 きっと同じものが首筋にもあるに違いない。
 数字はうまく読めなかったけど、光っている文字は四桁だった。
 ボッシュは一桁だ。昔は二桁だったらしい。でもボッシュがボッシュだけじゃなくなったから、もっかい計り直したんだって言ってた。
 普通D値ってのは、生まれて計られたら一生そのままだ。それは絶対なんだそうだ。
 でもボッシュは、昔のボッシュとは「別人」なんだそうだ。
 なんか、ヒトがドラゴンになったとか、難しいことを言ってた。
 おれはすごくD値が欲しかったけど、この四桁のD値があったって、おれはノーディの時よりずうっといじめられた。
 ボッシュがおれにD値がいらないって言ってたのは、こういうわけだったのかな、とおれは思った。
 おれが四桁のD値で「ローディ(D値が低いやつ、って意味らしい)」なせいで、みんなにいじめられないようにしてくれてたんだろうか。
 ボッシュに謝りたいな、とおれは思った。
 いつものボッシュには、もう一生会えないのかな、とおれは思った。
 ちっちゃいボッシュは、あんまりおれのことが好きじゃないのかもしれなかったし――――なにせ、ボッシュ兄ちゃんだ。おれのことが好きだったら、いつも絶対守ってくれるに決まってる――――かわいいよりかっこいいのほうがボッシュらしいと思う。おれの、兄ちゃんなんだから。


 それにしても、ここに閉じ込められてから、どのくらい経ったろう。
 ものすごく長い間ここにいるような気がする。
 おれをいっぱいぶったおじさんは、今日一日ここで反省してろ、って言ってたから、まだ一日も経ってないのかもしれない。
 でも、なんだかもう一週間も一ヶ月もずうっとこの暗い中にいるような気がする。
 もしかすると、あのおじさんおれのこと閉じ込めたの忘れちゃってるんじゃないだろうか。
 それは困る。
 おなかがすいて死んじゃう。
 今だって、もうずいぶんなんにも食べてなくて、胃がきゅうきゅう鳴ってる。
 うまにくのヒレステーキベリーソースがけとか、プリーマのテリーヌとか、チーズクリームパイとかアップルタフィーが食べたい。
 ニーナ姉ちゃんの手作りホットケーキが食べたい。はちみつたっぷりなの。
 おなかすいた。身体中ぶたれて痛い。死んじゃう。
「ち、ちっちゃいボッシュのばかあ……なっ、なんでおれほっといてどっか行っちゃうの……」
 膝を抱えてめそめそしてると、やがておれは泣きつかれて、いつしかうとうとしてしまった。
 意識がふよふよしている中で、なんだか誰かがそばにいるな、って気配が生まれた。
 ぼんやり見上げると、目の前にはおれがいて、じいっとおれを見つめてきていた。
 おれはちっちゃい男の子になってたけど、そのおれはいつものように、おっきかった。歳は12歳くらいだと思う。そう見えるらしい。ほんとの歳は知らない。
 そのおれは、困ったねというふうにちょっと首を傾げていた。
『ひどい目に遭ったね。痛かったでしょ、だいじょうぶ?』
 おれとおんなじ顔してるもうひとりのおれを見て、おれはふっと思い当たって、訊いてみた。
「……「兄さま」?」
『ちがう、ちがう。おれ、きみの「兄さま」じゃないったら』
「うん、ええと違うの、ボッシュ兄ちゃんの「兄さま」なの?」
 これがボッシュ兄ちゃんの「兄さま」なのかと、ボッシュを裏切って殺されちゃったヒトなのかと思った。
 でももうひとりのおれは、首を振って、ちがうよ、って言った。
『それはきみでしょ。あんなに好きだったのに、弟のこと忘れちゃったの?』
 もうひとりのおれは、呆れたみたいに腕を組んで、だめだなあ、と言った。
「ふえ? じゃ、きみ、だれ? お化け?」
 もうひとりのおれは、おれの前にぺたんとしゃがんで、お話をしようか、と言った。


◆◇◆


「それでね、おじさんいっぱいおれのことぶったの……おれなんも悪いことしてないのに、ひどいよ」
『ふうん。キライになった?』
「うん」
 おれは素直に頷いた。
 もうひとりのおれは、こともなげに、じゃあやっつけちゃおうか、と言った。
『あのヒト、今は上層区で、電力供給ビルの警備員やってるよ……奥さんは、おんなじ屋敷で働いてた女中さん。子供はふたり。昔は剣聖のお屋敷で働けるハイディだったのにね。リストラされちゃって、アルコール依存症だ。奥さんにも見捨てられて、子供と一緒に出て行かれちゃった』
 もうひとりのおれが、絵本のお話を読んで聞かせてくれるボッシュみたいな声で、おれに教えてくれた。
 レンジャーのかっこをして、手にはさっきおれが支給されたゴーグルを持っている。
 ゴーグルは眩い光を、近くの壁に投げつけていた。
 そこには、くたびれたひとりきりのおじいさんが映っていた。
 昼間初任務に出掛けてく時に通ったおっきいビルの前で、レンジャーの若い同僚たちにいじめられている。
 お家は、街の片隅にあって、家の中はぐちゃぐちゃで、誰もいない。
 おじいさんは家に帰ると、家の中にあるもので唯一綺麗でほこりも被ってない写真立てを見つめながら、瓶からお酒を呑んでいた。
 写真の中には、おじいさんより若い――――さっきおれをぶったおじさんがそのままの姿でいる。家族四人一緒に映っている。笑っていた。幸せそうだ。
 赤い顔で、ちょっと泣いてた。なんだかさっき意地悪されたとは言え、これはあんまりかわいそうだ。
『多分、死んじゃってもだあれも悲しんでくれないよ。気付いてもくれないかもしれない。「兄さま」とおんなじだね。このおじさん、口癖みたいに毎日言ってるんだ。
「申し訳ありません、お許し下さいリュウ様」……』
「おれ?」
『そう、おれ。今の泣いてるちっちゃいおれ……そう、きみだね。仕事から帰ってきて、ベッドに入る前なんかにいつも思い出して、夜も寝られないんだ。きみの泣き声が毎晩、耳のそばで聞こえるんだよ。耳を塞いだって聞こえてくる。そう、当たり前だね、それは現実の音じゃなくて、記憶の中の声なんだから。
子供の泣き声を聞くだけでパニックを起こしてしまうから、仕事のほうもうまくいってないみたい。多分いなくなったって、誰も困らないよ。おれみたいにね』
 もうひとりのおれは、さっきおれがおじさんのこと「ひどい」とか「キライ」とか言ったから、そんなこと言っちゃだめって怒ってるのかなあと思ったけど、見た感じそうじゃなかった。
 もうひとりのおれは、ほんとにおじさんのことをどーでもいいと思ってるみたいだった。
 なんだかおれは、もうひとりのおれが怖くなってきた。
 おれとおんなじ顔をして、そういうことを平気で言うところとか。
「あのね……そ、そーいうの、言っちゃだめだよ。人に優しくしなさいって、ニーナ姉ちゃんいつも言ってるよ」
『うん、そうだね』
「助けてあげようよ」
『ぶたれてキライって言ってたのに』
「う、うー……でもだって、かわいそうなんだもん」
 おれがぷうっと膨れて言うと、もうひとりのおれは頷いて、じゃあ次の見る?と言った。
 あんまり、おれの言うこと聞いてくれてないんじゃないかな……。
 それからもうひとりのおれが見せてくれたのは、さっきおれにいじわるをした人たちの今の姿だった。
 みんなあんまり幸せそうじゃなかった。
 お仕事の偉い人が変わって……お館様って言うらしい……みんなおれにひどいことした人ばっかりだったので、そのお館様――――ボッシュだ――――は怒って、みんなを使ってくれなかったんだ。
『ボッシュも昔はおれのことなんて大嫌いだったんだから、一緒なのに……それ、思い出すのがヤだったのかなあ』
「ぼ、ボッシュおれのことキライだったの?!」
 おれは驚いて、もうひとりのおれに訊いた。
 すごいショックだった。
 さっきからショックを受けてばっかりで、もう何が起こったってこれ以上落ち込むことなんかないと思っていたけど、そればっかりは駄目だった。
 またじわじわ涙が溢れてきた。
 キライならまだしも、「大キライ」ってのは……すごく、やだ。ボッシュにそんなこと言われたら、おれは悲しすぎて死んじゃう。
「なんで?! おれ、なんかボッシュが嫌がることした?」
『おれ、ローディだから、おれのせいでボッシュ、いっぱい恥ずかしかったんだよ。仕方ないんじゃないかな……』
「う、お、おれっ、ボッシュ兄ちゃん……」
 おれがまた泣き出すと、もうひとりのおれはじっと静かになって、おれを観察していた。
 なんかこのおれ、ぜったいおれとおんなじ人じゃない。
 おれなら、相手が自分だって、目の前で泣いてたら「泣かないで」って言ってあげる。でも真っ赤な目で、黙ってじいっと見てるだけだ。
 ……真っ赤な目?
「……ね、なんできみ、おれ? お目目が真っ赤なの?」
 おれは気になったことを、もういっこ訊いてみた。
「あとね、なんでそんないじわるなの? おれそんなだったら、きっとボッシュ、おれのことキライって言うよ……」
『うん、おれたちは一緒だけど、やっぱり別々だね。きみ、人間だろ。だからまだ良くわかんないんだ。1000年見てても、よくわかんないんだ』
 もうひとりのおれは、ごめんね、って言った。
 あんまりごめんって顔もしてなかったけど、それでおれは許してあげた。
 このおれ、きっといろんなことがまだわかんないんだ。
『今度はおれが訊いてもいいかなあ』
「うん?」
 もうひとりのおれは、そこではじめてすごく真面目な顔になった。今までぼわっと呆けていた目が、きゅっと引き締まった。
『兄弟ってさ、どういうもんだと思う?』
「ふえ?」
 変なことだ。
 もうひとりのおれは、兄弟についてわかんないらしい。
 おれもそうやってあらためて聞かれるとよくわかんなくなってくるけど、とりあえずおれとボッシュはね、と教えてあげた。
「おれはボッシュ兄ちゃんが好きだし、ボッシュもおれのこと好きって。あと、ほっぺたとおでこにちゅうしてくれたり、やさしかったり、本を読んでくれたり、遊んでくれたりするよ。あとね、キライって言われたら……なんか死んじゃいたくなる……」
 またボッシュと喧嘩したことを思い出して、おれは泣けてきた。
 ボッシュ。
 謝って、仲直りしたかった。
「生まれた時からずーっとずーっと一緒にいるんだ。ずーっとだよ。一緒にいるとうれしいし、ボッシュがおなかすいてたら、おれ我慢しておやつあげる」
『片方がいなくなっちゃったら? つまり……おれが死んじゃうか、ボッシュが死んじゃうかしたら、残ってる片方は?』
「か、考えたくないけど」
 おれは、ボッシュ兄ちゃんがいなくなっちゃった時のことを考えた。
 ひとりぼっちになっちゃった時のことを考えてみた。
 そうすると、今までで一番涙が溢れてきた。
 もう悲しいのか苦しいのかもわからなかった。
「おれも寂しくて死んじゃうと思う」
『ボッシュは? どうするかな?』
「ボッシュ兄ちゃんは、きっと新しいおれを造るよ。ボッシュ、大好きな「兄さま」のかわりに、おれのこと造ったんだもの。
おれがいなくなっても、きっとひとりじゃあないよ……」
 でもね、とおれは言った。
「に、「兄さま」が死んじゃった時は、すごく泣いたんじゃないかなあ?
多分悲しくて悲しくて、寂しくて泣いてばっかりだったと思う。
だってボッシュ、泣き虫だもん。「おれ」がいないと泣いちゃうも……。
だからかわりだってなんだって、おれはもうひとりおれができてボッシュのそばにいられたら、それで兄ちゃんが泣いたりしなくて良いなら、何回死んだって大丈夫だよ」
『ふうん』
 もうひとりのおれは、よくわからなさそうな顔をしていたけど、何度か頷いて考え込んでしまった。
『ねえリュウ』
 そして、ふいにもうひとりのおれは、おれのことを名前で呼んだ。
 まるで、もうひとりのおれは、リュウじゃなくって、別の名前があるみたいな感じだった。
 そして、変なことを言った。
『おれ、リュウがおれの兄弟ならよかったな』
「……? おれ、いっしょでしょ。顔とかさ……きみも、「リュウ」でしょ?」
 ボッシュ兄ちゃんの「兄さま」なんでしょ、とおれは言った。
 このもうひとりのおれなら、ボッシュ兄ちゃんを裏切ったって、ぜんぜん不思議じゃない。なんかあんまり、人のことを好きになったことがなさそうな感じだし、ボッシュ兄ちゃんをそうとりたてて好きって感じじゃなかった。おれと違う。
 もうひとりのおれとおれは、全然違っていた。
 考えかたも、中身も、目の色も。
『だからおれは「兄さま」じゃないったら、リュウ。それはきみの方でしょ』
「え? おれは、ちがうよ。おれ、ボッシュ兄ちゃんの妹だよ。女の子だもん」
 へんなの、とおれが言うと、もうひとりのおれは、へんなのはリュウのほうだ、と言った。
『ね、もしもボッシュ、「兄さま」がいなくなって寂しくなって、新しく造っちゃったんじゃなかったらどうする?』
「へっ?」
 おれは面食らって、訊き返した。
 どういうことだろう?
 もうひとりのおれは、淡々とした顔で、当たり前みたいに言った。
『声も、性格も、頭の中身も、身体はちょっと違うけど……「兄さま」のままだったら? 修理が終わって、ただちょっとど忘れしてるだけで、思いでは全部心の中に仕舞い込んであったとしたら?』
「おれ、なんも知らないよ」
『きみは、おれの名前も知ってるはずなんだけどなあ』
 もうひとりのおれはそう言って、どうしよう、と言った。
『ここはきみの記憶の中なんだ、リュウ。きみが望めば、このまま引っ張り出すこともできるよ。
今から十何年も、毎日ひどいことをされ続けて、ボッシュにも嫌われて、顔も見てもらえなくて、最後に殺されちゃう思いでを掘り出すこともできる。
それとも昔のことはきれいさっぱり忘れて、ボッシュ「兄ちゃん」に甘えて、愛されて生きていくこともできる。
そしてもちろん、このままおれといっしょに、地下で眠ることもできる……』
 おれのおすすめはめんどくさいからさいごのなんだけどね、と言った。
『おれにも兄弟がいるんだ』
 もうひとりのおれは言った。
『でもおれは、どういうふうにすれば良いのかわかんないんだ。リュウみたいにうまく優しくやることができないんだ。
仲良くするってどういうことなのか、わからないんだ。
だから、判定者の判定もどうすればいいのかわからない』
 もうひとりのおれは、さっきから良くわかんないことばっかり言う。うまく理解出来ないのは、おれの頭が悪いからなのかもしれない。
『でもなんだか、きみを見てると、なんだかうまくやれるかもしれないって気分になってくるな。すごく不思議だ』
 おれは良くわかんなかったけど、もうひとりのおれにお願いした。
「ね、おれ、頭あんまり良くないから……バ、バカじゃないけど! ちょっと、考えるのが苦手なだけで。
あのおれ、ボッシュをもう寂しがらせたりしたくないんだ。
さっきのちっちゃいボッシュ……なんかおれのこと、あんまり好きじゃないのかもしれないけど……すごくかわいかったんだ。
「兄さま」生き返らせれるの? そしたらボッシュ兄ちゃん、またあんなふうに笑えるかなあ?」
『たぶん』
「ほんとに? じゃ、そうして」
 おれはぱあっと顔を明るくして、笑った。
 あ、でも、「兄さま」が生き返ったら、今度こそほんとにおれはいらなくなっちゃうんじゃないだろうか?
 もうひとりのおれの口ぶりから、「兄さま」はおれの身体に、おれの頭の中に生き返るのかもしれない。
 おれは消えちゃうかもしれない。
 でもボッシュ兄ちゃんは、きっと嬉しい。
 大好きな兄さまに会いたくて、おれを造ったんだ。これは悪いことじゃあないはずだ。
「ね、おれ消えちゃったって、兄ちゃんがあんなふうに嬉しそうなら、おれも嬉しい」
 だからお願いだよ、とおれは言った。
 もうひとりのおれは、心配いらない、と言った。
『ただ思い出すだけだよ。ぜんぜん痛くもないし。じゃ、またあとでね、リュウ』
「うん」
 もうひとりのおれに手を振ってから、おれはあっと思って、そういえばおれ、きみの名前知らないや、と言った。
「名前、何て言うの? 「リュウ」じゃないんでしょ?」
『うん』
 もうひとりのおれは頷いて、自分をさして名乗った。
『おれ、アジーン。生まれた時からきみを見てた、もうひとりのきみだよ、リュウ』
 聞き終わらないうちに、世界が赤く発光しはじめた。
 光に、呑み込まれていく――――




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