丸めた紙くずの塊が、こつっと頭に当てられた。
 ボッシュは苦い顔を上げた。
 書類の束が積み上げられたデスクの向かいで、ニーナが頬杖をついて、退屈そうにこっちを見ている。
「ボッシュ、仕事」
「……ああ」
 ぶつけられた塵についての文句を言うのも面倒臭かったので、ただ黙って、取りかかっていた書類を丸めて投げ返す。
 ニーナは何とも言えない顔をして、ボッシュが投げた丸い紙くずを広げた。
「ボッシュ、これ、まだ通ってない書類」
「……ああ」
「もう」
 ニーナは呆れた顔で溜息をついて、だめだわこれ、と言った。
「クピト、ボッシュ使いものにならない。どうしようか」
「ぼくに聞かれても……リュウが帰ってこないことにはどうしようもありませんね」
「ボッシュのブラコン」
「ニーナ、二代目の場合はシスコンって言うんですよ。リュウは女の子なんですから」
「あ、そうだった……ねえ?」
 ニーナがものすごく不思議そうな顔をして、そういえばねえ、と、何度目か知れない質問を投げ掛けてきた。
「リュウ、なんで女の子なの?」


 理由は何か複雑に入り組んだものがあったように思う。
 リュウは男で、ボッシュの兄だった。
 その彼を、なんだってこんなかたちで生き返らせることになったのかは――――ボッシュはなんとなく、ずしっと胃が重くなった。
 リュウは勝手だよとボッシュを怒るだろうか?
 やっぱり女の子じゃなきゃやだったんだ、と落胆するだろうか?
 そういうんじゃない――――リュウならなんでもよかった。
 ボッシュは溜息を吐いた。
 まだ訝しそうな顔でこっちを見ているニーナを無視しながら、ぼんやりと思った。
 言えるわけがない。
 だから、言わない。
 少しだけ、こう思ったのだとか――――あの人の子供が欲しかったんだなんて言えない。
 もしもリュウが少女であったなら、約束を憶えていなかったんだとしても、もう一度、きっと何の後ろめたさもなく「おれボッシュのお嫁さんになるよ」なんて言ってくれるかもしれない。
 だけど、リュウは――――まだそういうことに関しては、まったくの子供並の知識しか持っていなかった。
 無理もない。リュウはあれで、身体の年齢は、まだ12歳かそこらなのだ。
 「兄ちゃん」と呼んで、ボッシュを慕っている。
 兄弟の情以上のものは、まだない。
 時折ボッシュは、リュウにこう言いたくなる。俺のことを愛してるって言ってください兄さま、と。
 なんにも知らない今のリュウには、なんのことだかさっぱりわからないだろう。
 リュウはまっさらで、二人共が幼かった時分の記憶を共有してはいなかった。
 いつかの未来、どうなるんだろうかなんてことは、なんにも見えなかった。
 リュウはあれで誰かボッシュではない人間を愛するかもしれない。
 兄ちゃんおれ好きなひとができたよ、と笑って言うかもしれない……そう考えると、ボッシュは焦りで背中がざわざわした。その日が恐ろしくてならなかった。
 いっそのこと、無理にリュウを手に入れてしまおうかなんて考えたことも何度かあった。
 リュウをベッドの柱に括り付けて、あの幼さばかり残る身体を一晩じゅう触り続けてしまおうかと。
 そして危ういところでそれを実行に移してしまいそうになったことも。
「ボッシュー?」
 ニーナがぐだっとデスクにくっついて、ボッシュを見上げていた。
 ひょいひょい、と手を振って寄越して、ボッシュに何の反応もないことを知ると、肩をすくめた。
「ああ、ぜんぜんだめみたい」
 今、ふたりを縛るものなどなにもなかった。
 性別も、D値も。
 1/8192の、ボッシュがローディと罵ったD値もなくなった。
 リュウがいつも気にしていた数字だ。
 もう困った顔で「おれ、ローディだから」なんて、寂しい顔で笑わせたりはしない。
 あの人にあんな顔をさせるくらいなら、この世界にD値なんて必要なかった。
 D値さえなければ、誰もリュウをローディなんて呼ばない。
「リュウ切れ、深刻ね。リュウ、早く帰ってきて欲しいなあ……。ボッシュがすごいだめになっちゃうよ」
「ほんと、ちょっと妹に依存し過ぎですよ。オリジンなんだから、そろそろ一人立ちしてください」
 ニーナとクピトが好きなことを言って、ねえ、と頷き合っている。
 リュウはまだ帰ってこない。
 サードレンジャーの任務終了時刻まで、あと3時間はある。
 実戦訓練で刃物になんて触って、怪我をしていないだろうか。
 なにせ、リュウはあまり器用なほうではない。バトラーなんて似合わない。もってのほかだ。
 青い髪について、何か言われてはいないだろうか。
 レンジャーなんて荒っぽい人種に、何かされてやしないだろうか。
「兄さま……」
 溜息混じりに呟くと、ニーナとクピトがもう救いようがないとでもいうふうに、おんなじ仕草で目を閉じて頭を振った。



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