「遅い!!」
 ボッシュは怒鳴って、どん!とデスクを殴り付けた。
 チョコレートブラウン色の、重厚なウォールナットのデスクが、ドラゴンの腕力に耐えきれずにみしっと悲鳴を上げた。
 壁に掛けてある時計は、20時をさしていた。
 だがまだリュウが帰ってこない。
 新米レンジャー隊員の仕事なんてとっくに終わっているし、あの真面目なリュウが夜遊びなんてするはずもない。
 苛々とゴミ箱を蹴飛ばすと、書類を纏めているクピトがやれやれと溜息を吐いた。
「オリジン、静かにして下さい」
「ふざけるな! リュウが帰ってこないんだぞ?!」
「リュウも幼児じゃありませんから……あなたほんともうしょうがないですね」
 もう言っても無駄とばかりにクピトは口をつぐんで、ボッシュを無視して書類との格闘に没頭することに決めたようだった。
 ふと、遠くからぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
 リュウだろうかとボッシュは顔を上げたが、足音の質が違う。
 きいっと執務室の扉が開いて、顔を出したのは、ニーナだった。
「オマエか……リュウは?」
「うん、残業ってわけじゃないみたい。定時に帰ってるよ。ただ、メディカルセンターに行ったって。友達と一緒に」
「ハア? どっか悪かったの?」
「うん、それがね……怒らないでね、ボッシュ」
 ニーナは珍しく歯切れが悪そうに――――この後のボッシュの反応を予想して、なんかやだなあ、とでも思っているみたいに、のろのろ口を開いた。
「今レンジャー基地まで、行ってきたんだけど……担当のひとにまで話伝わってなくて、リュウ、D値検診に行かされちゃったみたい」
「……ハア?」
 ボッシュは唖然として、ニーナに訊き返した。
「なんだって?」
「だからね、センターにD値計りに行っちゃったの。ノーディだと不便だからって」
 ボッシュはデスクを蹴飛ばしてニーナに詰め寄って、彼女の胸倉を掴んで顔を寄せ、すごんだ。
「……どこの、どいつだ?! そんな事ほざく奴は!!」
「ううん、ボッシュ、怒ると思った……」
 ニーナは半分宙吊りにされていることには頓着せずに、困ったね、と言った。
「でもボッシュ、別に良いんじゃないかな、D値くらい? リュウ、欲しがってるんでしょ?」
「駄目だ!」
 ボッシュは吐き捨てて、怒鳴った。
「あの人には、もうD値なんていらない。もう誰にもローディなんて呼ばせない。D値さえなきゃ……」
「ないならないで、わりと困ると思うんだけどな」
 ニーナは溜息を吐いて、緩く頭を振った。
「わたし、D値がないからいろんなとこで引っ掛かっちゃうよ。IDカードくらい欲しいな」
「オマエは好きにすりゃあいいだろ。ともかく、駄目なんだ――――
「ところでオリジン」
 後ろからクピトの声が掛かった。
「ニーナが死にますよ。離してあげたらどうですか」
 言われてみればそうだ。
 ボッシュはニーナの首を絞めたままだった。
 彼女の顔は血の気が失せて白くなっていたが、けろりとしていた。
「ああ……」
 ボッシュは言われるまま、ぱっと手を離した。
 ニーナは器用にとんとつま先で床に着地して、まるで何でもなかったふうに、リュウ順番待ちしてるのかしら、と言った。
 あんまりにもなんでもないふうなので、なんだかボッシュは居心地が悪くなって、ああ、そう言えば、と思い当たった。
 バイオ公社の実験体ってものは、すべからく自分の身体ってものにまったく頓着しない奴らばかりだ。
 ニーナも、リュウ『兄さま』もそうだった。彼らの「だいじょうぶ」はまったく信用ならないのだ。
「じゃあわたしリュウ探しに行くけど、ボッシュどうする? ついてくる?」
「……そりゃあ俺の台詞だ。オマエが俺についてくるんだろう、こういう場合」
「ドクターに乱暴しちゃあ駄目よ。できるだけ」
「オマエこそな」
 そうやってボッシュとニーナがじゃれていると、背後から聞こえよがしに溜息が零された。
「また、仕事ほったらかしですか……」
 クピトは項垂れて、ああもうみんな勝手なのばっかりだ、とぼやいた。
 ニーナはにっこりと笑いながら、ボッシュは仏頂面で、ただ似たような調子で彼に言った。
「クピト、お願いね。わたしがいないと、たぶんボッシュ、何人か殺しちゃうから」
「オマエは俺の保護者かよ。クピト、適当に片付けてろ。なんなら痴漢を呼び付けるか、隠居を引っ張り出してきてもいい」
「あなたがたが兄弟だって聞いたほうがしっくりくるって思うの、ぼくの気のせいでしょうか」
 クピトは投げやりに手を振って、なるだけ早く帰ってきて下さいね、と言った。



 慌しく廊下を早足で歩いていくボッシュの後ろを、二ーナがちょこちょこと小走りでついていく。
「ほんとにろくなのいませんね、統治者って……」
 クピトの、ぼそっと呟かれたその愚痴の半分は、もう誰の耳にも届かなかった。


◆◇◆


 メディカルセンターはにわかに騒々しくなった。
 なにせ現オリジンと統治者が一般病棟の待合室にずかずかと上がりこんできたのだから。それもものすごく不機嫌な顔で。
「こ、困ります! そちらは診療室です、いくらオリジンさまとは言え……」
「リュウはどこにいる」
 ボッシュは冷たい顔のままで、道を塞いだ婦長を見下ろした。
「ドクターを呼べ。どいつでも良い。オマエじゃ話にならないよ」
「げ、現在診療中です! 受診待ちの患者さんがたくさんいるんです。中には病気の子供も、大怪我をしているひとだって……」
「ボッシュ、もういいでしょ? あんまり婦長さんに迷惑掛けない」
 暗い顔で婦長に詰め寄っているボッシュの袖を引っ張って、ニーナが諭した。
 婦長はあからさまにほっとした顔になった。救いが訪れた、とか思ったのだろう。
 ニーナって女がわかっちゃいないんだ、とボッシュは思った。めんどくさいので、口には出さなかったが。
「お仕事中だもの、仕方ないよ。わたしたちだけで勝手に探そう?」
「え? ちょっ……ニーナ様、こんなところに統治者がいらっしゃったら、患者さんみんなびっくりしてしまいますから! ご用は特別病棟にお願いします――――
「ね、D値検診って、今日はどこでやってるの? うちのリュウが来てるはずなの。一般人よ。あ、でもバイオ公社に小さいころに攫われて改造されちゃったわたしとおんなじふうに、ここで造られた子なんだけど……これって一般人って言うんだっけ、ボッシュ」
「言わないだろ。いや、兄さまは普通だけど、オマエはディクだ」
「もう、なんでわたしだけ違うの?」
 ニーナは顔を蒼白にしている婦長に、にっこりと笑い掛けた。
「もっとおはなし、しようかな」
「わ、わかりました! 院長を呼んできます。少し、しばらくお待ち下さい!!」
 悲鳴みたいな声で言い置いてから、ばたばたと駆けていく婦長の背中を見送って、ボッシュはやれやれと肩を竦めた。
「オマエってさあ、兄さまのことになると性格変わるよな。マックロだぜ」
「リュウのことになると、ものすごく情けなくなっちゃうボッシュよりはましよ」
「……後で覚えてろ」
「ざんねん、わたし頭悪いから、物覚えも悪いの」
 ボッシュですら理解できないような、複雑な魔法陣を使いこなす最強の魔法使いのくせに、ニーナは澄ました顔でそんなことを言った。
 しばらく待つと、中年の、髭が濃いドクターが現れた。
 彼はボッシュとニーナを応接室へ通して、扉を厳重に閉めてから、実はまずいことになりました、と言った。
「院長はどうしたの」
 ボッシュが聞くと、ドクターは首を振って、目を閉じて言った。
「ちょっと、ありまして……今はお会いできません」
 ボッシュはそのもごもごとした言いかたが気に食わなかった。
 公社員特有の、あの後暗そうな話し言葉だ。
「その隠蔽グセ、どうにかならないのって言わなかったっけ? 今度は何隠してんの?」
 突っ込んでやると、ドクターは可哀想なほどにうろたえた。
 何か言ってやろうと思って口を開けたところで、隣のニーナに制止された。
「ボッシュ、ちょっと黙ってて。ただでさえお顔、怖いんだから。
ね、どうしたの? なにかあった? 心配しないで、怒らないから言ってみて」
 ドクターはニーナの無邪気な微笑みに、少し肩の力が抜けたようだった。
 どこかで見たような笑い方だと思っていたら、あれだ。リュウ『兄さま』の笑い方だった。
 笑い掛けてもらえるだけで、誰もがほっとする、あの。
 コイツ真似すんなよとボッシュは思ったが、口を出してドクターに黙秘されるのも困りものなので、黙ったままでいた。
 案の定、ドクターはニーナの笑顔に警戒心を持っていかれてしまったようだった。
 言いにくそうに、だがぽつぽつと話しはじめた。
「……実は、院長が使い物にならんのです。お嬢様がご友人と出て行ったっきり、戻ってきませんで……もうこんなに遅いのに」
「その心配性、なんだかボッシュみたいね」
「黙ってろ、ニーナ」
 茶化した様子もなくしみじみと言うニーナを黙らせて、ボッシュはドクターに先を促した。
「それで、うちのリュウは」
「いや、それが、その……お嬢様と一緒に出て行ってしまったご友人の一人が、どうやら例のD検体ナンバー03の再構成実験体……」
 そこで、ドクターは縮こまった。
 ボッシュとニーナに凄惨な顔で睨まれたせいだ。
「リュウ、よ」
「は、はい……リュウ様のようなのです」
「それで、リュウはどこへ行ったんだ」
 ボッシュは苛々とつま先で床を叩きながら、はっと気付いて、ドクターの胸倉を掴んだ。
「お、オリジン様!? な、何を」
「おい、貴様らまさか、リュウをその名で呼んじゃいないだろうな?! あいつはなんにも知らないんだ。まだ早い、今もし本当のことを知ったら――――
「家出ものね。帰ってこないかも」
 ニーナが殊更冷静な顔をして、呟いた。
 まるで人形に――――ラボでそっくり感情を消されてしまったころの性質に戻ってしまったようだった。
 彼女の怒りの表現方法は、こういう感じなのだ。
 ドクターは顔を真っ青にして、私の管轄ではなかったのですが、と言い置いてから、語りはじめた。
「さ、騒ぎになったのです! 夕方ごろ、あの実験体――――いや、リュウ様がいらっしゃいまして!
センターの医師は例のD検体が再起動したのではないかと――――警備兵が捕縛して、例の3番目のオールドディープの保管室へ戻そうとしたのですが、オリジナルのほうは停止したままでそこにあって。それで気がついたのです」
「保管庫?」
 ボッシュは目を眇めて、ドクターの首を更に締め上げた。
「聞いたことがない。なにを保管しているっていうんだよ。死んだ兄さまの身体は、再構成に使われて、もう爪ひとかけも残ってない――――
 身体中が黒ずみはじめ、奇妙な模様が浮かび上がり、ボッシュの目の中に、暗い闇が生まれた。
 空洞の眼窩だ。
 ドクターは紙のように真っ白になってしまった。
 本物のドラゴンを見るのは初めてなのだろう。その恐ろしい異形を。
 ニーナは肩を竦めて、溜息を吐いて、頭を振った。
 救いようがない、という仕草だ。良くボッシュがやる仕草だ。
 ボッシュは自分の声に奇妙な反響が現れたことを自覚しながら、ぼそぼそと囁き掛けた。
『そのはずだ』


◆◇◆


 案内させた保管庫とやらにはいくつもカプセルが並んでいた。
 光る液体で満たされたその中では、細かい泡がぶくぶくと立っていた。
 部屋中みっしりとコードで埋まっていた。
 あまり衛生的とは言えない。壁も床も、得体の知れない粘着物で汚れていた。
「ここが――――あ、あれ?」
 案内させたドクターが、部屋の中を見回して、変な顔をした。
 ボッシュは冷たい目を彼に向けて、言ってやった。
「なんにもねえぞ」
 そう、そこにはなんにもなかった。
 ただ液体だけがいっぱいに詰った、空っぽのカプセルがあるだけだ。




NEXT