水に浸蝕されて、崩壊ぎりぎりのラインを保っていた区画は、小さな崩落をきっかけに、ゆるやかに終わりを迎えようとしていた。
 全てが、屋敷の足元まで浸った水の底に沈んでいく。
 かつて人間たちが生活していた名残が、錆びついた鍋と割れた皿が散乱する台所が、使用人が寝泊りしていた、いくつもベッドが置いてある部屋が、年代もののランプシェードとソファが、すべてがゆるやかに落下し、黒い水中に消えていく。
 時折住みかを失ったディクが、すうっと水面を泳ぎ過ぎていく。
 やがて廃屋敷は崩れ去り、天井から降り注ぐ岩盤が、思い出の城の残滓すら埋め立てていく。
 ボッシュはそれを見ていた。
 見ていることしかできなかった。
 ドラゴナイズド・フォームなど、もう何の役にも立ちそうにはなかった。
 生き物の気配はもうどこにもなかった。


◆◇◆


 呆けたままで、エリーナは友人が瓦礫の下敷きになるのを見ていた。
 あの瞬間、ディクが炎の吐息を放った瞬間、庇うように手を大きく広げて前に飛び出してきた、青い髪の少女の遺骸が消えていくのを見ていた。
 彼女が守るように被さっていたもう一人の黒髪の少女は、まだ息があった。
 そういうことは、見ればすぐに分かるのだ。生きていた。
 でも、彼女らは瓦礫に埋まり、崩落の重みに耐え切れなくなった床が抜けて、そのまま落っこちて、水の中に沈んでいってしまった。
 へたりこんでいる腰の辺りまで水に浸かっていたが、エリーナはその冷たさを上手く感じられないでいた。
 友達が死んだのだ。
 いや、もしかしたらまだ生きているかもしれない。
 ほんの少しでも希望を灯そうとあがいてみたが、目の前に再現したさっきのリュウは、あきらかに死んでいた。
 気を失っているようには見えなかった。
 センターで見た、あのリュウとおんなじ顔をした死体とおんなじように見えた。
 頭半分……左目と左肩とお腹から下半分が潰れてしまって、綺麗に残っている右半分の目の瞳孔は開ききっていた。
 血が、いっぱい出ていた――――彼女に縋り付いたエリーナの全身に、確かにべったりと付着している。その身体は冷たくなって、息をしていなかったし、心臓も動いていなかった。
 もう一人のメアリは、まだ生きていた。
 彼女には怪我らしい怪我もなかった。エリーナと同じだ。リュウが守ったからだ。
 でも、彼女もリュウと一緒に水の底に沈んで行ってしまった。
 黒い水面には、ぶくぶくと無数の泡がたっていた。
 エリーナは、ぼおっとしたままでそれをずうっと見ていた。
 何が起こったのかわからない。リュウもメアリもさっきまですごく生きていた。一緒にいた。動いていたし、息もしていた。


 エリーナは、自分の家、メディカルセンターが嫌いだった。
 それは、こういうところに理由があるのかもしれなかった。
 沢山の死人を相手にしなければならないところが。
 恐ろしかったのだ。
 さっきまで動いて喋っていた人間が死んでしまって、もう話すこともなく、どんどん朽ちて腐っていくのを見続けることができなかったのだ。


「リュウ、メアリ……」
 のろのろと水の中に手を突っ込んだ。どこかに引っ掛かっているかもしれない。
 まだ生きてるかもしれない。
 絶望的だが、エリーナは立ち上がって、まだごぼごぼ言っている泡の下の瓦礫に手を伸ばそうとした――――


「きゃ……」
 ぐらっと足場が揺れて、エリーナはふらついて、深みに落っこちそうになった。
 水の中には、黒く見とおしの悪い中に、ふたつの光点があった。
 まるでさっき見た、ディクの群れのような光だ。それが淵の中にある。
 それは腰まで水に浸かっているエリーナに近付いてきた。
 水面がゆらゆら揺れる。
 なんだかすごく大きいものが、下にいる。
 ざざあっと音がして、ぎざぎざした歯が出てきた。
 真っ赤な歯茎も見えた。
「わ……わわわ」
 そして、それは水面から頭半分を出した。
 黒くてつるつるしている。
 目は真っ赤にぎらぎら光っている。
 大きくあんぐり口を開けている。
 エリーナを食べてしまおうとしているようだ。大きなディクだった。
「パ、パパ!」
 助けを呼んだって、誰も来やしない。
 レンジャーは頼りにならないと父が言っていたし、その父も、彼は忙しい人なので、こんな地下までエリーナを助けにきてくれたりはしない。
 ヒーローなんてどこにもいない。
 友達は誰にも助けてもらえなくて死んでしまった。
 エリーナもきっとあんなふうになるのだ……そう思うと恐ろしくて、目を開けていられなかった。
 ぎゅうっと目を閉じて、身体がディクに呑み込まれていくのを待った。


「……?」


 だけれど、一向にそんな気配はない。
 ディクは肉食じゃあなかったんだろうか。
 それともエリーナを見て、「こいつはまずそうだ」と思い直して、他へ行ってしまったんだろうか。
 恐る恐る目を開けて見上げると、巨大な魚が、今まさにエリーナに食い付こうとしている体勢のままで、空中に止まっていた。
 白く輝く魔法陣に張り付けにされて、その尻尾から頭まで、急速に凍り付いていく。
 ついに頭まで凍結が達すると、ディクはぱりんと割れて、粉々に砕け散ってしまった。
 欠片は水面に吸い込まれる前に、細かい霧になって蒸発してしまった。
「だいじょうぶ? けがない?」
 こんな所で聞くにしては、すごく柔らかくてふわふわした、銀の鈴みたいな音色の声が降ってきた。
 震えながら見ると、女の人が立っている。
 すごく綺麗な顔で、ふわふわの綺麗な金髪の、小柄なかわいい人だ。
 背中には美しい赤い羽根が生えていた。
 こんな所に立ってるのが似合わないくらいの美人だった。
 もしかするとこの人は天使さまじゃあないかしら、とエリーナは思った。
 彼女はエリーナを安心させるように微笑んだ。
 少し緊張の混じったぎこちないものだったけど、それはエリーナを幾分か落ち付かせてくれた。
 彼女は自分の胸に手を当てて、言った。
「わたし、ニーナ。もうだいじょうぶよ、心配ないからね」
 彼女の話し方は、誰かに良く似ていた――――なんだかそうやって笑い掛けられるとほっとする類の笑顔も。
 エリーナは、すぐに思い当たった。
 彼女はリュウに似ているのだ。あの青い髪の、死んでしまった少女。
 ニーナというその女の人は、少し顔を曇らせて、ね、と訊いてきた。
「リュウって知らない? わたしのかわいい妹なんだけど」





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