空洞、寒い。地底湖は底冷えするくらい冷たい。 こんなところに、リュウはまだいるのだろうか? 腰まで水に浸かって、足の先の感覚がもうほとんどない。 レンジャー隊は連れてこなかった。 邪魔だし、あまり良い仕事は期待できない。 こんな姿を見られたくなかったのかもしれない。 ようするに、オリジン自ら湖の中でびしょ濡れになりながら、必死に兄弟を探している、なんてところを。 「おいニーナ、三メートル左だ。どうなってる?」 肩の上に座っているニーナが、ひょいっと杖を振った。 彼女の背丈では、ほとんど水に沈んでしまって、明かり係の用途をなさないのだ。 火の玉が灯ったワンドの先が、暗闇を明るく照らした。 「岩、だけ……ボッシュ、やっぱりわたしが、潜ったほうが良いと思うな。ボッシュ泳げないし、リュウ水の中かもしれない。 わたしなら、ほら」 ニーナが言うと、彼女の羽がぽうっと光を放った。 その白い光が、急速に灰色に染まっていく。 地下の汚れた空気を取り込んでいるのだ。 ボッシュはとりあえずニーナの額を弾いて、余計なお世話、と言った。 「やめとけ」 「なんで? いい考えなのに……大分長い間動けるよ。これで息、できるし」 「あとで俺が兄さまに怒られる」 そう言うと、ニーナはきょとんとした顔でいたが、やがてうんそうねと頷いた。 「なんかねえ、ボッシュも悪い子だけど、リュウの弟なんだよねえ」 「なんだ、そりゃあ」 「でもせっかく吸っちゃったから、わたし行くよ。もったいないし」 「……オマエも兄さま並に人の言うこと聞かないね」 ニーナは、こんな冷たいところにリュウいるのやだもんね、と静かに言った。 生存は絶望的だというのは知っていた。 死体まで確認されたらしい。 だが「あるいは」という希望は、どうしても捨てきれなかった。 リュウを呼び戻した時に、今度こそあの人を死なせやしないと誓った決意が、いまやぐらぐらと揺れ動いていた。 今度守れなければ、とボッシュは思った。 誓いが折れることがあれば、もう世界を閉ざそうと。竜は永遠に土の中で眠れば良い。 ばしゃっ、と背後で水飛沫が立って、ボッシュははっとして振り向いた。 リュウかもしれない、と思った。 だが視界に映ったのは、同じ背格好はしていたが、リュウではない。 リュウの同期だとか言うレンジャーたちだった。 「エリーナはそこで待ってなよ。濡れるだろ」 「結構、私はだいじょうぶよ。それに、ふたりがいなくなったとこ、私なら良くわかるわ」 「つ、冷たいなあ……メアリだいじょうぶかなあ」 「ノーディはともかく、メアリが死んじゃうのはやだなあ……痛い! なにすんだよ、ジョー」 「しっ、へたなこと言ったら消されるぞ」 空洞の中はにわかに騒がしくなってしまった。 ニーナはボッシュの肩の上でふわふわと足を揺らして、リュウのお友達かしら、と言った。 「リュウ、お友達、できたんだ……よかったねえ、ボッシュ」 「…………」 「きっとすごく嬉しかったんだよ。それでボッシュに、見せてあげようと思ったんじゃあないかな」 「…………」 「でもボッシュ、すっごい怒っちゃったんだっけ。「あとで」、リュウに謝らなきゃね」 ニーナはそこでちょっと笑って、さあ探そ、と言った。 「あ、オリジン!」 後ろから声を掛けられて、振り向くと、さっきの少年だ。確か、ジョーとか言う。 「あのさ、エリーナが……リュウとメアリがいなくなっちゃったとこ、わかるって言うんだけど」 「あ、あの、ニーナ様……さっきは、ありがとうございました」 ぺこんと頭を下げて、金髪の娘が言った。 「私、大体の場所ならわかりますわ。お役に立てるかなあって思って、あのその」 彼女はなんだか視線をふらふらさせて、俯きながら言った。 ボッシュの肩の上のニーナは、ぱっと顔を明るくして、ほんとに、と言った。 「じゃあ、お願い……あの子、きっと生きてるよ。この死んでも生き返ってきたボッシュの兄弟だもの……きっと、うん、空のセンターだったら、治せるんじゃあないかな」 エリーナという少女は、一瞬暗い顔を見せたが、すぐにぎこちなく笑って、そうですねえ、と言った。 ◆◇◆ 「三隊は土砂の撤去を、四隊、そこのでかい瓦礫をどけろ! くれぐれも崩さんようにな」 どやどやと大勢の人間が入り込んできた。 命令は出していないはずだが、レンジャーたちだ。隊ごとに作業を分担して、瓦礫を片付けていく。 「……なにやってんの?」 「たぶん、リュウが死んじゃったらボッシュが世界を壊しちゃうから、大慌てなんじゃあないかな」 「ふうん……」 やがて、隊長らしいファーストレンジャーが水面を掻き分けてやってきて、ボッシュとニーナに敬礼した。 「オリジン様、統治者ニーナ様! レンジャーの配備、完了いたしました!」 「いや、命令してないけど」 まだ若いレンジャーは、志願者たちです、と言った。 「ご安心下さい、リュウ様は必ずやお救いしてみせます!」 「ハア? そんなの、俺がや」 「ありがとう、隊長さん。よろしくね」 俺がやるんだ、と言い掛けたボッシュの口を塞いで、ニーナがにっこり笑って言った。 隊長は顔を赤らめて(彼もどうやらニーナのリュウ・スマイルに騙されてしまったと、ボッシュは見た)再敬礼すると、持ち場へ戻っていった。 「……なんで急に人数が増えてんの?」 戸惑いながら呟くと、横手から大きな波がやってきた。 見上げると、巨体のディクが、深みを悠々と進んでいく。 「オンコット!」 ニーナがそれを見上げて、びっくりしたような顔をした。 「クピトね、どうしたの? お仕事、しなくて良いの?」 ニ―ナの疑問はもっともだ。 仕事をさぼれば必ずクピトの小言が降ってくる。 オンコットの頭からひょこっと顔を出したクピトが、ぼくを冷血人間みたいに言わないでほしいです、と言った。 「あれはあなたがたがやるべき仕事をしないからです。リュウを探すんでしょう? リンに呼び付けられました。ぼくのオンコット、もうこういう時にしか役に立たないし……それに、先代が使いものにならなくって」 クピトは肩を竦めて溜息をついた。 「リュウ、ほんとに無事じゃないと困ります……とりあえず執務と一緒にメベトに預けてきたんですけど、もうほとんど駄々っ子みたいになってました。私が行く!って」 「ジェズイットとリンは?」 「私ならここだよ、ニーナ」 オンコットの背中に乗っかっていたリンが顔を出して、まったくあの子は、と言った。 「自分がどれだけ大事にされてるかってのをわかってないね。帰ってきたらお仕置きだ。バケツ持って廊下に立たせてやらなきゃ……」 がらがらと音がする。 見上げると、作業用ディクが瓦礫の山を片しに掛かっているところだった。 その後ろで、また崩落の予兆があった。 声の震動のせいだろうか。レンジャー隊は相変わらず大声を張り上げている。 上層と空で育った世代には、地下世界での崩落がどれだけ恐ろしいかということが、わかっちゃいないのだ。 案の定、やがて空間が震動し始めた。 天井からぱらぱらと石が降ってくる。 巨大な岩のかたまりが落っこちてきて、ボッシュの後ろで大きな水飛沫を上げた。 岩は次々に降ってくる。大小さまざまだ。 「ニーナを持ってろ」 肩の上の少女を押し上げて、オンコットに預けて、ドラゴナイズド・フォームに変化するべく、内なる竜に呼び掛けた。 だが、答えはない。 ボッシュは唖然としてしまった。 こんなのは、竜とリンクしてから何年も経っているが、はじめてだ。 「チェトレ……!?」 悲鳴が聞こえて、意識をそっちにやると、さっきの新米レンジャーが天井を指差している。 見上げると、崩れた天井の岩盤が降ってくるところだった。 「オイ、チェトレ!」 声を荒げるが、依然返事はない。 そうしているうちにも、岩盤はゆっくりと落下してきた。 真上だ。このままでは、潰されてしまう―――― まず見えたのは、真っ赤な光だった。 暗い空洞をくまなく照らすほどの光だ。 闇に慣れはじめていた目は、突然の赤光に焼かれて、なにも見えなくなった。 次に、頭のすぐ上まで迫っていた威圧感が消えてなくなった。 一瞬でだ。 もしこんなことがあるとすれば、巨大な岩のかたまりを、一瞬にして誰かが破壊し尽くしたのだ。 ボッシュはやっていない。 チェトレが答えないのだ。 痛む目をぎゅうっと閉じて、開けると、光の中に一匹の竜がいた。 中空に浮かび、炎でできた光の翼を広げている。 銀色の頭には赤い二本の角が生えていた。 目は静かに閉じられていた。 全身には奇妙な模様が浮かび上がっていた。 腕には黒髪の少女を抱えていた。 確かメアリとか言う名前の、リュウと一緒に行方不明になっていた少女だ。 彼女は呆けた顔で自分を抱いている異形を見つめて硬直していたが、生きているようだった。 竜はゆっくり下降してきて、ボッシュたちの前に降り立った。 水面に僅かな波紋を浮かび上がらせるだけで、それは水中に沈みもしなかった。 竜が目を開くと、その中には炎のように赤く燃えあがる目がふたつ、嵌っていた。 それは黙ったまま、メアリをオンコットに乗っているリンに差し出した。 リンが呆然としたまま、慌てて少女を受けとると――――竜はにっこりと微笑んだ。その目は青く落ち付きを宿して、髪も青く染まり、翼も塵が風で吹かれて消えるように、姿を消した。 そして、リュウが姿を現した。 青い目、青い髪の、ボッシュの愛すべき兄弟が。 彼は―――― 「――――ひゃっ、わわわ!」 水の上で手足をじたばたさせて、そのままバランスを崩して、水中に落下した。 「――――! 兄さま!」 ボッシュは慌てて腕を差し出し、リュウを抱きとめた。 が、いきなりの衝撃に耐えきれずに、二人揃って水の中に頭から突っ込んでしまう羽目になった。 水面に顔を出すと、ボッシュに抱かれたままリュウはひどく焦った顔で、ごめんね、と言った。 「ごっ、ごめんね、ボッシュう……し、心配掛けて! ああもう、おれは駄目な兄ちゃんだなあ……! さっきもキライなんて言ってほんとにごめん! おれ、ボッシュが大好きだから! キライなんかじゃぜんぜんないから! それで、ずーっと謝りたくって……」 「にっ、兄さまっ?」 リュウはボッシュにぎゅーっと抱き付いて(身長差の問題で、リュウにしてみれば抱き締めてやってると言ったほうが正しいんだろう)ああこんなに冷たくなってるう、と言った。 「か、風邪ひいちゃうよお……ボッシュはおれと違ってあんまり丈夫じゃないんだから、こんなに身体冷やしちゃ……ね、すぐにあっためてあげるね? ヒトハダのぬくもりだよ、うん」 「……あんたのほうが……冷たいんだけど……」 ボッシュはリュウの胸に額を押し付けて、腕を背中にまわして、抱き付いた。 その心臓の音は、きちんと規則正しく鳴っていた。 生きている。 そして―――― 「……やっと、俺のこと思い出してくれたんだ、兄さま」 リュウはちょっと困った顔をして、今までごめんねと言って、それからボッシュはほんと泣き虫だよお、と言った。 ふと見上げると、頭上に、巨大な竜が滞空している。 全身真っ黒で、身体中に血管めいた赤い模様が透き通って浮かんでいた。 ボッシュはそいつを見たことがなかったが、知っていた。 いつも内にある存在だった。チェトレ。ボッシュの半身のドラゴンである。 そいつは何を言うでもなくボッシュとリュウを見下ろしていたが―――― 「判定をするんだ」 リュウが、言った。 リュウを見ると、その目はまた真っ赤に輝いていた。 表情が抜け落ち、黒い竜を見上げていた。 「おまえにとって、正しいことを選ぶんだ。難しいことじゃあないよ……おれは待ってるからね」 そしてまたもとの青い目に戻って、リュウが言った。 「ボッシュを守ってくれてありがとう、チェトレ」 黒い竜は何も言わず――――ただ、なにがしかの理解を示して、ボッシュの中へ消えた。戻ってきた。 辺りはしんと静まりかえっていた。 ボッシュは、とりあえず、と言った。 「うちに帰ろうか、兄さま」 |