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禍津騙(1)
【1-1 本丸が終わった日】
死が、歌仙兼定を取り囲んでいる。
割れた石灯篭が沈んだ池の水面に、燃える本丸が映りこんでいた。火の粉が漂う縁側を踏みつけて敷居を泥で汚し、異形の侵入者と対峙する。
角を生やした骨蜘蛛。脇差だ。妖しく揺らぐ炎をまとった、呪いの体現。
時間遡行軍。
歌仙兼定が刀剣男士として生を受けた本丸は、突如として遡行軍の襲撃に遭い、この日終わりを迎えようとしていた。
今まで背中にぴったりくっついていた近侍の姿が見えない。折れたのだとふと思い当たった。あの禍々しい槍が、突然畳を突き破って現れて──ひと突きだった。
幼いころからひそかに尊敬してきた国重の打刀が、声も立てずに静かに終わるなんて、嘘みたいだ。まだ信じられない。だが、刃長が半分になった刀を、歌仙はいま左手に握りしめているではないか。
幻想に逃げるのはよせ。
右手に『歌仙兼定』本体。左手に握る壊れた刀剣の柄に力をこめる。この本丸の初期刀と近侍。主の両腕として、ふたりで何度も悪あがきを一緒にやってきた。
もう一仕事していったらどうだ、あとひとりくらい、連れていくのも悪くはないだろう?
火の粉が入った目を擦った。手の甲にざらついた泥の感触。嫌な心地だ。
「主、どこだい、返事をしておくれ」
炊事場をうろついていた、短刀を咥えた脊柱の蛇どもを斬り捨て叫ぶ。返事はない。
「お願いだ、声を聞かせてくれ」
崩れた階段を蹴りあげ、上階の執務室を目指して跳ぶ。焼け落ちた障子を薙ぎ払った。
宴会場。昨晩は口うるさい刀ふたりが揃って不在で、さぞ羽目を外して賑やかだっただろうが、死闘の残り香と瘴気が膿臭い渦をつくっている。
赤黒く濡れた畳表の血の池に折れた槍が突き刺さって、汚れた毛氈の上には、硝子のように粉々に砕けた短刀の子どもたちが散っていた。
歌仙の正面に、壁のような大柄な刀が立ち塞がる。
鬼だ。
人に似たところなどひとつもない蓬髪の巨躯が、身の丈ほどもある大太刀を怪物めいた腕で軽々と掲げてにじり寄る。死臭が濃くなった。歌仙は、残骸になった仲間たちへ視線を滑らせる。
『これ』に殺られたか。
打刀が大太刀を相手に真っ向勝負を挑むのは、決して利口ではない。長さも重も分が悪すぎる。はかりごとは無意味。形成は不利。だが戦とあらば、散る最期まで戦い続けるのが刀の本道だ。
右足を引き、『歌仙兼定』本体を脇構えで突っこんだ。鈍く重い風をまとって大振りの一撃が飛んでくるのを、肩から抜いた外套をからめて逸らす。
鉤爪が生えた左膝を、右の足で渾身の力をこめて蹴る。全身をあの無作法な銃弾のように弾けさせ、跳ぶ。上方、眼前へ。赤く光る眼窩に折れたへし切長谷部をねじこんだ。
続けて、浮きあがった左足で柄を打つ。同じようにこの刀の尻を蹴飛ばしたこともあったか。壊れた近侍が大太刀の顔面に沈んだ。
どうだ、すこしはましな気分か、長谷部。
──本当に、折れてしまったんだね。
息をつく間もなく空いた右拳が飛んできた。だめだ、脳に届いていない。背骨をひねるが、歌仙の数倍はありそうな体重を乗せた、怪物のげんこつが脇腹をえぐる。
意識がほんの一瞬途絶えた。右手をすっぽ抜けた本体が、弧を描いて大太刀の頭上を飛んでいった。床柱に激突し、何度か転がり、逆流してきた胃液が喉を焼く。熱い。痛い。息ができない。憎い。首が欲しい。首を。首だ──。
差しだせ。
鬼が突進してくる。刀を拾う隙があるはずもない。歌仙は尻で後ろへずりながら、ぬめった血だまりを探り、砕けた短刀の破片を掴んだ。
投げうつ。五虎退。効いていない。乱、愛染。なんとかしてくれ。厚。
助けておくれ、お小夜。
──小夜左文字の亡骸が、大太刀の残った目を潰した。
胸が苦しい。この小さな兄は、ふがいない姿を晒した歌仙をいつも守ってくれる。
視力を奪いさられた大太刀は、天井を震わす怒号をあげた。大きくて黒い醜悪な鉄塊が、天災のような勢いで歌仙の頭上に覆いかぶさってきた。
腹を決めるしかない。歌仙は仰向けに倒れこんだ。畳表に突き刺さっていた刃を、しっかりと脇に抱えて。
──なかばでへし折れてなお歌仙よりも長い、御手杵だったものの切っ先が、敵大太刀の喉をついた。
血の池を波立たせる地響き。
顕現してそう間がなく、まだ未熟なところが目についていた御手杵だが、見事に敵の首を貫通していた。長谷部だったものを右の眼窩から生やし、対の目玉に短刀たちの残骸をまぶされて、大太刀はこと切れていた。
誉は誰にやるべきか一瞬考えて、意味のないことだと思い当たり、立ち上がった歌仙は、板の間に突き立った己の『歌仙兼定』を拾いあげた。刀身は血と炎を照り返してぬめった光を放っている。
──主はどこにいるんだ。
執務室へたどりついた歌仙が目にしたのは、荒れた室内だった。破れた符。結界が破られている。襲撃に際して主が貼ったものだろう。書類の燃えかす。情報を奪われることを恐れた主が焼いたようだ。書物が散乱している。
ここにも刀剣の破片。一人分。前田。絶望の確信が歌仙を侵してゆく。
懐刀の前田が折れている。主の最後の砦。主は本丸の最後を知り、自ら命を絶っただろうか。それとも──。
執務室に入りこんだ雑兵が三体、なにかを取り囲み、しきりに頭を揺すっている。
ねばついた水音を立てて、なにかを喰らっている。振り向いた一体の頭にべったりとついた血と、臓物を食む濡れた牙を視認したとき、歌仙は強い眩暈に襲われた。
「貴様……っ、万死に値するぞ!」
背を刺し貫き、頭を踏みつけて喉にかけた刃を引く。顎をあげかけた残りの短刀の片割れを机に縫いつけ、最後の一体に拳を叩きつける。潰れるまで骨を叩き、割り、すり潰し、何度も何度も。
敵がどろどろした血の塊になるまでぶつけた激情が過ぎれば、頭が醒めていく。我を忘れてしまいたいとさえ思う。殺し続けていたいと。執務室の床に倒れている喰い荒らされている死体を、歌仙は恐る恐る振り返った。
主なのだろうか。
もうそれはわからない。皮を剥いだ肉の塊で、ようようなにかの動物だということがわかるくらいのありさまだった。気づけばくずれ落ちていた。膝をつき、しかし。
無意識に本体の刃を首にすべらせようとしたそのとき、となり部屋からかすかな衣擦れの音が聞こえた。
歌仙は目を見開き、頭をゆるやかにあげ、木戸をぶち破った。敵は一匹たりとも生かしてはおけない。首は全部彼岸に並べていく。そうでなければ死にきれない。
薄暗い茶室に影がうずくまっている。歌仙は鳳凰の紋を見た。ずいぶんとひどい身なりになっているが、同派の刀を見まごうはずもない。
「和泉守兼定」
──生きていたのか。
この本丸へ戻って、初めて見た生存者だ。
満身創痍。自慢の長い黒髪が首のあたりまで短くなっている。
和泉守は意識が薄いようで、ともすれば飛びそうなのだろう、頭がぐらぐらとおぼつかない。歌仙を認識すると、「敵は」と口を開いた。
「皆殺した」
「そうかい」
ぼろぼろの羽織りの裏に赤子を隠している。小さな口をおさえていた手を離すと、赤ん坊は火がついたように激しく泣きはじめた。
「和泉守、若君が」
「ここにいる。国広が最期に道を開いてくれた。この子を死なせたら大旦那に合わせる顔がねぇ」
声は干からびてかすれている。
「ちょっといいところ見せることができたかな」
「よく持ちこたえてくれた」
歌仙は火矢に焼かれた和泉守の背中を支えてやった。これほど兼定の名が誇らしいと思ったのは、いつぶりだったか。
和泉守は歌仙に審神者の末路を聞かなかった。赤子を預けて結界を張った彼の背中を、見ていたのだという。この肉の身体が消えていないのは、主がすべての霊力を息子に与え、託してくれたからなのだと歌仙は知った。
「ここまでだ。行こう。和泉守」
この日、ひとつの本丸が終わった。焼けた柱が倒れ、あちこちで小さな爆発音が聞こえた。
あんなにたくさんの刀がいたのに、ふたりきりになってしまった。
じきに救助信号を聞きつけた政府の者たちが来る。この本丸は既に敵に座標が知れている。敵の探知の足がかりにされる前に、何処とも知れない時空に封印されるだろう。
仲間の欠片を拾ってやれないのは無念だが、仕方がない。せめて主の亡骸を弔ってやりたいが──。
和泉守を見ると、赤ん坊を慣れない手つきであやしている。
「ガキの機嫌の取り方も知らねえオレが残っちまったか。悪いが腹くくってくれな」
歯を食いしばり、笑顔を向ける。笑顔には笑顔が返る。指を掴んで微笑む赤子を、愛しむまなざしは、歌仙が今日までついぞ見たことがないくらいに大人びたものだった。
「之定。オレは、オレはやるぞ」
炎の映るその瞳を、歌仙は見上げていた。火の粉を映してきらきら光る。
「主をかっこよくて強い日本一の審神者にしてみせる。誓う。必ずだ」
大切なものを失ってしまった。それでも最後にひとつきり、残ったものだけは譲れない。
守らなければならない。
この身にかえても、散っていった皆のぶんまで、主のぶんまでこの幼子を守らなければ。
歌仙は拳を強く握った。死はまだ早い。祈りは後回しだ。懺悔に割く暇はない。
この身が塵にかえるまで、この生まれたばかりの新しい主と共に生きていく。
和泉守にも、そして歌仙にもまだ希望は残っているのだ。
「ああ、やろう和泉守。この兼定らが力をあわせれば、できないことなどなにもないさ──」
【1-2 空白に目覚める】
* * *
『任務名:大禍津兼定
「禍津兼定」と交戦し、勝利せよ』
* * *
一面の雪原に、僕はひざまずいていた。
何も身につけておらず、叫ぶように大きく口を開けて鈍色の天を仰いでいた。
どのくらいの時間そうしていたのか思い出せない。わかるのは口腔内に霜が降りはじめていること、ひたすら無慈悲な寒さ、あと四半刻もすれば裸の氷像が一体できあがること。
まったく風流ではない。
そのほかのことは──僕という男がいったい何者で、どういった理由で凍てついた平野へやってきて、何を考えて生まれたままの姿で座りこんでいるのかは、ひとつも覚えていなかった。連続する記憶が存在しない。僕は今まさに世界に生まれたように、この場所にいた。
白く輝く大地から膝をあげて引きはがした。幸い凍傷の兆候は見られない。
僕の肉体はまるで鋼でできているように、外側の世界からのあらゆる干渉をはねのけ、知らないふりを決めこんでいる。骨身に染みる寒さや、散乱光に眼球を刺された痛みは感じるのに、どういうことだろう。
空はぼんやりとした灰色の膜に覆われていて、いつまた雪が降りはじめるかわからない。あたりには僕のほかに人の姿はない。僕のかわりにものを考えてくれる者が誰もいないなら、空っぽの頭を動かさなければ仕方がない。
まずはせめて屋根のある場所で休みたい。なにもかもはそれからだ。僕は歩きだした。
穏やかに積もった雪は、まだ固まりきっていない。やわらかくてどこまでもまっさらだ。季節は、降りはじめたばかりのころだろう。
自分でつけた足あとが消えてしまうほどの長い時間、僕はぼんやりと空を眺めていたのだろうか?
それとも霰みたいに、空の彼方から落っこちてきたのだろうか?
平野はなだらかな傾斜を経て急になり、そのまま峠へと落ちこんでいる。白い飾りをかぶった針葉樹の間を服も着ずに素足で歩いていると、自分が猿にでもなったような気分だ。温泉でも探すか? 雅じゃない。
ぶあつい雪雲にさえぎられている陽光が、徐々に遠くなっていくのを感じた。日が落ちかけている。夜が来ればさらに冷えこむだろう。
普通なら凍死しているはずだが、僕の身体はやたらと頑丈で、真冬の、どこかの高地だろうと空気でわかる森の中を一刻もさまよっているのに、あまり堪えた感じはしない。とても寒いけれど。
遠くで長く尾を引いた獣の遠吠え。野犬だろうか。狼は『まだこの世界にいただろうか』。どちらにせよ、今はあまり会いたくないなと考える。
足を止めて雲の向こうに浮かんでいるはずの月を見あげて、どうも奇妙なことに思い当たった。
やわい雪を踏みしめ、沈みこむ足音。それが止まらない。
背後をふり向く。
まだ遠い。それでも距離は狭まっていく。彼我は二十間ほど。
ずいぶん大きななりをしているようだと、足運びの音と気配でわかった。それから二本の足で歩いていること。狼でも犬でもない。だが人でもない。
不気味な大声が響き、張り詰めた空気を震わせた。黒っぽい影のようなものが跳躍し、一気に距離をつめ、細かな雪の粒を煙のようにぶちまけながら目の前に現れた。
猿。
そいつの見た目は、とても大きな猿に似ていた。石燕が画図に描いた山童のように毛むくじゃらの一つ目で、握りこぶしほどの大きさの消し炭に似た真っ黒の眼球が僕を射た。
腰を揺らしくねらしながら、不思議そうに、あるいは念を入れて確かめるように顎を突き出す。素足にはかぎ爪が生えていた。僕をためつすがめつして、その老人じみた、むしょうに人に似た、黒々とした牙の生えた口が動いた。
『タダシ』
──と言ったように僕には聞こえた。本当は別の言葉だったのかもしれないけれど。
薄気味悪い大猿は人の言葉のように聞こえる鳴き声を発しながら、その大きな口の中へ、いきなり自分の腕を突っこんだ。ためらいなく肘まで──。
言葉を失っている僕の前で、大猿はくぐもったうめき声をあげながら、喉から二尺ほどはある棒のようなものをずるずると引っぱり出した。
刀だ──刀身はいびつで、ただの鉄塊のようにも見えたが、僕は直感した。打刀。
敵。
『タダシ』と、大猿が再び鳴いた。がくん、と頭が下がる。ばね仕掛けのように勢いよく膝を伸ばして刺突が迫るのを、無様にころげて鼻の先で躱す。また一閃。
ただ叩きつけられるだけの鉄塊だ、満足に肉を切れるのかも怪しい。それでも丸腰の僕には、命を奪うものが肌をかすめていくのが恐ろしい。こちらは文字通り丸裸だ。なにもない。
得体の知れない汚れがこびりついた刀が雪面を這う。振りかぶる動きで小さな吹雪が巻き起こり、冷たい煙に一瞬ひるんだ僕へ、振り下ろしの刃が落ちてきた。よけられない。左肩から右の腰まで、肉を雑に引きちぎっていく。
「うう……!」
うめきながらささくれた杉の根本へ倒れこんだ。白い雪と黒い森。その風景に散った血が、あまりに鮮やかな赤で、きっと悪い夢を見ているのだろうなと僕は思った。
夢だろう。自分が誰なのかも思い出せない状況で、猿の化け物に斬り殺される夢。ひどい内容だ。わけがわからなさすぎて、悪夢にさえ分類しがたい。目が覚めて夢が終われば、僕は自分自身の正体を取り戻すことができるだろうか?
だけれど、夢にしては生々しい激痛が、僕を現実に引きとどめる。
猿が僕の首に刀を落としこんできた。とられる。笑うように牙をむきだす黒い口が、また『タダシ』という形に動いた。
『タダシキカタチニカワレ!!』
絶叫。
僕の肌に、温かくて熱い、ねばついた黒い液体が降りそそぐ。
一匹の白い狐が、その大型の犬ほどはある体躯をひねりながら猿の首筋に噛みつき、やわらかい部分の肉をえぐっている。
ちぎれかけた首から黒い噴水を迸らせながら、猿は無茶苦茶に両腕をふり回した。白い狐がたまらずはねとばされ、大杉に激突する。
「──こんのすけ!」
僕は無我夢中で叫んでいた。何も覚えていないはずなのに、その隈取りを施された不思議な白狐が僕の味方だと──いま助けてくれたことを別にしても──確信していたのだ。
どちらのものともわからなくなった体液まみれの身体を叱咤して、こんのすけに向かおうとする猿に飛びつく。抵抗。振りとばされる。
再びこんのすけが猿の足に噛みつく。どろどろに溶けてぬかるんだ地面に引き倒された猿の、腕に握られた刀に僕は手を伸ばし、奪った。
「無作法者がッ……!」
刀とも呼べない鋼の棒切れを逆手につかんで、剛毛に覆われた胸を突く。引きあげる。もう一度、まだ足りない。
命が途切れるまで何度も貫く。
動かなくなった猿を見下ろし、僕は荒い呼吸をつきながら、手になじまない不格好な武器を手放した。
すると猿は躯の端から黒い塵のようなものに変化していき、いびつな刀剣とともに、やがて訪れたばかりの夜の空気に溶けて消えてしまった。
【1-3 こんのすけ】
こんのすけが僕のそばへやってきて、尻尾をぴんと立てて尻を雪の上に落ちつけた。冬毛の狐は寒さがあまり気にならないようだ。
顎をパカパカと動かす。無言。
「喋れないのかい?」
僕は驚いて言った。
動物が話をするほうがよっぽど不自然だろうに、僕にはこの狐が話をしないことのほうがおかしな状況に思えたのだ。
こんのすけはぶるぶると全身を震わせると、仰向けになって雪面に背中をこすりつけた。ひどい臭いのする黒い返り血がそれほど拭えなかったことに、狐は不満そうだ。
中途半端なくしゃみを繰り返しながら起きあがると、僕の前を歩きはじめた。一度振り向き、ついてこい、という一瞥をよこす。
狐に先導されて歩いていると、森の中に埋もれるようにして、人の生活の痕跡が目につくようになってきた。立ち並ぶ家屋の屋根はなく、腐った柱の残骸が不気味に空へ伸びている。放棄された乗用車が数台、錆びて雪に埋もれかけている。廃村か。
崩れたトタン小屋のわきに琺瑯の板のようなものが落ちていた。『浮鷺山出張所』と表面にある。『うさぎやま』と読むのだろうか? どこかで聞いた覚えがあるような気もするが、頭のなかの迷路でつかえたようになって出てこない。
焼けたような痕跡のある家々を眺めながら僕は考える。火事か、なにかの災害の折に住民が避難し、そのまま放棄されたように見える。営みの残骸を避けて歩いていくうちに、いくらか踏み固められた道に出た。人間のにおいがする。はっきりとした根拠もなく、僕はそう感じる。
ほどなく、明かりが見えた。一軒の民宿が僕とこんのすけの目の前に現れた。雪にまぎれてしまいそうな白い壁に葡萄色の屋根。
瀟洒な造りの二階建てで、玄関先のガラス照明が無邪気なオレンジ色の光を灯していた。
「すまないが、どなたかおられないか。僕は誓って怪しい者ではないんだが……」
まったく真実に聞こえないなと自覚しながら、中へ呼びかけながら玄関の扉を叩く。返事はない。ここには誰かが住んでいるのか、それとも打ち捨てられて間もなく、元の持ち主が消し忘れていったランプがまだついたままの、損傷の少ない廃屋なのか。
どれであっても、せめて身体を包める布一枚くらいは手に入れたい。思ったよりも僕の肉体は頑強らしいが、骨身に染みる寒さには、そろそろ限界なので。汚れたシーツで充分だ。あいかわらず僕は一糸まとわぬ姿で、死臭をぷんぷんさせていて、人前に姿を現そうものなら退治されても文句は言えない格好だ。こんのすけも同じく。
申し訳がない気がしたが、こちらの状況を考えて、窓の一枚でも割らせてもらうことになるか。
手ごろな窓を見つくろっていた僕は、木造デッキに設えられたガラス戸に映りこんだ己自身の姿に唖然と立ちつくした。
くせのついた白髪。頭に雪でも降りつもっているのか。
元の『僕』は、はたしてこんな老人のような髪の色をしていただろうか。
両目は不気味な血の色で、死者を火葬する炎のように不穏に揺らめく。血肉を喰らっていっそう輝く、禍々しい命の焚火の色。色味はともかく、さっき遭遇した猿の目がふいに思い浮かんで、寒さからではない震えが全身に広がっていく。
燃え尽きた炭のようだったあの猿の一つ目は、逃れられない死を濃く宿しているという点では、僕の目ととても似ている。
呆けて開いた口の中は闇。歯は黒く塗りこめられている。まったく赤みのささない顔色──これは寒さのせいだと思うけれど──ともかくガラスに映る僕自身は、一匹の幽鬼だった。
恐る恐る足を見る。手足ともに炭の色をした爪も気になったけれど、すくなくとも足が生えている。加えて胸を裂く一文字の傷がなければ、僕は自分のことを正真正銘の幽霊だと信じていたかもしれない。
あいかわらず無口なこんのすけが、花びらのような足あとを残して、建物の裏にまわっていくのが見えた。薪の山が積まれた小屋の扉に、前脚をかけて引っかいている。
鍵はかかっていなかった。物置小屋のようだ。旧式のディーゼル発電機が並んでいて、布団や工具や新聞の束が無造作に積まれている。予備のシーツを拝借して、ようやく人心地がついた。欲を言えば下履きや上着があればよかったのだけれど、やっと自分が人間だったのだと得心する。
鋳鉄のダルマストーブを見つけてきたこんのすけが、羽織った布の端を噛んで、早く火を入れろと急かす。赤々と燃えはじめた薪のぬくもりに引きずられるように、僕は深い眠りに落ちていった。
【1-4 落ちた本丸、後日】
歌仙兼定の主が戦に敗けて死んだ。共に歩んできた仲間はほとんど折れてしまった。
焼け落ちた本丸から拾いあげた茶壺や釜を荷車に積み、歌仙は砂利道を引いていく。
衣装棚に収まりきらないほど持っていた服さえ、みんな焼けてしまった。御手杵が遺した、やたらと伸びがいい緑色の内番服のぶかぶかの袖を折り返して、肘までまくって借りている。返すあてはない。そういうものが、たくさんあった。
雨雲が通り過ぎたあとの、湿っぽい初夏の一本道のそこここに水たまりができて、牛のように荷を引いていく刀の姿を映している。汗のしずくが幾度も目に染みて、手の甲でぬぐう。人里はまだ遠い。青い草の匂いが鼻先をかすめていく。
買い出しのときに荷物持ちを快く買って出てくれた蜻蛉切も、計算ごとの苦手な歌仙のかわりに財布をにぎっていてくれた燭台切も、人見知りの歌仙の前に出て店主と交渉してくれた博多ももういない。
炎にまかれた本丸を思い出すたびに、鼻を横一文字に切り裂く傷がうずく。しっかりしなければ。両手で頬を叩いて気合いを入れなおす。みんなが当たり前のようにしてくれていたことを、これからは自分の両手で片付けていくのだ。
「面目ねぇ。あの之定に人足仕事なんざ押しつけちまって、前の主にあわせる顔がねぇわ」
傍らには同じ兼定の刀、和泉守兼定が、ばつの悪そうな顔でいる。歌仙と揃いの格好だ。よりにもよってなぜ槍部屋の衣装棚が無事だったのかとも思うが、なにもかも焼けてしまうよりはずっといい。
よく手入れされて真珠のように輝いていた長い黒髪は燃えてしまって、今は短く整えられている。すれ違ったどこかの本丸の堀川が悲鳴をあげた。
男の赤子を紐で負ぶい、包帯を巻いた手ででんでん太鼓を揺すっている。遡行軍襲撃のおりに負った傷が、まだ幼すぎる審神者の霊力では充分に癒やしきれていない。うまく手が動かせないのだ。歌仙は笑顔を向けた。
「なに、お互い様だよ。僕は文系だけれど、これでも腕力には自信があってね。ほらそろそろ見えてきたよ」
よろず屋の店主に、持ちこんだ茶道具の目利きを頼んでいる間、和泉守の表情はさえない。
「なにも全部売っぱらうことねぇじゃねーか。之定が一番大事にしてたあの香合くらいは……」
手のひらに収まるほどの小さな漆器の香合は、香木を入れて風炉のときに用いるもので、清の時代に造られた渡来の品だと聞いている。蓋に迷宮を思わせる複雑な花模様の彫物がされている。亡くなった歌仙の主が審神者に就任してから一年の記念に、つまりは初期刀の歌仙兼定に出会ってから一年の間無事にやってこられた祝いに贈ってくれたものだ。
誰から聞かされたのか、和泉守はそれを知っていた。元の主のことを、歌仙が忘れてしまおうとしているのではないかと心配しているらしい。
そんなに器用な造りはしていない。歌仙は、大太刀との一騎打ちの名残りの爪の欠けた指で、人の身を与えてくれた審神者が遺した幼子の頬に、傷をつけないよう注意を払いながら触れる。
「いっとう大切なものがあればそれでいいのさ、和泉守。今は先立つものが必要だ。僕らに金子を貸してくれるような物好きはいないし、この子に不便をさせるわけにもいかない。そんなことになったら、あの人にも散っていった仲間たちにも顔向けができないからね」
傷の入った茶道具は二束三文に叩かれたものの、まとまった金子を作って、当面は暮らしていける程度の生活道具を揃えることができた。端末を求めたことが、和泉守は不思議そうだった。
「こんのすけがいるだろうに」
「あれは新人だ。あの狐に子育ての方法を尋ねるのは酷だろう」
政府が狐の頭に詰めこんだ戦の知識だけでは駄目だったのだと、歌仙は敗けて学んだ。前任の狐は襲撃に際して、本丸と運命を共にしたという。その最期を二振りは知らない。
「子守りをきみに任せることになってしまうが、困ったことがあったら何なりと言ってくれ。一緒に考えよう。雑事は引き受ける。火急のときだ、この歌仙兼定、新しい主のために鍬にでも鋏にでも何だってなる所存だよ」
「おう、やろうな、之定」
和泉守が鼻をすすって瞼をこすった。
「がんばろう」
涙もろい男なのだ。
赤子は和泉守の背中が気に入ったようだ。おとなしく眠っている。
【1-5 夢うつつ、三日月】
枕元で衣ずれの音がして、僕の意識は昏睡のなかからゆるやかに浮上していった。
そのものが光を放つような、夜色の狩衣をまとった美丈夫が、逆さまに僕の顔を見下ろしている。おっとりした微笑み。笑んだ弓形の瞳に、冷たい三日月がかかっている。
口元を袖で覆いかくし、憐れむように眉を寄せている。
──誰だ?
冷たい金属の筒をぴたりとこめかみに当てられて、夢うつつのまどろみは一気に霧散した。幻の美丈夫は消え、かわりに狩猟銃をかまえた岩のような体格の老人が目の前に現れる。
この民宿の主にちがいないとはっとする。何よりもまず、僕は頭を下げた。
「無作法をお詫び申しあげる。山中にて道に迷い、着るものもなく、この宿に辿りついた。どうか、僅かばかりの慈悲をかけてはくれないだろうか」
宿の主は毒気を抜かれた顔になった。銃口はまだこちらを向いている。無理もない。僕ならすでに発砲している。
「遭難者か……。どうやら口はきけるらしい。名は」
「わからないんだ。すまない」
僕は目が覚めてから今までのことをまくしたてるように老人に説明した。僕自身が何者なのか、なぜ人気のない異形の跋扈する山中で座りこんでいたのか、全裸でいたのか、自分の正体さえおぼつかないくせにどうして白い狐の名前が口をついて出てきたのか──わからないことばかりで恐ろしい。
銃口を向けられてはいたが、目覚めて初めて出会った話の通じる人間だ。僕の話を聞いてほしい。記憶の空白の混乱をありったけその場でぶちまけた。取り乱してまとまりのない戯言を喋り続ける僕を、老人は渋い顔をして見下ろしている。
「ふん。信用ならんが、外をうろついている妙な奴らの知りあいってわけでもなさそうだ」
「先刻襲われた。このこんのすけのおかげで事なきをえたけれど」
返り血のついた首を得意そうにそびやかすこんのすけの背中をさする。老人は今ひとつ考えの読めない顔だが、猟銃を肩に担いで、あごで屋外を示した。
「あ、はい、出ていきます」
「鍵を開けるからついてこい。じじいはそこまで鬼じゃねぇよ。駐在に連絡を入れておくから、保護してもらいな。山の下はきなくさい空気だ、いつになるか知れたもんじゃないが。それまで飯と眠る場所くらいは提供してやる。ロハとはいかんがな」
愛想がないのか、親切なのか判別のつけがたい人だが、ひとまず生きのびることができそうだ。素直に感謝しかない。本館の、湯をはってもらった浴場で冷えきった身体を温めていた僕は、胸を裂く一文字の傷がいつの間にか跡形もなく消えていることに気がついた。
──本当に、わからないことばかりだ。
泡まみれにしてやったこんのすけは、とりとめのないことを話しかける僕にはかまわず、宿の主が消えていった闇をじっと見つめている。
狐なりに、猟銃を持った相手に思うところが色々とあるのだろう。
* * *
日々は僕自身をとりまく異様な状況が嘘みたいに、何事もなく過ぎていった。
民宿の維持を、おもに力仕事の部分で手伝いながら、適度にせわしない時間のおかげで、余計なことを考える暇もなかった。きっと考える時間がたくさんあったら、僕は不安に押しつぶされていただろう。
あきらかにシーズンを外しているにもかかわらず、宿には不思議と登山客が途切れなかった。山を好む者としてはどう見ても不釣りあいな、スーツ姿の文人や学究肌の人間が多く、彼らの鋭すぎる目つきや、僕個人への(おそらく)よそよそしい態度を奇妙に思いはしたが、宿をふたりで切りまわすのは思ったよりも大変で、些末を気にしてはいられなかった。
ある日の夜、予約のあった団体客用の夕餉を用意していると、どかどかと乱暴な足音を立てて、若い男が六人ばかり入ってきた。
どうも予約客という様子ではない。きらびやかな着物に各々が日本刀を腰に下げて、雪山を登るにしては正気を疑う格好だ。僕だって他人のことをとやかく言えないけれど。
その中のリーダーと思しき細身の男が、宿のカウンターで記帳して、予約のあった団体客は来られなくなった、という旨を宿の主に告げた。ふとこちらに目をやって、ひどく驚いた顔で口を開く。
「──ゆき」
宿の主人が静かに囁いた。僕に言われていることに気がつくまでしばらくかかった。老人は常に僕を「おい」とか「あれ」とか物のように呼ぶものだから、「雪」というのが白髪頭の僕に便宜上つけられた名前だと気がつくと、何やらむず痒くなる。名前はあるに越したことはない。
宿の主はいつものように、一見すると幽霊のような僕を客の目に触れさせたくないようだ。静かにその場を離れ、ボイラー室へ向かう。
雪道をやってきたのなら、全身が冷えきっているはずだ。風呂に湯をはっておこう。
【1-6 第二部隊】
審神者芝翫が全幅の信頼を置く本丸第一部隊が、遠征任務のさなかに山中で消息を絶った。
当時の隊員は、三日月宗近を筆頭に三条の面々、加えて本丸の初太刀となる鶯丸。生半可な相手では、かすり傷ひとつ負わせることさえ難しい歴戦の剣士たち。
それが、突如音信が途絶えた。もう一週間になる。
政府からようやく捜索の許可と調査任務が下り、こうして現地に入った第二部隊の隊長は、へし切長谷部。補佐に燭台切光忠。三条の刀の身を本丸のうちでもとくに案じている獅子王と鶴丸国永、なにかと目ざといところのあるにっかり青江。
そして小夜左文字。これは今回の任務にあたって、とある暗い望みを秘めていることを、長谷部は気がついている。しかし何も言わない。任務に支障がなければそれでいい。
ことの発端は、芝翫本丸に政府より下ったとある他本丸との共同任務だった。
『任務名:大禍津兼定
「禍津兼定」と交戦し、勝利せよ』
神代の記憶の行き着く先にある、北に荒れた酉乃浦湾を望む厳寒期の山中に、正体の知れない妖しき刀剣が降臨したという情報が入った。前に一度似た仕事を失敗したことを思い出して、審神者は苦い顔をしている。
浮鷺山。二年前の大火で消滅した浮鷺山集落跡地を抱える、櫛形の山容をした標高二千メートルほどの山である。
落雷で失われた展望台跡の周辺には背の高い針葉樹の森があり、昼なお暗く、山中には黄泉に通じるとされるいわくつきの洞穴が開いている。山の守り人の言い伝えによると、その穴を夢に見た人間は必ず死ぬという。
悪しき妖刀の討伐任務が下されたのと時を同じくして、現地では謎の化け物を目撃したという報告が相次いだ。
山に迷いこんだ近隣住民の惨殺死体が発見され、調査にあたった政府職員が消息不明となる。そこに時間遡行軍の存在が確認され、歴史修正主義者の介入に気づいた政府は浮鷺山を封鎖した。
異形の目撃情報があった件の洞窟一帯を現世から隔離するものの、強力な妖気が山を包んでいて磁場が安定しない。遠からぬうちに中にいるモノたちが結界の外へ這い出してくるだろう。
「そうなれば人ならざるものが人の世界を跋扈し人を喰らう、未曾有の災害となるでしょう。刀剣男士様がたには、よすがとなっていると予想される妖刀『禍津兼定』を破壊していただきます」
芝翫本丸のこんのすけが、どうも爬虫類めいている瞳をまたたかせた。
「妖刀の一本や二本、主のためなら破壊するなどたやすいことだ」
「ただし、現地において時間遡行軍の姿が複数確認されているのですが、これまでの報告によりますと、原形をとどめない異形の姿に変わり果てているとか。おそらく問題の妖刀に引き寄せられた死霊に憑依され、鬼と化したのでしょう。現時点で敵が元の姿を取り戻したという報告はございません。また刀剣男士様がたへの影響も不明です。どうぞ充分にご注意ください」
「そりゃ俺達も下手をうてば化け物になっちまうかもしれんってことか。ええ? 万が一だが、『そう』なった捜索対象とことを構えなけりゃならんってことか?」
鶴丸がこんのすけの尾を掴んで逆さに振っている。狐は平然と続けた。
「三日月様率いる第一部隊と長谷部様の第二部隊では、練度に差がつきすぎています。変異の影響はともかく、その万が一に勝ち目はないかと」
長谷部は、鶴丸が差しだしたこんのすけに拳骨を落とした。
「こんのすけは正直なだけなのです!」
狐が叫んだ。そうこうしているうちに、この遠征の拠点に辿りついた。
一見すれば西洋風のこざっぱりとした民宿に見える。近隣の集落が消滅するまでは『浮鷺山診療所』と呼ばれ、それなりに流行っていたらしい。
患者の途絶えた今は廃業して、政府機関に勤める者の保養所として利用されていた。有事の今は補給と作戦室を兼ねた野戦病院の態となる。門柱に符が貼られ、外敵の侵入を防いでいる。
玄関の扉をくぐると、左手にある待合室に対策本部の垂れ幕がされ、現世側のゲートが設置された、山のふもとの酉乃浦市役所でも見た顔が五つばかり確認できた。芝翫本丸の担当者が来ているようだ。
ほかは知らない人間ばかりだが、隠蔽された審神者の霊力がわずかに漏れ出しているのが感じられる。微弱すぎて辿れはしないが、他本丸の審神者が混じっているらしい。
主力である第一部隊の消失の痛手は、審神者にとってあまりにも大きい。刀剣の育成に偏りがあれば、容易にひとつの本丸が立ちゆかなくなってしまう。そうなってしまった者が、現世くんだりまで駆り出されてきたというところか。
政府の人間たちは一様に疲れの濃い顔をして椅子についていた。ホワイトボードに描かれたぐちゃぐちゃの記号が、任務に何の進展もないことを示している。刀剣男士たちの目を引いたのは、顔色の悪い人間たちに甲斐甲斐しく茶を配っているひとりの男だ。
二年前に鬼に貪り食われて死んだ初期刀が、歌仙兼定が。
美しくも妖しい赤い目でこちらを振り向いた。
* * *
「失礼するよ」
『雪』が、ワゴンに熱いコーヒーを載せて運んできた。ほかの部屋にはすでに配り終えたようだ。
「寒いなかをよく来てくれたね。ずいぶん冷えたろう。湯加減は問題なかっただろうか? 身体が温まっているといいけれど」
穏やかな話し口調は、皆がよく知っている。いつも笑んでいる顔も、丈はそれほどでもないけれど肉付きの良い背格好も。その名前のとおり雪のように白い髪と、血の色に輝く瞳を除けば、歌仙兼定そのものだ。
「ああ、ありがとう。あの、雪さん」
燭台切が声をかける。雪は顔をあげずに砂糖壺を開けた。
「やはりな。貴様、そんな名前じゃないだろう」
自分の名前だと認識していない。長谷部が探りを入れながら覗きこむと、雪は困ったように微笑んだ。
「いや、慣れていこうと思っているよ。じつは僕には名前がなくて──」
言いかけたところで、カウンターから「雪!」とがなり声が飛んできた。
「雪、このグズ、いつまで油売ってんだ。さっさと持ち場にもどれ」
「ああ、いけない。すまないね。ゆっくり休んでおくれ」
雪はあいかわらずおっとりした話し口調で主人に応えると、ワゴンを引いて出て行ってしまった。なにかが引っかかっている。名前がないとはどういうことだ?
「鶴丸国永」
「おうさ」
ソファの脇から白い頭がにょきっと突き出す。皆、この男がどこから生えてこようと慣れたものである。長谷部は眉間に皺を寄せて指を組んだ。
「宿の老人に今回の目的地の話を訊いておけ。年寄り同士積もる話もあるだろう」
怒ってるのか、と鶴丸の顔が言っている。そうかもしれない。何につけても勝ち逃げをした初期刀に瓜二つの相手が、下男のようにぞんざいに扱われているところなど、見ていて気分がいいものではない。
「いいだろう、早々に酔い潰してやろうじゃないか。獅子王、きみも来い。じじいの相手はお手の物だろう」
「おう。最近じっちゃん分が足りてないからいいぜー。三日月のじっちゃんのこと、なんか知ってるといいけどな」
防水リュックから酒瓶を引っぱり出す。次郎太刀からの餞別だ。
* * *
小夜は、「あの人がよその歌仙兼定なら、たぶんだけど、すごい人見知りです」とぼそぼそ言った。細川の弟分の扱いに長けたこの短刀が言うなら任せたほうがよさそうだと、小夜と、無口と人見知りをふたりきりにすることを危惧した青江のほかの面々は、食堂に移動している。
夜半過ぎ、ふたり分の夜食を頼まれて、雪が部屋を訪れた。雑炊と卵焼き、りんごを切ったのを盆に載せている。
「おいしい」
雪の作った雑炊を口に含んで、小夜は呟いた。ふわり、と白い花弁が浮かんで、雪の頭に降り注ぐ。誉桜。
(之定だ)(歌仙くんだね)小夜と青江は目くばせをしあう。まずは歌仙兼定そっくりの人間ではなく、刀剣男士に違いない。それにしてはまったく神気を感じないが──。
「昼に気になることを囁いていたね。興味があるよ。君の秘密をさらけだしてくれないかな」
青江が「名前のことだよ?」ともったいをつけて付け加える。
「僕が見ていた限りじゃ、君の主人は君に無体を働いているように見えたから……」
「心配……してるみたいです」
小夜の通訳。
「そう見えたかい。でも仕方ないと思うよ。冬の雪山を裸で歩き回っているような怪しい男が、血まみれで家に転がりこんできたら、もし僕なら申し訳ないが退治していたね。たしかに口は悪いが、信じがたいほどおせっかいで、親切な人なのさ」
『何があったの』
青江と小夜の声が心配性の響きを帯びて重なった。雪は困った様子で頬に手を当てた。
「それが僕にもわからないんだ。何があったんだろうね。覚えていない。気がついたら雪の上に座りこんでいた。いつまでもそうしているわけにもいかないから山を下りはじめたら、刃物を持ったおかしな猿に追いかけられて」
報告にあった、山の妖に取り憑かれた遡行軍のなれの果てか。
「怪我はなかったんですか?」
「ばっさりと斬られたよ。いや痛いのなんの。あとで気がついたら治っていたけれど。ともかく、こんのすけが助けてくれなかったら、今ここにこうしていることはなかっただろう」
「斬ったり斬られたりはともかく、大事なくてよかったよ。こんのすけ? 君の? 見なかったな」
青江が呟く。すると呼ばれたと思ったのか、本丸のこんのすけが飛んできた。そのうしろにのっそりと、隈取りを施された大型犬ほどのある狐が現れる。二匹目のこんのすけ。
「思ったよりたくましくて、大きいね……」
狐のことだ。
「……こんにちは」
小夜が見あげて言った。大きいこんのすけはだんまりだ。
小さな狐が、大きな狐のまわりをぐるぐるとまわりながら、尻のにおいを嗅いでいる。大きい狐は嫌そうに歯をむきだし、くしゃみをした。
「どうやらこの『こんのすけ』は言語中枢に深刻な障害を負っているようです。どこかで強い衝撃を加えられるようなことはありませんでしたか?」
小夜の耳元でこんのすけが囁いた。相手が歌仙兼定だと自分で認識していないうちは、ただのけだものを演じているつもりらしい。そのままを雪に告げると、心配そうに眉を寄せて、大きい狐の鼻づらを撫でている。
「きっと僕を助けてくれた時だ。すまない、こんのすけ」
大きいこんのすけは尻尾を振って目を細めた。こちらの本丸のこんのすけよりも、いくらも可愛げのある個体に見える。話ができるようになれば、わからないけれど。
小夜は改めて、自分が知っている歌仙とまったく異なる容姿をしている雪を観察した。この記憶喪失の歌仙兼定は、自分のあり方そのものの名前さえ見失ってしまっている。漂白したような髪に妖しく光る赤い目をして、その爪も、時折唇の間から覗く歯列も、黒水晶に似た光る黒。
──原形をとどめない異形の姿に変わり果てているとか。
こんのすけの言葉が脳裏によみがえる。
──妖刀に引き寄せられた死霊に憑依され、鬼と化したのでしょう。
このどこかの本丸の歌仙は、芝翫本丸の第一部隊のように任務を受けてこの山へやってきて、髪の色が真っ白に抜け落ちるほどに、記憶を保っていられないほどに、恐ろしい思いをしたのだろうか。小夜は想像して、とても嫌な気分になった。
もしも想像のとおりなら、本丸の第一部隊もそうなっているかもしれない。あの強い人たちが裸で、なにもかも忘れ果てて雪の中をさまよっているのかもしれない。嫌だ。
頃合いだったか。長谷部が食堂から戻ってきて、話しこんでいる三人に割って入ってきた。雪がぴくりと肩を震わせる。
やはり人見知りなのだ。長谷部がすこしだけ気に食わないように、片方だけ目を細める。この刀は戦も仕事も歌仙に一度も追いつけないままだったのを、いまだに気に病んでいることを知っている。
「貴様は名前も記憶も矜持も失くしたまま、見知らぬ年寄りの小間使いをやって生きていくのか。自分自身の本分を取り戻そうとも思わずに? 俺なら今の貴様みたいに耄碌して生きていくなら折れた方がましだ」
「ちょっと長谷部くん、言葉がきつすぎるよ。ごめんね、彼みんなにこうだから。僕らの仲間がこの辺りで消えちゃったんだよ。それでピリピリしてるんだ」
燭台切が長谷部の横で手をあわせている。
「歌……雪さん。君、山の中を歩き回ってたなら、このあたりの地理には詳しいのかな。敵に遭遇した場所、君が目を覚ました場所。よければ教えてくれないか。いなくなった仲間の手掛かりになるかもしれないし、君も何か思い出すかもしれない」
ぽかんと口を開けていた雪が、気おくれしながらも燭台切の「仲間」という言葉を繰り返した。
「ああ、うん、仲間がいなくなるのは大変だよね。よくわからないけれどつらいし、心配だし、嫌だな──」
気が抜けるほどに他人事のように言う。しかし雪の無防備な兎を思わせる目は、自分の心の表面を上滑りしていくその言葉が、どうしても気になるのだと告げていた。
【1-7 再び山中】
宿の仕事の一環で、ガイドを引き受けた。本来なら山道に詳しい主人が同行するべきだが、僕がどうしてもと頼みこんだのだ。
山へ入るという六人の男たちのことが、出会ったときからいやに気になってしょうがない。理由は知れないが、なにか彼らのためにしてやれることはないだろうかという思いで胸がいっぱいになる。
こんな気持ちは目覚めてから初めてだった。だからいくらかは、失われた記憶を取り戻すための手掛かりになるのではないかと期待したところもある。
おかげでおじじは(僕は宿の主を、このとき『おじじ』と呼んでいた)しかめっ面だ。昨夜の酒が抜けていないせいかもしれないが。
「これを持っていけ」
初めて出会ったときに向けられた猟銃を押しつけられる。イサカM37という名称のショットガンだという。鉄の筒を組みあわせただけのあまりにも素っ気ないそれは、友人からの贈り物のように不思議と手になじんだ。
皮のグローブを投げつけられ、ゴアテックスのコートを頭からかぶされた。着るものがあるというのは素晴らしい。それだけでもう何も怖くないという気がする。
「いいか、少しでも妙な感じがしたら必ず引き返せ。客人に怪我なんぞさせようもんなら、うちの信用に関わるんだからな。雪よ、返事は」
「承知した。おじじに恥をかかせるわけにはいかないからね」
僕を先頭に宿を出た面々は、リーダーの長谷部とサポート役の燭台切、鶴丸、獅子王、青江、小夜の六人。僕以外は奇妙に浮世離れしている。
レンタルの防寒具をまとってはいるけれど、その下には物々しい甲冑や派手な着物。不思議な人たちだ。
「はい、じゃあ気をつけてついてきてくれたまえ」
目印の旗を振り、はぐれては困るので、小夜の手を握る。細かな雪が散る中を歩き出した。
雪の中を進むのは骨が折れる。数分に一度は鶴丸が僕の背負った猟銃をつつき、「一回撃ってみていいか?」と言い、三回に一度は獅子王が「ひと狩りさせてくれよ」と銃をつつく。
長谷部は「貴様に邪道をやらせるとは、よほど首が惜しくないと見える」と意地の悪い顔で、「和泉守くんが見てたら泣いちゃうね」と燭台切が苦笑いしている。
「あのおじじ、今はしけた山小屋に収まっちゃあいるが、昔はけっこうな腕の審神者だったって話だ」
歩きながら鶴丸が言った。獅子王はあまり信じていないようだ。
「でもさ、酔ってたからなぁ。霊気も神気もなにもないし、全然そんな感じしないんだよなぁ」
「年を食って枯れちまったのか、何かよからぬことをやらかして僻地に封じられたか。ただの酒の席での戯言か。わかったのは俺たち刀剣男士をあまり良くは思ってないってこと、だがまあ悪い人間でもないってこと。他人から振舞われた酒で前後不覚になるか? 雪を助けたことといい、まあ可愛げのあるお人好しの爺さんなんじゃないか」
「そうそう、お雪ちゃん、きみ刀は?」
青江が首を傾けて、ふたりの話についていけていない僕のコートの裾をつまんだ。
「うん、持ってきたよ」
腰のうしろにガーバーのボウイナイフを差している。護身用に持たせてもらったものだ。青江は変な顔になった。彼だけじゃない、全員がぎょっとしたように僕を見ている。
「本体はどうしたんです?」
小夜が言った。本体?
「服と一緒に山のなかに落っことしてきちまったのかもなぁ。顕現が解けないところを見ると、それほど離れてはいない場所か」
「本気か。厄介なことになった」
僕に辛く当たりがちな長谷部が青くなっている。鶴丸は手を叩いておおらかな笑顔を浮かべた。
「なに、あとで見つけてやればいいことさ。心配ないだろう。あまり雪を困らせるのは感心しないぜ」
気を遣わせてしまったのか。山中には刀を持って入るのが絶対のルールという雰囲気で、僕としては困惑するが、あいまいに微笑んでやり過ごす。
「問題ないよ。僕にはおじじの銃があるからね」
ショットガンを掲げると、皆微妙な顔になった。なぜだ?
「待ってくれ。なんか嫌な感じがする」
しんがりを歩いていた獅子王が歩みをやめた。全員、その場で止まる。
本来なら雪が風になぶられる音だけが聞こえるはず。それなのに上から押しつけるような足音は止まらない。あの時と同じだ。
猿か。恐怖がよみがえってくる。
背後をゆっくりと振り向いた。ちょっとした鉄塔ほどの黒い影がそびえ立っている。身の丈は三間ほど。大鎧を着こみ、憤怒の形相をした、影ばかりは人に似た形をした何かが、無骨な鉄柱を携えている。
──槍のように、見える。あまりにも変わり果てた得物だが。
僕を除く六人は異形との遭遇を見越していて、息をひとつ呑んだだけでただちに陣形を組み迎え撃つ。長谷部を中心に方形を描いていく。敵の襲撃に対処する防御の陣だと、自身の名前すら忘れ果てた僕の身に染みついている。
小柄ですばしこい小夜が飛びだしていった。突き出した短刀が黒い具足に弾かれる。硬い。
異形は邪魔っけそうに足を大雑把に振り払い、小夜を弾き飛ばした。小さな体は、地に叩きつけられてもほとんど音もない。やわらかい雪に守られて大事はないようだ。足場が悪いせいで受け身がうまくいかず、伏せた格好の小夜へ向かって、異形が不格好な鉄柱を振り下ろした。
氷のしぶきが吹きあがる。僕の背後に、青い袈裟をくわえて小夜をぶらさげた『僕の』こんのすけが、危なげなく着地した。
──よく助けてくれた。
視線で狐をねぎらって、顔の位置でイサカM37を構える。重さは四斤ほど。あまりにも軽い。
ふとまぼろしが浮かんだ。夜明け前に空のビール缶を散らかして半分瞼を落とし、ポップコーンをあてに畳に寝そべって、『はんそん』だかなんだかいう監督が二百年前に海の向こうで作ったという刑事ものの時代映画を、僕は顔もわからないけれど親しい誰かと見ていた。
テレビには最後の攻防戦のシーンが映っている。今までほとんど寝ていた友人が、銃声を聞いてがぜん元気に起きあがって画面にかぶりついている。本当に鉄砲が好きなのだなとまどろみながら思う。ハンドガードをつかんで引き金を引く──よく狙って──ばん!
金属をひっぱたく音が、空気を隔てて腹の底を震わせる。刃物を振り下ろすのとはまた違う手ごたえがあった。フォアエンドを前後させ、排出口から空薬莢を落とす。もう一度だ。肉に届いていなかった。でもひとつでも刀装を剥げれば十分だ。
異形が首をめぐらし、こちらに気を向ける。鋼を編んだ巨躯へ、壁をのぼる要領で鶴丸が組みついた。吹き飛んだ刀装の境目に刀を差し入れる。黒い血が吹きあがった。
雷が落ちたような轟音を喉からほとばしらせ、異形が腕を伸ばした。空振りだ。すでに鶴丸はそこにはいない。重心がずれたところへ、獅子王が大木じみた膝を裏側から、そして燭台切が左胸を突いた。
あまりにも静かに、異形の大きな身体が倒れていく。うつ伏せの頭を青江が掴んで抑えつけた。笑みを絶やさず隊長を見あげて、とどめを促す。無防備な首へ長谷部の刀が振り下ろされた。
風の音が戻ってくる。いつの間にやってきていたのか、鶴丸が僕の背中を撫でていた。硬直した僕の指をいたわるように、氷菓を思わせる繊細な指で猟銃のトリガーから外していく。
「見事なもんだ。陸奥守が乗り移ったのかと思ったぜ。なかなか様になっているじゃないか。初陣とは思えない」
「まだです……注意して!」
小夜が叫ぶ。こんのすけのもとから駆け戻ってくる。
地響きとともに、仕留めたはずの異形が起きあがった。すでに首は落ちている。身体だけが腰だめに勢いをつけて、跳ぶように四つ足で迫る。
何者かへの決して失われない恨みが宿る赤い目が僕を射た。そっくりの火の目が。手に、腕に、胸に腹に足に、全身のあらゆる部位に目が開いた。耳が、鼻が生まれた。斬られた首の付け根が大きく盛りあがって裂け、黒い牙がびっしりと生え揃う。さながら奇形の巨大鰐だ。雅じゃない。
より怪物じみた姿に変貌した異形は、怒り以外の感情を忘れ果てた表情で、僕めがけて踊りかかってくる。ほかの者は眼中にない。
この『槍』の化け物は、そしてあの猿に似た『打刀』も、なぜか僕個人に対して気が触れるほどに激しい憎悪を抱えているのだ──そう気がついたときには、大きく開かれたあぎとが僕を呑みこんでいた。
* * *
雪が降っている。膝立ちで、黒く穢れた肉塊を踏みつけて、僕は天を仰いでいる。ひたすらに臭い血が僕の全身にまとわりついている。
生きている。僕は今まさに、この異形に喰われてしまったのではなかったか。
目をうごめかすと不思議なものを見た。世にも美しい太刀が、僕のかたわらにあった。異形の、あんなにも硬かった甲冑を易々と『内側から』斬り捨て、腹を裂いている。
獅子王がふらふらと近づいてきて、呆然と刀を見つめている。
「三日月のじっちゃんだ」
手を伸ばした。すると美しい太刀は幻のように輝きながら、雪が溶けるように消えてしまった。
「じっちゃん」
──折れちまったのか。
今にも泣きだしそうな顔になる獅子王を、鶴丸がなだめてやっている。小夜が僕のところへやってきて、手ぬぐいで顔についた血をぬぐってくれた。
「どこか、痛いところはないですか」
「大丈夫……」
長谷部にいきなり胸ぐらをつかまれた。首をしぼるように引っぱりあげられる。
「よけいな真似をするな。自分の身もろくに守れんような役立たずは引っこんでいろ」
燭台切が、静かに、ただし恐ろしく機嫌を損ねている長谷部を引き留めてくれて、僕は雪の上に投げ捨てられた。
そんなやりとりもどこ吹く風で、青江がその不思議な瞳で、しゃがみこんで僕を見つめてきていた。
「きみと縁があるように見えたのだけれど。三日月宗近殿」
六つの視線が注がれる。
三日月宗近。今の刀のことなら、初めて見たのだけれど。獅子王がすがるような視線を向けてくる。
「今のどうやったんだ。あんたじっちゃんをどうしたんだ?」
「僕は──」
何も知らない。覚えがない。わからない。もしかするとそれはとんでもないことなのではないだろうか。
だってもしかすると僕は、異形と同じ目をして、不気味な黒い歯と爪をしたこの名無しの誰かは、『流されているだけの傍観者』でも『巻きこまれた被害者』でもないのかもしれないじゃないか。
言葉に詰まっていると、上空で破裂音が鳴った。いっせいに空を仰いだ。銃声だ。断続的に響く。近くで誰かが戦っている。
「救難信号だ。すぐに向かう。燭台切と、鶴丸に獅子王は俺と来い。残りのふたりは雪を連れて宿に戻り、主に連絡しろ」
「助けを求めている人がいるんだろう。僕も行こう。今は人数を分散させるのは危険じゃないだろうか」
長谷部は口を出されたことがよほど気に入らないのか、ぎろりと射殺しそうな目で僕を見た。
「『貴様は違った』。その眼、同じだ」
山を跋扈する異形と同じだと長谷部は言った。僕自身そろそろ理解していることでも、他人から現実を突きつけられると堪える。ため息をつく。
「わかった。きみの言う通りにしよう。つき添いは必要ないよ。ひとりでいい。こんのすけがついているし、武器もあるからね。申し訳ないが先に宿へ戻らせてもらう。おじじの手伝いをしているから、用があったら声をかけてくれ」
こんのすけに声をかけて、僕はきびすを返そうとした。しかし狐は動かない。
斜面の下から黒い霧のようなものがせりあがってくるのが遠目に見えた。群れ集った虫を思わせるそれらは、目を赤く光らせながら殺到してくる妖たちだ。舌打ちする長谷部を仰ぐ。
「……まさかこれでも帰れと言うんじゃないだろうね?」
「好きにしろ。妙な真似をすれば斬るだけだ。行くぞ」
長谷部はそっけなく言って、信号の発信元へ向かって駆けだした。
「ずいぶん嫌われているねぇ」
性格の不一致、というよりも、まず顔が気に食わないという態度だ。これは仲良くやるのは無理だろう。
小夜が僕の手を取って、「そうでは、ないですよ」慰めてくれた。本当に優しい子だ。「本当にごめんね」燭台切もすまなさそうにつぶやく。この人が保護者役を一手に引き受けているように見えて、こちらのほうが申し訳がない気持ちになる。苦労しているのだろう。
* * *
その部隊は黒い森のなかをやみくもに駆けていた。隊長に薬研。重傷を負った乱をかついだ山伏が続く。
あとを追うのは奇怪な猿のような化け物が五体。それらの振るう、すでに刀ですらない鉄塊がかろうじて打刀だと、刀の身に感じる。
異様に瞬発力のある長谷部が飛びこんでいった。先頭の猿を屠る。
「救援だ」
「かたじけねぇ」
短いやりとり。薬研が足を踏ん張り、構えなおす。
「速いよ長谷部くん」
燭台切が追いついた。他の面々も次々と敵に斬りかかっていく。数で勝るうちは形勢が有利だが、追手が迫っている。
「飛びこめ」
鶴丸が叫んで、崖の斜面を滑り落ちていった。「マジかよ」目をむきながら獅子王が続く。異形たちは進撃を止め、崖の上で立ち往生している。
追ってはこないようだ。岩のくぼみに身を隠して見あげて、それぞれは安堵の吐息をこぼした。
「へし切長谷部、芝翫本丸の第二部隊隊長だ。この山一帯の異変の調査と、消息を絶った第一部隊の捜索任務の最中だ。三条の刀剣を中心に三日月宗近が率いている部隊だ。見かけなかったか」
「薬研藤四郎、百群本丸の第一部隊。するとうちと同じ任務を受けた連中だな、そいつらは。こっちは今──」
薬研は言葉を呑んだ。本体を握る指に力がこもる。ほかの仲間も同じく手負いの獣の目をして、殺気を──しんがりにいる、雪に向けている。
「お、おい」
「悪いが諦めてくれ。そいつはもうだめだ」
有無を言わせない声。どういうことだ、と問う隙も与えない。意識をかろうじて手放さないでいる乱の、荒い呼吸だけが響いている。
「そうなったら仲間は既に手遅れであった。三人だ。拙僧が折った」
「厚も同田貫もおかしくなった。鳴狐が折られて、そしたらあいつも──歌仙の旦那、あんたを折らなきゃ全員しまいだ。うつるんだよ、それは。化け物に変わっちまった仲間や遡行軍の奴らみたいになっちまう」
皆が雪を見た。薬研の言葉が重い。
──うつるんだよ。
長谷部がまず動いた。鯉口を切り、雪のうしろに立った。
「跪け。貴様を斬る」
目に見えるような明確な殺気に、雪は容易にからめとられた。呆けた表情で操られるように膝をつく。
「あ、ああ。うん……え? えーと、すまないね、なんだか僕はきみらには迷惑をかけてばかりのようで──」
他本丸の刀たちが、雪の姿に違和感を覚えて眉をあげた。『変質』してしまった仲間は、まともに口をきくこともできなくなったのだ。
長谷部の刀身が抜き放たれた。ためらいはない。そして──天から降ってきたものが、すべてを吹き飛ばした。
【1-8 零式禍津】
白。眼球を無力化する膨大な光が炸裂した。森を、崖を、岩山を根こそぎ抉り取っていく、純粋な暴力がその場所に顕現した。羽虫のうなるような音を立てて、雷光が空気中を踊っていた。その中心にあるのは、人の形をした『何か』だ。
天から降ってきた男が、白い長髪をたなびかせて立っていた。裸に近い格好だ。不気味な呪いの文様が肌に刻みこまれて、黒い瘴気を放っている。
男の顔は、和泉守兼定そのものの造作をしている。
──零式禍津。
誰が名付けたか、正体不明の妖刀はそう呼ばれている。
二年前に政府より下った任務にあった正式な名は、『八十禍津兼定』という──。
『任務名:八十禍津兼定
「禍津兼定」と交戦し、勝利せよ』
その任務は散々な結果を残して失敗に終わった。
なぜそんな刀が存在するのか、部隊の者たちは誰も知らなかった。黄泉より来たりし呪いの一振りとだけ、伝えられている。
かつて突如として現れた、おぞましい鬼の姿をした妖刀は、近隣の集落に大火をもたらして甚大な被害を出した。政府の命により駆除にあたった刀剣男士たちを一顧だにせず、次々に手折っていった。
姿形は『あの時』とは異なるが、刀が放つ瘴気は同一のものだ。間違えるはずもない。芝翫本丸の刀剣たちは、その怪物に忘れえぬ恨みを抱いている。
当時、任務にあたった本丸第一部隊の隊長であった、初期刀の歌仙兼定を喰らい殺した。
敬愛する兄刀が足の先から齧られていく姿を見せつけられ、我を忘れて仇討ちを挑んだ和泉守兼定をも惨殺した。この場にいる、今でこそ危なげなく戦場に立っているものの、当時は未熟だった刀剣たちの目前で──。
あれ以来姿をくらませていたその妖刀が、再び目の前に現れた。山に満ちた穢れに引き寄せられたか。理由はどうでもいい。
「ここで遭ったが百年目ってことになるなぁ」
「あれからずっと復讐を望んでた。敵を討つ日を毎晩夢に見てた。……之定の仇。死んでよ!!」
猛烈な勢いで、鶴丸と小夜が鏡あわせに仇敵に剣撃。相手は微動だにしない。信じがたいことに、繰り出された刃を素手で握りこんでいる。
次の瞬間、逆さまの頭と、突き出された長い脚が現れた。間の動きがない。目で追えない。ただ蹴り飛ばされた衝撃だけがそこにあって、二振りの刀は吹き飛んでいた。
雷をまとった手刀が、隊長の首を狙って浮かぶ。受け流した長谷部はもんどりうって転がった。一撃があまりに重く、止めきれない。
──まだ届かないのか。
これではあの時と同じだ。鍛刀され芝翫本丸に顕現したすべての刀剣をいちばん初めに迎えてくれて、気にかけ、導いて、時には叱ってくれた歌仙兼定。本丸の誰もが慕い誇った刀。
それが生きながら脊椎をちぎられ、手足の先からかじられ、はらわたをもてあそばれていた。鬼の足元に這いつくばった、重傷を負った和泉守兼定の手が空をつかむ。無力さにあふれる涙をぬぐうことも忘れていた。
歌仙の瞳が濁っていく。死。折れて壊れることすら赦されない、肉の消滅。刀の最悪の恥。遠い兄に憧れた和泉守兼定のなかで、そのとき何かが切れたのだろう。撤退命令も構わずに、敵を討つべくがむしゃらに突きこんでいった。
仇は果たされず、砕かれた鋼鉄の破片が花びらのように舞うばかりだった。
あの兼定の刀たちを辱めて折った相手を必ず殺す。その思いで死に物狂いで鍛錬に没頭し、戦場で辛酸をなめてきた。あの時とは比べ物にならないくらい強くなったのに。
悪趣味にも、自ら折った和泉守兼定と同じ顔をしたこの化け物に指一本触れられない。
赤い火の目がこちらを見ることさえない。地獄を見ているのか。そこに、その男が手折った者はいるか。恨み言が聞こえるか。
白い頭がぐるりと回った。ぐるぐると、何かを探している。
ぴたり。『零式禍津』が動きを止めた。赤い目の先には、雪が──記憶を持たない歌仙兼定の顔がある。
また喰らうつもりか。歌仙の肉はそんなにも甘かったか。
その姿をしたものを辱めさせることは二度とあってはならない。部隊は切っ先を怪物に定める。そのとき雪が、出会ってからついぞ聞いたことのない、はっきりとした声をあげた。
「──兼ちゃんかい?」
『零式禍津』の姿がぶれた。目にもとまらぬ動きで、雪の目前にふと現れる。空間そのものを手繰り寄せているのではないか、と疑う速さ。
癖毛の白髪頭をつかんで岩に叩きつけているその時には、すでに引きあげて顔面に拳を一撃入れている。伸びあがった胸をかかとで蹴り落とす。青白い放電のなかを、砕けた無数の石片が雨あられとなって落ちてきた。
『零式禍津』が本気の殺意をこめてぶつかっているのなら、すでに雪は死んでいる。ばらばらに解体されて喰われた初期刀のように。
雪は、死んでいない。鼻血こそこぼしているものの、必死の顔をして敵の手首を握った。
「兼ちゃん」
半泣きの声で、みょうちきりんな名前を呼ぶ。『零式禍津』はひるんだように見えた。呼びかけにか、己の攻撃を防がれたことにか。
後者だ。その手に荒れ狂う雷光がまとわりつき、二振りの刀が幻のように出現する。具象化するほどに濃い神気で編まれた刀剣は、その名をよく知っている。加州清光。大和守安定。新選組の二振り。
相手が素手で殺せないと踏んだ。そこに感情はない。
敵はからくり人形のように無機質で、雪の声など──いったいどういうつもりで『あの刀』に呼びかけるのだ?──まったく届いていない。見たこともない紋が刻まれた両手に刀を構えた。
「僕だ。歌仙兼定だ、きみを探していた。きみと話がしたかった。きみのことを助けたかったんだ」
雪は叫び、自らを歌仙兼定と名乗った。記憶が戻ったか。しかし話の通じる相手ではない。
一呼吸もつかず肉薄し、二振りの刃が繰り出された。歌仙の目前で青白い雷光が弾けた。
──『零式禍津』の剣撃を、歌仙は『三日月宗近』で受けた。
神気になじみがある。消えたはずの芝翫本丸の第一部隊隊長に違いない。先の異形の腹を裂いたときに気づいてしかるべきだった。
──『三日月宗近』は白髪の『歌仙』に喰われたのだ。
芝翫本丸の初期刀と同じように。この異形の禍津神どもには、どうやら喰らった刀を取りこんで自ら振るう能力が備わっているらしい。隊長の三日月を失い、おそらく他の部隊員も無事では済まなかっただろう──。
「僕がわからないのか。歌仙、之定だ。兄さんだよ。正気にもどってくれ。頼む、和泉守兼定」
歌仙が叫ぶ。言葉に焦りが混じっている。あきらかに力負けしていた。人のふりをしていた時分から、ただの人間と変わらない気配だった。神気が極めて薄いのだ。押し切られるのにそう時間はかからなかった。
嫌な音を立てて歌仙の腕が飛ぶ。落ちた三日月は無数の飛沫となって掻き消えた。
「兼ちゃん、どうかもとに……!」
『零式禍津』は逆手に握った加州を、歌仙の残った手首に突き立てた。くぐもった悲鳴があがる。大和守で腿を貫き、地面に縫いつけた。長曽称虎徹で腹を裂き、堀川国広で胸を貫く。
この『零式禍津』という一振りの妖刀は、まるでひとりの人型をしたひとつの部隊ででもあるかのようだ。いくつもの刀を操って、一方的に歌仙を蹂躙する。
歌仙の意識がとうとう落ちた。『零式禍津』が新しい刀剣を顕現させる。
和泉守兼定。皮肉だが、その顔に何よりふさわしい刀が、歌仙の首にぴたりと沿う。薄く破れた表皮から血がにじんで、『零式禍津』の刃を濡らした。
──禍々しい雷光をまとった白い体躯が停まった。
赤く汚れた刀が小刻みに揺れている。能面のような顔をした『零式禍津』の全身が、わななくようにぶるぶると震えはじめた。
「──之ン兄ちゃん」
『零式禍津』が呆然と呟いた。
和泉守兼定本体を無造作に放り出した。自らが殺しかけた歌仙の身体を穿つ刀剣を、慌てた手つきで抜いていく。そばから投げ捨てていく新選組の刀は、その手を離れた途端に塵となって消えていった。
歌仙を抱いた『零式禍津』の表情が突然大きく崩れた。息を呑み、歯を食いしばり、ぐしゃぐしゃの泣き顔になる。
「ああ、兄ちゃんおれ、お、おれ何てことを──」
何も見ていなかった赤い目が気を失った歌仙を映す。「兄ちゃん頼む、頼むから目を開けてくれ」大きな身体で覆いかぶさるようにとりすがる。死人のように青白い頬を撫でて、嗚咽で喉を詰まらせる。「兄ちゃんを傷つけるつもりじゃなかったんだ」悔しそうに涙を流す。
機械のような『零式禍津』の名残はどこにもなく、かといって和泉守兼定らしい意志の強い表情もない。ただただ恐慌に陥っている、迷子の子供の顔がそこにあった。
「兄ちゃん死んじまったら……オレのやってきたことは、いったい何のためだったんだ──」
『それ』は大きく口を開け、幼児が泣き叫ぶように純粋に慟哭した。奇しくも二年前にその化け物が殺した、死にゆく兄刀に腕を伸ばす和泉守兼定とそっくりの顔だった。
だが、『零式禍津』が『和泉守兼定』だったのは、ほんの一瞬の間だった。
手足に刻まれた禍々しい文様が妖しい光を帯びると、人の感情が宿った泣き顔は人形じみた能面にもどっていく。全身にまとう冷たい雷が、苛立ちをぶつけるように中空で炸裂した。
雷が具象化したようなその禍津神は、轟音を立てて地を蹴り、禍の光を撒き散らしながら空の彼方へ消えていった。
【1-9 鬼と蛇】
地吹雪が視界を遮っている。
倒れたかがり火の残骸が雪に埋もれかけている。月のない夜だ。
それなのに、針の葉をいつまでも青々とつけた森の奥は、夜目がきかない太刀でもやすやすと見通せるほどに明るい。高地特有の達観したような空気は、今は瘴気に侵されて細かな黒い粒の集合体となり果て、呼吸ひとつままならない。
禍々しい黒い雲が空を覆い、その中を銀の雷光をまとって泳ぐように移動するものがいる。
とぐろを巻くその身は、山々をからめとるほどに大きい。鋼の蛇だった。頭をもたげて、何かを大声で叫ぶようにあぎとを開けている。
ひとつひとつに精巧な彫刻がされた鱗がしなやかに編まれ、組まれて、一連なりとなって鎧の体を成している。両目のわきから、いびつな鬼の角を生やし、感情の死んだ冷ややかな赤い眼が見下ろしてくる。
鬼と蛇。なるほど、細川の刀にはふさわしい逸話があったではないか。
──いわく、妻の姿に見惚れた庭師をその場で斬り殺した細川忠興は、刎ねた首を妻たまに差しだした。たまは平然としている。「おまえは蛇か」と忠興が聞くと、たまは「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」と涼しく答えたという。
闇に堕ち、見るにたえない異形の妖に変じてもなお、歌仙兼定だった『もの』は昔の主が忘れられないらしい。
『任務名:大禍津兼定
「禍津兼定」と交戦し、勝利せよ』
政府より下りた二度目の禍刀剣討伐任務だった。今度の成果も、失敗、ということになるか。
──殺す。
天から黒く穢れた強烈な思念が、その憎悪が霰のように叩きつけてくる。寄せては返す殺意の波。揉まれて呑まれて全身がばらばらになりそうだ。
──殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
──主を殺す人間すべて殺す赦すものか必ず殺す殺しつくす審神者も政府も刀剣男士も歴史修正主義者も検非違使も罪人も善人も殺す首を寄越せ。
──皆も僕も裏切り者も殺す仇を殺す殺す首を差し出せはらわたをかっさばいて喰らい殺す全部喰い殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す──。
人のかたちを成した者への憎しみをぶつけてくる大蛇は、己が人の形をしていることさえも許せなくなったらしい。
「憐れな」
芝翫本丸の第一部隊を率いる三日月宗近は、陣を組んで、化け蛇の姿をした討伐対象──妖刀『禍津兼定』と対峙している。それが黄泉より来たりし呪いの一振りとだけ、知らされている。同じく任務にあたっている他部隊も、みな神妙な顔をして並んでいた。
術式は整った。あとは──持ちこたえられるか。
あの大きな口が開いて、こちらへ喰らいついてきた時が勝負。二度目はない。
「恨むな歌仙。俺らも恨まぬ。名だたる刀が道連れだ。それで許してくれ」
赤い目玉のその奥に、三日月は凍りついたようにうずくまる一振りの刀のまぼろしを見たような気がした。歌仙兼定。懐かしい姿だ。三日月の本丸の初期刀だった彼は、二年前に鬼に喰われて折れる間もなく死んでしまった。
人の子の業は、これほどにも深いものか。神を堕とした咎は誰が負ったのか。今は考えても仕方がない。黄泉戦の鬼となり果てた同胞を、安らかに眠らせてやるべきだ。
『禍津兼定』が裂けた大口を開け、刀剣男士たちを森ごと喰らった。
雷光をまとった蛇の体表面に、入り組んだ文様が発現した。刀剣男士の血と肉と骨を媒介に発現した封印の術式が、蛇の全身を埋め尽くしていく。不気味な音を立てて鱗をこすりあわせ、白銀の大蛇は雷光をほうぼうに撒き散らしながら、怒りをこめて咆哮した。
天の彼方へ、『禍津兼定』は泳ぐように、苦しげに身をくねらせて逃げていった。その尾の先から崩れ、錆びていき、やがて崩壊した。
あとには何も残らなかった。いや、たったひとつだけ──。
静寂がもどってきた山中に、音もなく光が降る。鋭く輝く、砕けた鋼の欠片だ。降りつもるそれは、やがて一人の人間の男のような姿へと変化した。
死を撒き散らした大蛇のなれの果てが、白く染まった地に膝をついてそこに現れた。叫ぶように大きく口を開けて、うつろな赤い目に、今しがた自らが墜ちてきた天上を映している。
【1-10 禍津の話】
「兼ちゃん」と歌仙兼定が弟を呼びはじめたのは、いつからだっただろう。
「之ン兄」と和泉守兼定がそれに応えるようになったのも、ずいぶん昔の話になる。
「うちの兼ちゃんが」「うちの之ン兄が」厨で燭台切と。庭で粟田口の弟たちと。他愛ないやりとりのなかで、各々に引きずられてそう呼ぶうちに、お互い口になじんでしまったのだったか。
ふたりは仲の良い兄弟だった。
和泉守にとっては偶像のように思えるほど作り手の代が離れていたし、歌仙は生まれつき恐ろしく人見知りの性質をしていたから、はじめのうちは相手をろくに顔をあわせたことのない従兄弟のように感じていた。距離のはかり方の見当がつかず、よそよそしかった。
それから二十数年もともに過ごしてきた。力をあわせて落ちた本丸を再建し、幼い主を立て、次々に新しい仲間を迎え入れるころになると、同じ刀派のこのふたりは唯一無二の家族になっていた。
内に秘めた他人への気おくれが抜けるころに歌仙は和泉守を弟と呼ぶようになり、和泉守が二代目之定への憧れと嫉妬の入り混じった劣等感を克服するころには歌仙を兄と慕うようになっていた。
「折れる時は別々に」が合言葉だった。片割れが残れば、再び主と本丸を立て直せると信じていたのだ。
現に二振りは歴史修正主義者の襲撃で滅びた前本丸から赤子だった主を救い出し、そこからほとんど身一つで今までやってこられたのだから。
当時赤子だった主は、人の身には長い時間を経て青年に成長した。『仙斎』の名を与えられて正式に審神者となった。父親によく似て実直で、口数は少ないものの刀剣たちを信じて導き、親代わりに育てた兼定の兄弟には頭が上がらなかった。
演練で知りあった同業者の女性と結ばれ、両本丸の刀たちに盛大に祝われながら夫婦になり、娘と息子をひとりずつ授かった。
年頃に成長した娘は「大きくなったら和泉守のお嫁になる」と言い出し、父親を困らせた。
幼い息子は歌仙の立派な肩と足腰に憧れて「一緒に甲子園を目指す」と決心し、長谷部を悔しがらせた。
穏やかに、ささやかな幸福を重ねていく人生だった。審神者仙斎が、時間遡行軍の襲撃によって妻を失うまでは。
清らかな霊力を豊かに宿していた妻は、肉を食まれ骨をかじられ、血の一滴髪の一本も残らなかったという。寄しくも亡き父親と同じ死に様。これは呪いだと、仙斎は受け止めた。
薄暗い自室に長らくこもりきりだった審神者は、あるとき初期刀と近侍を呼んで、両腕の二振りにこう問うた。
「父を喰らい、今度は妻を喰らい殺した歴史修正主義者どもを生かしてはおけん。奴らに思い知らせてやるために、俺はなんでもやろうと決めた。ついてきてくれるか歌仙、長谷部」
「もちろんですよ、主」
「僕らはきみの刀だ。なんだって言うとおりにするよ」
歌仙と長谷部は競いあうように次々に言った。審神者はそこでようやく胸のつかえがとれたように、表情を緩めた。
以前のように微笑むことはなかった。それから一度も。
──それは本当に呪いだったのか、審神者の強迫観念のようなものだったのか。
やがてこの仙斎という審神者は、『喰らう』という事象に異様なまでの興味を抱いていくのだった。
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