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禍津騙(2)
【2-1 空白】
* * *
『任務名:八十禍津兼定
「禍津兼定」と交戦し、勝利せよ』
* * *
「こっちへ来るな、之定」
弟にその名前で久しぶりに呼ばれた。
半分開けたふすまの引手に手を掛けた格好で、歌仙は立ち尽くしている。透かし欄間から射しこんでくる外光は頼りなく、室内は闇に包まれている。やたらと暗い。空気はこもっていて、なにかすえたような臭いがする。
前に歌仙がこの本丸へ訪れたときは、濡縁の上を顕現したばかりの短刀の子どもたちが歓声をあげて走りまわっていた。いつもはにぎやかな本丸なのだ。
今は顔なじみの刀剣男子たちの姿はなく、とても静かだ。縁側に吊りさげられた風鈴の音が虚しく響いている。
「兼ちゃん」
瘴気になりかけの澱んだ気配が、本丸を包みこんでいる。なにがあった?
時間遡行軍の襲撃というわけでもなさそうだ。奴らの本丸の襲い方をよく知っている。敵はのべつくまなしに斬って火を放つ。この本丸は、ただ空っぽなだけだ。
歌仙は畳床の上に踏みだした。和泉守が手近にあった菓子器を投げつけてくる。
「来るなって言ってんだろうが!」
陶器が割れる甲高い音と、身をすくめるほどに激しい怒号。歌仙は首を傾けて、闇に目をこらした。
長いつき合いだ。和泉守は短気だが、すくなくとも理由もなく相手を怒鳴りつけたりはしないと身に染みている。今は苛立っているというよりも、泣いているように見えた。
「どこか悪いのかい。もしかして、怪我でもしたのか。ひとまずうちの本丸に戻っておいで。手入れ部屋をあけてもらえるように、すぐ主に連絡を入れておくよ。大丈夫だから、なにがあったのか兄さんに教えてごらん」
あきらかに様子のおかしい和泉守に、両手を広げて歩み寄る。弟の長身を支えようと近づいた歌仙は、妖しい血の色をした目に息を呑んだ。
「か、兼ちゃん。その目はいったい……」
「見んな、之定。あんたは、何も見ちゃいけねぇ。頼むから、目ぇ閉じて耳をふさいでてくれ──」
ぶあつい鉄の板が擦れあう、不気味な音が鳴る。見ると荒く上下する弟の肩が奇妙にねじくれて、骨が肉を裂いて突き出している。
「……え?」
和泉守の骨格が、奇妙な形に肥大化していく。そこへ見えない糸で織りあげるように鋼色の肉が乗り、不格好な形をした角が軋みをあげながら生まれ出る。
またたくまに、一匹の鬼が歌仙兼定の目の前に現れた。
『之定ァ』
ぐい、と寄せられる、歌仙の身の丈ほどもある鋼鉄の面皮。おどけるように剥いた赤い目に、ぽかりと口を開けて魂の抜けたような顔をした歌仙が映りこんでいる。耳まで裂けた鬼の口が開くと、炭の色をした獣の牙がむき出しになった。
「かねちゃん」
『あんた、うまそうだなぁ』
地獄の底から響いてくるような恐ろしい声をあげて、弟だった鬼が嗤った。
【2-2 副長の鬼】
低く、遠く、サイレンが不穏に鳴っている。音の波の間にいくつもの赤い光が点滅していた。
巨大な満月を背に、街は炎に呑みこまれて煌々と燃えていた。死に取り囲まれている。人の創ったものが燃える光景が、僕は大嫌いだ。
大地が不気味に震えている。土蔵の向こうに、見あげるほどに大きな人型の影が、なにかを探しながら大通りを進んでいく。地上からではよく見えない。町屋のひさしを足場に瓦葺き屋根へ跳びあがる。
気が動転していたせいで、足を踏み外したところを、後続の長谷部が引っ張りあげてくれた。
「重いぞ、この贅肉の塊め。邪魔くさいデカ尻をなんとかしろと言ったはずだ」
お決まりの憎まれ口にも、いつものように反応できない。今の僕には頷くことしかできない。長谷部の舌打ちには、若干の焦りが含まれている。
「おい、歌仙、いつもの無駄な語彙のひとつでも披露しろ。おまえ本当に大丈夫なのか」
「歌仙くんしっかり。気を確かに持って」
「ああ」
「行けるかい」
「行ける……」
僕の肩を掴んで覗きこんでくる燭台切の隻眼のなかに、幽霊のようにぼんやりした僕がいる。だめだ。隊長がこれではみんなを不安にさせる。両手で思いきり頬を張った。
初めの本丸が落ちたとき、赤子だったころの主が熱を出したとき、収穫直前の畑の野菜を猪に食い荒らされたとき、馬当番を毎日ひとりで回しているうちに急に涙が止まらなくなったとき──人の心が揺れて定まらないときに、気合いを入れなおすための癖だった。
大丈夫だ。今までだってなんとかなってきた。今回も、大丈夫だ。
「ああ平気だ。取り乱してすまない。行こう」
僕らは瓦屋根の上を駆けていく。うだつをまたぎながら飛び移り、伝い、炎の中心を目指して。
* * *
『歌仙兼定』の今の主には、娘に息子がひとりずついる。
息子のほうは数え年で十二になるよりも前に男の元服を行い、式において冠をつけ正式に審神者となった。父親の本丸から和泉守兼定が移り近侍をつとめている。
今夜でちょうど一年になる。「あの野球小僧が立派になりやがって」と弟が酒の席で泣くのを、堀川とふたりであやしたのはつい先週のことだ。
祝いの宴の準備を手伝おうと、歌仙が昼前に訪れた若い審神者の本丸は空っぽだった。主の姿はなく、刀剣たちもいない。近侍の和泉守を見つけたものの、ひとまず様子のおかしい本丸から連れ帰ろうと近寄った僕の目の前で、弟は鬼に変貌して襲いかかってきた。
──ただちに、謀反刀の和泉守兼定を討てという任務が、歌仙の本丸に下された。
禍に呑まれ悪神に堕ちた和泉守が、審神者と仲間の刀剣を喰らい殺したというのだ。
信じられるはずがない。しかしあの刀が確かに鬼に変わりゆく光景を見ていたのも、僕自身なのだった。
林道のほうから整然と列を組んで進んでくる鎧武者の人間集団は、堕ちた刀剣男士を折ってまわる政府お抱えの粛正部隊だという。初めて目にしたが、呪を刻みこんだ得物に本能的な寒気がした。
乾物屋の軒先には浄衣を着た陰陽師が身を隠している。燃えゆく街のそこここに散って、結界を張り巡らせているようだ。僕らのほかにも他本丸の刀剣男士が駆り出されているらしいが、まだ見かけていない。
海に近い炎の中心には鬼がいた。
火がまわった民家をまたぐほどの巨躯。蓬髪は色が抜け落ちて白く変わり、背にいびつな角をびっしりと生やしていた。打たれている最中の鋼そのものの赤く燃える全身が、激しい熱を持って触れるものを焦がしてしまう。
握った得物は、あれは和泉守兼定なのか? 面をつけているような表情の読み取れない異形の顔を見あげた。信じられない。あんなただの鉄の塊を、兼定が打つはずがないじゃないか。
魚鱗陣を組み、僕は鬼の目の前に飛び出していった。
「兼ちゃん」
叫ぶ。人の悲鳴と物が壊れる音、炎の唸り声。雑音がひどい。さらに大声を張りあげた。
「僕だ。之定だ。兄さんだよ和泉守兼定。わからないのか」
大きな鋼の鎧武者が、僕のほうへ身体の正面を向けた。こちらも足を止める。本体は抜かない。敵を斬りにきたわけじゃない。
「元に戻ってくれ。正気に返ってほしい」
『のさだ』
安堵の吐息をこぼす。和泉守は僕のことを覚えている。何があったってふたりきりの兄弟のことを忘れるはずがないじゃないか。何があってこんな恐ろしい見た目に変わってしまったのかはわからないけれど、まだ間にあうはずだ。
「そうだ。僕だ。歌仙兼定だ。きみの兄さんだよ」
勢いこんで、両手を広げる。
「──歌仙、上だ!」
長谷部の叱責が飛んだ。鬼が振りかざした巨大な鉄塊の刃が、僕の頭上に降ってくる。身体が頭よりも先に反応した。無骨な鉄柱が民家を縦に割る。砕け散った屋根瓦が、夜の海の飛沫のように舞いあがった。
『ころす』
鬼が呪いをこめて言い放った。どういうことだ。和泉守兼定が僕を、この歌仙を殺すだって?
「え、じょ、冗談だろう。やめてくれ。きみが僕にそんなことを言うはずがないじゃないか」
かぶりを振った。歌仙兼定に刀を向けるはずがない和泉守兼定の、赤く光る化け物の目に射すくめられる。知らない眼だ。こんな生きた感情のない弟の目を見たことがない。
「こんなことをきみがするはずはない。そのくらいこの僕には当然わかっているよ」
引きつったような微笑みが、さっきから顔に張りついている。
「……嘘だよ、ね?」
癇癪を起した子供がぜんぶ壊してしまおうとする、八つ当たりの連撃が繰りだされた。狙いは甘い。だが身体の大きさが違いすぎる。僕ら部隊の誰もが、ひしゃげる屋根をひとところにとどまることなく駆け、跳んで転がり、蠅を叩くような動作で振りまわされる鉄塊からようよう逃れていた。
『ころす、ころす、ころす──憎いぞノサダァ、殺してやる』
その間、鬼に変わった和泉守兼定はずっと叫んでいる。
『おまえがずっと疎ましかった。歳さんが本当に欲しがったのは之定、主もみんなもおまえばかり誉めそやす。オレのほうが強いのにかっこいいのに、人にも刀にも望まれるのはみんなおまえだ。オレでさえそうなったんだからよけいにみじめじゃねぇか。オレは自分が最高傑作の二代目之定じゃないと言い続けるのが悔しかった。代わりなんざ我慢なんねぇ。なんでおまえなんだ、おまえばかり。なんで勝てない。オレはいっそおまえになりたい。それなら──喰ってしまえばいいって気がついたんだ』
「──は?」
今更なにを言っているんだ。意味が分からない。
ずっと昔に、そんな僕が誇らしいと言ってくれたじゃないか。きみには、僕とは違う和泉守兼定だけの力と美があって、之定に劣っていると考えたことはないと言ったじゃないか。元の主を満足させた自信があると笑ったのはきみ自身だ。
鬼が嗤う。口が裂け、僕をためつすがめつしながら、よだれを垂らして舌なめずりをした。
こんな醜いものが和泉守兼定か。僕の弟だというのか。
『喰えばいい。之定を喰って、背負った期待も、一心に受けた寵愛も、語り継がれる御大層な逸話も、オレを悩ませる憧れも嫉妬もまとめて、鋒から茎尻までぜぇんぶオレのものにしちまえばいいんだってなぁ』
混乱よりも、困惑よりも、哀しみよりも僕の腹の底から沸き起こってきたのは激しい怒りだ。初めの主と仲間たちを失ったときに、僕はもう決して怒りに我を忘れまいと自分を戒めた。短気は封じ、昔のように激昂して声を荒げたことは、この二十数年一度もないと自負している。
だけれどあまりの理不尽さに、僕は今の主の刀となって初めて、怒りに任せて叫ぶ。
「ふざけるな。今更そんなくだらない理由で、雅さの欠片もない醜い姿になりさがったか。命に変えても守るべき幼い主に、貴様は手をかけたのか。それで兼定の名を継ぐ者か、恥を知れ和泉守兼定!」
『死ね』
節くれだった長大な鉄柱が、横薙ぎにぶつかってきた。暴風が巻き起こる。僕の身体は木の葉のように吹き飛ばされた。巻きあげられた土砂が黒い霧となってあたりを覆い、視界をふさぐ。上も下も、宙にいるのか地面に叩きつけられたあとなのか、自分がどうなっているかもわからない。
息ができない。脳震盪を起こしているのだと気がついたときには、僕は長谷部にかつがれて、前田と小夜の手に口を塞がれているところだった。
『ノサダァ。ドコヘニゲタ。コロシテヤル──』
僕を見失い、和泉守が去っていく。声も言葉も、身体の使い方も、どんどんけだものに近づいていく。弓兵に目に矢を射かけられ、そちらに鬼の注意が向いた。他部隊が合流したのだ。
「分が悪い。一度引くぞ」
長谷部と小夜が頷きあった。
──馬鹿な。逃げるわけにはいかない。僕が終わらせる。身内の不始末は僕が……。
喉が詰まって声が出ない。意識が浅くなっていく。今にも昏倒しそうなのだと自覚する。他本丸の刀剣男士たちが鬼に立ち向かっていく姿が遠く見える。
鬼は同胞だった者たちを軽くいなし、恐ろしい勢いで鉄拳を叩きつけ、蚤を潰すように彼らを折っていく。
『ノサダァ……』
鬼は僕とは別の歌仙兼定に目を止めた。
『ミツケタゾォ、ノサダァ』
他本丸の僕の分霊が息を呑んでいる──「なんなんだ、こいつは」という形に唇が動いた。それでも退かないしひるまない。かなり高練度の個体だろうと知れた。部隊を背負うものの矜持が遠目にもわかる。おそらくは初期刀か。
押し寄せてくる大きな手のひらを躱し、手首に本体で一撃を入れる。手甲に弾かれた。もう片方の手が歌仙の外套を背後からつまみあげ、胴をつかんだ。
「離せ、この無作法者がッ」
斬りつけるが、鋼の腕を削ったそばから癒えていく。ぶちぶちと嫌な音がした。僕と同じ姿の歌仙が、恐ろしいうめき声を零す。
──やめろ。
息が止まる。声が出ない。和泉守が僕の分霊を殺していく。死が、逃れようのない死が僕ではない歌仙兼定を取り囲んでいる。
「之定!!」
他本丸の和泉守兼定が、歌仙を潰した鬼の手に飛びかかっていった。指に組みつき刃を振り下ろす。切っ先が欠けても、その刀はあがくのをやめない。
「やめろ、てめぇ、オレが相手だ之定を離せ、離せってんだこの化け物、之定! 之定ァ!!」
和泉守が絶叫した。
本当は歌仙がすでに手遅れであることに気がついているはずだ。それでも剣撃を繰り返す。
鬼が、分霊を邪魔っけそうに振り飛ばした。脊柱を砕かれてぐにゃぐにゃになっている歌仙を、その足の先から、手指の先から、炭の色の牙を温かい血に濡らしてそれは旨そうに喰らい始めた。
──之定を喰ってしまえばいい。
鬼がおぞましい表情で嗤っている。
「和泉守兼定! 退け、撤退だ! ……歌仙は無理だ。諦めろ!」
どこかの本丸の鶴丸が叫んだ。彼らの部隊の和泉守兼定は、指示を振りきって鬼に向かっていく。
「ふざけんな! 同派の仇も取らねぇで! おめおめ逃げ帰るなんざ刀の恥だ、兼定じゃねぇ!」
突きこむ刃は欠けていて、あまりにも危うい。頭に血がのぼりきっている。
「之定の仇、死ね!!」
鬼の首へ向けられた刀は、黒い鉤爪に虫を払うように叩き落された。歌仙を咀嚼する水音を頭の上で聞きながら、和泉守が腕を伸ばす。
どこにも届かない。頬が濡れていく。刀が折れるときの乾いた音が寂しく鳴った。
『ノサダァ。オマエ、ウマイナァ……』
全身が小刻みに震えていることに気がついた。怒りのせいじゃない。
まさか僕は怯えているのか。あの鬼が恐ろしいというのか。封じたはずの怒りに身をまかせておきながら、今更死ぬのが怖いのか。
万死に値する。
柄を握りなおして上半身を引きずり起こした。まだ行ける。これは僕が片をつけなければならない問題なのだから──。
首筋に一撃。目の前に小さな光が散る。
「燭台切、こいつを連れていけ」
「オーケー。乱暴な真似をしてごめん。歌仙くん」
いったい、なにが、どうなっている。全部。ぜんぶだ。
目が潤む、視界がかすむ。足元に落ちた蛾の羽に、炎が燃え移りのたうっているのが見えた。
また火だ。炎が僕の世界を呑んでいく。すべて燃えていく。まただ、いつもそうだ。
「いずみ……」
意識が黒くなる。なにも、わからなくなった。
【2-3 心知らず】
赤い着物の背中を夢に見た。和泉守兼定、会津の兼定が打った僕の末の弟。
ともかく言いたいことがありすぎた。どうしてなんだ? ふたりで今日まで頑張ってきたじゃないか、やっとここまで来たんじゃないか。
──主を守ろう。之ン兄ちゃん。オレたちは畑仕事も馬番も大嫌いだ。そんなわがままがまた言えるように、いつかなろう。
そう言ったのはおまえだろう。
今度こそ誰も折れない強い本丸にしようと、主を守るためなら何だってやろうと誓ったじゃないか。
僕らの初めの本丸が焼け落ちたあのとき、おまえが生き残っていてくれなかったら、僕は口ばかり達者なくせに主ひとり守れないなまくらのまま折れていた。主を守ってくれたおまえが、この二十年間隣にいたから僕だって頑張れたんだ。
主を誰より大切にしていたおまえなのに、どうして、あんな無様な姿になり果ててしまった。
僕は、和泉守兼定、おまえのことがとてもとても好きなんだ。この本丸でたったひとりの、かけがえのない大切な弟と思って、精一杯に慈しんできたつもりだ。僕だけなのか。
おまえにとって、それでは、僕はなんだったんだ。
之定とは。三十六歌仙の名前を冠する、二代目和泉守兼定が打った刀は。
──いつもオレを助けてくれて感謝してる。之ン兄。改めて言うとけっこう気恥ずかしいが……ありがとうな。
そんな殊勝なことを言うわりには、鬼の姿になり果てるほどのなにがおまえにあったかなんて、僕には、一言も相談してくれなかったじゃないか。いつも自信満々でみんなの真ん中にいたおまえは、弱音なんかひとつも吐かなかったじゃないか。
言われなければ、僕はわからないんだ。鈍いんだ。雅だ風流だと嘯いたって、生身の人の心の機敏がわからない。それは長い時間を隣で過ごしたおまえがいちばん知っていただろうに──。
──これからもオレたちふたりで、この本丸を守っていこう。
──ああ、ふたりで。これからもよろしく頼むよ。
──がんばろう。
握り拳をつきあわせて、僕らは約束をしたはずだ。
なぜ裏切った。僕を置いて行った。殺そうとしたんだ。答えろ。教えてくれ。
どこへ行くんだ。昔の仲間たちみたいに別れも告げずに消えないでくれ。和泉守兼定。
* * *
「──兼ちゃん」
目を覚ますと僕は本丸の自室の天井に向かって、何も掴まない手を伸ばしていた。
頬が濡れていた。もの寂しい夢の名残りが去ると、徐々に僕の頭は熱を帯びていき、真っ赤に沸騰して、歌仙兼定本体を抜いていた。二十数年ぶりの激昂。
畳も障子も掛物も釜も手当たり次第に斬った。土壁に刃をとられると床柱に握り拳をぶつけてへし折り、棚の茶壷を投げ反物を引きちぎり、茶碗を水引を花入れを割った。書物をすべて畑の肥料のように部屋の外に投げ捨てた。僕自身が暴風になって荒れ狂った。
壊すものがなくなったあと、僕は声をあげて泣いた。
【2-4 迷宮の花】
ゲートが開いて、新選組連中が帰ってきた。門前がにぎやかになる。炊事場から出て洗った手を拭きながら、歌仙兼定は第一部隊を出迎える。
「おかえり。甘味を用意しているよ。綺麗にしてから来なさい」
まず桜を散らせた加州が飛んでくる。主の執務室へ向かう前だから、機嫌がいい。あげた手のひらを叩きあわせた。ハイタッチというそうだ。若い子はいろいろなことを教えてくれる。
「ただいま! 和菓子? 洋菓子? 俺この前のあれまた食べたい、誉桜のシフォンケーキ」
「覚えておこう。今日はわらびもちだよ。短刀の子たちがいっしょに作ってくれたのさ」
大和守も顔を出して「うん、好きなやつ」そのまま風呂場へ歩いていく。隊長の長曽祢が通りかかったところへ、弟が世話になったと頭を下げる。「あいつはいい兄上を持った」しみじみと言われる。
堀川を連れた和泉守が戻ってきて、今日も全員欠けずに戻ってきてくれたことにふと安堵の息をつく。
「なにかお手伝いしましょうか、お兄さんの兼さん」
「戻ってきたところだろう、大丈夫だから先に風呂へ行っておいで。おや、堀川くん怪我をしているね」
「手入れ部屋寄んぞ。聞いてくれよ之ン兄、国広のやつ無茶しやがんだ。大太刀に喰らいついていきやがる」
和泉守がやれやれと肩をすくめる。「まぁ、また強くなったけどよ」堀川の目が輝く。和泉守に褒められたことがものすごくうれしいのだ。このふたりはいつも仲がよくて、小夜と自分を見ているようで微笑ましかった。
庭の池のほとりで話しこんでいる太刀や、手伝いを終えて隠れ鬼をやっている短刀たち、落とし穴に落ちた不運な誰かが怒声をあげている──また鶴丸がやらかしたのか──人の身で思い思いに暮らす刀剣たちの姿を見渡して、和泉守が感慨深そうに口の端を上げる。
「大所帯になったもんだ。またたまには熊とか食いたいかも」
「僕はごめんだよ雅じゃない」
苦い顔になっていただろうと思う。横を歩いていく堀川がまるい目をまたたかせた。
「熊。そんなの食べられるの兼さん」
「おう、昔は熊をとって食っていたからな」
「いや、畑を荒らしにくる猪をとるつもりだったんだよ。柵を壊されて収穫直前のを駄目にされて、これは野菜たちの仇をとって鍋にしてやるしかないとね」
「そしたら熊にでくわしてよ。ありゃあやばかったなぁ。半刻ほど取っ組みあいして仕留めたあとで、とち狂って撮った写真ってまだ残ってたっけか」
「ないと思うよ、ずいぶん昔の話じゃないか」
歌仙は笑って首を振った。鋭い爪で服を破かれ、最後は腰布のようなぼろきれをまとった上半身裸の自分たちが、目を血走らせて死んだ熊を背景にピースサインを決めている自撮り写真のことを、今まですっかり忘れていたことを思い出した。
本当にとち狂っていた。次に見つけたら処分しておこう──歌仙はこっそりとそう考えたが、あとで蔵の掃除をしていた秋田と五虎退が件の写真を見つけてしまい、ふたりを泣かせることになる。
「ん」
手入れ部屋も近くなったころ、和泉守が歌仙に小さな漆器を押しつけてきた。香合だ。
手のひらに収まるほどの大きさにも、蓋に彫られた迷宮を思わせる花模様にも見覚えがある。堀川が感心したように和泉守を見あげているのが、よけいになんとも言えない心地になった。
「わぁ、兼さんきれいな小物入れだね。お兄さんにぴったりだよ」
「そりゃそうだ。もともと之ン兄のもんなんだから」
「えっ」
歌仙は、ため息をひとつ零した。この香合は亡くなった前の主、つまりは今の主の父親に、審神者に就任してから一年の記念に贈られたものだった。本丸が落ちてなにもかもを失ってしまったときに、一度手放したのだが、まさか再び手元に戻ってくるとは思わなかった。しかし──。
「え、いまかい? きっと苦労して探してきてくれたんだろうに、もっとかっこよく決めなくてよかったのかい?」
「なんかタイミングがはかれなくてよぉ。あんまり大げさにもしたくなかったし、確かにかっこよく決めたいって気はあったんだけど、之ン兄にとっちゃ大事なもんだから早く渡してやりたいし」
先月になってとうとう練度を極めた和泉守に、主が報奨を出したのだという。
「でも別に欲しいもんもないしな。オレ、兄ちゃんみたいに物集める趣味ねーから。そんで昔金子に困ってよろず屋に持ってったときからずっと気になってたあれをさ、之ン兄の大事な香合を、なんとか取り戻せねえかって思って主に相談してみたんだよ。なんでもっと早くそういうこと言わねぇんだってめちゃくちゃ拗ねてたわ。探し出してくれたのも買い戻してくれたのも主でよぉ、オレは結局なにもしてねぇから話を切り出しにくかったっていうか」
ぶつぶつと言い訳をする最高練度の和泉守を、話を聞いた堀川が、あーあ、という眉の下がった笑顔で見あげている。
「いや、まあ、いいか。素直にきみの気持ちを受け取ろう。主にも感謝しなければ」
戦場を駆けてきた和泉守が懐にしまっていたせいだろう、香合はとてもいいにおいがする。敵の血のにおいだ。歌仙はとろりと微笑んだ。
「ありがとう兼ちゃん。兄さん想いの弟を持って僕はうれしいよ。改めて大事にするからね──」
* * *
荒れた部屋の畳の上に、手のひらに収まるほどの大きさの香合がある。入り組んだ花模様が彫られた渡来の漆器だ。もう血のにおいもしない。和泉守が買い戻してくれた香合を掴み、床に叩きつけようと振りあげた。
「こんな……こんなもの……!」
壊してしまいたかった。でも、僕の手は勢いを失って力なく畳を叩いた。
できない。なぜできないんだろう。僕のなかにはこんなにも怒りが満ちているのに。
すこし頭が冷えてきたころ、短刀たちが僕の様子を見にきてくれた。お小夜と五虎退に前田。歌仙兼定の怒りをきっと初めて見ただろうこの本丸の三人は、嵐の荒れ狂ったあとの僕の自室を見て驚いたようだった。
「のん兄」
「お加減はどうですか」
──いつもありがとう。之ン兄。これからもよろしくな。
夢の名残りが耳によみがえる。『いち兄はすごいんです』と誇る短刀に張りあって、あれは僕をそう呼びはじめたのだったか。
──オレのところの、の……之ン兄も、すごいんだからな。
のんにい。僕はそのときぽっかりと口を開けていたように思う。弟が耳まで真っ赤だったことを今も覚えている。よほどひどい顔をしていたようで、五虎退がおどおどと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。あの、その、か……歌仙さんとお呼びするべきでした」
「いや、いいんだよ。そう呼ばれるのに慣れてしまっているから。すまない、こんなふうに自分の心が抑えられないなんて、たまらなく恥ずかしいよ」
僕は切り裂いた畳に手をついて、三人に頭を下げた。
「あの子は許されないことをした。同派の刀として、皆に詫びねば。あれを始末するのは僕の役目だ」
あの子を折って、そして──。
五虎退が僕の袖を引っ張って、不安そうに瞳を揺らして見あげてくる。
「その、そうなって、しまったら……歌仙さんも帰ってこなくなる気がして、こ、怖いです」
幼い子供の姿をしたものを怯えさせてしまうとは、僕の短気さはつくづく救えない。だからこそこの新しい本丸では怒りに呑まれた無様な姿を決して見せまいと、僕自身で決めたのに。
「すまないね。心配をかけたようだ」
五虎退のやわらかい髪を撫でた。そんなことにはならないと言わなければ。和泉守兼定が折れてもこの本丸にはこの歌仙兼定が残っている。だから問題ないと、再び立て直せると。
ただ、あの子と過ごした時間があまりにも長くて、辛いなかでもふたりなら楽しくて、それだからあの子のいないこの本丸は、僕には、あまりにも──。
お小夜の冷たい小さな手が、僕の手に重なった。
「悪いけれど。すこしだけ……ふたりにしてほしい。歌仙と話したいことがあるんだ」
静かな声で言った。
「僕のわがままだけれど」
五虎退と前田は顔を見合わせ、僕を心配する言葉を残してから、お小夜の頼みのとおりにしてくれた。粟田口の短刀の足音が廊下の向こうに遠ざかって消えてしまうと、お小夜は僕にしか聞き取れないほどの小さな声で囁いた。
「之定」
僕の肩が、びくりとはねる。
「誰も、いませんよ」
とてもながい空白のあと、「おさよ」僕はお小夜の手を握り返した。もう片方の手で膝をかかえて丸くなった。唇が震える。うまく喋れないのに、いい大人の姿になった僕を、子どもの形をしたお小夜は責めないでいてくれる。
「あまりに、ここは、思い出が多すぎて、息ができない。どんな小さなところにも、あの子との楽しかった記憶があるから。二十年も、ふたりで……ぼくら、ふたりで」
「がんばった。よく、知っています」
「僕はなんで、長い間いっしょにいたのに、あの子がおかしくなる前に、気づかなかったんだろう。あの子をなにも、わかってなかった。なにも気づかなくて、お小夜。どうしよう。兄さんなんか、資格は、僕にはないんだ」
とても恐ろしいことを考えている。こんなことは誰にも聞けない。ほかの刀になんかとんでもない。僕自身だって、見ないふりをしていなければ、幼すぎるこの恐れがみじめで折れてしまいたくなる。
「僕は和泉守に。き、嫌われて、いたんだろうか……」
兄のように慕うお小夜に嫌われたら僕は生きていけない。怒らせたら、睨まれたら、口もきいてくれなくなったとしたら、きっと恐ろしくて食事も喉を通らない。
和泉守にも同じだ。怒らせるのが恐ろしい。睨まれるのは嫌だ。口をきいてくれないなんて最悪だ。僕は弟に嫌われていたんだろうか。そうだとしたら僕は──。
「なにか……理由があるんだと思います。彼は、之定のことを大事にしていたでしょう。それくらいは、僕にもわかるし……」
「う、うん」
「之定を泣かせて……いちばん辛い思いをするのは誰か。あなたが、いちばん知っているはずですから……」
「そ、そ、そうだね」
お小夜はハンカチで僕の顔を拭いて、頭を撫で、綿の出た布団を手のひらで叩いて、「つらかったら、一緒に寝てあげますから」と子どもをなだめるように言った。だから僕は、なんだか恥ずかしくなってきて、「平気だよ、もう大きいから」と言った。
【2-5 和泉守兼定折】
執務室の扉を開いたとたん、眉間に皺を寄せて机についている今日の近侍の長谷部が、あいかわらず優しさもいたわりもない目で僕を睨んだ。
「びーびー泣いてふて寝でもしているのかと思ったら、意外とまともな顔をしているな」
「きみが思っているよりも僕は大人なのさ、長谷部。たしかにすこし落ちこんだけれど、それだけだ。僕らがいるのは戦場だ。こういうこともある」
「自室で刀を振りまわして寝る場所もないと聞いたが。八つ当たりが過ぎるぞ」
ばれていたが聞き流した。
「主にお目通り願えるかい。仕事の話があるんだが。あと心配してくれているようだから、一応感謝しておくよ。へし切長谷部」
「誰が貴様の心配なぞ無駄なことをするか」
審神者仙斎は、行方の知れない息子の身を案じているそぶりも、親代わりの和泉守兼定の離反に深く傷ついている様子も見せず、妻を亡くしたときから変わらない鉄面皮だった。
「来たか、歌仙」
「ああ、主」
「和泉守兼定の話だろう」
僕は頷いた。気遣いも慰めもいらない。話が早くて助かる。
「謀反刀剣を追うのだろう。討伐隊の隊長は僕にやらせてほしい。身内の不始末は僕が片をつける」
「いいのか、歌仙」
主が真顔で言った。いいも悪いもこれは僕のやるべき仕事だ。ほかの刀の手は煩わせない。
「刀の本分を忘れ、人の身を与えてくれた主を裏切り、鬼と化した和泉守兼定を折る。あれはもう刀ではない。兼定ではない。ならば、奴を折ることにためらいはしないよ」
主は静かに頷いた。この審神者は僕の言い出したわがままをいつも聞き入れてくれる人だ。胸の内で感謝の言葉を繰り返す。
「おまえの望み通りにしたらいい、歌仙。許す。和泉守兼定はおまえがその手で必ず折れ」
「恐悦至極」
僕は畳にひれ伏し、深く深く頭を下げた。
「これよりこの身は、不肖の和泉守兼定を折るためだけに在る。奴の首は僕が落とすと誓おう」
僕は今日から、大切な弟を殺すだけの物になる。
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