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禍津騙(3)
【3-1 怒り】
いつだったか、和泉守兼定が言いだしたことがある。
「じつはあん時、こりゃもうダメかなって腹くくりかけてたんだわ」
「きみが? 嘘だろう」
「前の本丸の仲間がみんな折れちまうし主は死んじまうしで、さすがのオレも諦めかけてたんだよな。そしたら、之ン兄がすごい勢いで部屋に入ってきた。遡行軍のやつらが小便ちびりそうな鬼の顔してなぁ」
「そんな顔をしていたか」
歌仙は両の頬を押さえて、嫌そうな顔になった。
「ああ、めちゃくちゃおっかなかった。そん時は、オレに怒ってるんだと思ったんだ。大旦那やみんなの犠牲でやっとこ逃げ延びたオレが、大事な若を預かっておきながら勝手に諦めちまうとは何事だ、兼定の恥さらしめ──ってな」
「いや、僕はきみが生きていてくれたことに何より感謝していたし、同じ兼定として誇らしかったし、顔が怖いと言われるのは、まあそんな顔なんだろう。青江くんや鶴丸殿にもよく言われるっけ」
そんなに顔が怖いだろうか。和泉守はかぶりを振った。
「いんや、いいんだよ。あん時みたいに諦めちまいそうになったときには、やっぱりあん時みたいに怒った兄ちゃんの顔がふっと浮かぶんだよ。こりゃまずい、兄ちゃん怒らせるわけにゃいかねぇ、拳骨でぶん殴られることを思ったら、まだまだ全然やれる、って」
「そ、そう、かい?」
歌仙は何とも言えず、あいまいに頷く。大切にしているつもりの弟にじつは怖がられていたと知って、けっこう傷ついている。
「兄ちゃんが怒ってくんなきゃ、きっとオレの中の大事なもんがあん時折れちまってたと思うんだ。だから……」
和泉守は口をへの字に曲げて、そっぽを向いた。
「兄ちゃんはオレを怒ってくれるのがいいんだ」
【3-2 鋼の人】
「心とは火薬だ」と主の仙斎は言った。
関ケ原で大敗して仲間も自分も大怪我をして、敵の刀の強さに押しつぶされて腕に自信をなくし、握った刀が震えるのだと申し出た五虎退は、きっと刀解すら覚悟していただろう。戦えない刀に意味はないのだから。
手入れ部屋で刀の本体についた傷を癒している間、主は慰めるでも励ますでもなく、唾が飛ばないよう口に巻いた布越しのこもった声で、静かに言葉を紡いでいた。
「何にも心を揺らさず、鉄のように歩くなら、人の身などいらん。刀でいい。それが目に見えるものであれ、見えないものであれ、あるからには意味があるのだ。人の身になって心を得たというのなら、それが震えて揺らぎ、燃えさかって、あるいは凍りついて、千々に乱れるというのなら、それが今のおまえにふさわしい武器なのだ」
黒い髪を短く整えてある。賜った名のとおり仙斎茶の着物を好むその男は、やせ型でぶあつい眼鏡をかけた学究の態で、偏屈者の学生のようにも見えないことはない。
一目見て目つきが悪い。前の主もそうだった。くだけた着流し姿は、自宅に等しい本丸にいる気安さからというわけでもなく、これにストールを巻いて帽子をかぶって平気で出かけていく。僕は雅じゃないと必死で止め、和泉守は渋い顔はするものの、まあ現世じゃ今はそういうのが粋だっていうんだから、流行りじゃしょうがねえよなぁ、と見逃している。
上向きにした刃を抜き、目釘抜きの小槌を目釘に押しつけて抜き去る。茎を抜いてはばきを外す。ガラス越しの目がすがめられた。
「ああ、刃こぼれがひどい。罅も入っている」
「ご、ごめんなさい」
「すぐに終わる。苦労をかけたな。許せ」
柔らかくしたティッシュペーパーで刀身をぬぐい、ネルの布で古い油と汚れを落とす。砥石粉を吉野紙と綿でくるんだもので、刀身を丁寧に打っていく。
「心を思い通りの形に整えようなど、無茶を言わんでくれよ。人間でも死ぬまで持て余す。人の身を得て間もないおまえたちなら、斬るためにだけあった刀ならなおさら扱いが下手だ。おまえたちはなにも余計なことを考えなくていい。悩むのは審神者の仕事だ。おまえたちが肉で包んだ火薬は、審神者の采配で正しく使われる。それもまた戦の道具だ。肉と火薬の反応こそ、刀と人のあいのこの刀剣男士の戦い方だ」
横についていた僕は、幼い子どもの姿をした短刀を相手に、いつもながらのばっさりと斬り捨てるようなもの言いをする主にひやひやしていた。まさか人間を相手に同じことをやらかしてはいないだろうか。刀に育てられた影響なのか?
「主、きみときたら、言葉の選び方がどうもうまくないねぇ。審神者が一生懸命やるから刀剣男士の皆は大船に乗った気でいてくれと、素直に言えばいいんだ」
「言葉選びは兼定派譲りだ。悪いとは思わん」
主は手入れを終え、道具をしまいこんだ。五虎退は眉を下げたまま、じっと主の顔を見あげている。難しいことを考えているときの皺が眉間に寄っている。
「こ、怖いと思う気持ちも……ですか」
「恐れであれ怒りであれ同じことだ、良い審神者ならそれを使いこなさなければならない」
「いえ、あの、主様が向けるべき方へ向けてくれるなら、すこし楽になれる気がします。この不安も、怖い気持ちも……」
「ほらごらん、五虎退はこんなに素直だ」
主はじろりと僕を睨んだ。目つきが悪いせいでそう見えるだけで、誤解されやすいが、悪意はないと知っている。幸いながら僕には同じような目つきをした優しい兄がいたから、わかる。
「じつのところ、歌仙にこそ聞かせてやりたかったんだけれどなぁ」
「僕。ああ、よその歌仙兼定はけっこう感情表現が強烈だものね。僕の怒った顔が見たいのかい? ないない、きっときみは天寿を全うするまで一度も目にすることはないだろうねぇ」
「親父の本丸にいた昔は、雷神みたいな激情家で、些末なことでも雷を落としまくって皆に怖がられていたと和泉守に聞いたぞ」
「え……そ、想像もつきません。のん兄が、怒っているところなんて……」
五虎退が目を丸くする。弟がよけいなことを、と僕は苦く笑った。
【3-3 演練場】
先の禍刀剣討伐任務に失敗して以来謹慎が続く仙斎本丸に、演練へ参加せよとの通達が政府より届いた。
妖に堕ちた和泉守兼定を抱える本丸の審神者を見極めたいのだろうと察しがつく。
──見習いとして他本丸に身を寄せていた審神者仙斎の息子は、出向先からなにか箱のようなものに収められた賜物を預かってきたらしい。
見習いは、指導者の言いつけのとおりに本丸へ戻って賜物箱を開けた。とたんに強烈な呪いが発動し、手を触れた近侍の和泉守兼定が蝕まれてしまった。狂った和泉守は主を殺し、仲間を折って出奔した。
何らかの理由で主を強く恨んでいた同期の審神者が、その息子を狙って事件を引き起こした。それが現時点における政府の結論だ。呪具を差し向けられるほどの恨みを買った仙斎は白か黒か、政府は決めかねているようだ。
主はたしかに目つきが悪いし不愛想だし、言葉選びもうまくない。恨みを買ったことだって一度や二度で済まないが、後ろ暗いところはひとつもない。刀剣の手入れの仕方ひとつで、本丸の刀剣男士たちにはそれがわかっている。
僕らはもちろん政府が出した調査の結果に納得していない。
和泉守兼定以外の姿が消えた本丸には、瘴気になりかけた気配が漂ってはいたけれど、血の一滴も落ちてはいなかった。刀傷のひとつもなかった。
乱心した和泉守はたしかに練度を極めていた。だが、刀の付喪神たちが大勢いて、誰も抵抗ひとつしなかったとは信じがたい。
僕が最後に見た和泉守はまだ人の形をしていた。あのときすでに奴は化け物の姿で本丸を徘徊し、跡形も残さず仲間を喰らったあとだったというのか。
──之定。あんたは何も見ちゃいけねぇ。頼むから目ぇ閉じて耳をふさいでてくれ。
まだ正気を残していた和泉守の言葉が奇妙に引っかかる。あの刀はなにを見た?
なにを僕から隠そうとしていた?
思考は堂々巡りを繰り返す。らちがあかない。
呪いの箱を見習いに贈った出向先の審神者は、現在行方が知れなくなっているという──。
袖を引かれてふと我に返る。五虎退、秋田に前田に平野。短刀の子たちが四人、演練場に続く通りを歩きながら僕を囲んでいた。僕のうしろにはすこし離れて青江。今回の模擬戦闘に参加する本丸の第四部隊だ。
「まだ部隊長を初期刀にまかせているとは、よほど刀狩りの運がないと見えるな」
「初期刀のほかは短刀ばかりじゃないか。脇差もいるが、あれでよく生きて戦場から戻ってこられたなぁ」
耳を素通りしていたざわめきが、僕らにぶつけられた侮蔑だとようやく思い当たる。幼く感じやすい形をした短刀たちには、彼らのほうがよほど長い年月を生きてきたとはいえ、大人の姿をした人間からいわれのない悪意を受けるのは堪えるに違いない。
先をゆく前田と平野の肩を抱いた。秋田と五虎退が、うしろから行燈袴を小さく握ってくる。大丈夫だ。僕は成熟した身体と心を持って顕現した打刀だ。
この場にいない一期一振のかわりに、粟田口の幼い弟たちを守ってやらなければ。
「ん。よく見れば謀反刀剣の兄貴じゃないか」
びくりと、肩がはねるのを止められなかった。べたついた手で心臓を掴みあげられるような不快感がこみあげてくる。
「謀反刀剣? 裏切り者か」
「粛正部隊にいる知り合いに聞いたことがある。あそこの本丸で、堕ちて妖に変化した和泉守兼定が、敵も味方ものべつくまなしに喰ってしまった。『零式禍津』と呼ばれているそうだ。あれはその同派だよ」
「俺も担当に聞かされた。陰陽師の部隊が壊滅したってさ。ほかの本丸の刀剣男士たちも、折れたり喰われたりひどい有様だったらしい」
「身内から鬼を出しておいて、よくもおめおめと演練場に顔を出せたものよ。人も刀もどれだけ死んだと思っている。主も主なら刀も刀で恥を知らんと見えるな──」
「同派だろう。じきにあの歌仙も鬼に化けるんじゃないか──」
「あの二振りはもともと鬼の刀──」
「鬼──」
足が鉛のように重い。呼吸が速くなる。苦しい。笑顔を浮かべているのは、これほどにも難しかっただろうか。
僕の左隣にいる五虎退の目に、とうとう涙が滲みはじめた。袴を握る指に力がこもる。
「のん兄。そ、その……もう、帰りたいです」
秋田もぐずりはじめた。普段はこんなふうにわがままを言う子たちじゃない。皆が感じている不安がどれほどのものかが伝わってくる。
僕の主はなにを考えているんだ。本丸から謀反刀を出してしまった部隊が演練に顔を出すときに、白い目で見られることはわかりきっていただろう。
まして和泉守は他本丸の刀剣を折っているのだ。身内を殺された審神者と刀剣男士から、鬼と同じ本丸の刀が恨みを向けられるのはわかりきっている。
せめて、まわりに何を言われようと意に介さない性格の太刀や大太刀を選ぶべきだった。刀としての強さは関係ない。短刀に宿った幼い人の心が、大勢の視線の暴力にさらされて揺れずに済むと思うのか。
鬼の兄刀と子どもの姿をしたものを並べて飾って同情でも引こうというのなら、やりかたは最悪だ。そんな卑しいことを主がするとも思えない。
そもそも、本当に主がこの面子を選んだのだろうか。
ともかく今は、僕がしっかりしなければどうしようもない。大きい人間の姿をしたものは僕とにっかり青江だけだが、青江は我関せずを決めこんでよそ見なんかしている。
今の短刀たちには僕以外に頼る大人はない。弟を泣かせては一期一振に顔向けができないじゃないか。ひとつ息を呑んで、苦く微笑んだ。
「すまないね。僕の同派のせいで、関係のない君らまで悪く言われるのはとても心苦しいと思っている」
「いえ。僕らはともかく、のん兄が悪く言われるのは放っておけません」
「大丈夫さ、前田くん。僕ならば平気だ。なに、和泉守のせいで我が本丸が被った汚名は、僕が晴らしてみせる。同派の義務だ。よい働きをして主の戦績を上げれば、皆の見る目も変わるだろう。謀反刀剣以外の刀には何の非もないことを、きっとわかってくれる。いいかい、平野くん」
「……はい。のん兄がそういうなら、構いません。耐えましょう」
僕がみんなにかけた言葉は正しかっただろうか。正しいか間違っているか、判断もつかない。頭がまとまらない。せめてお小夜がいっしょに来てくれていたら──いけない。兄に甘えてどうなるものでもない。
些末は忘れてしまおう。演練任務をこなすことだけに集中するべきだ。物のように振舞えば楽になる。へし切長谷部みたいに主命を第一に考えろ。
気がつくと演練場の入口がすぐだった。少なくとも人間たちの陰口はここまでは聞こえてこないから、安堵する。あとは刀を振るって別の本丸の部隊と斬りあい、戦の真似事をするだけだ。
緑色の明かりがついたゲートをくぐる。僕らを構成するすべての時間が凍結されて保存される。本番が終われば、どれだけの重傷を負っても元の身体に戻る。仮に殺されても死ぬことのない、今ここに立っている僕は、時間軸から切り離された幽霊のようなものなのかもしれない。
このおそろしく便利な不死身の技術を、実際の戦場に持ちこもうとは、誰も思いつかないのだろうか。
さて、戦のことを考えよう。
こちらは打刀の僕と、脇差のにっかり青江のほかは短刀たちばかり。顕現した時間の長い僕は練度を極めている。頭ひとつ離れて前田が続き、ほかはばらばらだ。
先手を取ってたたみかけてしまうしかない。打ちもらすほどに硬い相手が短刀たちを狙うと、誰かが壊れてしまう可能性が高い。青江が僕と組んで良い働きをしてくれることを期待するか。
時間だ。指定された位置につく。模擬戦闘システムが開始。どことも知れない時空のはざまに転移した僕らの前に、どこまでも広がる乾いた平地が、日差しの強い青空が生まれ、演練開始のブザーが鳴る。
僕の部隊の短刀たちが顔色を変えた。
彼らは目がいい。相手の部隊をすでにとらえたか。
隊を構成する刀剣男士の詳細を知らされているのは審神者だけだ。僕ら刀は何も情報を与えられずに、戦場のプログラムに放りこまれる。試されているのは僕らの力ではなく主の采配なのだから。
短刀のうろたえようを見るに、大太刀が来ているのかもしれない。二振り以上組みこまれていたのなら、正直を言って苦しいが、機動の遅さにつけこめる。
やるからには主に首をささげたいし、強くなるために演練に来た刀剣が、のされて自信をなくして帰っても困る。勝つためにはどう動けばいいか、早く見極めてしまおう。
「み、見ちゃだめです……のん兄」
「そうですそうです。僕がそっと行って、パッと帰ってきますから」
五虎退に秋田が、僕を見あげて言った。
「どうしたんだい?」
「僕らがやりましょう。のん兄の手を煩わせる間でもありません。だから……」
「今すぐに目を閉じて、耳をふさいでください。すぐに終わります」
「前田くん、平野くん。気負いすぎだよ。勇敢なのは頼もしいことだけれど──」
仲間の刀が真っ青になっている理由はすぐに知れた。対戦を組まれた相手の部隊が姿を現す。
打刀は長曽祢虎徹に同田貫正国。脇差の堀川国広。短刀に薬研藤四郎。警戒していたとおり大太刀がいる。蛍丸。
隊長は、和泉守兼定だった。
「知ーらない」
青江が僕に背中を向けた。
【3-4 演練場、火花】
仮想敵部隊の隊長を務める和泉守が、僕を一目見てがっかりした顔をした。
「なんだぁ。てめぇ之定のくせに短刀連中に守られてるのか。よその本丸とはいえだらしねぇ。兼定がかっこ悪いとこ見せてんじゃねーよ」
前田と平野が和泉守を睨みつけた。本体を掲げて、小さな身体が前に出る。
「のん兄を悪く言わないでください!」
「あなたの相手は僕らで充分だ。覚悟してください!」
「は、必死に吠えやがる。のん兄ねぇ。之定は一期一振じゃねーっての。兼定が粟田口の長兄のかわりに兄貴役をやるほど、そっちの本丸は刀の数が足りてねぇらしい。せめてこのかっこよくて強い和泉守兼定がいりゃあなぁ──」
「兼さん。やめなよ。よその歌仙兼定さんに当たるの」
和泉守兼定。この男が本丸から消えた日から、僕は理性の覆いを心に張り巡らせて自身を保ってきた。
白い山形の染め抜きがされた浅葱色の外套を目に入れなければ、自信に満ちた明るい声が耳に届かなければ、毎日本丸にあふれている仕事に集中できた。目の前にいない弟のことを考えている暇はない。
今の僕の前に和泉守が立ちふさがるのは、偶然にしてはできすぎだ。政府は僕を試しているらしい。和泉守と同じ兼定派の歌仙兼定もまた鬼に変わるのではないかと危惧し、同業者がかけた呪いに一度完全にしてやられた審神者の手腕を疑っている。
僕がやるべきことは、いつもの攻め口で見知らぬ和泉守兼定が率いる相手の部隊を倒し、勝利を主に持って帰ること。練度は僕が上だ。心を静めて怒りを制御しろ。激情に支配されて我を忘れてしまったら、主の立場を貶める。本丸の仲間に更に迷惑をかける。
できる。やらなければ。だけれど刀身が震える。和泉守のあざける声が大きくなる。
「震えてんのか。おいおい、冗談だろう。へへ。もしかして、あの之定がオレにびびってるってのか?」
「のん兄。いけない」
ほら、前田がこう言っている。子どもの姿をしたものにいさめられるなんて恥ずかしいとは思わないか。
どうして目の前がぶれるんだ。火花が僕のなかを跳ね回っているんだ。目がくらむ。
「あんた、臆病者かよ。ほぉらかかってこいよ、弟に勝てねぇのん兄」
──心が燃え落ちた。
理性が落ちた。どうして目の前に現れた?
和泉守の目が、鬼でも見かけたように大きく見開かれた。浅葱色の目に僕が映っている。あの鬼と同じ眼が。
「──な、なんだぁ?」
火花が僕の胸の真ん中ではじける音を、確かに聞いた。炸裂した炎の勢いで、地を蹴る。心の中をあんなにも荒れ狂っていた怒りの雨が、感じられなくなっていた。今は僕自身が暴風になる。駆ける。敵に向かって、僕が殺す男に向かって。よくも。よくも──。
「和泉守ィイイイイイイイイイイイイイ」
腹の奥底から吼えた。自分のものではない力に振りまわされているような、あまりにも全身が軽い感覚が心地いい。手足が勝手に動く。普段なら決してやらない体の使い方にも躊躇いがない。
餌を狩るけだもののごとき刺突。首を狙ったのに、反応した和泉守の鎖骨を貫いただけに終わる。舌打ち。僕が殺す男の顔がゆがんだ。その驚愕の表情に、昏い喜びを覚えた。
突進の勢いをゆるめず、抱擁するように覆いかぶさり、広げた身体を網がわりにして和泉守にぶつける。倒れて転がり、土砂にまみれて喉の奥を癇癪で引きつらせながら、馬乗りになる。僕の本体を振り下ろす。肉へ届く前に和泉守兼定本体にはばまれる。口惜しい。恨めしい。憎い。
「こいつ! くそっ、重い……ッ!!」
歌仙兼定を逆手に持ち替えて、頭上に振りあげた。こちらの胴ががら空きになる。無防備にすぎるこんなやり方は、正気の沙汰ではないと知っている。
でも、どうでもよかった。何をされたって、どれだけ傷ついたって、僕が首を落とすと決めた以上、こいつの逸話はもう終わると決まっている。死人の口も刀も怖くない。痛くない。届かない。だから和泉守の鋭いところが、幾度僕のなかに入りこもうが関係ない。
僕が赦せないのは、この刀一振りごときへ向けた恨みつらみが頭の中を赤一色に染めてしまって、僕の名を生んだ三十六の首の形もわからなくさせること。上下左右どこを向いても真っ赤で、怒りの沼に溺れてもがいて、三十六歌仙と同じ数の細川の逆臣の亡霊が、僕の出口のない心の迷宮で迷子になってさまよっている。
我を忘れるとはこういうことなのだ。三十六人。僕の在り方そのものの数字さえ見失う。僕が僕でなくなってしまった。歌仙でも兼定でも刀でも刀剣男士でも人間でもない、ただの怒りだ。荒れ狂う暴風だ。形もない。
裏切り者の末代を三十七人目の首なんてきれいな形に昇華して、僕の物語を変えさせたりなんかしない。
贖わせなければ。取り返さなければならない、僕は、少なくとも三十六回、こいつを斬って落として灌がなければ、誇り高き歌仙兼定に立ち戻れない──。
「よくも主を、僕を裏切ったな。恨むぞ、恨むぞ和泉守兼定ァ。死ねェエエエエエエエエ」
声が裏返る。自制ははるか遠い彼岸に去った。甲高い金切り声、地を這ううなり声。喉から出る呪いの音は、波のように色を変える。
和泉守兼定を刺した。斬りかえすなら斬れ。なんということもない。赤い着物にとまった金の鳳凰を刺す。
傷ついて十年間満足に動かなかった手を刺す。冬の夜ごとに、ぎこちなく震える長い指に、息を吐きかけてさすってやったのだったか。早く弟の手の怪我が治って刀を握れるようにと祈ったのだったか。こいつは、兄ちゃんの手は働き者のかっこよくて強い手だなぁと褒めてくれたのだったか。刺す。指輪が飛んだ。骨ごと羽織を引き裂く。
あんたも開けたら似合うのにとうるさかったピアスを刺し潰す。僕と揃いの赤い紐で洒落て結んだ髪をざんばらに斬る、ちぎる、すり潰す。
吹き出す血の色がきれいだ。憎い敵の血の温かさとはこんなにも心地いいものなのだ。ますます憎悪がかきたてられる。
「僕を喰らうと戯言を吐いたな」
「し、知らね、オレは、なにも、あんたのところとは関係っ、ねェ」
唇を赤く濡らして、弟の顔をしたものが口をきいた。その顔をしたものが僕に口ごたえをする。許せない。また頭が煮えていく。
「この歌仙兼定を、貴様のような醜い鬼が喰らえるものか。僕は毒だ、お前を殺す毒だ和泉守兼定。死ね。死ねッ、死ね死ね死ね、首をッ、差しだせ、おまえの首ぃいいよこせぇ和泉守ィイイ……!!」
浅葱の瞳を念入りに潰す。僕が映っているのが、鬼の目に映った僕自身のまぬけな顔を思い出させて腹立たしい。そっと鼻に揃いの一文字傷を入れてから、また刺す。綺麗な弟の顔を潰す。割った額からやわく震える大脳が覗く。全部壊す。ぐちゃぐちゃで艶やかだ。
そして細くて長い首に刃をかけた。
うしろから六本の腕が伸びてきて、羽交い絞めにされた。長曽祢虎徹。堀川と薬研。和泉守の部隊の仲間だったか。僕は弟から引きはがされた。
「仙斎本丸第一部隊隊長歌仙兼定、そこまでだ。和泉守兼定はもう戦闘の続行が不可能だ」
「殺してやる。殺し、う、うぅ」
「刀を引け。あんたの勝ちでいい。……これ以上仲間を嬲られるのは見ていられない。鬼の所業だ」
鬼。
全身から力が抜け落ちる。
裂けた口で嗤う、炎のなかで見あげた鬼の幻が、僕の目の前に鮮やかに浮かんだ。僕はまだあの夜の炎の海の中にいる。肌を焼く熱も、僕らを取り囲む死のにおいも、現実そのものだ。幻影とは信じがたい。
──喰ってやる。之定。
──おまえ、うまいなぁ。
僕の分霊の血と肉と骨をすする水音が聞こえた。鬼の黒い牙が濡れている。食われた歌仙兼定の残骸が、目の前に落ちてきた。僕の全身が震えはじめる。鬼が満足そうに目を細めて、血肉にとろりと酔っている。
「う、うわぁあああああああああああああああぁッ……!!」
頭をかかえて、僕は絶叫した。
小さな手がとりすがる。短刀たちだ。
僕は、いったいなにをやっていたのだろう。ここはどこだ。炎が消えている。
あの鬼はどこへ行った。いない。消えてしまった。両手が真っ赤だ。僕はやったのか?
「……前田くん。平野くん。僕は……うまく和泉守を殺せただろうか」
よく似たふたつの顔が強く目をつむった。
「ああ。のん兄。おいたわしい……」
「僕らがついています。いなくなった和泉守さんのぶんまでお支えします。だからどうか、もとの優しいのん兄に戻ってください」
また選ぶ言葉を間違ったか。なにが正しかったのだろう。ぼくはどう振舞えばよかったのか。お小夜。教えてくれ。うまく息ができない。
急に冷えたペットボトルのミネラルウォーターを頭からぶっかけられた。目を白黒させていると、「はい、間接キス」半分残った水を喉に突っこまれて注がれる。「おごぇ」と変なうめき声が出た。
身体を半分に折って激しくえづいた。胃が空っぽになるまで吐く。涙と鼻水を垂らして痙攣している崩れた顔面を、前田と平野が、汚れるのもかまわずに拭いてくれる。
五虎退が僕の頭を抱き、秋田が背中を撫でてくれていた。なんだこれは。僕は、なにをやっているんだ。無様すぎる。
「頭、冷えたかい? 歌仙くん」
「あ……おえ、くん」
青江はいつもどおりの含みのある笑顔を浮かべて僕を見下ろしている。こんなに内面が表に出ない顔が心底うらやましいと、このときばかりは僕は思った。
「あのよその和泉守くんは、君がいる僕らの本丸がうらやましかったみたいだ。どれだけ慕えども現れない、気になる歌仙兼定についちょっかいをかけてはみたけれど、かわいそうにあの仕打ちじゃあ、彼の本丸にこれから君の分霊が来ることがあったら腰が抜けてしまうだろうね」
目玉を動かすと、血しぶきとなった和泉守兼定が光の粒へと変わっていくところだった。
演練が終われば死んだ刀は肉体を再構成されて蘇る。仮想の戦が始まる前に記憶した姿に立ち返る。ここは誰も死なない場所だ。
だけれど痛いものは痛いし、恐怖も屈辱も本物だ。肉片になるほどめった刺しにされて死んだ経験を、僕の逆恨みを受けた和泉守兼定はこれから抱えて生きていく。
「あなたは狂っている。歌仙兼定」
相手部隊の堀川が、怒りで目のふちを赤くして僕をなじった。虚勢を張った獣に似ている。決して勝てないと悟った相手へ、精一杯の敵意をぶつけてくる。和泉守兼定の相棒として、それだけはやらなければならないことなのだと、引き結んだ唇が語っている。
白い布の幕が現れて、堀川の姿が見えなくなった。青江が僕の前に立っている。
「そうだね。でも、悪いかい? 狂っていたって強ければ弱い刀よりもよっぽど価値がある。言っちゃ悪いけれど、君のとこの隊長がボロボロになっているのは練度不足が原因だよ。ここ、演練場だよ? 刀が練度を競う場で、うちの最高練度の隊長殿が我を忘れるほど本気で相手をしてくださったんだから、名誉なことだと思わないかい」
「青江くん。やめろ」
青江が僕を見た。相変わらずよくわからない笑顔だ。
「僕を甘やかさないでくれ、って? 歌仙くん。意外と感じやすいんだね。優しくされたら泣いちゃうかな?」
「うるさいな。きみが正論を喋ると変な感じなんだ」
「ひどい」とぼやく青江を押しのけて、僕は堀川に頭を下げた。そうするしかなかった。和泉守兼定の血で、もとの着物の色もわからなくなった有様の僕を前にして、小さな身体がこわばるのが苦しい。
「申し訳……なかった。関係がないのに、八つ当たりをした……。僕は……きっと、きみの言うとおりに狂ってるんだろう……」
「歌仙くんは悪くないよ。全部僕らを裏切った憎き和泉守兼定のせいだから。あのね、関係のない刀までいわれのない疑いをかけられて、歌仙くんだけじゃなくてみんな怒ってるんだよ。今度会ったら僕らみんなであの謀反刀に責任を取らせよう。主の汚名も晴れるはずさ」
青江が僕の腰を支えて立ちあがらせてくれた。変なところを掴むなと文句を言う前に、手を引かれて歩き出す。短刀たちが、なにも言わずに付き従ってくれるのがやるせなかった。
「君の本気の殺意、きっと伝わったよ」
青江が天気の話でもするようなとりとめのなさで、そっと囁いた。
「同派に裏切られた歌仙兼定としては満点のふるまいだったと思うよ。謀反刀の弟との関係を疑われることは、もう二度とないんじゃないかな」
僕はうなだれたまま唇をかみしめる。
「あの隊長くんはかわいそうだったけど、少しは審神者たちの同情が引けたかもしれない。歌仙兼定をここまで追い詰める和泉守兼定はなんてひどいやつだろうって。君の強さと覚悟も示したし、政府は僕らにもう一度機会をくれるだろう。討伐任務、待ち遠しいよね」
「青江くん、きみって気がききすぎてたまに怖いよ」
「のん兄がにぶいだけだよ」
青江が、演練場の外に出た途端に綺麗になった僕の外套をめくって、頭から突っこんでくるまった。したいようにさせながら、半目になる。
「そういう子供みたいな悪戯をするときのきみって、どういう顔をしてるんだろうね。あと、きみにのん兄って呼ばれると背中がむずむずするよ」
「僕も下の子なのだけれどねぇ。一人寝がさみしいなら、次の和泉守くんが来るまでは弟のかわりと思ってくれていいよ」
「来たらどうなるか知ってるだろうに……」
和泉守が消えてから、あの刀が僕らの本丸に顕現しなかったわけじゃない。僕の目の前に現れたその刀は、気がついたら砕けている。折れている。静かに終わっている。無意識のうちに、僕は出会ったすべての和泉守兼定を殺す。
「うん」青江の声が含む笑みを強くする。「だから、いいんだよ、って言ってるんだよ」
時折、青江のにやけ面は笑顔なんかじゃないのかもしれないと思う。今は、とくに強く感じている。
だって、僕ならこんなときに笑えない。どんな顔をすればいいのかわからない。感情をうまく隠す方法を知らないから、無様な顔をさらけ出すしかない。僕が知らないまま過ごして不足がなかったその方法を、青江は知っていてうまく使っている。
にぶい僕にわかるのは、青江が隠れて努力を絶やさない性質をしていること、友人として僕のことをとても心配してくれているということくらいだ。このくらいはせめて気がつけて良かった。
「でものん兄はやめておくれね。呼んだらきみの名前にちゃんをつけて呼ぶから。恥ずかしくて嫌だろう」
「え、僕としては恐悦至極なんだけど──」
白い外套が僕の頭をくるんだ。「おかえし」と青江がほくそ笑んでいる。僕にちょっかいをかけているように見せかけているつもりなら──珍しくうまくいっていない。
「鬼だ……」「鬼」「はは、弟が鬼に化けたと聞いているが、あの顔ではどちらが鬼かわからんな」「化け物の兄も化け物ということだ」「あれもいまに……」「妖と化すに違いない」
演練を見ていた人間たちのざわめきが布越しに聞こえてきた。声に僕への恐怖が多分に含まれている。
それを静かに受け入れた。耳をふさいで目を閉じて、それでいったいなんになるんだ?
【3-5 不安の種】
演練場を出た僕たちを、主が迎えに来てくれた。何を言われるかと思うと冷汗が出た。僕の無様な姿は全部主に見られていたうえに、ほかの審神者や政府の連中の目に入り、細部まで記録されている。
主は拍子抜けしてしまうほど僕を責めずに、ひとつ頷いただけだった。
「任務は済んだ。帰るぞ、おまえたち」
「あ、ああ」
僕らは主のあとに続く。
ゲートの手前の保安検査場で、検査員に呼び止められた。主に厳しい目を向けている。
「仙斎殿。貴殿の本丸の刀剣のことで、少々詳しくお話を伺いたい。悪いがすこし時間をいただけますかな」
どうやら僕の馬鹿な振舞いのせいで、主の信用はがた落ちだ。本丸の在り方についてのあらぬ疑いまでかけられている。歌仙兼定は初期刀失格だと青くなっていると、見知った顔が助け船を出してくれた。
「おい、勝手な真似をするな。仙斎殿に無礼な真似は許されんぞ」
主の担当者が来てくれた。うちの本丸とは古くからのつきあいで、亡くした奥方の血縁だと聞いている。もちろんこの人は僕らの主に何の落ち度もないことを知っている。審神者に不当な疑いをぶつけた輩を追い散らし、身内の前で相好を崩した。
「部下が申し訳がなかった。気をつけて戻られよ。何なら送らせてもらう。すまんな。神経質になっているのだ。あんな……刀剣男士が鬼になるなどという、とんでもない事件があったあとだからな」
「わかっています。こちらはなにも後ろ暗いところはない。言わせておけばいい」
僕は安堵の息をついた。やはり主は強い人だ。
担当者が僕に目を向けた。瞼をすがめ、ちかりとその目に火花が散ったように見える。気のせいだろうか?
「演練を見ていたよ歌仙殿。昔から強かったが、本丸をひとりで背負うようになって、さらに強くなられたものだなぁ。仙斎殿、本式の刀だろう。あの、大きい方の」
感心した様子で僕を見ている。本式?
書類の上における初期刀という意味か。僕の本丸の事実上の初期刀は、前本丸から焼け残った僕と和泉守兼定の二振りとなる。たしかにもう和泉守兼定よりも『大きい方の』、年上の僕しかここに残ってはいない。本式といえばそうだろう。
主は無表情だ。光の加減か、鮫のように無機質な冷たい生き物の目に見えてぎくりとする。この人はこんな目をしていたか──。
「我が本丸自慢の初期刀です。和泉守兼定不在の穴は、この歌仙が埋めてくれますよ」
「君らには期待している。私のほかの者も、大勢な……」
本丸に繋がったゲートをくぐる前に、主が静かに僕をねぎらってくれた。
「よく燃えていた、歌仙」
「え?」
「美しい炎だった。上の奴らも満足だ。誰もがおまえに見惚れていた。あれでいい、歌仙」
僕が何も言えないでいるうちに、主は先へ先へと歩いていく。不満そうにぼやく声が、いやに遠く聞こえる気がした。
「しばらく演練への出場を禁じられた。謹慎を続けよとのことだ。強さを示して罰はいただけんな」
「主」
──なにを言っているんだ? 主。僕は醜い姿をさらしただろう。こういうときは、叱るものだよ。
また言葉の使い方がうまくない。諭してやらねばならないか。慰めにしても下手すぎる。
表に出さずに、考えを顔の皮の下ですべて処理しているから、わかりにくい男だった。これでもきっと内心気が動転しているんだろう、と思う。
結局僕は何も言えなかった。
もしも言葉を取り違えているのでないとしたら──そう考えてしまって、僕はあろうことか赤子のころから知っている愛すべきこの審神者のことが、すこしだけ怖くなってしまったのだ。
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