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禍津騙(4)
【4-1 土牢】
闇の中で沈む。黒い水に浸って、身体は冷えきっているはずなのに、ずっと熱に浮かされているような感覚だった。
穢れが僕の全身を蝕んでいる。
本丸を抱える浮鷺山中腹には、昼なお暗い森の奥に洞窟がある。冷たく澄んだ泉が湧き出していて、日ごとの禊の間だけは、内側から見えない火にあぶられて焼けただれていく激痛を忘れていられた。
それでも清らかな水は、一向に心を晴らしてはくれない。澱みは僕から滲みだしてきて、灌いでも清めても神気を澱ませていくばかりだ。
これでは僕自身が蠱物そのものではないか。
いつしか混濁していた意識が、僕の形を取り戻していく。土牢にいる。注連縄で四方を囲まれたなかに、新しい白装束を着せられて床に寝かされていた。
視界の端で紙垂の影が揺れる。石の格子を隔てて、御幣を振って大祓詞を奏上する石切丸の姿があった。傍らに三日月。目覚めた僕に、おっとりとした微笑みを向けてくる。
「気がついたか、歌仙」
「三日月殿。僕は、どうなっているのですか」
「禊の最中に倒れたのだ。おまえを見つけた山伏に担がれて帰ってきた。触れた者が火傷を負うほどの高熱を出していてな」
「それは……申し訳なかった。みっともない姿を見せてしまったね」
石切丸が唱え言を止めた。
「君の身は厄を背負いすぎて、とうとう瘴気を生み始めている。本丸に不浄の気を振りまいては、主や仲間に影響を及ぼしかねない。だから、なるだけ母屋から離れた土蔵に封じさせてもらったんだ」
「石切丸殿。僕も鬼になるのだろうか」
いつかの演練で、見知らぬ人々に投げかけられた言葉を思い出していた。
──あの歌仙兼定は、鬼と化した和泉守兼定と同じ刀派だろう。
──弟が鬼なら、いずれ兄も鬼になるに違いない。
怒りに呑まれて心を膿んだ僕もまた、和泉守と同じ醜い妖に成り果てるのだろうか──。
あの鬼を殺すべく自身を高め続けてきた僕が、憎い敵と同じ穴のむじなになるというのは皮肉が過ぎる。
だけれど鬼になるならなるで、和泉守を折れるなら僕はどうなったってかまわない。奴を、兼定の恥をのうのうと生かしておけるものか。折るのは僕だ。必ず殺す。
石切丸はなにも言わない。そのかわり、僕のように揺らいでいるところを一度も見せたことのない三日月が、神のくせに人よりも穢れた僕を叱った。
「斬って殺すは刀のさだめ。だが歌仙、いったい何を斬ってきた。どこの誰の血に刀を浸してきた。刃の欠けたところから悪いものが染み、おまえを中から侵したのだ。兄がそのざまでは弟を叱れんではないか」
「すべては主のために。僕は、間違ったことなどなにもしていない」
「兼定の子は頑固だ。じじいもかなわん」
三日月が眩暈を起こしたふりをして、口もとを袖で覆う。闇一色の土蔵の奥から幼い少女の声が響いた。
「──おじじ。歌仙は大丈夫なのですか」
「うむ。すこし熱が出ていたが、もう心配はないぞ。孫や」
「よかった……」
僕の主の娘だ。警護を任されている三日月は、幼い彼女に『おじじ』と慕われている。
主は、母親そっくりの霊気を宿す娘が、母を喰って味を覚えた時間遡行軍に狙われるのではないかと危ぶんだ。土蔵に結界を張って外界から隠したのだ。十にも満たないこの娘は、仲の良かった弟の末路も知らされないまま、日の光も射しこまない座敷牢に長らく閉じこめられている。
癒しの霊力に満ちた土蔵の空気は清らかだ。穢れに蝕まれた身体が少しだけ楽になる。
まだ僕は僕だ。まだ先へいける、大丈夫だ。
妖に堕ちれば主は僕を解く。歌仙兼定は裏切り者の弟を生かしたまま散るわけにはいかない。奴の首を斬るまで持ってくれ──。
「歌仙。苦しい恋でもしているような顔だぞ。細川の刀に相手の心変わりは許しようもないか」
「にっかり青江みたいな茶化し方はやめていただきたい。僕の顔はもともとこんなふうにできている。昔、鬼のような顔だと言われた……あれがまともだったころのことだけれど」
「ひどい。之ン兄はそれはそれはかわいい顔をしているのになぁ。そこにじじいがいたら、意地悪を言う弟の尻をひっぱたいて叱ってやったのだが」
三日月が眉を寄せた。
「かわいそうに。まあ、どーなつでも食え」
つまようじに刺した甘いにおいのするものを、僕の顔の前に押しつけた。唐突だ。困惑していると、三日月は鷹揚に頷いた。行燈の炎が夜空色の瞳に燃えうつって光る。
「どーなつ……ですか」
「うむ、どーなつというのだ。半分に切ると三日月のかたちになるところが、俺に向いていると思う。どうだ、じじいの料理の腕もなかなかのものだろう」
「三日月殿が手ずから作られたのですか?」
血の気が引いた。すがるように格子を掴んで首を伸ばした。
「その……大丈夫でしたか? 失礼ながら貴殿が厨に立ったとき、火や油を触ってなにかよからぬ事故は起こりませんでしたか? 燭台切が失神していませんでしたか? 短刀たちに怪我などは?」
「まったく信用されてない。聞いたか石切丸。歌仙がひどい」
石切丸が拗ねた同派を見て表情をやわらげた。
「まあ三日月は炊事場に寄りつきもしなかったから、歌仙君の不安は無理もないんじゃないかな。この男はやって楽しいことなら、大体はそつなくやれるようになる。ほかの者と同じだよ。そうだね、飽きないように君からも褒めてやってくれないか」
「そうだ、歌仙、褒めろ」
「えぇ……」
石切丸がもう一度、御幣を僕の頭の上で振った。
「歌仙兼定君。今は本丸じゅうの刀が総出で、主の両腕の不在がどれほどのものかを身をもって感じている。君一振りの大切さを噛みしめているところだよ。まずは君を慕う者の目をしっかりと見返してあげるべきだ。さて、燭台切が過労で倒れてしまってね。洗濯係を任された山姥切と書類仕事を回している鶴丸がどうも神経をやられたみたいで、君の次は彼らのところへ行くんだ」
さすがの燭台切でも、ひとりで本丸中の刀の面倒なんて見きれるわけがない。洗剤を与えられた山姥切にそろばんを持たされた鶴丸なんて、僕が馬係の札を首から下げられるような思いをしているはずだ。初期刀がふがいないせいで、みんなをかわいそうな目に遭わせてしまった。
「本当に申し訳ない……」
「なに、好きでやっている者もいる。俺はおやつを作る係だ。甘味はいい。人の心をほぐしてくれる。とくに子どもらが喜ぶ顔を見るのがじじいは楽しみなのだ」
得意そうに自分の美しい顔を指さす。
「三日月殿。迷惑をかけてすまない」
「俺の仕事だ。取らんでくれよ歌仙。孫に作ったどーなつだが、今日は歌仙がいっしょでよかったな」
「はい」
「食ったことはあるか」
「……一度だけ」
この本丸に来る前のことだ。僕が初めて呼ばれた本丸で、前の主が現世に出かけた折に、土産に持って帰ってきてくれたことがある。
当時はまだ僕と和泉守はなじみがなかった。ドーナツチェーン店の紙箱を抱えて、堀川と手分けして本丸をまわっていた弟が、最後に僕のところへ来てぶっきらぼうに差しだしてきたのだ。
『これ。主の土産』
『皆のぶんはあるのかい』
『全員もう食っちまったよ。あんたもさっさと腹に入れときな、之定』
油でべたべたしていて、砂糖やナッツやチョコレートが暴力的にまぶしてあって、雅はもとよりおいしそうだとはとても思えなかったのだけれど、二振りで縁側に並んで座って食べた。とてつもなく甘くて頭が痛くなるほどだった。
和泉守はシロップのしみた生地を食む僕を珍しそうに横目で見て、大口をあけてほんの二口で呑みこんでしまうと、いつも一緒にいる仲間のところへ駆けて戻っていった。
あの頃は和泉守兼定にどういうふうに接していたのだったか、今となっては僕にはよく思い出せない。いつも弟は新選組連中でつるんでいたし、僕は僕で厨と洗濯場を往復しているか、執務室で近侍の長谷部と並んで悲壮な思いで計算仕事をやっていた。
接点は同じ兼定派というだけ。練度も打たれた時代も趣味嗜好も性格も正反対だから、お互い「ああ、あの」とか「へえ、そういえば」という感じはあったけれど、意識しあうことはほとんどなかった気がする。
僕と和泉守の記憶の大体は、初めの本丸が落ちた日に炎のなかから始まっている。笑うのも泣くのもうれしいのも悔しいのも悲しいのも、好きなのも嫌いなのも、心配したり怒ったりその他の言葉にならないいろんな感情も全部、僕ら兄弟の思い出はそこから始まっている。
「どうだ、歌仙。どーなつの味は。おまえの意見が聞きたい」
いかにも甘くて、だけれどあのときのように頭が痛くなることはない。すこしだけしょっぱくて水っぽいけれど、おいしい、と素直に思った。
「うん。とても……おいしいよ……」
「そうだろうそうだろう。餡子をのせるとまた美味くてな──」
三日月は何度も得意そうに頷いた。それが二度目の本丸で口にした、最初で最後のどーなつだった。
【4-2 入電】
政府から、審神者仙斎の息子が見習いを勤めていた本丸の座標を特定したと入電があった。
発見者は他本丸の第二部隊。遠征任務後に本丸に戻ろうとして、偶然の転移事故により、時空を漂流している問題の本丸に辿りついたという。部隊長から報告を受けた政府の調査班が現地に入ることになった。
そこで被害者の父親の仙斎を現場に召喚し、共に問題の本丸の探索にあたってもらいたいと、担当者が言うのだ。
折しも仙斎は妻の命日のために、平野を連れて現世に出かけている。それでは審神者の親代わりの歌仙兼定を連れていこうということになった。主が幼いころに審神者の代行をしていた歌仙になら、なんでもわかると無茶を言う。
ここしばらく歌仙は、熱を出して起きあがることもままならない。「俺が行こう」と申し出た三日月を、娘を守る役割があるだろうと、当の歌仙が諭した。
出奔した和泉守に関わる呪いの出どころを、やっとつきとめたのだ。任を譲る気はない。もし何かあれば置いていってくれてかまわない──そういう理由で、歌仙が出ることになった。
呪いのからくりがわかれば、和泉守を救うことができるかもしれないと期待する者もいる。優しい短刀たちに、歌仙も同じ意見だ。和泉守兼定が鬼と化した原因が判明すれば──思ったよりも苦労せずに殺せるかもしれない。
歌仙は、練度を極めた歌仙兼定の分霊を、抵抗も意に介さず喰ってしまった化け物の相手をするには、自身の力はいささか心もとないと感じていた。
──弟はやってはならないことをした。呪いが解けてもなかったことにはならない。過ちを消すのは時間遡行軍の仕事だ。罪は贖わなければならない。身内殺しは慣れている。
子どもの姿をした仲間たちにまた心配をかけてしまうだろうから、歌仙は何も言わずにただ黙って微笑んでいる。
件の本丸へ遠征調査に向かうにあたって、部隊を結成することになった。隊長は歌仙兼定。鶴丸、同田貫に大倶利伽羅、前田と厚。ほかは戦や遠征に出ていたり、手入れ部屋に入っていたり、孫の面倒を見ていたりで、非番の者をかきあつめてきたような面々だ。
「小夜左文字がいれば、頑固者の歌仙も言うことを聞いてくれたんだが。鶴よ、年長のおまえがしっかりみんなを見てやるのだぞ」
三日月は、顕現したての短刀をよろず屋へお使いに送り出すような顔をしている。この本丸の刀は皆、打たれて初めての人間の赤子の子育てにきりきり舞いするかつての初期刀たちのような、心配性の気がある。刀は主の心を映すというが、初めの刀の内なる心も伝わるのだろうか。
ゲートを開いて出かけしなに、歌仙は本丸の担当者と一言二言かわした。
「歌仙殿は、主の命令ならば弟を殺せるか」
「今更なにを言われます」
歌仙は嗤う。主の命令ではない。歌仙の意志で兼定の恥を消すと決めた。
「だが、相手は鬼だぞ。いくら強くても、ただの刀が鬼に勝てまい」
「いいえ。この身が奴に喰らわれようが負けるものか。たとえ死しても彼岸から這い戻ってきて、僕は奴も道連れにしてやる」
「そうか。安心した。行ってこられよ」
朗らかに歌仙の背を押した人間は、すれ違い際に、「鬼など喰ってしまえばいいのだ」と囁いた。
【4-3 漂流本丸】
ゲートの転移先は、驚くほど静かな本丸だった。耳鳴りがする。瘴気になりかけの空気が音を吸いこんでいるのだ。和泉守兼定が妖となったあの日の本丸とよく似ている。
政府の調査班とすぐに合流できた。担当者の部下が来ている。スーツ姿が一人、式服の陰陽師が二人。いまは別部隊に事情を聴いているところのようだ。
「仙斎本丸第二部隊到着しました。隊長の歌仙兼定です」
「こちら、調査班十二号です」
スーツ姿のまだ若い女性が応対してくれた。黒ずくめで顔を隠しているから、後見の黒衣のように見える。
「規則により真名は刀剣男士様には名乗ることができませんので、この名前でお願いします。仙斎本丸歌仙兼定様。お噂はかねがね。お会いできて光栄です。……いかがされました。私の顔になにかついていますか?」
「弟のせいであなたがたの部隊に甚大な被害が出たと聞いていたものだから、てっきり僕も恨まれているものとばかり」
「たしかに当時壊滅した禍刀剣折部隊に友人が所属していました。でも銃が、たとえばMAC-10が暴発したからって、同派のMAC-21に恨み言を吐く者がいるでしょうか。戦場に身を置く者はこういうこともあると割り切っています。まして人の領域を超えた物を扱っているのだから、しょうがないですよ」
調査係の官吏はあっけらかんとしている。なんというか、物である僕よりも物のような喋り方をする人だ。
「歌仙様、審神者様を悪く言うつもりはなく、事実を述べているだけだと聞いてください。悪いのは物を使っていた人間の手入れの仕方かもしれない。きちんとしていたなら、それは保管時の環境の影響か、戦場での扱いに問題があるのか、元々が粗悪品だったか。事故原因の究明が我々の仕事です。二度とこんなことがないようにしないといけない」
「そう……ですね」
理系だ。苦手な人種だ。なにより初めて会う相手だし、会話がつらい。
「まあ、我々が『零式禍津』に不満があるとすれば、おかげで最近休みがまったくとれないという程度ですかね。あのあと異動があって、多くの者が今の地位を手に入れたので、鬼がいなければ今頃まだ雑務にかかずらっていたと感謝している者すらいる」
調査員は和泉守兼定を人として見ていない。そればかりか、仲間も敵も人も道具も変わらないのだと言わんばかりだ。刀と人と刀剣男子を見定める者には、機械のような割り切りが必要になるのだろうか。
なにか哀しい気持ちがしたが、怒りを物にぶつけないだけ害がない。
漂流本丸の玄関で別部隊と顔を合わせた。顔ぶれは偶然にも僕と同じ歌仙兼定、堀川国広、小夜左文字の三人だ。僕の顔を見て堀川が息を呑む。
「あなたは、あのときの……!」
「すまない。どこかで顔をあわせたことがあっただろうか」
「演練でうちの兼さんを殺した歌仙兼定でしょう」
「ああ。偶然だね。僕が最後に出た演練の──和泉守か」
僕は微笑みながら、ささくれはじめた心を静めるべく、自分の左手のひらを本体で貫いた。僕を睨んでいた堀川が凍りつく。
「は?」
「妙なことを気にする。なあ歌仙。演練で叩きのめされる奴は、練度不足が原因だろう」
鶴丸が不思議そうにまばたきをする。堀川は和泉守をとても大切にしているからだと説明すると、猫可愛がりは違うんじゃないか、と首をかしげている。
うちの本丸では和泉守が僕と並んで飛びぬけて強かったから、堀川は相方に追いつこうと毎日必死に戦っていた。戦から戻るたびに、ぼろぼろになった堀川の世話を焼く和泉守の姿を、皆は見慣れている。
その努力家の堀川国広も、和泉守に喰われてしまった。
よその堀川にも弟の分霊にも、八つ当たりをしてしまったことは悪いと思っている。だけれど、また和泉守兼定の姿を見かけてしまったら、僕には自分がどうなってしまうかわからない。顔を見ないことにするのが一番だ。
「もし和泉守と鉢合わせをして、僕があの顔を相手になにかしそうになったら止めてくれ鶴丸殿。斬ってくれていい」
「爺の細腕で? こんな華奢で儚げで可憐な鶴さんが? 俺に激昂のマッチョを取り押さえろってのかい?」
「太刀だろう。貴殿は僕より強い」
「たしかに刀を振りまわすのは猛烈にうまいと自負しているが、その筋肉に捉まったら紙くずみたいに握りつぶされるんだろう。鶴知ってる。練度と刀種は喧嘩に関係ない。勝つのは筋肉」
気味が悪そうに、堀川が僕らから離れていった。そのかわりに彼らの部隊の歌仙が、共同任務にあたることになった僕らに不在の仲間の行方を教えてくれた。
「僕らが迷いこんだこの本丸は、座標の設定装置に不具合があったそうだ。漂流していたのはそのせいだね。こんな面倒な機械を政府以外の誰かがいじれるものでもないから、事故だろう。生体反応はない。審神者も刀剣男子たちの姿もなくて、無人のはずだが、どこかで物音がすることがある。ここの皆は、刀に戻っているのかな? でも今のところ顕現を解かれた刀の一本も見当たらない。僕らの部隊の和泉守が、審神者の執務室を見てくると出かけた。山伏は離れへ、鯰尾は母屋だ。四半刻ほど前かな。まだ戻らないよ」
「空気が……まだ息ができるし、苦しくないけれど。悪いものになりかけています……」
歌仙の行燈袴をつまんだ小夜左文字が、僕の顔を探るように見あげた。「何事もないといいけどねぇ」、僕は眉を下げる。他の本丸とはいえ、お小夜の分霊に嫌われるのはつらい。ふたりには悪意がないことを表明しておくべきだ。
「あなたは……復讐を望んでいるの」
「そうだよお小夜。今の僕には、大切なものを奪った刀への復讐こそが使命なのさ」
「……そう」
複雑そうな顔をしたあとでほのかに頬を染めて、「お揃いですね」俯く。お小夜に僕の在り方が気に入ってもらえてよかった。
「なるほど、どうりで顕現してすぐのとき、近侍の和泉守兼定が僕の顔を見て腰を抜かしていたわけだ。よそよそしいし、近寄ると蕁麻疹が出る。この之定が一振りが末にここまで嫌われるなんて思いもしなかったから、同じく弟に嫌われている長曽祢殿と妙にうまがあって、よく呑んでいたのだけれど。ようやく理由がわかったよ」
「すまない……。僕のせいで大変つらい思いをさせてしまった」
「いや、無理もないよ。分霊から鬼を出すなど和泉守兼定の名そのものの責任、ひいては兼定全体が負う責任だ。すべての和泉守を許さないというきみの姿勢は正しい」
分霊が僕を慰めてくれる。彼のところは僕のせいであまり兄弟仲がよくない。はたして兄弟であるかすら怪しい。よその兼定は、せめて僕らのかわりに仲良くあってほしいと考えるのは勝手が過ぎるか。
よく考えてみれば僕と和泉守は、元々接点がなければ他人とそう変わらない関係だった。
大きな音を立てて、誰かが廊下奥の階段から転がり落ちてきた。赤い着物、つややかな黒い長髪。和泉守兼定。身体は傷だらけだ。鶴丸にけしかけられた大倶利伽羅の腕が、僕をうしろから羽交い絞めにした。
「伽羅坊、しっかりロックしておけ。なに、よその堀川、うちの歌仙には安全装置をつけてあるから大丈夫だ。いきなり噛みついたりしない」
和泉守は僕にすぐに気がついた。喉を潰された蛙のようなうめき声を出す。
「ゲッ、之定……! あのときの……!」
「きみはいつも傷だらけだね。今日は何もしないよ。任務で来ている。ここは演練場じゃない。きみを殺したら僕は処分される。そしたら僕が殺したい和泉守兼定を殺せない」
「あんたのそのオレの分霊へのゆるぎない殺意は。いや。話はあとだ。刀を一振り見つけたが、様子がおかしい。いきなり襲いかかってきやがった。三人でなんとか押さえこんで縛って、今、山伏と鯰尾が話を聞いている。その……」
堀川を見ている。理由は明快だ。彼が見たものはおそらく──。
「山姥切だったかい?」
山姥切国広は堀川とは兄弟だ。この本丸の近侍を務める初期刀に違いない。和泉守兼定が目を丸くする。
「どうしてわかった。あんたはオレの心まで読むのか」
「急ごう。ふたりが危ない」
踏みだしかけて眩暈に襲われた。身体が熱い。僕を押さえていた大倶利伽羅に支えられる。わかりにくいけれど、触れた肌に小さな火傷を作っていた。
「あんた、大丈夫なのか」
「ああ」
和泉守に先導されて、乱心していたという山姥切のもとへ向かう。
執務室の隣にある書庫で、ぼうっと立ち尽くしていたのだという。なにしろ三人がかりでようやくおとなしくなったくらいに力が強いから、移送にはさらに人手が必要だろうと和泉守が語った。
人の手で作られた景色は夏の昼下がりのもので、まだ日は高いのに、廊下がいやに薄暗い。なにもかもがあの日と似通っている。
「手前みそで恐縮ながら、この仙斎本丸初期刀の歌仙兼定は練度を極めている。僕の腕がどれほどかは知っているはずだね」
「ええ。兼さんを殺す人ですから」
堀川が目つきを鋭くした。笑顔ではない彼に敵視されて、しかも嫌味を言われる。変な気分だ。
「でもあの時、奴には一太刀すら浴びせられなかった。僕が助かったのは偶然だ」
たまたま建物が崩れて下敷きになった僕を見失って、鬼がどこかへ行ってしまわなければ、僕はここにはいない。分霊と同じように、小鳥の羽をむしるように簡単にばらばらにされて腹の中だ。
「討伐隊に僕と同じくらいの強さの歌仙兼定がいた。一瞬で食われたよ。状況は同じだ」
「この本丸の近侍も、和泉守のようになる可能性があるってか?」
「だろうね、鶴丸殿。僕ら全員で無事に帰れることを信じよう」
二階の書庫に辿りつく。柄に手をかけて扉を蹴り開けた。
「山伏殿。鯰尾くん」
濃い錆のにおいが鼻先を漂う。
四方、天井まで本で埋め尽くされた部屋は、誰のものとも知れない血で、一面真っ赤に染まっていた。
【4-4 山姥切探し】
和泉守が縛って転がしておいたという、漂流本丸近侍の山姥切の姿はすでになかった。他本丸の山伏と鯰尾もいなくなっている。
二振りはすでに山姥切に殺されて喰われてしまったあとだろうか。それにしては、いまだに瘴気になりきらない空気が不可解だった。こんなに胸騒ぎがするのに、本丸の空気は日常のにおいを留めている。
「知覚できないだけじゃないか?」
鶴丸が言った。
「知らないものはわからないだろう。よくわからないがなにかやばそう、という感じなんだよな」
「鶴丸殿は、やばそう、と感じているのかい。貴殿の勘は変な当たりかたをするからねえ」
「うーん。蟻が俺たちの足を見てもよくわからんだろう。全体が見えないうちは、なにかでかいなあ、ということすらわからないかもな。人の身の理解は脳が及ぶところまで。あとは神様に任せる領域だ。その神様がわからなければ、割り切ってあとまわしだな。まずは消えた山伏と鯰尾を探そうぜ」
報告を聞いたスーツ姿の調査員が、ゲートを起動した。いつでも退避できる状態に保っておいてくれる。非戦闘員の警護に、別本丸の歌仙とお小夜がついた。
「僕は練度が劣る。足手まといになるといけないからね。だけれど門の守りは任せてもらおう」
「僕も……待っています。よその歌仙。あまり無茶をしないでください……何かあったら、復讐できるものもできなくなりますよ」
「ありがとう、お小夜。分霊の僕も、皆を頼んだよ」
山姥切はすでに鬼に化けたあとなのか、人の形を保ったままなのかはわからないが、まだ本丸のなかにいるのは確かだ。
僕の所属する本丸や、かつて弟がいた本丸は少々立地が特殊で、現世の山の中にある。そのせいで堕ちた弟は、簡単に外界へ逃げて行方不明になっている。
ここは時空のはざまを漂っている閉ざされた本丸だ。ゲートを操作しない限り外には出られない。
漂流本丸に来てすぐに、生体反応はないと報告を聞いた。たしかになんの気配も感じない。
しかし山姥切がいた。政府調査班の探知機に引っかからない刀剣男士など聞いたことがない。身を隠されたら、僕らには居所を確かめるすべがないということになる。本丸の構造を知り尽くした初期刀だから、余計に厄介だ。
山姥切はどこへ消えた?
──炊事場に続く長い廊下の突き当りで、前を歩いていた陰陽師が突然消えた。
僕には、壁に吸いこまれたように見えた。沈黙。やがて、がたがたと屋敷が揺れる。
風もないのに、震えている。
板張りの床の下を、大きなものが滑っていくのが気配でわかった。小舟に乗って釣り糸を垂らしている者が、舟底のずっと奥に得体のしれない黒い巨大な影がうずくまっているのを見つけてしまったときに覚える、膨大な不安の塊。それと同じものが僕の肌を粟立たせる。
「屋敷に喰われている?」
「そんなわけあるか! 表だ、広い場所へ!」
いっせいに駆けだした。細長い廊下は刀を抜くには狭すぎるし、敵がどんな形で、何をされたのかもわからなかった。
ことを構えるにしても、なにと戦えばいい? 僕らは刀だ。斬るものがなければ役立たずだ。
さっきよりも薄暗い。室内戦が不得手の鶴丸が、「待って、鶴を置いていかないで」半分べそをかきながら僕の横を走っている。この年長の刀に泣きが入ると、僕まで心細くなってくる。
天井から、ねばつく糸を引きながら一抱えほどの黒い塊が落っこちてきた。僕の前にいた堀川が反射的に両腕で受ける。水がはねる音。その場で凍りついた。
黒髪はざんばらになっている。顔の皮を剥がれていた。それでも整った後ろ頭の曲線や耳のかたちで、僕には、それに堀川にもわかった。
鯰尾の首だ。皮が破れたところから血がこぼれて、堀川の手を身体を伝って赤い小川を作っていく。
「鯰尾くんか。妥当だね。山姥切なら、山伏殿は食べ残したりしないだろうからねぇ」
「あなたという人は──僕の、大切な仲間を、兄弟と鯰尾くんを物みたいに……!」
「忠告のつもりだよ。敵はきみのことも、峰から茎尻まで残さず喰うつもりだろう」
どうも奇妙だ。鬼になった和泉守は、刀剣男子のひとりくらいは簡単に一飲みにしてしまった。何人喰らっても餓えていた。腹を空かした化け物が、死体を食べ残すなどという贅沢をするだろうか。
わざわざ食べさしを放ってよこした理由はなんだ。首が落ちてきた天井を見あげる。綺麗なものだ。穴のひとつも開いていない。
高さもない。上から放るときに受ける相手を選べただろう。
堀川を選んだのだ。
すさまじい音がした。僕らが立ち止まっていた部屋の、床の間の横に設えられた小さな引き戸を破って、黒い手が──焼け残った炭のようなかさかさに乾いた手が伸びてくる。
反応できないうちに、蛇みたいに素早く這いよってきて堀川の足首を掴んだ。
僕は、とっさに堀川の右手を握っていた。一瞬で引き倒される。恐ろしい力だ。引き戸の奥へ引きずりこまれていく。
あの小さな穴のなかへ、しまいこめるのは茶菓子くらいだ。そこへ人の身をしまいこもうというのか。冗談だろう?
畳と皮膚が擦れあう熱さ。穴の奥は闇。ひどく生臭いにおいがした。
引き入れられる。喰われてしまう。
「すまない堀川くん。ちょっと痛いよ」
堀川国広の本体に手を伸ばし、振るった。黒い手に掴まれたすねを切断する。堀川が唇を結んでかすかにうめいた。
停まった。
僕は、脇差の小さな身体を抱いて、逃げだした。背後から、がりがりがりがりがりがりがりがりごりくちゅくちゅごくん、肉を咀嚼して飲みこむ生っぽい音が響いてどこまでも追いかけてくる。
「な、な、なん、あれ」
堀川が痛みも忘れて、僕の腕の中で恐慌に陥っている。
「落ち着きたまえ堀川くん。ひとまず生きている」
本当は僕も、わけがわからない。堀川の目がなければ座りこんでいたと思う。ひとときたりともここにいたくない。今すぐ本丸に帰りたい。ひたすら主とお小夜に会いたい。
どうなっている。なんだあれは。あんなよくわからないものにどう対処すればいいんだ?
ぜえぜえと息をきらして廊下を駆け抜ける間、じっとりとした誰かの視線を感じる。何かに似ている、と思う。
ああ、あれだ──僕が黙ってあの不埒な布きれを洗濯したあとの、もの言いたげで、そのくせ何も言わない山姥切国広の、たくさんの恨みごとを重量制限いっぱい載せた目だ。
それは俺の大事なものなのになぜ勝手に持っていったんだ、写しだと思ってなにを勝手にしてくれるんだ、ええおい歌仙兼定──そういう目だ。
穴のひとつもあいていない障子を蹴り破って庭に降りたつ。
石灯籠の脇に堀川を座らせて、急いで外套を解いて止血をした。堀川は血を流しすぎたせいか、青い顔で呆けている。余った布で顔のない鯰尾の首を包んでやった。
刀が折れれば肉の身も消滅するはずだが、胴からちぎられた首は顕現し続けている。本体のほうに傷のない、宙ぶらりんの状態で留め置かれているのか。呼吸はしていなかったが、これで意識があったら最悪だ。
どのみち助からない。早く炊事場で火種を借りて焼いてやろう。
「冷静ですね」
「同派がそうなったからね」
「そんなに仲が悪かったんですか」
「いや。喧嘩もしたことがない」
「ならどうして」
「和泉守や山姥切に聞いておくれ。僕は化け物になったことがない。奴らが何を考えているのかさっぱりだ」
堀川を抱きなおしてゲートへ向かう。ここはもうだめだ。退こう。僕らの手には負えない。
【4-5 閉塞】
「ゲートが動かないそうです」
戻ってきた僕らを迎えるなり、他本丸のお小夜が言った。
「重量オーバーらしいぞ。なにかに押さえつけられてるのか?」
鶴丸の手が座標固定装置の上で踊る。さっきのこともあったから、僕には山姥切の恨めしげな視線が思い出されてならなかった。僕らの本丸に帰ったときに、うちの山姥切の顔が怖くて見られないじゃないか、どうしてくれるんだ。
「国広」
「兼さん」
和泉守がやってきたと思ったら、いきなり僕の頬を殴りとばした。僕が好き放題をした日よりもずいぶん練度が上がっている。和泉守は僕から堀川を取り戻して怒鳴りつけた。
「あんたがやったのか。国広をこんな目に遭わせる奴は許さねぇ。ぶっ殺してやる!」
「兼さん違うんだ、聞いて! この人僕を助けてくれたんだ──」
「うるせぇ怪我人は黙ってろ。おい歌仙兼定、オレが憎ければオレだけを狙え。国広は関係ない。無関係の相手に八つ当たりするなんざ、兼定の名に泥を塗る卑怯者だ。之定。二代目の最高傑作。オレはずっとあんたのことを尊敬してたのに、そんなにオレのことが嫌いか。兼定の誇りを忘れちまうほど憎いのか」
「ああ、憎いね」
「オレは、あんたとはなにも関係ねぇ。いちいち絡んできてうぜぇんだよ!」
「だから目を背けていたのに。絡んでくるのはそっちだろう」
小さな子どもの手が、大人気のない口論をする僕の袖を両隣から引いた。前田。厚。気遣わしげな表情が苦しい。
「のん兄。おやめください」
「いけねーよ。相手にすんな、こんなの」
和泉守が短刀にあやされる僕の姿に、ここぞとばかりに片目をすがめた。この男はこんなふうに意地の悪い表情もできるのだと、初めて知った。
「は。あいかわらず一期一振の身代わりか。妙ちきりんなあだ名で呼ばれてんのか。いっそ兼定を捨てて粟田口になっちまえばいいものを──」
和泉守の首に刃が二振り添えられた。恐ろしい機動力で背後をとった前田と厚が、鋼の切っ先に宿る光を目に灯している。とても子どもの姿をしたものとは信じられない低い声で囁いた。
「いいかげんにしてください。僕らの本丸にはいち兄がちゃんといます。のん兄をのん兄と呼びはじめたのは、他ならない和泉守兼定です。のん兄がたったひとりの弟君をどれほど大切にしていらしたか、見てもいないあなたにわかるものですか。裏切るはずのない兄弟に裏切られた者の気持ちがわかるものですか」
「もしオレが主を裏切って化け物になって、いち兄を喰おうとしたとして。いち兄なら絶対自分の手でオレを殺してくれる。その時にどんな顔するのかーって、のん兄を見てたら知ってるから。オレは絶対に、和泉守兼定みたいに主と兄弟を裏切らない。なんでこんなに優しい兄ちゃん大事にしないんだか。本丸には兼定派はふたりしかいねーのに、たったひとりの兄ちゃんのこと、どーして悲しませられるんだか。オレには全然わかんねー」
僕は青くなって二振りをなだめた。
「い、いけない。ふたりとも。やめておくれ」
僕と違って、他本丸の刀剣男士にいきなり刀を突きつけるようなことはしない二振りだ。歌仙兼定の悪い癖を短刀たちが真似をしてしまったのかもしれない。おろおろしている僕に向きあって、和泉守が放心したような顔をしている。
「あんた、別のオレを、その……ちゃんと好いてくれていたのか」
「だから殺す。きみには疎ましい限りだろうけれどね。僕を嫌ってつっかかるのはいいが、短刀たちを悲しませるのはやめておくれ」
和泉守がようやく耳を貸す気になったことに、堀川がほっとした顔になった。本当に、よく言い聞かせてやってほしい。
「いきなり何かに足をつかまれて、棚の中に引きずりこまれそうになったんだ。歌仙さんが足を切り落として引き離してくれなかったら、僕も喰い殺されていた」
「そうか。すまねぇ。恩に着る。オレの早とちりだ」
「いいさ。きみの短気は知っている」
僕もきみと同じだからとふたりで笑った日もあった。だけれどこの和泉守は、僕の返事が気にくわないらしい。盛大な舌打ちが返ってくる。
「この。謝っただろうが。なんでそういう底意地の悪い言い方すんだ。オレ、あんたのこと好きになれそうにねえ」
子どもそのもののふてくされ方をして、だんだら模様の背中を向ける。ものすごく機嫌が悪い声が、頭の上から降ってくる。
「あんたはこれからも和泉守兼定を殺すためだけに生きて、和泉守兼定を殺したら死ぬつもりか」
「きみには関係ない」
「ふざけんな。之定はもっと誇り高い刀だ。末の顔色伺って生きるようなあんたなんか憧れる価値もねえ。あんたなんか違う。之定じゃねぇ」
「僕を嫌っているなら関係ないだろう。ああ顔を見せないでくれ。きっとまた殺してしまう」
振り向いてすごい目で睨んできた和泉守に、かなう限りそっけなく吐き捨てた。僕はこいつと慣れあうつもりはない。
【4-6 地下の黒】
審神者の部屋で、祓い札を何枚かと端末を見つけた。IDがまだ生きているのは僥倖だ。エラーを起こしているゲートの初期化設定を行ったあと、念のために重量制限を無効にしておけば、再び転移装置が稼働するはずだ。
門を開くのは官吏に頼んでおくとして、この本丸の審神者が僕の主の息子に贈った呪物の箱の手掛かりが、どこかに残っていないだろうか。
呪いに触れた和泉守兼定が狂ったと政府は言う。解析して探知をかければ、鬼がどこへ逃げたかがわかるのではないか。
ふと思い立って、執務室の棚に並んだ書を引き抜いた。板の裏側を叩く。音がいやに響いた。蹴り破ると、予想通り奥へと通路が伸びていた。
「おお、秘密の地下通路というやつか。こいつはいい驚きだ」
鶴丸が歓声をあげた。この刀は驚きの良し悪しにこだわる。鶴丸国永がおとなしく何もしないでいてくれるのが、いちばんいい驚きなのだけれど。
「この本丸へ来たときから思っていたんだけれど、僕らの本丸と造りがそっくりなんだ。主の同期だと聞いていたから、同じ形の本丸を支給されたのだろうね」
通路は打放しコンクリートで、ゲートまで続く避難経路になっている。有事に立てこもるための備蓄を入れる倉庫が並んでいる。そのなかに、毛布と非常食の空き箱が散らばった部屋があった。
「ついさっきまで身を隠していたようだね。まだほのかに温かい」
「じゃあ、山姥切が使っていたんじゃないか」
「審神者じゃなくてかい?」
「もし自分がおかしくなっちまいそうだと気がつけば、鶴なら他の者に迷惑をかけない場所に引きこもるかなぁ。山姥切ならそういうの得意そうだしなあ」
部屋の隅に海松茶色の箱が置かれている。蓋に手をかけた僕の手を、大倶利伽羅がぎょっとして掴む。
「おい。軽率な真似はあんたらしくない」
「いや、呪物ではないよ。あまりに無造作すぎる。……ほら、書簡だ。友人からのものだね」
整頓されて箱につめこまれている手紙の束をほどいていくうちに、妙なものを見つけた。僕の主と亡き奥方からの葉書だった。奥方の名前と、宛名側に書いてある送り先の名前は、僕の知らないものだ。
真名だと気づく。神には人の素性は秘される。僕らは基本的には、審神者としての在り方でしか主を知れない。
棚の上の写真立てに、奥方の写真が飾られているのを見つけた。まだ子どもだと言っていい姿で、快活そうな表情でこちらを見つめてきている。
この本丸の主は、僕らの主とはただの同期だと聞いていたが、思ったよりも縁が深いようだ。奥方を幼いころから知っている人間。
毛布のわきに報告書らしきものが投げ捨てられていた。山姥切が書いたものか。彼らしくない乱れた字で判読が難しい。
──大量の……が運び込まれる。こんなもの何に使うんだ。
──敵……を……た。
字面から山姥切の困惑を感じた。背筋が冷たくなる。僕はこれと同じものを知っていた。主の息子の本丸を改めたときに、無人の執務室に落ちていた。弟に喰われた山姥切が生前作った書類とそっくりだった。
「歌仙、顔色が悪いぞ」
「なんでもない」
やぶにらみで顔を覗きこんでくる仲間たちに曖昧に微笑む。端末に政府の調査員から連絡が入った。
『ゲートの初期化を行いました。まもなく、外部へ霊力の管が開きます』
「わかった。ひとまずそちらへ戻ろう」
受信機の向こうでノイズがはしった。発砲音はお小夜の銃兵か。
何かが砕ける音が聞こえた。
「おい、返事をしてくれ。なにがあった!」
ゲートが襲われたらしい。敵か、それとも──。
『僕も、きみみたいに兄と呼ばれてみたかった。僕だけの家族がいるってとても素敵なことだね』
「その声は僕の分霊かい? いったいこれは……」
『すこしうらやましいかな……』
分霊の共感でわかる──今、歌仙兼定が折れた。おそらく小夜左文字も生きてはいない。兄は命ある限り、必ず弟を守ってくれただろうから。通信が途切れた。
そう間もなく、ゲートに続く方向から足音が聞こえてきた。一本道の先の扉を隔てて、何者かがそこにいる。足音は打刀の体格。帯刀している。
「初期刀の山姥切だろうな。ゲート側の端末が奪われたと見ていい。歌仙、もう遅いが念のために電源を切っておけ。位置探知でこちらの居所が筒抜けだ」
大倶利伽羅の言うとおりに、端末を懐にしまった。すでに居場所が割れているなら仕方ない。怪我人の堀川がいる離れへ行かなかっただけましか。
抜刀。こちらの部隊は六人揃っている。多少なら数と力で押しきれるが、相手がどう出てくるかが計れない。
本物の鬼と戦うのは二度目になる。一度目のような悲惨な結果にならなければいいが。
「前田くん、厚くん、調査係殿を守りながらゲートへ向かってくれ。同田貫、大倶利伽羅、鶴丸殿は僕としばらく時間をかせいでほしい。決して勝とうなんて考えるな。鬼には勝てない。いいかい、絶対にかなわない相手だ。くれぐれも折れないでくれよ」
「君が勝てんという相手なら、さっさと尻をからげて逃げてしまわんとなあ」
極力刀を使うなと忠告すると、思ったとおり同田貫と大倶利伽羅から無茶を言うなと文句が返ってきた。
妖の血に刃を浸してはいけない。穢れは血を介して感染する──はじめは熱が出る。やがて穢れは呪いとなって肉の身を蝕んでいく。鋼の切れ味は増すが、心か、身体か、どこかしらが徐々に壊れていく。
そう説得すると、ふたりは僕を見て何かしら思うところがあったようで、すぐに納得してくれた。
扉が弾けた。開いた穴から黒い手が伸びてくる。堀川を掴まれたときと同じく、誰も反応できない速度で官吏を鷲掴みにすると、悲鳴も上げさせないまま握りつぶした。
「前田くん、厚くん。今だ!」
短刀二振りが飛び出していった。コンクリート壁を貫いて生えてきた手がもう一本。厚が捕まった。本体の刃を妖の腕に突きたてるが斬れない。「おい歌仙!」同田貫が叫んだ。
二年前に分霊の死に様を見ていたおかげで、想定内だ。今しがた死んだ陰陽師から預かっていた式を投げる。身代わりが潰れている間に、厚が無事に逃げおおせた。
短刀二振りの足音が遠ざかっていくが、妖は興味を示さない。僕らのほうへにじりよってくる。
黒い粘液の塊のような姿をしたそれが、姿を現した。
人の形といえばそう見えるが、よくわからない。やたらとあたりが薄暗く見えて、闇が蠢いているようにしか見えないのだ。粘土をこねるのに似た足音を立てながら、こちらへ近付いてくる。
後ろへずりながら、身振りで早く逃げろと壁に張りついた仲間たちを急かした。鶴丸が懐を探っている。なにをするつもりかと訝っていると、黒っぽい陶器のようなものを取り出した。
──焙烙玉。
僕と無口な二振りは青くなる。無茶苦茶だ。閉所で使うようなものではないというのに、止める間もなく炸裂した。天井が崩れる。土砂と瓦礫が降ってくる。火と埃に喉をやられて咳こみ、ぼろぼろの身体を引きずって走り出す。
「うまくいった!」
鶴丸が叫んだ。「信じられない!」「いい加減にしろ……!」「何考えてやがる!」僕らも口々に叫び返す。全員高練度の刀ばかりとあって、さすがに生きてはいるが、同田貫なんかは刀装を全部吹っ飛ばされていた。これは悪い驚きか。それとも全員生きて逃げおおせたのだから、いい驚きなのか。鶴丸の良し悪しの判断は僕らにはとうてい理解できない。
埋もれた石くれの山から、闇そのものの色をした何かが噴出した。追跡者はどういうわけか、さっきまでよりもひとまわりほど大きくなっている。
通路の積み荷を崩して道をふさいだ。敵はそれを苦もなく吹き飛ばして迫ってくる。速すぎる。捉まるのは時間の問題か。僕は立ち止まって、振りかえって構えた。
「歌仙走れ、やけを起こすな!」
「ひとり喰われている時間があれば、逃げられるだろう」
「死ぬ気か。和泉守を殺すんだろう!」
「だから大丈夫さ。まだ、喰われても死なないよ」
手のひらの血で刀身を濡らす。どこまで持つか。
打刀の僕の目は闇に慣れている。室内戦もどうということはない。だけれどそいつの力のすさまじさは、一度引きずられたときに知っている。
左足を引いた。横薙ぎの腕が額のすぐ前を過ぎていく。空気を切る音が重い。こんなものを食らったら、一撃でばらばらになるんじゃないか。
血の気が引くが、大振りだ。そう当たるものではない。ここが閉所でさえなければ。
背後からぶつかってくる圧迫感を覚えて、可能なかぎり身体をよじる。新しい腕が通り過ぎた。三本目。壁から生えている。
こいつはもしかしすると、屋敷中の闇に薄く広がって身を隠していたのか。どうりで神出鬼没のはずだ。
そうすると、まずい。僕らは初めからこいつの腹のなかにいたことになる。妖と化した山姥切にとって、この本丸そのものが、頭からかぶっているボロ布と同じに、自分の姿を覆い隠す殻なのだ。
「歌仙さん!」
通路の奥から光が漏れて、堀川の声が響いた。
妖が動きを止めた。初期刀の山姥切は──国広の兄弟の声に反応したのか。
僕から気が逸れた隙に、黒い粘液の塊に一太刀を浴びせた。怒りにまみれた絶叫があがる。そのまま、影の集合体の横を駆けぬけて外へ飛び出した。片足のない堀川をかついで逃走する。
「助かった。ありがとう。君の姿に救われた」
「どういうことです?」
「身内の姿に執着するものらしい。あの子もそうだった。山姥切は僕より兄弟がうまそうだと思ったんだろう」
ゲートへたどり着くと、和泉守兼定が官吏を護って妖の分体と斬りあっている。なにをやっているんだ、こいつは。頬をひっぱたいてやった。
「またてめえは……!」
「ちゃんと守ってやりなさい」
まともに歩けもしない堀川を、和泉守の腕に預けた。
瘴気はいまや、僕たちにもわかる形で増している。皆、呼吸ができずにうずくまり、ゲートの起動を待っていた。
「五分で臓腑が焼ける瘴気です。浄化の符もそうもたない」
「のん兄、はやくこちらへ」
伸ばされた前田の手に、胸元の赤い紐を解いて握らせた。
「僕が折れたらそれは消える。そうしたら、ゲートを閉じてくれ」
「勝てないと言ったのはあなたです!」
「なぜかな。とても身体が軽いんだ」
致死量に至るまで、本丸に満ちた瘴気をそれと認識できなかったわけがわかった。甘いのだ。
ごく薄い血の匂いが広がっていた。人を殺す道具があまりにも慣れ親しんだそれは僕らを酔わせ、危機感を煽らない。鶴丸が言ったように、危険だということがわからないのだ。
その間に穢れは着々と降りつもっていく。全身に黒い血がまわるまで誰も気づきもせず、気がつけば芯が痺れて呼吸のひとつもままならない。
「山姥切はなりそこないだ。僕をいまだに殺せていない。こいつを殺せないなら、ぼくはあの鬼にまだ届かない」
今の僕の身体は、清浄な神気で祓われるよりも、綺麗な霊力を浴びるよりも動きがいい。妖に魅入られすぎたのかもしれない。もう動くこともままならない僕の部隊と、他本丸の生き残りを送り出す。
漂流していた本丸へ、このよその本丸の和泉守の部隊が迷いこんだのはなぜなのか。
妖に呼ばれたからだ。
和泉守は一度僕に殺された。僕に呪われた。だから引き寄せられてしまったんだろう。鬼は鬼に、その甘い血に肉に誘われる。関係のない刀を巻きこんでしまったということになるか。
「早く帰って清めてもらいなさい。妖の狙いは僕だ。食いたがっているのがわかる。なんだい和泉守兼定、その顔。心配には及ばないよ。僕は死なない」
「そう言ってみんな折れんだよ!」
「折れるものか。あの子は僕でない者に殺せない。和泉守兼定を折るのは僕だ。だから僕は死なない」
僕には、弟を殺すことしか芯がないのだと、気づいたのはいつだっただろう。
支えがなければ倒れてしまう。僕が倒れては主を守れない。本丸も立て直せない。弟への怒りで立っていられるのなら、僕は和泉守兼定への呪いによりかかる。利用してやる。
「弟に言われた。之定はうまそうだと。僕を喰らって全部自分のものにすると。ふざけるな。負けるものか」
他本丸の和泉守兼定が、僕を殺しそうに睨んで、荒っぽくあぐらをかいた。
「見届ける」
「もう息が続かないだろう。うちの石切丸殿に、見てくれているものの目を見返してやれと言われた。きみがいま見るのは仲間の堀川の目だ。よその本丸の僕の目じゃない」
頭に血が上りやすい性格をしている和泉守だが、僕の同派だ。馬鹿ではない。重傷を負った相棒を抱えて、しかもほかの刀は折れている。撤退を覚悟した。
「オレはあんたを侮辱したこと謝らねえ。間違ったことを言ったつもりはねぇ。絶対強くなって今度は勝つ。負けねぇ。だから、また演練で待ってる」
「それはそれは楽しみだね。会えたらお相手するよ。また殺してあげよう」
「死ぬなよ之定」弟の分身が言った。「死なないよ」僕は答えた。
【4-7 禍津国広折】
鏑に油紙を詰めた矢に、鯰尾の首を焼いた火種をつけ、刀装部屋に向けて数度投射する。銃兵に引火し、大きな炎があがった。破裂音を鳴らしながら本丸に火がまわっていく。
時空を漂流していた無人の本丸が燃えていく。火の粉を舞いあげる黒い風が震えている。
空気を伝って感じるのは、怒りだ。またあの目が僕を見ている。布を引っぺがしたときの山姥切の、『なんの権利があってこんな真似をしてくれるんだ、ええおい歌仙兼定』下から睨みあげてくる恨みがましい目だ。
自分の縄張りを焼かれて悔しいか。食事の邪魔をされて悔しいか。堀川を逃がした僕が憎いのだ。兄弟の肉はよほど甘かったらしい。
だけれど、もともとこの妖が欲しがったのは僕の肉だ。怒りに満ち、穢れた血の匂いは、妖には蜜のように香るはず。虫を誘引する甘い餌だ。二年かけてこうなった。
ひときわ大きい爆発音とともに、本丸が割れた。テープを振りまく紙の爆竹を破裂させたみたいに、無数の薄汚れた赤い布が吹き上がった。
じきに、出てくる。
僕以外の刀剣男士たちですら退避したというのに、政府の調査係は、こんなぎりぎりの瞬間まで現場で粘ってデータを取っている。命知らずなのか、自分をさえ使い捨てのきく駒だと考えているのか。
ハンカチでくるんだ浄化の符で口元をおさえてカメラを構えている。雑音がひどいせいで音が拾いにくいのだろう、端末に向かって怒鳴っている。
「調査班より本部へ入電。調査班十二号座標XXXX地点にて禍津国広、顕現確認。仙斎本丸歌仙兼定と交戦中。ええ一騎打ちです。結果を見届けたいですが……瘴気がひどくてあまり持ちません。中断の可能性──」
他人を守りながら斬れる相手だとは思えない。早く見切りをつけて退避してもらいたいものだ。
──禍津国広。
弟と同じ名前をつけられた問題の山姥切が、焼け落ちる本丸に押し出されて、見あげるほどに膨れあがった姿で現れる。鬼と化した和泉守よりも大きいか。
白頭の被り物のような、伸び放題の乱れた金髪。山姥の面をつけ、まとう毒々しい色の着物は鬼女の扮装に見える。面に彫りこまれた血走った赤い目の真ん中に、ぽっかりとした穴のような黒目が浮いている。
──髪には荊棘の雪を戴き、眼の光は星乃如し。
──さて面の色は、さ丹塗りの、軒の瓦乃鬼の形を──。
山姥切のくせに山姥そのものじゃないか。
世阿弥の鬼女物を彩るような月光も笛の音もここにはない。あるのは血煙と炎だけ。僕は本物の山姥に舞いを乞われた百万山姥の遊女のようにはいかないが、穢れた刀でどちらかが折れるまでふたり舞い踊ることはできる。
「我こそは之定が一振り、歌仙兼定なり」
これより山姥切国広を、斬る。
僕の血を浸した歌仙兼定本体が効くのはすでに試した。化け物の、じくじくと黒い粘液を流す傷へ目をやる。ほかの刀がやった跡のように治っていない。
膿んだ怪我は治りが遅い。僕自身への仕込みは上々だ。なりそこないとはいえ禍刀剣にも期待通りの効果。本番前に試せてよかった。あとで主に報告しよう。
山姥切は、触れることが不可能なはずの自身に傷をつける僕を本能的に拒絶している。距離を縮めようとすると、赤い布が刀身に巻き付いて邪魔をする。近寄るのが難しいのは、彼らしいといえばそうか。
ひとまず様子見をかねて、間合いの外から削れるだけ削るか。投石兵を召喚。恭しく差しだしてきた石を、手のひらの上で二度放ってなじませる。
甲子園へ行こう歌仙と笑う主の息子の顔を思い浮かべて、球を外したことはない。
すべての打者を打ち取る僕の肩がうなった。土埃を舞いあげながら右足を高くあげる、剛球燃えろ、参る。手のひらを濡らす血を吸った石が、敵の赤ら顔の面の額に小さな穴を開ける。
敵の硬さは僕の肩で砕けるほどとわかった。
こちらの装備は特上投石兵をふたつ。兵力は二十体、小気味の良い掛け声とともに石を渡してくれる。次は血走った赤い両目だ。下がった眉にも。
兵たちの歓声があがる。あの小さな坊もこんなふうに喜んでくれたのだった。大きな鼻もいい的だ。余力はまだまだ。引きつったように笑う大きな口のなかで不気味に輝く、お歯黒を塗った歯を狙う。
的当ては得意だ。割って折る。砕く。そもそも僕には山姥切の綺麗な顔が、あんな不細工な面をつけているのが気に食わないのだ、全部壊す。
敵は苛立っている。穴だらけの面をかばうように、おびただしい血の旗をひらめかせた。
仲間の血で染まった布地には、妖の黒い血で呪いの言葉が書きつけられている。振り払おうとした僕の手に、切り裂こうとした歌仙兼定本体に巻きつく。
干されたシーツみたいにはためく無数の布がなまめかしくうごめいて、僕に貼りつき、からめとっていく。獲物の自由を奪う、シーツでできた蜘蛛の巣。囚われたら動けない。肉体よりも布が本体なのか。そうではないかとは思っていたけれど──。
「空気が……まるで血の海です。溺れてしまう……撤退、報告を中断します!」
ゲートの上からとうとう人の姿が消えた。瘴気の濃度が確かに濃くなっている。気がつかなかった。むしろ心地がいいくらいだ。この澱みは僕の毒とは感じない──ほんの僅かだけまだ残っていた迷いが、まぶたの裏に火花を放つ。
兼定の矜持が、本当にこれで正しいのかと問うてくる。今更だ。迷うことはない。すべては主のために。
僕はシーツに刻まれた呪いの上で、本体を使って自らの手首を貫いた。僕の血しぶきが、妖の呪いを汚す。汚れは洗剤や綺麗な水がなければ落とせない。だけれどさらに汚すことはできる。『僕の血は薄いけれど』、書きつけ程度は充分に覆える。呪いの上書き。効果はあった、身体を締めつける力が緩む。
山姥切の穢れに血で触れたせいだろう。僕のなかに、僕のものではない感情が流れこんできた。赤黒い視界が白く抜ける。
──青空のまぼろしが見えた。夏の日差しの下に立っている。
本丸の庭いっぱいに干された洗濯シーツがはためいている。いいにおいだ。清潔な洗剤のにおいがする。
よく見ると干し終わったたくさんのシーツのなかに、破れたみすぼらしい布が一枚混じっている。
視線を感じた。
背後に山姥切がいる。人の形をしていた。呪いの兆候もなく、僕が見知っているあの男そのままの姿だ。ひさしで陰になっている縁側に座って、じっとりした目がこちらを向いている。
いや、山姥切が見ているのは僕じゃない。僕を通り越してその先にいるものを見ている。
庭に『僕』の背中が見えた。この本丸の歌仙兼定だろう。本丸じゅうのシーツの洗濯という大仕事を終えて、満足そうに背伸びをしている。
「いつも強引で、自分勝手で、押しつけがましくて、あんたのそういうところ、苦手だ」
歌仙を睨んで山姥切が愚痴を言った。布一枚取られただけなのに、裸にされたみたいに見える。歌仙に勝手に持っていかれたか、それとも嫌がるのを無理やり剥がれたか。
不満そうな顔の上で金色の髪がきらきら光っている。誇るほどに美しいのに、写しというだけでなにをそんなに恥じるのか。
「俺には、あんたのような名刀が手間と時間をかける価値もない」
青い目が宝石めいた光を帯びる。口惜しい。ずっと彼に感じていた感情だ。
目利きのきく僕が太鼓判を押す美しさを持つ存在が、なにを自分を隠す必要がある。僕の目を疑われているんじゃないかとさえ勘ぐった。
だからこの顔が卑屈に下を向くところを見ると、目を覗きこんで大声でまくしたてたくなる。きみは綺麗だ、なんて力強いんだ素晴らしい、きみはどこへ出しても恥ずかしくない、この歌仙兼定でさえため息をこぼすほどの類稀なる名刀だと。
そのせいだろう、僕の顔を見たらこの刀は逃げていくか、兄弟の影に隠れてしまう。だけれど、僕はなにも間違ったことは言っていない。
「歌仙。写しなんかのために、雲の上のあんたにいつも苦労をかけている。俺は、いちばん初めにこの本丸にきておいて、主の食事の用意ひとつもできなかった役立たずだ。だから……俺のかわりによく喋るあんたには……何度も助けられた」
恨み言を乗せた声の色が変わった。僕の分霊に礼を言っているという感じでもない。後悔しているのか。
何に対して? 妖と化してしまったことか。山姥切という名前のくせに山姥になってしまったことか。
後悔するくらいならどうして堕ちた。仲間を殺した。主をも──手にかけたのだろうに。
山姥切からその言葉を聞きたかったはずの歌仙は、もう自分で喰ってしまっただろう。
大切に想うならどうして殺す。縁を愛おしむならなぜ喰らう。信じあっていたなら、どんな想いで裏切ったのか。
おまえたち妖はなにを考えている。山姥切。和泉守。穢れた血に浸っていても、まだ人の形に近い僕には、鬼の心は理解できない。
「何度もあんたをうっとおしいと言ったが、それは、こんな写しの言葉などあんたほどの刀は気にもしないと思ったからだ。傷ついていたなんて知らなかった。あんたをこの手で殺してしまうまで、俺は、そんなこともわからなかった。だからすまないと、一度も謝れなかった──」
歌仙兼定の分霊の返事を待たず、血の匂いがもどった。
僕の刀が呪い布を引きちぎる。目の前には、さながら干されたたくさんの洗濯ものの行列だ。本丸の火が燃え移り、炎の旗となってひるがえる。
火で編まれた蜘蛛の糸を伝って、名前も形も失った黒いものへ、僕は走る。
足の裏に伝わる熱さ、痛み。今は耐火の靴が欲しいと思う。底が焼けて抜けてしまった。伸びてくる赤子のような黒い手を斬り、山姥切の肩へ飛び移った。
「今しがたきみの夢を見たよ山姥切。『僕』のやることがおせっかいだったならすまない。そうでなければ──もし、きみからかける言葉に困っていたなら、ありがとうと一言だけ言ってやればわかる。歌仙は好きでやっている。それで満足だろう」
次々に増えていく赤い目をひとつ刀で潰し、囁く。
「できるなら、僕がきみの布を洗ってやりたかったよ」
僕の、血を、浸して。歌仙兼定本体を山姥切の首へ突き出した。ぞっとする手ごたえ。黒い血が迸った。
いつかの夜に聞いた不穏なサイレンそっくりの断末魔をあげて、斬る物が斬られる者へ変化した、その醜い妖の巨体が傾いていく。
【4-8 山姥切折】
山姥の妖が砕け散った。金色の光の糸がほぐれ、断ち切れて落ちる。光が降る。燃える本丸に、宝石の粒のように降り注いでいく。
光は人のかたちを作っていく。息を呑んだ。一糸まとわぬ姿の山姥切が、僕の目の前に現れた。
色を抜いたような白い髪、死人の肌の色。用心しながら、僕は歌仙兼定本体を意識のない山姥切の首に突きつけ、名前を呼んだ。
うっすらとまぶたが震える。血のように赤い瞳が、僕を映した。
「──歌仙、か」
「仙斎本丸調査部隊隊長の歌仙兼定だ。山姥切、きみの本丸を改めに来た。動くな。すこしでも妙な真似をすれば首を落とす」
声が震えてしまいそうになる。禍津国広──政府の人間にそう呼ばれていた、妖に堕ちた山姥切国広。僕の弟と同じ裏切り者。彼の目はいまは正気に見えた。
もとに戻ったのか。妖が人に、刀に、刀剣男士に戻ることができるものなのか。
僕には彼にどうしても聞きたいことがあった。
「あの美しい君がどうして……」
弟と同じ化け物になってしまったのか。山姥切は嫌そうに顔をしかめた。
「綺麗っていうな」
「きみの主はなぜ僕の主に呪いなんかかけたんだ。その男のせいで弟が狂い、主の息子を仲間を殺してしまったと政府は言う。どうして。どれほどの恨みがあれば、こんな恐ろしいことができる?」
「信じてもいないことを口にするな。人間の呪い師ごときが神を操れるなんて、最初から思ってもいないだろう。それに、仙斎と主は見習い時代からの親友だ。恨みなどするはずがない──利用されたんだ」
「誰に?」
「歌仙兼定。おまえのこと、聞いている。幼い自分の主を遡行軍の襲撃から救い、親がわりに育てた歌仙だろう。おまえほど主に信頼される初期刀を俺は知らない。主に話を聞かされるたびに、うらやましいと思っていた」
「僕を知っていたのか?」
着物を脱いで裸の山姥切にかけてやる。赤い目が伏せられた。
「気をつけろ。人間を信じるな。審神者なんか、ろくなもんじゃない」
「どうしてそんなことを言うんだ。弟が僕を裏切っていなくなった。もう僕には主の仙斎様しかいない。たとえ邪法に手を染めても、裏切り者の和泉守を殺し、主に詫びなければ僕の残った意味がないんだよ」
「本丸は箱庭。ひとりの審神者の精神世界。そこで起こるすべては主の望み。昔、俺の主が言っていた。良い心を映して正しい本丸にしていこうという話だったが……。歌仙。お前の本丸で起こったすべては、鬼が出たならそいつも含めて、主の審神者が望んだことだ」
「和泉守をあんな醜い鬼に変えたのが主の意志だと。ふざけるな!」
妖の静かな赤い目が僕を見ている。さっきまでの恨みはもう見えない。凪いでいる。人に近い僕よりもずっと。
「わかっているはずだ。まともな主は、初期刀の歌仙兼定に、親代わりの近侍にそんな痕をつけるか?」
山姥切は、僕のむき出しの肩に刻まれた呪に触れた。
──僕が主の許しを得て僕自身にかけた呪いは、弟よりも強くなるためだった。
あの日僕は、強さを極めた分霊をばらばらにして喰い、長い時間を共に歩んできた僕を見てうまそうだと嗤った弟を怖いと、思ってしまった。
この歌仙兼定が──鬼になった和泉守兼定を前にして臆病風に吹かれてしまった。
なによりも僕自身を許せなかった。認めたくなかった。怖れを灌がなければ僕はもう刀であれない。
僕を勝手に追い抜いていった末に届くためなら手段を選んではいられない。この二代目之定が一振りが、歌仙兼定が何代も後に打たれた若い末の弟に敗けたのだ。弟に劣る兄など在る意味がない。
刀剣男士としての力を極めた身でさえ鬼にはかなわないなら、もはや正道など無意味。それなら奴と同じやり方をなぞるしかない。
鬼を殺さなければ、鬼より強くならなければ、兼定の刀として僕は、弟に敗けた自分を生かしてはおけない。
『零式禍津』と呼ばれる刀が振りまく呪いは、近づく刀をも呪う。感染する。奈落の底へ引きずりこもうと伸びてくる黒い手だ。それが掴むのは僕ら刀剣男士ばかりではなく、戦争相手の時間遡行軍も同じこと。
強くなるために敵を利用することに、ためらいはなかった。
初めは、『零式禍津』の影響で変異した遡行軍を捕らえて、僕に連結した。奴らも刀だ、うまくいった。
それから僕は主に願い出て、いろんな方法を試し始めた。見極めなければならない。どこまで妖を取りこめるのか、僕が僕でいられるのか。僕の意志で弟を殺さなければ意味がない。
妖に変化した遡行軍の刀の汚い肌に、朱の筆で呪いの模様を描いていく。腑分けし、試し切り、血を抜き、呪いを蒸留し、思いのままに『零式禍津』の感染体を作ることができるようになった。
ついには喰らった。大旦那を喰らい殺し、奥方を喰らい殺した怨敵にならなにをしてもいいと思ったし、僕はどこまでも強く強く強く強くなれることが嬉しかった。短刀、脇差、打刀、太刀、大太刀、薙刀、槍。三十六人では到底足りないあらゆる時間遡行軍を攫って弄って屠って嬲ってくびり殺し、死体が折り重なったかぐわしい誉の山の上で心地よく唄い舞い踊った。主も喜んでくれたし最高に気持ちがよかった。
いま、こうして山姥切の赤い目に睨まれると、僕の中で、いつしかかすみがかっていた記憶がよみがえってくる。
思い出した。昨日喰った刀は──仲間のかたちを、していたのだった。
戦地で拾ってきた刀を、敵と、同じように呪い、腑分け、喰らった。はじめて仲間を切り刻んだときは恐ろしくて、罪に怯えていた。
いつしか僕は喰らうものがなんであれ、それを歴史修正主義者だと思いこむことにしていた──。
「仙斎はおまえの弟を利用したんだ。俺のことも。いまにおまえも俺や和泉守と同じになる」
「──主が? 僕たちを? 信じられるわけがない」
たしかに僕の主は、奥方と死に別れてから一度も笑ったところを見たことがない。それでも、和泉守が喰ったのは敵でも無関係の誰かでもない。僕の主の息子だ。あの人は愛する子どもに手をかけたりするような人ではない。
だけれど山姥切の言うように──まともな人間に、僕と共に時間遡行軍の捕虜へ行った、あのおぞましい仕打ちができるものなのだろうか。怒りや憎しみからの所業ならまだ納得できる。でも主は憎い敵を苦しめて笑わない、一度も声を荒げない。恨み言のひとつさえ口にしない、無表情だ、徹頭徹尾。まるで心をなくしてしまったみたいに。
「逃げろ。まだ間にあう。政府に知らせても無駄だ。奴らは仙斎の計画に期待している。戦争をするとき、この国の人間がどんな方法で敵を殺してきたかを、人殺しの道具のお前も知っているはずだ。奴らはなんでもできるんだ。人の心を得た俺たちが、なにひとつ理解できないような方法で、歴史を動かしていく」
「や、山姥切。待ってくれわからない。ともかく、動いては駄目だ。きみの身体は──」
僕とよく似た呪いの紋を刻んだ腕に、強く手首をつかまれる。ぎくりとした。赤い目は、真剣だった。
本気だ。僕が今まで山姥切国広に向けられたことのない、嘘偽りのない隠し事のない、この刀のまごころを向けられている。
「考えろ歌仙。できるだけ冷静でいろ。歌仙兼定が怒ったらろくなことにならないのは、うちのおまえもそうだった。一度怒りだしたら、誰にも止められなくなって必ず誰かが泣く。人にも物にも当たり散らして何もかも壊して、あとで自分のやったことに後悔して寝こむ。なら最初から怒らなければいいのにと、いつも思っていた。いまはあいつも俺のなかにいる」
「……喰ったのだね」
「喰らうだけなら、どんなに楽に、してやれたか。まだ生きて、いる」
「それは、どういうことだい」
山姥切がくしゃりと顔を顰めた。泣きだしそうな子どもの顔。
「おまえは生きのびろ歌仙。おまえのような名刀は化け物なんかになってはいけない」
「僕は──」
ならないよと、そう言いたかった。でも敵を仲間を壊し殺し辱め喰らう僕はまだ刀剣男士か。刀か人か。
もうとっくに僕は化け物になってしまっているのじゃないか。
「ここを離れる前に、俺を殺していってくれ」
「き、きみにはまだ聞きたいことがたくさんある。連れて戻り調査班に引き渡す。いいね」
「駄目だ。いつまた、変わるかわからない。俺は山姥切国広だ。写しだが、山姥じゃない。絶対になりたくない」
山姥切は僕の着物を頭からかぶってくるまり、震えている。
いつまたあのおぞましい姿に変わるかわからないということか。いまはこうして僕らはまともに話をしていられるけれど、次の瞬間には再び正気をなくして襲ってくるかもしれない──。
「辞世の句とかはいいから、頼む」
「……わかった。首を、さし、だしておくれよ、山姥切国広」
妖とはいえ、頭と胴体が離れたら死ねるはずだ。僕は何も言わずに本体を振りあげた。死を乞う山姥切にかける言葉を持たず、僕だって掲げた刀身が震えていた。兼定の矜持が、邪魔だと初めて思った。
山姥切の首を落とした。
斬った首をつかんでぶら下げたまま、本体を踏み砕いて粉々にする。破壊された山姥切国広は、これで本霊の元へ戻ることができるはずだ。
そのはずだ。どうしてだ?
──山姥切の肉体が消えない。
思えば鯰尾もそうだった。肉体が刀に戻らない。穢れた妖の血に触れたものは、刀ではなくなるのか。
刀解も刀剣破壊も意味を失い、本霊のもとにもどれず、折れても死んでもどこにもいけず、ただの人の形をしたなにかに変わる。
すでに僕も、そうなっているのか。それでは、なんだ、ここにいるものは?
刀剣男士か。人か刀か。妖か。どれも違う。何にもなりきれていない。今の僕は──弟に敗れ嗤われ怯えて立ちすくむ、ただの負け犬の兄じゃないか。
納屋にあった予備のシーツで山姥切の身体を包んで、土を掘って埋めている間、自問し続けていた。本当に僕は文系名刀の歌仙兼定なのだろうか。誰も答えをくれない。僕も持っていない。
端末が鳴った。肩がはねる。主か。あの人の感情のない声を思うと、なぜか背筋が冷たくなった。
連絡をよこしたのはこんのすけだ。息をひとつ吐く。聞こえてきた声はお小夜のものだった。
『之定』
「お小夜。どうかしたかい」
『之定、聞こえますか。本丸の様子がおかしいんだ。調査部隊の帰還命令が主から来ています。ほかの部隊も戻ってきてるところで……聞こえていますか、之定』
「聞こえているよお小夜。すぐに帰還する」
やはり主に、尋ねなければならないだろう。一度確かめれば不安は消える。山姥切の疑いは誤解だと言って、流されやすい僕を叱ってくれる。
主は僕らが育てたのだ。正しい男に成った。大切な者を幾度も失って苦しんでいるはずだ。刀も人も利用しその命をもてあそぶような、悪鬼のような所業を望んで行うはずがない。
なにも見なかったふりはできない。聞かなかったことにはならない。目も耳もふさいではならない。僕は刀剣男士を生み振るう審神者を信じ、彼の目指すものを見届けなければ。
「こちらの任務は終わったよ。もうすこし待っていてくれ」
逃げろと山姥切は言い残した。この時本当に逃げていれば、主の元に戻らなければ──ほかの未来があっただろうかと、あとで考えることがある。
山姥切の遺言に背いたのは、きっと間違いだったのだろう。そうだとしても、お小夜や仲間たちを見捨てて、ひとりでどこかへ行けるはずがなかったのだ。
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