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禍津騙(5)
【5-1 光陣】
僕がゲートをくぐったことで廃棄本丸の処理システムが起動し、漂流本丸は次元ごと圧縮されて崩壊した。馴染んだ景色が視界に現れる。浮鷺山のふもとにある鳥乃浦市役所の、殺風景なエレベータホール。
僕が乗ってきた転送装置を、武装集団が取り囲んでいる。
政府機関の制式拳銃がこちらに突きつけられている。ともに漂流本丸探索任務にあたっていた調査員たちが拘束されていた。僕の本丸の前田と厚は、柱に背中をつけた格好で、符を貼られて無力化されている。
「路考という。所属は政府の監査部」
武装した男のひとりが身分証を掲げた。付喪神の目には真名が見えないように、特殊な処理が施してある。
「仙斎本丸初期刀歌仙兼定。審神者仙斎、呪物類所持等取締法違反の疑いにより、貴殿を証拠品として押収する」
僕にも前田たちへ貼られているものと同じ符が貼りつけられる。途端に力が抜けて、その場に座りこんだ。医官がやってきて、祓具を使って僕の穢れを落とそうと試みているが、汚れた血が付着したままの身体をうまく清められないでいる。
彼らにとって刀の僕はただの置物であるらしく、証拠品の凶器として短刀二振りのところへひとまとめに追いやられた。『一時保管』の札を置かれる。前田と厚が飛びついてきた。
「のん兄。ご無事で本当によかった」
「あの化け物をやっつけたんだよな。やっぱすげーや。血まみれだけど怪我とかねーか?」
「平気さ。返り血だよ。その、大変なことになっているけれど……部隊のほかのみんなはいっしょじゃないのかい」
「本丸から緊急の呼び戻しがあったんだ。オレたちだけ残ってのん兄を待ってた」
前田が、預けた紐を首元に巻きなおしてくれた。手のなかでもし消えてしまったらと、気が気ではなかったと付けくわえられる。
ずいぶん心配をかけてしまった。ふたりの頭を撫でるには手が汚れすぎていたから、頷くにとどめておく。
「政府の監査部ってのが、いきなりオレたちに言いがかりつけてきてさー。調査の奴らとのやりとりを聞いてると、うちの担当がどうやら悪い奴だったらしいんだけど。オレは顔見たこともないんだよなー」
「主君は巻きこまれてしまったのでしょう。それよりも今は本丸が心配です……」
小夜左文字からの連絡は、かなり切羽詰まった様子だった。お小夜は、生半可なことでは、任務先の僕に通信なんて入れてこない。足止めを食らっている時間が惜しいが 監査部と調査部の睨みあいを見ていると、しばらくは離してもらえそうにない。
神を鎮める符に妖を祓う力はない。喰らった禍刀や穢れた禍津国広の血が、僕に力を与えてくれていた。鯉口を切る。戦場へ向かうには心もとないが、人間を制圧する程度なら造作もない。
初期刀にして近侍の歌仙兼定とも思えない、あまりの短気。前田と厚の口が開いた。
そのとき、警報が作動した。僕の抜刀を見咎めたにしては、あまりにも早い対応。どうやら別件だ。銃声が響く。
「職員は全員退避! 警備部は持ち場につけ。歴史修正主義者の襲撃だ!」
やにわに、帯刀した人影がホールになだれこんできた。
──時間遡行軍の打刀部隊。
刀の付喪神の力を結集して、なお打ち滅ぼすことが果たせない異形を相手に、人の身がかなうわけがない。一人、また一人と政府職員が斬られていく。
建物じゅうから戦の音が聞こえてくる。エレベータホールにまで侵入を許しているくらいだから、制圧されるのも時間の問題だ。混乱に乗じてこの場を抜けるにしても、符に力を奪われている身で、時間遡行軍の相手をするのは分が悪そうだ。
監査部の人間に交渉してみるか。刀剣男士を物と侮る無作法者だが、窮地に立たされた人はいとも簡単に手のひらをかえすものだ。
僕が切りだす前に路考とやらが戻ってきて、封印の符をひっぺがしてくれた。
「歴史修正主義者はこちらで食い止める。貴殿ら三振りはすみやかに本丸に戻ってもらう」
路考の物言いは意外だった。都合の良いときばかり神を崇める種類の人間なら、時間遡行軍と戦って人を守れと言い出すに違いないと考えていた。
「我々は仙斎の呪いを阻止するために動いている。鬼にまだ声が届くとしたら、それは初期刀の貴殿の声でしかありえないのだ。貴殿の呼び声さえ届かないその時は……」
路考は僕の目をしっかりと見すえた。
「審神者を斬っていただかなくてはならなくなる」
拳が飛んでいた。怒りに操られた者の行動は単純だ。前田と厚が即座に反応して、こちらの右腕に取りついて勢いを殺す。
気がつくと相手は床の上に仰向けに倒れていた。二振りが威力を削いだとはいえ、刀剣男士の殴打を受けて原形をとどめている。頑丈な人間だ。
「ふざけるな。主を斬れだと、僕に──親に子を斬れというのか、人間。万死に値する」
「詭弁だな。自分の子どもを叱れんようでは、歌仙殿は人の親にはなれんよ」
「……そんなことはとうにわかっている」
斬って殺すばかりで命を生まない鋼の身には、本当の親の心など宿らない。
主はそれでも僕を愛してくれている。父親を守れなかった役立たずの刀、息子を殺した憎い刀、それと同じ物質でできた刀剣男士のことを大切に扱ってくれる。
そんな優しい人だからこそ、僕が守って願いに応えてやらねば。憎き仇どもを皆殺しにすれば、昔みたいに笑ってくれるはずなのだから──。
僕らは足早にその場を去った。早く主のところへ戻らなければ。
【5-2 帰途】
ゲートにIDを通し、転送先を僕の本丸へ設定した。エラー。転移装置が使えない。本丸側から封鎖されているようだ。帰り道の山中は、政府監査部と時間遡行軍に挟まれる形になるが、他に方法はないか。
前田と厚が僕の怒りに怯えているのがわかる。怖い顔をした大人と組まされたらそうなるだろう。歌仙兼定が怒ったら誰かが泣くと山姥切に忠告されたばかりだ。
弟がああだから、僕は怒らないようにしなければ。声を荒げず笑顔を浮かべて、常に雅な刀剣男士であれ、歌仙兼定。所作を取り繕いながら市役所の外に出たところで足が止まった。
宵の空いっぱいに、不可思議な紋様が浮かんでいる。
背中に短刀ふたりがぶつかった。恐る恐る見あげてきた無垢な目が、困惑にすがまる。
空の紋様から、山の中腹に向かって一筋の光が伸びていた。
前に同じものを見た覚えがある。あれは、坊の本丸が落ちる少し前だった。時間遡行軍をあぶりだすために政府が施した、索敵の術式と聞かされている。
あの辺りにあるのは、禊の洞窟くらいだが──そもそも術は襲撃者に反応していない。精度が低いにしても粗末過ぎる。秘密主義の上のことだから、目的が根本から違うのか?
──急ごう。みんなが待っている。
僕らの本丸は、ふもとの市役所から丑寅の方角の山中にある。危険な現世に置かれたのは、山に満ちる豊富な霊力を目くらましにして、幼い主の身を敵から隠すためだった。
急な石段が延々と続き、途中で本丸と、主が祖父から受け継いだ小さな神社へと道が分かれている。夜坂の名をいただいたこの社は、ほとんど誰からも見落とされ忘れられながら、途方もなく古くから続いてきたという。
大社とは逆向きの本殿に主として祀られる神は、神産みの神にして製鉄の神でもあらせられる、人と僕らを生み出した創造神伊耶那美様。
この国のはじまりの物語によると、伊耶那美様は天地開闢において生まれ、国を創りだしてあまたの神々の母となったが、ある時火の神を産んだ火傷がもとで亡くなってしまった。
伊耶那美様のつがい伊耶那岐様は、亡き妻をよみがえらせるために、現世と黄泉の境界、黄泉比良坂に赴いた。しかし、堕ちた妻の腐乱した姿を恐れて逃げ出してしまう。
伊耶那美様は激怒した。現世を見限って黄泉を統べる黄泉津大神となられ、生命を日に千殺すと呪いをかけた。夫婦の喧嘩はどこも物凄まじい。
神話が生まれた地に暮らしていると、様々な神蹟を目にする機会がある。死の国の伝説に満ちたこの山は、入った人は恐ろしいような気がするというが、僕らは霊力に満たされた心地の良い空気を感じるばかりだ。
物に宿った付喪神だからかもしれない。人の形が壊れることを、便宜上死と呼ぶようになったけれど、あの世は人のためにある。僕らに約束された彼岸はない。
だから刀剣男士には、死そのものである黄泉のにおいがわからないのではないか。
雪が降っている。少し前まで電気仕掛けの夏の景色に囲まれていたから、不思議な感じだ。空から落ちてくる白くて冷たい氷の結晶は風流だけれど、そう喜べるような穏やかな時間が再び戻ってくるといい。
山道には時間遡行軍の気配が濃い。政府側は部隊に刀剣男士を組みこまず、祓い屋ばかり連れて歩いているところを襲われて全滅寸前だ。刀傷を刻まれた屍がごろごろ転がっている。
戦線が崩壊している政府の連中は放っておいて、時間遡行軍の排除を優先する。飛びかかってくる敵短刀を斬り捨て、すり減った石階段を駆けあがっていく。
敵に本丸を襲われる、主を喰われる──それは僕にとっては、鬼を、山姥を前にするより恐ろしい。
頭上に本丸の影が見えてきた。まだ燃えていない。門に張られた、登録された本丸の男士のみを認識する外敵防御結界が生きていた。みんなは無事だ、唇をかみしめる。
門の内側に肩を入れたところで、靴底で触れた砕石が淡く光った。
地面の下から突きあげるような衝撃が襲ってきた。立っていられないほどに激しく揺れる。膝をつき、顎が自然と上がる。
空の紋様が近い。地上へ迫ってくる。
深くて暗い穴の底に沈んでいくような、不穏な感覚を肌に覚えて前田と厚を抱えた。光が僕らを目がけて落ちてくる──。
【5-3 落下】
瞼を閉じても開いても目の前は真っ暗で、半端に浮いた感覚が続いている。腕のなかが、ふたりの子どもの体温でぬくもっている。
「……無事かい? 前田くん、厚くん」
「ああ……身体はどこもなんともないみたいだ」
夜空に浮いていた光の陣が落っこちてきて、本丸が押しつぶされ、僕らごと地の底へ沈んでいく幻影を見ていた。あれは夢だったのだろうか。
どこからどこまでが夢だったのだろうか。
周囲は異様な闇に覆われていた。月も星もない。打刀の僕は、短刀や脇差ほどではないが闇のなかで目がきくはずだが、ほんの数歩先が見えない。窓のない蔵に閉じこめられたかのような、こんな黒い夜は初めてだ。
冷たい氷の粒が風に流されて僕らの肌を叩き、乾いた音を立てている。さっきよりも雪の勢いが強くなってきている。
やがて徐々に目が慣れはじめた。遠くにかすかな光の点が見える。誰かの部屋の明かりだろうか?
「のん兄。目が……」
「僕がどうかしたかい?」
前田の声が、かすかに震えている。
「赤く……光っています」
妖の血を浴びたせいで、身の穢れが進んでいるようだ。石切丸を見つけてはやく祓ってもらおう。
「またお小言だねぇ……」
つぶやくと、ふたりは安堵したように笑った。
「よかった。いつもどおりののん兄だ」
「ごめんなさい。すこしだけ、怖いと思ってしまいました」
「謝るのは僕のほうさ。感情の乱れに振りまわされて皆に当たり散らすなんて、雅にほど遠い。改めて今後僕は怒らないと誓おう」
「いや。うーん。悪い奴相手にしたときとか、こっちがまずいことしたなって場合は、怒ってもらえないほうがヤだな」
「そういうものかな。ではせめて、みっともない短気を起こさないように気をつけることにするよ」
ふらふらとたよりのない足取りで歩いている短刀ふたりを見かねて、手を引いてやった。暗視がきく短刀がこの様子では、周囲の闇は本丸を覆う瘴気によるものか。
僕らが目指したうすぼんやりとした光の正体は、短刀長屋の灯篭の明かりだった。短刀たちは数が多いから、彼らと縁のある者たちとで長屋一棟を使っている。
玄関奥から水草の詰まった水槽をかき混ぜるような奇妙な物音がする。扉を開けた僕らは、大きな猿の化け物に出くわした。
石燕が画図に描いた山童のように毛むくじゃらの一つ目で、無性に人に似たその姿は、原型が時間遡行軍の打刀だったことをかろうじて思い起こさせる。真っ黒の眼球が僕を射た。
化け物が放った首が、重い音をたてて落ちる。平野の頭だ。すでにこときれている。
──のん兄。
二匹目の猿に、生きながら喰われている五虎退の唇がかすかに動いた。
僕の顔を映して安堵に目が緩む。絶望のなかでようやく信頼する者を見つけて救いを得た顔。それが──。
叩き潰された。
「──は?」
鉄塊にしか見えない得物をつかんだ醜い腕を、衝動的に刺している。前田と厚が針に似た毛がびっしりと生えた背中を。三本の刃で串刺しにされて猿はなお動く。
「やめなさい!」
「兄弟を殺したな!」
「万死に値するぞッ!」
手ごたえは粘土のようだ。頼りない。刺突が効いていない。
化け物はうっとおしそうに鉄塊を横薙ぎに払った。振り飛ばされた身体に温かい血しぶきが降り注ぐ。殺され喰われゆく、僕の仲間の血が。
妖に穢された死体は刀に戻らない。五虎退、平野。ふがいない初期刀を何度も助けてくれた二振りに、肉を喰われて消えるなどという刀の恥を味あわせた者を、ただで済ませるものか。
刺しても生きるならねじ切ればいい。首を斬っただけでは、それがしばらく生きることを知っている。刀と妖を混ぜたときに生まれるその失敗作を、何度も殺してきた。
獣の首を落とした。前田と厚はすぐに、突いても死なないなら斬ればいいのだと理解した。首も腕も足も、細いところから切り離してしまう。肉片になるまで斬って刻む。
異様な生命力を持ってはいるが、特に秀でた能力もない。しぶといだけだ。この程度の化け刀に、室内では僕より動ける平野と五虎退がやられたなんて嘘だろう。
この猿どもが仲間をやったのではないのか?
それならば──この猿の化け物が、偶然見つけた重傷者に集っていただけだとしたら。
この猿とは別のもっとわけのわからない存在が先にやってきて、ふたりを殺し長屋を離れたということになる。いや──本当に、立ち去ったのだろうか。
背筋を凍らせる威圧感が、長屋奥の闇からほとばしった。全身からいやな汗が噴き出す。まだそばに何かいる。近い。猿どもを殺す音を聞きつけて戻ってきたか。
長い廊下を、奇妙なほどに足音をさせずに、黒い影が這い進んでくる。枯れ枝のごとき細い手で、全身を引きずって動いているのだ。
あんな姿に変異した刀は見たことがない。正体はまだ知れないが、妖は斬れば死ぬ。禍津国広のように、どれだけ規格外に感じても、畏れず、怯えず、逃げなければ殺せる敵だとわかっている。
鬼を殺すのだろう、歌仙兼定。仲間を殺した奴らに復讐する。誰にも臆病者とは言わせない。
短刀二振りは、とくに厚は機動が速い。自分たちの臆病を恥じるように先手を打った。小さくてすばしっこい背中に続く。
闇の奥から無数の白い手が生えてきて、僕の足首をつかんだ。引き倒される。腕を、刀をとられる。数が多すぎて振り払いきれない。強い力で口をふさがれ、目をふさがれ、床に押しつけられた。しくじったか。顎をつかむ手に噛みつこうと口を開けたとき、僕の名を呼ぶ馴染んだ囁き声と、頭上でなにか硬いものが砕ける音が響いた。
厚と前田の気配が、消えた。
床に縫いつけられた身体の横を、濡れた布を引きずる音をさせながらなにかが通り過ぎ、遠ざかっていく。
すべての音が消えてから、ようやく僕は自由を取り戻した。
「なぜ止めたのかをどうか聞かせておくれ。薬研」
口をふさいでいた手は薬研のものだった。目を覆い、僕に馬乗りになっていたのは、乱と鯰尾、骨喰。鳴狐もいる。
粟田口の兄弟たちに混じって蛍丸の顔があった。同室の愛染の姿は見えない。
「この粟田口らが、兄弟をやった仇を見逃す理由を考えろ歌仙。あんたが考えているより、ずっと殺してやりたいと思ってる」
薬研の色の薄い目が僕を絡めとる。抱えるようにして僕を立ちあがらせてくれた。
「死んだふたりを運んでくれねぇか。あんたは身体が大きい。そこじゃ床が硬いし寒いだろう」
「あ、ああ……」
『折れた』と、薬研は言わなかった。
平野と五虎退だった亡骸を抱え上げて、布団を敷いた上に、人の形に整えて寝かせた。まだ温かい。兄弟たちが瞼を閉じさせてやった。手を握り、そっと離れる。
「あの得体のしれない黒い影は、目が見えてはいないようだ。たぶん、触れた者から人の身の寿命のようなものを抜いていたんだろう。人間か、練度の低い刀だったら、目が合っただけで死んじまっただろうな」
「誰がやられたんだい」
「秋田に後藤だ。ここにいるやつら以外は、もう駄目だろう。母屋のほうでは、きっとまだ誰も気がついてない。知らせてやらねぇとどんどん死ぬ」
「主は……」
「大将の帰還命令を聞いたが、それっきり音信不通だ」
政府が主の身柄を拘束したがっている。どこかへ身を隠しているのだろう。
まずは正体不明の敵の襲来を、母屋にいる仲間に知らせよう。
長屋の表の闇のそこかしこで、赤い光がちらめいている。妖の目はそのものが光を放っている。明かりがない暗闇で、先ほどの黒い影や変異した刀といきなり出くわすのは避けたい。
幸い僕はすこしだけ目が慣れてきたみたいだ。敵が離れていったところを一気に母屋まで駆け抜けよう。
「歌仙。その光る目、化け物とそっくりだ。歌仙兼定が何をやらされてるのか、本丸の連中は薄々気づいてるぜ」
「みんなに迷惑をかけるつもりはないよ」
「心配をかけるのも迷惑をかけるのも同じだ。でかいなりして、ガキはなにもわかってねえな。空に浮かんでいた光の陣も、化け物の身体の紋も、あんたに刻まれた印とそっくりだ。今更隠し事はよさねぇか」
薬研が僕の胸を指でついた。穢れに蝕まれて熱を出した僕を何度も看てくれていたから、この身体に刻まれた呪を知っている。
「気に障ったら殴ってくれてかまわねぇ。あんたと弟は性格がそっくりだっただろう。そうやってひとりで抱えこんでるうちに、和泉守は最悪の結末に辿りついちまったんじゃないか」
和泉守兼定に関していちばん気に食わないのは、あの男が大事なことをなにも僕に言わなかったことだ。僕は、憎い弟と同じことを仲間にしていたのか。
* * *
報告書の作成用に持ちこんだ端末を使って、審神者のアカウントを呼び出す。パスワードに真名を使うもので、常なら刀剣男士が閲覧できるものではない。
あまり考えたくはなかったが──今回の怪異は政府の一部と主が手を組んで引き起こしたものだ。外部に被害を広めないようにしなければ。審神者の権限を使って同業者の端末に繋ごうと試みる。
「うまくいったか?」
「いや。指紋と瞳孔の本人認証がうまくいかない」
すこしでも状況を知りたい。メールボックスを下に繰っていく。
──禍刀剣制作依頼。
政府から見覚えのない指令が届いている。メールはすでに開封済み。
──貴本丸初期刀の妖刀強化に際して、『黄泉返術式』を支給する。受取箱を確認のこと。
術式発動後、本丸内に放たれた黄泉戦は、準備した刀剣男士を喰らいつくすまで稼働し続ける。対象を結界外へ逃がすと致命的な事態になりうる。取り扱いには細心の注意を払うように。
政府が望み、審神者が応えたその実験の目的は、禍津日神の加護を受けた六振りの刀剣を創ることだった。
存在が現世の理をねじ曲げてしまうほどに強力な黄泉戦の鬼を、すでに顕現し練度を極めた丈夫な刀剣男士に閉じこめることで、至極の妖刀を生みだす。
契約はすでに交わされ、あの『本物の』鬼は、贄として捧げられた下位の神を喰らい尽くす。
──僕の主は、何を思ってこれほど恐ろしい所業に手を染めてしまったんだ。
「歌仙。気が抜けすぎ」
蛍丸の大太刀の鞘が、僕の着物を引っかけて壁にたたきつけた。確かに主の行き過ぎた非道に動揺し、ふぬけていたとはいえ、この刀は熊本城にいたころから変わらず乱暴が過ぎる。
一瞬前まで僕がいた場所に、黒い泥のようなものが降ってきた。窓を破り、空いた穴から黄泉戦の鬼が室内になだれこんでくる。
端末の光に感づかれたか。僕を救った蛍丸が正面から対峙した。中空で鞘から刀を引き抜き振るう。大太刀の一閃を、黒い手が受け止めた。
柄を握った蛍丸が急に動かなくなった。僕が子どもの姿をとった肉体を、薬研と乱が本体を握って引き、影から引きはがす。
瞳がうつろに開いていた。器の中身は空っぽだ。
「死んでる……」
撤退を叫ぼうと息を吸いこんだ瞬間、こときれている蛍丸を抱いた僕の目の前に、鏡あわせの顔が飛び出してきた。
水っぽい粘土に似た鬼の一部が、僕の顔の形に盛り上がっている。赤い目が不気味に弓形を描いた。
『おまえがこれまで、ずっとやってきたことさ』
僕の声が囁いた。
頭上からくすくす笑う声が聞こえてくる。前田。厚。影にさらわれてしまったふたりだ。無事だったのか。顔をあげて名前を呼ぶ。
天井に粘液の膜が張り、そこから実がなるように頭が生えている。
「前田くん。厚くん……」
前田と厚が、笑っている。
──のん兄。あはは、どう、どうなって、しまったのですか。僕は、うふふ、僕のからだは。
──へへ、なんで、ふふふ、なんでこんなに身体が、ははは。気持ちわりぃ、なんで、なんで。
少し前に亡骸を整えた五虎退と平野もいる。秋田、皆──死んだ仲間の首が僕を見下ろして笑っている。
闇のなかから、死んだ短刀たちの短い腕が、救いを求めるように差しだされた。掴まれた左手の皮膚が瞬時に溶け、恐るべき速度で呪いが血を侵食してくる。とっさに自分の左腕を斬り飛ばして下がった。
子どもたちが怯える僕の姿を嗤っている。あんなに耳に心地よかった短刀の笑い声が、今は恐怖をかきたてるばかりだ。
「──札を四隅に貼れ! 長屋を離脱しろ!」
薬研が怒鳴って指示を飛ばし、噛みきった指の血で依頼札に書き足しをして、即席の浄化符に仕立てあげて窓側の壁に貼りつけた。鯰尾と乱が左右へ。
僕は投石兵を召喚し、ありったけ石を投げさせている間に部屋から下がった。閉めた扉に鳴狐が符を貼り、簡易の封印陣を作る。
「だめだ。出てくる」
黄泉戦の鬼は、僕から奪った左腕を咀嚼しながら、扉を突き抜けて頭を出した。上位の神格に下位の付喪神が仕掛けた封印など、他愛のない悪戯と同じだ。
投石もまるで応えていない。妖を殺す一手になる僕の血も、そいつにはただの食物以上の意味がない。
長屋の壁を斬りさいて屋外へ飛び出した。
「どうするんだ歌仙。本丸の結界が刀剣男士を外へ逃がさない。ゲートの封鎖を解除できるのは大将だけだ。脱出は無理、奴を倒して仲間を救う方法を教えてくれ」
着物の切れ端で止血をしながら、薬研が早口で言った。
どうしようもない。刀の付喪神ごとき神の末席が、神話の存在に太刀打ちできるはずがないだろう。
「せめてあんな姿になる前に、みんなを折ってやるくらいしか思いつかない。本当に申し訳がない」
「……やっぱ、そうなるか。ちくしょう大将。敵を殺すために味方を殺すかよ」
この本丸は今夜終わる。後がない。救いの手が残されていない。粛々と死を待つしかないのなら、せめて大切なものを苦しめたくはなかった。
僕らはもう逃げられない。
【5-4 死】
最初に目を覚ました本丸が焼け落ち、再び取り戻した帰る場所を守ると誓った。それを今からこの手で滅ぼす。
「兄弟は任せてくれ。歌仙は他の仲間たちを。すぐに後を追う」
薬研が言った。乱が引きつった笑顔を浮かべて僕の袴を引っ張る。
「のん兄。ボクらのことも、ちゃんと殺してね」
「もちろんだよ。安心したまえ」
僕は疲れた笑顔を返した。みんなを殺す。主も殺す。死でしか誰も救えない。
母屋に突入して、まずは一期一振の姿を認めた。武装している。これから短刀長屋へ向かおうとしていたようだ。戦闘の名残りの返り血で汚れていた。
化け刀と交戦したあとだ。目があうと、こわばっていた表情が弟を前に緩んだ。
「薬研、乱。よかった。無事だったんだね。歌仙殿。弟たちを守ってくださって誠に──」
心からの信頼が恐ろしい。そんなものを向けられる資格が僕にはない。薬研と乱の刃が何も知らない長兄の胸を貫く。
一期一振は反応できなかった。夜戦適性のある短刀と夜目のきかない太刀の性能の違いは関係ない。
「いち兄。ごめんなさい」
「すまねぇ。こうするしか──」
弟に裏切られた瞬間の兄は、ただ笑顔を凍らせる。大切な弟が、自分を傷つけるはずがないというのが兄の前提だから、まずは自分になにか落ち度があったのかと考える。思考の空白が生まれる。
「おまえたち。いったい……なにが」
笑みの形に歪んだ唇が、吐いた血で赤く濡れる。見開いた瞳に、刃を向ける弟が映っている。
太刀を屠るには力が足りない。彼にとっての世界が壊れたのだと知る前に、せめて首を落としてやろうと繰りだした歌仙兼定の刃には、一期一振は反応した。
「歌仙殿、気でも狂われたか!」
「……そうさ。乱心したこの謀反刀がすべて悪いんだ。許しておくれ」
「なぜ泣いているのです。泣きたいのはこちらだ。私の弟たちになにを吹きこまれた?」
「歌仙は関係ない。俺らの意志だ。いち兄、頼む、今すぐに死んでくれ」
正気に戻った一期を、苦しませずに殺すのは困難だ。僕らにひたひたと迫りくる粘液の音が聞こえてきた。時間切れだ。折り損ねた。
黒い影がなだれこんでくる。短刀たちの亡骸を混ぜて、その肉と皮と骨と血の分だけ膨れて大きくなっている。泣き声か笑い声かもわからない叫びが腹の底に響いた。
割れてざらざらした声色を、僕は聞き分けることができない。
でも一期一振はそうではなかった。なぜかはわからない。兄弟だからというのは理由にならない。僕はたった一人の兼定の弟のことをなにもわからないのだから。
「ご、五虎退。厚」
怪物は、呑みこんだものの声を撒き散らして、さらなる餌をおびき寄せているのだ。
無数の手に握った短刀がこすれあって、耳障りな音を立てる。ときおり表面に顔のようなものが浮いてくる。目。鼻、口。耳。手足。あらゆる独立した部位。
喰った刀が肉体を抱えていたころの記憶をもとに、再構築しようとして失敗したような、なりそこないの器官が現れては消えていく。波のごとく流動する。
「歌仙殿。これは」
「主が禁術を使ったのさ……」
より多くの敵を殺す上位の神を造るために、刀剣男士が贄にされた。血肉も骨も皮も叩き潰されて、鬼の糧となってまだ生かされる。
「これは審神者の決定なのだから……僕らは逃げられない。折れて終われたらどれだけ救いか──」
「ああ五虎退。厚。前田。平野。秋田、後藤……あんなおぞましい……姿に」
「貴殿の首を獲れるほどに僕が強ければよかった。すまない──」
「歌仙殿。恨みますぞ」
「ああ、ぼ、僕のせいだ……」
「危なく私は……弟たちだけを、苦しませてしまうところだったではありませんか」
一期一振は──晴れ晴れとした顔をしていた。
おぞましい姿の鬼に向かって、一期はそっと手を広げた。正気とは思えない。まずい、弟の末路を目の当たりにして自棄になったのか。
「おいで。五虎退。厚。そんなに泣かなくていい。私がいっしょだよ」
「一期一振殿!」
「歌仙殿。わがままを聞いてくだされ。ひとりでおめおめと逃げることはできんのです。貴殿にならわかるでしょう」
一期一振の笑顔は、常と変わらず穏やかだ。
「私は……この子たちの兄なのですからな」
一期一振が、変質した弟たちの亡骸にめった刺しにされて斃れた。その表情は、最後の一瞬まで歪みすらしなかった。
一期が弟の前で負の感情をあらわにしたところを、僕はついに見なかった。
僕はいったいなにをやっているのだろう。
二年間もなにをやってきたのだろう。
脳裏に和泉守兼定の姿が浮かんだ。
この二年間、和泉守は、僕の記憶のなかから冷たい目をして兄を見下している。笑う顔を覚えていない。僕は鬼となった弟を憎んで怒りに身を委ね、魂を炎のように燃やして無為に生きてきた。
歌仙兼定は、死を前にしてなお弟に微笑みかけてやることなどできなかった。和泉守兼定への憎しみすら、自分が立っているために利用した。僕は弟に、正しい兄として胸を張れることを何ひとつしたことがない。
立ちすくむ僕の横を、生き残った粟田口の刀たちが通り過ぎていく。皆の顔にもう恐怖はない。一期一振と同じだ。鬼に向かって、死に向かって歩いていく。
「きみたち……!」
「すみません歌仙さん。僕らいち兄といっしょにいきます」
鯰尾が振り向いて微笑んだ。
「だめだ。いち兄は、きみたち弟が苦しむことなんて望んでいない。おいで。折ってあげるから、痛くないから」
「いつもボクたちに優しくしてくれてありがと。のん兄。大好きだったよ」
「さよならだ」
「すまねぇな、あとは任せた。兄弟を置いてはいけねぇんでな」
乱が、骨喰が薬研が離れていく。鳴狐の世話役の狐が、小さな頭を僕に向かって下げた。
僕の声は誰にも届かない。一期一振。粟田口の子どもたち。兄弟。僕の目の前で、自らの意志で大切な相手に殺されていく。
最後に残った僕へも、無数の短刀が向けられた。肩の後ろから美しく反った刀が突き出されて、弾ききれない刃を薙ぎ払った。
三日月宗近。
三日月を筆頭に、平安の頃に生まれた者は、高い神格を持つ雅の極致の刀ばかりだ。本丸の守護者にふさわしく、戦がもたらす穢れを浄化し、若い刀を見守り続けてきてくれた。
「ここは引き受けよう。皆を逃がしてやれ」
僕が生まれるよりもずっと前の時代から、人の子の愚かさを見てきたためか、滅びのさだめにうろたえた様子はない。
三日月の隣に、いやに得意そうに胸をそびやかして鶴丸が立った。
「きみだけじゃあだめだな。俺の助けが必要だろう……って言ってみたかったんだよなぁ三日月に! 聞いたか歌仙、この五条の鶴丸が三条宗近の刀に言ってやったぞ! かっこよくて強いだろう!」
「おまえは、初めて会うた時からひとつも変わらんわんぱく小僧だなぁ」
三日月はのんびりと笑っている。膝をついた僕を、岩融が立ちあがらせてくれた。僕を頭からつま先まで侵す穢れに、石切丸がまたお小言を言いたそうな顔をしている。
「おまえのかわいらしい兄さまが探していたから、早う顔を見せてやれ。行け歌仙」
座敷牢に閉じこめられた主の娘の守護者が、僕の前にいる。三日月が孫と呼ぶあの娘も、もう生きてはいないのだと知った。
「そうだそうだ。ひとつ頼みがあるのだが」
「何なりと。三日月殿」
「いつかどこかで誰かに、じじいのどーなつを作ってやってくれ。あれは、うまいものだからな」
水面に映る月の姿はぶれなかった。約束はできなかったけれど僕は進んだ。
仲間を逃がせと三日月は言った。自棄を起こしかけていたのは僕だ。このどうしようもない結末を選び取った主を殺し、彼らのかわりに救える者を救う方法を探す。
──本当のところは、僕は逃げ出したのだ。僕とは格の違う憧れの先達が、無残に殺されゆく光景に背を向けて。
本丸は死に囲まれていた。刃を交える音が四方から絶え間なく響いてくる。火の手があがり始め、濃い闇に潜んでいたおぞましい化け物どもの姿を照らだした。
物のお化けの僕らが、百鬼夜行に出くわした人間のように、不条理な死をもたらす妖を恐れて滑稽に逃げまどう。
無機物が人の心を得た対価を、僕らは極めつけの恐怖をもって支払わされているのだろうか。そうだとしたら、僕らを生んだ存在は残酷すぎる。
大太刀のなれの果てと相対していた蜂須賀が、生きた黒い波に絡めとられた。金梨子地の本体が赤く錆びて溶けていく。神気ごと喰われている──。
「蜂須賀!」
「うるさい! 贋作が! 浦島を折らせたら絶対に許さんぞ!」
浦島を抱えた長曽祢に叫んだ。蜂須賀が声を荒げるのは兄にだけだ。
「蜂須賀兄ちゃん。いやだよ。俺たち兄弟三人でいっしょにいようよ」
長曽祢の無骨な手が、泣きべそをかいた浦島の明るい金髪頭を、駆けよった僕のほうへ押し出した。
「歌仙殿の心が、今すこしばかりわかった。弟の身になにかあるというのは、とても恐ろしいものなのだな。……浦島虎徹を頼み申す!!」
長曽祢の声は体格と同じく大きい。この新選組の刀が顕現したときには、第一声で鍛刀部屋の壁も天井もびりびりと震えた。
弟の目にかなった友人なら立派な刀に違いないと頭ではわかっていても、山賊の頭目もかくやという、目つきの鋭いひげ面が突然目の前に現れて大音量で挨拶を浴びせかけてくるのだ。七百年来の人見知りを通してきた文系ならば、膝から崩れ落ちそうになるのが道理。
その大きな声に、僕が抱えきれるかもわからないほど大きな信頼を、疑うことなく乗せていた。長曽祢は欠けた蜂須賀を引きずり出し、勝ち目のない戦に挑んでいった。
「贋作のくせにでしゃばるな! おまえになにができるというんだ!」
壊れかけた刀をなおも握りなおして、蜂須賀が悔しげにうめいた。
蜂須賀の複雑な気持ちを、長曽祢はすべて知っている。だから兄弟喧嘩にもならなかった。でも今日は兄の方が言われっぱなしではない。
「ああ贋作だ。だがおまえの兄だ、悪いか!」
弟と向きあうときは、いつも叱られた熊のように情けない顔をしていた長曽祢が、初めて怒鳴り返した。
天井が軋む。不穏な予感を覚えて、浦島を抱えて転げるように鍛錬場を飛び出した。直後、建物が崩落する。
意志を持った黒い血の海が、大量に屋根裏に満ち、薄い板を重みで押しつぶしたのだ。蜂須賀と長曽祢の姿が見えなくなる。
「兄ちゃん」
「浦島くん」
見失った兄のもとへ戻ろうとする浦島を、亀ごと引きずっていく。生かさなければ。兄ふたりが僕に任せたのだから。
「歌仙。俺だって虎徹だし、刀だし、兄ちゃん見捨てて逃げ出すなまくらじゃないんだ」
「無謀だ。退避する。きみを守ろうとした兄さんたちの言うことを聞きなさい」
浦島のくしゃくしゃの泣き顔がぶれた。振り向きざまに頬を張られたのだと理解するまで、すこし時間がかかった。
「歌仙は兄貴だから、弟だって兄ちゃん守れんだって知らないんだ」
揺れる瞳が睨みあげてくる。弟から兄への憤りを向けられている。守られた者の守る者への怒りが、僕とは正反対の性質をしている虎徹の末弟の瞳に火の粉を散らせている。
兄と揃いの装具をひらめかせて、浦島が本体を手に化け物に突きこんでいった。
止める間もなかった。練度の概念などすでに無意味で、餌が捕食者に向かっていくのと同じだ。目の前でまた一人死ぬ。僕は誰も救えない。
「之定。こっちです」
鍛錬場から母屋のほうへ伸びる廊下から、見慣れた青い頭が鋭く叫んだ。雨のように降り注いでくる火の粉が髪を燃やすのを払いながら、血肉の泉を避けて小夜左文字のもとへ駆ける。
お小夜は、左文字の兄と一緒だった。こんのすけを連れている。小さな兄の身体にとりすがって、生きているのだと実感した。
「お小夜。み、みんなが──」
「之定……落ち着いて。泣いている場合ではないでしょう……」
静かな声でたしなめられて、僕は自分が泣いていることに気がついた。涙を流す資格なんてない。袖で瞼をこする。無様さを見かねた宗三が、横から雪輪の手ぬぐいを出して、やかんでも磨くように乱暴に僕の顔をぬぐった。
「ジメジメウジウジ泣いて暮らすのは勝手ですが、お小夜の前ではやめてください。そのみっともない顔を今すぐなんとかなさい」
無数の刀を握る腕を蠢かせて鬼が迫ってくる。餓えと渇きにもだえ苦しみながら、新鮮な贄を狂おしいほどに求めているのだ。
宗三と江雪が鯉口をきった。
「誤解をしないでほしいんですけど、私はお小夜を守りたいだけ。兄としての務めを果たすだけ。そこにたまたまおまけがついていただけですから、本当に誤解をしないでくださいね」
「戦は嫌いですが……弟たちを守るためなら、やぶさかではありません……。お小夜の弟は、左文字の弟。……歌仙殿。どうか、怪我などされないよう……」
「せいぜいお小夜に守ってもらうんですね。不肖の弟」
「僕が守るよ」
お小夜の小さな手を握るかわりに、残った片腕で歌仙兼定本体をつかんだ。兄に手を引いてもらっては僕は刀を振るえないから。
「お小夜は僕の兄さまだから、僕が守る」
「早く行きなさい」
心底どうでもよさそうな声が背後から返ってくる。
僕らは誰も振り向かなかった。
「お小夜。なにをしているんだい」
短刀の本体の刃を歯で噛んで、欠片を手のひらに吐き出す。僕には兄が何をしているのかまるで理解できない。
僕を見あげてくるやぶにらみの青い目は落ちついていた。お小夜は正気だ。
「之定。あなたはとても努力したけれど、やっぱりもともとの計算嫌いは……どうしても治らなかったよね」
「う、うん」
「人間の心も……もとをたどれば機械と同じ、ただの電気信号なんだって知ってましたか」
「それは、そう考える人間もいるという話だろう」
肉の身体の頭の部分にある脳は、たえず弱い電気を発している。心の動きによって振幅を変えながら、常に揺れ動いている。
僕が風流とか雅とか思うのは、人の肉体に備えつけられた感覚器がとらえた外部情報を、神経細胞がある種の電気信号として脳に運んだ結果生まれるのだという。
本当か嘘かは知らないし、仮に本当だとしても僕らにあてはまるかどうか。物に宿った神を電気だなんだと勝手に定義されても困るし、僕はただの文系だから思考実験は肌にあわない。良い茶器を見て雅というクオリアだなんて考えない。
白い狐がお小夜の前にやってきて、隈取りの顔を上げて顎をそらした。
「こんのすけは覚悟を決めました。やってください、小夜左文字さま」
お小夜はこんのすけのうなじの皮をつまんで、肉のなかに欠けた刃を埋めこんだ。
「こんのすけの電気信号に、小夜左文字の欠片を通電させる……。刃に心が宿るなら、僕はすこしずつこんのすけに宿っていくはずだから……外の誰かが、気づいてくれると思うんだ」
「クダギツネの仕事は主さまのサポートですが、問題のあった本丸を通報するのも立派な役目。チェックの際に、すでに仙斎さまに抱きこまれたと思われる担当者よりも上にいるものが、エラーに目をとめてくれればいいのですが……」
お小夜はこんのすけを胸に抱いて、水路のほうへ歩き出した。慌ててついていこうとする僕を睨んで首を振る。
「結界があるから……僕らは閉じこめられたままだ。人が抜けられるほどの大きな穴は無理だけど、こんのすけが外へ出られるくらいの抜け道なら……知ってる。主にいちばん近い之定は結界の解き方を探して、みんなに伝えてください……。もし僕になにかがあっても、これからはこんのすけが之定を助けてくれるから……」
「そんなこと聞きたくないよ、お小夜」
「之定……。ここで分かれよう。すこしでも遠くまで逃げて……」
迷宮柄の袈裟を握った。お小夜から離れるなんて冗談じゃない。ここで見送ったらもう二度と会えないとわかっているのに、誰が行かせるものか。
「お願いだからいっしょにいよう。僕にだって手伝えることがたくさんあるとも。計算だって何だってやればやれるものさ。きみを守ると約束したんだ。お小夜にはこの歌仙兼定が絶対に必要だ」
「いけません。之定。わがままを言って小夜兄さまを困らせないで」
「いやだ」
お小夜の名付け親は僕の主の父上だった。そのせいか、僕が兄を見下ろすほどに大きくなった今も、お小夜の僕への扱いは変わらない。
短刀の子どもの手は打刀の大人の頭にまでは届かない。だからお小夜の聞き分けのない子どもを諭す手は、僕の着物の袖を撫でる。
「やるべきことをやる。僕らは刀だ。人のように駄々をこねないでください」
「やだ」
お小夜は慣れた様子で僕を突き放した。ぐずりだしてもほだされない。僕という刀の扱いにこれほど長けている者もいない。
「約束するから……あとで必ずまた会えますよ」
果たす気もない約束を交わすのは、まぎれもなく大人のずるいやり方だ。
いつも人気が絶えない炊事場には、誰の姿もなかった。
「燭台切。どこだい。みんなを逃がさないと。手伝ってくれ。僕ひとりじゃ間にあわない。燭台切。どこだ。大倶利伽羅。おい田舎刀。燭台切を呼んできてくれ。こんなときにまで慣れあわなくてどうする。みんな──」
みんな、どこへ行ってしまったんだ。
すべて儚い夢まぼろしだったとでも?
僕は、生まれ落ちた本丸が燃えたあの日に戻ってきたのだろうか。
炎に包まれた刹那のまどろみのなかで、何十年ぶんもの幸せな夢を見ていて、いま目が覚めて現実に戻ってきたのだろうか。
炎上する本丸で歌仙兼定が一振りきりでうずくまっている、主も和泉守も生き残らなかった本当の歴史に──。
【5-5 敗走】
縁側にひとりで座っている、なじみの祭服姿を見つけた。血のにおいも死の気配も彼のところには届いていない。
僕は長谷部の前に立った。すがめられた目に白い小さな光がちらついている。
「長谷部。ここはもう終わりだ。本丸を出よう」
「ああ歌仙か。今な、主がきて俺を褒めてくれたんだ。この本丸筆頭の近侍に命じられた。どうもさっきから誉の桜が散ってかなわん」
「──雪だよ」
雪が静かに降り続いている。
現世にあるこの本丸の景趣は、うつろいゆく季節のままに、なんの手も加えられてはいない。電気のにおいのする人工の景色と違い、こちらへ遠慮なく牙をむいてくる。
稲を、畑の野菜を何度駄目にしたかしれないし、雨漏りの雫が落ちてくるところへバケツを並べたり、吹き飛ばされた屋根瓦を補修したりと、苦労をしたことは数えきれない。
扱い辛くて愛おしいありのままの世界だった。
頭と肩にうすく雪を積もらせた長谷部が、得意そうな顔で帳簿を広げた。
「見ろ、とうとう俺はおまえに追いついたぞ。出陣表にきちんと評価が出ているだろう、練度が並べば俺のほうが底力が強い。誉の数も主に任せられた仕事の数も俺のほうが上。おまえが俺に勝っているところなんてせいぜい飯炊きの腕前くらいだ。これからは畑と馬の番だけやって暮らすがいい。文句は聞かんぞ、せいぜいお守りの和泉守に泣きついて慰めてもらうんだな」
顔を意地の悪い形にゆがめる。
帳簿は白紙だ。ずいぶん前からひとつも筆が入っていない。
この刀のなかの本丸の時間は、いちばん穏やかだった瞬間で止まってしまっている。
近侍の長谷部は、主のおぞましい宿願とやらにつきあっていたのだ。この歌仙兼定にはなにも言わずに。
今の僕と同じように肉の身体をいじられて、得体のしれない呪いを呑んで、魂にまで楔を打ちこむほどの強さで禁術が組みこまれるのに耐え続けて、最後にこうなったのだろう。
「ねぇ長谷部。きみがどれほど途方もない努力を重ねてきたかを、僕は知っているんだよ」
刀剣男士として顕現してから何十年にもなる僕に、たった十年かそこらで追いついてきたんだから。
人の身を得るより前の時代のことだ。若いころの僕は、憧れをこめて魔王の手に握られた長谷部国重の刀を見あげたものだった。まさか細川家と軋轢のある黒田家に下げ渡された挙句にこんな面倒くさい偏屈者になるとは思いもしなかったけれど。
「きみが思うよりずっと前から、歌仙兼定はへし切長谷部を尊敬しているんだ」
「そうだろう。殊勝な物言いもできるじゃないか。気味が悪いが。そうだな、俺の気が向けば特別に遠征任務の許可をくれてもいい。おまえは旅が好きだからな。仕事を選り好みするなどもってのほかだが。和泉守に土産のひとつでも買ってきてやれ。初期刀のおまえたちが兄弟喧嘩をして本丸内の空気が悪くなっていると報告が入っている。おまえの弟は兄によく似て単純だ、団子のひとつでも渡せば機嫌を直すだろう。あくまでこれは主の本丸の環境を改善するための一環であって、断じて貴様ら瞬間湯沸かし器兄弟の心配をしているわけでは──」
べらべらと喋る。僕を馬鹿にする。ああ、壊れてしまったままだと、思う。
今ならわかる。近侍だった僕のかわりに手を汚すことを、はじめに主に持ち掛けたのは長谷部なのだろう。なぜ主の暴走を諫めなかったのかと怒りはわかない。結局どうにもならないし、本人だって壊れてしまっている。責めるなら頭のにぶい僕だ。
目を開けっぱなしでまくしたてるばかりの長谷部を、有無を言わせず背負った。
もう喋っているだけでいい。そこにいてくれればいい。僕をなじっていればいい。消えられるよりよほどましだ。
「ねえ長谷部。そろそろこの子どもみたいな喧嘩をやめないかい。練度も並んだし君が勝ったんだから、もう僕に恨みはないだろう。こっちはきみと仲良くしたいと思っているんだが。というか、きみは僕の数少ない気のおけない相手で友だちだと思っているんだが、その認識は改めなくていいかな」
「ふん。人見知りが今更なにを言い出すんだ、鳥肌が立つ。まあ歌仙、おまえがどうしてもと頭を下げて頼みこむのならこちらとしてもやぶさかでは──」
薙刀が降ってきた。岩融の亡骸を掴んだ黒い腕に、喋り続ける首を持っていかれた。
祭服で包んだ胴体が僕の背中から崩れ落ちていく。雪面に広がった長谷部の残骸が、さらさらと、黒い塵のようになっていく。刀身は錆だらけだった。ひどい状態じゃないか、きみ、長谷部。喰うところも残っていない。よく人のかたちを今まで保っていられたな。
歌仙兼定本体に目を落とすと、化け刀の血で穢れて、上身はほとんど錆に侵されていた。生きたまま腐りかけている。僕も長谷部をとやかく言えない。
悲しむのはそれなりの力が必要だ。もう疲れてしまった。長谷部がこのざまでは、僕も折れてしまってもいいかな。のたうつ影の山を見あげる。
握りこぶし大の手榴弾が安全装置を抜かれて足元に転がってきた。暗視ゴーグルとかいうへんてこな眼鏡をつけた陸奥守が、僕の首根っこをつかんで、仲間の姿をした鬼からかすめ取った。小型の爆弾が、激しい音と衝撃をばらまいて縁側に炸裂し、柱ごとひさしが崩れ落ちる。
「陸奥守」
「こっちやか、歌仙」
安っぽい狩猟銃の引鉄をひく。『いさか』だったか。初期刀候補の五人で夜明けまで酒を飲みながらいくつも見た、海の向こうの国の映画に登場した銃だ。
なりが無骨で雅さに欠ける。僕には、陸奥守がいつか見せてくれた古式装飾銃の美しい佇まいが好ましい。
「弟の喧嘩仲間の頼みじゃ。あいとを助けとぉせ」
「和泉守を……助ける?」
イサカを手に陸奥守は赤い闇の中へ駆けていく。僕は今まで、和泉守兼定が助けを必要としているなんて考えたこともなかった。散発的な銃声が、遠くで響いた。
「陸奥守」
「いいから。歌仙になんかあったら、あいつ、和泉守に顔向けできないんだよ」
僕の肩を加州が強くつかんだ。埋もれた縁側から池をはさんで向かいにある茶室の脇に、新選組の生き残り刀と堀川の兄弟の姿がある。
「大丈夫ですか、お兄さんの兼さん」
「堀川くん」
堀川は僕の欠けた片腕を見ると、すぐに清潔な布を使って応急手当を施してくれた。
「足止めはまかせてください。兼さんを頼みます」
「なにを言ってるんだい」
「俺たち練度低いからさぁ。お荷物にしかならないよ。この本丸の一振り目の俺たちは、みーんな和泉守についてっちゃったんだから。……あいつに喰われて、そんで、も、もういないんだろうけどぉ」
加州が顔をこわばらせながら強がる横で、大和守がふわりと微笑んだ。
「僕らも陸奥守と同じことを歌仙にお願いしたい。和泉守を助けてやってほしいんだ。兄さんだったら、あの頑固者だって手を取るはずだから。和泉守は之定之定うるさいよね」
「そうそう。歌仙のこと好きすぎだから。兄弟来た刀っていいな~」
加州が羨ましそうな顔をする。兄弟でもきみたちほどの絆があるものはそうないものだよと言いかけて押し黙る。僕なんか弟のことをなにひとつわからないからねなどと、彼らには言えない。
「お兄さんの兼さんは、前の僕にも親切にしてくれたんでしょう。二振り目の僕らにも、同じようにしてくれた。新しい兼さんはまだここにはいないから、僕、兼定のあなたを兼さんのかわりにしてたんだと思います」
「よしてくれ。あの子はもっと手がかかるんだよ堀川くん。僕なんかじゃ下稽古にもならないよ」
華奢な手のひらが髪に乗った。堀川は相方にそうしたかっただろう。
確かめるようになでる手が、よくなじむ。頭のかたちが兄弟でそっくりだと、昔、弟についていった堀川に言われたことがあったっけ。
「そうですね。お兄さんは、手のかからない偉い兼さんでした。兄弟。お兄さんをお願い」
「兼さん殿の兄上とあらば、我らの兄上も同じだ」
山伏が筋肉をふくらませる。綺麗な顔をしたシーツお化けが、いつのまにか僕のそばに寄ってきていた。首をつきだし、青い目が睨むようにまっすぐ見つめてくる。
「あんた、ずっと俺の布を洗いたがっていただろう」
「あ、ああ」
「明日になったら、洗濯させてやってもいい」
「は──」
僕は唇がひきつって、変な半笑いになった。
洗濯だって? 途切れなく雪を降り注ぐ夜空を見あげる。
「晴れるといいねぇ……」
「きっと晴れる。俺は写しだが、わかる」
山姥切が尊大に頷いた。写しであることを気にして必要以上に後ろ向きな性格のくせに、心底どうでもいいことには、ものすごく自信たっぷりな面倒くさい刀なのだ──。
愛用のぼろ布を頭からかぶされた。埃のにおいがする。またどこかで、長い時間隅っこにうずくまっていたのだろう。
「先に預けておく。今夜は冷える。薄汚れた布一枚でもないよりましだろう。おい、鼻水を拭くな」
「洗うからいっしょだろう」
仕方がないな、という偉そうな顔が返る。
「あの人を頼みます。呼んでくれたのはうれしいけど、間違ったことを続けちゃだめだ。僕ら身内の粛正は慣れてるって弟のほうの兼さんに聞いたことあります?」
「……うん。僕の名前の話をしたよ」
「行ってください。お元気で」
堀川が笑顔で僕の背中を押した。
門はかたく閉ざされている。僕は、狐を連れた兄の姿を探してさまよい歩いている。
あの子ももう潰されているだろう。とっくに知っている。僕が信じたくないだけだ。
「お小夜……どこだいおさよ、返事しておくれよ……」
名前を呼びながら雪を踏みしめていく。誰もいなくなってしまった。今度は弟もいない。主は僕らを裏切り捨てた。
弟がいてくれたから、主が生きていてくれたから、みんなが支えてくれたから、今日まで僕は多くのものを失っても、捨て鉢にならずに前を向いていられた。
僕の意志なんかそんなものだ。
腹のあたりがかっと熱くなった。
僕の胴から錆びた短刀が突き出している。時間遡行軍の短刀の変異体だ。
囲まれている。闇の中ですばしこい短刀六振りの相手は無謀だ。肩を胸を腕を腹を刺されて、雪原に倒れこんだ。
【5-6 無】
涼やかな水音に覚醒した。
「ここは……」
瘴気を祓うために日々禊に訪れている、黄泉平坂洞にいる。
神を縛る霊符が僕の腹に、肩に、胸に手足に貼られている。異形の短刀に刺された部位だ。傷跡はすでに手入れが済んでいて、綺麗なものだ。
主の感情に乏しい顔が、目の前にある。
「主。みんな、死んでしまったよ」
僕はぼんやりしたまま、痺れる口を動かした。他人事のような感覚が続いている。すべてが夢ならいい。主が、歌仙兼定は刀のくせに怖い夢を見るのだなあと呆れてくれたらいいのに。
「歌仙、おまえが最後の一振りだと知っていたよ。和泉守兼定でもない。ほかのどの刀でもない。歌仙兼定が俺との縁が最も強い初期刀だ。だから残るのがおまえでなくては意味がない」
「もうよそう。僕は、みんなと共に眠りたい」
「わがままを言うな歌仙。俺のためになんでもやるんだろう」
「そうだねぇ……」
──地獄への供なら、今の僕にもできるかもしれない。
主が僕を封じている符は、市役所で監査部に食らったものと同種。神を縛る術だ。本体を振るうには十分な力が残されている。
なにかが妙だ。僕の身が、今や神よりも人よりも妖に近くなっていることを、誰よりも知っているのはこの男だ。でも僕には斬るほかに何もできない。
感覚の鈍い腕に人を斬る手応えが伝わってくる。あまりにもあっけない終わりを迎えた主の亡骸に目を落とした。感慨はない。なにも感じない。本丸ごと僕の心も死んでしまったのかもしれない。
「苦しくはなかっただろう。すこしだけ待っていてくれたまえ。僕は主の初期刀だからね。弟も連れて、きみとどこまでも共に逝こう──」
手を叩く音。洞穴の暗がりに、政府の制服組や担当と並んで、殺したはずの主が平然と立っている。なぜだ? 確実に仕留めたはずなのに。
「さすが身内殺しの鬼の刀だな。俺は昔からおまえが怖かったよ」
では、僕が斬ったのは──?
地に横たわった主の亡骸にかけられた呪が解けていく。
正体が現れる。僕が幻に惑わされて斬ったのは、幼い少女だった。
主の娘だ。三日月のもとから消えたと知って、すでに生きてはいまいと思っていた。
──お嬢さん。
娘は腹を裂かれてなお少しの間生きていた。小さな身体を抱くと、あふれ出た温かい血が僕を濡らした。
僕は自分でも何をしているのかわからないまま、娘の臓物を腹に戻そうと押しこめていた。形を戻しても人は癒えない。刀さえ無事なら手入れをすれば直る僕は、そんなことさえ忘れていた。
娘の唇が薄く動いたが、なにも声にはならず、静かにこときれていった。知らないということが、どれほどの絶望を生んだだろう。
この哀れな娘は座敷牢に閉じこめられたまま、仲のいい弟を失ったことも優しかった父の乱心も知らず、突然暗闇の中に連れ出されて信頼していた近侍に殺されたのだ。
じつの父親は、自分の刀に娘を身代わりに殺させて顔色一つ変えていない。
「きみは鬼だ主。敵でないものを殺すのは人ではない」
「刀が命を語るか。それでなくても、おまえはもう死んでいる。三十七人目を斬ったおまえに歌仙を名乗る資格はない。和泉守兼定が打った無銘の刀だ。あれだけ恨んでいた弟と同じ名前に戻った気分はどうだ?」
──主を、それとも血に連なるものを殺して逸話を上書きした僕は、その瞬間に歌仙兼定ではなくなってしまった。
神が名を失うのは人の死に等しい。名無しの付喪神などただのがらくただ。形も保っていられない。
「和泉守兼定の無銘よ。名前を捨て付喪神と人の契約の外にはじき出された之定の残骸なぞ、どう扱おうが本霊は認識もできんだろう。最後に和泉守に感謝しておけ。けなげな弟だった。おまえを守ろうと必死になっていたからな」
「和泉守が……僕を守ろうとしていた?」
呆けて反芻する。
弟を憎んで二年の間膝を折らずにいられた。どんな絶望のなかでも、兼定の恥を殺すまではと思い、刀を握ってこられた。
僕がこんなに愛しているのに和泉守兼定に伝わらないなら、声の届かない馬鹿な耳を削ぐしかないと思ったし、ずっと一緒にいたかったのに離れていくなら首を斬って僕の部屋に飾るしかないと考えていた。
その不倶戴天の敵が僕を守るだって?
「驚いたふりなど雅ではないな。呪を受けて妖の兆候が濃くなるたびに、おかしいと考えたはずだ。肌が和泉守の鬼と同じにおいを放つようになったときに、目に映った刀をうまそうだと思ってしまったときに。弟を化け刀に変えたのは俺だと察していただろう。
俺への疑惑が頭をもたげるたびに、おまえは目を閉じて耳をふさいで芽生えた不信を殺し、罪穢れを祓う祝詞がわりに支離滅裂な弟への呪いを唱えて、都合の悪いことを忘却してきた。そうしなければ俺を、俺の本丸を、俺の手にあるほかの刀をすべて失ってしまうとわかっていたから……どこまでも人間臭い、ずるい刀だ。無意識でやっているから余計に始末が悪い。
之定は関わらせるなと、兄には関係がないと言って、和泉守はおまえの身代わりを申し出てくれたよ。おまえが思考停止の言い訳にしてきた弟だ。兼定の恥さらしとは、さて、どちらの話だろうか」
「い、和泉守が……ぼ、僕は……いったい……」
「やつは今でもよく働いてくれているさ。まるで制御がきかんが、敵の陣地に放りこめば皆殺しにできる。使い勝手がいいと上には好評でな」
主の声は無機質だ。言葉が胸に落ちてこない。僕はそれを理解したくないのだ。
わからないままでいたい。なかったことにしたい。逃げ出してしまいたい。嫌なものから目を逸らしてしまいたい──この二年間、知らずそうしてきたみたいに。
和泉守兼定──焼きついた怒りで曇っていた記憶が、少しずつ晴れていく。
いったいどんな顔をしていただろう。どんな声をしていただろう。思い出がずいぶん遠く感じる。神を喰らう鬼だったろうか。仲間の仇か。兄を嗤う無作法者か。
違う。和泉守兼定は、刀剣男士だった。
同じ兼定。僕とともに時間遡行軍と戦う、本丸でたったひとりの弟だ。誰とでもすぐに打ち解けられる性格のおかげで、どこにいても仲間の輪の中でまぶしく笑っている子だった。
ひとたび憎めば和泉守兼定のなかで僕が愛していた部分さえ、ひそかに誇りに思っていた部分さえ憎悪の炎の燃料と化した。
人見知りの僕が感じていた羨望は劣等感に生まれ変わり、やがて疎む理由になった。
なんで弟ばかりちやほやと甘やかされて、何をしても許されて、気のおけない友だちがたくさんいて、あんなに怒ったり笑ったり楽しそうなんだろう。僕だって和泉守兼定なのに不公平だ。僕は弟のようにうまく他人に話しかけられない。
あいつは末代で僕のほうが先に生まれたのに、最近ではあいつのほうがどんどん成長して切れ味が良くなっていく。弟のくせに、じきに兄を追い越してしまう。
二代目だ之定だと持ちあげて今は僕を慕ってくれているようだけれど、あの理想に燃える若い刀は、一度負かした相手なんか鼻もひっかけないに決まっている。とくに秀でた力もなければ人の心の機敏もわからない平凡な先代に、幻滅して離れていく。雅だ風流だと紋切り型の言葉でごまかしながら、つたない人間ごっこにいそしむ僕を、あいつは腹の底では馬鹿にしているんだ。
──いつからか僕の心は、和泉守兼定への劣等感で詰まってしまって息苦しい。
最初は刀を振ることすらおぼつかなかった弟が、少しずつだけれど強くなっていくのが嬉しかったのではなかったっけ。
すべての兼定の刀の終着点たる末代が、僕よりも高い場所へ到達するところを見届けるのが、先代としての使命だと感じていたのに。
僕は──弟のことが好きだったはずだ。声を聞けば胸が温かくなった。目があえば楽しい気持ちになった。手のかかる弟の心配をすることさえ幸いだった。死人を気遣うことなどできないのだから。
幼いころは、お小夜が僕の手を放すたびに泣いていた。兄をひとり占めしたがって、わがままを言って、思い通りにいかないと傷ついて怒って暴れて、まわりにあるものを全部壊して、そのたびに誰かを泣かせて、やっと頭が冷える。
同じ癇癪を弟にもぶつけていた。
──和泉守兼定は裏切り者ではなかった。
裏切ったのは、悪人に謀られて醜い異形に貶められた弟をひとつも信じてやれず、これ以上傷つかないために真実から目を背けた、この僕だ。
見当はずれの怒りの火で、罪のない弟の名を炙って利用した卑劣漢など、兼定の名折れだ。この度し難い鉄屑が、少し前まで歌仙兼定を名乗っていた事実に吐き気がする。
「僕の……僕の弟は。僕の和泉守は。あの子は誇り高い兼定の末代だ。人間ごときが、貴様のような呪い師ごときが在り様を変えていい刀じゃない」
「なにが不満だか知らんが、なんでもやると言ったのはおまえ達兼定の兄弟だ。望まない仕事を押しつけたつもりもない。あいつの願いどおりにかっこよくて強くしてやっただろう」
「……弟は貴様のために尽くしてきたのに、すべてをかけて守ってきたのにこの仕打ちか!」
「刀が主を守るのは当然のことだ。見返りが必要か。働きに報いて茶器でも買ってやれば満足か?」
「そういうことを言っているんじゃない──」
「奴になにをさせていたか尋ねただろう。これからお前も身を持って知ることになる。無銘の和泉守兼定よ、おまえはどんなふうにかっこよくて強くなるんだろうな。末代を殺せるほどに強くなればいいが」
霊符の呪から神の名が消えていく。拘束の力が強くなり、僕は抵抗できずに人間たちに引き倒された。
手足に、膝に肩に杭を打たれた。主の手が腹に、これまで僕が時間遡行軍の捕虜にしていたように、朱で線を引いていく。これからどうされるのかを僕は一番知っている。
「演習相手を用意している。どれも練度を極めた連中だ。試し斬りにはちょうどいいだろう」
弟が鬼になった惨劇の夜のように、堕ちた刀の破壊命令を受けた討伐隊が、間もなくここへやってくる。僕は鬼となって、試し斬りの相手を喰らうことになる。すべては主の望み通りに、人も刀も大勢死ぬ。
僕は二十何年もかけて、鬼を育ててきたのか。
僕では駄目だったのだと思い知った。どれだけ人を取り繕っても、趣味嗜好をまねても、仲間にさえ本当に心を開けず、子どもの叱り方も知らず、あいまいに笑ってわかったふりをすることだけが得意な歌仙兼定は、担った役目を果たせなかった。
幼い怒りを隠し持った僕のような鬼の刀が、人の子など育てるから、こんなどうしようもない本物の鬼ができあがる──。
──黄泉返術式が発動した。
物に宿った魂が決して届くことのなかった、黄泉の穴の入り口が開いた。穢され本霊の座へ戻ることもかなわなくなった仲間たちが、己を殺し喰らった黄泉戦の鬼に囚われ、融けたしかばねの上にうつろな顔で跪いている。
「みんな」
すでに皆は命を奪われている。ただ生前の姿を留めたままぼんやりと佇んでいる影が、見あげるほどに成長した黒い化け物に叩き壊されていく。
高位の神格に槌のような腕で打たれ、ひしゃげて弾けて血の池に変わっていく。魂にこびりついた滅びの記憶が、肉の身体の死を再現しているのだ。
最後に、怨嗟に蠢く黒い血溜まりが残った。
刀に宿りし誇り高き神々が、なぜこんな無様な姿に貶められなければならない?
僕らはいったい何のために命を得て人の形を取り、何を守るために戦ってきた?
これが僕ら道具の忠誠への、人の答えか。
「……おまえは、人間は──万死に値する。共に戦う意味などなかった。守るべき価値もなかった」
「今ごろ気づいたのか。今後は価値のないものを消し去るためによく働いてくれ。期待しているぞ禍津兼定。生まれて二十五年の間、育ててくれて感謝している」
「殺す」
「苦労をかけた。今日まで俺についてきてくれてありがとう」
「必ず殺してやる。貴様は、貴様だけは絶対に──」
錆びが浮いた無銘の兼定の刃を使って、鎖骨の間から臍の下までを一直線に裂かれた。意識が飛びそうになるほどの激痛にも、固定された身体は動かない。左右に開かれた皮と脂肪の膜をかき分けて、針で留められる。
潰された仲間の血が、ガラスの漏斗を伝って僕の臓腑へ滴ってくる。どろどろの黒いなにかに変わったみんなが僕の血に溶けて、指の先まで他人の心で満たされていく。
何十人もの刀の心に、自我が混じって溶けてなくなっていく。耐えがたい恐怖。知らない人間の前に立つだけで眩暈がするほどなのに、これでは近すぎる。頭がおかしくなりそうだ。
みんなやめてくれ。潰れる、僕が薄くなってしまう。
この身体は僕ひとりの血でいっぱいだ、何十人分も入らない。それなのに、ぎゅうぎゅうに押しあいへしあいして入ってくる。みんなの血が限界まで詰めこまれる。肉骨皮、記憶や心までも。
僕が弾ける。破れてしまう。きつい、入らない。無理だ。苦しい。苦しい。苦しい。
ひどいよお小夜。痛い。兄さまやめてくれ。重いよ長谷部、燭台切もそこにいたのか。一期殿。どうして短刀の子たちまで。ああみんな、そんなにされたらみんなで潰れてしまうじゃないか。
僕が消える。
ぼくが。嫌だ、いやだぼくが変わっていくなにかになっていく怖いです忠興さまたまさま、之定の父上助けて主がみんなが怖い。どうか赦しておくれ、すべて僕のせいだ。誰のことも守れない役立たずですまないごめんなさいやめてくれやめてやだやだやあぁだああああ。
──兼ちゃん。
和泉守兼定の顔が浮かぶ。沸騰した恐怖に澄んだ水を注がれたようだ。僕を守ろうとしてくれていたという弟への罪悪感と後ろめたさは、苦痛よりもよほど僕を苛む。
僕のために、こんなにも痛くて苦しくて怖い思いをしながら、目を耳をふさげ何も見るなと最後まで僕の心配をしてくれていたのに、それなのに僕は、僕は二年間もあの子の痛みも苦しみも何も知らない顔をして優しい弟を恨んでなじって怒鳴って泣いてばかりいた。
弟が命よりも大切だと嘯いた僕が自分の都合しか考えていなかった。ひどい兄だ。生きる価値もない。死んでしまえ。
心も刀もなまくらの僕なんか誰も必要としてくれない。なにもかもみんないらない。
どれもこれもぜんぶ、死ね。
殺してやる。
喰ってやる。首を差しだせ。よこせ、三十七個じゃ足りない。腹が減ってしょうがない。
心の在処が強い火花に焼かれていく。これでは、幼い、短刀のようだ。大人の形をして喋るやり方を忘れていく。大人の姿で顕現した僕が追いやられていく。
そのかわりに、子どもですらなくなって、けだものに近くなっていくかわりに。身体が。僕の身体が膨れて。大きい。長い。どんどん伸びていく。硬くなっていく。銀色の板。ぎしぎしする、骨が軋んで気持ちが悪い。
頼む僕を、兼ちゃんいつか炎のなかから僕の心を救いあげてくれたみたいに僕を。ぼくのうちに折ってほしい。殺して。喰らってくれ──。
ここはくらくてツメたい。
ぼくをヨんでくれたあるじ。どうシヨウ。ぼくのナカがまっクろだよ。
はヤクぜんぶ殺さなイトねぇ。
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