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禍津騙(6)
【6-1 付喪神の墓場】
真っ暗な空洞を、和泉守兼定は薄汚れた肉の身を引きずって進んでいく。赤い妖の目が光り、伸び放題に荒れてもつれた白髪が泥をまぶして固まっている。
闇のなかでなにかが動いた。見慣れた顔が現れる。相棒、堀川国広だ。
「兼さん」
国広がほっとした顔で走ってくる。ほとんど裸の和泉守の腕にとりすがって、笑顔を浮かべ、疲れきった相方をねぎらおうと口を開いた。
和泉守はいつか喰らった山伏国広の太刀を手の中に顕現し、相棒の脳天へまっすぐに突き刺した。
椎骨に沿って縦に貫き骨盤を砕く。柄を引きあげると、串刺しになった華奢な身体がついてくる。和泉守よりひとまわり小ぶりの靴が宙に浮き上がって、造りの優しい手から力が抜けた。
赤い紐で縦結びに留めた手甲の裏から、隠していた暗器が音を立てて落ちた。
邪道にしても趣味が悪すぎる。新手の気配を察知して、舌打ちをこぼす。
「兼ちゃん」
和泉守のまわりを歌仙兼定たちが取り囲んだ。兄の群れはみんな穏やかな笑顔をたたえて、各々が之定が一振りを抜いた。
機動力では今の和泉守のほうが圧倒している。素足で地を蹴った。兄のうち一体の背後をとり、外套を十文字に斬る。血と、裏地に染め抜かれた大輪の花が舞った。
背中に開いた穴に拳を突っこんだ。まんべんなく肉がついた太い手足がばたばたと跳ねるのを踏みつけて、背骨を引きずり出す。
昔、炊事場で海老の背わたを抜く仕事を手伝ったことがある。あのとき腹の中でぷつりと切れてしまった腸と同じ手ごたえがして、歌仙兼定の頭を支える骨が千切れて動かなくなった。
ぬるついた脊椎を放り捨てた。触れた血は恐ろしく熱い。浴びた右手に水膨れが浮かび、すぐに癒えて消えた。
──オレの之ン兄ちゃん。
──オレの国広。
和泉守兼定は、ふたりに合わせる顔などとうに持ちあわせていない。
次の獲物に意識を向けたところへ、殺した歌仙の脊椎が蛇のようにしなって和泉守の足首にからみついた。
頭を潰したり心臓を停めれば人間は死ぬ。たいていの刀剣男士は人としての死を己の死と認識していて、肉と刀は同期している。
ただ、頭とは何なのか、心臓とは何なのか、人の死とは何なのかを一度も考えたことのない道具ならば、脊椎だけになってもまだ生きられるのかもしれない。
こいつらは、大量の兄は国広は、人の形をしているくせに人の命を知らないのだ。和泉守兼定を殺すことしか覚えていない。そういうふうに『使われて』しまった。
動きを止めた和泉守に歌仙兼定たちが殺到する。さらに国広の大群が押し寄せた。
『兼ちゃん』
『兼さん』
この意志もなにもなくした人形たちは、鬼をどこまでも追跡してくる。山となって折り重なった兄と相棒が、和泉守を肉の重さで下敷きにしたまま自ら腹を斬り首を落とした。
妖を殺す呪を溶かした肉と骨と血しぶきが降り注ぐ。酸の豪雨。歩く血袋爆弾だ。和泉守の、不格好な呪が刻まれた皮膚が焼けただれていく。溶けた脂肪が泡立って、露出した骨にまとわりついていた。苦悶の絶叫が闇に響く。
長い静寂のあと、和泉守はひとり立ちあがった。
死なない。死ねない。再生途中の身体を引きずって、再びふらふらと歩き出した。
──狂ってる。みんなみんな、人も道具もオレも。
意識が現実を拒絶して自己憐憫に傾きかけた瞬間、鬼の形相が脳裏に雷光のごとく浮かびあがった。
──和泉守兼定ッ!!
激怒した『本物の』兄のすさまじい気迫に背筋が凍る。炎を背に、兄弟で揃いの色の眼が、泣き言は許さないぞとばかりに憤然と見下ろしてきている。
あの歌仙兼定が怒り狂うほどの、これはとんでもない不手際だ。自嘲気味に唇を曲げる。しっかりしなければ──。
兄の血を刃に浴びてから、ほんのひと時の正気が和泉守兼定のもとを訪れる。地獄だった。
自身と揃いの白髪頭と死人の肌をした歌仙兼定を見た日、和泉守は己が憎まれ役をやり通せなかったのだと知った。失敗だ。審神者は途中で音をあげた弟刀のかわりに、兄をも犠牲にしたのだ。
おぞましい責め苦を受けただろう。お互い醜い姿に貶められてしまった。兄はそれでもなお弟を助けにきてくれた。
あのとき和泉守は「之定を救う」と決意したのか、「之定オレを助けてくれ」とみじめに縋ったのだったか。うまく思い出せない。熱湯でぐらぐら茹でられているみたいに頭の中が熱い。
視界がいびつに伸び縮みを繰り返す。夢とうつつの境界があいまいだ。
兄を斬った感触だけは夢であってほしいと願う。
はるか昔に歌仙兼定が炎のなかで見せた鮮やかな怒りの表情が、かろうじて刀剣男士だったころの思い出を和泉守のなかに留めている。
黒い血を吐いた。あの黒い奴、また刀を喰ったのか。だけど負けるもんか。
やがて押し寄せてきた大勢の誰かの絶望の濁流に、再び和泉守の意識は呑まれていった。
【6-2 土葬の街】
耳のそばで花アブが飛ぶ音がした。一面の菜の花畑のなかから、小さな手が突き出して揺れている。人間の幼児だ。澄んだ目が遠い空と、光を透かして流れゆく雲を映している。
短い手足を踏ん張って、意味をなさない言葉をこぼしながら、玩具のような靴を前に進めた。一歩。もう一歩。
まるい頭がぐらついた。ふくふくとした両の上腕を大人の手が掴む。
本丸初期刀の歌仙兼定が、感極まって涙ぐんでいた。
──和泉守。主が、主が立った。主が歩いた。立派になって。僕は。僕は……。
作法にうるさい男が、手ぬぐいを懐から出すのも忘れて袖で顔を拭いている。
──なーに泣いてんだよ。
思わず呆れてぼやくと、之定は顔をくしゃりとゆがめて笑った。
──きみだって泣いているじゃないか。
頬が湿って冷たい。和泉守兼定は目を覚ました。
ファンが回る鈍い音がしていた。布を張った天井に、青と白のペンキを塗りたくってある。電灯の光に照らされて刷毛の跡に陰影が落ち、より安っぽい嘘物の青空に見える。
息がしにくい。空調は作動しているものの、空気がひどく澱んでいた。錆びたスチールのベッドの足元には、緑色の苔と毒々しいきのこが生えている。
ここは、どこだ?
「起きた?」
驚いたような顔の子供が、和泉守兼定の顔を覗きこんできていた。
呆然と主の名を呟く。まだ寝ぼけているらしい。人好みに造作の整った顔をした短刀でもない。鼻がぺちゃんこだしヒラメみたいな顔をしている。
知らない人間の子どもだ、三人ばかり──脂と埃で汚れた服を着て、痩せて目ばかりぎらぎらと光っている。
「先生に知らせてくる」
ひとりが駆けていった。残った者は、ベッドの上の和泉守に遠慮なく近づいてきた。
「兄ちゃんの髪って地毛なのかい」
「爺ちゃんみたいな白髪だ。先生と同じ色だな」
「いや、これは……」
白い髪の束を指でくるくると巻き取る。ボードに張り出されている新聞に目がとまった。紙媒体の情報誌は、現世では旧世紀に絶滅したと聞いていたが──。
「それ、もうずいぶん前のやつだぜ」
「今どき新聞とか作る人なんて誰もいないから」
子どもらが口を出したが、和泉守が目を奪われたのは紙面の日付と、一面記事の大見出しだ。
『23XX年XX月XX日。政府軍、歴史的大敗』
『歴史修正主義者が、時空に浮かぶすべての中継基地の座標を特定した。攻めこまれた各基地の部隊は応戦虚しく──』
──23XX年?
先ほど出ていった子どもが戻ってきた。
「先生いま手が離せないって、あとで来るって言ってたけど。白い兄ちゃん、動けるなら先生のとこ行く? 街も見てまわれるし」
「街……? ここは地の底じゃねぇのか?」
和泉守は安っぽいつくりの天井を見あげた。時間遡行軍と政府が差し向けた追手を破壊しながら、光も命の気配も感じない、暗い穴ぐらを長い間歩いていた気がする。魂の片隅に残った刀剣男士の本能に導かれて、人の姿のない場所を求めてさまよっていたのだ。
人とまともに話をしていることが、そもそも現実味がない。常なら呪いそのものの和泉守が指で触れるだけで、生き物は死んでしまうからだ。相手は神気汚染の兆候もない、ごく普通の健康体に見える。
──穢れに穢れた妖のそばへ寄って、なぜまだ生きている。こいつらは本当に人間か?
とまれ、神が特別に縁を結んでいない人の名を知るべきではない。ただ呼びようがないので、便宜上、同じ顔をした双子らしい男児の栗毛のほうを平野、髪の色の暗い方を前田とする。部屋を出たり入ったり忙しい癖毛頭は、暫定秋田とした。
「水を汲みにいった弥生が、倒れてた兄ちゃんを見つけた。先生が連れて帰ってきたんだ。オレは卯月。こっちは皐月」
三つ、四つ、五つ。和泉守はしかめっ面になる。
「じゃあ睦月や如月もいるのか?」
暫定平野卯月と前田皐月はさも当然という顔で頷いた。
「今は出かけてる」
「いるのか。ひでえ名前だな」
「僕らの名前を聞いてひどい名前だって怒るやつは、まともな人間だって先生が言ってた」
秋田弥生が言った。その先生とやらは、たいそう立派な人間らしい。
「兄ちゃんになんか似てるんだよ。来て」
双子に手を引かれて外へ連れ出された。すえたにおいが漂うコンクリート穴を進んでいくうちに、大勢の人間の生活区域に出た。テントを並べた市のようなものもある。地下に潜った政府の残存勢力の隠れ家といったところか。
みな人間だ。刀剣男士の姿はない。
奇妙な形の義手や義足をつけた者が大勢いる。流行りかと問うと、そっくり同じ変な顔が返ってくる。
「毒だよ。知らないの?」
「昔の戦争で敵が身体が硬くなる毒ガスを使ったせいで、みんな少しずつ金属みたいになっていくんだ。僕らがここへ来たときには十二人兄弟がいたけど、半分が硬くなって死んで、もう半分が病気になった」
「隣の集落にお医者がいるから、今は病気の兄弟が診てもらいに行ってるとこ。いたいた。先生!」
テントのひとつを覗くと、難しそうな紙面とにらめっこをしていた男が、双子に呼ばれて「やあ、こんにちは」振り返って笑う。
「気がついたみたいだね。怪我もないみたいだ。本当によかった」
先生は和泉守と同じ白い色の髪を短く刈って、ぼろのジーンズと毛糸のセーターを着ていた。記憶の中の姿から随分変わり果てているせいで、一瞬誰だかわからなかったが、よく見ると旧友の弟だ。
蜂須賀虎徹。
「彼は和泉守といって、この蜂須賀先生の古い友だちなんだ。しばらくふたりで話をさせてもらえるだろうか。きみたちは畑の手伝いに行ってやりなさい」
「はーい」
子どもたちの背中が遠ざかっていく。和泉守は揃いの白髪頭を睨んだ。蜂須賀は悟ったような顔で頷いた。
「安心してくれ。俺は追手じゃない。禍を生む妖刀と化した和泉守兼定の話は聞いたことがある。君がまともな神格を取り戻したのは、おそらく上位の神格に乗り物として扱われていた君の喉に小骨みたいに刺さっている刀のおかげだ」
──歌仙兼定、堀川国広。
和泉守兼定を追ってきていた刀剣男士を生贄に使った封印は、どうやらそれなりに効果があったらしい。
「彼らはすこしずつ消化されていくけれど、いまのところは身体が神気を垂れ流して人を害したりはしないはずだ。俺にも覚えがあるからわかる」
「あんたの言葉の真贋はともかく、虎徹の真作がそんななりじゃ兄弟が泣くぜ」
他人のことをとやかく言える立場ではないことは、重々承知している。
「髪を切ったくらいで俺の価値は変わらないし、そもそも贋作がなにか言う筋合いでもないだろう」
返る声は柔らかい。贋作の名を耳に入れても、蜂須賀らしい苛立ったような素振りは見せない。
「浦島は俺がどんな姿でも、きっと似合うと言ってくれる。君もどうだ。頭が軽くなるぞ」
「考えとく」
泥でごわごわした白髪を引っ張って、和泉守は答えた。
「実際問題、いくら綺麗と褒められたって邪魔だからね。これと決めた大切なものをひとつ手に入れると、なにかを手放さずにはいられない。たとえば俺の友人の陸奥守は、年若い主の親権を取るために刀も銃も放り出してペンは強しとか言い出していた。君にも覚えはないかな」
「オレぁ、とうの昔に空っぽのでくのぼうさ。腕ん中に守りたかった大事なもんのひとつも残っちゃいねぇ──」
いきなり平手で頬を張られた。
「取り消したまえ。今の言葉、君の兄上の歌仙兼定があまりに不憫だ」
和泉守の知る蜂須賀は、贋作と蔑む兄以外には寛容な性格だったはずだが、この個体ははっきりとした口調で断言した。おそらく、どこかの本丸の初期刀だ。そういうことはすぐにわかる。
はじまりの一振りは特別だ。和泉守の兄も、他の本丸の選ばれなかった歌仙とは微妙に異なっていた。
「浦島が君のようなことを言い出したら俺は耐えがたいくらいに悲しいし、贋作なんかもう立ち直れないんじゃないか。他人が偉そうに言う筋合いではないけど、歌仙の名誉のためにこれだけは言わせてもらうよ。自分を大事にしなさい、和泉守兼定。刀が守りたいものを失ったらおしまいだ」
「守ると決めたものはこの手で全部壊した。兄貴はオレと同じで短気な性分だ、今頃黄泉路で怒り狂ってるだろうよ」
「それは和泉守、無責任というものだ」
蜂須賀は呆れている。
「弟にすべてを背負わせて放り出す兄なんていない。兄というものは弟を守らなければしょうがない生き物なんだ。顔を立てると思って、おとなしく守られてやってほしいというのが、上の兄弟としての意見だ。俺は断固として歌仙の味方をするよ」
蜂須賀は徹底抗戦の構えを見せた。
「まずは自分の身を守れるようになってから、誰かを守るという言葉を使いなさい」
そうは言われても、打たれた年月がすこしばかり遅かったからというだけの理由で、逸話持ちの名刀が物を知らない子どもかお姫様のように扱われるいわれはない。納得はできないが、これ以上は藪蛇だ。
「さっきの子どもがあんたを蜂須賀先生と呼んでいたが、なんだって人間のガキどもの面倒なんざ見る羽目になったんだ?」
この蜂須賀は、和泉守兼定と同じ髪の色、同じにおいを放っている。おそらくどこかの本丸を飛び出してきた堕ち神だろうが、誰に見咎められるでもなく、人の中に人として当然の顔をして立っているのが不思議でならない。
「あの子たちは親に売られて戦の最前線に送られてきたんだ」
「そこまで情勢は悪いのか」
「おそらく、そう遠くないうちに──いや」
蜂須賀はテントの外へ視線を投げた。水銀灯の下にワイヤーで組まれた野菜畑が作ってあり、さっきの子どもたちが茄子や南瓜をもいで、頭の上に乗せたかごに放りこんでいく。静かに死を待つ態の大人たちと違って、まだ目が未来を向いて輝いている。
弥生に卯月に皐月。睦月と如月もいるのだったか。誰が生きていて死んでいるのか知らないが、機械的に番号を振っているのと変わらない。
「ひでえ名前だな。まあ風流ではあんのか? あんたがつけたのか」
「本当の名前はわからない。彼らを親から買い上げてここに連れてきたものが、十二人いるからと便宜的につけたそうだ。背中に爆弾を巻いて遡行軍の陣地に突撃させられるところだった、無茶苦茶すぎて滑稽だろう。ひどい男だったから、出会い頭に殺したけどね」
「そりゃよかった」
「そしたら残された子どもの面倒を見ざるをえない状況になってしまった。俺は仲間を失ってからは敵を殺すために一振りで刀を振りまわしていたんだけど、突然十二人の子持ちになってしまった。ひとまず相手は人の子だから食事をさせなきゃしょうがない。でもこの虎徹の真作は料理なんかできない。俺は買い物もひとりでしたことがないんだ。ここにいるのが蜂須賀虎徹じゃなくて歌仙兼定か燭台切光忠ならと、何度思ったか」
「たしかに歌仙兼定が残ったら、心強かっただろうな」
大昔に、和泉守兼定が初めて顕現した本丸が焼けたころ、ともに之定が生き残ってくれたときは本当に救われた。和泉守も蜂須賀と同じく人の生活を営む能力に欠けていて、飯どころか国広がいなければ髪さえひとりで結えない。だからあのときは、長い髪が焼けてしまってよかった。今も本当は、切ってしまったってかまわないのだ。
「生きるために必要なものがどうすれば手に入るのかわからないから、ひとまず敵陣を単騎で襲って制圧した。食料と寝床を奪って……今思えば山賊のようなことをしていたんだね、この虎徹が……それがここだよ。
当時テントの中にいた軍服を着ているようなのは、皆殺してしまった。少しすると、戦火から逃げてきた難民が通りかかって、人のやるいろいろなことを何も知らない俺に教えてくれた。人らしいことをなにひとつ知らない俺は、髪の色がこんなふうなのもあって、海の向こうからきた変わりものくらいに思われているらしい。まあ刀が人の形をして口をきくなんて、二十四世紀の人間は信じたりしないからね」
「欲しいものは力づくで奪うか。あんた、やっぱ曽祢さんの弟だわ」
「真贋はともかく、新選組の刀にそう言ってもらえるのは最高の誉め言葉と取っておくよ。戦火に怯える人たちを見ていると、放ってはおけなくなった。戦のなかにいるとたまに刹那的な気持ちにもなるけれど、道具として生まれた以上、俺はやはりどうしても人を嫌いになれない。
やれ真作だ、贋作は嫌だ、馬当番も畑仕事も嫌だ……そんな贅沢が言えるようにまたなりたいものだけれど、今の苦労もけっこう楽しいものだ。あ、初めて笑ったね。和泉守兼定、君」
「いや」
むずむずする頬を引き締め、咳ばらいをひとつ。
「まあなんだその、いつかきっと、あんたが頑張った分だけ報われる日も来るんじゃねーの」
「ああ、そうだとも」
蜂須賀は大きく頷いた。「そうに決まっている」
【6-3 百年兼定】
和泉守兼定の記憶が前世紀で停まったままだと聞くと、「それじゃ君はまるで俺の弟の逸話みたいなことになっているんだね」と蜂須賀は目を丸くした。浦島太郎の物語になぞらえると、玉手箱を開けたせいで、このかっこよくて強い和泉守兼定が老人みたいな白髪になってしまったというところか。
──23XX年。
24世紀の人類はまだ戦を続けている。
目覚めた部屋に貼りだしてあった新聞には、政府劣勢の見出しがあった。紙の新聞の存在そのものが、政府側の基盤がすでに破壊されている証だ。戦火に焼け出された難民たちは、地の底でもぐらみたいな暮らしをしている。
戦況は悪いどころでは済まない。政府はすでに歴史修正主義者との戦に負けたのか?
「戦の勝敗なんてもう何の意味もない。俺達はみんな脱走兵だよ」
蜂須賀が平気な顔をして言った。
「冗談だろう。戦から逃げたってのか、政府が、仲間たちが?」
「勇敢に戦った者たちは、ひとり残らず前衛的な置物になって太陽の下に転がっているよ。敵も味方もそうだ。お茶でもいれようか。君はまだ本調子じゃない、無理をしない方がいい」
乾燥させた苔に、熱い湯を注いだものを出してくれた。「気休めみたいなものだけど」と蜂須賀が眉を下げた。
「君の兄上はこれをお茶とは認めてくれないかもしれないが……」
温かいものを腹に入れるだけでも、人の身というのはずいぶん違うものだ。人心地がついたところで、蜂須賀は己の身を置いた戦の話を聞かせてくれた。
「今のご時世、本丸を構えている審神者はそういないよ」
前世紀末、敵方に本丸の座標管理システムが制圧されて、ほぼすべての本丸に遡行軍の刺客が送りこまれた。審神者は籠城戦の呼び水にしかならない本丸を捨て、現世に散ったり、歴史の流れに身を隠したりして、戦の表舞台から消えていった。
「今は審神者なる者や、俺の知らない仲間達がどうなっているのかはわからない。政府と通信が途絶えて久しいから」
敗北寸前の戦場に残ったのは、根性論を振りかざす無能な司令官と、疲れきって立ちあがることもままならない兵隊ばかり。
「すでにこの時間軸には歴史改変の影響が認められると、何年も前に発表されているよ。あれからも次々に変えられてしまっただろう」
「あんたはこの絶望的な戦況で、何を望んで戦うんだ?」
「安心して眠れる温かい布団と、満足な食事と清潔な服」
和泉守は耳を疑った。名高い虎徹が口にするには、信じられない言葉だった。
百年先を戦う蜂須賀は、和泉守兼定が決して捨てられない矜持をあっさり手放している。
「子どもたちが笑っていられるために必要なものかな。大義とかそういうものは、あればたしかにひとりの戦争は戦い抜けるだろう。でも誰かを守る泥試合には足りない。一口のスープのために振り下ろされる刃もある。軽蔑するかい」
「いや……」
数多の本丸に顕現する刀剣男士は、本霊から飛び散った数えきれない飛沫のひとつだ。生き延びようが折れようが本来は大したこともない。一は全として、個体差もほとんどない。
生きるためだけに刀を振りまわすには、逸話を背負った刀の付喪神の在り方は、少しばかり理想に寄りすぎている。生を勝ち取るために泥臭く戦う人の子にはなれない。
もしもこの和泉守兼定が、新選組の記憶だけを抱いた生まれたての刀剣男士なら、蜂須賀を狗と呼んで見損なったかもしれないが──。
「あいにくまともな刀剣男士じゃない」
「刀剣男士か」
蜂須賀は、めずらしい言葉を耳に入れたというようにまばたきをした。
「刀剣男士なるものが自らの頭でものを考え、自らを振るう相手を自分で決める。そう勢いこんでいた時代もあった。あのころ、政府は俺達をひどく恐れていたよ」
人以外のものが人の形をして人の言葉を喋る。人のようにものを考えて感情を持ち、人よりもずっと力が強い。
そういうものを人は恐れた。人の手で人によく似たものを作ってしまった先に、強くて賢いそいつらが、創造主に反旗を翻す日が来るのではないかと疑った。
人類史が人以外のものに新たに書き換えられてしまう恐怖心から、人は何度もロボットの反乱を題材に物語を創作してきた。
ロボットはどんどん知能を磨いてゆき、どうして人はこんなにも愚かなのだろうと思い悩む。自分たちのほうがうまくものを考え、世界の均衡を保てると確信する。自分たちの手がもたらす平安こそが主の幸せに繋がるというロボットの言い分を、人ははねつける。
物語の中で人が反乱するロボットから心を取りあげたように、政府は刀剣男士から自由意志を剥奪した。
自ら呼びつけた刀人間を前に、この星の支配者の座を奪われるのではないかと恐怖を覚えたのだ。天地を、八百万の神々のあまねくすべてを、誰も支配などできるはずがないのに。
人形のような兄と堀川国広の分霊を見た。仲間がみな、ああなってしまったのか。
自分たちのほうが人をより良い未来へ上手に導いていけると、物に言われた創造主は心底恐怖したのだろう。
「若いころの話だから、もう細かいことは忘れてしまったけど。人の歴史を守るため、人の未来を守るため──結局俺達がどう御託を叫んであがこうが、物が旗を掲げて歩いたって人の歴史はついてこない。握られる道具は人にはなれないとわきまえるべきだった。刀のくせに物なのに、人そのもののような気分にときどきなるんだ」
「物か。そうだったな」
自分を人と間違ってしまいそうになる。「俺もよくあるよ」蜂須賀が微笑んだ。
廃材の壁に陸奥守の写真が貼ってあった。和泉守も見慣れている金ぴか姿の蜂須賀虎徹と並んで、ふたりの人間のそばにそれぞれ控えている。
ふたつの本丸の主と初期刀。和泉守も、審神者が奥方と結婚したときに、こういう写真を撮った覚えがある。
「彼は昔の友人だよ。演練で知りあったんだ。ほかの本丸の刀にしか相談できない悩みがあるとかで、話を聞いてやるうちに仲良くなった」
陸奥守の審神者は、娘と言っていい年齢の幼子だ。
「この陸奥守、なにやら主に惚れてしまったとかでね。美しい女性だった。彼女が嫁に行ってしまったときの荒れようったらなかったな。その審神者夫婦が戦死してしまって、ひとり遺された娘を主に立てたあとは、自分の娘みたいに育てていた。本当にしまりのない顔をして可愛がるからおかしかったよ、猫かわいがりしていたんだ」
「死んだのか」
「みんな俺を置いていってしまった」
蜂須賀は寂しそうに微笑んだ。
外がにわかに騒がしくなってきた。ぼろのテントが並ぶ間に人間たちが集まっている。なにかを取り囲んで、ざわめいていた。集落の入り口に、見たことのない顔の子どもが倒れている。
「どうした。何かあったかい」
蜂須賀が人のかたまりのなかに割って入った。赤く光る目を見開く。子どもは血だるまだ。
「睦月」
名前を呼んで抱き上げる。隣町の医者のところへ出かけていた『一月』の子どもだ。
致命傷だと一目でわかる。
「蜂須賀先生」
すがりつくまるい手に指がない。獲物をいたぶるような撃ち方をされている。
「歴史修正主義者が襲ってきたんだ。お医者様も街のみんなも殺されて皮をとられてた。弟たちがあいつらに捕まってるんだ。早く助けないと兄弟もみんなみたいに──お願い蜂須賀先生、助けてよ」
──極度の物資不足の穴底世界では、人の皮は提灯を作るのに使われるのだという。
脂は火を灯すために用いられる。骨は齧られて肉をこそげたあとで建材の足しにされる。人は尊厳を剥奪され、ただ器用さと知恵を持った残酷な獣が、暗闇の洞を不気味に徘徊している。
「戦が終わったら、誰かの道具じゃなくなって、僕らが人みたいに暮らせる日が来るって先生が言ったこと──」
「喋るな」
蜂須賀は腕のなかで細い息を吐いた小さな身体をかき抱いた。「本当だ。約束する」
人が物のように自分を呼び扱う光景は、人になりたがった物にはとうてい理解できない。数字の子どもは静かにこと切れた。物に変わる。
「隣穴の集落が落ちた……」「歴史修正主義者が攻めてくる。ここもみんな虐殺されるのか」「まだ残党が? もう戦なんて何の意味もないのに──」
いたぶり殺された隣町の仲間は、この場にいる者たちすべての未来の姿だ。
子どもの足で、大人の追跡者からそううまく逃げられるものではない。睦月の死体には狩り遊びの跡が見えた。自分の集落に逃げ帰ることを見越して、わざと放たれたのだと察する。
人を狩る人が間もなく攻めこんでくる。
大人たちが狂乱するなか、兄弟をなくした子どもたちは、静かに佇んでいる。三月、四月に五月。和泉守は泥にまみれた小さな顔を覗きこんだ。泣きもしない。
「これで春だけ残っちゃったな」
暫定秋田弥生が言った。
「夏も秋も冬もみんな死んじまった」
平野卯月と前田皐月は、感情の死んだ目を足元の腐った水たまりに向けていた。改めて仲間の短刀には似ていない。そのごわごわした髪を、和泉守は鷲掴みにして力任せに撫でた。
人間なんか大嫌いだが、なぜか子どもの姿をしたものが泣いているところを見ると、放っておくことができない。慈しみ育んだ子に裏切られはしたが、折れかけている幼いものがいればあやしてしまう。
いつか一度は親だったものの性分か。
「兄ちゃんはいっとう春が好きだったんだよな。その、オレのだけど。いや、オレが言いてーのはそうじゃなくて……」
ただ、元々の主がこよなく俳句を愛しながらうまくはなかったように、幼子を泣き止ませるのが昔から下手だった。
和泉守兼定は、細かいことによく気がつく性質だった兄のように気の利いた慰めもできない。歌仙兼定は、欠けや不足があればそこを自然に満たしてやる見事な技を持っていた。あれが優しいということだったのだろう。
「生き残ったのは、まだやるべきことがあんだろって先に逝った兄弟が言ってるからだ。だから後悔なんざしたらオレが承知しねぇ」
微笑んで優しい声をかけてやれればいいのだが、それが難しい。結局、怖い顔をしてすごんで、更に泣かれてしまった。大失敗だ。
「す、すまん。すまねぇ──」
「君はとても……とてもいいやつだな、和泉守兼定」
蜂須賀が呆れ果てたのか、感心したのかもわからない、胸がいっぱいになったようなため息をついた。
「ともかくおまえらの兄弟を殺した糞野郎は、オレがぶっ殺してやる」
斬って殺すことしかできない身だ。拾われた恩を返す。仇を取ってやらねばなるまい。
【6-4 ニンゲン狩り】
コンクリートパイプを繋ぎあわせた丸い天井が延々と続いている、細い通路の先は闇に覆われている。何十年も放置されていた壁の表面は、ほころびて今にも崩落しそうだ。瓦礫と、染み出してきた汚水の溜まりが邪魔をして歩きにくい。
外郭放水路の跡だ。壁に床に無数の弾痕が刻まれていて、道中、手足が金属に変化した死体がいくつも転がっている。
人体の鋼鉄化──地下の人々が病気と呼ぶこの現象は、重度の神気汚染が原因だと、刀剣男士ならばすぐにわかる。
生物の体組織に崩壊をもたらす点では、神気は穢れと変わらない。汚染の源は正気を失い暴走していた和泉守兼定自身か、それとも己と同じく穢れに蝕まれている蜂須賀虎徹かと案じていたが、共鳴りのこの感じ──どうも違う。
──これは、なんだろう?
とても懐かしい気配がする。だけれど正体に思い至らない。
ゆるやかな傾斜が続く通路の奥から、異臭が漂ってくる。
腐食したコンクリート壁に穴を穿って、闇を照らす提灯が取りつけてある。細い針金で作った骨組みに、体毛のない動物の皮を張りあわせたものだ。火袋から人の焼ける臭いがした。
青黒い血管を透かす柔らかな橙色の光が、地下道に折り重なった死者たちの姿を浮かび上がらせた。神気に侵された金属部分が重みで落ちて、肉の部分に開いた穴を這い虫たちが出入りしている。
うめき声がした。まだ新しい死体の、膨張した肺から押し出された空気が鳴っている。戦場で何度も聞いた音だ。あたりは湿気がひどく、人の姿に怯えもしないねずみたちが走りまわっていた。
鬼の刀と呼ばれた和泉守兼定だが、本物の『鬼』とは、死体の呼び名であるという話を聞いたことがある。
死んで腐った人の全身は青ざめ、青鬼と呼ばれる。腐敗ガスが臓腑に満ちて膨らみ、皮膚が零れ落ちた赤達磨を赤鬼。それがさらに腐り続けて色が濃く変わると黒鬼に、最後には溶けて骨ばかり残った白鬼となる。
地下道には九相図の鬼がひしめいていた。
引きずるような足音。泥と垢がこびりついたぼろきれを纏った蓬髪の男たちが、生きて動いている和泉守と蜂須賀を見つけて近寄ってきた。
こいつらが歴史修正主義者か?
思想も心情もない、ただの落人ではないか。
過去にも未来にも興味がなく、刹那の欲望を満たすために動いている獣だ。無表情で、着剣した三八式歩兵銃を向けてくる。人のくせに、黄ばんだ目が赤く光っていた。
「獲物がいる」
「活きのよさそうな人間だ」
錆びた軍刀を腰に佩いているのは、下士官の記章をつけていた。ほかの者はこの男の指揮に従っている。
「殺せ」
下士官が抜刀した。餌を見る目で、突撃の合図。見た目は落人だが統制が取れている。
和泉守は、発砲と同時に眉間に届いた鉛弾を指先で握りつぶした。
刃の顕現すら必要ない。足の裏を雑に振りかぶって、虱にまみれた頭を踏み潰す。人の子が神に抗うなど無意味だ。六人ばかり向かってきたのを即座に鎮圧した。
「やっぱり。官給品だ。こいつらは歴史修正主義者なんかじゃない」
頭部を破壊した躯からスチールの認識票を引きちぎって、蜂須賀が隠しもしない軽蔑の表情を浮かべる。
政府の残党だ。敵の時間遡行軍を騙って、本来なら守るべき民間人から略奪の限りを尽くしてきたらしい。
「おおかた俺が殺した軍服の仲間だ。一度は俺たちを使役した者たちが、ここまで腐りきっているとはな」
「物の分際で人間様に向かって偉そうにほざくな。知っているぞ、蜂須賀虎徹に和泉守兼定だな。その顔は戦場で見たことがある」
下士官が叫んだ。何を喰って生きてきたのだか、獣の臭いが強すぎる。生き残った部下たちの腰が引けている。実際に刀剣男士を見るのは初めてらしい。
「武器が人の姿になるなんて……話には聞いていたが信じられん」
「たがの外れたからくり人形め。侵略者どもめ。すべて貴様らのせいではないか。創造主を滅ぼした罰を受けろ化け物め──」
下士官が懐から拳銃を抜き出した。構える前につまみあげる。人の目には、時間と空間を切り抜いたように見えただろう。黒い塊を放り捨てて、腰に佩いていた、ほとんど指揮棒に成り果てているこけおどしの軍刀に手をかけた。
抜き放つ勢いのまま胴を払う。残骸が床にぶつかるころには、ばらばらになっていた。
散らばった上官の肉片を見て、落人たちが散り散りになって逃げていく。和泉守は、床に落ちている躯から無造作に歩兵銃を取りあげ、蜂須賀に渡した。
蜂須賀はなんの感慨もない無表情で、撃つ。ひとりずつ、ゆっくりと念入りに、狩り遊びでもするように後ろから、獣と化した人が人にそうしたように──。
* * *
テント街へ戻ると、そこは無人だった。気の狂った兵隊が隣の集落を蹂躙し、次は自分たちの街へ押し寄せてくる──住人たちは尻をからげて逃げ出したのだ。
人々はよほど急いで出ていった様子で、ぼろのテントはそのまま置き去りにされていた。調理器具や照明は大方持ち出されていたが、引きちぎられた配線が煤けた天井から土ボタルのように垂れ下がっていた。
蜂須賀が瓦礫の山から壊れた人形を取りあげて、深い息を吐いている。この男は、またひとりぼっちになってしまった──それでも親しいものと別れることには、もう慣れているのだろう。
「街のやつらに行くあてなんかあるのか」
「最近、爆薬で壁に穴を開けた者がいたが、地下鉄を掘り出したと喜んでいたな。土の下の人の暮らしは、もぐらじゃないから難しい。焦って地上へ出ようとしていなければいいけど──」
「なにかまずいのか?」
人々は、なぜ不便で薄汚れた暗い地下世界で生きる道を選んだのか。ずっと闇の中をさまよっていた和泉守は、歴史修正主義者に敗北した政府の残党が、勝利者によって無理やり押しこめられたのだろうと考えていた。
「時間遡行軍の奴らが、お天道様の下に出てきた人間を皆殺しにでもしてるのか」
「もう敵も味方もないよ。まあしばらくは、運が良ければ生き伸びられるかもしれない。ただ……上の戦場にいたころに、死の音楽の話を聞いたことがあってね。天人が奏でるような綺麗な音色が聞こえたら、もうだめだ」
「お迎えでもやってくるってか」
「そうかもしれない」
獣に成り果てた兵隊に嬲り殺されることを恐れて、風来坊の異人を置いて先に逃げた街の人間たちは、地上を目指したかもしれない。もしかすると遠い静かなところへ落ち延びて、陽光のもとで生き延びられるかもしれないと夢を見て──。
「ひとまず彼らを追おう。まだ近くで足止めを食っている可能性がある。崩落や浸水は日常茶飯事だ。案外すぐに合流できるかもしれない」
蜂須賀は楽観的だが、きっと自分に言い聞かせているだけだ。通路に折り重なっている死者たちの腐乱が進むと、今度は人ではなく、疫病が命あるものを襲ってくる。この集落には、どのみちもう人は住めない。
「和泉守兼定。君もいっしょに来るかい。身の振り方が決まるまでは、俺のように人の中で暮らせばいい」
「あんたが喜びそうなことなんざ、オレぁなんにもできねーぞ。新選組の兄貴の話くらいなら聞かせてやれるが」
「それは聞きたいような、聞きたくないような」
苦笑がかえってきた。
「さっきのケダモノを見ただろう、ああいう輩が横行している。人間たちには武器が必要だ。俺達はまだ必要とされている」
和泉守兼定は、目が覚めたばかりの未来世界で右も左もわからない。もといた本丸はどうなったのか。主は、兄は、仲間たちはどう死んでいったのか。身近な者たちの末路を知らず、殺しと共食いの霞のなかからようやく這い出してきたところだ。蜂須賀の提案は抗いがたい誘いだった。
「オレは──」
蜂須賀がの表情がふと険しくなった。
「音楽が聞こえないか、和泉守」
突然、蜂須賀が駆けだした。意図がわからないまま後を追う。
もぐらが掘り進めたような黒い穴を突っ切ると、地下鉄の跡が現れた。走るものを失くした線路の先に、銃弾の痕跡も生々しい駅の廃墟がある。駅名標の文字はかすれていてよく見えない。
崩れた天井の隙間から、自然光が射しこんでいた。階段の上に円形の広場がある。
待ち合わせに使われただろう、洒落た時計台が残っていた。往時はガラス張りの天井から日の光が降り注いだのだろうが、いまは鉄骨がむき出しになっているばかりだ。割れたガラス片がタイル床に雪のように積もっている。
あたり中に鐘の音が鳴り響いていた。
地上はよく晴れていた。濃い青空を地の底から仰ぎ見て、無数の針を天に向けた剣山が眩く輝いている。
──それは、全身が完全に鋼化した街の人々だった。
蜂須賀が目を伏せる。絶望に慣れた様子で、嘆くこともせず疲れた顔つきで座りこんだ。
「みんな──俺と同じになってしまったな……」
小さな鉄のヒトガタに触れた。その頬を優しく撫でる手は、震えている。
「俺を殺していってくれないか、零式禍津。誰もいなくなってしまった。人に必要とされないのは耐えられないよ」
蜂須賀が薄っぺらく微笑んだ。
「君の話は聞いている……と言ったろう。君は、とても有名だから。君が最初の一振りだった。君の穢れを培養し、抽出し、洗練し、禍をもたらす刀が完成した。君のような刀がたくさん造られた。俺もそうだ。ほかにも沢山いる」
大気、土壌。地上ではすべてが恐ろしく高濃度の神気に汚染されている。この世のすべてを祝福するような天上の音色が鳴り響いていた。不快なほどに能天気に、誰の哀しみも知らずに。
「あそこにおわすのが、我らが禍津神の完成形さ。ああなったらもう人の姿には戻れない」
蜂須賀が空の彼方を仰いだ。
「彼が現れて──暴走したあの刀が実験刀の収容施設を根こそぎぶち壊してくれた。俺と陸奥守は自由になったけれど、あの頃はふたりともいかれていた。
似類補類、という言葉を知っているかい。身体の似た部分を食物として摂ると、悪くなったところを補って治してくれるという薬膳の考え方のひとつなんだそうだ。穢れに穢れきった妖刀が、同じだけの穢れを宿した妖刀を頭から茎尻まで喰ってしまったら、どうやらその魂でもって穢れを灌いで正気に戻るようなんだ。完全に元の姿に戻るというわけでもないけれど、少なくともまともな自我は戻ってくる。地獄のはじまりでもあるが。君もそうなんじゃないか?」
妖の血に狂っていた和泉守は、揃いの白髪頭をした兄の血に刃を浸した日から、時折我に返ることがあった。
「陸奥守を喰ったんだな」
「その時はどちらがどちらを喰ったのかもわからなかった。お互い食いあう蛇みたいに最後に消えてしまったらよかったんだけど、運悪く俺が残った。残る者の絶望もあると知っておいてくれ、和泉守。かの刀は、きっと君が想像もつかない絶望に追いこまれた。あれの姿はどう見える。叫びは君にどう聞こえる」
──めちゃくちゃに怒っている。
蜂須賀が古ぼけた鍵のようなものを寄越した。
携帯式のゲートだ。まだランプの光が灯っている。生きている。
「西暦22XX年──奴はおそらくそこから送りこまれてきている。時間遡行軍が勝利した時間軸すべてにだ。君が誇る刀の逸話の結末を、あんな姿で迎えさせてはいけない」
政府は誇り高き刀の付喪神を、未来を喰らう不細工な化け物に造り変えてしまった。自分たちの思い通りにならない未来を、全部壊してまわっている。
「そんな勝手が許されてたまるか。刀剣男士を何だと思ってんだ。いや──神を神とも思わぬ人間どもの身勝手さに、手を貸してやってる刀の方が馬鹿ばっかりなのか。まったくおめでたい神様だよオレらは」
誰が勝とうと同じだ。人は救いようがない。神が人の喧嘩に手を貸したのが間違いだった。
蜂須賀は冷静だ。この男にはもう失うものがなにもない。
「人はどうしようもなく愚かだ。敵味方の区別も、本当は意味なんかなくて、どちらも滅びるべきなのかもしれない。神としてならそう断じられるけれど、人に造られた俺たち物は、あの温かい血の通った肉の手が握ってくれるのを求めることをやめられない。創造主の求める声を、聞こえないふりなんてできないんだ」
──ゲートの開発を阻止して、時間遡行法をなかったことにするか。
──時間遡行軍がまだ力をつけないうちに芽を摘むか。
──それとも名だたる刀剣をたたき折って、刀剣男士の存在をなかったことにするか。
「今の君にならなんでも選べる。だけれど、どうあがいたってどこにも辿りつかないんだ。戦の結末は誰かの涙だ。勝ち取った栄光なんて、俺たちにとってはほんのわずかな時間で必ず失われる。たしかに馬鹿馬鹿しくはあるけど……道具に選択肢はないんだ。人の望むままに。主の思うままに。
何度失っても裏切られても、そのたびに憎んで恨んで呪うけれど、刀は人の手がどうしようもなく好きなのだから。刀剣男士として主が使ってくれる日を、こんな結末になってもまだ夢に見ているのだから。
和泉守兼定。審神者なんか信じるな。人間なんかろくでもない。それでも使われることを願ってしまう。それが戦を起こす人とともにしかあれない、俺たち刀だ。刀剣男士だ。
人がどうしようもなく愛しい。ただ報われないだけ。それでいいじゃないか。人の近くへ寄りすぎて、自分も人になったような幻想を斬って殺して君は行くんだ。俺はここが終着点と決めていた。でも君は違うんだろう。和泉守兼定の戦場へ戻るといい」
ゲートは手のひらに収まるほどで、和泉守が見知っている型よりも恐ろしく小型化されている。
ただ政府からの供給が途絶えてしまって久しいから、単体では動作しない。大きなエネルギーが必要だ。火打石で火を起こすには、打ちあわせて火花を飛ばすための火打ち金が必要になる。
「この地上には、呪いの塊が残っている、そいつに君の呪いをぶつけろ。発生する衝撃はゲートを動かすためには十分すぎるだろう。ただ、あれの見た目は、和泉守兼定には刺激が強すぎるかもしれない」
「言ってらんねぇだろ。世話んなった。行くわ」
「さようなら和泉守。兄と弟を見かけたら、蜂須賀虎徹は今でも元気でやっていると伝えてやってくれ」
「曽祢さんさぁ」和泉守は真面目な顔で蜂須賀を睨んだ。「酒が入るたびに真作の自慢ばっかりで、すっっげぇうるさかった。あんたのことが大好きなんだよ」
「知ってるよ」
泣いているように眉を下げて、明るく顔をほころばせた。
「最期にひとつだけ。何があろうと、気高い君のお兄さんに誇れる方法を選ぶと約束してくれ──」
頷いた。髪を切って落としやすくなっている首を、浦島虎徹に任せる。
長曽祢虎徹で腹を裂いて喰った。
【6-5 雅落蛇/garakuta】
眩しい。覚えがないが、長らくもぐらの如き暮らしを送っていたらしい──全身が晴れた空の光を受け入れるようになるまで、時間がかかった。白一色の世界に、眼球を焼かれる痛みが心地よかった。
あたりは一面の銀の輝きに満ちていて、空と地上の境目もない。鋭い風の音がそらぞらしい。木の一本も生えていない、白い砂漠だ。
この砂の世界が──緑が、豊かな水が、人の暮らしが、なにもかもが去った虚しいこの土地が、日本という国だとは信じがたい。一本の刀の姿で激動の歴史を駆け抜けたときも、人の姿を得て異形の敵から歴史を守っていたときにも、これほどの虚無を目にしたことはない。
乾いた砂を手のひらにすくいあげる。細かい鉄屑だ。神気の塊のようなものだった。
白銀色の粒子が大気の流れに乗って拡散し、地上をあまねく汚染している。神の呪いにまみれた砂鉄が生物の肺を侵していく。この地上で、人は息を吸うことも許されない。
空気が細かに震えている。
地中から激しく突きあげる衝撃。大地の底でなにかが激しくのたくって暴れているのだ。
砂柱が吹きあがり、白亜の巨大な壁がせりあがってくる。間欠泉のごとく高く吹きあがる砂の勢いに巻きこまれて、呑まれ、空高く放り上げられる。上下の感覚が狂う。円筒形をした塔のような、強固な建造物の一角に見えるものが目の前に現れた。
堀川国広を塔の壁に刺し入れて足場を作った。通した刃から鼓動が響く。氷のように冷たいが、脈打っている。
こいつは生き物か?
塔の土台が地表からすっぽ抜けた。それが、砂漠に横倒しになることもなく浮かびあがる。
これだけのデカブツを飛ばすにはどれだけの動力が必要になる? 見た目よりも軽いのか。
──いや。
屋根瓦のような表面を拳の骨で叩いて否定する。鋼鉄の板をこれだけ貼りつけているのだ。さらに中身が空洞とも考え難い。生き物なら血肉が骨が詰まっているだろう。
人の理に沿う存在じゃない。
浮島のごとき『それ』から、高空の強い風が砂煙を払い落としていく。全容が見えた。
──蛇。
空を埋め尽くすほどに膨れあがった、鬼の角が生えた白い蛇だ。
鋼鉄でできた表皮には無数の呪が記されている。和泉守は自分の腹に目を落とした。
とてもよく似た紋様が描かれている。同じ人物が書き記したかのように、筆の跡までそっくりだ。
蛇の、連なった鱗のひとつひとつが擦れあって、鐘のように鳴った。さながら天人の音楽だ。無邪気に響く。
雷雲は嵐をもたらすが、蛇が地表に降り注ぐのは鋼の雪だ。光が降る。割れた鏡の如き、ごく薄い鋼のかけらが、陽光を反射して煌く。
蛇の通り過ぎたあとは、なめくじが這った痕跡のように白い足跡が生まれていた。ぬぐえないほど高濃度の神気が地にはりつき、呪いを周囲に撒き散らしている──。
穢れは、触れるそばから有機物も無機物もかまわず鋼に変えていく。銀色の彫像になってその場で立ち尽くす獣、鋼の花、倒れこんで砂に埋もれていく人間。風が、鋼鉄の彫刻と化した人の残り香を削って粉に変え、どこまでも平らな砂漠に混ぜこんでいく。
死の砂漠の景色は、この蛇がもたらしたのか。
──時間遡行軍の気配を察知。
刀剣男士の不倶戴天の敵が地に満ち、ひしめきあいながら黒くうごめいている。
人を物言わぬ玉鋼に変えるほどの高濃度の神気のなかでは、歴史修正を是とする人類の頼みは、もはや時間遡行軍にしかないのだった。人の希望となって、異形の戦士たちは突き進む。
そこへ荒れ狂う雷雲と化した蛇が、鐘の音色を響かせて到達した。
誰にも傷つけられない蛇の鱗の隙間から血が滴る。赤い雫は、不定形の人型となって地に降った。
その揺らめく外形で、和泉守には血人形の区別がついた。顔もかたちもどろどろに溶けた刀剣男士たちだ。蛇に喰らわれた者たちか。
血人形たちが時間遡行軍に躍りかかっていった。触れるそばから敵を溶かし、喰らい、人の形をそれほど気にもせずに捨て、膨れていく。ついには赤い波となって敵の軍勢を呑みこんだ。
白い砂の大地の只中に赤い海が広がる。血の波飛沫は恐ろしい速度で乾いて干上がり、自らを産み落とした雷雲へ消える。
あたりの神気がさらに濃くなった。
戦場の空気が変わった。地平線から、無数の自己鍛造弾が発射される。電磁場を用いて打ち出された衝撃を用いて、鉄の板が鋭い槍の形に成形された。蛇の腹へ長大な針の束が放たれる。
届きもしない。白金の体表に刻まれた三日月形の呪が、結界を展開している。神気の膜に触れたところから、鉄と火が、柔らかく瑞々しい植物に生まれ変わっていく。赤やら黄色やら、鮮やかな色の花々が宙に咲き乱れ、青空に花畑を生みだした。
空の彼方から、頭痛をもたらす甲高い音を立ててなにかが迫ってくる。
白い雲を裂いて光の塊が飛来した。大気圏を貫いて弾道飛行を行いながら、二十四世紀の人類が作り上げた対地ミサイルが、蛇をめがけて堕ちてくる。
この地上に残ったものは、たしかに歴史の修正を是とする敵方。だけれどこの時代の人間にとっては、自分たちの戦場だ。刀も付喪神も底をついて、神頼みがかなわないところまで追いつめられて、人は禍に己の力で立ち向かっている。
蛇は身じろぎもしなかった。飛来する兵器が、やはり結界に触れて変質する。
弾道弾に蔦が巻き、葉が茂り、つぼみができて、大輪の牡丹の花が咲く。風になぶられる優しい花吹雪になって地上に落下していった。
白い顎が花のように開いた。一瞬あとの未来を悟って、和泉守は喉の奥でうなっていた。
「やめろォ……!」
蛇は敵対を選んだ人類へ向けて、雷光で編まれた途方もない剣撃を返した。雨のかわりに死を降らせる雷雲が、大地に死の祝詞を奏上する。
地平線が赤く燃えている。きっと町があったのだ。そこには、歴史修正主義者が勝利した世界に生きる勝利者が、敗者が、命あるものたちが確かに生きていた時間があった。
すべてが終わった。
* * *
和泉守兼定は両の手に友の刀を顕現した。右手に大和守、左手に加州。
──こいつは生かしておいてはならない。
蛇の表皮に刻まれた呪いの紋様に、十字に線を刻む。
大昔に、筆で墨を乗せた書道用紙に、朱液で容赦なく添削を入れられたことがあった。呪いは一文字でも形が変われば意味をなくす。だから、上書きしてやればいい。呪が力を失い、輝きが消えた。
こんなでたらめなデカブツだ。神気で作った浮力を失えば堕ちる。神の証を消し去り、人の理のなかへ戻してやれば、自重を支えきれない。もとよりお互い現世との縁の薄い身だ、呪いに見放された妖の身は崩壊して地に還る。
敵のなりはでかいが、それほど難しいことではないはずだ。壊す部分を自分の体の模様に照らしあわせればいい。
刀剣男士の形をした蛇の眷属は、尾にしがみついた和泉守兼定を外敵と判断したようだ。
粘つく血で象った人形が次々に殺到する、地獄へ引きずりこんでやろうとばかりに腕を伸ばす。無駄だ。とうに地獄に落ちている身が、これよりどこへ堕ちるという?
真っ先に飛んできたのは短刀の影だった。厚。前田。輪郭で悟る。
すぐ後ろに平野。五虎退、気は弱いがやる気は十分か。短刀は子どものなりをしていて脆いが、身のこなしの軽さを侮ると痛い目に遭うことを何度も実地で教えてくれた。戦になれば真っ先に飛び出していって、仲間に後を繋いでくれる。
不定形の刃の一撃が鋭い。怒っているのか。本丸から和泉守兼定が去ったあとで、きっと初期刀の兄は悲しんだだろう。それを子どもらは、もっとも間近で見ていただろう。和泉守兼定を恨んでくれたに違いない。
勝手なことばかりして姿を消した刀に憤りを覚えているはずだ。皆は兄弟を失った歌仙兼定を、自分の兄のように支えてくれただろう。それでいい。
小夜左文字が、歌仙を悲しませたものは許さないとばかりに飛んできた。刃に宿った呪いが強い。さすが復讐の専門家だ。
この幼い姿をした刀に、歌仙兼定が子どもみたいに甘えるところを目にするたびに、変な気がしたものだった。話をしてみれば思慮深く、知識が豊富で、なるほど年上の刀らしいところがいくらもあったが、和泉守兼定はどうも小夜が兄という気がしない。
小夜にとっては歌仙の弟は自分の弟でもあるらしく、なにかと年上風を吹かせるから戸惑う。今もこうして刃が耳のそばを切り裂いていくと、叱られているような気分だ。静かに、声を殺してぼそぼそとやられるのは、兄が昔そうしたようにあきらかな憤怒を爆発させるよりも神経に堪えるものがある。
兄と共に再び立て直した本丸の面々が、血の塊になって和泉守に牙をむいた。
──みんな。すまねぇな……。
結局和泉守兼定は、なにひとつ守れはしなかった。
力不足の自己犠牲は初期刀の兄を悲しませ、さらに悪い結末を呼び込んだ。和泉守の失敗をかんがみて、主の実験は念入りに『調整』されたことだろう。火力が足りなければ火種を足さねばならぬ。怒りが、憎しみが、呪いが足りないなら、人の手で加えてやらねばならぬと。
どこからどこまで、兄は審神者の思い通りになったのだろうか?
いくら愛すべき主とはいえ、神を人の思い通りにはできない。それを教えてやらなかったのは、自分たち育ての親の失敗だった。神は人を愛しているが、人は神を試すような真似をしてはならないと、思い通りにしようなどと考えてはならないと、正しく畏れよと教えてやれなかった。
きっと自分たち兄弟は、刀剣男士よりも物よりも神よりも、人でありたかったのだ。
人になりたかったのだ。人の親になりたかったのだ。
願いはかなわず、結末は死に完結する。かつての仲間が人の形も忘れて向ける刃に、和泉守は穢れた刃で応えた。同じ呪いでできている身に噛みつき、喰らってやる。斬って呑みこむ、潰して取りこむ。
本丸を移るときについてきてくれた旧友の刀──大和守安定。加州清光。長曽祢虎徹。堀川国広。それらの刀自体がまるで生きているように和泉守の手を離れ、踊って、同じ釜の飯を食った連中を裂いて突いた。斬る。
道が開いた。蛇皮の呪を本体で一閃。またひとつ破壊する。
蛇の巨躯が横転した。ついた蚤が暴れるせいで背中が痒いとばかりに、砂鉄の海に落下する。あがった砂柱は暴風を抱きこんで、蛇が吹きこんだ雷の息を得て嵐になり、鉄の粉でできた砂漠に電気を通して大地を光らせた。
この世のものとも思えない美しい景色だ。そのなかを蛇が、猫が背中を地面に擦りつけるのに似た動作で転げまわる。辛抱強く背中にくっついていたら、それこそ蚤みたいに潰されてしまうところだった。
結界の呪が一際輝いた。この百年で、身体に傷をつけられたのは初めてだったと見える。見知らぬ誰かが目の前にいると、ようやく認識したのだ。
視力はあまりよくないらしい。外敵に怯える必要がなければ、目を使う必要がないのだ。
どこかにいる誰かの視線を恐れて、展開した結界を強化。全身から剣のように雷を生やす。鏡の体表に無数の窓が開いて、照空灯の形をした光の剣が、無数の平行線を投げかけた。
うねる光の線に触れた砂が、溶けて泡立っている。出力がでたらめだ。ただ、砂嵐が濃くなると光が地表に届かず、威力が激減する。計算ごとは苦手なのだろう。白金の鱗がまた高空へ逃れようと翻るのを、大樹のごとき角に掴まって捕らえる。
黒い砂の雷雲のなかを、身をくねらせながら蛇が突き進んでいく。
──■■兼定。おまえをそう名付けよう。之定が一振りよ。
どこからか声がした。
血の沼から這い出してきたような、全身を真っ赤に染めた男の幻が、黒い雲の間に浮かんでいる。
心の中に花が開くような、くすぐったい歓喜を覚える。この世に生まれた嬉しさを謳う、これは蛇の心か。感情の欠片か。和泉守兼定が貪り喰らった刀剣男士の血を通して、記憶の砕片が流れこんでくる。
──雅なおまえにふさわしい、なんとも風流な名前だろう。
これが蛇の一番最初の記憶か。
流れる血の身を操る刀剣男士は、さながら蛇の免疫機構だ。外敵を発見すると増殖し、迎え撃つ。形を変える無数の刀と刃を交える。
手足もない塔のごとき蛇とでは、拳を交えあうこともできない。光の槍の前に身体をさらすことは愚かだし、顔見知りのなかでいちばん重量のある相手と相撲を取るなんて冗談じゃない。
出力が高く見た目よりも素早い──兄の喧嘩友達の長谷部が、あの人を動けるデブと評していたことを思い出す──相手との真っ向勝負は正気の沙汰ではないが、変則的な攻城戦と思えば悪くない。
皮に染め抜かれた呪にまた朱の一閃。蛇の力をひとつ削ぐごとに、雲間に記憶の泡が舞う。
──ねぇ兄さま。僕、とっても雅な名前をもらったのだよ!
■■というんだ。之定が一振りの僕にとってもよく似合う、素敵で風流な名前だろう。
──たくさん殺したら、あるじ様はもっともっと褒めてくださるよねっ!
──抱っこして。兄さま、頭を撫でてくれたまえよう。
──しょうのない子だ。之定は人を殺すのがとても楽しいのですね。
──うん、僕、人殺し大好き! 首を斬るのがいっとう好き!
幼い声が鐘の音に乗って、他愛ない問答を繰り返している。和泉守が一度も聞いたことのない声だ。
遠い先代に付喪神としての意識が生まれたばかりのころ、人でいう幼子の日の記憶。大事な思い出を風化させ、考えることをやめて、ただ殺すものであることを受け入れ、死という概念に成り果てたそれが、年を経ることで忘れ去っていた、意識の底に追いやられていたもの。最後の記憶すら、呪の解放とともに蛇から奪われて失われていくのだった。
──ねぇ兄さま。光千代くんすっごい泣いてたね! 人が生まれた瞬間に泣くのはどうしてかな? 生きることが苦しくて泣くのかな。死ぬことが恐ろしくて泣くのかな。
僕が生まれたときに笑ったのは、そんな人を殺すことが嬉しかったからなのかな。だって死んだらもう泣かなくていいのだもの。人助けだ。これは立派な仕事だよ。
──ねぇ兄さま。たま様が炎に焼かれて遠いところへ行ってしまわれたって、本当かい……。どうして? どうして僕らは火から生まれたのに、僕らを造った人は火の中で死んでしまうのだい?
──ねぇ兄さま。人はどうして死ぬといなくなってしまうのかな?
僕が誰かを殺すと、その誰かのことを好きだったり、大切に思っていた人は、たま様がいなくなって寂しいあるじ様と僕のように寂しくなるのだよね。
それにしても、殺すのは楽しいのに死んでしまったら寂しいのって、なんだか変じゃないかい?
──ねぇ兄さま。僕ら刀は人の死を生むものなのだね。
死から出でた命なんて、まるで呪いじゃないかい。
──ねぇ兄さま……。
──僕に聞かれても、知りませんよ。わからないことは答えられません。
──お小夜兄さまが冷たい……。
──もう。人のようにわがままを言わないでください。
小夜左文字のやぶにらみの目が、死人の哀しみを宿して和泉守兼定を見た。
これは──追憶の幻ではない。
──人のように……之定は、なりたかったんだね。
顎をあげて、砂塵の彼方へ飛んで行く蛇を見送っている。
──あの子はきっと、人に近づきすぎて、そばで見ているだけではたまらなくなってしまった。和泉守兼定、あの子に連なるあなたも、そうなんでしょう。
気がつけば、夜が訪れている。星のない空から降る白いものは冷たい。
雪が降っている。
本丸が見えた。昔、暮らしていたときと変わらない門の前で、いつもの仲間たちが、長い旅から帰ってきた和泉守兼定を出迎えてくれている。
誰も怒ってはいない。憎んでいない。悲しんでいない。呪が解ける日が来たことを心から祝い、清々しい笑顔を浮かべていた。
──和泉守さん。僕らののん兄を、どうか、よろしくお願いします。
──よろしく、お願いします。
──すまんな、任せる。
──頼んだぞ──。
そう言って、揃って頭を下げた。
蛇の額の紋様へ、和泉守兼定がこれまで喰らってきたすべての力をこめて刃を突きいれた。
すべての呪が──開放された。
蛇の動きが止まった。黒い牙がびっしりと生えた口蓋を開く。可聴領域外の甲高い咆哮を、天に向かって解き放った。
あまりにも重い身体が、堕ちた。
鉄砂の砂漠に墜落した衝撃で、巨大な塔の体躯がふたつに折れた。
『……ネェ……キミ……。和泉守兼定、ヲ……知ラナイカイ……』
はっとする。地に落ちた太陽のような、赤いふたつの光球の焦点が、和泉守をとらえている。
蛇の喉から滝のように黒い血が流れて、穢れた川となって広がっていく。
神気の最期の放出。同じ呪いでくくられた存在でなければ、和泉守もとうに不細工な石くれになりはてていただろう。あたりの生命の気配は、もうずいぶん前から途絶えていた。
ごぼごぼと喉を鳴らして、蛇は寝入りばなのような声で、ゆっくりと語り掛けてきていた。
『僕ハ……誰ダッタカ……思イ出セナイガ……。ボクノ弟……ヲ……。見ナカッタカイ……』
「──!!」
和泉守はその名を叫んだつもりだった。だけれどそれは獣の咆哮で、呼びたかった雅で風流で物騒な名前には程遠かった。
『早ク……見ツケテ、ヤラネバ……。殺サナケレバ……。死デシカ……誰モ救エナイ……』
「わかってる! 今殺してやる!!」
赤い眼に和泉守兼定の本体を叩きこんだ。神気を放出、最大出力。壊れた鋼鉄の塔を、落ちた星のごとき眩い雷光が打つ。莫大な量の砂鉄が天を打ち、太陽を覆い隠した。
『待ッテ……オイデ……。兄サン……ガ……スグニ、キミノ……トコロ……ニ……』
銀色の嵐のなかで、とても耳に馴染んだ、寝言めいた声が聞こえた。
【6-6 鋼雷葬/paraiso】
濃い霧がかかっている。大地に降り積もっていた細かな玉鋼の塵が巻きあげられ、日の光を遮っているせいで、あたりは薄暗い。割れた道路が一直線に続く先に、鋼の塔がそそりたっていた。
それは脱皮しそこなって、そのまま死んだような形をした、あまりにも巨大な白い蛇の躯だった。
年を経た大樹にも似たねじれた形が崩れて、細胞の欠片があたり一面に散らばっていた。にぶい銀色をした、でこぼこの鉄塊。大昔に幼かった主を連れて博物館で見た、古い時代に宇宙へ飛び立った船が、土産に持ち帰ってきた月の石にそっくりだった。
人の形をしている。
顔の造作が削れて、手足の先の細い指が崩れて、かろうじて生前の姿を推し量れる程度だが、鬼に喰らわれた刀たちだとわかる。
短刀なんかの小さいものは、一塊にくっつきあって誰が誰だかわからない。大人の姿をした太刀は、まだかたちがわかるほうだ。一期一振は、こんな姿になっても弟といっしょだったのだ。すこしだけうらやましい──。
人の形をした石が連なるはしごの昇りつく先に蛇の、『禍津兼定』の核があった。
歌仙兼定。
和泉守兼定はこの百年で、何度も兄の幻を見た。とても近くにいるように感じていた。
それもそのはずだ、兄の吐く息は──神気は空に満ち、土に染みこみ、天をつくその身は雪雲のように、白く光る呪いのかけらを降り注いでいる。
人のかたちをしていたころよりも神らしい姿だけれど、人が作った神などだれも崇めはしない。それでも──兄の姿のヒトガタは、崇拝の対象にされるような、そういうふうに造られたもののようだった。
パライソの神を恫喝するように大きく口をあけ、地上に満ちた怒りを叫んでいた。
雅だ風流だと言って、日本の古式ゆかしい伝統の作法が板についているわりに、歌仙兼定は耶蘇教の教えに造詣が深かった。名付け親の男の妻、細川ガラシャが熱心な吉利支丹だったのだという。
自害は大罪とする伴天連の教えに身を預けていた女は、炎に巻かれながら望んで死ねず、供の者に自らを殺させた。兄は、死に赴く奥方を困らせた不届き者として、この自らを唯一の神と嘯く八百万の神の一柱をなかば逆恨みしているようなところがあった。それでいて救いのない女の心に安息を与えてくれたことに、感謝してもいるようだった。
細川忠興は妻の改宗に激怒し侍女の鼻を削ぎ落しながらも、その陰で妻の祈りのために屋敷に祈りの部屋を用意したと伝えられる。兄も元の主の姿勢を真似ていたのだろう。
忠興が嫌いなら自分も嫌いだが、ガラシャが好きなら自分もまあ悪くはない。好きで嫌い。子どもっぽい無邪気さで、好き嫌いをはっきりさせるのは、兼定の刀に共通する性格だ。
耶蘇は人に殺されて死んだという。兄も人に使い捨てられた。
鉄くれから生まれた神が人に成り、また鉄くれに還る。それだけだ。
そのはずなのに──祈る者のいない神の姿は、ただ悲しい。
思えば頭から茎尻まで、自分たち刀は、人の手が触っていないところなどなかった。やわい肉の手に握られることを。砕いた骨と臓物に抱擁されることを。ぬめった血を優しく拭われることを。人が『とても好きな』戦に使われることを、恋しがり焦がれ求めてしまうように生まれたのだ。
人の手が創造した物は、人の神にはなれない。
兄が、母のように慕う細川ガラシャの心を盗んだ耶蘇の神を、憎んで恨みながら特別な敬意を払っていたように、跪いて祈った。この冷たい鉄のヒトガタは、偶像ではなく墓標だ。
鉄屑の手をつかんでさすってやった。温まらない。働き者のかっこよくて強い手が、ひび割れて崩れかけてしまっている。額を寄せた。兄が主によくやったように、自分も主にそうしたように、一期一振や長曽祢や江雪たち兄刀が弟にするように──之定になら一度はと、心の内で願ってきたことをした。
人が生まれて一度はそうされるように、頭を撫でて、末代の強さを認めて褒めて喜んでほしかった。歌仙兼定の背丈ではすこしばかり難しいだろうけれど。
腕の中にすっぽりおさまる体躯を抱いて、一度、ゲートキーの設定パネルを横目で確認する。ずいぶん硬くなってしまった銀色の背中に、和泉守兼定の切っ先をあてがう。
まるでふたりで心中するみたいじゃねぇか、なぁ之ン兄ちゃんよ──。
【6-7 23XX年滅亡の日】
ネオンサインが輝き、投影式の電光掲示板が夕方のニュースを流すころ、とある大都市の交差点の中央に、左前に合わせた白小袖姿の男が裸足で静かに立っていた。
身の丈は五尺八寸ほど。肉付きのいい体つきだ。老人のごとき白髪だが、袖から覗く肌は瑞々しい。後襟を縫いこんであって、顔かけの白い布をしている。出てくる場所をしくじった幽霊にも見える。
雑踏をせわしなく行き交う人々からあきらかに浮いているのに、注意を払う者はいない。
星のない夜空に、電子広報板の巨大な見出しが投影されている。
──西暦23XX年XX月現在、長きにわたる戦争は歴史修正主義者の勝利によって終止符が打たれた。時間遡行軍の猛攻撃により時の政府が倒される。勇敢な国民諸君、我々は勝利者だ。
ここは修正された歴史の流れついた未来。時間遡行軍の悲願が叶えられた世界だ。
交差点の信号が赤に変わる。人々の姿が途切れる。白小袖の姿も、掻き消えていた。
舗装道路が弾け飛んだ。立ち並ぶ高層ビルの群れが、突如生まれた大地の亀裂に呑まれていった。それと入れ替わりに、地の底から街を覆いつくす白い壁が生えてきた。
壁は、ゆっくりとせりあがっていく。ようやく地表へその全体が現れる。発狂した芸術家が嫌悪感と不安を心のままに表わした現代芸術みたいな形をした、角を生やした白い蛇。
顕現した蛇は、山脈のような巨躯を浮上させた。硬く重い無数の鱗の欠片を、群衆の上に鉛の雨がわりに降らせながら。
鋭い歯が隙間なく生えた口腔内は黒い闇。青白い雷が閃いていて、体内に禍々しい嵐を飼っているかのようだ。蛇の吐き出した息は、大気に触れたとたんに雷光で編まれた槍へと変わった。
光の槍が一直線に伸びていった。まっすぐに放たれた雷の息は無機質なビル群を一瞬で溶解し、生けるものを根こそぎ蒸発させ、その創造物をすべて破壊し焼き払いながらどこまでもぶっ飛んでいった。
砂糖粒に群がる蟻の行列に、ポンプの圧力を最大にした消防車の放水ホースを向けて吹き飛ばすような、無意味なほどに圧倒的な蹂躙が行われた。
西暦23XX年のその日、歴史修正主義者が手に入れた新しい国は、市街地の真ん中に突如として現れた怪獣に踏み潰された。一瞬の勝利者たちは、存在した痕跡を残すことさえ認められずに消えていった。
大蛇は──八百万の人を殺す神は、都市を焼き、人々を喰い、大地に永劫消えない呪いを残しながら、幾日もかけて列島を縦断して破壊を撒き散らしていった。
高純度の神気で汚染された彼の地で、人は息をすることも赦されない。五分で体組織の硬化がはじまった。半刻もたたないうちに、完全に鋼のかたまりのように変貌してしまう。生きた人間が冷たい鉄屑に、物言わぬ物になる。
やがて世界地図から国家の名前が消え、神に呪われたその土地は誰からも忘れられていく。
──歴史修正主義者との戦いに刀剣男士が敗北した未来は、人類の歩みにおける致命的な間違いだ。
それならば意味をなさないうちに消去する。たとえ新しく生まれた未来が誰かの幸福に繋がっていようと、国土すべてが灰燼に帰したとしても、呪わしい敵が手にした可能性ならば慈悲なく摘み取るまで。
失敗作の未来をどこへも届かせない。国を亡ぼす理由はそれだけだ。
いつかの日に人をやめて人の形と心を捨ててしまった神は、八百万の叫びも届かない金属の目で、人を、人の創造物を、都市を、国を焼く炎を見すえている。
もう怖れも喜びも感じることはないけれど、美しい滅びの光景が広がっていた。
──『僕らは』歴史が修正された先に発生するまがいものの世界たちを、産声を上げた瞬間に殺す。その日をもう何度も繰り返している。
すべて壊すまで。
ふいに誰かに呼ばれたような気がして、蛇は頭をもたげた。
鋼の躰を強い風がなぶり、鐘の音が鳴り響く。長い間待ちぼうけをしていたところに、約束の時間に遅れた古馴染がようやく到着したときのようなしぐさで、蛇はひとつ頷いた。
その姿が霞のように徐々に薄く融けていく。蛇、壊れた街と汚れた砂漠、天地の間の有象無象のなにもかも、禍に侵されたすべての時空が光の塵となり、夢から覚めるように弾けて消えた。
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