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屋敷中をくまなく探索したが、得るものはなかった。死んだ理事長は誰も知らない秘密の隠し場所をどこかに用意していて、持ち去った〈ブラック・マジシャン・デッキ〉をすでにそこへしまい込んでしまったのかもしれない。 せめて、手がかりの欠片でもいい、何か見つからないだろうか? 武藤遊戯に借りたままの大きな恩を返せるあてがようやく訪れたのだ。貴重な機会を無駄にして、彼を悲しませる結末だけはどうしても避けたかった。 手つかずで残っている場所は、調理場脇の階段から続く地下室で最後だ。外光も届かない部屋には濁った闇が垂れ込めている。夜の荒野よりは暖かいが、湿気が多かった。 横倒しにされたオークの樽が整然と積まれている。樽には焼印が押され、デュエル・アルカディア特産品のノンアルコールワインが正しく貯蔵されていることを示していた。学園の地下にワインセラーというのも奇妙な取り合わせだ。 「収穫祭って今月末だっけ」 入学案内のパンフレットによると、十月の終わりに生徒たちは素朴な民族衣装をまとって東のぶどう畑へ向かい、熟した果実をもいで大樽の上で素足になって踏む。この地方に伝わる古き良き収穫祭が再現されるそうだ。 『ボクもじつは楽しみにしてる』 ユベルは不可解な上機嫌を湛えている。 「楽しみったっておまえ、ワインなんて飲めないだろ」 『だって、キミがあの村娘の衣装を着て踊るんだろう?』 「それを言うなよ。想像しただけでみじめな気分だ」 『指をさして笑ってやる』 「さっきみたいにかわいいなんて言われるよりは、そっちのがまだましだな」 カタコンベに似た息苦しい空間をさらに奥へ進んだ。自分の靴の音だけが神経に障るほど大きく響いていて、そこにかすかな耳鳴りが生まれ、徐々に大きくなっていった。金属質の不快な音は膨張を続け、まるで頭蓋骨の中で鐘が鳴っているようだ。ある一点を超えると、それは突如として浮遊感をともなった眩暈に変わった。 暗視がきいていた視界がマットな黒一色に染まり、茹でた豆の皮を剥くような容易さで全身の皮膚が破け、内臓がひっくり返り、遊城十代という存在が一個の巨大な眼球に変貌したかのような奇怪な認識に陥っていく。視覚だけの存在になった十代の自我は肉体の外部にまで広がっていき、見えないはずのものを見て、闇が落ちる場所にある何もかもの秘密を暴き出す。強烈な嘔吐の予感とともに、脂汗が噴き出してきた。 『落ち着け。いつものやつだ』 ユベルの声が聴こえる。 『キミが大好きなテレビを思い浮かべろ。あれのチャンネルが切り替わったんだ。ただキミはチューナーを新品に買い替えたばかりで、装置の扱いにまだ慣れていない。わかるか? 心配するな。すぐに収まる』 まぶたを閉じて大きく息を吸った。初めての経験ではない。ユベルと融合して以来、まれに訪れる体感幻覚だ。人には備わっていない特別な器官で聞こえるはずのない声を聞き、見えるはずのないものを見極めて理解する。半分の人間の機能に比重を置いている十代は、この見知らぬ鮮烈な感覚にまだうまく適応しきれないでいる。 ちぐはぐに輝く両眼が不可思議な光景を見せた。足元の土の下の深いところで、せみの幼虫のようにうごめく白いものが泣いていた。丸めた身体を震わせ、うめき声をあげている。よく見ると、それは膝を抱えて横たわっている人間だ。むっくりと膨張した裸の女なのだった。 視界が這い虫のように歪んでおり、女の顔はぼやけていてよくわからないが、チョコレートブラウンのツートン・カラーの頭を認識したときに心臓が大きく跳ねた。 暗喩をほのめかす幻視は訪れと同じ唐突さで去った。十代は硬いタイル張りの床を踏みしめ、宙を見上げて棒立ちになっていた。 『――大丈夫か?』 気が付くとユベルの顔が驚くほど近くにある。 今度は望んで、半身の悪魔の力を発現する。虹彩異色症の眼の前で、時間と空間のはざまに焼きついた建造物の記憶が再現されていく。時計の針を巻き戻すようなぎくしゃくとした動作で粘ついた影が行き交い、さまざまな足跡が埃っぽい床の上にくっきりと浮かび上がっては、新しい靴の跡に上書きされて消えていった。 九インチのスエード靴の跡――これは死んだ理事長のものに違いない。この学園には彼以外に大人の男はいないからだ。次に現れたのはそれよりもひとまわり小振りな、デュエル・アルカディア監視機構員が身に付けていた支給品のレースアップブーツの跡だ。コマ送りの間にまぎれて華奢なペニーローファーの痕跡。十代が履いている学校指定の靴と揃いで、ほとんど生徒の立ち入りがない貯蔵庫には場違いだった。 秋の暮れの並木道をいちょうの落ち葉が覆い尽くしているように、地下室は無数の足跡に埋もれていた。いくつかは突き当った壁の中に消えている。 醗酵タンクの陰にかすかなくぼみがあり、指で触れると乾いた音とともに壁の一部分がスライドした。巨大な汲み井戸のような空間が現れる。内壁に沿って石の足場が続いており、終点は蛍光グリーンの人工灯に照らされたぶあつい防壁だった。 岩壁の間に渡された薄い鉄板の下から隙間風のうなり声が聞こえてくる。足元にはまだ深い空洞が口を開けているようだ。 防壁に造りつけられた扉の向こうには、ゆるやかな傾斜がついた円形の回廊が続いていた。大きさのばらばらな石を組み合わせた壁は冷たく、染み出してきた湧き水で濡れている。通路の右側に、赤茶けた錆でびっしりと覆われた扉が等間隔に並んでいた。目の高さの位置に、手首がやっと入るほどの菱形の開き戸がついている。 一つ目の扉は溶接されており、二つ目も鍵が固く閉ざされていたが、三つ目の扉はほんのわずかに開いていた。手で触れると、金切り声の悲鳴に似た音を立てて内側に開いていく。 部屋の床はまだら模様の不潔なかびのカーペットで覆われていた。名前も知らない不気味な形のきのこが群生し、通風孔を塞いでいる。入口の向かいの壁に二本の鎖が垂れている。人の手首を締めつけるのにちょうど適した形の鉄のわっかをぶら下げており、用途は考える間でもなかった。 前時代的な牢獄だ。両隣の部屋に人の気配を感じ、組み石の隙間から覗いてみたが、水っぽい闇が広がっているばかりだった。 「――そこにいるのは誰?」 部屋の真ん中の排水溝から、女のかすかな囁き声が漏れてくる。下を覗き込むと、ひとつ深い階層にいる女と目が合った。 裸だ。身につけているものは円錐形の奇妙な髪飾りのみで、壁の鎖に両手を繋がれていた。学園の生徒たちと同じくらいの年頃に見えたが、柔らかそうな白い腹が不自然に膨れている。妊娠していることはあきらかだった。 なぜ、妊婦が牢屋に押し込められているんだ? 女性の印象は幻視に登場した人物に重なるが、また様々な部位で異なってもいた。彼女の髪は十代に似たツートン・カラーではなく青みがかった赤毛だったし、生まれて間もない赤ん坊のようにむっくりと肥ってもいない。 いやな推測に至って背すじのうぶ毛がぴりぴりと逆立ってきた。もしかするとこの地下牢には彼女のほかにも同じ境遇に置かれた人間が囚われていて、十代が見た幻視の登場人物はそのうちのひとりだったのかもしれない。 女が十代を見上げて囁いた。 「その制服、学園の生徒ね。聞こえる? 貴女もここへ連れて来られたんでしょう」 「どういうことだ。キミはデュエル・アルカディアの生徒なのか。なんで裸なんだ。その……」 ――その膨らんだ腹はなんだ? 「あちゃあ」と女が言った。にわかに落ち着きをなくして、身じろいだせいで手首を縛る枷ががちゃがちゃと耳障りな音を立てた。「くそったれの神様」、ブラウンの眼が無知な来訪者の不運を憐れんでいる。 「その顔じゃ貴女は偶然ここへ迷い込んじゃったみたいだね。新入生?」 「一応、まあ、そうなる」 「急いで来た道を戻るのよ。いい? そろそろあいつらが見回りに来る。捕まったら貴女もこうなるから」 「こうって」 女のまるみを帯びた腹を前にして、いやでも意味を悟るほかになかった。この学園には彼女のような目に遭わされている生徒がまだ他にもいるのだ。 「ぐずぐずしないで早く行きなさいよ」 「行けるかよ。放っておけるわけがないだろ」 十代は顔をしかめて言い返した。女がいらだちと恐怖に上ずった声で叫ぶ。 「わかるでしょ。この姿をパパやママに見せられると思う? おなかがこんなふうになっちゃってるのを、みんなが見たらなんて言うと思う? 家にもどこにも帰る場所なんかなくなっちゃったってわけ」 排水溝から零れてくるひそひそ声に熱がこもった。湿った吐息。泣いているのだ。 「変に思うかもしれないけど、子どもの頃から不思議な力があったんだ。みんなは怖がって近寄ってこなかったよ。ずっとひとりぼっちだったのも、ひどい目に遭うのも、『私たち』は人と違うからしょうがないことなんだって、最近やっと諦めがついたとこ」 「馬鹿を言うな。キミのほかにここに閉じ込められてる人だって、なにもしょうがないことなんかあるもんか。諦めるな。必ず助けてやるから」 「貴女、名前は?」 「カンナ」 十代は短く答えた。 「カンナちゃん、ひとつお願いがあるんだけど」 女が囁いた。 「なんだよ?」 「ピン止め持ってない?」 「待ってろ」 耳のうしろで長い髪を束ねているリボンをほどいて、黒の玉付きピンを抜いた。排水溝から下へ落とすと、石の床の上でかぼそい音を立てて幾度か跳ね、女の足のつま先まで滑っていく。 「ありがとう、これで……」 女が急に顔を上げた。ぎくりとする。優しいブラウンの瞳が、その目を見るのがとても好きだった誰かによく似ている気がしたのだ。 「バイバイ。カンナちゃん」 女が言った。 誰かが硬い踵を規則正しく床に打ちつけ、回廊を巡ってくる。鉢合わせをして騒ぎになると厄介だ。牢獄を出て通路を下っていくと、いつしか四角く切り出された坑道のなかを歩いていた。 あらかた金属を掘り尽くされて役目を終えた廃坑らしかった。配管を引き上げた名残の深い穴が地面のあちこちに口を開けている。もう使われなくなった貨車のレールのどん詰まりに、岩盤を人工的にくり抜いて広げた空洞があった。 天井からぶら下がったオレンジ色の電球が弱々しい光を放っている。蒸留釜が並び、釜の上部から伸びたパイプが部屋の隅々にまで植物の根のように張り巡らされていた。硫黄の腐卵臭がひどい。本棚に並んでいる古い時代の書物のタイトルには――『マグレガー・メイザースの再編による七冊の断章』、『アラビアの三幻魔』、『アムナエル写本』――いくらか見覚えがあった。 そこはなにかの研究室だった。木製の棚にはひとかかえほどもあるガラス瓶が、それぞれ几帳面にラベルをつけられて並んでいる。 瓶のなかにはまだ目も開かないほどの小さな生き物が入っている。十代は理解と同時に舌打ちを零していた。薬品漬けになった人間の胎児の標本だ。 部屋の真ん中に籐椅子がぽつんと置かれている。羊の人形が正面を向いて座り、腹に内蔵された音響機器からゆったりとした子守唄のオルゴールを流していた。視線を感じて振り向くと、壁じゅう一面が、むっくりと肥った赤ん坊とそれ未満の生き物たちで埋め尽くされていた。彼らは生きたまま今も成長を続けており、丸みを帯びた保育器の中で震え、悶えて蠢きながら大人の庇護者を待っていた。 両親はどこにいるんだ? わかりきったことを自問する。親は――。 まったく、むなくそが悪い。 気は進まなかったが、イヤリング型の通信機のスイッチを入れた。海馬モクバと顔を合わせるたびに湧き起こってくる正体のわからない抵抗感を押し切り、首に下げた真鍮のロザリオを唇へ寄せた。メダイの形状をした接話型マイクロフォンだ。 「モクバさん。聞こえますか」 ノイズのさざめきが、ざらざらとした耳障りな音の粒を引きずりながら押し寄せてくる。 『十代。おい下っ端。どうした、なにがあった』 途切れ途切れの男の声が聴こえた。モクバが通信機の向こうでがなっている。安心した。不安定だが、電波は繋がっているのだ。騒音の波はやがて引いていった。 「この学園で行方不明になった生徒について、調べてもらえませんか」 『声が変だぞ、お前』 「ちょっといろいろあって。ひとりじゃない。何人かいるはずです」 『了解。ちょっと待て』 入力装置を弾くかちかちという音。落胆の溜息。肺が縮んだ気がした。 『十代、今お前、理事長の屋敷の中か』 「はい、地下に」 『お前が持ってるノートパソコンをディヴァイン家のコンピュータに接続しろ。どこでもいい、構内通信網で情報が共有されているはずだ』 研究室の内部に見当たるものは、得体の知れないオカルトじみた装置ばかりだ。他を探したほうが良いだろう。たしか来た道にモニタールームがあったはずだ。 部屋を去り際に、まぶたを開いた赤ん坊と目が合った。あどけない黒いまなざし。反射的に笑顔を取りつくろうと、素直に笑い返してくる。何の変哲もない、ごく普通の子どもだ。 廃坑を戻りながらモクバに知らせた――ディヴァイン邸、地下貯蔵庫の更に深くに存在する秘密めいた建造物。石の牢獄、そこで十代が見た女の囚人は妊婦であったこと。彼女の言動から、どうやら普通の人間とは違った力を持っているらしく、同じように捕まっている者が他にもいるようだということ。 「生徒たちは、無事とはとても言えません」 女の膨らんだ腹を思い浮かべて吐き棄てた。 モニタールームは無人だった。邸宅内をあらゆる角度から映した四角い枠が並び、見回りをする黒と金の制服姿の女が右上の画面に映りこんでいる。モニターの前に並んだ情報集約機器に、おんぼろノートパソコンを素早く接続する。人が戻ってくる前に作業を済ませてしまいたかった。 「これでいいですか?」 『上出来だ、遊城十代。そこから侵入する』 コンピュータの画面が恐ろしい速度で切り替わりと点滅を繰り返し始めた。正確なホームポジションもままならない十代の理解の範疇を越えて、決闘者がカードを手足のごとく扱うように、モクバの指はあらゆる機械を自在に操ることができる。 『お前がデュエル・アルカディアに編入するとき、変なテストがあったろ』 「紙の上に落ちたインクの染みが何のカードに見えるかとか、三択クイズや神経衰弱デュエルだとか、アカデミアを受験した時にはあんな変なの見たことなかったけど」 『ロールシャッハ・テストやミネソタ多面人格目録をもとに専門家が考案した心理検査だよ。この学園の連中はああいう方法で生徒たちをランク分けしているらしい。もちろんアルカディアは「ライバル校のデュエル・アカデミアと違って」格差のない理想郷を謳っているから、厳格な階級付けをおおやけにはしない。いや、公表なんてできるわけがないな。視覚尺度と聴覚尺度、デュエルモンスターズとの感応率、人間世界への出力特性の有無……お前になら意味がわかるな。奴らはサイコ・デュエリストなんて気味の悪い名前で呼んでる。デュエル・アルカディアは精霊と心を通わせる超能力者を集めているんだ』 「なんのつもりで、そんな」 『高い適性を持って入学した生徒は、多くの場合が二年生に進級する前に放校処置を受けてる。その後の行方は不明ってことにされてるが、今開いたリストを見ろよ』 十代の目は、ちらめくノートパソコンの画面に釘づけになっていた。類稀な潜在能力を秘めた超能力者たちの名前がリストに連なり、身体情報、能力に見合ったランク、そして予想通り出産した赤ん坊の画像データが記録されている。 十代はうめいた。最悪だ。 「この学園の理事長は、生徒を攫って超能力を持った子どもを産ませてたっていうのか。意味わかんねぇ。なんでこんな馬鹿なことを考えついたんだ?」 『特別な権力を持った人間はいつでも強い兵士を望んでる。どいつもこいつも、従順で思い通りに動く玩具の兵隊で世界中をいっぱいにしたがるのさ。オレもそんな男をよく知っている。戻れ十代。そこは危険だ』 平坦だったモクバの声が、子どもを叱責する大人の険しさを帯びた。 『見つかったら、お前もまずい』 自由を奪う手枷、蟻の女王みたいに大きな腹。優しい誰かに似ていた瞳。十代の脳裏に、牢獄に囚われていた女の無惨な姿が蘇る。必ず助けると約束したのだ。今はおめおめと帰る時間ではない。 「彼女たちを放ってはおけません」 『バカ。超能力者が捕まってるんだぞ。奴らには間違いなく相応の用意があるんだ。今は退け』 「駄目です。泣いてたんだ。もし遊戯さんがここにいたら、泣いてる人間を見捨てて逃げたりなんか絶対にしない」 『確かに遊戯ならそうだろうな。あいつはバカだから。じゃあお前は何だってそんなにむきになってるんだ?』 「それって、どういう意味ですか」 戸惑う十代に、モクバの醒めた問いかけは続く。 『お前、いつかは自分もこうなるかもしれないって可能性を見て、ビビッちまってるだけなんじゃないのか。良い子にしてたら「そうなった」時のお前にもきっと助けがくるはずだって、お前自身の恐怖心に言い聞かせてなだめてやりたいだけなんじゃないのか』 「ばかな。そんなわけ……」 『頭を冷やせ、遊城十代。嘘つきの正義なんて所詮その程度のものなんだ。お前の「助けたい」なんて言葉は信じない』 モクバの軽蔑を否定し、はねのけようとして、十代はふいに子どもの頃何度も繰り返したみじめな言い訳を思い出して口籠っていた。気まずい沈黙が落ちる。 ――ぼくは悪くない。ぼくがみんなを傷つけたんじゃない。ユベルが勝手にやったんだ。ぼくは止めた。言うことを聞かなかったあいつのせいだ。なのに、どうしてみんなはぼくを責めるんだ? ぼくの何が悪かったっていうんだ? 自分本位の幼稚な言い分に吐き気がして、羞恥と自己嫌悪で耳まで熱くなった。 「あなたに信じてくれなんてオレは言えない。でも、みんなと違う力を持ってるってだけで捕まって酷い目に遭わされるなんて、そんなの絶対間違ってる」 十代は言った。 たしかに昔の十代は、モクバの言うとおりに、正しい人間がどうしようもなくピンチに陥った時には誰かが守ってくれるものなのだと信じる子どもだった。だからこそ異世界で何もかも失ったとき、誰も手を差し伸べてくれないのは自分自身が取り返しのつかないくらいに弱くて間違った人間だからだと諦めてしまっていた。 しかし十代を救ってくれた仲間や、ずっと見守っていてくれた人が、そうではないと教えてくれた。一筋の光も届かない闇の深くに堕ちても信じ続けてくれる人はいる。見捨てられてひとりぼっちになったときにも、戻ってきて命がけで手を引き上げてくれる友達がいる。 彼らは絶望の闇の中から十代を救ってくれた。だから今の十代には、怖い目に遭っている者がいたら、その人間がどれほど誰かの助けを待っているのかが自分のことのようにわかる。 「超能力者、サイコ・デュエリスト、精霊と人間の架け橋、どんな言葉で呼ばれてたっていい。オレはそいつら仲間を守るために生きていくって決めたんだ。オレの力を必要としてくれる人たちが、馬鹿なガキだったあの頃のオレみたいにうつむいて泣いてばかりいなくていいように、今度はオレが伝えに行くんだ。大きな力を持ってるのは決して悪いことなんかじゃない、人と違うからって孤独にはならないんだって。逃げ出したら、オレの目指す道が今で折れちまう」 コンピュータのアラームが鳴った。頭上でサイレンが響き、監視モニターが警告色をしたテロップで埋め尽くされている。 侵入がばれたのだ。 「――誰かいるぞ!」 女の怒鳴り声。敵意と殺気が地下の空気を揺さぶりながら近付いてくる。十代はコンピュータの接続コードを抜き取って身をひるがえし、ホルダーのデッキからカードをドローした。デュエルディスクを使って精霊の力を現実世界に解き放った瞬間、実体化したエース・モンスター〈ネオス〉が召喚されるはずだった。 ヒーローは、立体幻像すら投影されなかった。 デュエルディスクがまったく反応しないのだ。故障したのかもしれない。十代はエースカードを確認し、その異様さに言葉を失った。 〈ネオス〉のカードが真っ白だ。デッキに入れたすべてのカードたちも同様に絵柄が消失し、ただの白紙に変わっている。 「な、なんだよ。これ……」 いかめしい靴音が背後に迫り、闇の中でどんどん大きく膨れ上がっていく。通信機越しにモクバが怒鳴った。 『言わんこっちゃない。逃げろ!』 発砲音が続けざまに鳴る。近くの壁の一部が吹き飛んだ。柔らかい岩に銃弾がめりこみ、細かい土がぱらぱらと舞う。 「もぐり込んだのは、例の奴か!」 ――『例の奴』? どうやら追手は、侵入者の十代を誰か別の人間と勘違いしているらしい。怪訝に思いながらも、傾斜路を蹴って地上を目指した。精霊の実体化能力が発動しない以上、真っ向から武器を持った集団の相手をするのは分が悪すぎる。今は逃げるしかない。 「それにしても身体がこんなに重いのは久しぶりだな。ユベル」 軽口に溜息が返ってこない。ユベルの声が聴こえない、姿が見えない。十代は上ずった声で半身を求めた。 「ユベル!」 応えがない。 そばにあるのが当たり前だった精霊たちの息遣いが消失すると、凶暴なけものの姿をした孤独が待ち構えていたかのように十代の首に手をかけて、暴力的に喉を絞り始めた。 デュエル・アカデミア二年生の頃、後輩との決闘に敗北し、カードの精霊たちを見失ってしまった経験がある。当時の不安と焦燥を思い出していた。カードは真っ白だ。何もない世界だ。誰もいない。とりとめのない夢の終わりを突きつけられたように息ができない。 ただの人間だったあの頃にはなかった生理的な恐怖が判断力を曇らせる。遊城十代という存在そのものの根幹が揺らぎはじめ、つんのめり、転びかけながらも回廊を這うように走り続けた。闇へ、もっと暗い方へ。足元にまた着弾する。喉が破けたような痛みに喘ぎながら、足を動かすことだけを考えた。 『十代!』 ユベルの声がした。透明な手が本物の感触を備えて十代の腕を掴み、巨大な井戸の内側に打ち込まれた螺旋階段から引っ張り上げてくれた。おそるおそるデッキのカードを確認する。信頼するヒーローたちの絵柄が還ってきていた。 『ボクの十代の目にあんな汚らわしいものを映すなんて』 不法投棄されたごみの山へ文句をぶつけるような侮蔑の声に、何よりも安堵した。 「ユベル! 逃げるぞ!」 背後の空洞の闇を一度振り返った。この屋敷は、精霊の力を封じる正体の分からない罠を用意している。今はモクバの言うとおりに退くしかない。イデオロギー的正義感と夢見がちな勇敢さに酔った幼稚な深追いは破滅しかもたらさない。楽観は絶望の花の種だ。水をやってはいけない。身に染みて知っている。 ――『また繰り返したいか』? 大人の理性で子どものうぬぼれを殺し、足を停めずに貯蔵庫を走り抜けた。囚われの同類たちに向かって胸の中で繰り返す。くそ、すまない。必ず戻ってきて助けてやる。 玄関ホールはすでに封鎖されていた。屋敷は武装したデュエル・アルカディア監視機構員によって包囲されている。窓から射し込む警備用サーチライトの強烈な光線に上へ上へと追い立てられてゆき、突き当った扉を抜けると視界が急に開けた。 まばゆい星空が銀色にまたたいている。鐘楼台だ。 「もう逃げられないぞ。おとなしく城へ戻るんだ!」 「城?」 十代は古びた鐘の前でようやく振り返った。追跡者たちは、全員が同じ顔をしているように見えた。自分自身とはまったく異なる種類の生き物、たとえば甲虫や深海魚の個体の区別がうまくつかないような距離感を抱いた。冷ややかな感覚だ。相手が同じ人間だとはとても思えなかった。 『人間じゃない』。 それなら何もためらう必要はない。大いなる力は戻った。抑制も畏れも屍の山に廃棄すればいい。孤独な王の無機質な心を呼び覚まし、十代は思った。 ――こんなひどいやつら、死んでもいいじゃないか。 頭上から軽快なローター音が近付いてきた。十代は我に返り、夜空を振り仰いだ。モクバが、ヘリから垂れた銀色のはしごに足を掛けた恰好で腕を差し出している。 「手を伸ばせ、十代!」 反射的に挙げた手首を掴まれ、両脚が浮いた。ホローポイントがヘリの機体を掠めて飛んでいく。高空の風が耳の近くで大声でわめいている。 十代は革張りの座席シートの上に放り出され、ディヴァイン理事長の邸宅が遠ざかっていくさまを、モクバの腕の中から窓越しに見ていた。彼は線が細いくせに、十代よりもよほど大人の腕をしている。 「大丈夫か?」 「……やなもん見ました」 「お前が言うからには相当だな」 モクバが軽く言った。きっとわざとだ。十代は放心したまま彼を見上げて、力なく頭を振った。 「すみません。遊戯さんのデッキを見つけられませんでした」 「ばか、今はそんなことはどうでもいい」 「ハネクリボーもなにも感じなかったみたいです。あの変な仕掛けのせいで、オレたちの勘が狂っていたのかもしれないけど。ごめんなさい。次はもっとちゃんと……」 「いいって言ってんだろ、黙れ」 モクバが怒ったように言った。 窮屈なコクピットに、パッドが付いたグレーのコマンドセーターを着たもじゃもじゃ頭の操縦士が座っている。モクバの知り合いなのだろうが、海馬コーポレーションの人間ではなさそうだ。 「ご苦労だね、十代君」 一度騙されていたが、今度もまた声を聞くまで相手の正体に思い当たらなかった。鮫島だ。どうやらかつらを気に入ったらしい。幅広のサングラスをずらして片目を瞑ってみせた。 「モクバさんの要請を受けたんだ。大切な生徒に怪我がないようで何よりだよ」 鮫島は十代とモクバの仮装を驚いたふうに見つめた。修道女の恰好をしているふたりの男。奇天烈な扮装はお互い様だが、知り合いにまじまじと観察されるのはあまり気持ちの良いものではなかった。 「いや。何と言っていいのかわからないが、よく似合っている。ふたりとも、トメさんの次くらいに美人に見えますよ」 「校長……」 「ん? なにか変なことを言っただろうか」 鮫島は彼にとって最上級の賞賛が空振りに終わったらしいと悟り、不可解そうに首をひねっている。 十代は座席シートの上で膝を抱えていた。かつて子どもだった時間の記憶と心の在り様が、消し去ってしまいたいくらいにもどかしい。モクバが迎えにきてくれなければ、あるいは彼の到着がもう少し遅れていれば、また同じ過ちを繰り返すところだったのだ。誰かを傷付ける悪魔の力を振りかざし、ただの人間を見下して捕食者の優越感に浸る存在が化け物でなくてなんだ? ――ユベル。 『なんだい、十代』 ――ごめん。 『キミはあの男が関わるとなると本当に変になる。どうした。またつまらないことを考えているな』 ――知ってるくせに。 『もちろんわかるよ。ボクとキミはひとつになったんだ。キミがどれだけ最低で性悪でろくでもない弱虫男なのかって、誰よりボクは知っている』 ユベルが隣に座って十代の肩を抱いてくれた。こうもりの翼で包み込まれると、まるで大きな傘をさされているようだ。降り止まない冷たい雨から守ってくれる傘。いつも減らず口と皮肉が絶えない憎たらしい半身は、遠い昔の思い出でそうだったように、泣いた幼児をあやすように優しかった。 『それでもボクにはキミが世界で一番魅力的な存在に見えるし、宇宙で一番愛しているんだよ』 ――悪趣味だな。 『キミが言うな、浮気者』 ――愛してる。 『キミの愛は、道端のみかんの木や雨季明けの青空や、迷子になってようやく辿り着いた街の影や、串焼き屋のおやじや肥った猫なんかにまで見境なく囁かれるんだからねぇ』 ユベルは呆れたふりをしながら、抱いている肩に照れ隠しで爪を立てた。皮膚を裂くちくりとした痛み。迷彩色のヘリは学園の南側にあるりんご畑の真上に差し掛かった。 「寮に帰るぞ。むなくそ悪いが、今夜はおとなしくしているしかないだろう」 モクバが言った。十代はデッキの確認を繰り返していた。カードに描かれたヒーローたちがきちんと形を保っている事実を実感する。何度も、何度も。 「まだましさ。オレの養父はもっとひどかったぜい」 十代はまぶたを大きく見開いてモクバを見た。彼はすでに平らな地面に近付いたヘリを降り、りんごの木の間を歩き出している。十代はうなだれ、重い足取りで彼のあとをついていった。 「どうした。静かだな」 「ガキだなって」 「知ってる」 木々の枝の隙間から、小さくなっていくヘリの機影が見えた。 「オレ、力がなければ何もできませんでした」 「お前はよくやってくれたよ。無事でよかった」 十代は少し驚いて足を緩め、モクバの渋面を見上げた。 「なんか、今晩は優しいんですね」 「お前を巻き込んでおいて何かあったら、オレは余計に遊戯に合わせる顔がないからな」 この地面を隔てた奈落の底に、今も泣いている人間がいる。彼女たちは超能力者であるために絆の力を紡ぐことができず、化け物は普遍的な人類の家畜に成り下がるか、またはむごたらしく討伐される未来しか選ぶことができないのだと固く信じている。 ひとを道具のように扱っていい理由などありはしない。同類たちを救ってやらなければ、築きかけた架け橋の土台が崩れ去ってしまう気がした。砕けた夢など、あとは朽ちてゆくだけだ。 シロツメクサに覆われた地面から僅かな震えが伝わってきた。振動は間を置かず腹の底まで揺さぶる重い暴力へと変化した。冷えた大気が硬直し、枝の上で寝こけていた鳥たちが驚いて騒ぎ出している。 りんごの木の間から赤い光が射し込んできた。東の方角だ。エリカに覆われた荒野の真ん中で火の粉がぱちぱちと爆ぜる音が、離れた場所にいる十代の耳にもはっきりと聴こえた。凍りかけた海を泳いできたかのように全身が冷ややかな汗で濡れ、寒気からくる震えが止まらない。 ――うそだろ? 穴ぼこだらけの腐食したパイプから噴き出してくる水蒸気じみたしゃがれ声が漏れた。 亡きディヴァイン理事長の屋敷が、夜に沈んだ闇をこうこうと照らす金色の輝きを放ちながら炎上していた。 『ピン止め持ってない?』 『ありがとう、これで。バイバイ、カンナちゃん』 意識そのものを呑み込む黒い波のように訪れた幻視は、おぞましいまでに克明だ。 細いヘアピンが小さな鍵穴を穿つ。髪留めが――銀色の螺旋型をした、特異な能力を押さえつける制御装置が外れ、石の床の上で跳ねた。氷が割れるように透き通った音。 力を手にする代償はいくらかの銃創だった。今更そんなものはどうでもよかったのだ。同類意識を共有する仲間たちを自らへそうするように憐れみ、強奪した魔法カードを、渾身の祈りと力を込めてデュエルディスクに叩きつけた。 世界が爆ぜる。ユベルの眼が再生する、見たくもない、同じ穴のむじなの最期の光景。視線を逸らしても無駄だ。まぶたを閉じても色彩はよけいに鮮やかに映える。 『家にもどこにも帰る場所なんかなくなっちゃったってわけ』 『ずっとひとりぼっちだったのも、ひどい目に遭うのも、「私たち」は人と違うからしょうがないことなんだって、最近やっと諦めがついたとこ――』 略奪者も同類も、まだ力の責任の在り処にすら思い当たらない赤ん坊たちも、自分自身も、すべてがカードから具現化した火の海に包まれていた。崩れ落ちた岩盤が炎を押しつぶす。ヒーロー不在の物語はわびしい結末をむかえ、ようやく安息の闇が戻ってくる。 ――必ず助けに戻るって、約束したじゃないか。 十代はぬけがらのように呆けていた。 「あんたたちはオレと違ってなにも悪くなかった。じゃあ最後には誰かに助けてもらえるんだよ、絶対に。ただ周りのやつらと違うってだけで救われないなんて、そんなことがあっちゃならないんだ」 口走る言葉は自制を離れて迷走していた。モクバは、今はありがたいことに目を逸らして、十代の精神的混乱については何も言わなかった。 「架け橋の力は誰かを傷付けるものじゃない。自分の未来を断ち切るためにあるわけがない。だっておかしいだろ。特別な力のせいで捕まって牢屋に閉じ込められて、誰かによってたかって道具みたいに使われて。だんだん自分が人間なのか何なのかもわかんなくなっちまって、ひとりぼっちのまま諦めて泣くしかできなくなって、いつかみじめに折れちまって終わる。そんな消え方。そんな終わり方はなにがなんでも間違ってるんだ。認めない」 錯乱が、飾り立てられていない言葉を自失の空白にぽっかりと浮かべている。そうありたいと駆け続けてきた正義の味方の建前を見失っていた。十代は恐怖を憶えていた。呼吸とともに澱んだ影が腹の底から吐き出てくる。 「いやだよ、オレは」 胸のうちに溜まった怯えが酸の滴のように固い意志を溶かしていき、星々へ向かって燃え上がる炎のかたちを歪め、腹の膨れた女の姿に見せる。彼女は赤い口を開いてこう言うのだ――用心して。次は君の番だよ、同類。 夜が明けても学園の空気はどこかすすけていた。朝の高原の風が焦げ臭い灰を教会の壁に吹きつけてくる。外はよく晴れていて、ステンドグラスから射し込んでくる青みを帯びた光が、あめ色の光沢を放つベンチやたわいもない雑談に興じる女生徒たちの輪郭を金色の線でなぞっていた。
「理事長の家が火事になったんだって。なんでもずいぶん派手に燃えたみたい」 「えぇ? じゃあ去年作ったワインも、ぜんぶ焼けちゃったの?」 「ショックね。がんばったのに、みんな」 ――酒なんてどうでもいい。友達が死んだんだぞ。きっと、たくさん。たくさんだ。 抱えた鬱憤の正体が、猫をかぶった恐怖心であることを認めたくなかった。 「貴女たち、おしゃべりは止めて静かになさい!」 ミス・メアリー・ゴーランドが、にぎやかにしている生徒たちをいつもよりも厳しい声で叱りつけた。 「なにあれ」 「ゴーランド、今日はとくにぴりぴりしてるわね」 少女たちは目を丸くして顔を見合わせている。 気を遣ってくれているのだとわかったから、胸の奥で感謝を述べた。わけもわからず漠然とした不安と罪悪感を抱いた第一印象よりも、あの人はずっと優しい人間なのだ。ゴーランドは説教台の前に立ち、よく通る凛とした声を張り上げた。 「みなさん、今朝は新しい理事長の紹介があります――『ディヴァイン理事長』、よろしくお願いしますわ」 ひとりの男が陰の中から歩み出た。生徒たちの間に困惑の波紋が広がっていく。この学園に存在する男性は、これまで亡きディヴァイン老人ただひとりだったのだ。 なにしろ理事長の座に就くにしては若すぎる、妖しい美貌の青年だった。礼拝堂のなかで渦を巻いていた戸惑いがちなひそひそ話は、間もなく黄味を帯びた歓声に取って代わられた。少女特有の急激な機嫌の移り変わりにうまく追随できなかったカンナは、首をすくめてベンチの端のほうへ引っ込んだ。 「お名前からして以前の方の御子息かしら? あんな凛々しい殿方なら大歓迎ですね」 「生徒さんかと思いましたわ。お歳は私たちと同じくらいでしょうに、偉いのねぇ」 ディヴァイン青年が当たり障りのない挨拶をしようと口を開いたとたんに、十代の眼前に幻視の光景が映し出された。石の城に閉じ込められているひとりぼっちの子どもが見える。二人分のシートとデッキを広げて、まぼろしの人間の友人たちを想像し、むなしい決闘に興じていた。 この子どもは、悪魔の力のせいで疎外されていた当時の遊城十代と同じ遊びをしている。自分は誰かの目に入る存在であるのだと無理に思い込み、なるだけ楽しそうに振る舞うように心がけていた。 しかし、どうしたって、あの遊びは何も楽しくなんかないのだと知っている。孤独の獣の爪と牙にますます激しく打ちのめされるだけだ。ひとり遊びの終わりに幼い遊城十代がそうしたように、目の前の赤毛の子どももまた小さな背中を震わせて、涙の気配をほのめかしていた。 声を掛けてやろうとしたところで、子どもが振り向いた。 真っ黒の顔をしている。平板だ。目も鼻も口もない。 「――神月さん」 「へ? なに?」 クラスメイトに声を掛けられて、ちぐはぐに光る眼球をまぶたで隠したまま慌てた。まぼろしの光景が闇の彼方に遠ざかっていく。 「居眠り? ぼーっとしちゃって、どうしたの?」 「な、なんでもないんだけど」 「ま、神月さんったら」 周りにいる生徒たちから、からかいを含んだ甘ったるい笑い声が漏れた。 「イケメン理事長に見惚れてたんでしょう。けっこうミーハーなんですのね」 「え、いや、そんなんじゃないんだけど」 新任理事長のディヴァイン青年を見上げると、ふと目が合った気がした。彼は少し首をかしげて、知り合いにそうするように親しげに微笑んだ。いや、錯覚だろう。面識はないはずだ。 それよりも今はやってきた直感を確信していた。あの男は前理事長の寝室に飾られていた写真立ての人物だ。顔を油性マーカーで黒く塗りつぶされた子ども。
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